イ・ヨンフン教授特別講義 2(1)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/09 17:46 投稿番号: [251 / 1474]
民族主義の落とし穴から脱しよう
<解放前後史の再認識 特別講義>(2)民族は歴史的現象に過ぎない
[イ・ヨンフン2006-06-20]
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1700
(翻訳その1)
考えて見れば、大韓民国が過ちによって立てられた国だという主張が、他の国でもない大韓民国の内部で、それも名望ある学者たちから、はなはだしくは大統領を始めとする政界のリーダーたちによってまで提起されていることは、まことに珍しい現象だと言えます。この地球上のどこにそんな国がありますか? 私は知りません。
すべての国が、自分の国は道徳的に正当な歴史を持っていることを主張しています。そういう歴史意識を若い世代に公教育を通じて植えつけることで、国が危機に直面した時その国を守る国民を養成しています。建国史を捏造しようという話ではないのです。伝統時代の王朝のように竜飛御天歌を書こうという話でもないですね。また、国家を無条件に神聖視しようということでもないです。そんな国家主義的発想は警戒する必要があります。
しかしながら、国家の歴史に自負心を持つ健全な国民を教育することは、国家が国家として存立する限り放棄することができない義務のようなものだと私は思っています。自分の国は間違って建国された国だということを韓国人たちが主張するには、何か特殊な精神史的な背景があります. その精神史的背景とは何でしょうか。
そのことに関して、私は、かねてから二つのことを考えています。一つは、朝鮮王朝時代からの思想的伝統です。そこでは、政治と国家は、あくまでも道徳政治と道徳国家として存在しました。道徳とは、忠と孝と悌で結ばれる人倫を言います。人倫の完成形態として政治が語られ、国家はその人倫の制度化された道徳を言います。したがって、国家はいつも道徳的論難の対象になります。国が過って建てられたと語ることは、結局、国を愛して国の発展のための忠実な気持ちで語るのだという、奇妙な論理がそこで成り立ちます。
朝鮮王朝実録を見れば、科挙に合格したばかりの新進官僚が元老大臣を、はなはだしくは国王に対してさえ、その道徳的過ちを指摘しながら厳しく批判します。そのことによって、その士は本当に立派な士だという評判を得るようになります。このような知的伝統があって、国が常に道徳論争でうるさかったことが朝鮮王朝500年でした。ここでは、社会を統合する公的理念とそれを実現する政党的暴力としての国家に対する近代的理解が存在しません。公の理念と私の道徳が、全面的に混沌を起こしていますね。
初代大統領李承晩が、国造りの基礎作業という公的領域で、何の目的のためにどんな手段を動員し、その結果はどうだったかという政治学が、そういう考え方では成り立たないです。李承晩は道徳的に堕落した人だった。 一身の栄達のために何でもする人だった。このような人身攻撃的な道徳的非難が、李承晩批判の主流をなしています。
李承晩の一代記をよく見れば、そのような非難を浴びるに値する理由が無いわけではありません。しかし、そのように道徳的に負い目のない人がどこにいるでしょうか。ロシアの革命家レーニンも、あまりにも多い傷と欠陥の人格でした。一時、彼は同志らを裏切って、革命の敵から援助と保護を受けたこともあります。彼は淫らだったし、結局梅毒で死んでしまいました。しかし、このような私的道徳でレーニンを批判しては、射的が正確だとは言えません。
他の一つは、やはり性理学から受け継いだ、道徳的で根本主義的考え方に起因しています。まさに民族という根本主義的捉え方がそれです。民族統一が成る前には歴史は未完だ、統一を成せば近代国民国家は完成される、民族の分断をもたらしたから大韓民国の建国史は始めから過ちだった、等々です。
(続く)
<解放前後史の再認識 特別講義>(2)民族は歴史的現象に過ぎない
[イ・ヨンフン2006-06-20]
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1700
(翻訳その1)
考えて見れば、大韓民国が過ちによって立てられた国だという主張が、他の国でもない大韓民国の内部で、それも名望ある学者たちから、はなはだしくは大統領を始めとする政界のリーダーたちによってまで提起されていることは、まことに珍しい現象だと言えます。この地球上のどこにそんな国がありますか? 私は知りません。
すべての国が、自分の国は道徳的に正当な歴史を持っていることを主張しています。そういう歴史意識を若い世代に公教育を通じて植えつけることで、国が危機に直面した時その国を守る国民を養成しています。建国史を捏造しようという話ではないのです。伝統時代の王朝のように竜飛御天歌を書こうという話でもないですね。また、国家を無条件に神聖視しようということでもないです。そんな国家主義的発想は警戒する必要があります。
しかしながら、国家の歴史に自負心を持つ健全な国民を教育することは、国家が国家として存立する限り放棄することができない義務のようなものだと私は思っています。自分の国は間違って建国された国だということを韓国人たちが主張するには、何か特殊な精神史的な背景があります. その精神史的背景とは何でしょうか。
そのことに関して、私は、かねてから二つのことを考えています。一つは、朝鮮王朝時代からの思想的伝統です。そこでは、政治と国家は、あくまでも道徳政治と道徳国家として存在しました。道徳とは、忠と孝と悌で結ばれる人倫を言います。人倫の完成形態として政治が語られ、国家はその人倫の制度化された道徳を言います。したがって、国家はいつも道徳的論難の対象になります。国が過って建てられたと語ることは、結局、国を愛して国の発展のための忠実な気持ちで語るのだという、奇妙な論理がそこで成り立ちます。
朝鮮王朝実録を見れば、科挙に合格したばかりの新進官僚が元老大臣を、はなはだしくは国王に対してさえ、その道徳的過ちを指摘しながら厳しく批判します。そのことによって、その士は本当に立派な士だという評判を得るようになります。このような知的伝統があって、国が常に道徳論争でうるさかったことが朝鮮王朝500年でした。ここでは、社会を統合する公的理念とそれを実現する政党的暴力としての国家に対する近代的理解が存在しません。公の理念と私の道徳が、全面的に混沌を起こしていますね。
初代大統領李承晩が、国造りの基礎作業という公的領域で、何の目的のためにどんな手段を動員し、その結果はどうだったかという政治学が、そういう考え方では成り立たないです。李承晩は道徳的に堕落した人だった。 一身の栄達のために何でもする人だった。このような人身攻撃的な道徳的非難が、李承晩批判の主流をなしています。
李承晩の一代記をよく見れば、そのような非難を浴びるに値する理由が無いわけではありません。しかし、そのように道徳的に負い目のない人がどこにいるでしょうか。ロシアの革命家レーニンも、あまりにも多い傷と欠陥の人格でした。一時、彼は同志らを裏切って、革命の敵から援助と保護を受けたこともあります。彼は淫らだったし、結局梅毒で死んでしまいました。しかし、このような私的道徳でレーニンを批判しては、射的が正確だとは言えません。
他の一つは、やはり性理学から受け継いだ、道徳的で根本主義的考え方に起因しています。まさに民族という根本主義的捉え方がそれです。民族統一が成る前には歴史は未完だ、統一を成せば近代国民国家は完成される、民族の分断をもたらしたから大韓民国の建国史は始めから過ちだった、等々です。
(続く)
これは メッセージ 250 (chaamiey さん)への返信です.
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