入って中国人に南京事件真相議論しましょう
Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー
リパルスベイ・ホテルの会合1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/03 18:40 投稿番号: [1560 / 2250]
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
277〜279p
《 翌朝
(27日)、・・・お互いのひと通りの挨拶が済むと、すぐ本論に入り、
まず高君が漢口での中枢の考え方を、左のとおり説明した。
「十一月上旬、広田外相から日本の和平条件七項目をディルクセン
駐日ドイツ大使が接受し、ベルリンのヒットラーの諒承を得て、
トラウトマン駐華ドイツ大使が、王
(寵恵)
外交部長に日本の意向を伝えたが、
王部長は、蒋介石の意見として、
『中国は国際連盟に提訴してあり、九カ国条約の関係国がブリュッセルで会議中なので、
その結果を見るまでは、日本の条件を考出すべきではない』
との返事をした。
ところがブリュッセル会議の結果は、蒋介石にとっては少なからざる失望となった。
一カ月の時間を空費したことによって、
中国側は、戦況が交渉のためますます不利になったことに気づいた。
トラウトマンは、漢口にて、十一月二十八日孔
(祥煕)
行政院長を、
翌二十九日には王外交部長を訪問し、日本の和平条件を中心に、会談を遂げた。
しかし、蒋介石は当時なお南京に防戦の指揮をとっていたので、トラウトマンは
徐
(謨)
外交部次長を伴って南京に行き、十二月二日に蒋介石と会見した。
それに先だち、徐外交部次長は、ドイツ大使の話を蒋介石に説明したところ、
蒋介石は、すぐ在京の将領たち、顧祝同、白崇禧、唐生智、徐永昌を召集し、
徐次長からドイツを仲介とする日本の和平提案を説明させたが、
白は、 『これだけの条件だとすれば、何のため戦争をしているのか』
とさえいった。
顧は、受諾すべしと述べ、唐も、各人が賛成ならば、異議なしと答えた。
その将領会議が済むと、すぐ午後五時、蒋介石・トラウトマンの会談になった。
蒋は、 『日本は信用できない。しかし、ドイツが終始調停者であるとの条件ならば、
日本の七条件を談判の基礎とすることはよい。
だが、華北の行政主権はどこまでも維持されねばならない。
それで、戦争がこのように激しく行われている最中に、
調停などは成功するはずがないから、ドイツが日本に向って、
まず停戦を行うよう慫慂
(しょうよう)
することを希望する』
と述べた。
ト大使は、 『蒋委員長の意向はドイツ政府に伝達することをお約束するが、
もしドイツが日中調停を諒承し、かつ日本も欲するならば、ヒットラー総統から、
中日双方に対しまず停戦すべきことを提唱することもできる』
と答えた。
なお将委員長は、 『もしも日本が日本を戦勝国と考えたり、
日本の条件を中国側がすでに承認したなどと宣伝したりすれば、
談判はできなくなりますよ』
と釘を刺した。
しかしト大使は徐次長に対し、
『今日の会見には希望がもてる』
ともらしたとのことであった。
ついで、汪兆銘は蒋の指示に基き、十二月六日、漢口の中央銀行において、
国防最高会議第五十四次常務委員会を開いた。
会議は徐次長の詳細な報告を聞いたのち、いろいろ意見は出たが、
蒋委員長が提出した条件を附けたうえ、徐次長の報告を承認、議決した。
この会議を主宰したのは、
汪最高国防委員会副主席が蒋主席に代ってやったものであった。
このように諸君に報告するのは、中国側では、トラウトマン大使が取り次いだ
広田外相の和平条件を、だいたいにおいて、受諾するという
和平的方向にあったことを同志諸君に解ってもらいたいためであった。
もう少し日本が忍耐してくれれば、両国は、和平の門口にまで行ったのであった。》
*
『これだけの条件だとすれば、何のため戦争か』
と言うほどの好条件を蹴って
戦争を続けていながら、 「もう少し日本が忍耐してくれれば」
とは
何たる言いぐさだろうか。
中国は何しても許されるのか?
日本は、何しても悪く言われるのか?
つづく
これは メッセージ 1556 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1560.html
シェノールト中国に雇われる
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/02 18:54 投稿番号: [1559 / 2250]
アラン・アームストロング著
『幻の日本爆撃計画』
日本経済新聞出版社
25p
《 一九三六年七月二〇日、中国航空問題委員会はシェノールトに、
さらに興味をそそる機会を提供した。
中国空軍の高度追撃訓練を完全に取り仕切る権限を与えたい、と申し出たのだ。
中国空軍がどのような機種の戦闘機を購入すべきかを、
シェノールトの意思で決定できるというのだ。
また、中国空軍の運営に関して、訓練マニュアルや戦術面での指令も
起草することになるという話だった。
さらに、航空機警報システムを開発するに当たっては、中国政府の協力が約束される。
米中間を旅する際の旅費は支払われ、中国航空問題委員会の防空顧問として
年額一万二〇〇〇ドルの報酬が支給される。
要するに中国は、シェノールトに対して新しい申し出を行なうことによって
〝掛け金〟 を増やしたわけである。
中国に仕えれば、陸軍航空隊がシェノールトに対して拒んできたまさにそのもの、
つまり空中戦に関する彼の理論の正当性を立証する環境が拓かれる可能性は十分にあった。
アメリカの中立法に抵触するあらゆる可能性を排除するため、
シェノールトの雇用主は、名目上、バンク・オブ・チャイナ
(中国銀行)
に
なる手はずだった。》
27p
《 一九三六年から三七年にかけての冬に、彼は、過労と、
今日ならたぶんノイローゼと称される症状で、数回の入退院を繰り返すことになる。
ついに、陸軍航空隊退職勧告委員会は一九三七年二月二五日に会合を開き、
シェノールトに航空隊から身を引くよう勧告した。》
28 p
《 一九三七年四月三〇日、シェノールトはアメリカ陸軍航空隊から退役した。》
*
彼は中国へ旅立ち、途中日本でスパイ活動をしました。
29 p
《 シェノールトの日記の一九三七年五月八日付の記載には、こうある。
「プレジデント・ガーフィールド号に乗船、午後二時、大いなる冒険への航海が始まる」。
サンフランシスコを出港すると、シェノールトは日本の神戸に向かった。
そこで彼を待っていたのは、以前、陸軍航空隊のアクロバット・チームで
彼のウィングマンを務めたビリー・マクドナルドだった。
もう一人の元ウィングマンのウィリアムソンは、そのころ中国本土にいて、
中国人のパイロットに操縦術を教えていた。
神戸で下船したシェノールトはマクドナルドと共に、アマチュア・スパイさながらに
関西の主要都市周辺を旅し、各地の産業・軍需施設を密かにカメラに収めた。
今日われわれに言えるのは、これら二人のパイロットによるこの行為は
中国人上官から命じられたものではなく、
どうやらあくまでも自然発生的なものだったようだということだ。
シェノールトは直ちに日本の家屋や工場の脆弱な構造に注目し、
焼夷爆弾を上空から投下すれば日本国内の建物に壊滅的な打撃を
与えることができると確信した。》
*
このシェノールトという男、盧溝橋事件も始まっていない時から、
日本の民家を焼夷弾で焼き払う事を考えていた、とんでもない奴です。
日本の軍人で、戦争も始まってない内から、中国の民家を焼き払う事を
考えてたりしたら、戦後どんな悪人にされたか。
これは メッセージ 1555 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1559.html
3月27日 またもや猫の目命令
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/02 18:43 投稿番号: [1558 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
文春文庫
310〜312p
《 郭里集では、第十連隊長赤柴大佐が、
北方高地の中国軍部隊にたいする攻撃を開始しようとしている。
前夜、午後十一時五十分、所要の支隊命令を受理したからである。
大佐は、第二大隊長加付少佐に直接指示をあたえ、自身も望楼にのぼって敵情を観察した。
すると、午前九時
−
突然、旅団書記が支隊命令を持参した。
「支隊ハ、一部ヲ以テ ○ (エキ)
県及ビ棗荘ヲ確保シ、
主力ヲ以テ台児荘ヲ攻略セントス」
第十連隊主力は、ただちに台児荘西北約十キロの南田営と泥溝の間に進出する準備をせよ、
という。
連隊長赤柴大佐は、すかさず指示を発出し、午前十時三十分、南進命令を下令した。
ところが、出発直前の午前十一時四十五分、また支隊命令がとどいた。
「目下ノ態勢ニテ後命ヲ待ツベシ」
「なんだ、これは……」
「まさに
〝猫眼命令〟 だ」
・・・・・
連隊長赤柴大佐は、 「後命」
を待つ間にこの敵を一撃すべきだ、
それは士気の振作にも役立つし、台児荘に転進するさいの背後の安全を
確保するためにも有効だ、と考えた。
「北方山地ノ敵ヲ
連隊独力ニテ撃滅シタシ」
大佐が意見具申をすると、午後六時、支隊長瀬谷少将の返電が来着した。
「独力攻撃全然同意、成功ヲ祈ル」
しかし、少将は、棗荘北方八キロの梁荘付近にも
「約一個師」
の中国軍が
「充満」
しているので、第六十三連隊第一大隊にも参加させる、といい、
その旨の命令を下達した。
次いで、少将は、台児荘に進出した第六十三連隊長福栄大佐に電報し、
前出の支隊主力による台児荘攻略計画は中止する、
支隊主力は郭里集北方の敵を攻撃する、と通報した。
独力攻撃を主唱した第十連隊が、支隊主力攻撃にくみこまれ、
主力の協力が予定された第六十三連隊が、逆に
「独力攻撃」
になった形である。
第六十三連隊長福栄大佐は、しかし、決意をこめて言明した。
「台児荘の攻略は、わが連隊の宿命的な使命である」
独力で攻略してこそ、その使命達成の意義もある、と強調した大佐は、
翌朝の総攻撃を下令した。》
つづく
これは メッセージ 1550 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1558.html
8月14日 岳陽丸追い返しの理由判明
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/01 15:12 投稿番号: [1557 / 2250]
引揚げ領事館員たちを乗せた岳陽丸は13日、
江陰という所で中国海軍に停められ、南京に戻るよう指示されました。
その時は、理由は判りませんでしたが、14日になってハッキリしました。
戦史叢書
『中国方面海軍作戦〈1〉』
303p
《 一四日得た情報では、江陰水路は軍艦五隻
(通済、大同、自強、徳勝ほか一生)
及びかねて南京に集結碇泊中の二、〇〇〇屯ないし五、〇〇〇屯商船一八隻を
十二日夜、同所に沈没させ閉塞させたとのことであり、
一三日午前国民政府外交部は各国大使館あて、
自衛上暫時揚子江水路を閉塞し南京−上海間の鉄路交通を禁止し
外圧除去せば直ちに解除する旨、通告した。》
*
要するに、中国は、12日に黄浦江だけでなく、
揚子江の江陰にも船を沈めて、川を封鎖していたわけです。
領事館員たちは、中国の言葉を信用し過ぎていたために、脱出し損ないました。
中国は、甘い言葉で日本人を安心させながら、着々と戦争準備を進めていたのです。
日本人はお人好しだから、中国を信用しようと努力して、逆に上海を攻撃されました。
これだけ、明々白々であっても、中国の嘘宣伝に騙されて、
日本が上海戦を起こしたと信じ、
教科書にそう書かせるバカもいるのですから、始末が悪いです。
これは メッセージ 1551 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1557.html
3月25日 松本氏 香港へ行く船中にて
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/01 15:05 投稿番号: [1556 / 2250]
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
273p
《 三月二十四日夕刻、エンプレス・オヴ・ロシア号に投じた。 「次郎」 「三郎」 「四郎」も、
それぞれ一両日前に上海をあとにして香港に向ったらしい。》
274〜276p
《 翌朝、食堂でジョンに出会った。・・・・
午睡を終えてから、フォン・ウィーガンのケビンに電話をかけ、
「松岡洋右さんからあなたのことはよく聞いている。一度お目にかかりたい」
といってアポイントメントをつくった。
約のごとくに、四時半、同氏の船室をノックすると、 「お入り」
という声がかかり、
対面したのは容貌魁偉な老人であった。 年のころ七十歳にも近く、背中も少し
曲った姿勢だが、さすが千軍万馬の老記者で、まなざしはいかにも鋭い。
「松岡さんとはもう二十年もの友人だ。
彼ほどの国際感覚をもつ政治家が、もっと多くあれば、日本はより幸福なのだが、
軍部は、猪突猛進型で、日本のためにはならない。
パネイ号撃沈事件など、自分は完全に誤爆だとは知っているが、
アメリカの世論は一時はひどく昂奮したものだったことは、君も知っているとおり。
松岡さんの友情にも酬いるために、私もアメリカ世論の沈静には、
微力を尽したつもりだ。ちょっとこれを見てくれ給え」
といいながら、
フォン・ウィーガンは鞄の中から、アメリカの新聞の全ページ大の広告で、
フォン・ウィーガンと署名のあるアッピールが載っているのを見せてくれた。
手にとってみると、パネイ号事件発生数日後の日附のもので、
「アメリカ国民よ、立ち止って考えよ」 (“Americans, Stop and Think”)
という題名で書かれたアッピールだ。
私の記憶に間違いなければ、フォン・ウィーガンは、
「軍艦パネイ号は戦争の渦中に捲き込まれた不幸の誤爆に過ぎない。
日本海軍機の不注意は責むべきであるが、
第一次世界大戦でアメリカの参加を決した原因、すなわちドイツ潜水艦による
客船ルシタニア号に対する故意の撃沈とは、ケースが全然違う。
米国民よ、冷静をとり戻して、考え直せ。日米戦争などを夢にも考えるべからず」
云々の意味のものを、率直端的に書いたものであった。
「松本君、このアッピールをスクリップス・ハワード系の各紙に掲載したので、
アメリカ輿論の沈静に何らかの貢献をし得たものと信じている。
こんな事件を、日本がまた二度とやれば、僕はもう知らんよ」
と、
先生が生徒を叱るような口調であった。
私はペンの威力に今さらのごとくに感心したが、昂奪する輿論に立ち向って、
正しいことのために、平和のために、筆を執った老記者の勇気に、
衷心から敬意を表せざるを得なかった。
数十年にわたり、ジャーナリストとしてかち得た彼の世界的名声を賭けての
この行動には、自然と頭が下った。「お目にかかり、光栄に存じます。
また日米関係のためにも、果断な行動に、敬意と感謝とを捧げます」
と述べて、
ケビンを出た。全ページ大のアッピールは、近来では、ときどき見られるが、
当時は、ごくまれで、フォン・ウィーガンのものは私にとって最初に見たものであった。
私は、ひどく感銘して、ケビンに戻っても、しばらく、このことで、頭が一杯であった。》
*
このフォン・ウィーガンという記者は松岡洋右を高く評価している。
戦後の日本人は、歪んだ歴史認識で、理解できなくなっているが。
*
ルシタニア号事件とは、第一次大戦中、ドイツの潜水艦が商船を無差別に
撃沈したもので、敵国だけでなく、中立国の船も沈めた。
当時米国は中立国だったが、米国船ルシタニア号も沈められた。
敵国である、日本の商船はもっと沢山
沈められた。
これは メッセージ 1548 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1556.html
8月14日 日本側の上海防衛人数
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/31 15:28 投稿番号: [1555 / 2250]
14日午前の閣議で杉山陸相が上海に二個師団を出すことを提案し、決定されました。
陸軍の派遣準備はこれから、なされるわけですから、
当分は海軍陸戦隊だけでふんばるしかありません。
当面の兵力は
上海陸戦隊
2300名
引揚げてきた漢口陸戦隊
300名
追加陸戦隊
呉
539名
佐世保
539名
軍艦から揚げた陸戦隊
400名
合計
4078名
(この数字は児島襄著
『日中戦争4』
文春文庫
69pより引用)
つまり、たったの4千名で、何万ともいう中国軍と対峙しなければならないのです。
ところが、この数字すらも、現地にいた人には多すぎるようです。
当時、上海の陸戦隊本部通信隊にいた、小川貞二さんによると
《 陸戦隊の兵力は実戦兵力四個大隊約千人足らず、
あと非戦闘員の通信隊、主計隊、医務隊などです。
漢口より引き揚げて予備軍として上海高等女学校に一個大隊、
重火器として山砲、十五ミリ榴弾砲各四門、戦車二輌、装甲車二輌などで、
二十万の敵を迎え撃つには如何にも貧弱な集団です。
敵方は陸戦隊を占領するのに一週間はかからぬと豪語していたといいます。》
(正論2001年6月号
編集者へ
編集者から386〜388p)
小川さんが千人足らずと言っているのは、多分、常駐の上海陸戦隊だけのことで、
他の追加の分は数に入っていないと思われます。
が、総数が四千ですから、少ないことに変わりはありません。
戦史叢書を見ていると、殆ど、寝る間もなく、防戦に追われています。
そして、この日14日、米軍人シェノールトの指揮する中国軍機が上海を爆撃しました。
つづく
これは メッセージ 1553 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1555.html
3月24日 石井小隊全滅
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/31 15:18 投稿番号: [1554 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
文春文庫
307〜309p
《 支隊長瀬谷少将は、とりあえず
「密電」
情報に適応する処置をとった。
湯恩伯軍の進出が予想される臨城、韓荘間に第十連隊主力をおき、
台児荘には第六十三連隊第二大隊を派遣し、
第十連隊第二大隊を沂州にむかわせて坂本支隊を支援させ、
残りは支隊長がひきいて、やはり湯軍が目標にするとみられる
臨城東方の棗荘に位置するよう、下令した。
−だが、
台児荘には、第二集団軍第三十軍第三十一師が、強力な火砲をそろえて布陣していた。
南は運河に接着しているので、台児荘の城壁は東、北、西の三面だけだが、
周囲は水濠でとりまかれている。
・・・・
三月二十四日
・・・
中国軍は城壁上から機銃を乱射し、手榴弾を乱投する。
死傷者が続出し、後続する兵も阻止され、大隊長安永少佐は後退を命じざるを得なかった。
沂州方面にむかった第十連隊第二大隊も、予想外の苦戦をあじわわねばならなかった。
この日、午後六時ごろ、第二大隊のうち大隊長加村旭少佐が直率する主力は、
トラックで棗荘東方の郭里集に到着した。
東南約二キロの紀官集に派遣した将校斥候石井直好少尉は、
中国軍砲兵将校を捕虜にして帰ってきたが、
捕虜は、紀官集部落にはやがて 湯恩伯軍の第五十二軍第二十五師の
砲兵一団が進出する予定だ、告白した。
「よし、たたいてやろう」
大隊長加村少佐は、第五中隊第三小隊長である石井少尉に夜襲を命令した。
石井小隊四十人は、三月二十五日午前三時、郭里集を出発したが、
その直後に郭里集は約五千人の中国軍部隊に包囲され、
石井小隊も紀官集で少尉をはじめ三十四人を失い、ほぼ全滅した。》
つづく
これは メッセージ 1552 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1554.html
8月13日 中国軍の上海攻撃開始
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/30 18:51 投稿番号: [1553 / 2250]
長谷川長官は再度、陸軍の派遣を要請します。
この状態に至って、やっと四相会議が開かれました。
しかし、難航します。
参謀本部の石原第一部長が
「ウン」
と言いません。
戦史叢書
『中国方面海軍作戦〈1〉』
316p
《 8月12日夜、四相会議が開かれ、米内海相が陸軍の上海派兵の方針決定を要求、
各大臣とも異存なく、翌日の閣議に上程することとなった。
ところが散会後、杉山陸相から米内海相あて
「当初の計画時とは著しく
変わった状況となったので、出兵については最も慎重に考慮すべきだ」
という意見を参謀本部は述べている旨、通知があった。
そして、13日
早朝
参謀本部第一部長石原莞爾少将が、
近藤軍令部第一部長に
「出兵不同意」
を表明してきた。》
近藤軍令部第一部長は、何とか石原莞爾参謀本部第一部長を説得して、
やっと、この議題を閣議に上程することができました。
そのころ、上海では、
317p
《 午前
10:30
ごろ商務印書館付近にいた中国軍が日本側陣地に対し
突如機銃射撃を浴びせてきた。 我が方は応戦したが、
不拡大方針に基づき極力当面の交戦を避けるように努めた。》
一方、日本では、閣議でやっと陸軍の派兵を決定しました。
そこで軍令部は長谷川司令長官に電報します。
316p
《・・・同方面ニ於ケル
作戦上ノ地歩ヲ
獲得スル迄
(概ネ
陸軍主力上陸迄ニテ
動員下令後
二十日間)
ハ
爾他ノ各地ニアリテハ
ナルベク
武力発動ニ至ラザルヲ
有利トス・・・》
陸軍は下令してから到着まで20日は掛るので、それまではなるべく動くなという事です。
向こうはとんでもない大軍、こちらはたったの4千人
うかつに動けないのは当然です。
そうは言っても相手のあることですから、そうも行きません。
敵は、租界の周囲のどこからでも、攻めて来れるのです。
中国側の資料
( 8.13淞滬抗戦 劉勁持)
には
《12日
営長の一人が
『租界への出入りは簡単だ。ピストルを持って日本の司令部の回りを見てきたが、
一度もチェックを受けなかった。今夜あたり進撃をかけてもいいのでないか』
といって、夜が過ぎるのを待った。
13日
正午
88師と租界線をこえて宝山路・四川路などに展開していた、
日本陸戦隊との間で小競り合いが始まり “8.13抗戦” が始まった。》
( 鈴木明著
『 新
「南京大虐殺」
のまぼろし』
195pより )
とあります。
戦史叢書
『中国方面海軍作戦〈1〉』
316p〜317p
より要約
《 16:54
八字橋方面の中国軍が攻撃を開始した。》
*
ここから、夜とも昼ともない中国側からの攻撃が続き、
少人数の陸戦隊は不眠不休の防戦を強いられます。
つづく
これは メッセージ 1549 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1553.html
3月22日 台児荘戦の決定
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/30 18:41 投稿番号: [1552 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
文春文庫
303〜304p
《 副参謀総長白崇禧は、日本軍が徐州にくることが明らかであれば、
その前に撃滅すべきだ、と主張した。
策があるか、との蒋介石の諮問にたいして、副参謀総長白崇禧は、
これまでの日本軍のやり方を逆用すればよい、と、こたえた。
「擬以第二集団軍控置
於徐州西北九里山
至微山湖中間地区、
以第二十軍団
重点移
至韓荘東南、誘敵深入由
東西両面夾撃之」
つまり、徐州と微山湖の間と韓荘東南にそれぞれ孫連仲の第二集団軍、
湯恩伯の第二十軍団、いいかえれば第五戦区の最精鋭部隊を配置し、
日本軍をその中にさそいこんで、東西から挟撃して殲滅しよう、というのである。
蒋介石は、その作戦の積極性にうなずいたが、
では日本軍を殲滅する予想戦場はどこか、と質問した。
「ここです。ここしか、ありません」
言下にこたえた副参謀総長白崇禧は、机上の地図に右手をのばして、
人さし指で一点をおさえた。
台児荘
−
である。
中国軍第五戦区司令長官李宗仁は、三月二十二日、 「第五号作戦命令」
を下達した。
「……第二十軍団、応集結於エキ県東側
及棗荘西北焦山頭付近一帯山地、
三月二十四日払暁、 全線開始攻撃、 務先撃破エキ棗之敵、 向臨城沙溝付近側撃、
圧迫敵於徴山湖東岸
而機滅之……」
また、第二集団軍にたいしても、第二十軍団と呼応して
南下する日本軍をはさみうちにせよ、と下令した。》
345〜306p
《 第五戦区司令長官の
「第五号作戦命令」
は、
しかし、日本軍によって傍受解読された。
はやくもその翌日、三月二十三日午後七時、第三十三旅団長瀬谷啓少将が
示達した瀬谷支隊命令の冒頭に、次のように特記されている。
「密電ニ依レバ、 李宗仁ハ湯恩伯軍ニ対シ、
エキ県東北方高地及
ビ其ノ北方高地ニ集結、二十四日攻撃前進ヲ開始シテ、
日本軍ヲ韓荘、臨城間デ微山湖ニ圧迫
殲滅スベク命ジタルモノノ如シ」
そして、この解読電報は、とりわけて東京に衝撃をあたえていた。
「これはえらいことになった……湯恩伯軍の出現は、
蒋介石主力が決戦を求めてきたことを意味するからである」
参謀本部作戦課長稲田正純中佐は、そのときの感想を、そう述べている。》
これは メッセージ 1550 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1552.html
揚子江流域領事館員の引揚げ
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/29 18:55 投稿番号: [1551 / 2250]
戦史叢書
『中国方面海軍作戦〈1〉』
302〜304p
《 漢口上流各地領事及び館署員を中心とする少数の我が官民は、
八月七日の居留民総引揚げ後、なお岳陽丸と共に漢口に残留した。
やがて食糧の供給が途絶したため、総員総領事館内に籠城したところ、
租界内発電所閉鎖のため館内は無燈となった。
ここにおいて松平総領事代理は総引揚げ断行を決意した。
岳陽丸の収容力不十分のため、まず一部が八月十日夜漢口発の英国船隆和で下江し、
次いで松平総領事代理以下五二名が、十一日 16:00 漢口発の岳陽丸で下江した。
「隆和」
乗船者は十二日夕南京で下船し岳陽丸に移乗した。
南京では八日洛陽丸による引揚げ後、残留者は総計五五名となっていた。
十日午後、日高参事官は外相あて、南京市内の状況を次のように報告した。
ソノ後
当地市内ノ情況
目立チタル変化ナキモ
各機関ノ建物
及
民家ハ殆ド全部
防空保護色ニ
塗リ替ヘラレ、 防空
及 防火訓練モ
随時行ハレツツアリ。
市民ノ南京立退ハ
多少緩和シタルモ
猶 続々行ハレツツアリ。
中華民国海軍部顧問として、中国海軍軍人の直接指導に当たってきた
寺岡謹平海軍大佐は、身辺の危険を感ずるに至り、
十日正午をもって指導を打ち切り、十一日中国海軍部を訪問して、その自重を促し、
十二日大兵丸に乗船、更に
17:00
漢口から下江して来た岳陽丸に、
漢口上流各地領事らと共に移乗した。
岳陽丸は同日 19:00 上海に向け南京発、
翌十三日 03:00 江陰にさしかかったところ、中国軍艦海容に停船を命ぜられ、
江陰要塞付近の水路危険につき通航を禁止する旨宣告された。
06:00 海容艦長欧陽勣が来船し、江陰付近水路及び江陰−上海間の航行危険につき、
南京に引き返されたい旨勧告したので、 07:00 出港、 19:00 南京に到着した。》
*
「中国が
『安全を保証する』
と言っている以上、これを信頼すべきだ。」
とか
「海軍がいるから、戦争になるのだ」
とか言って、
引揚げに抵抗していた人達の愚かさが判ります。
結局、租界への交通及び電話を遮断され、食料と電気まで止められ、
引揚げざるを得なくなりました。
この人達は、身は中国にあっても、頭はヴァーチャル・リアリティの世界に
居るので、現実の中国が見えないのです。
そして、彼らの感覚は、今の平和主義者と全く同じです。
*
また、岳陽丸が江陰で追い返されたのは、この数時間前に船を沈めて、
揚子江を封鎖したからでした。
それは14日に、判ります。
つづく
これは メッセージ 1534 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1551.html
3月16日 台児荘戦の前段階2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/29 18:45 投稿番号: [1550 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
文春文庫
299〜300p
《 第二十一連隊長片野大佐は、十五日、中国軍はなみなみならぬ決意で
「決戦」
をいどんできている、と判断し、支隊長坂本少将にたいして、
第十一連隊の投入による敵撃滅を意見具申した。
ところが、支隊司令部からは、第十一連隊との連結を指示してきただけで、
支隊長も参謀も
「実情把握」
のための第一線視察をこころみない。
中国軍の攻撃は激化し、十六日になると、南からの第三軍団の一部が東にまわり、
北側の第五十九軍と呼応して第二十一連隊を包囲する勢いを示した。
正午ごろには、彼我の前線は約三十メートルにまで接近し、第二十一連隊長
片野大佐は、しきりに側背からの援護攻撃を支隊司令部にもとめた。
すると、午後零時三十分、支隊長坂本少将は第二十一連隊に後退を命令してきた。
いったん第十一連隊とともに湯頭鏡に集合して、攻撃を再開する、という。
第二十一連隊長片野大佐は、包囲された形のまま退却するのでは敵に勝利感を
いだかせてしまう。撃破すべきだ、との意見をつたえたが、
支隊長坂本少将はなおも後退を指示し、大佐は、後退準備を部下に下令した。
ところが、つづいて支隊命令がとどき、こんどは第十一連隊に南下攻撃をさせるので、
「現位置ヲ撤スルコトナク (敵を) 攻撃スベシ」
という。
「当然だ。敵をつけあがらせる必要はない」
第二十一連隊長片野大佐は、満足して、各隊に勇戦を指令した。
しかし、午後二時になると、また支隊命令が受信された。
「前電命取り消シ。片野部隊ハ万難ヲ排シ現地ヲ撤退スベシ」
まさに
「猫眼」
なみに転変する作戦指導である。片野大佐は、憤然として返電した。
「連隊ハ現位置ヲ確保シ、敵撃滅ニ邁進ス」
大佐は、敵は撃退できる、と確信していた。
弾薬節約の意味もこめて、各隊は中国軍をひきつけては斉射する戦法を
くり返していたが、相手はそのたびに潰走し、
次第に突撃兵力が減少する傾向をみせはじめていたからである。
だが、支隊司令部は撤退指示をかさね、
午後十一時には、司令部に連絡に出かけた副官三浦忠義少尉が帰り、
軍旗だけでも帰還せよ、という支隊長坂本少将の言葉をつたえた。
片野大佐は、致しかたなし、と後退を決意し、十七日午前二時、陣地を撤収した。
第十一連隊も、翌日、攻撃を中止して湯頭鎮付近にひきあげたが、
片野大佐の予想どおりに、中国側は戦勝を呼号した。》
つづく
これは メッセージ 1542 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1550.html
8月11日 包囲される上海
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/28 18:53 投稿番号: [1549 / 2250]
陸軍の応援が認められないため、仕方なく、第三艦隊司令長官は、
呉と佐世保に待機させていた陸戦隊を上海に派遣します。
しかしながら、上海の日本人居留区は、既に中国保安隊に包囲されていました。
戦史叢書
『中国方面海軍作戦〈1〉』
311p
《 長谷川司令長官は、十日
13:25
発電をもって
「佐世保方面で待機中の第八戦隊、第一水雷戦隊、呉鎮守府第二特別陸戦隊
及び佐世保鎮守府第一特別陸戦隊は直ちに上海に向け発進すべし」
と下命した。
これら諸隊は同日
14:30
佐世保発、十一日上海に到着し、特別陸戦隊は
同日
23:00
揚陸完了、上海特別陸戦隊司令官の指揮下に入った。
十一日、京滬及び滬杭再両鉄道は旅客の乗車を禁止し、軍隊輸送を開始するに至った。》
松本重治著
『上海時代・下』 193p
《 船津さんの日誌から、左に抜粋する (同上 『船津辰一郎』 194〜196ページ)。
八月十一日
…閘北 (ザホク) 方面における中国側保安隊ないし正規兵ますます増加し、
あたかもわが陸戦隊およびわが居留民の多数居住する虹口一帯を包囲する形勢を取り 》
北博昭著
『日中開戦』
15p
《 8月11日
銭大鈞の指揮する第13軍下の第88師が保安隊と合流し、
共同租界の境界線に接した非武装緩衝地帯にまで進出する事態になった 》
児島襄著
『日中戦争4』
68p
《 8月11日、蒋介石は第9集団
( 張治中 )
に呉淞口の閉鎖と
上海包囲体勢をとる様下令した。
その夜、上海に出入りする鉄道はいずれも旅客の輸送を中止し、
軍隊輸送に切り換えられた。》
戦史叢書
『中国方面海軍作戦〈1〉』
312p
《 88師とおぼしき中国正規兵及び武装保安隊は12日朝来続々と上海付近に集中し
呉淞から江湾鎮に至り配備につき、租界と閘北との境界付近各所に戦備を整えて、
まさに一触即発の情勢に立ち至った。》
313p
《 8月12日
朝来、保安隊は北停車場付近から河南路及びハスケル路いったいの
中国街に侵入し中山路一帯及び江湾路付近は警戒厳重を極め、非常警戒網が張られ》
塚本誠著
『ある情報将校の記録』
197p〜より要約
この日、北站駅に中国兵が続々降りているという情報で憲兵隊の大前軍曹と
熊野通訳が偵察に行ったら捕まり、後でわかったのですが、殺されていました。
中国側の資料
( 8.13淞滬抗戦 劉勁持)
《「虹橋での大山事件が起ると、88師
(孫元良)、 36師
(宋希濂)、
87師
(王敬久)、に進軍命令が出た。鉄道はすべて軍事に使われ、
8月12日朝、88、 87の二師は上海に到着、88師は北駅近くに駐留し、
87師は北四川路東から楊樹浦一帯に陣を構えた。・・・王敬久や孫元良の
営長や連長なども便衣を着て、住民たちと一緒に租界に入っていく。》
( 鈴木明著
『 新「南京大虐殺」のまぼろし』
194〜195pより )
児島襄著
『日中戦争4』
69p
《 8月12日
中国側は夕闇迫るころ黄浦江に三千t級の汽船「三興」号、「福興」号
さらに大石塊を満載した大型ジャンク二十隻を自沈させ、水路閉鎖をこころみた。 》
中国は、この日、揚子江の江陰にも船を沈めて河を封鎖した。
これは メッセージ 1547 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1549.html
3月16日、ホテルでの和平工作会合
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/28 18:45 投稿番号: [1548 / 2250]
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
270〜272p
《 翌十六日午後、カセイ・ホテルの一室で、高・董・伊藤と私の四人での会合があった。
高君は、董君の東京での話を一語も漏きず聴き入っていた。
高君は、一言をも吐かず、董君の話の高君なりの評価に耽っていて、黙ってばかりいた。
伊藤君が、少し栄気をつけないといけないと思ったのか、
「董君と西君と私の三人連れで東京から大連へ、松岡総裁に会いに行った。
そのウスリー号の船中で、西君を
『太郎』、 董君を
『次郎』、
私を
『三郎』
と称び合う約束をした。
日中和平運動のための盟友の誓いを表現するためでもあるが、
暗号電報にも利用すれば便利だと思って」
と話し出した。
私は
「宗武
(ツンウー)、君に反対がなければ、
君を
『四郎』
とし、 僕を
『五郎』としたらどうだい」
というと、
高君も引きずり込まれて、笑いながら、
「『四郎』
でいいよ。 君が
『五郎』
ならね」
と私にいう。
伊藤君が、「初めの三人は和平運動に登場した順序に因んでの命名だったのだから、
『四郎』 『五郎』
と称ぶことを高さんと松本さんとが承知してくれれば、
『太郎』
に異論があるはずはない」
というので、私が
「じゃあ、そう定めよう。
さしづめ影佐大佐は
『六郎』
と定めちゃおうや。 欠席裁判でいいよ。
それは僕が引き受けるよ。松岡さんのほか近衛さんとも話をしなければならないが、
当分は、日中双方で十名ぐらいに限ろうや」
と提案すると、みんなが賛成した。
高君は、しかし、あくまで冷静であり、まず質問を始め、伊藤君に対し、
「影佐さんや今井さんは、今、どういう地位にいるのかね」
と尋ねた。
すると、伊藤君は、 「影佐大佐は、昨年十一月から参謀本部に新設の謀略課長、
今井中佐は、ごく最近、同じく参謀本部の
『支那』
班長になったよ」
と答える。
「謀略課長」
ということばを聞くと、高君の顔つきが険悪になった。
私が、 「謀略課長という影佐大佐の肩書には、僕自身も恐れ入ったが、
ある意味では、土肥原と連想される
『特務機関』
の謀略とは全然違うのだろう。
新しい謀略課長の任務は、省部を合せて戦争の拡大傾向に対し、
これを克服するという謀略が、参謀本部にも必要なのであろう」
と茶々を入れると、
伊藤君が、「 それは、そうだ。うがった話だ」
といって、一同大笑いになった。
次に、董君が、 「影佐大佐から、何応欽・張群両氏それぞれに宛てた
二通の手紙を届けるため、漢口に行かなければならない」
といい出すと、
高君は、二度びっくりで、
「下手なことをやったら、董君も僕もやられてしまうよ。
これは、絶対慎重に取り扱わなければだめだよ」
と、
董君をたしなめるような口調でいった。
一本気の董君は、自然、少なからざる不興の面持で、
「私は漢口に行って、手紙を手渡ししてくる決心だ」
という。
それで、私がとっさにいった。
「僕が、四人のうち、いちばん年長者らしいから、
ちょっと私の意見をいわせてもらいたい。この大切な日中和平運動の門出に
あたって、同志のものが、喧嘩することなどは、絶対にけしからんことだ。
高君も、董君も、冷静に考え直してくれ給え。
西君は、月末に香港に直行するというから、香港での五人の会合で、
この問題の処理を話し合って決定しよう。この提案に、誰か異存があるかい?」
と。
高君が、真っ先に
「異議なし」
といいきったので、董君も、しぶしぶながら、
「僕も賛成だ」
といわないわけにいかなかった。》
つづく
これは メッセージ 1546 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1548.html
上海への陸軍派兵を拒む米内海相
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/27 18:37 投稿番号: [1547 / 2250]
揚子江上流が不穏になって来たことや、
中国が急速に上海包囲網を展開していることから、
第三艦隊司令長官は、海軍中央部に陸軍の派兵を依頼していました。
戦史叢書
『中国方面海軍作戦〈1〉』
311p
《 長谷川長官の八月七日発電の具申
此
(この)
数日
更
(さら)
ニ
キュウ江碼頭
(マトウ:埠頭に同じ)
附近一帯ノ地ニ
江岸ニ面スル
防禦工事ヲ
施シツツアリ。
右ノ工事ハ軈
(やが)
テ
呉淞ニ延長セラルベク
黄浦江岸ヨリハ
陸兵ノ上陸困難
トナルベキ場合ヲ顧慮シ
第一段作戦ノ
派遣陸軍ハ
揚子江本流ノ
上陸作戦ニモ適スル兵団ヲ
充当スルヲ要スル
モノト認ム。
八月九日発電の具申
(第三艦隊機密第四八四番電)
上海附近
支那側軍備急速強化
ノ実情ハ
累次電報ノ通ナルガ、
右ハ殆ド
我ガ方ノ
予想セザリシ所
ニシテ、
今ヤ漢口ニ於ケル
居留民引揚時ノ
情況ヲ髣髴
(ほうふつ) セシムルモノアリテ、
現在ノ
上海特別陸戦隊
及
艦船陸戦隊ノ
全力ヲ以テスルモ
租界警備上
兵力不足ヲ
感ズルニ至レル
ヲ以テ、 約五箇大隊ノ
兵力増援必要
ナリト認ム。
仍
(よ)
ツテ此ノ際
一
佐世保待機中ノ
特別陸戦隊ヲ
至急
上海ニ派遣シ
二
先遣陸軍部隊ヲ
速
(すみやか)
ニ
上海ニ派遣スルカ、 又ハ
少クトモ之ヲ
乗船地ニ
待機セシムル
要アリ。》
この日にちより前から具申はあったのですが、それに対して海軍中央部は
「当時進行中の機微な外交交渉を考慮し、事態を急速破局に導かないよう要望」
し、
かつ 軍令部は、海軍省に対し、陸軍兵力
(上海二コ師団、青島一コ師団)
を
必要に応じ派遣する件を、海軍からの要請として閣議に提案するよう要求したのですが、
314p
《 米内海相は、多分に当時進行中の機微な外交措置に望みをかけ、
今明日中にその成果が期待できると思われるので、
閣議において今後の情勢に応じ直ちに要求貫徹を容易ならしめるよう措置しておくが、
今日直ちに陸軍派兵を決定するのはしばらく待ちたい、との態度であった。
・・・
十一日
10:30 、伏見宮軍令部総長は米内海相と会談した。
海相は、外交交渉の成否は予想はできないが、これを促進させることは大切であり、
今打つべき手があるにもかかわらず直ちに攻撃するは大義名分が立たず、
今しばらく模様を見ることとし、我が居留民に危害が及ぶような事態になれば
直ちに出兵する旨の意見を述べた。》
*
ということで、米内海相は、なおかつ、中国を信じ、
和平が話し合いで出来ると思っていたようです。
戦前は、軍部が戦争をしたがっていたというのが通説になっていますが、
米内海相の考えは、まったく逆ですね。
むしろ、今の平和主義者に近いようです。
つづく
これは メッセージ 1545 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1547.html
3月15日 董道寧 日本より上海に戻る
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/27 18:26 投稿番号: [1546 / 2250]
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
270p
《 三月十五日、董君は伊藤君といっしょに上海に帰ってきた。
伊藤君の話によれば、董君は、影佐大佐、今井中佐らに厚く待遇され、
董・影佐の会談も上々の首尾で、多田参謀次長にもゆっくり会えた。
そして董君は、一月十六日の声明にかかわらず、
多田参謀次長や影佐大佐から、軍の中枢部には、なるべく早く
「和平を招来したい真意」
があることを確認した。》
これは メッセージ 1531 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1546.html
海軍中央の大山事件対処方針
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/26 18:55 投稿番号: [1545 / 2250]
戦史叢書
『中国方面海軍作戦〈1〉』
310p
《 軍令部は直ちに次の対処方針を決定した。
要
旨
大山事件ノ解決ハ
将来コノ種事件ノ
根絶ヲ期スルヲ
方針トシ、
左記要求事項ノ
充足ヲ目途トシテ
交渉スルヲ要ス。
而シテ
支那側当事者ニ於テ
之ガ解決実行ニ対シ
誠意ヲ示サザルニ於テハ、
実力ヲ以テ
之ヲ強制スルモ
敢テ辞セザル
決意アルヲ要ス。
要求事項
一
事件責任者ノ陳謝及処刑
二
将来ニ対スル保障
(1)
停戦協定地区内
ニ於ケル
保安隊員数、 装備、 駐屯地ノ制限
(2)
右地区内ニ於ケル
陣地ノ防禦施設ノ撤去
(3)
右ノ実行ヲ
監視スベキ
日支兵団委員会
ノ設置
(4)
排抗日ノ
取締励行
海軍中央部は八月十日、第三艦隊司令長官あて次のように申進した。
官房機密第六八一番電
(十日一二〇〇発電)
目下
外交交渉
進行中ニシテ
最モ慎重ヲ要スル
時機ニテアリ、
旁
(かたわら)
事態ノ解決ハ
究極ハ
武力ニ依ル
ノ外ナキニ至ル
トスルモ、
陸軍ノ派兵ニハ
相当ノ時日ヲ
要スルノミナラズ、
我ガ方ヨリ
攻撃ヲ開始セザル限リ
支那側ヨリ攻撃セザル
中央政府ノ意向
ナル旨ノ特情報モ
アル次第ナルヲ
考慮シ、
大山中尉射殺事件ニ
対スル当面ノ処置ハ
先ヅ真相ヲ糾明スル等
必要ナル外交的措置ヲ
執ルコトトシ、
可及的
事態ヲ急速破局ニ
導カシメザル様
致シ度。》
・・・・
311p
《 八月九日発長谷川司令長官の具申
(第三艦隊機密第四八四番電)
上海附近
支那側軍備
急速強化ノ実情ハ
累次電報ノ通ナルガ、
右ハ殆ド
我ガ方ノ予想セザリシ
所ニシテ、
今ヤ漢口ニ於ケル
居留民引揚時ノ情況ヲ
髣髴セシムルモノアリテ、
現在ノ上海特別陸戦隊
及
艦船陸戦隊ノ
全力ヲ以テスルモ
租界警備上
兵力不足ヲ感ズルニ
至レルヲ以テ、 約五箇大隊ノ兵力増援必要ナリト認ム。
仍
(よ)
ツテ此ノ際
一
佐世保待機中ノ特別陸戦隊ヲ
至急上海ニ派遣シ
二
先遣陸軍部隊ヲ
速
(すみやか)
ニ上海ニ派遣スルカ、
又ハ少クトモ
之ヲ
乗船地ニ
待機セシムル
要アリ。》
*
ここでも海軍の甘さが見られます。
「我ガ方ヨリ
攻撃ヲ開始セザル限リ
支那側ヨリ攻撃セザル
中央政府ノ意向」
と言っていますが、そもそも盧溝橋事件は
「我ガ方ヨリ攻撃ヲ開始セザル」
にも関らず
「支那側ヨリ攻撃」
したものです。
大山中尉もこちらから、攻撃していないのに攻撃されました。
日本側に
「可及的
事態ヲ急速破局ニ
導カシメザル様」
と言ったところで、
中国側が逆の考えならどうしようもないでしょう。
これは メッセージ 1543 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1545.html
3月14日 原稿を書くティンパレー1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/26 18:43 投稿番号: [1544 / 2250]
大虐殺の原稿をベイツらにチェックしてもらうティンパレー
松村俊夫著
『「南京虐殺」
への大疑問』
203p
《 三月十四日付の手紙でベイツは、ティンパレーから送られてきた原稿を
スマイスとミルズの三人で検討した結果を返答している。
この件はあわてるべきではなく、誰かが上海まで出かけていって一緒に作業を
した方がよいとし、もし内容に間違いでもあると
「日本側に反駁の機会を
与えるものであり、全体の効果を弱める結果になる」
(①360頁) とある。
・・・
203〜205p
同じ三月十四日付で、上海のティンパレーからタイプされた原稿の一部が
ベイツに送られてきた。
それによれば、第一章はまだできていないが、
第二章から第十章の結論までの構想が示されている (①365頁)。
その構成を見ると、ここで参考としている
『外国人の見た日本軍の暴行』
とは若干異なっているが、
第六・七章に南京以外の事件を扱うこと、
第八章に
「今日にいたるまでの南京空襲に関する新聞報道と目撃談を厳選するつもり」
とある。
この記事が、完成した本の
「第五章
華北の恐怖」
のなかにある
石炭を知らぬ日本兵の話
(同書57頁)、
「第六章
暗黒に鎖された城市」
(同書69頁)
のなかの、略奪品を持って
上海に引き揚げる日本兵の話などとしてそれぞれ入っているのである。
その他もこれに似て、およそ日本人なら想像もつかない目撃談というものが続く。
日本軍は前掲の各都市を始め、いつでもどこでも虐殺、略奪、強姦を働く集団として、
目撃者や体験者の話が文字通り腐るほどある。》
*
「石炭を知らぬ日本兵」
とは、妄想もはなはだしい。
では、日本の軍艦はどういう燃料で動いていたのか?
当時は石油に代わった船もあったかも知れないが、
揚子江を行き来する軍艦は石炭を積んでいた筈だが?
撫順の炭鉱は誰が動かしていた?
今の日本の若者は石炭など見た事ないだろうが、
昭和40年頃までは、石炭は日本の国産燃料だったのだ。
日本から炭鉱が消えだすのは、昭和40年以降。
つづく
これは メッセージ 1442 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1544.html
8月9日 大山中尉虐殺事件4
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/25 14:37 投稿番号: [1543 / 2250]
戦史叢書
『中国方面海軍作戦〈1〉』
309〜310p
《 心配されていた揚子江流域の我が居留民引揚げは八月九日無事終了したが、
同日夕刻大山大尉
(殺された時は中尉だが、海軍は後で昇進させた)
事件が突発し、
戦局は一転して中支に波及するに至った。
八月九日
18:30
ごろ、上海特別陸戦隊西部派遣隊長
(第一中隊長)
大山勇夫中尉
(八月九日付大尉)
は、一等水兵斎藤與蔵
(八月九日付三曹)
の
運転する陸戦隊自動車で付近地区の視察及び陸戦隊本部へ連絡の途中、
上海西部虹橋飛行場南東隅西門の北約一〇〇米、越界路たる碑坊路上において
中国保安隊のため射撃を被り殺害され、また斎藤一等水兵は引致され殺害された。
同日夕、上海市長愈鴻釣は事件処理協議のため、
自ら総領事館に来り我が総領事岡本季正及び帝国大使館附武官本田海軍少将と会見し、
大山中尉が飛行場に入ろうとして保安隊の制止を聞かず、
かえって拳銃で保安隊一名を銃殺したことに端を発した、との趣旨を説明した。
これに対し我が方は、最近保安隊の武装強化及び対敵行動は露骨であり、
本事件については今後の要求を保留する、と警告した。
長谷川司令長官は、九日
21:30 、佐世保で待機中の第八戦隊、第一水雷戦隊、
第一航空戦隊、 「鶴見」、 佐世保鎮守府第一特別陸戦隊、
呉鎮守府第二特別陸戦隊に即時待機を下命した。
翌十日早朝、長谷川司令長官は我が外務官憲と協力し両名の死体を収容した。
そして同日午後、上海駐在武官田尻穣海軍中佐、上海特別陸戦隊参謀山内英一少佐、
領事寺岡範武、領事福井淳、工部局督察長、上海市政府秘書長、
呉淞警備司令部副官ら粒より実地検証の結果、次のとおり判明した。
一
両名とも機銃弾が頭部を貫通して致命的打撃を受け、その他の弾こん
及び外傷は中国側が苛虐
(かぎゃく)
的に行ったものである。
二
保安隊一名の死亡は機銃弾によること、及び当時大山中尉は拳銃を携帯せず、
斎藤水兵もまた拳銃を肩に掛けたまま自動車を運転していたことに照らし、
中国側同志の味方打ちの結果であることは明白である。
三
したがって中国側の主張するように、日本側から先に射撃した事実なく、
中国側が遠近から乱射し、あまつさえ軍装の両死体に対し
残虐な侮辱を加えたこと明白である。
しかし、中国側は直ちに右の事実を容認する態度を示さなかった。》
これは メッセージ 1541 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1543.html
3月14日 台児荘戦の前段階1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/25 14:30 投稿番号: [1542 / 2250]
当面の敵の掃蕩作戦という名目で滕県占領に派遣された瀬谷支隊は、
三月十四日、はやくも滕県にせまった。
児島襄著
『日中戦争4』
文春文庫
298〜299p
《 −
そのころ、
沂州北東の湯頭鎮では、坂本支隊の第二十一連隊が意外な苦境におちいっていた。
第二十一連隊は湯頭槙の南の西水湖崖付近に集結し、
その北方の砂嶺に第十一連隊が位置していた。
対峙する中国軍は、第三軍団長兼第四十軍長ホウ炳勲が指揮する第三十九師
(馬法五)
であったが、所属する第五戦区司令長官李宗仁は、
沂州の
「絶対不能放棄」
を命じ、第五十九軍
(張自忠)
の二個師
(第三十八師、第百八十師)
を増強していた。
そして、三月十四日、中国軍は攻撃を開始し、
第五十九軍は沂河をわたって第十一、第二十一連隊の中間に進入し、
第三軍団は第二十一連隊を南から攻めた。》
つづく
これは メッセージ 1529 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1542.html
8月9日 大山中尉虐殺事件 3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/24 14:16 投稿番号: [1541 / 2250]
東中野修道著 「南京虐殺」 の徹底検証
展転社
24〜25p
〈 東亜同文会編
『新支那現勢要覧』 (昭和十三年)
に、
日本海軍陸戦隊の実地検証結果が出ている。
それによれば、大山中尉は後頭部貫通の致命傷を受けて即死したあと、
「頭部は二つに切り割られ、顔面半分は全く潰され、内臓を露出し、
心臓部に拳
(こぶし)
大の穴をあける」
などの暴行を支那の保安隊から受けていた。
支那側の計画的な虐殺であったのである。
パリの
「
グラン・ゴアール」
紙特派員エドアール・エルセイの
「支那事変観たまま」が、 『国際パンフレット通信』
一九三八年 (昭和十三年)
八月一日号に翻訳転載されているので、あわせて紹介しておきたい。
《 八月九日には日本の海軍士官が、虹橋飛行場の支那番兵に殺害された不幸な事件が起った。
日本の士官も注意すればよかったと言へない事もないが、
併
(しか)
し支那側の計画的だった事はなんとしても否定出来ない。
南京政府が少なくも十五日前から上海に戦火を挙げる決意のあつた事は疑ふべくもない。》
《 其の目的は、日本の一部を南支に引裂くことばかりにあったのではなく、
日本軍を中立地帯の近くに引寄せて、いや応無しに国際間題を頻発させようといふ
腹だった。かくして頻々
(ひんぴん)
たる事件の発生と誤解に依り、
西洋の與論
(よろん)
を誘発しようといふ奸策なのだ。》
《 これは蒋介石自身が同意したことで、いささか得意でもあったことだ。
十月末
(昭和十二年)
に南京で会った時、僕は蒋に向ってこんなことを言ってみた。
あの手は実にうまい、上海は日本の足に刺さった刺(とげ) みたいなものですからね、
抜いてしまはない中
(うち)
は動きがとれないわけでせう。》
《通訳があって、
さうだらう、まあうまくいった積りだがな、といふ彼の答へだった。
当初は日本の政府も軍部も交戦を回避してゐた。上海攻略を危険視してゐたのだ。》
上海で支那側が
攻勢に出た狙いの一つは、エルセイ特派員も言うように、
上海で紛争を引き起こして、世界に日支紛争を印象づけることにあった。
それには、上海のど真ん中に位置するフランス租界と共同租界こそ、恰好の舞台であった。
上海で戦闘ともなれば、日支紛争は否応なく外国人の耳目に入って来る。
租界の外国人、とりわけ特派員は、スタンドの上から試合を見物するように
戦闘を観察できる。その計算が蒋介石に働いていたというのである。〉
つづく
これは メッセージ 1538 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1541.html
東條英機 ドイツの抗議を一蹴
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/24 14:05 投稿番号: [1540 / 2250]
ラビ・M・トケイヤー著
『ユダヤ製国家日本』
加瀬英明訳
46p
《 ドイツ外務省が日本政府に対して、
大量のユダヤ人難民を満州国へ入れたことに対して、強硬な抗議を行った。
この抗議は、東京から新京の関東軍司令部へ、すぐに伝えられた。
すると、東條参謀長は難民を受け入れたのは、
「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」
として、一蹴した。
この時、東條参謀長が樋口に許可を与えなかったとすれば、
ユダヤ人難民が救われることはなかった。》
関東軍はユダヤ人を差別しないことを決めていた。
ラビ・M・トケイヤー著
『ユダヤ製国家日本』
加瀬英明訳
44p
《 関東軍司令部は一九三八
(昭和十三)
年一月に、
「現下ニ於ケル対猶太民族施策要領」
を定めていた。
これは、東條参謀長が決裁したものであった。
要領は日本がユダヤ人を差別しないことについて、
「独逸其ノ他ノ
列国ニ対シテハ
我民族協和、八紘一宇ノ精神並ニ
防共ノ大義ニ
遵由
(じゅんゆう)
スルヲ諒解セシメ
誤解ナカラム」
(第四項)
と、述べていた。》
*
ちなみに松岡洋右は、後に
「私はドイツと同盟は結んだが、
ユダヤ人を殺す約束まではしていない」
と言いますが、
彼は、第一次大戦の講和会議のとき、外務省の新聞班としてパリにいました。
そして、日本が持ち出した
「人種差別撤廃」
を、
「民族自決」
を唱えたウイルソン米大統領が強硬に反対して、
潰すのを見ています。
英国もまた、白豪主義を唱える属領オーストラリアに反対を言わせていました。
松岡は、こうした白人の人種差別に、不快感をもっていたでしょう。
これは メッセージ 1535 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1540.html
8月9日 大山中尉虐殺事件 2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/23 18:37 投稿番号: [1538 / 2250]
東中野修道著 「南京虐殺」 の徹底検証
展転社
22p
〈 一連の事件をめぐる和平交渉が八月九日、上海で予定されていた。
ところが、この日、上海で、大山勇夫海軍中尉 (のち大尉) と
斎藤與蔵一等水兵が支那の保安隊により虐殺された。
そのため、会談は自然流会となった。
と言うより、それを狙って、事件が仕組まれたと言った方がよいであろう。〉
23p
〈《 たとえば、東亜同文会の
『支那』
昭和十三年九月号に、
クロード・ファレールの
「支那紀行」
が翻訳転載されているが、
そのなかでファレールは、大山中尉が
「あるべからざる所に巧みに設置された支那軍の機関銃によって暗殺せられた」
ことを、
次のようにフランスの読者に紹介した。
《 日本軍は驚嘆すべき冷静さを持してゐた。
彼等は最も優秀なローマの警官の教へる所を実行したのである。
彼等は自動車にも死骸にも決して手を触れなかった。
彼等は大上海の支那人の市長及び英仏米の官憲を招致した。
待つ間もなく人々はやって来た。》
《 人々は事件の検証を行った。
一支那兵が虐殺されて、百歩以上の距離の所に横ってゐた。
然
(しか)
し、その実地検証は、何等の異議も挿
(さしはさ)
まれることなく、
次のやうな事実を確認した。》
《 即ち、この男は可愛さうにその同僚によって自動拳銃のために、
背後から、射撃されたのであって、
その後、その日本人暗殺に対して争闘のやうな色彩を与へる位置に
曳
(ひ)
いて行かれたのであった。》
支那兵は前方の大山中尉によってではなく、 「背後」
から
(即ち味方から)
撃たれていたというのである。
その事実を、検証者全員が異議なく
「確認」
したのであった。
それは日本側の記録とも一致する。
こうして、大山中尉が支那兵を撃ったから、支那兵の方でも止むなく反撃したのだ
という支那側の主張は崩れ去った。〉
つづく
これは メッセージ 1536 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1538.html
3月13日、ドイツ、オーストリアを併合
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/23 18:30 投稿番号: [1537 / 2250]
ドイツは国民投票の動きを封じるため、
3月11日に事実上の最後通告を発し、
翌日3月12日午前8時、急ぎオーストリアへ軍事侵攻した。
オーストリアは抵抗せず、無血のうちに成功した。
シュシニクは亡命し、代わりに首相となった親独派の内相ザイス=インクヴァルトは、
この軍事進駐を要請の形で容認した。
1938年3月13日に、
「ドイツ帝国とオーストリア共和国の再統合に関す法律」
の署名により、
正式にオーストリアはドイツによって併合された。
井本熊雄著
『支那事変作戦日誌』
305p
《 ヒットラーの活動は逐年目ざましい進展を示し、
この年二月始め頃から対墺交渉を開始して、三月十三日には独墺合併を宣言した。
ソ連外相リトヴィノフは、すかさずナチの侵略阻止のため列国会議を提案したが、
英国は平和維持の施策において意見を異にし、
これを拒否し、他の列国も同調せず、この提案は不発に終った。》
注
墺とはオーストリアのこと。
これは メッセージ 1533 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1537.html
8月9日 大山中尉虐殺事件1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/22 18:47 投稿番号: [1536 / 2250]
揚子江上流から引き揚げ者が上海に到着したその日に大山中尉虐殺事件が発生しました。
この日は和平会談が設定されていた日でもあります。
児島襄著
『日中戦争4』
文春文庫
66〜68p
《 その日、上海で、上海陸戦隊第一中隊長大山勇夫中尉と一等水兵斎藤與蔵が
殺害される事件が発生した。
大山中尉は、斎藤一水が運転する乗用車にのって、
虹橋飛行場南東隅の西門の北約百メートルの碑坊路を通行中、
上海市保安総団の一部に襲撃され、二人とも殺されたのである。
翌日
有島軍医少佐と中国側の法医学者孫達方が作成した屍体検案書には
次のように記録されている。
「一、死亡者ノ氏名
大山勇夫
一、死亡ノ原因
他殺
( 頭蓋粉砕骨折、左前胸部刺殺傷、左前胸部射傷、右腰部射傷、
左腰部盲貫銃創、左腹壁ニ鉛弾ヲ蔵ス )
以上各傷。
一、死後経過時間
九時間」
「一、死亡者ノ氏名
斎藤與蔵
一、死亡ノ原因
他殺
( 顔面挫傷、右頭頂部複雑骨折、後頭部貫通射傷、肋骨骨折 )
一、死後経過時間
十時間」
大山中尉は拳銃をもたず、斎藤一水は肩にかけるホルスターにいれていたが、
発砲のひまもなく射殺されたものとみられた。
二人の死体には、検案書に記載されたもの以外にも傷があり、
大山中尉の場合は、腰部の盲管銃創をうけて車外に倒れたところを、
銃剣で胸を刺し、大刀で頭部を斬り割ったらしい。
「脳漿は全部出てしまい、心臓部にこぶし大の穴があいていた」
と、有馬軍医少佐は、記者会見で語っている。
斎藤一水の頭部貫通銃創は、即死をもたらしたとみられ、
したがって、顔面、頭部の挫傷と骨折は、死体をひきずりだし
銃床をたたきつけたものと、推定された。
「通州事件」
にひきつづいての惨殺事件である。日本国民は、文字どおりに憤激した。
報告をうけた軍令部は、しかし、事態を局地に解決すべく、
責任者の陳謝と処刑、将来の保障その他を中国側に要求することにした。》
* 「心臓部にこぶし大の穴があいていた」
とありますが、
これは、心臓をとって食べたという事かも知れません。
義和団事件のとき、書記官の杉山彬は董福祥甘軍に捕まり
四肢を断ち、その身体を割くという残虐な殺され方をされています。
張徳成は、群衆に対して
「かれ
(杉山書記官)
の鼻、耳、口、指を切り落し、身体をめった切りにし、
背の皮をはいで腰帯にし、その心臓をくりぬいた。・・・
まだあたたかく動いている日本人の心臓を前方に放りなげた。・・・
われわれは敵の心臓を切りきざんで食ってしまった。」
と威張って言いました。
「心臓部にこぶし大の穴」
なら、多分、そういうことになるでしょう。
つづく
これは メッセージ 1534 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1536.html
3月12日 ユダヤ人難民ハルピンへ
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/22 18:34 投稿番号: [1535 / 2250]
樋口は
「人道上の問題」
としてユダヤ難民の受け入れを決め
満州鉄道総裁の松岡洋右に特別列車の要請をし、
現場では樋口の部下である安江仙弘が奔走した。
ラビ・M・トケイヤー著
『ユダヤ製国家日本』
加瀬英明訳
42p
《 樋口は東條の同意を得て、満州国外交部(外務省)と折衝したうえで、
ユダヤ人難民を入境させる措置をとった。
この結果、満鉄が何本もの救援列車を、満州里駅まで派遣して、
国境を歩いて渡った難民を収容した。》
3月12日、ハルビン駅にユダヤの人々が到着。
ユダヤ難民たちは地元の商工クラブや学校へと収容され、
そこで炊き出しを受けた。
M・トケイヤー著
『ユダヤ製国家日本』
加瀬英明訳
46p
《 オトポールに集結したユダヤ人難民の大多数が、ドイツ旅券を持っていた。
旅券には赤い字で大きく、ユダヤ人の 〝J〟 を示すゴム印が、押されていた。
ドイツ政府はユダヤ人は子供にいたるまで、衣服にユダヤの象徴である、
黄色の 〝ダビデの星〟 の縫い取りをつけることを、義務づけていた。
難民たちはドイツから出国した時に、
この屈辱的な縫い取りをいっせいにはぎ取って、捨てていた。》
これは メッセージ 1527 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1535.html
8月8日 漢口陸戦隊の引揚げ
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/21 18:41 投稿番号: [1534 / 2250]
戦史叢書
『中国方面海軍作戦〈1〉』
302p
《 七日 17:15 、鳳陽丸
(「比良」 護衛)
による漢口居留民の最終引揚げ終了後、
陸戦隊は急速引揚げを決し、日没後撤退作業開始、八日未明漢口発と予定した。
ところが、計画が中国側に漏れたため、谷本司令官は速急に撤退下江のことに決し、
七日 18:30 海軍桟橋横付け中の
「八重山」
の外側に
「栂」
を、
租界日華製油前桟橋に
「栗」
を、それぞれ横付けさせた。
19:11、 無燈厳戒下に、陸戦隊撤退作業が開始されると同時に、
「八重山、栗、栂」
に一二節即時待機が下令された。
八日 00:45 撤退作業終了、陸戦隊員は前記三艦に分乗 01:00 下江の途についた。
引揚げ殿 (しんがり) 隊
(谷本司令官直率の
「八重山、栂、栗」)
は
八日、大冶付近で夜明けを迎えた。
谷本司令官は同日朝
「勢多」
から、武穴居留民収容、
「勢多、小鷹」、鳳陽丸武穴発の報告を、
正午ころ
「鳥羽」
から、襄陽丸を護衛し蕪湖発の報告を、
次いで夕刻
「二見」
から、洛陽丸を護衛し
「二見、保津」
南京発の報告を受け、
各地居留民の引揚げは全部順調に実施中であることを知りつつ、下江を続行した。
南京、鎮江、馬鞍山、江陰等を通過する際照射を受けたが異常なく、
九日朝
通州に達した。
九日朝各地からの引揚艦船の状況は、蕪湖引揚げの鳥羽隊を先頭として、
呉淞−通州間を航行中であった。
谷本司令官はあたかも羊の群を追うように引揚艦船の逐次上海入港を見届けつつ、
九日 13:00
「八重山、栂、栗」
を率い上海に到着し、
「揚子江流域各地
在留邦人ノ
上海迄引揚完了」
を報告した。》
注
:
途中
「通州」
という地名が出て来るが、
これは
「虐殺事件」
の
「通州」
とは別の場所。
「虐殺事件」
の
「通州」
は北京の近くの
「通州」
で、
ここの
「通州」
は、 揚子江流域の
「通州」。
これは メッセージ 1532 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1534.html
3月10日 オーストリア ドイツに屈服
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/21 18:32 投稿番号: [1533 / 2250]
オーストリアの国民投票計画 を知ったヒトラーは激怒して
国民投票の中止とアルトゥル・ザイス=インクヴァルトへの首相職移譲を要求する一方、
3月10日にオーストリア制圧作戦
『オットー』
を発動した。
3月12日にドイツ国防軍を越境させ、実力でオーストリア国土の占領させる計画であった。
この情報はオーストリアに漏れ、政府に衝撃を与えた。
3月10日午後4時、シューシュニックは国民投票の中止と総辞職に追い込まれ、
「屈服」
の意をラジオで放送した。
シューシュニックはザイス=インクヴァルトを後継に推薦したが、
ミクラスは承認を渋った。
しかし、 「屈服」
放送に勢いづいた各地のオーストリア・ナチス党員は、
ウィーン、リンツ、グラーツ、インスブルックなどの地方政府の施設に
ハーケンクロイツ旗を掲揚するなどした。
これは メッセージ 1503 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1533.html
8月7日 漢口九江蕪湖の居留民引揚げ
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/20 14:51 投稿番号: [1532 / 2250]
戦史叢書
『中国方面海軍作戦〈1〉』
300〜301p
《 漢口居留民の引揚げ (八月七日発)
七日、重爆一四機蕪湖通過西行、
重爆四機九江経由西行、飛行機一一機九江経由西行などの情報下、
在漢口部隊は至近距離に中国軍と相対し、対空警戒を厳にしつつ引揚げを支援した。
信陽丸
(六日午後から自由引揚げ婦女子約七〇〇名を収容)
は、
七日
13:10 、 「比良」
の護衛下に、
次いで鳳陽丸
(漢口最後の引揚げ居留民約六七〇名を収容)は、同日 17:15 、
「勢多」
の護衛下に、それぞれ上海に向け漢口を出港した。
かくて、漢口残留者は漢口総領事館員など七七名だけとなった。
「比良」 、信陽丸は七日
23:30 、九江において
「熱海」 、
瑞陽丸と合同のうえ下江した。
蕪湖では中国軍艦長簶及び在空重爆一機を認め、南京では中国軍艦一三隻を認めた。
錦江を通過後、焦山砲台、象山砲台、馬鞍山砲台から照射を受けたが異常なく、
九日
12:15 、無事上海に到着した。
これより先、交通艇小鷹は七日午後漢口から武穴に着き、同地居留民七名を収容した。
翌八日
00:45 、 「勢多」 、鳳陽丸が漢口から武穴に到着、直ちに
「小鷹」
は
鳳陽丸に横付けし武穴居留民を移乗させ、 01:45 、鳳陽丸、 「勢多、小鷹」
の
航行序列で上海に向け下江を再開した。
錦江では連続照射されたが異常なく、九日
11:30上海に到着した。
九江、蕪湖の引揚げ
(九江七日、蕪湖八日発)
九江在泊の熱海艦長森圭作少佐は、
谷本司令官に八月一日現在の九江の状況を次のように報じた。
市内比較的平静ナルモ
軍人ノ往来多ク
市内ハ何トナク物々シ。
対日感情ハ益
(ますます)
悪化シ、ワガ居留民へノ侮辱行為ハ
ナイガ、
日本人ニ接スル中国人ニ対シ
監視厳重商取引モ杜絶、
抗敵後援会モ組織サレ
新聞ノ論調マタ
抗日宣伝ニ努メツツアリ。
三日午後、「熱海」
に九江税関から 「在港船舶ハ八月一日以後
毎日午後七時ヨリ午前五時迄
燈火管制ヲナスコト」
その他が
記述されている防空告示が送付されてきた。
森艦長激怒して報告、これに対し谷本司令官は四日午後
「貴官ノ気持ハ
之ヲ諒トスルモ
未ダ殊更ニ事ヲ荒立タシムル
時機ニ非ズ
ト認ムル
ニ付テハ
燈火管制ハ
周囲ノ振合ヲ見テ
実施シ差支へナシ」
と返電した。
七日未明、森艦長は居留民総引揚げに関する諸命令を受領したので、
同日 08:15 白井領事と居留民団長に引揚げを勧告した。
居留民は同夜九江発、瑞陽丸で引揚げのことに決定した。
瑞陽丸は七日 20:45 下流から入港、居留民を乗せ、 23:30 、 「熱海」
護衛の下に
上海に向け九江を出港した。翌八日 01:40 、漢口から引揚げの
「比良」 、
信陽丸を追い越し、九日 08:30 上海に到着した。
「鳥羽」 (艦長
久保田智中佐)は、第十一戦隊司令官の命により、
三十一日漢口発、翌八月一日夜蕪湖に到着した。
三日までは平静であったが、四日、各種抗日後援会が組織された。
婦女子は六日までに引揚げを完了した。
残余の居留民は七日
14:00 日清汽船
「ハルク」
に集結した。
同日夕、大冶引揚げ居留民一一名が近海郵船の運貨船で、蕪湖に安着した。
襄陽丸は八日朝、蕪湖着、蕪湖居留民一六名、大冶居留民一一名計二七名を収容し、
11:15 「鳥羽」
護衛の下に蕪湖発、翌九日
08:00 上海に到着した。》
これは メッセージ 1524 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1532.html
3月10日 董道寧の離日
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/20 14:40 投稿番号: [1531 / 2250]
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
262p
《 三月になっても、西君からも伊藤君からも、何の便りもなかった。
私は、董君が東京でつかまってはいないかとも案じたが、
「ノー・ニューズ・イズ・グッド・ニューズ」
と自分にいいきかせていた。
後日知ったことだが、董君は、影佐大佐や今井中佐と懇談を重ねたうえ、
彼らの紹介で多田参謀次長と会見し、そのうえ、董君は影佐大佐からの
何応欽と張群
(両氏とも影佐大佐の士官学校の同期生)
宛の親書を託され、
三月十日に神戸を発ち、大連では松岡満鉄総裁から激励されて、上海に帰った。》
これは メッセージ 1525 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1531.html
8月7日 ボツにされた松本氏の電文
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/19 18:51 投稿番号: [1530 / 2250]
松本氏は、保安隊の接近から危険を察知し東京に打電しましたが、
翌朝海軍武官室から呼び出されました。
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
191〜192p
《 九時出社した。十時半ごろ、海軍武官室から
「武官室まですぐ来てくれ」
との
電話があった。今さっきいっしょにゴルフをやったのに何用かと訝
(いぶか)
りつつ、
本田少将に会うと、 「松本君、君に問題が起ったのだよ」
という、
「何ですか?」
と驚きながら尋ねると、
「実は島田 (繁太郎) 軍令部次長からの電報で、 昨日君が打った電報は、
『上海内外の情況を誇大に描いたアラーミングな電報である。
海軍は不拡大主義に徹しているので、松本支局長が、ああいう調子で
打電しつづけるのは軍の方針に背馳することになる。
もっと冷静に打電するならばともかく、
そうでなければ、即刻退去命令を出せ』
という意味の訓電だ」
「本田さん、冗談じゃあありませんよ。 昨日、スコット路北方へ馬で行ってみると、
保安隊が、上海を包囲する恰好で逐次包囲圏を圧縮しつつある客観的事実を発見したので、
そのまま報道しただけですよ。誇大だとかアラーミングだとかの批判は、
納得できませんね、本田閣下」
と、私は少し改まって、
「あなたもよく私を知っておられるでしょう。私がそんな好戦的な電報なぞ
絶対的に打たないことを、閣下もご存じでしょう」
「松本君、解っているよ。解っているよ。そんなに怒るなよ。
しかし、軍令部次長から私に直接電報が来ているので、何とか処置したことを
返電せねばならない。このことは、君も解ってくれるだろう」
「本田閣下、じゃ、私を叱っておいたといって返電されればいいでしょう」
「ウン、厳重警告したってね」
「それでも結構です。僕は、まだ、この上海でやらねばならぬ仕事があるので、
退去命令はやめて欲しいです」
「解ったよ、しかるべく処理してしまおう。心配するなよ」
「イヤ、ありがとう」
というわけで、握手して別れた。
後年、問題の電報を探してみたが、 『同盟旬報』 にもなかった。
結局、海軍報導部で発禁にしてしまったからであったろうと思った。》
*
よく世間では、軍が検閲して、戦争に反対する記事を、
出させなかったとか言われますが、
この場合は、 「戦争を煽るから出させられない」
と言う趣旨のボツでした。
世間一般のキメつけとは、逆の行動です。
つづく
これは メッセージ 1528 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1530.html
3月8日 休憩から進軍へ作戦の変更
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/19 18:42 投稿番号: [1529 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
文春文庫
295〜297p
《 三月八日
−
北支那方面軍第一軍の山西省戡定(かんてい) 作戦は終了し、
第二十師団は潼関をのぞむ黄河左岸、第十四師団はその東方のネイ城、平陸、白波渡、
温県に到着したが、それ以上の
「急進的行動」
に出る気配は示さなかった。
膠済線から南西進した第五師団の一部は、
第二十一旅団長坂本順少将が指揮する第十一連隊(長野祐一郎大佐)と
第二十一連隊(片野定見大佐)を基幹とする有力な部隊だったが、
沂州北東の沂河の東岸の湯頭鎮に集結し、
これまた進撃をいそぐ様子はなかったからである。
・・・
この日、中支那派遣軍から徐州作戦を具申してくると、中佐は、
不拡大方針に変更はない旨の返電を起案して、発信している。
・・・
同じこの日、北支那方面軍第二軍司令官西尾中将は、
参謀鵜沢尚信中佐をエン州の第十師団司令部に派遣した。
「密電ニ依レバ、 津浦沿線ニ於ケル
数ケ師団ノ敵ハ、
近ク我ニ向ヒ
攻撃ヲ企図シ
アルモノノ如シ」
そこで、エン州の南方の滕県の占領、さらにその東北東の大平邑を確保したい。
「これは命令ではなく、軍司令官閣下の希望であります」
つまりは、追認を含意する独断行動の要求であり、その種の上司の
「希望」
を
つたえられては、師団長磯谷廉介中将も即応せざるを得ない。
中将は、さっそく、午後六時、第三十三旅団長瀬谷啓少将に第十連隊、
第六十三連隊基幹の支隊を編成させ、下令した。
「瀬谷支隊ハ、適時、津浦線沿線ノ敵ヲ撃滅シテ
先ヅ界河付近ニ進出スベシ」
・・・
第二軍司令官西尾中将は、 「希望」
が師団命令として具体化したのを知ると、
北支那方面軍司令官寺内大将を通じて東京の認可をもとめた。
あくまで当面の敵の掃蕩作戦である。決して深く南進はしない……。
参謀本部は、第二軍の
「掃蕩作戦」
を認可した。
第二軍の言葉を信頼したい、との作戦課長稲田中佐の判断によるが、
「掃蕩作戦」
にせよ、新作戦の実施であり、
七月まで
「作戦休憩」
するとの方針の破綻である。》
これは メッセージ 1517 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1529.html
8月6日 保安隊に遭遇する松本重治氏
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/18 15:26 投稿番号: [1528 / 2250]
盧溝橋事件が起こると、蒋介石は本格的に戦争準備を始めました。
上海の外側の非武装地帯に、ドイツ軍将校指導の下、トーチカを築き、
上海から南京に至る途中には防御線をしきました。
トーチカの築造については、上海憲兵隊の塚本誠氏が、7月24日ごろ、
上海の周辺の非武装地帯に中国軍がトーチカを造っているうわさを聞き、
私服を着て、ゴルファーの格好で出掛けていき、現物を確認しています。
( 塚本誠著
『ある情報将校の記録』
中公文庫
196pより )
そして中国は、上海の外側に、遠巻きに保安隊を配置し、
徐々に包囲網を狭めていました。
8月6日、同盟通信上海支局長の松本重治氏は、この保安隊に遭遇しています。
松本氏は、いつものように、夕刻、スコット路の北方二、三キロの道路を、
愛馬ポニーで走っていたら、
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
190〜191p
《 中国保安隊員数人がおのおの手榴弾二つを胸にかけ、剣附鉄砲で、
これより以北は、まかりならぬと指示した。
それではと、少し廻れ右しながら北方へ斜めに走らせようとすると、
また、保安隊員がいる。
上海北辺には保安隊が最近増加したとは聞いていたが、上海を包囲する
恰好で、包囲圏を圧縮しているという陣形の気配が明瞭に看取された。
私は、自分の乗馬による散歩通がだんだんと圧縮されたのに、多少は憤慨もしたが、
それよりも、今までは保安隊がいなかったのに、こんなところまでに、やってきたし、
その背後には中央軍が近接しつつあるものと感じ、すべては中国側の
対戦準備の一環ではないかと悟って、そのことをすぐ東京に打電した。》
と言っています。しかしながら、保安隊に遭遇したのは彼だけではありません。
当時、上海の海軍陸戦隊本部にいた小川貞二さんも南西の方で遭遇しています。
彼はサイドカー運転員に誘われて越界路をドライブしていたら、
《 突然、目の前に掘っ建て小屋が現れ、哨兵が小銃を構えて停止を求めました。
シマッタ。これは大変なことになったと思いました。
車も止めて極力冷静に落ち着きを装い、とっさの機転でメモを取り出しました。
「東亜同文書院 (大学) へ行く途中だが、どの方向か」
と筆談を試みました。
哨兵はなんら疑う様子もなく指差して、 「左の道を行け」
と指示してくれました。
ヤレヤレ助かった。・・・猛スピードで飛ばしてフランス租界に入り、
共同租界を経て虹口地区 (日本人居留地) へ入り安堵しました。
本部へ帰った後も知らん顔で、二人とも
「口外しない」 「他言しない」
と約束して別れました。 》
と
『正論』
2001年6月号の
「編集者へ」 に投稿され、
大山中尉の死には自分も関係があると述べられています。
つづく
これは メッセージ 1526 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1528.html
3月 樋口季一郎ユダヤ人救出に動く
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/18 15:16 投稿番号: [1527 / 2250]
1938年
(昭和13年)
3月8日、ハルビン特務機関長であった樋口季一郎のところに、
満洲里駅対岸に位置するソ連領オトポール駅に、ユダヤ人難民が姿を現したという、
報告が入った。
ラビ・M・トケイヤー著
『ユダヤ製国家日本』
加瀬英明訳
39p
《 満州にあったユダヤ人居留民組織であった、極東ハルビン・ユダヤ人協会の
幹部たちが、ハルビンにあった関東軍の特務機関の機関長であった樋口季一郎
少将
(当時)
と会って、オトポールのユダヤ難民を救うように、懇請した。
当時、ハルビン特務機関には将校や、下士官を始め一千人近い機関員がいた。
満州は日本の国防の第一線だった。》
40〜42p
《 日本人の大多数が、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害を、快く思っていなかった。
満鉄調査部が
『猶太
(ユダヤ)
問題時事報』
を定期的に発行して、
関係者に配布していたが、記事は一貫して、ユダヤ人に同情的なものだった。
一例をあげれば、 「独逸国民六千五百万ノ
一割ニモ満タヌ
在独逸猶太人
六十五万人ガ、優秀民族トシテ内外共ニ許ス
独逸民族ヲ、
圧倒デキル筈ガナイデハナイカ」
という、鋭い批判が行われている。
このように書いた満鉄の社員は、ナチスを見事に嘲
(あざけ)
っていた。
ドイツにおけるユダヤ人の人口は、百分の一にすぎなかった。
樋口は一九三七
(昭和十二)
年八月に、ハルビン特務機関長に任命されると、
満州に住むユダヤ人を助けて、翌年一月にハルビンの商工クラブで
第一回極東ユダヤ人大会を開かせた。
この大会には、満州だけではなく、香港や天津、上海などの中国大陸の各地や、
日本からも、ユダヤ人の代表が参集した。
安江大佐は樋口と陸軍士官学校の
同期生だったが、陸軍きってのユダヤ問題専門家だった。
安江は樋口を機関長とする特務機関にあって、樋口の同志として、ユダヤ人を援けた。
樋口はこの極東ユダヤ人大会に来賓として出席して祝辞を述べ、
「ユダヤ民族の祖国を建設しようとする熱意を、よく理解することができる」
といって、盛んな拍手を浴びた。
今日でも残っている写真を見ると、演壇に日満両国の国旗が飾られ、
背広の私服を着た樋口がユダヤ人指導者たちと並んでいる。
満州国を事実上、支配していた関東軍は、ユダヤ人難民の入境を拒むこともできた。
しかし、樋口はオトポールのユダヤ人難民を救う、決断を行った。
そして、樋口は軍人として当然のことだったが、
新京
(現在の長春)
に司令部を置いていた関東軍の参謀長だった東條英機中将に、
ユダヤ人難民の入国を許可するように求めた。
日本軍ではこのような案件は、軍司令官ではなく、参謀長が決裁した。
樋口は東條の同意を得て、満州国外交部(外務省)と折衝したうえで、
ユダヤ人難民を入境させる措置をとった。》
*
別の本やネットでは、樋口が独断でユダヤ人救出に動いた、
ともありますが、東條英機が承認したのは事実ですから、
先に許可を得たか、事後承認かは、問わない事にします。
これは メッセージ 1513 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1527.html
8月6日 中国 長期戦略を決める
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/17 14:07 投稿番号: [1526 / 2250]
日本が大幅に譲歩した和平案でもって、
これなら中国も応じてくれるだろうと甘い幻想を抱いていたころ、
中国は逆に戦争の準備をすすめていました。
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
264〜265pには
《 中国においては8月6日、第一回国防会議を開催し、
次のような対日方針を決定していた
長期抗戦ヲ原則トシ
北支那方面防備ノ為
其の主防禦線ヲ
保定 ― 滄州ノ線ニ、
第二線ヲ
彰徳 ― 済南ノ線ニ、
第三線ヲ
洛陽 ― 鄭州 ― 開封 ― 徐州 ― 淮陰ノ線ニ
選定シ
徹底的抗日戦ヲ 実施スル為
全般的ニハ
集団戦ヲ避ケ
消極戦ニ
終始スル如ク
各部門ニ亙
(わた)
リ
戦備ノ充実ヲ期ス 》
とあり。
児島襄著
『日中戦争4』
文春文庫
78〜79pには
《「勝倭の道」
「大敵に遇えば即退き、小敵に遇えば即戦う」
「対倭作戦」
「戦術でもって武器の不足を補う」
「戦術原則五項目」
一
要以 持久戦
消耗戦之決策
以 打破 敵人
速戦 即決 之 企図
ニ
要立 主動
敵攻我守
待 其気 衰力疲
我即 乗 出撃
三
要固守 陣地
堅忍不退
以 深溝 高塁 厚壁
粉砕 敵進攻
四
要利用 民力 地物
処処設穽防
従抗戦殺敵
五
要講求防制敵機
大砲戦車 毒気
之戦術
便其攻撃気効 》
とあります。
一、二は
「空間を以って時間に代える」
持久戦・消耗戦略で、
要するに奥地に引きずり込み疲弊させる、というもの。
二は、主動的立場に立ち、敵が攻めれば我は守り、
敵が疲れて其の気力の衰えるのを待ち、我乗り出して撃つ
三は、深い溝、高い防塁、厚い壁で以って敵の進攻を粉砕し、
陣地を固守し、絶対に退かない。
四は、民衆の力、地の利を利用し、罠を仕掛けてのゲリラ戦
五は、空襲、大砲、戦車、毒ガスへの対策
です。
つまり、三つの防御ラインと、長期戦を目的とした戦争方針を作っていたわけです。
この文書だけでは、戦争準備は8月6日から始まったかのように見えますが、
本当は、もっと早くから始めていました。
つづく
これは メッセージ 1504 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1526.html
3月8日 松本氏高宗武と和平を語る2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/17 13:58 投稿番号: [1525 / 2250]
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書 268〜269p
《 君も知っているように、日本の通信社には新聞聯合と
『電通』
があった。
第三の新しい同盟通信を作って、既存の両社を吸収合併したという現実の体験が
私にはある。通信社と政府とは、本質的に違うが、それに似た考え方は、
宗武、何か参考にならないかね。
『聯合』
は
『同盟』
に吸収合併されたが、
その錦の御旗ともいうべき、新聞社の連合体という性格をそのまま残し、
同時に、海外との無線発受の特権を独占したのが
『同盟』
だ。
実体は、第三の通信社ではなく、 『聯合』
の発展的解消なのだ。
もちろん政府の改組は、しんこ細工のように、容易に出来るものではないが、
改組にも、やり方はいろいろあるだろうが、
国民政府の歴史の上にも、一九三一年末のように前例があるのではないか?」
「シゲ、第三政府的な論議などは、だめだと思う。
だが、徹底抗戦から和平に切り換えれば、事実上、改組になることになる。
現に、国民政府内でも、いろいろな論議が行われているのは事実だ。
誰彼と、名前をいうことは、今はできないが、
『一致抗日』という金看板は降すわけにはいかないが、
内々に、和平の途を探求しようと考えているものもある」
「宗武、おそらく君もその一人だろうが、ほかに頼りになるような友人があるのかい?」
「まず、周仏海だな」「驚いたね。周さんは蒋介石の第二侍従室長じゃないかね」
「そのとおりだ。蒋が最も信頼している部下だ。
おまけに、彼は党の宣伝部長もやっているよ」
「そうかね。君はまだ亜洲司長をやってるのかね?」
「イヤ、やめたよ。蒋介石さんの諒解の下に、周仏海と話し合って、表面上は、
香港で日本の作戦情報を集める役目をやっているが、僕は、作戦以外の情報が欲しいのだ。
香港だけではだめなので、こっそりと上海まで来て君に会っているわけだ
二月中旬だったか、董(道寧)君と会ったよ。
君の指令で、彼が川越大使に会ったことは聞いたよ」
「董君には、君にも会うようにといっておいたのだよ。
だが、その後の董君の動静が判らない。
上海まで来たのは、一つは董君との連絡をとるためだったんだよ」。
そう聞くと、私は、ちょっと口をつぐんだ。
董君の訪日のことをここで話してしまうか、どうか迷った。
私は意を決して、「宗武、君の情報蒐集は、主として和平のためなのだろう?」
「もちろん、そうだよ」
「君が真剣に和平を考えているのなら、一つ話したいことがある。怒っちゃいけないよ」
「シゲちゃんが何をいったって、僕が怒るものかね」
「では、白状するが、董君は東京へ行ったのだ」
と話すと、
高君の顔面が急に緊張してきた。
私はつづいて、
西・董・私と三人協議のうえ董君を東京へ遣ったことを正確に話したうえ、
「董君が、東京へ行くことは高君の指令範囲外になると、彼自身少なからず躊躇していたが、
僕が責任をもって高司長に釈明するといって、決心させたのだ。
わるかったら、僕がお詫びをする。僕は、董君を東京へ遣ったこと自体は、
両国の和平のためのきっかけになると確信しているんだ。その点、董君が
帰ってきても、あまり叱らずにおいて欲しい。これは僕の頼みだよ」
と述べると、
高君は、「それで、判らぬことが、万事、氷解したよ。
僕だって、叱りやしないよ。しかし、帰りが遅いな」
「ウン、二月十五日ごろ発っていったのだから、もうそろそろ帰ってくるだろう。
帰ってきたら、君が待っているから、すぐ連絡するよう話そう」
「そうしてくれ給え。今日の君の話では、いろいろ、よからぬ既成事実が
出来上ってしまって、和平運動が、ますますむつかしくなるような感じだね」
「その点は、まさしくそのとおりだが、本当の和平運動が、
傀儡政府を通じてやれるものではないことは、明瞭だ。
案外、董君の報告が、われわれにも嬉しい吉報となるかも知れんよ」
「そうなればよいがねえ。とにかく、上海逗留を延そう」
「また、会えるといいがね」
と長談義を終った。》
これは メッセージ 1523 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1525.html
8月6日 やっと漢口引揚げを発令
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/16 18:53 投稿番号: [1524 / 2250]
戦史叢書
『中国方面海軍作戦〈1〉』
299p
《 漢口では五日
22:00
ころから、中国側が日本租界への交通及び電話を遮断し、
六日零時ころから租界周囲全線の土のう陣地に兵力を増強した。
一方第十一戦隊司令官は、同夜在漢口艦船部隊に戦闘配備に就き
警戒を至厳にすべき旨下命した。
戦闘配備に就いた陸戦隊漢口分遣隊は六日零時から内線の土のう構築を開始した。
かくて近々数十米を隔てて、両軍対峙の状態となり、
正に一触即発の危機迫るの感があった。
六日朝から中国空軍機が編隊で錨地及び租界上空を低空航過して、
夕方までに郊外飛行場に集結した飛行機数二一に及んだ。
このように情勢険悪となったにもかかわらず、
松平総領事代理が依然自由引揚げ以上の措置に出なかったので、
居留民代表は六日
12:00 、同総領事代理に引揚げの発令を迫り、
もし
24:00
までに発令のないときは民団は自由行動に出るべき旨申し入れた。
また漢口に来ていた田中宜昌領事も全面的引揚げの不可避を説いたので、
同総領事代理は
21:00
に至り、全面引揚げを発令した。
谷本司令官は六日、 23:00 、漢口総引揚げに関し海軍中央部、第三艦隊あて、次のように報告した。
(1)
外務大臣ノ回訓ニ基キ
漢口総僚事代理ハ
本六日夕刻
在留邦人全部ニ
引揚ヲ命ゼリ。
(2)
在留邦人ハ
八月七日午後五時迄ニ
全部(約千名)ヲ
日清汽船鳳陽九、
信陽丸ニ収容セシメ、 勢多、 比良ヲシテ護衛シ、 急遽上海ニ下江セシム。
(3)
特別陸戦隊ハ
七日深更、 八重山、 栂、 栗ニ収容シ
八日未明漢口発
下江ノ予定。
(4)
総領事代理ハ
後始末ノ為 残留シ、 重慶、 宜昌、 長沙領事ハ
行動ヲ共ニスル予定。 之ガ収容ノ為
岳陽丸ヲ停船ノ筈。
外務官憲は揚子江流域の我が居留民全面引揚げ発令に先立ち、
漢口に日清汽船信陽丸、鳳陽丸、岳陽丸を、九江に瑞陽丸を、蕪湖に襄陽丸を、
南京に洛陽丸、大貞丸を、それぞれ停船若しくは臨時回航させ配備していた。》
つづく
これは メッセージ 1522 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1524.html
3月8日 松本氏、高宗武と和平を語る1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/16 18:47 投稿番号: [1523 / 2250]
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
266〜268p
《 三日ほど経ってから、高宗武からの電話で、同じ仏租界の空家然たる家で、
四時ごろからふたたび会談した。董君は、東京から上海へはまだ帰っていなかった。
高君は、 「このあいだは、久しぶりで、愉しかったよ。
君の話で、東京の情勢が手にとるように判ったように思う。
そこで、では、これから中国側はどうしたらよいかということを、僕も考えたいのだ。
が、参考のために、ぜひ君の意見を聴きたいね」
という。
「中国側がどうしたらよいのかを僕に尋ねたって、
こちらは、意味のあるような返答なんかはあり得ないじゃないか。
中国側は
『徹底抗戦』
を呼号し、また実行しているじゃないかね。
南京が陥落したって、蒋介石はへこたれるような人間ではないし、
初めから長期抗戦はこれを計画していることだし、……」
と話し出すと、高君は、遮るように、いった。
「軍人は戦争が商売だからいいが、外交官である僕は、呑気に考えてはいられないのだ。
戦争が長期化し、拡大すれば、両国とも、消耗がひどいに定っているし、
戦禍は、主として中国民衆が被害者になるのだよ。
僕としては、何とかして和平の方向に両国を向けねばならんと考えているのだ。
それで、しつこいようだが、君の意見を尋ねているんだ」
と、熱を籠めていう。
私が、高君の顔をじいっと眺めていると、たんなる情報集めをやりに来たのではなく、
「通郵問題」
以来、高君が日中関係のために挺身してきた姿勢が、
今日までも続けられているように思え、国境を越え、戦争の真最中でも、
友人たるに変りはないという感じを得た。
「宗武、僕が一介の新聞記者であり、政府や軍部の代弁者でないことは、
君の知っているとおりだ。常識から考えても、戦争はよくないよ。
ことにこんどの日中戦争は、よろしくない。
日本の国民は、 『何々占領』
とか
『何々陥落』
とかいって、捷報続きで、
酔いしれている。中国国民の多くの人々が、悲惨な戦禍を被っている。
戦線が前進拡大するたびに、占領区域は、その実質はともかく、拡がっていく。
上海・南京区域には、今月末にも
『維新政府』
なるものが、出来上りそうだ。
こういう既成事実が続々と出来るので、
国民政府との和平が、いよいよ困難になってきている。
一月十六日の声明だって、その既成事実をますます強化する方向に向っている。
中国のナショナリズムを評価しているものの一人として、
僕は、こういう傀儡政権と日本が国交を調整しようとしたって、
全くのノン・センスだと思っている。
ノン・センスではあるが、傀儡政椎だって、それぞれ一つの歴然たる既成事実なのだ。
一日も早く和平をもたらすためには、国民政府を改組するか、
あるいは形式的にでもこれらの傀儡政権を吸収合併し得るような第三政府
というようなものをでも考えざるを得ないと思う。
つづく
*
松本氏は占領区に造った臨時政府を傀儡政権として批判しているが、
こういう見方は住民の事を忘れている。
軍も行政官も逃げて、そこには中国の行政がない。
誰が行政を担当するのか?
日本軍に、直接統治をしろと言うのか?
日本が侵略するつもりならやっただろう。
しかし、日本には侵略の意図はない。 だから、住民に自治をやらせた。
それを傀儡で愚劣と言う。 ならば日本領にして行政官を送り込めと言うのか?
口先だけのキレイ事を言うのは簡単だが、住民の立場を忘れてはいないか。
そういう単純な発想が、結局は、中国の詭弁に利用されてしまう。
これは メッセージ 1521 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1523.html
漢口情勢の険悪化
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/15 18:45 投稿番号: [1522 / 2250]
戦史叢書
『中国方面海軍作戦〈1〉』
301p
《「鳥羽」 (艦長
久保田智中佐)
は、第十一戦隊司令官の命により、
三十一日漢口発、翌八月一日夜蕪湖に到着した。
三日までは平静であったが、四日、各種抗日後援会が組織された。》
296p
《 八月三日、漢口では日本人使用の中国人に対する圧迫が加わり、
日本人経営の工場は中国人職工の欠勤で就業不能となり、
また日清汽船の中国人船長は乗船を拒み、
武昌では学生の抗日運動が激化した。
軍隊の移動、陣地構築、建築物の対空迷彩などと相まって
漢口は元より流域各地の全面的引揚げは、もはや時間の問題となった。
三日の見通しでは、漢口の任意引揚げは、日清汽船便により八日までに終わる見込みで、
後男子約五〇〇名が残留のこととなった。
このように既に漢口では引揚げ準備に多忙を極めていたので、
当時既に開始された漢口上流各地居留民の引揚げは上海直航のこととなった。》
299p
《 漢口では五日 22:00 ころから、中国側が日本租界への交通及び電話を遮断し、
六日零時ころから租界周囲全線の土のう陣地に兵力を増強した。》
つづく
これは メッセージ 1520 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1522.html
3月5日 松本氏、高宗武と和平を語る2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/15 18:41 投稿番号: [1521 / 2250]
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
264〜266p
《「もちろん、読んだよ。 国民政府は対手にしないで、日本と
『真に提携するに足る新興
「支那」
政権の成立発展を期待』
する
というのは、中国のためにも、日本のためにも、いただけないね」
「全くそのとおりだ。冀東政権も、冀察政権も日本の軍の力で作り、
また軍の力でつぶしてしまった。昨年末、北平に出来た
『臨時政府』
だって、
日本が
『真に提携するに足る』
ものに発展すると期待するのが、おかしい。
王克敏だって、娘を君にやろうとまでいって、君の将来を見抜く洞察力をもっている。
その王克敏が傀儡政権でない、それ以上のものを構想しているとすれば、
複雑な事情があることは想像できるが、結局、無理な、できない話だとしか考えられない。
軍部が、被占領地域の行政をやるために、
中国人を狩り出して自治委員会とか、何とか政権とかを作らせ、
青天白日旗の代りに五色旗を復活掲揚せしめたりしても、
所詮、うまくゆかないに定っている。
占領軍たる日本軍が強力な支持を与えても、新政権の発展は、本質において、
中国民族主義
(ナショナリズム)
の昂揚を無視するもので、歴史に逆行するのではないか。
私の忖度
(そんたく)
ではあるが、一月十六日の声明は、
北平からの要望に対し誤って応えたものだと思われる節がある。
昨年末、上海で特務機関をやっている塩沢
(清宜)
陸軍大佐が私のアパートに来て、
私に語ったところによれば、日本がトラウトマンの仲介に飛びついたり、
国民政府との直接交渉を期待する限り、王克敏の周りには有力な人が集まらない。
いつ逆賊にされるか判らぬからだ、と王克敏がこぼしている、と聞いたよ。
『そこで、僕
(塩沢)
は東京に行って、蒋介石政権との一切の交渉関係を断たせてくる。
そうすれば、王克敏だって、しゃんとなるだろうと思う』
といっていた。
私は、塩沢大佐に対し、 『王克敏のいっていることはほんとうに違いないが、
蒋介石政権との交渉関係を断てば、それで、すぐさま王克敏の政権が
中国人民の眼に堂々たる政権として映るようにはなりそうにはないと心配しているよ』
というと、 『軍は大幅の権力を王克敏政権に与えてあるし、蒋と絶縁すれば、
自然、中国の人材が集まるに定っている。君の心配もさることながら、
のるかそるか判らぬが、やってみる決心だよ』
といって東京へ発って行った。
その後三週間ほど経つと、例の声明となってしまった。
僕も声明の全文を幾度か読み直し、塩沢大佐の話を思い合せると、
北平の中華民国臨時政府に対し、日本政府が、期待すべからざる期待を寄せたために、
あの声明となったとしか考えられない。
私の考えたとおり、あれから一カ月半、北平では、これというほどの進展はないようだ。
当り前のことだ。そうなれば、考え直さなければならぬのは、東京であり、
近衛総理だということになる。
だから、半年か一年も経たぬうちに、北平への配慮から全局の把握を失ったという、
誤った考え方への反省が、聡明な近衛さんには起ってくるのではないか。
しかし、それが政府の国策としての転換となるには、
今すぐにはいかず、数カ月を要するだろう」
と高君に説明した。
「シゲちゃん、実によく判るよ。もっと話を続けたいが、ここは寒々とした部屋で、
もう二時間も二人で坐っているので、お互いに風邪を引いたらだめだ。
また、三、四日したら電話をかけるから、僕が香港に帰るまでに、
いま一度会いたいね」 「よかろう」といって、別れた。》
つづく
*
松本氏の言葉に
「冀察政権も日本の軍の力で作り」
とあるが、
これは松本氏の勘違い。
「冀察政権」
は中国南京政府が創ったもの。
日本側が宋哲元に働きかけていたので、中国側が先手を打って作り、
宋哲元をトップに据えた。
これは メッセージ 1519 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1521.html
引揚げに反対する漢口総領事代理
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/14 18:52 投稿番号: [1520 / 2250]
これまでの
「引揚げ」
は漢口より上流のものでして、
漢口より下流はまだ決まっていませんでした。
そのため、長沙の高井領事代理もグズったわけですが、漢口もモメる事になります。
戦史叢書
『中国方面海軍作戦〈1〉』
293p
《 七月二十九日午後、第十一戦隊参謀安藤憲栄少佐は、
松平忠久漢口総領事代理に漢口在留居留民婦女子の引揚げ促進を申し入れた。
同総領事代理はまだその時機にあらず任意引揚げの程度でよいと力説し、
更に次の所見を述べた。
一
今回の漢口での日本海軍の戦備は、
かえって中国側及び在留居留民を刺激し危倶の念を与えた。
二
中国側は、北支事態が万一拡大しても、漢口在留居留民の生命、財産の
安全保障を確言しており、事変勃発以来、事故 (窃盗逮捕、交通事故など) の
解決が敏速となったのはその例証であり、
日本海軍が警泊しおるための効果ではない。
何成濬の威令はよく行われ、安全と認める。
三
要するに平戦両時を通じ、日本海軍
(注
日本海軍とは第十一戦隊及び陸戦隊なりやとただしたところしかりと答えた)
は駐屯しない方が、かえって安全であり、
当地有識者及び一般民衆が等しく感じおるところで、
また揚子江各地領事の総意でもある。》
*
この他にも、いろんな交渉がありますが、
漢字カタカナ混じりの文は読みづらいので省略します。
*
ここで注目すべきは、松平総領事代理の考え方です。
彼は、
1、日本海軍の戦備は中国側を刺激する。
2、中国側は、日本人居留民の生命、財産の安全を保障している。
3、日本海軍が駐屯しない方が、かえって安全
と言っています。これは今の平和主義者と全く同じ発想です。
それを、総領事代理が、海軍の指揮官に面と向かって言っているわけです。
総領事代理が、海軍の指揮官に侮辱的発言をしたからといって、
仕返しをされるわけでもありません。
これが戦前だったのです。
つづく
これは メッセージ 1518 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1520.html
Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ
[検索ページ]
(中東)
(東亜)
(捕鯨 / 捕鯨詳細)