イ・ヨンフン教授特別講義 10(4)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/16 15:43 投稿番号: [261 / 1474]
1950年代は暗鬱なだけの時代だったのか
<解放前後史の再認識 特別講義>(10)伝統と近代が融合する近代化の過程
[イ・ヨンフン(ソウル大学教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-29
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1741
(翻訳その4)
もう少し具体的に説明します。例えば1956年、アメリカの対韓援助が3億ドルに決まったとします。3億ドルのお金が来るわけではなく、3億ドルのアメリカの物品を無償で購入できる権利が与えられるのです。政府は、3億ドルを民間の輸入業者に割り当てます。例えば、ある業者が100万ドルの配当を受けたとしましょう。その業者は、それに相当する韓国貨幤を韓国銀行に預けた後に、輸入許可を得ることができます。 こういう方式で援助資金が執行される際に輸入業者の負担を軽減するためには、ドル準備為替を低くする必要があります。それで、例えば市場為替が1:500なのに1:150の低為替を維持したのです。
ドルの配当を受けた輸入業者は、思わぬ利益を得たことになります。アメリカから輸入した品物をそのまま市場で売れば、3倍の利益が出ますから。それでも政府がそうしたのは、その輸入業者がアメリカから原料や部品、機械を買って来て工場を作ると期待したからですね。言い換えれば、そのように工場を建設する時の企業家の負担を軽くするために、低為替政策を固執したのです。そういうやり方で工業化を急ぎ、日本から輸入しなくても良い自立経済を作ることが、当時の李承晩大統領の夢でした。
実際に企業家たちは、政府の期待どおり工場を建てて経営したでしょうか。そうだったと言えます。主に小麦粉・砂糖・綿紡織のような消費財工業の工場が建設されました。皆原料が白いため、これらを三白工業とも言いました。その他にガラス、製錬、セメント工場も建設されました。肥料工場は着手されたんですが、完工しませんでした。
このような輸入代替工業化の結果、50年代の経済は、年間4.9%の低いとは言えない成長率を見せました。製造業の発展は、年間10.6%というかなり高い水準でした。少なくともそれだけの成果があったから、60年代に輸出主導工業化に経済の戦略が変わる時も、対応できたわけです。
ところで、ドルの配当を受けた業者が、アメリカから輸入した物資を横流ししたり切り売りしたりすれば、どうなったでしょうか。管理すべき政治家や官僚がその仕業に目をつぶって賄賂を受けたりしたら、どうなったでしょうか。
当時、大部分の後進国がそうでした。アフリカの一部の国々は、今日でもそういう状態です。ところが、50年代の韓国政府はそうではなかったのです。不正腐敗はともかくとして、援助資金や物資が工場の建設と稼動に回るという基本的な流れを変えたり、滞らせることは決してなかったのです。
ウ・ジョンウン教授は、このことについて、不正腐敗が政治の躍動性によって相殺されたと言いますが、簡単に言えば、経済開発に掛けた為政者の意思がきちんと伝わり、市場に代わって資源を配分するに当たり、一定の原則と効率性が働いていたのだと理解しても良いと思います。
(続く)
<解放前後史の再認識 特別講義>(10)伝統と近代が融合する近代化の過程
[イ・ヨンフン(ソウル大学教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-29
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1741
(翻訳その4)
もう少し具体的に説明します。例えば1956年、アメリカの対韓援助が3億ドルに決まったとします。3億ドルのお金が来るわけではなく、3億ドルのアメリカの物品を無償で購入できる権利が与えられるのです。政府は、3億ドルを民間の輸入業者に割り当てます。例えば、ある業者が100万ドルの配当を受けたとしましょう。その業者は、それに相当する韓国貨幤を韓国銀行に預けた後に、輸入許可を得ることができます。 こういう方式で援助資金が執行される際に輸入業者の負担を軽減するためには、ドル準備為替を低くする必要があります。それで、例えば市場為替が1:500なのに1:150の低為替を維持したのです。
ドルの配当を受けた輸入業者は、思わぬ利益を得たことになります。アメリカから輸入した品物をそのまま市場で売れば、3倍の利益が出ますから。それでも政府がそうしたのは、その輸入業者がアメリカから原料や部品、機械を買って来て工場を作ると期待したからですね。言い換えれば、そのように工場を建設する時の企業家の負担を軽くするために、低為替政策を固執したのです。そういうやり方で工業化を急ぎ、日本から輸入しなくても良い自立経済を作ることが、当時の李承晩大統領の夢でした。
実際に企業家たちは、政府の期待どおり工場を建てて経営したでしょうか。そうだったと言えます。主に小麦粉・砂糖・綿紡織のような消費財工業の工場が建設されました。皆原料が白いため、これらを三白工業とも言いました。その他にガラス、製錬、セメント工場も建設されました。肥料工場は着手されたんですが、完工しませんでした。
このような輸入代替工業化の結果、50年代の経済は、年間4.9%の低いとは言えない成長率を見せました。製造業の発展は、年間10.6%というかなり高い水準でした。少なくともそれだけの成果があったから、60年代に輸出主導工業化に経済の戦略が変わる時も、対応できたわけです。
ところで、ドルの配当を受けた業者が、アメリカから輸入した物資を横流ししたり切り売りしたりすれば、どうなったでしょうか。管理すべき政治家や官僚がその仕業に目をつぶって賄賂を受けたりしたら、どうなったでしょうか。
当時、大部分の後進国がそうでした。アフリカの一部の国々は、今日でもそういう状態です。ところが、50年代の韓国政府はそうではなかったのです。不正腐敗はともかくとして、援助資金や物資が工場の建設と稼動に回るという基本的な流れを変えたり、滞らせることは決してなかったのです。
ウ・ジョンウン教授は、このことについて、不正腐敗が政治の躍動性によって相殺されたと言いますが、簡単に言えば、経済開発に掛けた為政者の意思がきちんと伝わり、市場に代わって資源を配分するに当たり、一定の原則と効率性が働いていたのだと理解しても良いと思います。
(続く)
これは メッセージ 260 (chaamiey さん)への返信です.
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