韓カテ資料室
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全教組VS自由主義連帯
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/29 22:14 投稿番号: [277 / 1474]
全教組は毀損される名誉がまだ残っているのか?
[ 自由主義連帯 / 2006-07-28 ]
ニューライト・ドット・コム
客員コラム
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr06000&num=1859
(翻訳)
全教組は、7月27日付けで自由主義連帯代表(シン・ジホ)、自由主義教育運動連合常任代表(チョ・ジョンヒョク)、自由教員組合委員長(イ・ピョンギ)を検察に告発した。自由主義連帯などの記者会見や告発が虚偽事実の流布であり、全教組の名誉を毀損したというのだ。
周知のごとく、この間、全教組は43人の組職候補を選定して、全教組の機関紙である「教育希望」に彼らの写真と履歴、出馬の弁を掲載し、これを組合員に配布する一方、インターネット・ホームページを通じて不特定多数に伝えた。 このような行為は一見当然のことのように見えるが、明白に現行法に違反する。 現行法上、教育委員の選挙運動はただ3種の方法(選挙公報、所見発表会、言論機関などの招請対談・討論会)に限られ、しかも選挙運動期間(7/22~30)に限定されているからだ。
すなわち選挙運動期間以前にはどんな行為もできず、選挙期間中でも、有権者に電話をかけるとか訪問して名刺を渡す行為さえ許容されないのだ。従って、このように選挙運動が制限された状況で、全教組が、例えその会員に対してであっても、「組職候補」として一ヶ月前ぐらい前から名簿を明らかにして、機関紙に組職候補の名簿と履歴などを紹介したことは、明白な事前不法選挙運動に当たるというのが大多数の法律専門家の指摘だ。
従って、自由主義連帯などは、全教組の組織的選挙運動が不法であることを発表する記者会見を開き(7/13)、続いて中央選管委に対して、このような全教組の組織的行動が不法なのかについて有権解釈を依頼し(7/20)、不法な全教組の組職候補全員が候補登録を強行するや(7/21)、全教組を検察に告発するに至ったのだ(7/25)。
それなのに、全教組は、この間の法律無視の行動を反省するどころか、虚偽の事実まで流布しながら検察に告訴し、居直り反駁の典型を見せている。全教組釜山支部の「統一学校事件」などで窮地に追い込まれたあげく吐き出す毒気とでも言うべきか。
私たちは全教組が確かめたという「中央選挙管理委員会の有権解釈」とはどういうものか、問わざるを得ない。なぜ私たちが告発の前に記者会見をした時に、中央選管委の有権解釈を公開して全教組の活動が合法であることを堂々と明らかにしなかったのか? もしそういう有権解釈があるのなら、今でも直ちに公開することを要求する。
結局、私たちの問題提起が虚偽事実の流布なのかどうかは、中央選管委の有権解釈と検察の調査結果を通じてはっきりと明かされることだから、今は、全教組が、釜山支部の「統一学校」講義資料に驚いた国民に謝罪して解明することに力をつくす時であることを肝に銘じてほしい。
2006年 7月 28日
自由主義連帯
これは メッセージ 1 (justina_eto さん)への返信です.
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朴枝香教授インタビュー(8)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/29 14:32 投稿番号: [276 / 1474]
『青少年版
解放前後史の再認識』を作る
朴枝香ソウル大学教授インタビュー(下)
『解放前後史の再認識』、韓国近.現代史についての真摯な討論引き出す
[ニューライト・ドット・コム編集部 / 2006-05-16 ]
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr02000&num=1566
(翻訳8)
○歴史は「偶然」と「構造」の出会い
(問) 左派的歴史解釈は真理独占主義に陥るようですね。
歴史は総合的な流れとして見なければならないと思います。マルクス主義では巨大な構造がなければならないと考えますが、私はそうは思いません。巨大な構造が歴史的に作用する時もありますが、個人のちょっとした動機が歴史の巨大な流れを変えることもあります。代表的なものが、イギリスの宗教改革だと言えます。 イギリスのヘンリー8世は、離婚をして息子を得るために宗教改革をしたのではないですか? それはつまらない動機ですが、その結果、イギリスが新教国家になって以後、歴史におびただしい影響を及ぼすようになります。本当に重要な、歴史的転機になった事件です。 歴史はすべてのものに開かれた思考を持たなければなりません。マルクス主義史観では理解ができないのです。
(問) マルクス主義が何か明快に言ってくれるように見えますが、私もある時期からそれを信じなくなりました。 例えば元帝国の建設も、チンギスハーン個人の個性が強かったのだと見ますが。
そうですよ。遊牧民に帝国という概念はあり得ません。チンギスハーンのことを大帝国を建設した目的的人間だと判断せずに、個人の欲望や独特の環境、そういったことを総合的に見なければなりません。それを構造の中に入れることは歪曲だと思います。もちろん、時には構造が重要です。フランス革命は構造の中から出てきました。しかし、すべてのものがそうではないのです。マルクス主義はそういう風にばかり見ますが、それはそれでまた一つの偶像を作ることになります。
(問) マルクス主義の図式性と単純さのため、それを学問的に利用する人々がたくさんいます。
マルクス主義史学は、第2次大戦後のヨーロッパでこの上なく大きな影響力を振るいましたが、1980年代に入って、ポストモダニズムがそういう虚像を壊してくれました。マルクス主義者たちは歴史を図式的に見ますが、歴史と言うものはそうではないです。歴史には偶然の要素がすごく多いです。ポストモダニズムは、歴史において、つまらない要素にも重要なものがあるという事実を教えてくれました。
○歴史に「個人」を見つけたサッチャー、イギリスの歴史を変える
(問) キパラン出版社から新刊を準備していると聞きましたが。
英国史の制度的な面や政治的な側面を書いた本があります。その本の副題は、保守と改革のドラマでして、制度については書きましたが、人々の情緒とか文化的な側面は扱うことができなかったです。それを補うために、今度は文化的な面を主に扱いました。「イギリス人の国民性は何か」について書いた本です。私が専攻した英国史に対しては強い愛着があります。 イギリスは多くの国の中の一つというより、多くの面で模範になるに値する歴史を持った国だからです。資本主義、議会民主主義のように私たちが日常経験している制度は、ほとんど皆イギリスで始まったでしょう? 新しいことが始まる時にはすごい葛藤が生じるのに、血の対決を呼ばなかったのは何故なのか、があります。イギリスの歴史を良く知らなければなりません。イギリス史を知らせることを使命と思っています。残念ながら、我が国の人々は「イギリス史はつまらない」と思うようですが。
(問) 私も運動圏時代に、急進性のない英国史はつまらないと思いました。
ダイナミックなものがないと言うのは、それは事実ではないです。市民社会と言えばフランスと言う印象ですが、それはイギリスから来ました。韓国人は、イギリスの漸進的民主革命の過程はよく知らないで、ロシア、フランスの革命に魅力を感じますが、これは間違いです。血を流さずに革命を成功に導いて来たイギリスの歴史を知らせることに、使命感を感じています。
(続く)
これは メッセージ 275 (chaamiey さん)への返信です.
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朴枝香教授インタビュー(7)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/28 23:43 投稿番号: [275 / 1474]
『青少年版
解放前後史の再認識』を作る
朴枝香ソウル大学教授インタビュー(下)
『解放前後史の再認識』、韓国近.現代史についての真摯な討論引き出す
[ニューライト・ドット・コム編集部 / 2006-05-16 ]
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr02000&num=1566
(翻訳7)
○理想主義者から現実主義者への変身
(問) 民族主義に対する問題意識は、いつ、どんなふうに持つようになったのですか?
私も民族主義者でした。高等学校の時から社会に対する関心が高かったんですよ。 私は京畿女子高を出ましたが、環境に恵まれた子供達がたくさんいました。環境が良くて課外をたくさん受ける学生もいたんです。私はけっこう貧しい生活でしたが、そのように課外をたくさん受ける人たちとの距離感を感じたんです。そんな訳で、どうしてこのようになるのかという批判意識がかなり強かったんです。高等学校の時から私たちの社会が公正ではないと思って、社会批判的な思考をたくさん持ちました。運動圏の言葉に説得力を感じたりしたんです。私も相当過激でした。アメリカ留学の時、レーガン大統領はとても嫌いでした。 それでアメリカをえらく強く批判するので、アメリカ人の友達から変に思われたりしました。
アメリカ人の友人たちから、「アメリカからお金をもらって勉強しながら、どうしてそんなにアメリカが嫌いなのか」と良く言われました。ところでアメリカ体験を続けて見ると、歴史上アメリカほど正義のある国はないということを認めるに至りました。理想主義的観点から見れば不足はありますが、アメリカのように欠点の少ないスーパーパワーはなかったです。19世紀のイギリスや古代ローマ、スペインなどはそうだったでしょうか? そんな国ではなかったです。
そういう具合に、アメリカの長所を見るようになったんです。国家の品格などを客観的に見るようになりました。現実主義的な接近をするようになったんです。理想主義的な判断ではなく現実主義的な立場で見た時、韓国はけっこう良くやっているということも、同時に悟るようになりました。大部分の発展途上国と比べて見れば、1945年以後の韓国の歴史は、望ましく、よくやって来たのです。
(問) 史学をする人々が理想主義的観点を持つようになったら、どんな危険がありますか?
史学をする人々が理想主義的観点を持つようになれば、その時代のありのままの真実を伝達するのに障害が発生します。危ないですね。哲人、道徳君子、芸術家ならそういう観点を持っても良いですが、歴史学者なら徹底的に現実主義的観点を持たなければなりません。ところが、不幸にも、そういう理想主義性向を持っている人が多く史学を志望するんです。
(問) 史学で過去の史料を見る時、推理力みたいなものが必要でしょうか? 史料がすべてのことを語ると言いますが、史料が政治的な考慮や作成者の意図によって歪曲される可能性も分かっていますよ。
史料というものが歪曲されることがあるという考え方は、近来できたのです。以前には「史料は絶対的なものだ」と受け入れられました。ところでこれがポストモダニズムの影響で「史料もテキストだ」、このようになったのです。そうすると、「真理はあるのか?」という疑点が生じます。私は、「絶対的真理はない」と思います。すると「この人の言葉は信じられるか」という問題が残ります。 私は、歴史家であるなら最大限の多くの史料を用いて歴史を再構成して、これを他人が理解して信じることができるようにすることが重要だと思います。歴史家の使命だと思うのです。史料をできるだけ多く集め、論理整然と人を説得することができるように歴史を再構成すること、これで満足しなければなりません。だから、特定の歴史解釈に対して、「これだけが正しくて、あれは違う」、そう言ってはいけないです。 私は、そんな現象は、願望が大きくなってそうなるのだと見ます。
(続く)
これは メッセージ 274 (chaamiey さん)への返信です.
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朴枝香教授インタビュー(6)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/27 22:18 投稿番号: [274 / 1474]
『青少年版
解放前後史の再認識』を作る
朴枝香ソウル大学教授インタビュー(下)
『解放前後史の再認識』、韓国近.現代史についての真摯な討論引き出す
[ニューライト・ドット・コム編集部 / 2006-05-16 ]
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr02000&num=1566
(翻訳6)
(問) ハンギョレ21に載ったハン・ホング教授の「現代史は勉強するな、怪我をする!」という文を見ましたか?
ハン教授は、私が、「血が逆流した」と言うノ・ムヒョン大統領の言葉を引用したことを歪曲だと批判していますが、もちろん間違いではありますが大きな間違いではないと思います。私は、歴史を見る時、額面そのままに囚われる機械的実証主義者ではないです。青瓦台は、ノ・ムヒョン大統領本人が「血が逆流するように感じた」とは言わなかったと言いますが、前後の脈絡で見れば別に差がない言葉です。歴史研究は行間を捜し出すことであるだけに、大きな間違いであったとは思わないです。
(問) ハン教授の文は、正面から学問的に批判するものではないと思います。本格的な理論論争だと見るのは困難ですね。 一方では、意気盛んだった人々がこの本を通じて、感じる点があるようです。
ハン教授も、『再認識』に掲載された諸論文は「軽く見るべきではない論文」であり、「真摯な討論の対象にならなければならない。」と書いています。認められているわけで、本当に幸いなことだと思います。ソ・チュンソク教授などは、価値がないと断定されますが、一歩前進だと思います。若い世代の人たちが学問的に受け入れること自体が、一歩進んだことだと思います。
○検証されない神話
白凡金九
(問) 尊敬する人物は誰かと尋ねれば、政治家の70〜80%が金九と答えますが、率直に言って、白凡逸志を読んだ上でキム・ク神話を語っているのか怪しいです。
私は、対談で、金九先生が大統領になったらどうだったろうかと考えて見れば、背筋がぞっとすると言います。 キム・ク先生は立派な方ではありますが、現実の政治は冷酷であるのに、キム・ク式で無条件に団結しようと言うのはかなり危ない発想ですね。金日成に会いに行く前に悟ったようですが、とにかく、生きていらっしゃったとすれば、後半期はなかなかうまく行かなかったはずです。亡くなられたために神話が残ったのです。
(問) 『悲しいアイルランド』(セムルギョル, 2002)、『作られた伝統』(ヒューマニスト, 2004)、『英雄作り』(ヒューマニスト, 2005)、『歪んだ近代』(プルンヨックサ, 2003)などの著書を通じて伝えようとされるメッセージは何ですか?
私たちの民族主義の虚像を壊して見ようという話をしたかったのです。『悲しいアイルランド』はアイルランドの民族主義を分析したもので、『作られた伝統』は訳書ですが、同じように、国々の作り上げた神話がどれほど虚構であるのかを示しました。『歪んだ近代』も同じです。国家と民族を取り囲んだ神話を壊してしまおうということが目的だったわけです。
「民族と国家を壊せば何が残るのか? 個人が残る。」、そういう意味で、私は徹底的な自由主義者です。 個人が自分の生を開拓して行く側面が、歴史において無視されて来たということです。国家でも同じですね。一方、個人は誤りに対して自分のせいだとは言いません。状況、環境、他人に責任を転嫁しようと思いますが、これは間違いだと思うのですよ。私たちは19世紀以後、辛い経験をしましたが、それを自分のせいではなく他人のせいだと言っています。はじめから「周辺の暴悪な隣人と地政学的な事情のためだ。」というふうに歴史を見ますが、もうそれ位にして、視線を自分に当てて見ようというのが私の考えです。 民族と国家の神話を壊してみようというのが、私の考えです。個人を少し捜そう、本を通じてそういうメッセージを伝えようとしたのです。
(続く)
これは メッセージ 273 (chaamiey さん)への返信です.
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朴枝香教授インタビュー(5)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/26 20:14 投稿番号: [273 / 1474]
『解放前後史の認識』は「学問」ではなく「政治宣言文」
朴枝香ソウル大学教授インタビュー(上)〜歴史とはありのままを理解すること
[ 編集部 / 2006-05-16 09:41 ]
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr02000&num=1565
(翻訳その5)
(問) 過去史に関する多くの組織があって、原則的に補償はないと言いますが、金大中政府時代に作られた民主化運動補償委員会を通じて補償が行われています。
日帝下の徴兵の場合にも、一人当たり1000万ウォン程度の補償をしようと言うことでしたね。予算は上程されましたが、まだお金は用意されなかったらしいです。政治的な取り引きになってしまって、これは歴史をきちんと把握しようというものではないです。歴史を正すというのではなく、政治的に利用することです。
(問) 過去史を暴くことは李承晩、朴正煕時代を主な対象にしていますが、この時代は本当に汚辱の歴史だったのでしょうか? そんな仮説に対してはどう思いますか?
『解放前後史の再認識』では朴正煕時代を扱っていません。一応、1959年までです。最近、新たに1950年代に対する再評価が出て来ましたが、これまでは、暗鬱で停滞したという否定的評価が大部分でした。先日、インターネット書店yes24がこの本の主張に対してアンケート調査をしたところ、69%が「新しい時代に合った歴史認識だ」として「共感する」と評価し、わずか8%だけは「違う」と言う評価でした。「一番共感する主題は何か」との質問には、親日問題について60%が「本で言っていることが正しい」とのことでした。
○歴史はある一人に責任を負わせることはできない
でも、李承晩の評価については47%だけが同意して、半数以上が否定的なイメージを強く持っていますね。私たちの本では、これまで知られなかったことを紹介しています。李承晩の功績と過誤を評価しなければならないのに、功は認めず過誤だけ強調して来たでしょう? 李承晩には3つの功があります。一つは農地改革、二番目は韓米相互防衛条約、三番目が工業化基盤整備です。ところで、なぜ人々は李承晩に対して否定的なのでしょうか? 単独政府論を一番先に主張した人だからそうなのでしょうが、これが左派の宣伝ポイントだったし、(ほんやくできない)です。判断(?)というものが李承晩一人の声でできたでしょうか? 李承晩一人に責任を問うことはできません。ソ連のスターリンは、すでに1945年9月20日、ソ・グンジョンに北朝鮮地域に単独政府を樹立するよう命令を下しました。我が国の国民にはまだ知られていませんね。
(問) 過去史機構が人革党、南民戦事件などを調査して発表するのに、基本的に南北関係が変化した今の視点で評価しています。そんな評価のやり方は、学問的にどう見ることができますか?
歴史と言うものは、その時代に立ち返りその時代の観点で見なければなりませんから、現代の観点で見ることは誤った歴史的観点だと言えます。例えば帝国主義は、21世紀の観点で見ればはっきりと悪と言えます。でも、悪いという現在の視点だけで複雑な帝国主義社会について判断しようとすれば、具体的な理解に到逹しにくいです。
正しい判断をする歴史家なら、帝国主義というものが、その時代にいかにして支配的位置を占めることになったのかと言うことに対して理解をしなければならないわけです。その状況で、人々が何を思い行動したのかを理解しなければならないのですよ。
インタビュー (下)に続く
これは メッセージ 272 (chaamiey さん)への返信です.
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朴枝香教授インタビュー(4)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/25 20:43 投稿番号: [272 / 1474]
『解放前後史の認識』は「学問」ではなく「政治宣言文」
朴枝香ソウル大学教授インタビュー(上)〜歴史とはありのままを理解すること
[ 編集部 / 2006-05-16 09:41 ]
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr02000&num=1565
(翻訳その4)
我が国でこんなに民族主義が強い理由は、第一に植民地経験で、もう一つは、分断が解決されなかったからです。それで民族主義が圧倒的に強かったのです。植民地経験問題は、かなり解決されたと思います。我が国の若者たちは、植民地経験、日本に対して客観的に見て気にしないようになっていると感じます。私は、学生たちに、「君逹が日本の子どもたちよりましだ。」と言います。「英語も日本の学生たちより上手で偉い」とかですね。 でも、恨みを晴らすことができない人々がまだいて、それを政治が悪用しているのです。
問題は、解決されない分断状況が我が国社会に民族主義の猛威をふるわせるという点です。危険な状況ですよ。民族主義というのは世界的にはもう過去のものです。全世界的に終わりを迎えたイデオロギーである民族主義に、私たちはいつまで執着しなければならないのでしょうか……。
○私たちはすでに多民族国家、「開かれた民族主義」が代案
(問) 民族主義が韓国であまりに強いので、「開かれた民族主義」という用語を使用し、ある程度認めながら行こうという主張もありますね?
分断という特殊な状況のため、ある程度は理解ができます。民族主義を軟着陸させようという現実的立場から、民族主義の肯定的変化を誘導しようと開かれた民族主義は、意味があると思います。血で結ばれた血縁共同体、こんな民族主義は脱け出して、自発的な共同体、誰でも自分が願えば大韓民国の国民になることができる民族主義に進まなければなりません。こんな雰囲気は、すでに我が社会でかなり進んでいるようです。農林漁業に携わる男性の国際結婚の割合が35.9%にのぼり、ハインスワードの事例もありますね。私たちは、すでに多民族国家に進んでいます。 民族主義を担って行かなければならないとするなら、開かれた民族主義が適当だと思います。
(問) 教授がおっしゃる民族主義なら、それはもう民族主義ではないようですが?
世界的に見て、民族主義を同じ血を分けた、同じ先祖に仕える血縁共同体と定義する国家はないです。90%を越えるほとんどすべての国々が、多民族国家です。最近、民族という概念は、自発的な市民たちが作り上げるものですね。こんな主題で浦項工科大で講演をした事がありますが、学生たちは、そういう「民族」の定義は初めて聞いたと言いましたね。私たちの教科書は血縁中心に教えますが、実際には世界の普遍的認識とへだたりがあるのです。
○お金で償う歴史清算、政治的利用に過ぎない
(問)元々、過去史問題が出た時、「これは学界に任せるべきもの、どうして国家が介入するか」など、現政府の過去史再評価に対してさまざまな反論がありました。現在、いろんな委員会も動いていますが、簡単に評価をしてください。
私たちは歴史について、よく知らないのです。一度、良く知る必要があります。すべての力を稼動させて知る必要があります。このような作業が必要です。このような作業が行われない中で、ただ清算からしようということでお金が介入してくれば、ちゃんとできるわけがありません。決して清算になりません。どこの国がこういったことをお金で補償をしますか? 事実を明確にして謝罪はできるとしても、金銭的に補償をするということはおかしなことです。
(続く)
これは メッセージ 271 (chaamiey さん)への返信です.
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朴枝香教授インタビュー(3)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/25 16:18 投稿番号: [271 / 1474]
『解放前後史の認識』は「学問」ではなく「政治宣言文」
朴枝香ソウル大学教授インタビュー(上)〜歴史とはありのままを理解すること
[ 編集部 / 2006-05-16 09:41 ]
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr02000&num=1565
(翻訳その3)
(問)「ニューライト版・再認識」という批評に対しては、どう思いますか?
ある新聞に「ニューライト版解前史」が出たという記事が掲載されたので不要な論議が起きましたが、「再認識」に収録された約30編の論文の著者は、多様な理念スペクトラムを持っていたり、脱理念を好む方々もいるから、ニューライトというフレームで縛ることは単純化し過ぎです。インターネット書店yes24の購買者アンケートによれば、敍述の観点が右派的だという答は34%で、44%が「左でも右でもない」と回答しました。私自身も、ニューライトと定義したくはないです。レッテルを付けないのです。ホン委員長さんのように運動をする人もいますが、学者の立場でも社会的イシューに対して発言することができると思います。ただ 「ニュー・ライト」というレッテルを、学者の立場で担いたくはないです。
○80余名の左派学者たち、大反撃を準備中
(問) 「ニューライト」という言葉があんまり広く使われているので、そんな場合が生ずるようです。最近になって、何か新しい傾向が現われれば「ニューライトだ」と定義することも多いです。特に言論の場合、多層を相手にするため、単純化させようとする傾向があります。ところで、韓国学の専攻者が編集委員の中には見えないですが?
私は、韓国学の方が代表になった方が良いのではないかと思いました。しかし、むしろ、他の方々が、「外部からの衝撃が必要な時であり、韓国史を全然知らない人なら問題だが、朴教授は『歪んだ近代』という韓国史関連の本も書いているし、外にも論文があるから、韓国史を理解して書く人が効果的に仕事ができる」と言うので、私が代表をするようになりました。本が出た後、ソ・チュンソク教授が韓国史専攻者がいないと批判しましたが、結局、韓国史とは何でしょうか? 金一栄教授のすることは韓国史ではないんでしょうか? イ・ヨンフン教授の言うことは韓国史ではないと言うのでしょうか? 『解前史』も、政治学者、経済学者、在野活動家など多様な人が書いていますから、『再認識』だけを問題視するのは二重基準です。
(問)
『再認識』に対する批判の動きはありますか?
人づてに聞いた話ですが、某出版社の社長が「このままで良いのか、何人かの民族主義左派の人たちを集めて大反撃をしよう。」と言って、人々が集まったんです。ところが、「何で私を呼ばないのか」という人々が増え、それで結局80人の学者たちが集まったそうです。その人々が大反撃をするようですが、私たちはこの点に対して積極的に歓迎します。「溜まっている水」のような韓国史を研究することは、本当に歓迎すべきことですね。
○民族主義は教育を通じて注入され、国家によって利用される
(問) 韓国左派の特性の一つが、民族主義性向がとても強いという点です。New Lightグループは左派を主導しつつ現われた結果ですが、韓国の民族主義に対する評価はどうですか?
民族主義と言うものは、本来、暴力的で排他的です。私は愛国心と民族主義を区分します。愛国と言うものは、ふるさとを愛する心にもなります。故郷に対する愛は本能的なものであり、自分が生まれた場所に対する自然発生的な感情です。愛郷、愛国が自己の周辺の友達や家族に対する自然な愛のようなものであるとすれば、民族主義はそんなものを飛び越える巨大な議論です。自然発生的に生じるものではないのです。ベネディクト・アンダーソン(Benedict Anderson)が主張したように、「想像の共同体」なのです。
民族主義というものは、誰かによって注入されたのです。そうでないとすれば理解ができないのです。ところで、問題は私たちが受けた教育です。私たちは民族主義が遺伝子に刻印されているかのように教育を受けたし、民族主義とは生まれながらに本能的に感じるもののように学びました。 しかし、これは事実ではありません。民族主義は作られるのです。民族主義は国家によって利用され、悪用されて来た概念だったのです。本質的なものではなく、時代に従って興亡盛衰を経験する多くのイデオロギーの中の一つであるだけです。
(続く)
これは メッセージ 270 (chaamiey さん)への返信です.
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朴枝香教授インタビュー(2)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/24 22:04 投稿番号: [270 / 1474]
『解放前後史の認識』は「学問」ではなく「政治宣言文」
朴枝香ソウル大学教授インタビュー(上)〜歴史とはありのままを理解すること
[ 編集部 / 2006-05-16 09:41 ]
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr02000&num=1565
(翻訳その2)
『解放前後史の認識』は学者たちが書いた政治的宣言文
(問) 『解放前後史の認識』は、いつ読んだのですか?
1978年に留学に行ってから、1987年2月に入って読みました。1987年と言えば軍事政権のとても過酷な時期は過ぎ去ったのに、学生たちは相変らず聖典のように思っているので、どういうものか知りたくて読んで見たんです。1〜2巻を読んで見ましたが、かなりの衝撃を受けました。二つの面ですが、一つは、「70〜80年代のような危ない時期に、こんな文を書くことができたんだな。」ということ、二番目は、「これは学問的ではなく、あくまでも政治的な宣言文だ。こんな宣言文を学者たちが書いたのだ。」と言うことが衝撃でした。宋建燕さんのような方ならそれも分かりますが、カン・マンギル教授のように学問を職業とする方が政治的宣言文を書いたという事実に、大きな衝撃を受けました。
(問) 留学のためではありますが、結局、教授は、80年代の激動期を直接に御存知ないのではないですか?
国内で起きる事にはいつも関心を持っていました。思い出すのは、朴正煕前大統領が殺害された日、ラジオ、新聞などが「韓国で何か事件が起きている」と騷ぐので、とても知りたくて韓国に電話をしたんです。 東亜日報の先輩記者に電話して聞いたりしたんです。そのように心を痛めた記憶もあり、光州事件を知った衝撃ととても胸が痛かったことは、ここにいてもあちらにいても同じでした。海外に出れば、むしろもっと客観的に見えるようになります。
(問)『解放前後史の認識』と『解放前後史の再認識』に対して論争がありますが、最大の違いは何だと思いますか?
『解放前後史の認識』は、民衆と民族、彼らが主人公になることが正しいという政治的宣言文です。しかし、私たちは、先験的な前提を立ててみようというのではなく、ありのままを見ようという立場です。気に入らないとしても、歴史はそういうものです。もう一つは、『解放前後史の認識』は、達成しなければならない目標を前提にするため、達成できないことに対しては独りよがりです。正義と不正義、善と悪など思考が両極端的で、視覚が心忙しいですね。 『再認識』は歴史をありのままに見ようと思うから、息が長くなります。人の歴史というものは、すごく多層的です。 だから長い目で歴史を見るのです。
歴史は長い目で「ありのまま」眺めるもの
(問) しかし、結局は、歴史解釈には価値判断が入るのではないですか?
まともな歴史家なら、その時代に状況がなぜそのようになったのか、認識しなければなりません。 何故我が国が1945年に分断されるしかなかったのかを理解して、それから、それが良かったのか間違ったのか判断するんです。歴史を心忙しく見る人々はそれを理解しないで、価値を先に立たせて飛び越えて判断しようと考えます。政治をする人々はそうしてもいいかも知れませんが、歴史を研究する人々はそうしてはいけないです。
(問) 歴史批評のイム・デシク主幹が、『解放前後史の再認識』はニューライトと脱近代の不適切な出会いだ、という檄文に近い文を書きました。「イ・ヨンフン教授はニューライトで、朴先生の場合はポスト・モダニズムなのに、なぜ手を組んだのか」、こんな言葉をどう思いますか?
ある面では一理があります。『再認識』の編集者4人は脱民族主義という共通点がありますが、ただ、人間の文明という概念に言及しつつ、すべての人類が到逹しなければならない文明史的な水準があるはずだというイ・ヨンフン教授の主張に対しては、私は少し違う考えです。近代文明の画一性に対して同意することができないテーマがあります。しかし、『再認識』の編集作業をするにあってその差異は小さなことだったし、4人が共通に考えたのが、人間性の複雑さを示そうということです。「親日と反日」、「抵抗と協力」、「独裁と自由」、こんな風に単純に人間の生は分けられないのですよ。「人間性はとても複雑だから、歴史も複雑だ。」と言うのが、我々4人の共通の考えです。
(続く)
これは メッセージ 269 (chaamiey さん)への返信です.
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朴枝香教授インタビュー(1)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/23 21:03 投稿番号: [269 / 1474]
『解放前後史の認識』は「学問」ではなく「政治宣言文」
朴枝香ソウル大学教授インタビュー(上)〜歴史とはありのままを理解すること
[ 編集部 / 2006-05-16 09:41 ]
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr02000&num=1565
(翻訳その1)
『解放前後史の再認識』の編集委員である朴枝香(パク・ジヒャン)ソウル大学教授に会いました。一時は理想主義者で民族主義者だったが、今は民族主義の閉鎖性と暴力性を批判して「開かれた思考」を語る朴枝香教授は、歴史は長い目でありのままを理解するべきで、先験的目標を前提とした解釈を強要することはできないと、重ねて強調しました。 『解放前後史の再認識』に対する左派学者たちの「大反撃」も歓迎すると韓国近.現代史に対する真摯な論議を期待する朴枝香教授からは、真摯な歴史学者の姿が感じられました。
この日のインタビューは、ホン・ジンピョ自由主義連帯執行委員長が直接行いました。<編集者注>
(問)朴教授はアメリカで博士の学位を取られましたね。留学はいつだったんですか?
1978年に行きました。留学する前に修士を受けて、2月から7月まで東亜日報の見習い記者生活を少しだけしました。社会現場に対する好奇心が強くて社会部記者を志望しましたが、当時は社会部に女性記者はいなかったんです。社会部長は、来るなと言わんばかりに、ちょっとひどい仕事の命じかたをしたりしました。
(問) 高等学校はソウルですか?
京畿女子高を出ました。ソウルに出てソウルで育ったんです。両親は忠清道出身です。
(問)
何と言っても『解放前後史の再認識』のことからお聞きしなければなりません。編集委員の方々(朴枝香、イ・ヨンフン、金哲、金一栄)がこの出版を企図することになった裏話がありますか?
前書きにも書きましたが、それは、多分、2004年9月だったはずです。イ・ヨンフン教授などと食事をしたときに、「過去史問題を政治権力に任せておいて良いのだろうか? 執筆を新たにしなければならないがそれには時間がかかるから、まず、発表された論文を集めて読者たちに知らせる作業でもしよう。」という話が出たのです。結局、この事の発議は私がすることになりました。
(問)『解放前後史の再認識』の出版で、相当な社会的波紋が起きました。前もって予想できましたか?
これほど大きい反響があるとは予想できなかったです。いくつかの出版社も、こんな予想があったなら発刊を拒否しなかったでしょうね。「需要はあるだろう」という程度に考えました。出版社は3万部くらい出たと言いますが、書店を通じて聞けば、それよりもっと売れたと言う話もあります。
(問) 実は、『解放前後史の再認識』は、分量や内容から見て、一般人が本を買って几帳面にすべて読むということはかなり無理のようで、所蔵用が多くないでしょうか?
単に所蔵用だけではないようです。一般企業体に勤めて引退したような方々もいくつの論文を読んで、相当面白いと言われます。この本は、学界にいる人とか専門知識が高い人だけが読むというものではないです。それで私がむしろ驚きました。これほど、大衆が、国史に対して知識を持って吸収することができる能力があるということが分かって、私としては新鮮な衝撃でした。
(続く)
これは メッセージ 266 (chaamiey さん)への返信です.
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歴史を直視せよ
投稿者: imp_mania_jk 投稿日時: 2006/07/22 19:53 投稿番号: [268 / 1474]
日本人以上に「大東亜戦争」を賛美し乱舞した南北朝鮮人よ、歴史を直視せよ
「祖父の代から受け継いできた黄色人種の積憤をいまこそ晴らさなければならない。一度、決戦する以上、、帝国行路のがんである敵性国家を粉砕し新東亜建設に邁進しなければならない。」
申興雨
昭和十六年十二月十日
ソウルでの決戦報告大講演会
「米英の圧迫と屈辱から東亜民族の解放を叫ぶ決戦を開始したのである。いまや東亜民族は圧迫と摂取を受けて骨しか残っていないが、今やその骨で断固として決起し、仇敵米英を打倒しなければならない。」
張徳秀
普成専門学校教授
「貧欲の牙城、白人帝国主義の張本人英米をいまこそ撃滅せずには、我等の子孫の発展を望むことはできない。」
李成煥
朝鮮農民運動の指導者
これは メッセージ 1 (justina_eto さん)への返信です.
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覚醒する韓国人
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/19 21:06 投稿番号: [267 / 1474]
解放前後史の再認識特別講義11に寄せられた読者の一言です。(全3件)
○概してまあよく書いてある。少し不満な点もあるが、大きな幹が正しいならかまわないと思ったらだめだろうか。
自由党時代の時、祖父や近所の年寄りたちが言っていたが、「日本人たちは境遇がしっかりして、仕事は器用によくしたな」、 そんなことだったな。何の話かと言えば、「日本人に学ぶ点が多い」と言う話だったが、「今はする仕事もはかばかしくなく、腐敗したうえに混乱して無法天下」だと。
(中略)
民心が天心だ。
日本が中国やアメリカと対立して大東亜戦争をしなかったら、上海臨時政府ではなく空を飛んで来る政府があっても、自立独立は難しいと思ったらいけないか。
私を親日と呼んでも親米と呼んでも良いが、言うことは言って生きよう。
エネルギーがなければならない。
2006-06-30 12:10:12(賛成3
反対0)
○「お互いに違う理念と体制の二つの国家を、いくら緩い形態だと言っても一つの国家に縛ることは鬼にもできない。」
名言です。「我が民族同士」を合唱する政治家たちの対北協力統一政策が持つ一番致命的な欠陷は、南と北二つの国家がそれぞれ立っている位置がどこであり、どんな本質的な差異があるのか、全然分からないとか、あるいは、大した問題ではないと考えることにあります。差異が何なのか分からなくて, それをどう埋めていくか戦略もなしに無条件に「我が民族同士」合致しようと言うことは、かえって、南北間の「敵対」と「葛藤」を助長させて、平和を壊す結果をもたらします。この間、良い講義を聞きました。終わりになって惜しいですね。
2006-06-30 17:02:06
(賛成10
反対0)
○よく読みました。御苦労に感謝します。引き込まれて何もできなかったです。多くのことを学びました。
2006-07-01 14:53:38
(賛成0
反対0)
これは メッセージ 266 (chaamiey さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授特別講義 (終)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/19 21:00 投稿番号: [266 / 1474]
結論 : 「民族主義史学」から「自由主義史学」へ
<解放前後史の再認識>特別講義(11)民族は超歴史的実体ではなく、歴史的に流動する概念
[イ・ヨンフン(ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-30
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1742
(翻訳その4)
近代国家は、正当防衛ではない、ある人間が他の人間に私的に行使する暴力に対して、それにどんな名分があっても容認しないです。身分の形態で社会に満ちていた暴力を全て公権力に回収したのが、すなわち近代国家です。それで社会から身分が消えて、四民平等の時代が開かれたのですね。先日の『建国の文明史的意味』の講義で、我が国の憲法を読み上げました。すべての国民は法の前で平等であり、社会的身分によって差別を受けないと言いました。正にそれです。だからこそ、国民は国家に税金を払うのです。安全で差別を受けずに暮すことができるように、国家だけが正義に基づく暴力を振るってくれとね。
「それ位は、誰でも分かる社会科学の原論ではないか」と言う方が、おそらくいらっしゃるでしょう。その通りです。政治学者でもない私が、学んで知った原論を並べただけです。それでも私がこの話を取り上げるのは、私たちの周りに、国家をむやみに崩そうとしたり、新たに作ることができると思う人々が、かなりたくさんいるからです。国家を正義だとか道徳だとかの観念的実体として見るから、そんな話が安易に主張され、また社会的にも大きい抵抗を受けないのです。
ラジオをお聞きの皆さんは、私が何の話をしようとするのか、もう気づいたはずです。国家を連合しようとか連邦制にしよう等々の安易な統一論議を、警戒する必要があるという話です。国家とは、一つの社会を文明的に統合する政党的暴力です。国家がそうであるのに、文明の基礎が相異なっている二つの国家を統合することは、論理的に可能ではなく、また、人類の歴史で前例もなかったと思います。
6年前にキム・デジュン大統領と北朝鮮の金正日総書記が会って、南北韓の統一方案がお互いに通じる点があると言いました。緩やかな連邦制を取るとか国家連合をしようという言葉で知られています。率直に言って、その言葉が具体的に何を意味するのか、私はいくら考えても分かりません。言い替えれば、相異なる理念と体制の二つの国家を、いくら緩い形態だとしても一つの国家に結ぶことは、鬼にもできないことだと思います。
相異なっている体制の南と北を一つの国家にまとめるという発想は、「我が民族同士」という旗を掲げれば、すべての人間たちが自分の考えと利害関係を捨て去ってその旗の下に集まるものと勘違いする、誤った前提の上で出て来たのです。人間は、元々そういう存在ではないのです。再三強調しますが、民族は、そのような超越的な実体ではないのです。民族がそのように魔性的な統合力を持つ超越的な実体ならば、去る60年間の分断の歴史はどう説明するのでしょうか。一体、この地球上で、血を分けた親子兄弟の再会どころか、通信さえ閉ざすものすごい閉鎖的な政治体制を、他のどんな所に捜すことができるかという話です。
新しい「自由主義史学」では、我が民族の統一は、文明史に基礎を置く進化論的な統一しかないです。北朝鮮が、一日も早く、中国やベトナムのような開放的な市場経済体制に変わること。自由財産制度と共に人権を尊重する、そういう文明の社会に変わること。そのように大きく変わった後に、今、韓国がアメリカと FTAを推進しているように、南と北が市場を統合すれば、そして人と物資が自由に行き来することができたら、それがまさに統一ではないですか。
そういう、文明史に基礎を置く進化論的統一方案以外に、どんな統一方案も現実的に可能ではないことを、解放前後史に関する私の「自由主義史学」の最後の結論として強調したいと思います。
これまでラジオを聴いてくださった皆さん、ありがとうございます。ごきげんよう。
イ・ヨンフン(ソウル大教授、 『解放前後史の再認識』共同編集者)
*イ・ヨンフン教授の<解放前後史の再認識特講>は、EBS ラジオホームページ(再び聞く)で聞くことができます。
http://www.ebs.co.kr/Homepage/?progcd=0002420(この間、<解放前後史の再認識>を愛読してくださった読者の皆さんに感謝いたします。編集者注)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
\xA1
これは メッセージ 265 (chaamiey さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授特別講義 11(3)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/18 20:48 投稿番号: [265 / 1474]
結論 : 「民族主義史学」から「自由主義史学」へ
<解放前後史の再認識>特別講義(11)民族は超歴史的実体ではなく、歴史的に流動する概念
[イ・ヨンフン(ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-30
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1742
(翻訳その3)
私は、そういう史学を「自由主義史学」と呼びたいです。要するに、20世紀韓国史の理解を「民族主義史学から自由主義史学に変えよう」、それが私の今回の講義の核心のメッセージです。この度友人たちと共に編集した 『解放前後史の再認識』も、私の思いとしてはそういう問題意識で成り立っているのです。今回の講義は、そこで取り上げられた立派な諸論文を、私の流儀の手順で紹介する方式を取りました。論文と論文の間の空白は、私の自分なりの論理と実証で補いました。そのようにしてできた私のまずい話を、ここで再び要約する必要はないですね。
一つ言い尽くせなかったことがあるので、付け加えて説明します。国家の問題です。「自由主義史学」において、国家は、超越的あるいは神聖な存在ではありません。 国家は、利己心を本性とする人間とその集団から導き出された2次的な存在です。国家とは何でしょうか? 人間たちを安全に保護して安楽に暮すことができるようにする政治的機能です。自国の国民を保護することができない国家、そんな国家は必要がないです。国家のために死んだ人を栄誉でもてなすことができない国家、そんな国家は消えても良いです。
気に入らない国家が消える見込みが無さそうならば、どうすれば良いですか? もっと良い国に行けば良いということになります。60年代以後、おおよそ200万人の韓国人が、移民としてアメリカへ渡りました。少しも咎めることではありません。私の周辺にはアメリカ市民権者が多数います。私はそれも良いと思います。これからますます、そういう脱国家の時代になるでしょう。
しかし、国家は大切なものです。国家の歴史は大事に扱わなければなりません。大事なものだから、むやみに批判してはいけないです。批判は、礼儀を取り揃えた上で、最小限の水準で愼重に申し立てなければなりません。先進国であればあるほどそんなものです。先進国と後進国とを分ける様々な指標が有りますが、 その一つとして、愛国心の強さを挙げても良いと思います。後進国に行くほど、国家に対する批判が見られます。役立たずの国家と言いますね(←翻訳?)。
一方、先進国の国民は、国を愛する市民ですね。
国家が何故大事なのでしょうか。国民が安全で安楽に暮せるようにする政治的機能として、国家は本質的に政党的暴力体です。国家を論ずるとき、道徳だとか精神だとか言わないでください。国家は、本質的に、マフィアのような暴力体です。ただ、暴力体であるにしても、あなただけが暴力を振るって良いと全ての人が合議したという点で、本当のマフィアと違うだけです。
国家が無くなればどうなりますか? 人々は、自分の家族と財産を保護するために各人が暴力を振るうようになります。野蛮の状態です。中世の国家は、人間の社会的門地に差別を設け、一人の者が他の人間に暴力を振るうことを許容しました。だから、それは、半野蛮の国家でした。
(続く)
これは メッセージ 264 (chaamiey さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授特別講義 11(2)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/17 22:17 投稿番号: [264 / 1474]
結論 : 「民族主義史学」から「自由主義史学」へ
<解放前後史の再認識>特別講義(11)民族は超歴史的実体ではなく、歴史的に流動する概念
[イ・ヨンフン(ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-30
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1742
(翻訳その2)
大韓帝国が滅亡したのは、そのような知性が不足して、そのようなリーダーシップが欠けていたからです。そんな根本的なことに関連して率直に言えば、21世紀初めの今日の韓国の知性も、貧弱なのは同じです。その水準では、歴史の真正な発展はまことに遅い歩みで進みます。去る60年間の建国史において、経済と政治は見事な発展を成しました。対照的に、知性の水準は相変らず見劣りがします。見方によっては、朝鮮時代の性理学が蘇っている分野もあるようです。その時代の歴史を総合的に省察して教育する能力が、大変不足しているように見えます。そのために、過去史に対する記憶が分裂状態になるしかないのかも知れません。
私は、そういう記憶の分裂症状が身体の外科的症状として現われたのが、現在進行中の「過去史清算」だと思います。今の政権が成立して以後、おおよそ13個の特別法が制定された上に、年間おおよそ1500億ウォンの予算を投入して、遠くは1894年の東学農民一揆の歴史まで遡って是非を正すという、「過去史清算」作業が着手されました。私がこの作業に非常に批判的な理由は、決して、清算の対象となる人々の個人的なでき事を取り上げて是々非々を選別するからではありません。この作業そのものが、将来、韓国の現代文明を失敗に追い込んでしまうかも知れない不吉な兆候と感じられるからです。すべての成功は、その内部に失敗の要因を孕んでいると言います。正しく、そういう要因として不吉だからです。
過ぎ去った20世紀の歴史にまだ是非を正すべき問題が残っているという分裂的な記憶には、また、その恨(ハン)の症状としての、大韓民国は最初から過ちによって生まれたという建国史の否定には、民族を歴史の単位として設定する「民族主義史学」が前提に置かれています。民族を基礎単位に設定する限り、 国が滅び、また南北二つに分かれた歴史を見て、まともな歴史だと言えないのは、あまりにも当然のことです。
その次はどうなりますか? 統一が成れば歴史の正義が回復したと言えます。その厳格な信託の前では、大韓民国の歴史的位置は見すぼらしくてしょうがないです。早く歴史の舞台から引っ込む準備をしなければなりません。
ひどい言い方だと言わないでください。皆さんの息子や娘が学んでいる中・高等学校の教科書が、皆さんの現代史と統一をどんな風に教えているのか、行間を意識しながら綿密に読んで見てください。私の言葉が事実であることを確認できるでしょう。
民族は、そのように歴史を超えた実体ではありません。民族は、20世紀になってから、韓半島の住民集団に親しまれる概念として接近してきたのに過ぎないのです。また、民族は、これから新しく展開される歴史と共に、迅速に他の形態と概念に変わって行くでしょう。そのように、「民族」は歴史的に流動する概念なのです。
私は、これまでの講義でこの点を繰り返し強調して来ました。民族が分断されたと言えども、そうやってできた国家の歴史を過ちだと言う、どんな根拠と妥当性もありません。分断された民族が一つに統合されればより良い国家の歴史が開かれるだろうと言う期待も、何の根拠と妥当性も持つことができません。
民族の代わりとなる歴史の基礎単位は何でしょうか? 人類の長い歴史において、近代文明はやがて、我々人間の本性を「理性ある利己心」と理解するに至りました。人類の文明史は、そういう本性を持つ人間たちが、お互いに信じ、頼って、分業しながら、より広い範囲にかけてより有機的に統合された秩序を作って来た、進化の歴史です。家族、親族、村、協同組合、市場、階級、利益団体、学校、教会、官僚制、国家、民族等々がそういう文明的秩序体ですね。正に、そういう文明の歴史で20世紀の韓国史を再構成すれば良いのです。言い換えれば、民族の代わりをする歴史の基礎単位は、「理性ある利己心」の個々の人間だと思います。その人間の本性とは、具体的には、自由、人権、協働、思いやりの美徳です。正しくそういう本性と美徳の人間たちを観察の対象にして、彼らが立てて来た信頼と反目、協働と対立の歴史を、家族から国家に至るまでの多様な水準にわたってそのまま描写するのが、私が追い求める20世紀の歴史です。
これは メッセージ 263 (chaamiey さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授特別講義 11(1)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/17 21:27 投稿番号: [263 / 1474]
結論 : 「民族主義史学」から「自由主義史学」へ
<解放前後史の再認識>特別講義(11)
民族は超歴史的実体ではなく歴史的に流動する概念
[イ・ヨンフン(ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-30
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1742 (翻訳その1)
イギリスの歴史学者ホッブス・ボムは、去る20世紀の世界史を指して「極端の時代」(Age of Extremes)と言いました。二度も人類史に前例がない大規模な世界戦争を経験しました。労働者の3分の1が失業状態に陥る大恐慌が、資本主義中心の国家に発生したりしました。1917年、ロシアでボルシェビキ革命が起きました。この人類の永遠の理想としての社会主義実験は、しかし、70年を経て失敗であることが判明してしまいました。一方、資本主義は、20世紀後半に入って「永遠の繁栄」を享受するようになりました。これを指して、アメリカ人のフクヤマは 「歴史の終焉」とまで言いました。
考えて見れば、去る20世紀の歴史が我が民族ほど波乱に満ちていた民族がどこにあるでしょうか。一言で言えば、地獄と天国を行き来した歴史でした。1910年、大韓帝国が滅亡しました。世界地図から一つの国家が消えてしまいました。その領土であった韓半島は、日本帝国の領土になってしまいました。その場所の住民集団は、他人の国の奴隷と違うところのない境遇に置かれることになりました。いつまた独自の国号を回復することができるのか、本当にわからない状況でした。それは不可能に見えました。
ところが1945年、日帝から解放され、そして1948年、大韓民国が誕生しました。夢のような再生でした。そして現在まで60年間、大韓民国は同じように独立した元植民地の中で、経済的にも政治的にも一番成功した国に属するようになりました。経済的には世界第11位の経済大国になりました。政治的には、1987年以後、民主化の時代が開かれました。普通選挙によって政権が平和裏に交代する、高度な民主主義を実践する国家になりました。
一方、北朝鮮では、もう一つの極端な歴史が開かれました。首領を脳とし、党を本体、人民を手足とする、そのように国家を一つの有機的身体と感ずる奇妙な政治理論の王朝体制が、そこに生じました。人民には政治的自由は許容されなかったのです。国際的に閉鎖された経済は70年代から全面的に後退し始め、90年代に入るとおよそ300万人が飢死するという大規模な惨劇をもたらしました。
あまりにも極端なためか、20世紀の歴史に関する韓国人たちの記憶は、分裂しています。これは、それほど変なことではありません(←翻訳?)。 成功した人は、自分の過去について健全な記憶を持っています。非常に貧しくて大変だった過去でも、「あぁ、その時代は本当につらかったなあ。」と言いながら笑います。一方、失敗した人の過去に対する記憶は、健全ではありません。「あぁ、あの時から何か間違った」、心は恨みで一杯になります。私は、個人や集団が、過去の歴史に対して恨みで一杯になった分裂的な記憶を持っていては、健全な未来を立てにくいと思います。
多くの文明の歴史を見れば、すべての成功は、それを否定する失敗の暗的要素を伴います。文明を構成する政治、経済、社会、環境、思想、文芸など多くの階層間の不調和のためです。長く繁栄する文明は、これら多くの階層間の矛盾と緊張関係をうまく調和させる能力を発揮しました。一口で言えば、総合と省察の知性ですね。それと、そんな知性に訓練された政治的リーダーシップです。
(続く)
これは メッセージ 262 (chaamiey さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授特別講義 10(5)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/16 21:24 投稿番号: [262 / 1474]
1950年代は暗鬱なだけの時代だったのか
<解放前後史の再認識
特別講義>(10)伝統と近代が融合する近代化の過程
[イ・ヨンフン(ソウル大学教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-29
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1741
(翻訳その5)
紙面の関係上詳しく説明する余裕はないですが、二、三点申し上げれば、援助資金を割り当てるのに、適当に誰にでも割り当てるのでなく、工場を建てるに値する実需要者たちに優先的に割り当てた、という点を指摘することができます。また、国民経済の立場から輸入物資の優先順位を決めた後、物資ごとに適用される為替を異にしました。緊要な物資に対しては低い為替を、緊要さで劣る物資には少し高い為替を、あまり重要ではない物資に対しては非常に高いレートを適用したのです。
ある研究者の計算によれば、当時の公定換率と市場為替の差によって、援助ドルの配当による超過利潤は、GNPのおよそ10%の水準だったと言います。この巨大な超過利潤が、工場を建てて経営する意志と能力がある人に優先的に還元されるようにしたことが、上のような復数為替制と言えます。要するに、1950年代当時、外国為替市場を通さないで(当時はそんな市場はなかったです)政府が確保したドルを裁量で割り当てるにおいて、それなりの一貫した基準と道徳性が確保されていました。だからこそ、後進国型の不正腐敗と政府の失敗を避けることができたのです。
一つの社会と国家が内包しているそういう実務的政策能力と道徳的規律能力を、過小評価しては困ります。そんなことは、どこの国にも良くある歴史の美徳ではありません。多くの後進国が、そういう道徳性で失敗しました。しかし、大韓民国は違いました。先立って紹介しましたが、李承晩大統領は、ただ1ドルを惜しんでどのようにしましたか。大韓民国の建国史をむやみに卑下する人々は、この点を良くよく考えて見てください。
いよいよ話をまとめる時になりました。その前に一つ、1958年から経済が悪くなり始めました。アメリカの対外政策が根本的に変わり、援助が大きく減ったからです。投資資金をほとんど全面的にアメリカの援助に頼っていた韓国経済は、急速に悪化しました。新しい国際環境に合わせて、新しいパラダイムの発展戦略が要求されるところでした。もう年齢80を越した老大統領には、そんな能力はありませんでした。そうこうしているうちに2年経った時点で、彼の政府は崩壊してしまいました。いよいよ私たちの解放前後史も、終わりに到達します。明日は、これまでの講義を整理して見ることで、結論の代わりとします。
(特講11に続く)
これは メッセージ 261 (chaamiey さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授特別講義 10(4)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/16 15:43 投稿番号: [261 / 1474]
1950年代は暗鬱なだけの時代だったのか
<解放前後史の再認識
特別講義>(10)伝統と近代が融合する近代化の過程
[イ・ヨンフン(ソウル大学教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-29
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1741
(翻訳その4)
もう少し具体的に説明します。例えば1956年、アメリカの対韓援助が3億ドルに決まったとします。3億ドルのお金が来るわけではなく、3億ドルのアメリカの物品を無償で購入できる権利が与えられるのです。政府は、3億ドルを民間の輸入業者に割り当てます。例えば、ある業者が100万ドルの配当を受けたとしましょう。その業者は、それに相当する韓国貨幤を韓国銀行に預けた後に、輸入許可を得ることができます。 こういう方式で援助資金が執行される際に輸入業者の負担を軽減するためには、ドル準備為替を低くする必要があります。それで、例えば市場為替が1:500なのに1:150の低為替を維持したのです。
ドルの配当を受けた輸入業者は、思わぬ利益を得たことになります。アメリカから輸入した品物をそのまま市場で売れば、3倍の利益が出ますから。それでも政府がそうしたのは、その輸入業者がアメリカから原料や部品、機械を買って来て工場を作ると期待したからですね。言い換えれば、そのように工場を建設する時の企業家の負担を軽くするために、低為替政策を固執したのです。そういうやり方で工業化を急ぎ、日本から輸入しなくても良い自立経済を作ることが、当時の李承晩大統領の夢でした。
実際に企業家たちは、政府の期待どおり工場を建てて経営したでしょうか。そうだったと言えます。主に小麦粉・砂糖・綿紡織のような消費財工業の工場が建設されました。皆原料が白いため、これらを三白工業とも言いました。その他にガラス、製錬、セメント工場も建設されました。肥料工場は着手されたんですが、完工しませんでした。
このような輸入代替工業化の結果、50年代の経済は、年間4.9%の低いとは言えない成長率を見せました。製造業の発展は、年間10.6%というかなり高い水準でした。少なくともそれだけの成果があったから、60年代に輸出主導工業化に経済の戦略が変わる時も、対応できたわけです。
ところで、ドルの配当を受けた業者が、アメリカから輸入した物資を横流ししたり切り売りしたりすれば、どうなったでしょうか。管理すべき政治家や官僚がその仕業に目をつぶって賄賂を受けたりしたら、どうなったでしょうか。
当時、大部分の後進国がそうでした。アフリカの一部の国々は、今日でもそういう状態です。ところが、50年代の韓国政府はそうではなかったのです。不正腐敗はともかくとして、援助資金や物資が工場の建設と稼動に回るという基本的な流れを変えたり、滞らせることは決してなかったのです。
ウ・ジョンウン教授は、このことについて、不正腐敗が政治の躍動性によって相殺されたと言いますが、簡単に言えば、経済開発に掛けた為政者の意思がきちんと伝わり、市場に代わって資源を配分するに当たり、一定の原則と効率性が働いていたのだと理解しても良いと思います。
(続く)
これは メッセージ 260 (chaamiey さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授特別講義 10(3)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/15 09:19 投稿番号: [260 / 1474]
1950年代は暗鬱なだけの時代だったのか
<解放前後史の再認識
特別講義>(10)伝統と近代が融合する近代化の過程
[イ・ヨンフン(ソウル大学教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-29
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1741
(翻訳その3)
別の話ですが、当時の韓国の人々の一般的意識において、人間の社会的成功と幸福を決める一番重要な要素は、学歴でした。それで、誰もが大学へ行こうと努力したのですね。貧しい農民が牛を売っても子を大学に行かせる現象は、決して珍しいことではなかったです。それで大学のことを、ウゴルタプ(牛骨塔)と称する変な言葉まで登場しました。子の勉強のために、農家に無くてはならない牛を売るような無茶をする民族が、この地球上にどこにありますか? 我が民族ですね。そうだったから、60年代以後の高度成長を可能にした「社会的能力」が、社会に多く蓄積されることができたのです。
また50年代は、社会構造にも顕著な変化があった時期でした。都市人口の比重が、1949年の17%から1960年に28%に増えました。ここには、朝鮮戦争のときに越南して来た同胞たちが都市に居住することで、実際の産業の発展とは無関係に都市が肥大したという原因もあります。ともかく、都市を中心にした中産層と彼らの市民社会が成熟し始めました。
越南同胞の大部分はキリスト教徒で、商工業に携わる人々でした。彼らが韓国市民社会の発達に寄与した役割は、小さくありません。女性の社会的権利と参加が大きく伸び始めたのも、50年代です。女子大学生の数は、1945年にわずか1086人でしたが、1960年に1万7千人にまで増大しました。
都市だけではありません。農村社会も変革を迎えていました。これについては、私たちの本に載せられたイ・マンガプの 「1950年代韓国農村の社会構造」という論文を参考にすることができます。先に言及しましたが、農地改革を通じて農村社会の伝統的な身分関係が消滅しました。両班が常民身分を支配した農村社会の構造は、すでに植民地期にかなり消えつつあったものの、相変らず地方によっては強く残っていました。
そういう身分制度が、50年代に至って完全に消去されたと言えます。両班家の葬儀の輿を町内の常民たちが担ぐ、そういうひどい事はこれ以上なくなりました。 両班と常民は、お互いに記憶している昔の身分のため、心安く付き合って協力するのは大変でした。そのような身分制の沈澱物が薄く残ってはいましたが、新しい近代的な身分とでも言いますか、学歴を中心にする社会関係が成り立つことによって、高等教育を受けた人なら両班と常民を選り分けないで、お互いに交流し協働する信頼関係ができていました。
最後に、50年代の経済について述べます。これに関しては、先立って紹介したウ・ジョンウンの論文が、50年代を再評価する先駆的な役割を果たした研究です。
50年代の経済に関してまず指摘しなければならないことは、解放、分断、戦争を経験する中で、南韓の経済がまことに惨めな状況に陥ってしまったという事実です。およそ1920年代に後退したと言っても良いくらいでした。南韓の経済が1940年の水準を回復するのは、 1965年になってからですね。50年代がいかに惨憺たる状況だったかは、財政の7割がアメリカの援助資金によっていたことを見れば、よく分かります。率直に言って、50年代は、アメリカの援助に寄生する乞食とも言うべき国でした。
しかし、話はここからです。アメリカの援助で生きる国が、アメリカの意図に反して、独自の経済政策を広げたのです。アメリカは、韓国が独自路線で工業化できるとは思わなかったし、日本があるからそんな必要もないと考えました。アメリカの望むことは、韓国がアメリカの援助で日本の工業製品を購入することでした。アメリカの立場では、それは援助の効率を高める方策でもありました。しかし、頑固極まりない李承晩は、アメリカの言うことを聞きません。再び日本に従属するなど、話にならない話でした。そして、冷戦の前線基地である韓国をアメリカが捨て去ることはできないとの読みでした。李承晩は、自立経済の建設のための独自の工業化路線を展開しました。それを輸入代替工業化戦略とも言います。そのために、李承晩大統領は、暗市場の市場為替より3倍位低い低為替政策に、頑強に固執しました。
(続く)
これは メッセージ 259 (chaamiey さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授特別講義 10(2)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/15 00:36 投稿番号: [259 / 1474]
1950年代は暗鬱なだけの時代だったのか
<解放前後史の再認識
特別講義>(10)伝統と近代が融合する近代化の過程
[イ・ヨンフン(ソウル大学教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-29
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1741
(翻訳その2)
個人的な経験談になってしまいましたが、そのように我々の歴史において不正腐敗と言うのは50年代だけのことでもなく、為政者だけの責任だという訳でもなく、古い一種の文化のようなものとして、経済が豊かになることによってのみ癒すことができる歴史の業報だったという点を強調して見れば、そういうことになるのです。
そのように観点を変えてみれば、50年代は不正腐敗が深刻な時代ではあったが、腐敗しない部分もあったし、だからこそ、意外と少なくない成果があった時代であったと言うこともできるのです。50年代と言っても、実は休戦の1953年から7年間という短い期間ですが、その時代を前提にしなければ60年代以後を説明することができない、そういう変化と発展が見られました。その話をしたいと思います。
まず 『解放前後史の再認識』第2冊に載せられたユ・ヨンイクの 「巨視的に見た1950年代の歴史〜南韓の変化を中心に」を紹介します。ユ教授は、1950年代を、19世紀末の開化期から始まった西勢東漸と言う長期的趨勢の一局面と位置づけています。歴史は、そのように長期的、文明史的な視野で観察すると良く分かります。言い換えれば、私たちの伝統と外来の近代性が接触して融合する近代化過程の一局面として50年代を見るという意味ですね。
ユ教授は、多くの学生、官僚、軍人が、その期間に海外留学したことに注目しています。1953〜1966年の間、7400人の学生が海外留学に行き、50年代にわたって2400人の公務員が海外短期研修や視察に行き、50年代に9千名以上の将校が、海外訓練を受けて帰って来ました。行って来た主要国は、アメリカでした。ユ教授は、旧韓国末に開化派が試みた連美(アメリカとの提携)方式の近代化、その延長線上にあると言います。一生を学問に捧げた偉大な学者だけが、そのような広くて長い視覚で歴史を見ることができます。
次に、ユ教授によれば、1950年代は、歴史上初めて共和制民主政治が試みられ、それなりに根付いた時期でした。李承晩の権威主義的独裁がありましたが、おおよそ民主主義の基本構造が崩れた事はありません。予定された選挙は必ず実行しなければならなかったし、政権党はその選挙に勝つために必死の努力を傾けました。そこから不正選挙が出たのですね。建国以後1960年までおおよそ7回の選挙が実施され、普通選挙制が定着して行きました。国民の政治意識も発達して、事実上、両党制が定着していくというかなりの成果をおさめました。
そういう点で、私は、50年代の政治を指して今日の歴史教科書が「民主政治の試練」と語ることは、正しくないと思います。何故ならば、そんな言葉には、それ以前のある時期に民主政治が花を咲かせたことがあるという前提が含まれていますが、どう考えてもそんなことは無かったからです。50年代は民主政治の「試練」というより、「陣痛」または「産みの苦しみ」と呼ぶのが正しいでしょう。歴史上初めて民主政治を学習して実践する過程で、多くの試行錯誤と費用の支払いが必要であったという意味です。
50年代が成した一番確かな成果は、教育の分野にありました。「教育の奇蹟」または「教育革命」と呼べるほど、教育に対する国民の需要が爆発した時期が50年代です。義務教育が施行され、学校と学生の数が大きく増加しました。1945〜1960年に小学生が136万人から359万人へ、高校生が8万人から26万人へ、大学生が7800人から9万8千名に増加しました。大学生の数があまりにも増えて、 「大学亡国論」と言ってその社会的弊害を心配する話が出るほどでした。
(続く)
これは メッセージ 258 (chaamiey さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授特別講義 10(1)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/13 23:22 投稿番号: [258 / 1474]
1950年代は暗鬱なだけの時代だったのか
<解放前後史の再認識
特別講義>(10)伝統と近代が融合する近代化の過程
[イ・ヨンフン(ソウル大学教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-29
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1741
(翻訳その1)
1950年代と言えば、普通の韓国の人々は、暗い時代だったと記憶しています。1950年代の歴史的記憶の暗いところは、まず、李承晩政府が1960年に3.15不正選挙を企てて4.19という国民的抵抗で崩壊したという理由が大きく作用するようです。もう一つの理由は、1960年代以後との比較のせいであるでしょう。60年代以後の高度成長に比べて、50年代の実績は見劣りがします。何か開発計画みたいなものがあって、国民に希望を与えながら成長潜在力を総動員した、そういう時代でなかったのは事実です。60年代以後の朴正煕政府は、そういう50年代の無気力をよく指摘しましたが、そうすることで自分の業績を誇示しようという政治的考慮があったと思います。
50年代が暗鬱に記憶される最大の理由は、多分、不正腐敗にあるでしょう。どれくらい不正腐敗がひどかったのか、当時の証言記録を読めば想像を超えるほどです。朝鮮戦争の最中の1951年1月のことです。第2国民兵に組職された国民防衛軍の司令官以下高級将校たちが軍需物資を横領して、おおよそ9万名の兵士が飢え死に、凍え死ぬという事件が発生しました。将校たちの進級はほとんど全部、賄賂の結果でした。そのころ、領官級将校が一月の給料で家族を食べさせられる期間は、わずか10日に過ぎなかったのです。後に5・16革命に主導的に参加した当時の中佐階級のイ・ソクチェは、月給がすぐに無くなり、三日間飢えた事があると彼の回顧録に記しました。
不正腐敗は軍だけのことだったのではありません。 一国の経済循環が全部そうだったと言っても良いほどでした。アメリカから来た援助資金の一部は、政府→企業→自由党と流れる政治資金でもありました。企業はそんな不正な補助物の中でこそ、企業として大きくなることができました。このことについては、『解放前後史の再認識』第2冊に載せたウ・ジョンウンの「非合理性の裏の合理性を捜して〜李承晩時代の輸入代替産業化の政治経済学」と言う論文を参考にすることができます。この論文に関しては、後でまた言及します。
ところで、その時代の不正腐敗について、私の考えは少し違います。また非難されるかも知れないですが、それは、確かに、貧困がもたらした我々の歴史の文化でもありました。先日、歴史の業報ということを述べましたが、誰が誰を咎めることもできない、皆が時代の共犯である、そういう歴史の業報でした。
詳しい例を挙げる余裕がないですが、19世紀までの朝鮮王朝の時代は、自由財産制度が確立されない中で両班官僚が民に畑を耕させて食べると言う具合で、不正腐敗が経済生活の原理として自然に定着した社会でした。日帝下では綱紀が厳格で、こういう例を捜しにくかったんですが、解放後には癖のように蘇りました。1937年から地方の面役場書記として出発して一生を公職で過ごしたある人の回顧によれば、日本統治期には、上級者が異動すれば事務室の机の上にサイダーやお菓子を置いて歓迎会や送別会を開いたが、解放後は妓生(キーセン)の店に場所が変わったと言います。
よその話しをするまでもないです。私が育つ過程で見聞きした周辺の状況も、一面そうでした。私は1973年〜1976年の間、陸軍の兵卒として休戦ラインあたりで勤務しました。鳥肉や豚肉はまさに見ることも難しく、それらを煮たスープだけ飲みました。将校たちだけが食べたというわけでもありません。下士官、甚だしくは兵長まで、ぬけぬけと食堂入口に監視に立ち、兵卒たちが食べる生肉を持って行きました。ある日師団から連隊へ米を運ぶトラックに乗った事がありましたが、ある峠の上で連隊の軍需係を務める兵長が米俵を押して道路に落としました。すると待っていた民間人が何人か飛び出して来て、米を持って行きました。他人が傍にいるのもかまわず、一兵卒がそんな仕業をしました。何故ならばあまりにも古い、受け継いだ習慣だからでした。
(続く)
これは メッセージ 257 (chaamiey さん)への返信です.
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Re: イ・ヨンフン教授特別講義 2(4)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/12 22:17 投稿番号: [257 / 1474]
これは メッセージ 256 (chaamiey さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授特別講義 2(4)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/12 21:59 投稿番号: [256 / 1474]
民族主義の落とし穴から脱しよう
<解放前後史の再認識
特別講義>(2)民族は歴史的現象に過ぎない
[イ・ヨンフン(ソウル大学教授、『解放前後史の再認識』共同著者)]
2006-06-20
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1700
(翻訳その4)
白頭山を民族の発祥地として神聖視するのは、私が知る範囲で言えば、1927年、崔南善先生が書いた『白頭山勤参記』が初めてです。そうするうちに、解放以後、南北韓の二つの国家が、民族の象徴として白頭山を共通に強調するようになります。特に北朝鮮でそうでした。白頭山密林の野営地でパルチザンたちの英雄的な独立闘争が起った、そこで金正日同志が生まれた、その晩白頭山天池に光明星の光が輝いた、 等々の童話のような神話が作られて、北朝鮮の子供たちに注入されています。
南韓ではそれほど露骨にではないですが、白頭山を神話化する傾向がずっとあったと言えます。私が小学生の時は、教科書の裏表紙に、太極旗とともに「白頭山の霊峰に太極旗を翻そう」という掛け声が書かれていました。そのように、白頭山は幼い私にとって霊峰でした。今日の国史教科でも、白頭山を我が民族の霊山だと教えています。
私は、これらすべてのものが、南北韓の二つの国家が自己の歴史的正統性を作り出すために白頭山を活用した結果だと思います。それは極めて政治的な操作です。それは、結局、20世紀に入って韓半島の住民集団が、帝国主義の抑圧下で自分たちを一つの政治的運命共同体と意識するようになった結果です。だから、それは、徹底的に歴史的な現象です。19世紀まで、朝鮮の人たちにはそういう政治的共同体意識がなかったのです。何かあるにはあったと言えますが、それは今日と違う形態と違う内容でした。箕子正統説がその良い例になります。
そして民族と言う意識は、これから21世紀半ばくらいまでの韓国人たちには、今よりずっとぎこちない存在になるかも知れません。ますます国際化、世界化していく時代に生きていますのでね。最近の報道によれば、韓国の人口増加率は世界で一番低い水準だと言います。一定規模の国民経済を維持するためには、外国人労働者の流入が不可避な状況です。今や、農村へ行けば新生児の3割は混血だと言います。これから韓国人たちは、ますます皮膚の色が多様になる多人種社会を生きることになるでしょう。そんな社会を一つの政治的共同体として統合するためには、同じ先祖の子孫だ、血が同じだ、などの人種的観念に基づく民族主義ではなく、もっと別の普遍的文明価値に基づく理念が必要です。
今後、民族主義は、段々とその力を失って行くでしょう。代わって、自由と人権と協働と思いやりの美徳によく訓練された先進的文明人たちが建設する市民社会のイデオロギーが、その役目の代わりをするでしょう。このように民族と言うものは、歴史を超える実体ではないのです。それは徹底的に歴史的な現象であり、流動的で経過的なのです。民族は国家より上位のものにはなれません。その代わり、国家は、ある住民集団を一つの文明的秩序に統合させるに欠く事のできない、それを欠くときは野蛮の状態をもたらすという、文明の最高水準であり、また保障なのです。
民族が分断されたからと言って、成立した国家を過ちによってできた国家だと呪うことは、論理的に妥当ではないです。実証的に、分断の過程がどうであったのかは、別の問題として重要な問題ではありますが、一つの民族に二つの国家が生じたと言っても、それが間違いだと言う論理は始めから成り立たないのです。少々過激に聞こえるかも知れませんが、私は、民族と国家と統一に関する私の考えを論理的な基礎から明確にするために、この点を強調せざるを得ません。
要するに、21世紀の韓国人たちが大韓民国を先進文明社会として建設して行くためには、狭くて暗い民族主義という集団感情の落とし穴から脱出して、自由と人権と協働と思いやりといった人類普遍の文明要素に即して私たちの辿った歴史を再解釈する必要があります。
そのような文明要素を精神の本質とする個々の人間を歴史の単位主体に置いて、彼ら文明的人間が相互協働して配慮しながら建設して行く家族、団体、社会そして国家、そういうものの歴史として韓国の解放前後史を再解釈する必要があります。ひいては、これから私たちが成さなければならない民族統一と言う歴史的大課題も、このような人類普遍の文明要素に則って行われなければなりません。
これからこのような視点で20世紀の韓国の歴史を、特に1930〜1950年代の解放\xC1
これは メッセージ 255 (chaamiey さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授特別講義 2(3)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/11 23:04 投稿番号: [255 / 1474]
民族主義の落とし穴から脱しよう
<解放前後史の再認識
特別講義>(2)民族は歴史的現象に過ぎない
[イ・ヨンフン(ソウル大学教授、『解放前後史の再認識』共同著者)]
2006-06-20
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1700
(翻訳その3)
その点を明確にするために、今回の『解放前後史の再認識』で、実は私の論文(イ・ヨンフン、「なぜまた解放前後史か」)で白頭山の話から先ず始めました。今日の韓国人たちは、白頭山に登ってその清明な天地を見下ろしながら、この場所こそが私たち韓民族の聖地だという感情の高揚を抑えることができないのが普通です。私もかなり早く、1990年に初めて白頭山に登ったんですが、その時にそういう感じを受けました。一緒に行った同僚教授たちの中には、そういう感動を漢詩に歌った人もいました。檀君がここに天降ったから、ここに我が民族の基礎が用意された。この志を受け継いで、満洲の古地を回復しよう。だいたいこのような内容だったと記憶しています。
しかし、歴史の記録を探せば全然そうではありません。1778年、ソ・ミョンウンと言う当代最高の知識人であり高級官僚でもある人が白頭山に登りました。彼は、ここは中国の地でもなく朝鮮の地でもない遥かな辺境の地であり、千年に一人か二人が来るか来ないかという場所だが、ちょうど私が登って来たら、この山の上にある大きい池に名前が付いていない、だから私が名付けようと言って、太一澤と呼びました。太極が発源して森羅万象になるが、森羅万象は元々一つだという意味です。そのようにソ・ミョンウンと言う当代最高の性理学者は、白頭山の頂上に天池が清明に横たわっている姿を見て、太極を連想したのです。そこからは、今日、白頭山天池に上ってここが檀君が天降った所だと感動の涙を流す韓国人の姿の原型は、ちょっと捜せそうにありません。
18世紀の別のある人物は、白頭山に登って「白頭山こそ天下最高である中国コンリュン山の嫡長子だ」と言いました。山がそうであるように、私たちの朝鮮は、中国から渡って来た箕子大人が立てた国だというのです。これら朝鮮の官僚と士たちは、韓国史が箕子から始まるという箕子正統説を信奉しました。檀君が国祖という意識は非常に微弱でした。檀君を知らなかったわけではないですが、脇に置かれており、代わりに箕子が全面に出ていたのです。
檀君が韓国人の国祖だという意識は、19世紀末〜20世紀初めから現れ始めました。そうするうちに、解放後、大韓民国の成立とともに大韓民国政府が民族主義教育を強化し、またタンギという年号を使って開天節と言う祝日を制定するなどの過程で、本格的に成り立ったと言えます。檀君が国祖として登場する過程で、民族と言う言葉もできました。より正確に言えば、民族と言う言葉は、1904年の露日戦争以後に日本から輸入されたものと知られています。
朝鮮時代に民族と言うものはなかったのです。民族と言う言葉は、崔南善先生が1919年3.1独立宣言書に書いたことで広く大衆化し始めたようです。ところが植民地期には、知識人階層にその普及の範囲が限定されていました。私は、植民地期に伝統儒者たちが書いた生活日記を何冊か読んで見たことがありますが、そこには、結局、民族と言う言葉が現われないのです。私たち朝鮮人(我朝鮮人)、これぐらいの表現が精一杯でした。
朝鮮王朝の時代に「同胞」という言葉がありました。その言葉の使い道も、詳しく調べて見れば、民族と同じではありません。それは血を分けた兄弟という意味から、皆が同じ人の臣下だという政治道徳的な意味に至るまで、ひいては、我々東洋人は皆、孔子の教えを受けた一つの同胞だという言葉のように、一種の広い文化圏を象徴する多様な用途で使われました。「キョレ」という言葉もありましたが、それは血が通じる一家親族を現わす言葉でした。
要するに、民族という政治的共同体意識は、20世紀に入って日帝下の植民地期に本格的にできたのです。日帝の抑圧を受けながら、消滅の危機に頻した朝鮮人たちが、自分たちを一つの政治的運命共同体だと確認し改めて意識する中で、この言葉と意識が急速に普及して行ったのです。
(続く)
これは メッセージ 254 (chaamiey さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授特別講義 2(2)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/10 20:30 投稿番号: [254 / 1474]
民族主義の落とし穴から脱しよう
<解放前後史の再認識
特別講義>(2)民族は歴史的現象に過ぎない
[イ・ヨンフン(ソウル大学教授、『解放前後史の再認識』共同著者)]
2006-06-20
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1700
(翻訳その2)
このような頻繁に取り上げられる話で分かるように、今日、普通の韓国の人々において、特に今の政府が成立した以後、政権党に属した政治家たちにおいては、民族と言うものが理念的に国家より上位に位置しているようです。そうではないと頑として否定するかも知れません。それで、そうまでは言わないにしても、普通の韓国人と政治家たちにおいて、「民族」が歴史と現実を判断するにおいて非常に重要な価値基準を成しているということについては、誰も異議を唱えないでしょう。
例えば私も、若い時にそういう経験をたくさんしたんですが、『私たちの願いは統一』と言う歌を歌えば、胸が熱くなって目頭が赤くなりました。大学時代にはその歌を歌いながら、誰に言われるわけでもないのに、統一の戦士になると心の中に誓ったりしました。私のこのような経験は、普通の韓国人なら誰でも一度や二度は経験したことでしょう。
しかし、もう、私は敢えて言います。そういう熱情と感性体系としての民族は、それが集団的で盲目的なほど、すごく重要な政治的力ではありますが、また場合によっては、大韓民国の国民を一つに団結させる緊要な役割を遂行したりしますが、それでもって大韓民国を世界の先進社会、先進国家に発展させるには力不足であり、少し間違えば、大韓民国の先進国入りの道を塞ぐ歴史の足かせとして作用する可能性が大きいという事実です。
さらに進んで、「私たち同士」という最近の政治的スローガンによく現われていますが、盲目的な統一論議が、統一を進めるに当たって何より優先的に重視しなければならない自由と人権などの文明の根本的な価値を度外視することで、統一論議自体が大韓民国の根本理念と先進志向を否定する方向の大きな政治的混乱をもたらす危険性さえあるという事実です。 とにかく、私は、大韓民国が過ちにより建国されたという歴史認識の根本には、「民族」を至上の価値だと信ずる、一種の根本主義的な誤った考え方が横たわっていると思います。以下、その点について、もう少し詳しくお話ししたいと思います。
民族とは何でしょうか? それは、同一言語を使っているある人間集団が、自分たちは政治的に一つの共同体だと集団記憶する意識だと言えます。歴史が始まったはるかな昔から、隣りの民族との関係で政治的に共同の運命だったという、そういう意識を言います。このような集団意識は、それにふさわしい象徴と神話を発達させます。これら象徴と神話は、普通、民族の成立と係わる建国神話の場合が多いです。例えば、我々韓民族は同じ檀君の子孫だ。正しく、そういう神話を言います。
今日、普通の韓国人たちは、このような政治的共同体意識を、あまりにも自明のものとして受け入れています。我が民族の歴史は5千年だ、5千年の昔から韓国人は一つの政治的単位として、運命共同体として存続して来た。このような話が公的な国家儀式においてすら少しも憚りなく登場していることを、皆さんはよく知っているでしょう。しかし、果して、5千年と言う証拠はどこにありますか? こう問えば、誰も返事ができません。 それなのに、皆、そのように思っています。
大きく見れば民族と言うものがそうでした。朝鮮時代の人々に、果して民族と言う共同体意識があったんでしょうか? 私は、一つの王朝という政治体制に統合された住民集団が、肌の色も言語も同じ住民集団が共有するいわゆる共同体意識と同じような集団感情があった可能性を、慎重に検討しています。そうだとしても、それが今日のような民族感情だと直ちに言うことには賛成できません。
(続く)
これは メッセージ 251 (chaamiey さん)への返信です.
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伊藤博文の言葉
投稿者: koshien21c 投稿日時: 2006/07/10 12:37 投稿番号: [253 / 1474]
「明治日本の対韓政策」(著:深谷博治)
「韓国人の誰が、自ら、その独立を主張したのだろうか?
そして、韓国人の誰が、自ら、韓国の独立を承認したのだろうか?
あるならば聞きたい。
韓国人は、数千年来、固有の独立を有していたと主張するが、私はこれを認めることは出来ない。」
「日本は出来るだけ、韓国を独立させようとしてきた。
しかし韓国は遂に独立できなかった。
そのため、日本は、日清・日露の二大戦役を開く羽目となった。
その結果として、日本は韓国を保護国とした。
これを日本の侵略だと言うなら言うがいい。
日本は自衛上、本当にやむを得ず韓国を保護国としたのである。」
「そして、世界の大勢を見るがよい。
どんな大国も、今日まで一国で世界の平和を維持できる物ではない。
僅かに、地域ごとに平和を維持しつつあるだけだ。
これは、つまり、同盟国の必要な所以であって、
もし一衣帯水(距離が近い事を示す)の韓国に外国勢力が
影響力を行使するような自体になれば、
日本はその独立を危うくするものである。
日本は、絶対に韓国が日本に背くことを許すことができない。」
「しかし、日本は非文明的、非人道的な行為をしてまでも
韓国を滅ぼそうとするものではない。
韓国の発展は大いに日本の望むところであって、
韓国自身が国力を身につけ、発展するためならば、
韓国は自由に行動してよい。
ただ、ここに一つの条件がある。
すなわち、韓国は日本と提携するべきであるということだ。
日章旗と巴字旗(韓国旗)が並び立てば、それで日本は満足である。
日本は何を苦しんで韓国を滅ぼすことがあるだろうか?」
「自分は、本当に日韓の友好を深めるために、
誠心誠意尽くそうとしている。
しかし、日清・日露の両大戦の際に、韓国は一体何をしたのか?
陰謀以外の何をしたというのか?
戦争中は傍観者に徹していたではないか?
君たち(韓国人)は、日本が、突然やってきて韓国を
滅ぼそうとしていると思うのは、一体どのような根拠に基づくものか聞いてみたい。」
「日本は韓国の陰謀を断ち切るため、韓国の外交権を日本に譲れと主張した。
だが、日本は韓国を併合する必要はない。併合は甚だ厄介である。
韓国は自治を要する。しかも日本の指導監督が無ければ、健全な自治を遂行し難いと考える。」
これは メッセージ 1 (justina_eto さん)への返信です.
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北朝鮮制裁事項 官房長官発表7月5日
投稿者: koshien21c 投稿日時: 2006/07/10 10:44 投稿番号: [252 / 1474]
1.万景峰号の入稿を禁止した
2.北朝鮮当局の職員の入国が原則として認めないこと、その他の北朝鮮からの入国についても、その審査をより厳格に行うこととする。また、北朝鮮船籍の船舶が我が国港湾に入港する場合であっても、その乗員等の上陸については、原則として認めない。
3.在日の北朝鮮当局の職員による北朝鮮を渡航先とした再入国は原則として認めない。
4.わが国国家公務員の渡航を原則として見合わせると同時に、我が国からの北朝鮮への渡航自粛を要請する。
5.我が国と北朝鮮との間の航空チャーター便については、我が国への乗り入れは認めない。
6.北朝鮮に関するミサイル及び核兵器等の不拡散のための輸出管理に係る措置を引続き厳格に取ってゆく。
7.北朝鮮による不法行為等に関し、厳格な法執行を引続き実施する。
8.北朝鮮の対応を含めた今後の動向を見つつ、更なる措置について検討する。
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日本から在日による送金停止は今後を待つしかないのか。
更には、総連の資産凍結も手段としてある。
これは メッセージ 1 (justina_eto さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授特別講義 2(1)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/09 17:46 投稿番号: [251 / 1474]
民族主義の落とし穴から脱しよう
<解放前後史の再認識
特別講義>(2)民族は歴史的現象に過ぎない
[イ・ヨンフン2006-06-20]
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1700
(翻訳その1)
考えて見れば、大韓民国が過ちによって立てられた国だという主張が、他の国でもない大韓民国の内部で、それも名望ある学者たちから、はなはだしくは大統領を始めとする政界のリーダーたちによってまで提起されていることは、まことに珍しい現象だと言えます。この地球上のどこにそんな国がありますか? 私は知りません。
すべての国が、自分の国は道徳的に正当な歴史を持っていることを主張しています。そういう歴史意識を若い世代に公教育を通じて植えつけることで、国が危機に直面した時その国を守る国民を養成しています。建国史を捏造しようという話ではないのです。伝統時代の王朝のように竜飛御天歌を書こうという話でもないですね。また、国家を無条件に神聖視しようということでもないです。そんな国家主義的発想は警戒する必要があります。
しかしながら、国家の歴史に自負心を持つ健全な国民を教育することは、国家が国家として存立する限り放棄することができない義務のようなものだと私は思っています。自分の国は間違って建国された国だということを韓国人たちが主張するには、何か特殊な精神史的な背景があります. その精神史的背景とは何でしょうか。
そのことに関して、私は、かねてから二つのことを考えています。一つは、朝鮮王朝時代からの思想的伝統です。そこでは、政治と国家は、あくまでも道徳政治と道徳国家として存在しました。道徳とは、忠と孝と悌で結ばれる人倫を言います。人倫の完成形態として政治が語られ、国家はその人倫の制度化された道徳を言います。したがって、国家はいつも道徳的論難の対象になります。国が過って建てられたと語ることは、結局、国を愛して国の発展のための忠実な気持ちで語るのだという、奇妙な論理がそこで成り立ちます。
朝鮮王朝実録を見れば、科挙に合格したばかりの新進官僚が元老大臣を、はなはだしくは国王に対してさえ、その道徳的過ちを指摘しながら厳しく批判します。そのことによって、その士は本当に立派な士だという評判を得るようになります。このような知的伝統があって、国が常に道徳論争でうるさかったことが朝鮮王朝500年でした。ここでは、社会を統合する公的理念とそれを実現する政党的暴力としての国家に対する近代的理解が存在しません。公の理念と私の道徳が、全面的に混沌を起こしていますね。
初代大統領李承晩が、国造りの基礎作業という公的領域で、何の目的のためにどんな手段を動員し、その結果はどうだったかという政治学が、そういう考え方では成り立たないです。李承晩は道徳的に堕落した人だった。 一身の栄達のために何でもする人だった。このような人身攻撃的な道徳的非難が、李承晩批判の主流をなしています。
李承晩の一代記をよく見れば、そのような非難を浴びるに値する理由が無いわけではありません。しかし、そのように道徳的に負い目のない人がどこにいるでしょうか。ロシアの革命家レーニンも、あまりにも多い傷と欠陥の人格でした。一時、彼は同志らを裏切って、革命の敵から援助と保護を受けたこともあります。彼は淫らだったし、結局梅毒で死んでしまいました。しかし、このような私的道徳でレーニンを批判しては、射的が正確だとは言えません。
他の一つは、やはり性理学から受け継いだ、道徳的で根本主義的考え方に起因しています。まさに民族という根本主義的捉え方がそれです。民族統一が成る前には歴史は未完だ、統一を成せば近代国民国家は完成される、民族の分断をもたらしたから大韓民国の建国史は始めから過ちだった、等々です。
(続く)
これは メッセージ 250 (chaamiey さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授特別講義 1(3)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/09 08:12 投稿番号: [250 / 1474]
大韓民国は誤って立てられた国という認識
<解放前後史の再認識特別講義>(1)解放前後史の認識批判
[イ・ヨンフン(ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同著者)]
2006-06-19
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1699
(翻訳その3)
第4冊のチェ・チャンジプとチョン・ヘグ教授が共同で書いた総論は、『解放前後史の認識』全体の完成を示し、 『解放前後史の認識』全体を総括する一番重要な位置にあります。二人の教授は、前の三人の道徳的審判と歴史認識と革命理論を前提とした上で、朝鮮戦争の起源と性格に関するアメリカ研究者のいわゆる修正主義と呼ばれる研究成果を全面的に受け入れながら、植民地期→解放→分断→朝鮮戦争に至る歴史過程の全体を総括的に論じています。この文は、まさにスケールが大きい論文です。
ここで注目されることは、北朝鮮政権の性格に関する言及が出始めるという点です。彼らの主張を聞いて見れば、北朝鮮は、革命的なソ連軍のサポートのもとに革命勢力と革命的な民衆が連合した政権として、アメリカ帝国主義及びそれと結託した反民族・反革命勢力の支配の下にある南韓を解放させる「民主基地」だったというのです。朝鮮戦争も南北韓政権のそうした性格の差で理解される必要がある、と彼らは主張しています。
南韓と北韓の政権のお互いに異なる性格は、結局、大規模な軍事衝突の形で現われるしかありませんでした。 ところが、残念ながら、アメリカが戦争に介入することで南韓の解放と革命は挫折し、分断体制が固定してしまったというのですね。まさに大韓民国の歴史的正統性を否定する話が、大韓民国の国内で、しかも制度圏に属する大学社会から最初に申し立てられた、そういう危ういテーマが第4冊の総論だと申し上げたいです。
第5冊の総論は、キム・ナムシクと言う人が書きました。ここではさらに大胆に、北朝鮮の主体思想が紹介されています。北朝鮮は反帝国主義、反封建民主革命で社会主義に進む革命国家です。その国家の歴史と現実を総体的に理解するためには、主体思想というイデオロギーに接近する必要があるとキム・ナムシクは力説しています。最後の第6冊の総論は、パク・ミョンリム教授が書きましたが、第4冊の総論と大同小異の内容の繰り返しという感じなので、詳しく紹介する必要はないでしょう。ハンギル社という出版社が、5巻までよく売れたのでもう一冊作って見たという程度の意味しか無いようです。
以上のように全6冊で展開された『解放前後史の認識』の主要内容は、次のようないくつかの命題に要約することができると思います。これらの命題は、論理的に上昇関係にあります。一つが抜ければ次が説明できないという緊密な相互依存関係があり、抽象的な歴史理論から具体的な社会変革理論へ発展して行く関係にあります。
①植民地時期から植民地半封建社会という社会経済の性格に規定されて、社会主義を志向した反帝国主義、反封建革命が展開されて来た。
②解放以後、反革命的なアメリカが占領した南韓では、米軍政と少数反民族勢力が結託して反帝国主義、反封建革命を挫折させ、その結果、半植民地的従属と半封建的地主制の搾取が社会経済の主要矛盾として温存されることになった。
③一方、革命的なソ連軍が入って来た北朝鮮では、反帝国主義、反封建革命が成功した。
④朝鮮戦争は、民主基地である北朝鮮がアメリカの植民地的支配の下にある南韓を解放させようとした性格を持つ。
⑤結局、植民地時期から朝鮮戦争に到る解放前後史は、アメリカ帝国主義と革命的な韓国民衆が熾烈に対立した時代であると規定することができる。
以上が 『解放前後史の認識』の核心テーマだと言えます。(特講2に続く)
イ・ヨンフン(ソウル大学教授、『解放前後史の再認識』共同著者)
*イ・ヨンフン教授の<解放前後史の再認識特講>は、EBSラジオホームページ(再び聞く)で聞くことができます。
http://www.ebs.co.kr/Homepage/?progcd=0002420
(翻訳終わり)
これは メッセージ 249 (chaamiey さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授特別講義 1(2)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/08 17:28 投稿番号: [249 / 1474]
大韓民国は誤って立てられた国という認識
<解放前後史の再認識特別講義>(1)解放前後史の認識批判
[イ・ヨンフン(ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同著者)]
2006-06-19
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1699
(翻訳その2)
第1巻では、大韓民国の建国主体に対する道徳的な批判が主流をなしています。それで、表現が荒くて感情的なところが多いです。報道人出身の宋建燕が書いた総論を見れば、「解放後、占領軍である米軍政下で、親日派事大主義者たちが勢力を得て愛国者たちを踏み付け、一身の栄達のために分断の永久化を企て、民族が分断される悲劇が発生した。」と書いています。彼は、「1948年に成立した大韓民国は、新生政府であるのに不正腐敗がはびこって、新鮮な気風の見られない、まるで老衰国のようだった。」と激烈に批判しています。
大韓民国の建国史についてのこのような一種の道徳的審判を前提とした上で、『解放前後史の認識』がそれなりの論理体系を立て始めるのは、第2巻からです。第2巻の総論はカン・マンギル教授が書きましたが、彼の有名な「分断時代の歴史認識」がそこで紹介されます。
要するに、植民地時期には民族解放が至上命題だったように、解放後の分断時代には民族統一が至上命題だ、民族統一が成就するまでは、完全な市民社会と近代国家が成り立ったとは言えない、よって、至上命題である統一を成就するために、政治は民族政治、経済は民族経済、社会は民族社会、文学は民族文学、芸術は民族芸術にならなければならない、ということがまさにカン教授の有名な「分断時代の歴史認識」の要旨です。
そのために歴史家がすべきことは何でしょうか? 金九先生がそうだったように、38度線に立つ中間的存在の立場で、自分が属している南と北の体制に埋没することなく、そこから出て休戦ラインに立つ中間子の立場で、解放後に南と北が分断され朝鮮戦争を通じて分断が固着して行く過程を客観化する必要があると彼は主張しています。
第2巻が史学とすれば、第3巻では、社会経済の分析とそれに基づく革命理論が提示されます。第3巻の総論は、朴玄采先生です。朴先生によれば、植民地期と米軍政期は、植民地半封建社会です。人類史的に大きく見れば資本主義社会だが、帝国主義支配下で地主制を中心に半封建的要素が強く残っていて、社会経済的変革が反帝国主義と反封建的土地改革を主要課題とする社会だというのです。解放政局当時、このような話をするのは社会主義者の人々でした。社会主義革命を直ちに遂行する与件は揃っていないというのですね。まず、人口の多数を占める農民たちの階級的利害関係を社会主義政党が代弁してブルジョア的な土地改革を遂行し、そのように農民の支持を確保した後に、適当な時機を見て社会主義革命に進まなければならない、と彼らは主張しました。いわゆる2段階革命論です。
このような革命論を成功的に実践したのが、あの中国共産党による新民主主義革命ですね。毛沢東がその革命を思想的、理論的に指導したのです。そういう毛沢東の思想と革命理論、すなわちマオイズムを、解放後の韓国の共産主義者たちが取り入れました。朴玄采先生もそういう思想を受け継いだ人と見られます。それで上のような革命理論を主張したのです。1970年代までは、そういう主張を公に申し立てるのは大変でした。ところが韓国の民主政治が発達するに従い、1980年代中盤から思想の自由が開かれるようになりました。そういう時代的変化を反映して、マオイズムに立脚する人民主体の革命理論を大っぴらに主張したのが、この『解放前後史の認識』第3冊だと言えます。
(続く)
これは メッセージ 246 (chaamiey さん)への返信です.
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Re: イ・ヨンフン教授特別講義 1(1)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/08 09:01 投稿番号: [248 / 1474]
9の次に1が出てきて混乱させてすみません。ただ、この1が「第1講」なのです。第3講から翻訳を始めたために、紹介する順序が遅れた次第です。
これは メッセージ 247 (jgeilsbandfreek さん)への返信です.
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Re: イ・ヨンフン教授特別講義 1(1)
投稿者: jgeilsbandfreek 投稿日時: 2006/07/08 08:45 投稿番号: [247 / 1474]
恐れ入ります。
「9」の次は「A」がよろしいかと存じます。
これは メッセージ 246 (chaamiey さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授特別講義 1(1)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/08 08:41 投稿番号: [246 / 1474]
大韓民国は誤って立てられた国という認識
<解放前後史の再認識特別講義>(1)解放前後史の認識批判
[イ・ヨンフン(ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同著者)]
2006-06-19
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1699
(翻訳その1)
この文は、『解放前後史の再認識』の共同編集者イ・ヨンフンソウル大学教授のEBSラジオ企画特講の内容を整理したものです。EBSラジオは6月19日から6日間、毎日12時20分〜13時まで40分間、イ・ヨンフン教授の<解放前後史の再認識特講>を放送する予定です。
ニューライト・ドットコムは、大韓民国の建国史に対する正しい認識をより広く知らせようという主旨によって、イ・ヨンフン教授の特講内容を整理して、毎日1主題ずつ12日間にわたって掲載することにしました。特に、時間制限によって放送されなかった内容も含まれており、より幅広い理解ができることと思います。読者の皆さんの多くの関心と参加をお願いします。(編集者注)
本文
大韓民国は間違って建国された国だという歴史認識が、広く広がっています。その理由を聞いて見れば次のようなものです。まず、地主階級などの親日派たちが国を建てたというのです。反民族的な親日派を清算することができなかったし、彼らが主導して国を建てる中で、民族の精気が曇るようになったというのですね。
今日、韓国の政治と社会は、不正腐敗など多くの問題を抱えています。これらすべての問題の歴史的根源を辿って見れば、1949年8月、李承晩大統領が反民族特別行為調査委員会を強圧的に解散させ、親日派の清算作業を中断させたところにその原因があるという話です。少数の親日派たちが、自分の安全と栄達のために国を建てるはずみに民族が分断されてしまったという認識も、広く広がっています。
1946年6月、李承晩は、全羅道井邑で南韓単独政府論を演説しました。まさにこの理由で、民族分断の責任は李承晩にあると言います。北朝鮮は最後の瞬間まで民族統一の機会を模索したが、1948年8月15日、南韓において大韓民国が樹立されるのを見て、やむを得ずその次の月である1948年9月に朝鮮人民民主共和国を樹立したというのです。それで、反民族的でアメリカの支配の下で事実上の植民地のような南韓を解放するために6.25戦争(朝鮮戦争)が起きたが、このような前後の歴史的経緯を見れば、それは民族解放戦争であると同時に民族統一戦争であるというのです。
このような大韓民国建国史に対する否定的な評価は、決して古い話ではありません。去年でしょうか、東国大学のある教授が、そういう主張を堂々と展開しました。彼は、あくまでも学者の一人として学問の自由に立脚してそういう話をすると堂々と主張しています。その教授だけの話でもありません。
6.25戦争は民族解放戦争だというその教授の話が現行国家保安法に抵触すると検察が判断して、彼を拘束しようとした時、現法務省長官は、建国以後初めて、自分に付与された法的権利を行使してこれを霧散させました。私は、法理がどうであるかはよく分かりませんが、その教授の言うことがとんでもないことだとは考えない人々が、現政権勢力の中に多数いることは事実のようです。
私は、これから6日間にわたるEBS放送の企画特講と言うプログラムを通じて、このような私たち大韓民国の建国史理解が非常に間違っていることを主張しようと思います。そういう話は論理的にもまた実証的にも当たらない話です。 そういう私の考えを、順次、ゆっくりと話して行こうと思います。
まず、こんな話を世間に広くまき散らすのに大きい功を立てた本があります。その本に対する批判から私の話を始めます。『解放前後史の認識』(ハンギル社、1979―1989)と言う本がそれです。この本は 1980〜1990年代に大学に通った人々に、言い換えれば今日30〜40代の韓国人に、あまりにも大きい影響力を及ぼしたことが知られています。ほとんど、読まない人がいないと言うほどであり、6巻合わせておよそ100 万部売れたと言います。
この6冊の本には、本ごとに総論があります。総論は、その本の内容と性格を集約して反映しますね。その総論を中心に、6冊の内容を順次紹介します。
(続く)
これは メッセージ 245 (chaamiey さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授特別講義 9(4)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/07 23:10 投稿番号: [245 / 1474]
李承晩大統領を正しく知る
<解放前後史の再認識特別講義>
(9)実用主義、民族主義者李承晩は大韓民国建国の元勳
[イ・ヨンフン
2006-06-28]
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1732
(翻訳4)
そういうはっきりしない状況で、親日派問題は、左派と右派政治勢力の間の最も深刻な対立点の一つになってしまいました。左右間の対立だけでなく、同じ右派同士もこの問題を巡る対立は深刻でした。1945年12月中旬、ソウルの国一館で起った事です。帰国した臨時政府の要人を歓迎する席が、韓民党の幹部によって用意されました。その席で臨時政府の申翼煕が 「国内にいた者は、多かれ少なかれ皆親日派だ。」と言いました。すると張徳秀が、「それでは私は間違いなく粛清される組だな、そうだろう?」と言い返しました。続いて、紹介することも憚られるような言い争いが起りました。この苦いエピソードは、当時から、いわゆる親日派の粛清問題が、国造りという重大な歴史的使命を控えた人間たちを、どれほど戸惑わせていたかをよく物語っています。
これに対する李承晩の立場は次のようでした。彼が初代内閣を構成して発表すると、一部閣僚の中に親日経歴の持ち主が含まれていることに対して批判の世論がおこりました。これに対して李承晩は、「悪質な独立運動妨害者以外に親日派と言うものはありえない」と断固たる立場を見せました。非難されるかも知れませんが、私は、李承晩大統領のこのような主張に共感します。
初代政府の経済省庁に勤めたある年配の方の回顧によれば、当時の政府の官僚たちは、親米派、親中派、親日派に分けられたと言います。親米派はアメリカ出身で少数の高位職であり、親中派は中国から臨時政府と共に帰って来た人々であり、政治的立場が一番強いが実務能力に欠けた人々だったし、数の上で一番多い親日派は、日本に留学をしたとか国内大学の出身者たちであって、政治的立場が一番弱いながらも実務能力は一番優秀だったと言います。
そんな状況で、反民特委の活動は、政府の実務官僚たちを動揺させました。済州島と麗水・スンチョンでは南労党(南朝鮮労働党)の起こした反乱が展開している中でした。
そういう政治的混乱期に、反民特委は、法的に与えられた1年の期限で既にその歴史的使命を尽くしたと見られます。少なくとも、李承晩大統領はそのように思ったようです。それはどうしても不十分なのでした。しかし、それは、大韓帝国が滅亡して40年間日帝の植民地支配を受け、他人の力によって解放されて独立した国としては、歴史の業報(因果)とも言うべきものでした。
胸にしまったまま沈黙することで皆が皆に寛大になる必要がある、そういう歴史的業報でした。長年の沈黙の後に歴史の省察として後世に静かに伝えて残す、そういう業報でした。この問題についての初代大統領の苦悩に満ちた政治的決断はそういうものであったと、私は見当をつけています。
もちろん、李承晩は完璧な人ではありませんでした。権威主義的で固執不通だったという道徳的批判には、私も同意することができます。そのために彼が犯した政治的間違いもあると思います。しかし、国を建てるという何世紀に一度有るか無いかの極めて重大な政治的事件に係わる限り、歴史的人物を個人的性分や執権以後のいくつかの政治的過誤で見逃しては、公正な評価になりません。彼が追い求めた政治的理想は何だったのか、その国を盤石にするために彼の追い求めた国際政治はどんなものだったのか、内政・外政に努力した彼の業績は以後長期的にどんな影響として残ったのか、等々の政治史的視覚で李承晩は再評価されなければなりません。
そんな視覚で見直せば、李承晩は、彼を除いては大韓民国の出発を説明することができないくらい国造りに大きな功績を残した人です。 大韓民国の歴史教科書は、彼を建国の元勳として丁寧に扱う必要があります。彼と政治的に対立した人々、甚だしくは北朝鮮の金日成まで単独でその顔が出てくる歴史教科書に、どうして李承晩大統領の単独写真はないのでしょうか。あまりに馬鹿馬鹿しいデマのような非難が中・高等学校の教科書に横行しているので、その点を敢えて指摘しておかざるを得ません。
イ・ヨンフン(ソウル大学教授、『解放戦後史の再認識』共同編集者)
(翻訳終わり)
(翻訳者の感想)
この文章には、赤字太字で特に強調したくなるような部分があります。
これは メッセージ 244 (chaamiey さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授特別講義 9(3)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/07 21:12 投稿番号: [244 / 1474]
李承晩大統領を正しく知る
<解放前後史の再認識特別講義>
(9)実用主義、民族主義者李承晩は大韓民国建国の元勳
[イ・ヨンフン
2006-06-28]
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1732
(翻訳3)
第三に、李承晩は、終始一貫、民族主義者でした。アメリカで40年近く暮しながらも、彼は、結局アメリカの市民権を取得しませんでした。独立運動に絶望したりあきらめたりしなかったことは、今後分かります。彼を親米事大主義者と呼ぶのは、まことに無責任な非難です。彼は、解放以前から、事ごとにアメリカ国務省と摩擦を起こしました。解放以後には米軍政長官と激しく反目しました。米軍政が左右合作を推進したからですね。李承晩の反共主義は、その路線を受容することができませんでした。のみならず、李承晩の現実主義的感覚で見れば、それは始めから空想でした。
李承晩の実用主義と民族主義がその在任期間に残した最大の業績は、1956年にアメリカと締結した「韓米相互防衛条約」と言えます。李承晩はアメリカに相互防衛条約の締結を繰り返し要求したのですが、アメリカは、韓国のように弱小な国と同盟を締結することに何の魅力も感じなかったのです。そんなアメリカを軍事同盟に引き入れるために、李承晩は韓半島にかかったアメリカの利害関係を、アメリカに圧迫を加える外交カードとして充分に活用しました。
彼は休戦に反対し、絶えず北進統一を唱えました。彼の叫ぶことが単に口先だけのことではないことを、アメリカは悟ることになります。ある日、巨済島で数万人を突然に釈放したから、全世界が驚きました。李承晩がアメリカの鼻をつねったというわけです。そんな無謀な外交を、当時の米国人たちは 「刀を口に咥えて飛び跳ねるようなもの」と形容したりしました。
しかし結局、アメリカは、韓国軍をアメリカの統制下に置くという実用的な計算から、韓国と相互防衛条約を締結します。李承晩は、大陸の共産主義国際勢力から大韓民国を防衛する一番確かな手段を、韓米同盟から得ることができるようになりました。
このように、韓米同盟を締結するまで李承晩が広げた巧みな外交については、『解放前後史の再認識』第2巻に収録されたチャ・サンチョルの 『李承晩と1950年代の韓米同盟』という論文が良い参考書です。ラジオをお聞きの皆さんは、必ず手に入れて読んでください。
李承晩に対するあらゆる謀略じみた非難が信じられるようになった理由の一つは、彼が親日派を清算するための「反民族特別行為調査委員会」の活動を中断させた事実にあると思います。これからその点について考えて見ましょう。反民特委は1948年10月に設置され、1949年8月末、公訴時効が満了するまで活動しました。その期間に305人が逮捕、221人が起訴、40人が裁判に附されて12人に実刑が宣告されました。
ところが、今日、当時の裁判記録を読んで見れば、反民特委の活動は事実上はじめから重大な限界に突き当たっていたことが分かります。高等警察のように独立運動を露骨に邪魔して弾圧した人々を除いた他の人々の場合には、裁判と言うものが一種の道徳訓戒と自己反省の域を出なかったです。他人の財産と人命を奪って殺傷したというような実定法上の犯罪ではなかったからですね。検事が犯罪を論証して弁護人が反論する、そのように法理を熾烈に争う裁判ではなかったのです。
ここで私たちは、再び、解放が如何に成り立ったのかを想起せざるを得ません。 先立って指摘したように、解放は私たちの力で成就したものではありません。独立軍が日本軍を押し出す戦争を通じて解放を成就したのであれば、親日派の粛清問題は問題にならなかったはずです。ナチに対抗してレジスタンスが活躍したフランスがそうだったと知られていますが、悪質な親日派たちは、戦争の途中で既に処刑されたはずです。処刑を逃れるために、親日派たちは日本軍に付いて日本へ逃げなければならなかったでしょう。ところが、連合軍が日帝を降参させる副産物として解放になったため、そのような与えられた解放空間では、誰も親日派を粛清する物理的な力と道徳的権威を持つことができなかったのです。
(続く)
これは メッセージ 243 (chaamiey さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授特別講義 9(2)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/06 21:47 投稿番号: [243 / 1474]
李承晩大統領を正しく知る
<解放前後史の再認識特別講義>
(9)実用主義、民族主義者李承晩は大韓民国建国の元勳
[イ・ヨンフン
2006-06-28]
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1732
(翻訳2)
以後5年間、彼はハーバードとプリンストンで国際政治学を勉強し、韓国人としては最初の政治学博士を取得します。以後彼がした外交主義独立運動は、彼の批判者たちがよく指摘して来たように、1945年に日帝が敗亡するまでついに成功しませんでした。彼は敗亡した国の無気力さをその過程で何度も痛切に感じました。このような経験を繰り返しながら、彼は、どんな名分論にもたやすく惑わされることのない、非常に徹底的な現実主義的で実用主義的な政治家に成長しました。
その良い例を、私は、最初の憲法の制定過程に見出します。リュウ・ジンオなどの若い法学者たちが下書きをした政府の形態は、内閣責任制でした。これに対して李承晩は強く反撥し、大統領責任制に変えました。彼の権力欲のためでしょうか? 私は、60年が経過する今日、韓国政治の日常的行動を見ながら、まだ内閣責任制は我が現実に合っていないと思います。対話と妥協の技術が相変らず足りないからです。
1987年でしたか、いよいよ長年の開発独裁の時代を終息させる大統領選挙が行われた時、どんなことが起きましたか? YSとDJ(訳者注:金泳三と金大中)という二人の野党リーダーが早く大統領になりたいという欲心を抑制することができず、結局、野党を分裂させつつ、また出身地域を分裂させながら、同時に出馬したではありませんか? どれほどこっけいな事でしたか。そんなでたらめみたいな事はその以前にも多かったし、また2006年の今日でもたびたび繰り返されていると私は思います。
そのように権力を鼻の前に置けば民主化運動を共にした政治家たちさえ分裂するのであれば、それより40年前の創始期の大韓民国の政治に、対話と妥協の芸術とも言うべき内閣責任制を安定的に立てる能力が不足していたと見ても、大きい誤りではないでしょう。李承晩が内閣責任制を流産させたのは、創始期の貧弱で混乱する国家は力強いリーダーシップを要求するという現実主義的政治原理に忠実だったからであって、自分の権力欲のためではなかったのです。
李承晩は、自分の政治目的のために、動員可能なすべての手段を動員することをためらわない政治力量を発揮しました。彼は、人間たちの名誉と権力と金に関する虚しい欲望を餌にして、自分の政治勢力を組織して彼らを動員しました。
所期の政治的目的を果たした後、李承晩は、新しいパートナーを求めて彼らを捨てました。このような李承晩の政治技術については、『解放前後史の再認識』第2巻に載せられた金日英の「戦時政治の再照明〜釜山政治波動の多次元性に対する複合的理解」と言う論文が、興味深い説明をしています。金日英教授によれば、当代の政治家として、政治のそういう本質を李承晩以上によく理解して駆使した人はいないと言います。
彼は確かに権威主義的でした。しかし、彼の権威主義政治は、彼の個人的恥部につながらなかったです。彼は禁慾的であり、清廉に暮しました。彼の政府に官僚として在職した人々は、彼が不足するドルを惜しむために、ただ1ドルの支出も直接決裁したことをよく知っています。ある自覚の足りない外交官が東京に出張した際に高級料理店に入り、激怒した大統領の叱責を受けたことはよく知られた事実です。新生後進国の政治リーダーとしてそのような美徳を見せた人は、あまり多くはいませんでした。彼は何も残さないで、無一文で死にました。
(続く)
これは メッセージ 242 (chaamiey さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授特別講義 9(1)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/06 13:50 投稿番号: [242 / 1474]
李承晩大統領を正しく知る
<解放前後史の再認識特別講義>
(9)実用主義、民族主義者李承晩は大韓民国建国の元勳
[イ・ヨンフン
2006-06-28]
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1732
(翻訳1)
大韓民国を建てるに当たって、李承晩(イ・スンマン)初代大統領の功労がこの上なく大きかったことは、言うまでもありません。しかしながら、世間では、この大統領に対する否定的評価で一杯です。初日の講義で紹介しましたが、宋建燕は『解放前後史の認識』第1巻で、李承晩を親米事大主義者で個人の執権欲に捉われたあげく分断を企てた、分断の元凶であると責めました。その他に、李承晩は独立運動の分裂者であり、独りよがりの権威主義者であり、工作の巧みな政治師であり、親日派の保護者であり、不正腐敗の主犯というあらゆる非難があちこちから聞こえます。
李承晩に対するあらゆる非難は、ほとんどデマに近いと言えます。それは一種の陰謀とも同じです。大韓民国の建国史を卑下するために周密に企画された陰謀の一番重要な鍵が、まさに李承晩否定です。問題の重大さを悟り、私は、李承晩に関する5、6種の傾向の異なる研究書を検討しました。私なりの観点は初めから持っていないと言えば嘘になりますが、 出来るだけ公平に彼の一代記を評価して見たかったのです。まだ短い読書ではありますが、私は、次のようないくつかの結論に到逹しました。
第一。李承晩は徹底的な自由民主主義者でした。自由民主主義は、彼においてはほとんど宗教的でした。1875年に生まれた李承晩は、20歳まで科挙試験のために伝統性理学を勉強しました。彼は、甲午改革以後科挙制度が廃止されると培材学堂に入り、徐載弼(ソ・ジェピル)先生を通じて西欧の思想に接するようになります。以後李承晩は独立協会活動に熱心でした。 そうするうちに高宗皇帝の廃位陰謀に加わった反逆罪に問われ、1899年からおよそ6年間監獄に閉じこめられることになります。生と死の岐路で、彼は、培材学堂で聞いた宣教師の説教を思い出したり、キリスト教に傾くようになります。
キリスト教の精神世界に関して私は良く分かりませんが、だいたいこのようなものではないかと思います。絶対者である神様の前で、罪を背負う者として一人で立つ人間は、ひたすら神の啓明と召命を忠実に遂行することで、その魂の救済を得ることができます。誰もその救済を代理することができず、 ただ神の前に一人立ち、自分の責任で救済を成就するしかないです。そういう宗教的救済観において、キリスト教の精神世界は徹底的に個人主義的だと私は思います。
その点で、性理学の伝統精神世界と非常に違うと思います。性理学の精神世界では、人間は、父子、君臣、兄弟、長幼、朋友などの人間関係の一環としてのみ、その存在論的根拠が与えられます。そういう我が東洋の伝統精神世界に比べると、西欧のキリスト教は、孤独と言いますか不安と言いますか、そういう不安定な精神世界を特質にしています。その個人主義は、人間の社会的関係や政治的行為に関しては、自由主義として表現されると考えられますが、ここではこれ以上そんな複雑な話はやめておきましょう。
ともかく、改宗以後の李承晩の一生は宗教的な人生でした。李承晩の宗教的精神世界は、政治家として彼を自由民主主義の非妥協的な実践家に育てました。彼にとって、共産主義との妥協はありえないことでした。彼は、アメリカ人も驚くぐらいの徹底した反共主義者でした。以後の解放の政局で李承晩が取った政治姿勢と選択を理解するためには、この点を何より前提としなければなりません。
第二。李承晩は、徹底的に実用主義的な政治家でした。彼は政治の実利的な理解妥協と、特に国際政治の冷酷さに対しては誰より明るい人でした。彼は、大韓帝国の滅亡過程をその目で現認した人です。為政者が政治的選択をどう誤れば、一つの社会が精神的にどう堕落すれば、一つの国家が滅びるかを彼ははっきり見ました。監獄から出た後、彼は、アメリカに渡ります。アメリカの助けで大韓帝国の滅亡を阻止しようという思惑でした。その最初の失敗した外交活動で、李承晩は国際政治がどれほど冷徹なものかを悟ります。
(続く)
これは メッセージ 241 (chaamiey さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授特別講義 8(4)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/06 11:38 投稿番号: [241 / 1474]
朝鮮戦争は誰がどう引き起こしたのか
<解放前後史の再認識 特別講義>
(8)韓半島全体を吸収しようとしたソ連の稠密な計画
[イ・ヨンフン(ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-27
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1731
(翻訳4)
以上、キム・ヨンホ教授の論文を中心に朝鮮戦争の性格を御紹介しましたが、最後にもう一つ、最近出た木村光彦の研究成果、『北朝鮮の軍事工業化』という本に基づいて、朝鮮戦争勃発の歴史的背景に関して追加します。木村教授は、金日成が南侵を決心するようになったことに関連して、北朝鮮に優秀な軍事工業施設が存在したという事実の大切さを想起しています。
先日の「日帝がこの地に残した遺産」で指摘しましたが、日帝は1930年代後半から1945年まで、軍事工業として製鉄・電気・化学工業を韓半島の北部地方に大量に建設し、その大部分は、ソ連軍政を経て北朝鮮政権に引き継がれました。そんな生産施設及び日帝が備蓄した原資材と部品の在庫が豊かだったから、解放後の北朝鮮経済は、南韓に比べて格別の大きな混乱なしに速かに工業生産を回復することができました。元々、各種原料資源と動力を北朝鮮地方で自給することができる工業施設だったからです。
約800人に上る日本人技術者たちが戦争の前まで抑留されたことも、工業生産を迅速に復旧するために大きく役に立ちました。1950年前半まで、北朝鮮は、小銃・機関銃・迫撃砲のような小火器から弾丸・大砲弾・手榴弾・各種火薬を自主生産する水準に到逹しました。元々日帝が平壌に建設した従業員6千名の平壌兵器製造所と言う施設がその代表的な例です。解放後、この工場は、M精工と言う秘密暗号で呼ばれるようになりましたが、戦争の前に金日成が同工場に立ち寄って兵器と爆弾生産を督励したことが、後に米軍が捕獲した文書から明らかになります。
このような北朝鮮の事情に比べれば、南韓はほとんど何もないと言うべき状況でした。金日成には、米軍が撤収した南韓を軍事的に占領することは朝飯前のことに見えました。 それでしきりにスターリンに南侵の計画を建議したのです。言い換えれば、北朝鮮が戦争を挑発することができた力は、日帝が満洲と中国を攻めるために北朝鮮地方に建設した軍事工業にありました。日帝が建設した軍事工業が、後日、金日成が南侵を敢行する軍事力になったという事実はまことに皮肉なことです。お聞きの皆さんは、誰が軍国主義日帝の真正な継承者であるかを、易しく思い出すことができるでしょう。
(翻訳終わり)
(翻訳者注)
この文では「朝鮮戦争」という表現を用いましたが、原文では「韓国戦争」となっています。
これは メッセージ 239 (chaamiey さん)への返信です.
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リンク 民族 鉄砲丼…
投稿者: ricky_eto 投稿日時: 2006/07/06 08:43 投稿番号: [240 / 1474]
これは メッセージ 1 (justina_eto さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授特別講義 8(3)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/06 08:23 投稿番号: [239 / 1474]
朝鮮戦争は誰がどう引き起こしたのか
<解放前後史の再認識 特別講義>
(8)韓半島全体を吸収しようとしたソ連の稠密な計画
[イ・ヨンフン(ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-27
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1731
(翻訳3)
連合軍の国際的友好体制を、1944年のヤルタ会談から始まったとして、ヤルタ体制と呼びます。ソ連は、そのヤルタ体制の一環としてアメリカと協調して38度線を引いてその以北を占領し、また日本の北方領土サハリンを占領したのです。ところで、スターリンは、アメリカとの冷戦が深まる中で、新しく浮上してきた国際社会主義の盟邦である中国共産党政府と友好同盟を結ぶしかありませんでした。1950年1月22日のことでした。言い換えれば、ヤルタ体制が崩壊したわけです。38度線も、もう友好的な分割線ではなくなりました。
ところで、その数日前の1月17日、金日成は再び南侵計画をスターリンに建議します。ようやくスターリンは、1950年1月30日、38度線を突破して南下するという金日成の提案を承認する秘密電報を平壌に送ります。結局、中国革命の成功でアジアで有利になった状況を積極的に利用して、アメリカとの冷戦対決で決定的な勝機を呼ぶための攻勢政策の一環だったわけです。言い換えれば、韓半島全体をソ連の影響圏内に吸収しようとする積極的な攻勢政策でした。
金日成の南侵計画を承認したスターリンは、1950年4月、極秘裡にモスクワを訪問した金日成と会談します。その席でスターリンは、アメリカが介入する可能性を検討し、その対策として、中国の毛沢東から了解と支援を受けるように指示します。以後5月13日、金日成は北京の毛沢東を訪ね、南侵計画を明らかにして協助を求めます。毛沢東は、別途の経路で、スターリンが既にその計画を承認したことを確認します。もし開戦後にアメリカが戦争に介入すれば、中国が兵力を派遣して北朝鮮を助けると約束します。
直ちに、毛沢東は、満洲沈陽(?)近辺に9個師団を配置します。同時に、ソ連との軍事防衛条約を急いで締結します。スターリンは、毛沢東に、アメリカの介入を恐れるなと励まします。もしアメリカが鴨緑江を越えて満洲にまで進撃すれば、中国とソ連の挟撃を受けてアメリカは大きな失敗を味わうと壮語します。このように、朝鮮戦争は、満洲という広大な地域を罠としてアメリカをそこへ誘引する実に恐ろしい国際的陰謀として企画されたのです。
一方、アメリカは、冷戦が深くなるに従って、日本に対する占領政策を日本の経済を復興させる方向に切り替えるようになります。そのように、米国側によってもヤルタ体制は事実上解体されました。そんな状況で、韓半島の南側までさえ支配するというスターリンの軍事的攻勢を黙過することはできなかったのですね。
結局、朝鮮戦争は、冷戦での勝機を呼ぶためのアメリカとソ連の譲歩することができない威信戦争として起きたのです。これまで、朝鮮戦争が勃発することになった総体的原因と責任をアメリカに負わせて来たいわゆる修正主義学説は、こんな風に戦争の勃発過程を詳細に伝えるモスクワの秘密文書が公開されたことによって、これ以上拠り所が無くなってしまいました。それはまことに緻密に企画されて推進された国際戦争でした。戦争の様相が形容し難いほど血生臭い展開となったのも、まさにそのためでした。
(続く)
これは メッセージ 238 (chaamiey さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授特別講義 8(2)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/05 22:59 投稿番号: [238 / 1474]
朝鮮戦争は誰がどう引き起こしたのか
<解放前後史の再認識> 特別講義
(8)韓半島全体を吸収しようとしたソ連の稠密な計画
[イ・ヨンフン(ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-27
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1731
(翻訳2)
このように、建国の政治過程は、特定のイデオロギーが異なるイデオロギーを暴力的に排除する過程でした。そのように見る時、建国の過程は戦争の過程であるとも言えます。戦争を伴うことなく一国が建てられたりまた滅びた例を人類の歴史で捜すのは困難です。アメリカも、祖国イギリスに対して反逆の戦争をした結果として立てられた国です。大韓民国が立てられたのは、アメリカが戦争を通じて日本を打ち負かしたためですね。ところが、もう一度の戦争が待っていたのです。このような視覚で見れば、朝鮮戦争は、韓半島の住民集団間の、相異なる理念の国家を樹立するための内戦という性格を持つと言えます。
北朝鮮は、朝鮮戦争を民族解放戦争だと言いました。これに対しては、初日の講義で 『解放前後史の認識』を批判的に紹介しながら言及したところです。一方、南韓の立場で見る時、朝鮮戦争は自由民主主義という理念と政治体制を防御した戦争であったと言えます。その戦争で敗けなかったから、今日のような自由民主主義の大韓民国が健在であるのです。
朝鮮戦争に対するこのような国民的記憶に関しては、どんな場合でも譲歩は不可能です。大韓民国の為政者は、建国史の核心を成すその戦争に対する国民的記憶を、きちんと保存しなければなりません。その記憶を他のものに変えることを安易に考えたり、たやすく容認するとすれば、それはまことに困難な事です。そういう政治家は、国民によって召還され排除される必要があります。
国家は、自分が正当だと信じる理念のために流した血の代価によって作られた、正当な暴力体です。そういう理由で、私は、朝鮮戦争を民族解放戦争だと主張する東国大学の教授の主張に断じて賛成できません。その主張に実定法上の問題があるとして、検察がその人を拘束しようとした時、法務省長官が自分に付与された法的権限を発動して阻みました。それはまことに情けない軽率な行為でした。その瞬間、大韓民国建国史の基礎という大きな幹が、しばらく搖れました。
ところで朝鮮戦争は、内戦としてだけ起ったのではありませんでした。朝鮮戦争は熾烈な国際戦争でもあったのです。アメリカとソ連との間に起きた国際戦争であったし、南韓と北朝鮮はその代理人だったと言えます。最初に戦争を企てたのは金日成であり、その計画を承認したのはスターリンと毛沢東でした。この問題に関しては、私たちの『解放前後史の再認識』第2巻に収録されたキム・ヨンホの「朝鮮戦争の原因の国際政治的再解釈〜スターリンのロールバック理論」という論文がまことに良い参照になります。ラジオをお聞きの皆さんは、この論文のためだけでも、私たちの『解放前後史の再認識』と言う本を購入してください。
この論文の内容を短く紹介します。
ソ連が解体されて以後調査が可能になったモスクワの旧ソ連文書によると、金日成がスターリンに南侵の意思を表明したのは、1949年3月5日、モスクワ会談でのことでした。これに対してスターリンは、南韓が先に北侵して来る場合に限って反撃を加えることができると言って、金日成の提案を拒否しました。そして、金日成に、南韓にはまだ米軍が駐屯しているし、38度線はアメリカとソ連が合議して引いた国際的性格を持つ分割線であることを想起させました。
そういうスターリンが金日成の南侵計画を承認したのは、1950年1月30日の事でした。10ヶ月の間に、いくつかの重大な国際情勢の変化があったのです。
すなわち、1949年8月、在韓米軍が撤収しました。続く10月には中国の共産党政府が国共内戦に勝利して、国民党政府を台湾に追い出しました。内戦に勝利した毛沢東は、1949年12月16日、スターリンに中国との友好同盟を提案しますが、スターリンはためらいます。何故ならば、その時まで連合軍の一員だった中国国民党の蒋介石政府と結んだ友好条約があったからです。
(続く)
これは メッセージ 237 (chaamiey さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/4za5aba5fbbqnabcbc_1/238.html
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