イ・ヨンフン教授特別講義 9(3)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/07 21:12 投稿番号: [244 / 1474]
李承晩大統領を正しく知る
<解放前後史の再認識特別講義>
(9)実用主義、民族主義者李承晩は大韓民国建国の元勳
[イ・ヨンフン 2006-06-28]
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1732
(翻訳3)
第三に、李承晩は、終始一貫、民族主義者でした。アメリカで40年近く暮しながらも、彼は、結局アメリカの市民権を取得しませんでした。独立運動に絶望したりあきらめたりしなかったことは、今後分かります。彼を親米事大主義者と呼ぶのは、まことに無責任な非難です。彼は、解放以前から、事ごとにアメリカ国務省と摩擦を起こしました。解放以後には米軍政長官と激しく反目しました。米軍政が左右合作を推進したからですね。李承晩の反共主義は、その路線を受容することができませんでした。のみならず、李承晩の現実主義的感覚で見れば、それは始めから空想でした。
李承晩の実用主義と民族主義がその在任期間に残した最大の業績は、1956年にアメリカと締結した「韓米相互防衛条約」と言えます。李承晩はアメリカに相互防衛条約の締結を繰り返し要求したのですが、アメリカは、韓国のように弱小な国と同盟を締結することに何の魅力も感じなかったのです。そんなアメリカを軍事同盟に引き入れるために、李承晩は韓半島にかかったアメリカの利害関係を、アメリカに圧迫を加える外交カードとして充分に活用しました。
彼は休戦に反対し、絶えず北進統一を唱えました。彼の叫ぶことが単に口先だけのことではないことを、アメリカは悟ることになります。ある日、巨済島で数万人を突然に釈放したから、全世界が驚きました。李承晩がアメリカの鼻をつねったというわけです。そんな無謀な外交を、当時の米国人たちは 「刀を口に咥えて飛び跳ねるようなもの」と形容したりしました。
しかし結局、アメリカは、韓国軍をアメリカの統制下に置くという実用的な計算から、韓国と相互防衛条約を締結します。李承晩は、大陸の共産主義国際勢力から大韓民国を防衛する一番確かな手段を、韓米同盟から得ることができるようになりました。
このように、韓米同盟を締結するまで李承晩が広げた巧みな外交については、『解放前後史の再認識』第2巻に収録されたチャ・サンチョルの 『李承晩と1950年代の韓米同盟』という論文が良い参考書です。ラジオをお聞きの皆さんは、必ず手に入れて読んでください。
李承晩に対するあらゆる謀略じみた非難が信じられるようになった理由の一つは、彼が親日派を清算するための「反民族特別行為調査委員会」の活動を中断させた事実にあると思います。これからその点について考えて見ましょう。反民特委は1948年10月に設置され、1949年8月末、公訴時効が満了するまで活動しました。その期間に305人が逮捕、221人が起訴、40人が裁判に附されて12人に実刑が宣告されました。
ところが、今日、当時の裁判記録を読んで見れば、反民特委の活動は事実上はじめから重大な限界に突き当たっていたことが分かります。高等警察のように独立運動を露骨に邪魔して弾圧した人々を除いた他の人々の場合には、裁判と言うものが一種の道徳訓戒と自己反省の域を出なかったです。他人の財産と人命を奪って殺傷したというような実定法上の犯罪ではなかったからですね。検事が犯罪を論証して弁護人が反論する、そのように法理を熾烈に争う裁判ではなかったのです。
ここで私たちは、再び、解放が如何に成り立ったのかを想起せざるを得ません。 先立って指摘したように、解放は私たちの力で成就したものではありません。独立軍が日本軍を押し出す戦争を通じて解放を成就したのであれば、親日派の粛清問題は問題にならなかったはずです。ナチに対抗してレジスタンスが活躍したフランスがそうだったと知られていますが、悪質な親日派たちは、戦争の途中で既に処刑されたはずです。処刑を逃れるために、親日派たちは日本軍に付いて日本へ逃げなければならなかったでしょう。ところが、連合軍が日帝を降参させる副産物として解放になったため、そのような与えられた解放空間では、誰も親日派を粛清する物理的な力と道徳的権威を持つことができなかったのです。
(続く)
<解放前後史の再認識特別講義>
(9)実用主義、民族主義者李承晩は大韓民国建国の元勳
[イ・ヨンフン 2006-06-28]
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1732
(翻訳3)
第三に、李承晩は、終始一貫、民族主義者でした。アメリカで40年近く暮しながらも、彼は、結局アメリカの市民権を取得しませんでした。独立運動に絶望したりあきらめたりしなかったことは、今後分かります。彼を親米事大主義者と呼ぶのは、まことに無責任な非難です。彼は、解放以前から、事ごとにアメリカ国務省と摩擦を起こしました。解放以後には米軍政長官と激しく反目しました。米軍政が左右合作を推進したからですね。李承晩の反共主義は、その路線を受容することができませんでした。のみならず、李承晩の現実主義的感覚で見れば、それは始めから空想でした。
李承晩の実用主義と民族主義がその在任期間に残した最大の業績は、1956年にアメリカと締結した「韓米相互防衛条約」と言えます。李承晩はアメリカに相互防衛条約の締結を繰り返し要求したのですが、アメリカは、韓国のように弱小な国と同盟を締結することに何の魅力も感じなかったのです。そんなアメリカを軍事同盟に引き入れるために、李承晩は韓半島にかかったアメリカの利害関係を、アメリカに圧迫を加える外交カードとして充分に活用しました。
彼は休戦に反対し、絶えず北進統一を唱えました。彼の叫ぶことが単に口先だけのことではないことを、アメリカは悟ることになります。ある日、巨済島で数万人を突然に釈放したから、全世界が驚きました。李承晩がアメリカの鼻をつねったというわけです。そんな無謀な外交を、当時の米国人たちは 「刀を口に咥えて飛び跳ねるようなもの」と形容したりしました。
しかし結局、アメリカは、韓国軍をアメリカの統制下に置くという実用的な計算から、韓国と相互防衛条約を締結します。李承晩は、大陸の共産主義国際勢力から大韓民国を防衛する一番確かな手段を、韓米同盟から得ることができるようになりました。
このように、韓米同盟を締結するまで李承晩が広げた巧みな外交については、『解放前後史の再認識』第2巻に収録されたチャ・サンチョルの 『李承晩と1950年代の韓米同盟』という論文が良い参考書です。ラジオをお聞きの皆さんは、必ず手に入れて読んでください。
李承晩に対するあらゆる謀略じみた非難が信じられるようになった理由の一つは、彼が親日派を清算するための「反民族特別行為調査委員会」の活動を中断させた事実にあると思います。これからその点について考えて見ましょう。反民特委は1948年10月に設置され、1949年8月末、公訴時効が満了するまで活動しました。その期間に305人が逮捕、221人が起訴、40人が裁判に附されて12人に実刑が宣告されました。
ところが、今日、当時の裁判記録を読んで見れば、反民特委の活動は事実上はじめから重大な限界に突き当たっていたことが分かります。高等警察のように独立運動を露骨に邪魔して弾圧した人々を除いた他の人々の場合には、裁判と言うものが一種の道徳訓戒と自己反省の域を出なかったです。他人の財産と人命を奪って殺傷したというような実定法上の犯罪ではなかったからですね。検事が犯罪を論証して弁護人が反論する、そのように法理を熾烈に争う裁判ではなかったのです。
ここで私たちは、再び、解放が如何に成り立ったのかを想起せざるを得ません。 先立って指摘したように、解放は私たちの力で成就したものではありません。独立軍が日本軍を押し出す戦争を通じて解放を成就したのであれば、親日派の粛清問題は問題にならなかったはずです。ナチに対抗してレジスタンスが活躍したフランスがそうだったと知られていますが、悪質な親日派たちは、戦争の途中で既に処刑されたはずです。処刑を逃れるために、親日派たちは日本軍に付いて日本へ逃げなければならなかったでしょう。ところが、連合軍が日帝を降参させる副産物として解放になったため、そのような与えられた解放空間では、誰も親日派を粛清する物理的な力と道徳的権威を持つことができなかったのです。
(続く)
これは メッセージ 243 (chaamiey さん)への返信です.
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