リパルスベイ・ホテルの会合2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/04 18:38 投稿番号: [1562 / 2250]
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
279〜281p
《 西君と私とは、こもごも 「それからの日本側の失敗は、僕らが話そう」 と
語り始めた。 その要点は次のとおりであった。
トラウトマンからの電報でディルクセンは、
十二月七日、広田外相の往訪を受け、外相に対し、
中国側は日本の条件を基礎として交渉に応ずる用意があるとのことを告げるとともに、
大使は錬達の外交官として、大事をとって、外相に対し、
「さきにお示しになった条件のままで話を進めてよいかどうかを、
いま一度はっきりうかがいたい」 といった。
蒋介石が交渉の前提条件としての停戦というものについてのヒットラーの介入を
希望した点については、大使は外相に対しとくに言及しなかったようであった。
広田外相はすぐ、四相会議において、首相、陸相、海相に、その話を伝えたところ、
いずれも異議なしということだった。 しかし、翌日、陸相は、外相を訪問して、
「ドイツの仲介を断りたい」 と、前言を翻して申し入れた。
これには外相も唖然としたが、反対もできなかった。
そのころから、南京の総攻撃が始まり、蒋介石もその直前八日に南京を飛行機で脱出して
漢口に逃げた、というニューズが入り、南京占領も数日中という時間の問題となり、
陸軍内部では和平反対の声が猛然として起ったためであった
(上村伸一著 『日本外交史』 第二十巻、一七九−一八七ページ参照)。
しかし、まだ和平交渉には脈があるとの見通しから、
十二月十四日の大本営・政府連絡会議では、
十一月二日に外相がディルクセンに提示したものにきわめて些細な
(青島紡績工場焼払いの損害を賠償せしめんとする) 損害賠償のみを附加した
大乗的な原案が提出され、石射東亜局長がその説明に当った。
ところが、末次・杉山・賀屋三大臣からは異論が続出し、
しかも、 「世を挙げて支那撃つべしの声」 に押されたのか、
近衛首相は、終始沈黙を続けた。
そのため、会議の結論としては、非常に苛重な条件となり、
中国側が容認できないものとなってしまった
(改悪された条件の詳細は、石射猪太郎著 『外交官の一生』
二六二−二六三ページおよび上村氏同上、一八七−一八九ページ参照)。
二十二日、ディルクセン大使は、外相からこの新条件を提示されて、
「これでは、まとまる見込みはない」 と嘆息したが、 「乗りかかった舟だから、
中国側に伝えよう。年内に回答を要求することは無理だから、
一月五、六日までに延してはどうか」 といったので、
外相はこれに応じたという話である。
つまり、日本政府や陸軍は、国民一般とともに、見栄ばかりの戦勝に酔って、
ドイツの日中調停を事実上蹴り、
あれだけ苛重な条件を中国側が受諾するものと誤って期待した。
また、すぐ受諾がないとしても、この戦争を押し切れば、また機会がある、
との期待があったようだ。
しかし、これは、あまりに中国のナショナリズムを無視したものであった。
* ここでも悪いのは日本という前提で話が進められている。
中国側の態度は不問にふされている。
「否認将派代表赴南京與日方講和」
(日本側との和平交渉のために代表を南京に派遣することは、認めない)
という、中国側の和平拒否は、無視されている。
条件の原文を見る限り、荷重でもなんでもない。
中国側の意見は日本の条件が漠然として判らないというものだった。
それは、詳細が明示されていなかったからだが。
つづく
279〜281p
《 西君と私とは、こもごも 「それからの日本側の失敗は、僕らが話そう」 と
語り始めた。 その要点は次のとおりであった。
トラウトマンからの電報でディルクセンは、
十二月七日、広田外相の往訪を受け、外相に対し、
中国側は日本の条件を基礎として交渉に応ずる用意があるとのことを告げるとともに、
大使は錬達の外交官として、大事をとって、外相に対し、
「さきにお示しになった条件のままで話を進めてよいかどうかを、
いま一度はっきりうかがいたい」 といった。
蒋介石が交渉の前提条件としての停戦というものについてのヒットラーの介入を
希望した点については、大使は外相に対しとくに言及しなかったようであった。
広田外相はすぐ、四相会議において、首相、陸相、海相に、その話を伝えたところ、
いずれも異議なしということだった。 しかし、翌日、陸相は、外相を訪問して、
「ドイツの仲介を断りたい」 と、前言を翻して申し入れた。
これには外相も唖然としたが、反対もできなかった。
そのころから、南京の総攻撃が始まり、蒋介石もその直前八日に南京を飛行機で脱出して
漢口に逃げた、というニューズが入り、南京占領も数日中という時間の問題となり、
陸軍内部では和平反対の声が猛然として起ったためであった
(上村伸一著 『日本外交史』 第二十巻、一七九−一八七ページ参照)。
しかし、まだ和平交渉には脈があるとの見通しから、
十二月十四日の大本営・政府連絡会議では、
十一月二日に外相がディルクセンに提示したものにきわめて些細な
(青島紡績工場焼払いの損害を賠償せしめんとする) 損害賠償のみを附加した
大乗的な原案が提出され、石射東亜局長がその説明に当った。
ところが、末次・杉山・賀屋三大臣からは異論が続出し、
しかも、 「世を挙げて支那撃つべしの声」 に押されたのか、
近衛首相は、終始沈黙を続けた。
そのため、会議の結論としては、非常に苛重な条件となり、
中国側が容認できないものとなってしまった
(改悪された条件の詳細は、石射猪太郎著 『外交官の一生』
二六二−二六三ページおよび上村氏同上、一八七−一八九ページ参照)。
二十二日、ディルクセン大使は、外相からこの新条件を提示されて、
「これでは、まとまる見込みはない」 と嘆息したが、 「乗りかかった舟だから、
中国側に伝えよう。年内に回答を要求することは無理だから、
一月五、六日までに延してはどうか」 といったので、
外相はこれに応じたという話である。
つまり、日本政府や陸軍は、国民一般とともに、見栄ばかりの戦勝に酔って、
ドイツの日中調停を事実上蹴り、
あれだけ苛重な条件を中国側が受諾するものと誤って期待した。
また、すぐ受諾がないとしても、この戦争を押し切れば、また機会がある、
との期待があったようだ。
しかし、これは、あまりに中国のナショナリズムを無視したものであった。
* ここでも悪いのは日本という前提で話が進められている。
中国側の態度は不問にふされている。
「否認将派代表赴南京與日方講和」
(日本側との和平交渉のために代表を南京に派遣することは、認めない)
という、中国側の和平拒否は、無視されている。
条件の原文を見る限り、荷重でもなんでもない。
中国側の意見は日本の条件が漠然として判らないというものだった。
それは、詳細が明示されていなかったからだが。
つづく
これは メッセージ 1560 (kir**gotowa**me さん)への返信です.