韓カテ資料室
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イ・ヨンフン教授特別講義 8(1)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/05 22:34 投稿番号: [237 / 1474]
朝鮮戦争は誰がどう引き起こしたのか
<解放前後史の再認識> 特別講義(8)韓半島全体を吸収しようとしたソ連の稠密な計画
[イ・ヨンフン(ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-27
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1731
(翻訳1)
大韓民国の建国史において言及を省略することができないテーマが、6.25(ユギオ)戦争、または朝鮮戦争です。以下、朝鮮戦争と呼ぶことにします。
この戦争で、南北韓を合わせて死傷者150万人と負傷者360万人が発生しました。この死傷者の数は、日帝が15年戦争を経験する過程で負った数に似ています。朝鮮戦争がどれほど血生臭い戦争であったのか、これを見ても分かります。死傷者500万人以外に、数百万の罹災民と1千万人の離散家族が発生しました。南韓の場合、産業施設の4割が破壊されました。戦争途中、至る所で虐殺が恣行されました。村の中の虐殺は、互いに殺し殺される相互の虐殺の場合が多かったです。この悽惨な民族の悲劇はなぜ発生したのでしょうか。
まず一つ、明確に前提としておきたいのは、一国を建てる政治過程は、一般的に、特定の政治理念が他の政治理念を排除する暴力的な過程として展開されるという事実です。例えば、一国を建てるのに自由民主主義で建てるか共産主義で建てるかを住民の投票に付することはできないものです。そういう国造りの例を私は知りません。
最近、東国大学のある教授が、解放当時の南韓人の7割以上が社会主義を望んだとし、アメリカの介入がなかったら自然に社会主義国家になったはずだと主張しました。その論理の延長線上で、彼は、朝鮮戦争を北朝鮮による民族解放戦争だと主張しました。私は、そういう論理に同意することができません。その人は、人類の歴史において国を建てるということがどんなことだったのか、一度も真剣に考えたことがないかのように軽率に話しています。
解放当時、全体人口の7〜8割が農民でした。正確に言って小農(peasant)たちでした。一般的に、小農の生活倫理は、集団的生存と平均主義的共存を志向しています。つまり、小農社会(peasant society)の政治理念は、社会主義との親近性を特徴とします。これを否定することはできません。一方、小農社会は、自由と人権のような文明要素についてはよく分からないです。農民たちから見れば、市場経済と資本主義は、弱肉強食のジャングルと同じようなものですね。そんな農民たちに、建国の方向を決める権利を委任することはできません。農民たちに一票ずつ分けて資本主義と社会主義のどちらかに投票しなさいと言えば、社会主義が勝利しますね。しかし、そんなやり方で国を建てることはできないことです。
国を建てるということは、自分が先進的で文明的だと信じる理念を国の基礎理念として作るために、それと矛盾して配置された他の理念を排除して支配するために、政治的主導権を熾烈に争う過程だからです。それで南韓は、自由民主主義を信奉する政治勢力が共産主義勢力を排除することで成り立ったし、逆に北朝鮮は、共産主義を信奉する政治勢力が自由民主主義を排除することで成り立ったのです。前の時間にも言及しましたが、南と北の建国史がこういうことであったのは、南と北に相異なる理念を持つ占領軍が入って来たという事実、そして彼ら占領軍によって選択された協力者たちによって国が建てられたという事実と同じ話です。
北朝鮮に住んでいたおおよそ200万人の人々が、なじんだ故郷を離れて下って来たのは何のためでしたか?共産主義という政治原理に同意することができなかったからですね。同じく共産主義に同調して南韓から北朝鮮に上った人の数も少なくなかったです。私が卒業した大学の歴史を見れば、解放以後朝鮮戦争までに北朝鮮に渡った教授たちの数が少なくないですね。その時代を暮した人々にとって、それは一生の幸せと不幸を分ける決定的な選択でした。その運命的な選択の結果がどうなるかは、誰も分からなかったでしょう。ただ歴史の神様だけが、にっこりほほ笑みながらその結果を眺めていたのかも知れません。そういう状況の中、不完全な知識の人間たちは、自分の信念によって南へ来たり北へ行ったりしたのです。
(続く)
これは メッセージ 236 (chaamiey さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授特別講義 7(5)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/04 21:28 投稿番号: [236 / 1474]
建国の文明史的意味
<解放前後史の再認識
特別講義>(7)自由民主主義、近代文明国家としての出発
[イ・ヨンフン(ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-26
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1730
(翻訳5)
姜鉄丸さんの家は、元々平壌で党幹部の家でした。ある日、どういうわけかお爺さんが反動分子として追われました。すると党保衛部隊の要員が5人家に入って来て、今から反動分子の財産を没収するとのメッセージを読み上げました。それで終りでした。床の魚箱が蹴られ、箱が壊れて鮒が床に転がりました。女性が悲鳴を上げる中、家の中のめぼしい家財道具が没収され、積み出されました。
そして、今から咸境道ヨドクの収容所に行くという宣告が読み上げられました。そして、家族皆が収容所行きのトラックに乗せられました。母親は、どういう訳かトトクで急に下ろされました。家族皆が涙で母親と別れました。しばらく後に、母親が父親と離婚するという書類を送ってきました。
北朝鮮の人々が食べることができずに飢え死にすることは、まことに重大なことです。そのことだけを悲しまないでください。それよりは、国家の暴力の前にどんな形ででも自分を防衛する手段を持つことができなかった北朝鮮同胞の奴隷的境遇に、本当に怒ってください。
南韓に比べて北朝鮮の出発は、確かにもっともらしかったです。革命の旗が高く掲げられ、労働者と兵士らの力強いパレードはまことに立派でした。ところが、そこでは、人間精神の自由という近代文明の一番基礎的な要素が否定されました。やがて北朝鮮は、文明の袋小路に行き当たってしまいました。
それに比べて、南韓の建国はまさに慌しくてしょうがなかったです。私が会った初代政府の一官吏は、まことに混乱の時代だったと回想しました。昼には大韓民国、夜には朝鮮人民共和国、そんな国を脱出してまた日本に帰りたかったと言います。実際、約10万人の帰還同胞がまた日本に帰ってしまいました。
大韓民国は、そんな慌しさと無秩序の中で出発しました。しかし、出発が正当な方向だったから、時が経つに従って評価に値する成果となったのでした。「出発はそっと、後は壮大に」と言う聖書の言葉があります。まさに大韓民国の建国史にぴったり合う言葉です。なぜでしょうか?
人間精神の自由を保障し、法と制度を基本原理にする建国だったからですね。その点はいくら強調してもし過ぎることのない、私たちの建国史の評価に値する点だったのです。
イ・ヨンフン (ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)
*イ・ヨンフン教授の<解放前後史の再認識特講>は、EBS ラジオホームページ(再び聞く)で聞くことができます。
http://www.ebs.co.kr/Homepage/?progcd=0002420
(翻訳終わり)
これは メッセージ 235 (chaamiey さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授特別講義 7(4)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/03 23:54 投稿番号: [235 / 1474]
建国の文明史的意味
<解放前後史の再認識
特別講義>(7)自由民主主義、近代文明国家としての出発
[イ・ヨンフン(ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-26
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1730
(翻訳4)
ここでしばらく、北朝鮮の地に建てられた国家について考えて見ることにしましょう。これに関しては、『解放前後史の再認識』第1巻に掲載された木村光彦の「ファシズムから共産主義へ〜北朝鮮集産主義経済政策の連続性と発展」とシン・ヒョンギの「新人間〜解放直後の北朝鮮文学が描き出した動員の形象」と言う二つの論文が、まことに有益なさまざまなことを示唆しています。
先に指摘したとおり、1946年、北朝鮮政府は、植民地期に日本から導入された近代的な法と制度と司法機構を撤廃しました。そして、民族革命と社会主義の革命の掛け声がしきりに叫ばれました。日帝が構築した戦時経済体制は、少しも解体されなかったどころか、さらに強化されました。この点を指摘して、木村教授は、北朝鮮民衆に果たして「解放」と言うものがあったのだろうかと問うています。
動員と収奪を容易にし強化するため、一般民衆たちには「新人間」という理想的な人間像が提示されました。地主、親日派、利己主義、個人主義、そういうものは古い「旧人間」の象徴でした。このような部類の人々は徹底的に一般民衆から区別され、排除されました。そうしてから、社会主義革命が要求するつらい労働を昇華させる精神的緊張の新しい人間像が提示されました。
それは、結局、抗日武装闘争を成功に導いた英雄、凱旋将軍金日成でした。結局、日帝の天皇の代わりをしたのが、外でもない金日成でした。
6.25戦争が終わるまでは、それなりに待つことができました。革命戦争を遂行するために、何年かは堪えることができるでしょう。社会主義の夢に従って南から北に上った幾多の知識人たちは、戦争が終わると、これからは少し自由に暮そうと言いました。そういう主張をした自由主義的社会主義者たちは、ほとんど粛清されてしまいました。彼らの言葉で言えば、まことに悲惨なことでした。
すべての自由主義者たちが消去された1960年代以後、北朝鮮の首領体制は、まさに文明の袋小路に立ち入ってしまいました。幾多の人々が、絶望したあげくその突き当たっている壁に頭をぶつけ、血を流して死にました。
去年だったでしょうか、アメリカのブッシュ大統領が『収容所の歌』という本を読んで、その本の著者姜鉄丸さんをホワイトハウスに招待したことがあります。私は、アメリカの大統領も読んだ本をまだ読んでいなかったという恥ずかしさを感じ、その本を買って見ました。
(続く)
これは メッセージ 234 (chaamiey さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授特別講義 7(3)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/03 21:00 投稿番号: [234 / 1474]
建国の文明史的意味
<解放前後史の再認識
特別講義>(7)自由民主主義、近代文明国家としての出発
[イ・ヨンフン(ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-26
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1730
(翻訳3)
植民地期においても農村社会では、特に両班勢力が強い班村では、奴婢の身分が存続しました。私が読んだ1920年代のある両班家の日記は、正月一日、家の奴婢たちが尋ねて来て奥に座った主人に向けて三拝を奉る光景を描いています。その日、主人は日記に、「例え世の中が変わっても、主・奴間の上下義理は変わらない」と感想を書きました。そのように、年が変われば主人を捜して庭先で犬のように伏せて三拝を捧げなければならなかった奴婢という身分が、農地改革で消えることになったのです。
農地の分配を受けた彼らは、多くの場合、土地を売って、自分の元の身分が分からない他の地方に引っ越しました。そこで独立営農者として熱心に働いて、息子を小学校の教師までさせた事例が報告されています。そのように、まさに四民平等の時代が到来しました。貧農の子でも頭さえ良ければ大学に通って、判事、検事にもなれる、そんな時代が開かれたのですね。さっき朗読した制憲憲法の宣布のとおり、どんな形態の差別も特殊階級の存在も認めない建国の理念が、農地改革を通じて実現したのです。
以後、制憲憲法は何回かの改訂を経ます。そういう憲政史の試練について、私たちはよく分かっています。大統領の選出を巡って、直選とするか間選とするかが主要な争点でした。しかし、憲法の基礎理念が否定されたことはないです。裁判を通さずに人身を拘禁する事は有り得ず、いくつかの特殊な政治的事件を除けば実際にありませんでした。
憲政史の試練があったとしても、このような建国の基本理念にまで試練があったと言うなら、それは間違いです。まだ、そういうデマのような建国史批判がたまに聞こえたりしますが、慎む必要があります。大韓民国は、建国の基礎理念において近代国家でした。そのような近代文明国家としての出発を知らせるのが、1948年8月15日その日にあった大韓民国の建国なのです。
そういう視点から、私は、最近一部から提起されている「光復節」を「建国記念日」に変えなければならないという主張に共感します。先に申し上げたように1945年8月15日に我が民族は日帝から解放されたのですが、我が民族の国際法上の地位にはなんらの変化がなかったのです。その日を記念して「光復」というのは語弊がある言葉です。
また「光復」と言う言葉は、1905年に大韓帝国が滅びる以前に何かの光明があったということですが、実際のところ、常民や奴婢の身分の人々に何の光明があったでしょうか? だから、真正な光は、これら下層身分が最終的に解放された1948年8月15日、大韓民国の建国と共にやって来たと言えます。
だから本当に記念しなければならない国民的慶祝は、当然、大韓民国の建国であるべきなのです。私たちも、アメリカ人たちがするように、その日になれば通りに出てダンスをして歌を歌って楽しく騒ぐ「建国記念日」を作ろうではありませんか。
(続く)
これは メッセージ 233 (chaamiey さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授特別講義 7(2)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/02 20:37 投稿番号: [233 / 1474]
建国の文明史的意味
<解放前後史の再認識
特別講義>(7)自由民主主義、近代文明国家としての出発
[イ・ヨンフン(ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-26
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1730
(翻訳2)
大韓民国の建国が持つ大きな歴史的意義に関して考えて見ましょう。
第一に、大韓民国は、自由民主主義理念を基礎にして立てられた国です。韓国の歴史を振り返れば、15〜19世紀の朝鮮王朝の時代には、一般民衆の政治的権利は認められていませんでした。1899年、大韓帝国の国制が発布されました。それによれば、大韓帝国は「万世不変の専制政治」でした。皇帝は「無限の君権を享有する」と宣布されました。この国制に関して、後に高宗は「政治は官人がすることであり、民は被治者として、政治・結社はもちろん政治的発言もできない。」と言いました。
それに続く1905〜1945年の日帝下の植民地期はどうだったでしょうか?
先日、この時期に近代的な法と制度が移植されたと説明しましたが、政治の領域とは無関係なことでした。日帝の派遣した総督は、立法権、行政権、司法権を一身に行使できた人でした。三権を統合した専制君主と違うところはなかったでしょう。朝鮮人たちは、政治に参加する権利はありませんでした。ただ、一定額以上の所得税を納める人々に限って、地方議会選挙に参加する権利が部分的に認められただけですね。
先日も指摘したのですが、日本自体が自由民主主義の政治を知らなかったのです。日帝が敗亡したのもそのためです。日本が自由民主主義を実践するようになるのは、天皇制国家が解体された以後、米軍の占領体制の下でのことです。
第二に、自由と人権は法律だけでは成立しません。自由と人権は、人間が社会生活を自立的に営む土台として自由財産を所有しなければ、言葉の遊びに過ぎないのですね。それで、大韓民国は農地改革を実施しました。制憲憲法第86条は「農地は農民に分配し、その分配の方法、所有の限度、所有権の内容と限界は法律として定める。」と言いました。 そのように農地改革は既定事実化されました。続いて1949年6月、農地改革法が国会を通過しました。所有農地の上限規模を3町歩に決めた後, それ以上のすべての農地を地主から有償で収用して、小作農民に有償で分配しました。
有償で収用・分配したことを指して、北朝鮮の無償収用・分配よりも劣った改革であったという主張をたまに聞きますが、これは誤りです。有償で収用して分配したのは、自由民主主義の核心原理である自由財産制度を尊重したからです。無償改革は、この核心原理の否定です。それで農民に土地が分配されたが、無償分配の場合、その所有権は完全なものにならなかったのです。自分のお金で買ったのではないのに、どうして完全な私有財産になるでしょうか。当然、農民たちに土地を分けてやった北朝鮮政府は、売買や抵当などの財産権の処分行為を制限しました。私的地主を無くす代わりに、結果的に国家が地主の代わりをするように変わったに過ぎなかったのです。
それでどうなったでしょうか? 土地を分けてやったが、間もなくて皆回収して、集団農場体制に移行したのではないですか?
農地改革が実施された結果、我が国の農村住民たちは、皆、自作農になりました。まさに韓国史が始まって以来の、初めてのことではないかと思います。 国家が農民たちに土地を分けてやったのは、『三国史記』によれば、722年に統一新羅が「民に丁田を分けてやった」と言う記録が初めてです。ところが、私の考えるところでは、当時の「民」とは、農村社会で中上層の地位にあった農民を指しており、下層農民まで分配の対象になったのではないようです。ともかく、大韓民国の農地改革は、有史以来農民が自分の土地を所有するようになった一大快挙でした。
そしてどんな変化が生じたでしょうか? ラジオをお聞きの皆さんは、偉大な詩人ソ・チョンジュの『父は奴婢だった』という詩を憶えておられますか。両班である主人の小作管理人である父が主人の呼び出しを受けて、幼い子の手を握って夜明けの露に濡れたあぜ道を衣服を濡らしつつ慌しく駆けつける話です。その熱い父の息づかいで、子は、父が奴婢の身分であることを悟ります。そういう奴婢の身分が、いよいよ韓国史から消えることになります。
(続く)
これは メッセージ 232 (chaamiey さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授特別講義 7(1)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/02 11:30 投稿番号: [232 / 1474]
建国の文明史的意味
<解放前後史の再認識
特別講義>(7)自由民主主義、近代文明国家としての出発
[イ・ヨンフン(ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-26
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1730
(翻訳1)
今回は、1948年8月15日に生じた大韓民国の建国が持つ歴史的意味を考えて見る順番です。
大韓民国は、自由民主主義を基盤とする民主共和国として建立されました。制憲憲法第2条は「大韓民国の主権は国民にあって、すべての権力は国民から出る。」と言いました。憲法第8条は「すべての国民は法律の前に平等であり、性別、信仰または社会的身分によって政治的、経済的、社会的生活のすべての領域において差別を受けない。社会的特殊階級の制度は一切認められず、いかなる形態としてもこれを創設することができない。」と言いました。憲法第9条は「すべての国民は、身体の自由を持つ。法律によるのでなければ、逮捕、拘禁、捜索、審問、処罰と強制労役を受けない。」と言いました。
「何で、そんな分かりきった話を退屈に並べるのか?」と不満に思う方がいらっしゃるかも知れません。しかし率直に申しますと、私たちの周辺には、憲法とは何なのか真剣に考えて見たことがないとか、一度も詳しく読んだことのない人々があまりにも多いのです。恥ずかしい話ですが私がそうでした。顧見れば、小学校から大学まで16年間の歳月の間、憲法を読んで見たことがありませんでした。読んで見なさいと勧めた先生もいなかったと思います。ただ憲法の理念はこういうものだという形で、一言二言に要約された概念を公民の時間に聞いて、慌しく覚えてしまったこと以上ではなかったのです。
私が我が国の憲法を読んだのは、恥ずかしい話ですが年齢50歳になってからでした。近くの部屋にいらっしゃるある法科の教授が、『韓国憲法史』という本を著わした後、私に一冊くださいました。その時初めて、大韓民国の制憲憲法をじっくりと読んで見ました。 私は深い感動を受けました。文章も良いが、その意味があまりにも素晴らしかったのです。「あぁ、こんな憲法を今ごろ読むとは、私はこれでも大学教授か。」そんな反省が浮かびました。たぶん、私と同じような方が大勢いらっしゃることでしょう。今日でも書店に立ち寄って、制憲憲法以来の歴代憲法を求めて読んで見てください。
ところで、中・高等学校で、憲法と、それに基礎を置いて成立した建国の意味をきちんと教えていないのは、昔も今も同じようです。金星社から出た『韓国近・現代史』教科書でその例を捜して見ます。
この問題の多い教科書で、大韓民国の建国は、第4編第1章第3節の「大韓民国の樹立と分断」で扱われています。ここで大韓民国の建国は、何度も、「南韓だけの単独政府樹立」と表現されています。「建国」と言うことばは、まるで出てきません。また、「大韓民国政府の樹立」の項では、次のような記述が現われます。「統一政府の建設を望む国民的熱望と多くの政治勢力の反対の中で、1945年、南韓だけの単独政府を立てるための総選挙が実施された。」(264ページ)
このように、大韓民国は、「国民的熱望」を押しつぶして一部政治勢力によってむりやりに立てられた「南韓だけの単独政府」として教えられています。しかし、国家が立てられる前に何の国民がいますか? 「国民的熱望」のその「国民」とは、一体どの国の国民ですか? 教科書の叙述がまことに情けない水準です。とにかく私が指摘したい点は、大韓民国がどんな理念に則った近代国家なのか、その憲法の基本理念に関して、歴史教科書はただ一言の説明もしていないという事実です。
それだけではありません。教科書は、大韓民国の建国を、「南韓だけの単独政府の樹立」といって、民族分断と言う悲劇的事件の一環として処理してしまっています。そして密かに、分断の責任を、「国民的熱望」を圧迫して成立した「南韓だけの単独政府」に押し付けています。
1948年8月15日その日にあった大韓民国の建国が、韓国の文明史において持つまさに画期的な意義と言うのは、どこにもないのです。大韓民国は「単独政府」という歪んだものであり、やがて成就されるべき民族統一と共に消える運命にあります。
一体、一国の成立と将来をそんな風に教える国が、この地球上で他のどこにあるでしょうか。北朝鮮がそんな風に教えていますか? もしそうならば、これ以上の苦言はしません。
それでは、これから冷静に、大韓民国の建国が持つ大きな歴史的意義に関して考えて見まし
これは メッセージ 231 (chaamiey さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授特別講義 6(4)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/02 07:56 投稿番号: [231 / 1474]
南北分断の原因と責任
<解放前後史の再認識特別講義>(6)国内市民社会の未成熟と米ソの冷戦体制
[イ・ヨンフン(ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-24
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1722
(翻訳その4)
労働運動に関しても似たような話があります。これに関しては 『解放前後史の再認識』2巻に載せられた朴枝香の「韓国の労動運動とアメリカ」という論文が良い参照になります。この論文によれば、米軍政に参加したアメリカ国務省の自由主義者たちは、中道左派は勿論、穏健な合法的な労組運動を展開する共産党系列の全評(全国労働者評議会)さえ受け入れる用意ができていたと言います。
よく米軍政が韓国の労働運動を無条件に弾圧したと言いますが、実際はそうではなかったのです。米軍政の自由主義者たちと労働問題専門家たちは、民主的または自主的労働組合という概念を信頼しました。彼らは韓国の労組運動から政治勢力を分離して労働組合を労働者の真正な代表機関にしようとしたのですが、全評が冒険的な極左路線で不法な闘いを敢行したことによって、結局失敗するしかなかったのです。
朴枝香教授は、次のように結論を下します。もし全評が、政治優先主義から離れて穏健な左派労働組職として経済闘争を追い求めたのであれば、米軍政としてはそれを弾圧する適切な口実を捜しにくかったはずだと。
米軍政が追い求めた呂運亨とキム・キュシクをリーダーとする左右合作に対しても、同じ説明をすることができます。やがて1947年、アメリカでトルーマン宣言が出るなど、冷戦が事実上の熱戦として激しくなり、すべてのロマンチックな試みの可能性は封鎖されてしまいます。アメリカは、憎い鴨(訳?)とも言える李承晩を協力者として選択するしかなかったのです。アメリカは、最後まで躊躇しました。その点で、はじめからきっぱりと金日成を自分の代理人に選定したソ連のスターリンとは、全然異なっていたと言えます。
北では、社会主義革命の旗が騒々しくはためく中、他の理念や政治勢力が存続できる可能性は、はじめから閉ざされてしまいました。金日成総合大学の建立は何時でしたか?
1946年7月ですね。しかし、南韓はどうでしたか? そんな絶対カリスマは存在できなかったです。ここでは、大きく見ればアメリカの利害関係を脱することはできなかったが、調整と妥協の余地は、アメリカ式自由民主主義その自らの速成によって、最後まで閉ざされることはありませんでした。
要するに、解放当時の韓半島の住民集団には、民族や階級という外来起源の政治原理を乗り越えて自らをよく団結された秩序体に統合するに値する文明能力は、まだ成り立っていなかったのです。そのように主体的条件が未整備であるところに、韓半島の南と北では、直ちに冷戦に突入することとなる二つの強大国が占領軍として進駐しました。そして、彼らが選択した協力者たちによって、相異なる原理の両国が建立されました。
元はと言えば常識的な話ですが、民族の分断、いつまで続くか分からない悲劇の歴史は、そうやって始まりました。ラジオを聞いている皆さんは、先立って紹介した教科書の話がどうしてでたらめなのかを納得されたかも知れません。こんなでたらめ話は、一日も早く教科書から追放されなければなりません。
イ・ヨンフン (ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)
*イ・ヨンフン教授の<解放前後史の再認識特講>は、EBSラジオホームページ(再び聞く)で聞くことができます。
http://www.ebs.co.kr/Homepage/?progcd=0002420
(翻訳終わり)
これは メッセージ 230 (chaamiey さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/4za5aba5fbbqnabcbc_1/231.html
イ・ヨンフン教授特別講義 6(3)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/01 21:56 投稿番号: [230 / 1474]
南北分断の原因と責任
<解放前後史の再認識特別講義>(6)国内市民社会の未成熟と米ソの冷戦体制
[イ・ヨンフン(ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-24
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1722
(翻訳その3)
しかし、そのことだけだと考えては困ります。解放の政局を規定した外的な国際条件も、きちんと見る必要があります。占領軍として韓半島の南と北に進駐したアメリカとソ連が協力する余地は、初めから少なかったのです。初めの1年間は、二つの強大国の間に妥協の余地があるように見えましたが、1946年9月からは、すべてのことがあまりにも明確でした。いわゆる冷戦が開始されたのです。米ソ間の冷戦こそ、韓半島を真ん中で分断することになった一番重要な力でした。その二つの強大国を制御することができなかったという点で、分断は、当時の韓半島の住民集団にはもしかしたら運命とも言える、選ぶことができない選択でした。
そんな中、南韓と北朝鮮では、占領軍によって選択されて支援される政治勢力がありました。南韓では、日帝下で近代文明を学習した下級官僚とテクノクラート型知識人、中小商工業者たちがその中心勢力を成しました。一方北朝鮮では、社会主義革命を志向する社会主義者たちが中心勢力を成しました。ともかく、支配的政治勢力が占領軍によって選択されて支援されたという点で、南北韓の事情は同じだったのです。
しばしば、分断の責任を、1946年6月3日、後日初代大統領になった李承晩が全北井邑で行った発言にあると言いますが、これは誤った話です。秘密扱いが解除されたモスクワの文書によると、スターリンはすでに1945年9月20日、北朝鮮にソ連の利害関係に相応しい独自の政府を立てる意志を、北朝鮮に進駐したソ連軍司令官に明確に伝達しました。この点を 『解放前後史の再認識』2巻に掲載されたイ・ジョンシクの 「冷戦の展開過程と韓半島分断の固着化」で学ぶことができます。
イ・ジョンシク教授の主張は、次のように要約されます。
第1、1945年9月初めまではスターリンの韓半島政策は流動的であり、アメリカとソ連は韓半島問題について妥協する余地がありました。
第2、このような妥協の可能性は、9月12日から10月2日までロンドンで開かれた戦勝国(アメリカ・イギリス・フランス・中国・ソ連)外相会談でアメリカ・イギリスとソ連の間に戦後処理を巡って衝突が表面化し、消滅してしまいました。
第3、9月20日、スターリンの秘密指令によって、ソ連軍政は北朝鮮に独自の行政機構を構築する作業に取り掛かりました。
第4、その後のスターリンの韓半島政策は、日本と中国の状況によって変化することになったが、彼が朝鮮戦争を挑発するようになったのは、中国の共産化が大きく作用したというのです。
広く知られたとおり、北朝鮮ではすでに1946年から、ソ連軍とその協力者たちが北朝鮮を完璧に掌握した上で土地改革を実施するなど, 事実上独自の政府に準ずる統治行為を展開しました。それに比べれば、南韓の米軍政は、その協力者を選択するのをむしろ躊躇したのです。米軍政に参加したアメリカの進歩的な自由主義者たちは、非常にロマンチックにもすべての可能性を開いておきました。よく知られるとおり、彼らは左右合作に対する未練を捨てることができなかったのです。
(続く)
これは メッセージ 228 (chaamiey さん)への返信です.
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三国史記
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2006/07/01 15:59 投稿番号: [229 / 1474]
これは メッセージ 1 (justina_eto さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授特別講義 6(2)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/01 07:40 投稿番号: [228 / 1474]
南北分断の原因と責任
<解放前後史の再認識特別講義>(6)国内市民社会の未成熟と米ソの冷戦体制
[イ・ヨンフン(ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-24
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1722
(翻訳その2)
解放直後は意外に平穏でした。日本人に対する暴力的な攻撃はありませんでした。日の丸が下ろされて星条旗が掲げられました。そんな中、社会は乱れ始めました。戦争で押えられていた消費の欲求が噴出し始めました。旺盛な米消費が代表的な現象です。 「米が解放だ」、「米が民族だ」。 そして愛国歌, 太極旗, 三一節などの新しい民族象徴が考案されて広く普及しました。 また幾多の海外同胞たちが帰って来ました。日本から計70余万人が帰って来ました。アメリカ的消費の風潮、英字新聞、キリスト教、迷彩軍服などはアメリカの時代が到来したことを知らせる指標でした。
ところで、米が日本に密輸出されるようになり、解放の象徴である米が不足し始めました。あちこちで買い占め売り惜しみなど、米を巡る紛争が起りました。米軍政は予想できない事態に慌て、日帝が施行した供出制度を当分の間復旧しました。すると、米軍政は日帝の政治よりも悪いという無責任な苦情が出始めました。家門と村を離れ市民社会と呼ぶに値する自律的な団体・組織は、あまりにも不足でした。そのように前提条件が欠けた中で、自由民主主義はどうしても見込みがないように見えました。
繰り返しますが、人々は家門と里(村)のような伝統的縁網に慣れていました。会社、組合、学校、教会その他友愛団体等々、市民社会の成立を語ることができる、個人と国家の間の中間団体はほとんど存在しなかったのです。国家は強大で、個人は虚弱でした。個人と国家の間はがらんと空いていました。19世紀後半、フランスの社会学者ディルケムが環形動物に見立てたような、中ががらんとした単純組職、そういう状態に似ていたと私は思っています。日帝が退いた後にどういうふうにそんな状態が醸成されたかは、これから多くの研究が必要な課題です。とにかく、社会を統合した唯一の自律的秩序は官僚制でした。
そういう状況にあって、人々は無作為に左に右に、政治的に動員されて分裂しました。左に動員された人々は、階級が重要な問題だと思いました。彼らは、皆がすべて公平によく暮らすという社会主義の迷妄を追い求めました。一方、右側に動員された人々は、民族と言う理念に導かれました。そのように左と右に割れた人々は、なじみが無いことでは同様の階級だとか民族だとかいう政治原理に導かれて、対立し分裂しました。
私が訪問した忠清道のある村では、何と地主家門が左に加わりました。すると、彼らの支配を受けた村の下民たちは右に加わりました。 慶尚道のある村に行って見たら、そこではユン氏集団とチョン氏集団が対立し、ユン氏が左に行くとチョン氏は無条件で右に行きました。
本当に「我が民族」と呼ぶに値する意識、とそれに相応する政治的集団が成り立っていたならば、そんなことは起きないはずです。異なる見解と利害関係を自律的に調整することができる社会が十分に成り立っていたならば、どうして外から入って来た階級だとか民族だとかいう政治的談論で人々がそのように対立と分裂することがあったでしょうか。
要するに、私たちの力ではなく連合軍によって解放されたことが、我が民族が願う方向に国家を立てるのに邪魔になったと言うに値する前提条件はなかったのです。
一番基礎的な村社会がそうでしたから、中央の政治も同じであったことは少しも変なことではありません。お互いに違う思想と理念を持った政治家たちが虚心坦懐に会って、互いに少しずつ譲歩しながら分断だけは避けなければならないという確約を持ったことがなかったのです。ソウルの米軍政がそういう発想を出した事がありますが、ソウルでさえ政治リーダーたちが一堂に会することは無かったし、会合のため平壌の政治家たちがソウルへ来るという動きさえなかったのです。このように、分断をもたらした歴史的条件は、一次的に内的なものでした。
(続く)
これは メッセージ 227 (chaamiey さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授特別講義 6(1)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/06/30 21:30 投稿番号: [227 / 1474]
南北分断の原因と責任
<解放前後史の再認識特別講義>(6)国内市民社会の未成熟と米ソの冷戦体制
[イ・ヨンフン(ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-24
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1722
(翻訳その1)
先日紹介しましたが、連合軍によって日帝から解放されたので、我が民族が願う方向の国家を建設するのに障害になったという教科書の記述は、どう理解すれば良いでしょうか?
結論から言えば、それは論理的にも実証的にも馬鹿馬鹿しい話です。そんなでたらめな話が教科書に載せられて若い世代に伝えられていることは、まことに情けないことです。これから、このことについて、じっくりと考えて見ることにしましょう。
そんな話が成り立つためには、解放以前に我が民族が皆合意した国造り(state building)のマスタープランが用意されていた、という前提条件が必要です。残念ながらそういう前提条件は、充足されません。その話は、論理的前提条件から不成立です。先日の講義で指摘したとおり、大部分の人々にとって、解放は、クリスチャンたちにキリストが再臨するその日のように、突然に訪れて来たのです。
解放直後の状況がどうだったのか、チェ・マンシク先生の『駅路』という小説がおもしろそうなので御紹介します。解放の数ヶ月後に、チェ・マンシク先生は、ソウル駅で汽車の切符を買うために3時間並んでいました。その長い行列で、チェ・マンシクはある友人に会います。その人は、長い行列をあざ笑うように窓口の前に行って、闇切符を購入します。ある中学生は、窓口職員にお釣りを取られてしまいます。「とにかく人々の質が落ちた。どうなるのだろう。」 その中学生の言葉です。
混雑する列車の中でやっと腰を下ろしたチェ先生のそばで、熱っぽい政治討論が起きます。「老いた農民」は李承晩を、「ジャンパー青年」は呂運亨を支持します。ある「田舍紳士」はアメリカ式民主主義を褒め称えます。熱っぽい討論は天安駅で中断します。ガラス窓を割って米袋を押しこみながら、人々が必死に這い上がって来ます。あちこちで叫び声とともに喧嘩が起ります。釜山から天安まで米を求めに来た人は、利害に抜け目がない農民たちが日本へ米を密輸出していると糾弾します。
そのように、チェ・マンシクの目に映った世相は乱れていて暗かったです。「大衆がまだ幼くて物心がついていないからそうなのか」、それとも「年を取り過ぎて老妄のせいでそうなのか。」
私は、このようなチェ・マンシクの小説に、解放当時の隠しようのない私たちの姿を見出します。『解放前後史の再認識』第2巻に掲載されたチョン・サンインの 「解放空間の社会史」が、このような私たちの姿を生き生きと伝えてくれます。ここでは雄大な政治思想や政治闘争ではなく、普通の人々の日常生活が観察の主要な対象になっています。
名も無く生きた普通の人々と言っても、彼らが無気力にその時代に置かれたということでは決してありません。むしろ、彼らは彼らなりにその時代の主体であり、その時代を熾烈に経験しつつ積極的に生きて行きました。彼らの日常生活を規定したのは、民族だとか階級だとかいう雄大な政治的談論ではなく、家門と村、すなわち彼らの伝統的な社会的縁網(network)でした。
(続く)
これは メッセージ 226 (chaamiey さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授特別講義 5(4)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/06/29 23:12 投稿番号: [226 / 1474]
解放はいかに成り立ったか
<解放前後史の再認識>特別講義(5)解放は世界資本主義の構造変化による世界的事件
[ イ・ヨンフン(ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-23
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1721
(翻訳4)
それならば、植民地を解放した窮極の力は何だったのでしょうか? それは帝国主義支配体制に内在した矛盾そのものでした。 植民地を支配するために帝国主義者たちは近代を移植しましたが、近代を学習して実践する植民地民衆の成長によって、帝国主義支配はそれ以上不可能になるのです。精神的に近代化された人間たちを、ずっと長く政治的に差別することは可能なことではありません。抵抗が大きくなるだけでなく、いくら一方的だとしても支配の正当性が確保されないからです。
そして、帝国主義の収支決算は、多くの場合損失でした。帝国主義は、思うほど収支の合う商売ではなかったのです。その点は植民地人たちの近代的実践が強化されるほど、さらに明確になりました。
帝国主義のこのような矛盾は、やがて資本主義世界体制でヘゲモニーを行使する国家が入れ替わることによって、白日の下にさらされてしまいました。新しいヘゲモニー国家であるアメリカは、植民地を必要とする国ではありませんでした。アメリカは最大の資源国であると同時に、農業国であり工業国でした。そんなアメリカに、植民地という付属領土は必要なかったのです。 むしろ全世界を自由貿易体制に統合する方が、アメリカの国益に合致しました。アメリカが必要なものを生産し、植民地の国々がドルでアメリカから必要な品物を買ってくれる国々として独立してくれれば、それはアメリカの立場からは収支の合うことでした。
そういうわけでアメリカは、第2次世界大戦当時、戦争が終わった後には植民地は解放するという約束を受けて、イギリスその他の連合国を支援したのですね。そして約束どおり、戦争が終わると旧帝国主義の国々は彼らの古い植民地から撤収しました。その結果、1960年代までにおおよそ150以上の新生独立国家が成立しました。大韓民国も間違いなくその中の一つです。要するに、解放そのものは世界資本主義の構造変化を反映したグローバルな事件だったのです。解放、それは決して一国だけの事件ではなかったのです。
解放の文明史的意義についてもう少し敷衍すれば、次の通りです。アメリカ主導下の資本主義世界体制は、新生独立国に、政治的には民主制を、経済的には工業化の可能性を提供します。この点が、旧帝国主義と決定的に異なる帝国主義後の世界秩序の本質です。ただ、与えられた可能性を現実に実現できるか否かは、ひとえに新生独立国の内部力量によっています。 まずその可能性を明確に認知した後、その実現の道を具体的に模索する必要があります。
すべての国がそういう能力を持ち合わせていたわけではないのです。これまでを見れば、いくつかの国でだけデモクラシーと工業化が成功しました。私たちの大韓民国もそこに含まれますね。しかし、決して、解放当時からそのように成功が保障されていたわけではなかったのです。本当にそういう能力を持っているか?
解放は、そういう人類文明史からの問いかけを当時の朝鮮人たちに投げかける、国際政治的な契機だったのです。
イ・ヨンフン(ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)
*イ・ヨンフン教授の<解放前後史の再認識特講>は、EBS ラジオホームページ(再び聞く)で聞くことができます。
http://www.ebs.co.kr/Homepage/?progcd=0002420
(翻訳終わり)
これは メッセージ 225 (chaamiey さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授特別講義 5(3)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/06/28 20:40 投稿番号: [225 / 1474]
解放はいかに成り立ったか
<解放前後史の再認識>特別講義(5)解放は世界資本主義の構造変化による世界的事件
[ イ・ヨンフン(ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-23
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1721
(翻訳3)
この時期の国際情勢や国際関係に関して留意すべき点は、アメリカやソ連の連合軍はもちろん、中国の国民党政府と共産党政府も、大韓民国臨時政府を承認するとか独自の軍事活動を承認することはなかったという事実です。実際、そうするには臨時政府の統合力はあまりにも弱く、また多くの独立運動勢力は理念や路線であまりにも分裂していました。そんな主体的条件の制約も大きい中、中国の二つの政府とソ連は、将来日帝から解放される韓半島における自分たちの利害関係を、あらかじめ鋭敏に計算していました。
例えば1941年、中国国民党政府は「韓国光復軍行動準繩」を臨時政府に強要して、光復軍を中国軍参謀総長の統制の下に置きます。このことに関しては、臨時政府のチョ・ソアン外務部長が、駐中米国大使に、中国が日本の敗北後に再び韓国を中国の宗主権の下に置こうと思うかも知れないと説明したことがあります。 このような立場は、程度の差はあれ、中国の共産党政府やソ連も同じだったと思います。言い換えれば、将来日帝から解放される韓半島に、他の誰より自分が深い利害関係を持っていると信じる強大国間の新しい緊張関係がつとに形成されていたのです。
要するに、解放の前後の時期に、このような新しい緊張関係の国際秩序に主体的に参加するとか発言権を確保した国際的に承認された朝鮮人の政治勢力は、存在しなかったのです。まことに悲劇的な現実ですが、それは厳然たる事実でした。韓半島はあくまでも日帝の付属領土でした。そんな状態からアメリカによって解放されたとは言うものの、その国際法的地位は、1910年に大韓帝国が滅亡する当時のそれと少しも違うところがない境遇にありました。
そのように、大韓帝国の滅亡は、長く暗い影を韓国の現代史に落としました。その深い傷は、分断以後今までも残っています。 厳密に言って、今日南北韓が対峙している悲劇的な現実も、大韓帝国の敗亡が残した暗く長い影の中に属しています。100年後、200年後の後代の歴史家は、2006年の今日までも、大韓帝国の敗亡当時と同時代性の歴史として規定するかも知れません。
しかしながら、気を付けなければならない点は、朝鮮を日帝から解放させた国際政治的な契機は、大韓帝国を敗亡させた旧帝国主義時代のそれとは大きく異なるという事実です。 実はこの点が、最も重要な論点を成しているのです。 ここでまず強調したいことは、世界的に見て、1945年まで続いた帝国主義国際体制は、植民地民族が効果的に武装独立戦争を展開した結果として解体されたのではないという事実です。 私の知るところでは、そうやって独立した国は一つもありません。
それならば、植民地を解放した窮極の力は何だったのでしょうか?
(続く)
これは メッセージ 223 (chaamiey さん)への返信です.
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韓国人留学生の書き込み
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2006/06/28 12:04 投稿番号: [224 / 1474]
JPN 大爆笑!アメリカの韓国人留学生が見た現実!憎い!日本が憎い!
http://ware.admin-man.net/2006/naver/20060329205320.htm(一部のみ転載)
アメリカで勉強しています。
アメリカ人の東洋の基準はもちろん日本です。
アメリカでは日本が東洋を代表しています。
韓国の伝統とされる文化も、 日本文化の影響を受けている事を知っていました。
韓国に関しては全く無関心です。
美術の歴史を学びました。
ゴーギャン、ゴッホを学んでいたら、先生が急に日本の絵を見せました。
アメリカの美術の本を見ると、日本美術の影響を受けたゴーギャンやゴッホの作品がたくさん載っています。
先生が「この絵は富士山だ!」と説明していると、突然、不愉快な気分になります。
留学経験が少ない韓国人は、「日本の本当の姿」をアメリカ人に知らせようと努力をします。
日帝時代に行なった蛮行を宣伝したりします。
しかし全て無意味です。
私も最初はそうでした。
「日本は悪い国だと思うでしょ?」と尋ねます。
しかし「むしろ、変な韓国人が多い」という反応が返ってきます。
空しいです。
日本人の友達と歩いていると、東洋(殆ど日本)に関心あるアメリカ人が話してきます。
「You guys from Japan?」
私は心の中で「またか…」と思いながら「No!」と言います。
横の日本の友達は 「Yes!」と言います。
アメリカ人の100%は嬉しそうな顔をして、日本人の友達に積極的な関心を示します。
横で聞いている私は嫉妬しています。
アメリカの思う日本は本当にとてもにFantasticです。
清潔で、神秘的で、親切で、伝統があり、お洒落で…。
しかし韓国の印象は…。
時々、アメリカの新聞の1面に大きな写真と一緒に、韓国関連のニュースが載ります。
大きく分けて2種類です。
1.反米デモのニュース!
2.北Chosun金正日のニュース!
…これだけがアメリカの韓国の印象です。
最後に悲しい事実を話します。
韓国人の飲食店の経営者は多いです。
しかし、主に日本料理の店です。
アメリカの日本料理屋は殆ど韓国人が経営しています。
入ると、日本のインテリアです。
演歌が流れ、韓国人店主が挨拶をします。
「Irasshaimase!」(日本語の挨拶)
これは メッセージ 1 (justina_eto さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授特別講義 5(2)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/06/27 22:03 投稿番号: [223 / 1474]
解放はいかに成り立ったか
<解放前後史の再認識>特別講義(5)解放は世界資本主義の構造変化による世界的事件
[ イ・ヨンフン(ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-23
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1721
(翻訳2)
ところで、北朝鮮の 『現代朝鮮歴史』(1983)と言う本を見れば、「朝鮮の解放は、金日成が組職領導した輝かしい抗日武装闘争の勝利が持たらした偉大な結実だった。」と書かれています。 これは真っ赤な嘘に過ぎません。金日成研究によれば、中国共産党傘下の抗日連軍の中隊長級の地位にあった金日成と彼の部下50余人は、日本関東軍の掃討を受け、1941年、ソ連領沿海州に身を避け、そこで1945年の解放まで過ごしました。金正日が出生したのも、まさにその場所ですね。
金日成が帰国したのは、1945年10月です。戦争が終わって、スターリンは、沿海州の金日成をモスクワまで召還し、彼が将来北朝鮮に建てる自分の代理政府の責任者として適格なのかをテストするための面接をすることになります。スターリンは金日成に満足したようです。それで、金日成は、ソ連軍とともにソ連軍の船に乗って、解放2ヶ月後に元山港に入って来ました。事実は厳然とこうであるのに、北朝鮮の歴史書が、金日成の抗日武装闘争が朝鮮を解放させたと書いているのは、その社会に思想と学問の自由がなくて偽善の全体権力が君臨しているからです。
それでは、韓国の高等学校用『韓国近現代史』という検定教科書を見てみましょう。
一番マーケットシェアが大きい金星社の教科書を見れば、「直接的に私たちに光復を持たらしたのは、連合軍の勝利だった。連合軍が勝利した結果として光復が成り立ったことは、我が民族が願う方向に新しい国家を建設するのに障害になった。」となっています(2005年版 253ページ)。
ここでは北朝鮮のような深刻な捏造はありません。しかし、連合軍が勝利した結果として解放になったから、私たちが望む新しい国家を建設するのに障害になったと言います。本当にそうだったでしょうか? 私たちの望む方向とは何だったのでしょうか。
こんな話が政府検定教科書に堂々と書かれているのを見れば、率直に言って、私は、南韓も北朝鮮に劣らない偽善の知性を持っていると感じます。このことに関しては、次の、分断の責任を問う項目において、また言及したいと思います。
また一方、南韓の国定『国史』教科書を見れば、1920年代以来、満洲と中国で「武装独立戦争」が粘り強く起ったと書かれています。多数に分かれていた独立軍は、いよいよ1944年、臨時政府傘下の韓国光復軍に統合されました。そして、連合軍と合同で国内への進撃作戦を準備したが、日帝があまりに早く敗亡したためにその機会がなかったと、残念がる叙述で独立軍の歴史はまとめられています。 しかしこれまた誇張し過ぎ、あるいは実態と隔たった叙述だと思います。
国境外の満洲の原野から独立軍が日本軍に独自の戦線を形成したのは、三一運動直後の1920年の一年に限られると私には分かっています。 当時、金佐鎮将軍と洪範図将軍の北路軍政署と西路軍政署は、お互いに協力して日本軍との戦闘で大きい成果をおさめます。 鳳梧洞戦闘と青山里大捷がそれですね。しかし、固定的な陣地や前線を構築するほどではなかったのです。
以後、日本軍の追撃を受けた独立軍は、沿海州のソ連領に退却します。そこで多くの戦派の間に独立軍の主導権を巡って大きな内紛が起き、そのすきに乗じてソ連赤軍が独立軍の武装解除を強要する際に数百人が射殺されるなど、独立運動史でまことに悲劇的な事件が発生します。以後、独立軍が独自の戦力で日本軍と遊撃戦でも陣地戦でも、独自の戦線を形成したことはないです。
1930年代になると、中国共産党の統制を受ける抗日連軍と、共産党の八路軍に属した朝鮮青年たちの抗日武装闘争が展開されますが、それはあくまでも、日本と中国との間の戦争の一環でした。独立軍の独自の戦線や戦闘力ではなかったのです。
(続く)
これは メッセージ 222 (chaamiey さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授特別講義 5(1)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/06/26 21:44 投稿番号: [222 / 1474]
解放はいかに成り立ったか
<解放前後史の再認識>特別講義(5)解放は世界資本主義の構造変化による世界的事件
[ イ・ヨンフン(ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-23
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1721
(翻訳1)
1945年8月15日、我が民族は日帝の抑圧から解放されました。その解放は、どういうふうに成り立ったのでしょうか?
どんな力が作用して、日帝がこの地から退くことになったのでしょうか?
この問題は、解放前後史の正しい認識に係わって一番核心的な問題であるにもかかわらず、今まで一度も真剣に論議されたことがありません。なぜ、これまでの50年間、歴史の真実がそのように頑なに軽んじられて来たのでしょうか。韓国の知性に、何か深刻な問題があると思います。
この問題を扱うにあっては、まず、1931年から1945年まで東アジアと太平洋を舞台に展開された戦争の歴史を前提としなければなりません。
皆さんご存じのように、1931年、日帝は満州事変を起こして満洲に傀儡国を建てました。1933年には、北京を中心にした華北地方にまた一つの傀儡政府を建てます。1937年には、いよいよ南中国を含む中国沿岸に上陸作戦を敢行して、中国との全面戦争をします。ひいては、1941年12月には、ハワイの真珠湾を不意打ち攻撃することで、アメリカを相手にしたアジア・太平洋戦争に突入することになります。この一連の戦争を指して、日本の人々は15年戦争とも言います。
日帝は、なぜ15年戦争をしたのでしょうか?
戦争で、おおよそ500万人に達する日本の若者たちが死ぬか負傷しました。中国人たちの被害は、その何倍にもなります。おおよそ2千万人だと言われています。
1930年代、日本の経済はそのほかの先進国と違い、高度成長の中でした。特に、アフリカに至るまで海外輸出が大きく増加するなど、日本経済の対外依存度が高くなっていました。その過程で、新しい基軸通貨であるアメリカのドルに対する依存度が深くなっていました。そんな日本が、アメリカと、なぜ勝算もない無謀な戦争に突入したのでしょうか?
それは人間の理性ではすべて説明することができない歴史の謎でもあります。
ともかく、隠せない事実は、我が民族はアジアと太平洋の主導権を巡って日本がアメリカとした戦争のおかげで、アメリカによって解放されたということです。1945年8月8日、広島にアトミックボムが落ちました。その悲劇の現場に、私たちの朝鮮の同胞もたくさんいました。続いて長崎にもアトミックボムが落ちたんです。そのようにアトミックボムの洗礼を受けたために、最後の1人まで本土を死守すると決意を固くしていた日帝も、ようやく降伏を宣言しました。まさにその瞬間、私たちの朝鮮が日帝から解放されたわけです。
国際情勢に明るい、独立運動に携わった人々は、そういう日帝の終末をあらかじめ予見していましたが、 大多数の人々にとっては、それはとても急な事態でした。後に咸錫憲先生は、聖書の言葉を引用して、「解放が盗賊のように急にやって来た。」と言いました。 国際情勢に誰より明るいハワイの李承晩博士も、日帝が敗亡した消息を聞いて、魂が抜けたようにしばらくぼーっとした後に、夫人に「我が故郷に帰ることができるようになったよ」と言ったそうです。
このように、我が民族は、アメリカが日本帝国主義を解体するはずみに解放されました。決して、私たちの力によって解放されたのではありません。 今日の韓国の若者たちは、少しばかり心がひりひり痛むとしても、この点を冷静に、二つの目をきちんと開いて正面から見つめなければなりません。解放前後史の正しい認識のための真正な出発点が、ここにあります。今まで解放と分断と建国の歴史を理解するにおいて大きい混乱があったのも、この点を明確に前提としなかったからだと言えます。
(続く)
これは メッセージ 221 (justina_eto さん)への返信です.
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御禮
投稿者: justina_eto 投稿日時: 2006/06/26 08:38 投稿番号: [221 / 1474]
チャーミー様
ドッコイ様
トリップトンム
イム・マニャ従事官殿
資料提供ありがとうございます
これからもどしどし
資料を貼り付けてください
トピ主はゼエロちゃんなので
大した資料の持ち合わせがありませぬ
orz
これは メッセージ 218 (chaamiey さん)への返信です.
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三国人の不法行為
投稿者: imp_mania_jk 投稿日時: 2006/06/26 04:40 投稿番号: [220 / 1474]
これは メッセージ 1 (justina_eto さん)への返信です.
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日韓併合
投稿者: imp_mania_jk 投稿日時: 2006/06/26 03:06 投稿番号: [219 / 1474]
これは メッセージ 1 (justina_eto さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授 特別講義 4(4)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/06/25 21:17 投稿番号: [218 / 1474]
日帝がこの地に残した遺産
<解放前後史の再認識>特別講義4
近代的意味の法と制度、そして市場経済体制
[ イ・ヨンフン (ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-22
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1702
(翻訳4)
ところで、先に指摘したように、解放後の北朝鮮では近代文明が破棄されました。それで、北朝鮮で暮すことができなくなった多くの数の近代的人的資本が、なじんだ故郷を離れて南韓に下りました。そのようにして越南した同胞は、6.25戦争が終わるまで、少なくとも200万人を超えます。これも南韓が享受するようになった植民地期の遺産でした。
大韓民国の国民経済の建設過程で、北から下った企業家たちが大きな役目を果たしたことについてはよく知られています。例えば、解放の後南韓で成立したメリヤス・靴下・ゴムのはき物・硝子工場は、たいてい北朝鮮で活動した企業家たちが南に下って立てたものなのです。
私は、このように植民地期に近代的な部分で活動した人々を、親日派と規定することに対して反対です。結論から言うなら、まったく逆です。他でもない、韓国の近代民族主義は、まさにこれらの階層を母胎にして成長したのです。植民地期を生きた人を対象として、彼らが日帝に抵抗したのかそれとも協力をしたのか、その境界線を引くのは、ほとんどの場合まことに困難なことです。国内外の独立運動に直接献身したごく少数の人々を除いた大部分の人々は、消極的な協力と消極的な抵抗の間を行ったり来たりしながら暮しました。先に言及した全体住民の一割にあたる、近代部門に携わった人々もそうでした。概して、彼らは、下級官僚、警察、軍人、教師、技術者、銀行員、会社員、商工業者、地主たちでした。
ところで、皮肉なことに、支配者日本人から差別を受けるのは、まさに彼らでした。日本人たちと日常的に顔を突き合わせながら暮さなければならなかったからですね。一方、農村の面単位で、日本人は多くて10人、普通は5人前後でした。下級官吏と警察と教師は朝鮮人の場合が多かったのです。それで、農村住民が日本人と接する機会はほとんどなかったのです。したがって、差別を受ける機会もあまりなかったのですね。農村住民の大多数は、村と親族のような伝統的生活空間で、日本人からの差別を知らずに過ごした場合が多かったのです。
それに比べれば、都市部で日本人と日常的に接触したり、熾烈に競争しながら生活した近代的階層の朝鮮人は、日本人からの差別によって、農村住民よりも民族意識をより早く目覚めさせて実践する場合が多かったです。もちろん真正な意味の親日派も多かったのですが、同時に、差別と抑圧に反発しながら内面で民族意識を強化して行った人の数も、決して少なくなかったのです。
彼らは、政治的状況が変われば、彼らが身につけた近代文明のノウハウを持って国民国家の建設に献身することができる能力と姿勢を持った人々でした。そういう視角から、私は、植民地期に成長した朝鮮人出身の近代的階層を無条件に親日派だと騒ぎ立てることに賛成できません。植民地当時の実態をよく分かっていないだけでなく、解放の後に彼らが遂行した大きな役割を無視することになるからです。
この「親日」と「反日」の複雑微妙な問題については、後日もう一度話す機会を用意します。(特別講義5に続く)
イ・ヨンフン (ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)
*イ・ヨンフン教授の <解放前後史の再認識特講>は、EBSラジオホームページ(もう一度聞く)で聞くことができます。
http://www.ebs.co.kr/Homepage/?progcd=0002420
(翻訳終)
これは メッセージ 216 (chaamiey さん)への返信です.
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韓国人のマナーの悪さに対馬島民はうんざり
投稿者: piece_of_asia 投稿日時: 2006/06/25 11:48 投稿番号: [217 / 1474]
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イ・ヨンフン教授 特別講義 4(3)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/06/25 06:50 投稿番号: [216 / 1474]
日帝がこの地に残した遺産
<解放前後史の再認識>特別講義4
近代的意味の法と制度、そして市場経済体制
[ イ・ヨンフン (ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-22
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1702
(翻訳3)
大韓民国が日帝から受け継いだ精神的遺産が、もう一つあります。いや、この場合は、受け継いだというより、我が民族の高い文化的能力が、自らの意志で努力して蓄積したものだと言えます。他でもありません、日帝時代にかけて広く普及した大衆教育です。大衆の教育熱が爆発するきっかけは、3.1独立運動でした。民族の長い将来のために実力を養成しなければならないという、民族的自覚が芽生えたのですね。
1920年代の大衆教育は、就学年代児童の就学率を20.3%の水準へ引き上げます。教育熱は1920年代後半に少し下がったものの、1930年代になるとまた爆発するようになります。当時の記録を見れば、入学希望者が入学定員をかなり超過して、小学校に入学するにも年を越しながら順番を待つほどでした。1930年代になると、児童の就学率が、男の場合60%を越えるようになります。このような教育熱に押され、日帝もやむを得ず、1946年頃から義務教育制を施行するという計画を樹立するほどでした。
中学校以上の高等教育も大きく拡がりました。日本への留学生数も大きく増加しました。1940年代になると、日本への留学生が3〜4万人に達しました。その大部分は、中学校生徒たちでした。朝鮮では中学校が極端に不足していたし、また民族差別のため入学するのが気難しかったからです。それで、少しでも経済的能力があれば、かえって日本に渡って中学校に入学するのが便利でした。
教育を受けるようになった朝鮮人たちは、総督府付属の各官署、学校に、官吏や教師として就職しました。その数が、1940年頃には約17万人に達しました。この外にも、各種会社や銀行、金融・水利組合などの機構に携わりながら近代的な経済活動の訓練を受けた知識階級の人々がいました。その詳細な実態と、彼らが解放後にどのよう役割を担ったかについては、 『解放前後史の再認識』第1冊に掲載されたナミキ・マサヒトの「植民地期朝鮮人の政治参加」が非常に有益なので、ぜひ参照してください。
何より重要な人的資本は、1920年代以後、店鋪や工場、会社を経営する商人と企業家の集団でした。1920年代以後、行商の担ぎ商人と背負い商人に代わり、固定的な店鋪を所有するようになった朝鮮人商人の数は、20万人を超えるようになります。1939年には、5人以上の従業員のいる工場を経営する朝鮮人は4千人に達しました。 彼らは、以後の大韓民国の国民経済を建設するに当たり、かけがえのない大事な人的資本の役を果たしました。『解放前後史の再認識』第1冊に載せられたカーター・エッカートの論文「植民地ではない朝鮮の総力戦・工業化・社会変化」は、このように近代を学習して主体的に実践するようになった人的資本が、植民地末期には全体人口の約一割位になったと推定しています。
(続く)
これは メッセージ 215 (chaamiey さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授 特別講義 4(2)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/06/24 17:20 投稿番号: [215 / 1474]
日帝がこの地に残した遺産
<解放前後史の再認識>特別講義4
近代的意味の法と制度、そして市場経済体制
[ イ・ヨンフン (ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-22
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1702
(翻訳2)
日帝が北朝鮮にどれだけ多くの巨大な規模の軍事工業施設を建設したかは、最近になってやっと明かされ始めた新しい研究成果です。解放後、これら先端工業施設の一部は撤去されて占領軍ソ連の戦利品として移ったのですが、ほとんど大部分は、北朝鮮政府に引き継がれました。その相当部分が6.25戦争(朝鮮動乱)の過程で米軍の爆撃によって破壊されますが、工場を経営する高級人材が存在して部品が供給される限り、破壊された工場を復旧するのはあまり難しいことではありません。
しばしば、北朝鮮が1960年代まで南韓より経済的に先に進んでいたと言います。私も、それは事実ではないかと思います。ただ私が申し上げたいことは、そのようになったのは、北朝鮮が日帝から受けた物的遺産が豊かだったからだという点です。後でまた述べますが、1950年に金日成が6.25戦争を挑発することができたのは、個人火器や火薬に関して北朝鮮は自身の生産能力を確保したからです。それに比べて、南韓にはほとんど何もなかったのです。そういう南北韓の経済構造や経済力の差が、金日成にとって6.25 戦争を挑発するように誘惑したと言えます。
一方、南韓が日帝から受け継いだ物的遺産は、まことに貧弱でした。南韓は、米作中心の農業地帯でした。南韓で一番大きい産業は、輸出米農業でした。工業施設としては、醸造場・精米所のような食品加工業が主流をなしただけです。その他にソウル、釜山、大邱のような都市に綿紡織・絹織などの衣類工場がいくつかあったくらいのものでした。ソウルのような大都市近傍で機械工業が一部発達しましたが、マニュファクチャーの水準をさほど超えていませんでした。しかも、それらの南韓の工業施設さえも、解放後の混乱期にたくさん毀損されてしまいました。
ところが、南韓は、日帝が残したまた別の歴史的資産を、大切によく保存しました。ほかでもない、近代的な法・制度と市場経済体制がそれでした。これらは、元々西ヨーロッパで発生して日本に渡ったのでした。だから、厳密に言えば日帝の遺産というより、20世紀の人類が共有する文明の資産とも言えるのです。先ほど何度も触れましたが、このような近代的な法と制度は、日帝が韓半島を永久併合するために移植したものでした。
解放後の大韓民国は、このような近代文明としての法と制度をそのまま保全して発展させました。もう少し詳しく言えば、日帝は1937年以後戦時期に入ると、市場経済体制を相当部分中止して、国家社会主義的な統制政策を取ります。食糧の供出と配給がその代表的な例です。このような日帝の戦時経済体制は、解放後、南韓では米軍政によって解体されました。そして大韓民国が樹立される時には、より自由な市場経済が活性化していました。このようにして、大韓民国は、日帝を通じてこの地に入って来た市場経済体制を復旧し発展させて、今日のような繁栄する市場経済を成立させることになったのです。
一方で、北朝鮮は、豊かな物的遺産を受け継いだが、日帝を通じて入って来た近代的な法と制度を廃棄してしまいました。社会主義革命をする目的のためだったのです。1946年、北朝鮮は「建国20箇条項」を発表し、「日帝が統治のために施行したすべての法を廃止する。」と言いました。また、「日帝の裁判機構を、人民から選抜された代表による人民裁判機構に取り替える。」と言いました。
財産権の絶対性を保障した民法が廃止されれば、どうなりますか? 法による裁判機構が解体されれば、その社会の人間たちはどんな境遇に置かれることになりますか? そのように、北朝鮮は近代文明を否定してしまいました。その結果、北朝鮮は、悲劇的に、文明の袋小路に立ち入ってしまいました。社会主義革命の熱気に浮き立っていた当時の人たちが、そういう文明史の悲劇をどうして予感できたでしょうか。しかし、人間精神の本質である自由、その自由の物的土台である財産制度が廃止されれば、そういう悲劇が発生するものと決まっています。
(続く)
これは メッセージ 213 (chaamiey さん)への返信です.
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黄錦周の履歴書
投稿者: imp_mania_jk 投稿日時: 2006/06/24 14:05 投稿番号: [214 / 1474]
名前:黄錦周
生年月日:1924年
性別
女
学歴・職歴:
1936年
12歳で100円で売られる
1938年
14歳で満州へ強制徴用
[気がつくと帰国、売られたハズの家に帰る]
<1939年第二次世界大戦勃発>
1941年
17歳で韓国から慰安所に派遣される
1941年
気がつくと帰国し、学校に通っていた
1942年
18歳で韓国から慰安所に行き
1942年
気がつくと帰国し、学校に通っていた
1943年3月
19歳で学校卒業前に自主退学、慰安所に送られる
<1943年9月大日本帝国朝鮮府での女性挺身隊募集開始>
これは メッセージ 1 (justina_eto さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授 特別講義 4(1)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/06/24 07:02 投稿番号: [213 / 1474]
日帝がこの地に残した遺産
<解放前後史の再認識>特別講義4
近代的意味の法と制度、そして市場経済体制
[ イ・ヨンフン / 2006-06-22 11:23 ]
1945年8月15日、日帝は敗亡しました。永久併合と同化政策の掛け声が盛んであったが、結局無駄でした。彼らは、慌しく彼らの故郷に撤収して行きました。残ってくれと引き止める者は、誰もいませんでした。日帝が撤収した後、朝鮮の状況はどうなったでしょうか。再び1905年に大韓帝国が滅亡したその頃に原状復旧されたのでしょうか。
ところが、決してそうではなかったのです。社会と経済の構造が変わっていました。何よりも、人間たちが昔の人間たちではなかったのです。このような現象を指して、経済学では「発展」または「開発」と言います。英語では developmentです。これは、成長(growth)とは異なる概念です。成長は、人の背が大きくなるというような概念で理解すれば良いです。背が160cmから170cmになること、それが成長です。国民所得が 1000ドルから2000ドルになること、それが成長です。
開発(development)はそうではありません。この外来語の起源は生物学です。青虫が成虫になる過程、正しくそれが開発です。模様と器官が変わって複雑化するのですね。人がお母さんのお腹の中で受精した時は人間の姿ではありません。やがて徐々に人間の姿に変っていきます。そういうことを開発または発展と言うのです。ある社会が歴史的に開発されたり発展したと言えば、それはその社会の運動原理とその社会の付属器官が全然違ったものに変わっていて、ちょうど成虫が青虫に戻ることができいような、不可逆的な変化を経験することを言います。
植民地近代化論は、正しくそういう開発が植民地期の韓半島で起きたと主張する学説ですね。人々が暮らし良くなったという話ではありません。青虫が成虫になったが、栄養状態と所得水準が良くなったとか悪くなったとか言うことができないことと同じです。
では、どうして、そういう元の状態に戻ることができない不可逆の変化が生じたのでしょうか。前回に説明した、民法に象徴される近代の法と制度によってのことです。まさにその理由によって、1945年に日帝がこの地から撤収した後の韓半島は、決して1905年の大韓帝国当時の朝鮮に帰ることができなかったのです。まさにこの点が、日帝が残した歴史的遺産の本質です。
日帝が残した歴史的遺産について、改めて、また落ち着いて、計算して見ましょう。遺産は、可視的な物的遺産と見ることのできない精神的遺産とに分けることができます。
まず物的遺産として、南韓と北朝鮮の事情はかなり異なったことを指摘する必要があります。日帝は、北朝鮮に意外に豊かな物的遺産を残しました。1930年代後半から推進された軍需工業化の結果だったのです。解放後の1946年現在、北朝鮮では800個以上の大規模工場が稼動中でした。製鉄・製錬・電気・化学など、当時としては世界先端水準の工場群が北朝鮮にありました。
特に1939年以後に日本から渡って来た電気・化学工業の大規模工場は、従業員数が3千または6千を超える場合もあったんですが、今まで知られたものだけでも200を超えます。その他、北朝鮮地域に敷かれた鉄道網は、人口当り鉄道マイレージで日本本土より高い水準でした。人口当り発電量でも、北朝鮮は日本をしのぐ水準でした。
(続く)
これは メッセージ 1 (justina_eto さん)への返信です.
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Re: イ・ヨンフン教授インタビュー
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/06/24 06:27 投稿番号: [212 / 1474]
「永久併合」と「朝鮮同化政策」というキーワードが印象的でした。>
関心を持って読んでいただき、ありがとうございます。
確かに、当時の日本人は、韓国を一旦併合した以上は韓国を日本と同じにするつもりであったろうし、韓国を将来手離すつもりも無かったはずです。当時の歴史を評価しようとするならば、そういう前提で考えるべきと思います。
イ・ヨンフン教授が、そういう、歴史を見るときに持つべき基本的な姿勢について韓国国民に語られたことはとても意味のあることだと思います。
これは メッセージ 210 (trip_in_the_night さん)への返信です.
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太極旗制定の経緯
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2006/06/24 03:00 投稿番号: [211 / 1474]
駐日大韓民国大使館・韓国文化院のHP。
太極旗(テグッキ)は万物の普遍的な原則と定義の下で発展と繁栄を追求する韓民族の意志が表象化された大韓民国の国旗で、平和、単一、創造、光明、無窮を象徴します。国旗制定の論議が初めて論じられたのは1876年1月、朝鮮王朝の高宗(コジョン)13年で、1948年大韓民国臨時政府樹立をきっかけに国旗の図案と規格が統一されました。
韓国の国旗である“テグッキ”(太極旗)は白地の中に太極文様と四つの角の乾坤坎離4グェ(四卦)によって構成されています。太極旗の白地は明るさと純粋、そして平和を愛する我々の民族性を表しています。 真中の太極文様は陰(青)と陽(赤)の調和を象徴し、宇宙万物が陰陽の相互作用によって生成して発展すると言う大自然の真理を形象化したものであります。
http://www.koreanculture.jp/syoukai_01.htmlその制定の経緯。
1882年(明治15・高宗19・光緒8)
国旗制定について、李○根『民族の閃光』より(日付は陰暦)。
「イギリスで造船した千百トン級の明治丸は、船長だけはイギリス人ジェ−ムズを雇っていたが、この船長が好奇心をもって珍客朴泳孝修信使一行と話を交しているうちに、「朝鮮王国の使節が来訪するのだから、貴国の国旗を貸してくれればマストに掲げる」という話を持ち出した。
その時まで国旗の制定・使用をしていなかった朝鮮王国は、あわてざるを得なかった。
幸い一行が出発する前に政府要路の間で、国旗問題が論議され、修信使は「必要な時には適当に作って使用せよ」という国王の内諾を得ていたから、朴泳孝以下の使節団幹部は、明治丸の船上で、あらかじめ構想していた大極八卦図を出し、アストン総領事の意見を求めた。
旗に関してアストンよりも詳しいジェ−ムズは、「太極の図案はよいが、周りの八卦は複雑だから、四卦だけを四隅に配する方がよかろう」といい出して、一同これに同意して決定となり、ジェ−ムズの好意で最初の国旗標本として大、中、小三本を画いてもらった。
一行が神戸に着いてから、八月十二日、宿所西村屋の屋上に韓国旗が初めて掲揚された。その日から神戸に駐在する各国外交官は、この珍奇な国旗を写して行った。
修信使一行が東京に着いて以後、十月三日の坤殿(王妃)誕生日を慶祝するための宴会場に、よその国の国旗とともにわが国旗を掲げて、式場を飾った。
政府は翌癸未(一八八三年)一月二十七日、正式に国旗の制定を宣布した。
その後八十四年を経た今日まで、どのような民族の受難期に際しても、太極旗を国家のシンボルとして守護してきた」
(○は王ヘンに宣)
http://www15.plala.or.jp/c-o-seraphin-S-R/Korea-Taehan-Choson-/Eternal-History/KOREA-materials-1-1823-1893.htm
----------------------------------------------------
なお、韓国の一番古い太極旗(1882年7月)には、清の属国「大清国属」と書かれていた。
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2004/01/26/20040126000072.html『大清国属
高麗国旗』
これは メッセージ 126 (trip_in_the_night さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授インタビュー
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2006/06/24 01:53 投稿番号: [210 / 1474]
これは メッセージ 209 (chaamiey さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授 最新稿(5)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/06/23 21:27 投稿番号: [209 / 1474]
植民地収奪論 VS 植民地近代化論
『解放前後史の再認識』特別講義
(3)日本の朝鮮同化政策が生んだ朝鮮近代化
[ イ・ヨンフン / 2006-06-21 ] (翻訳)(5)
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1701
逆説的に聞こえるかも知れませんが、そういう植民地的収奪の結果として、朝鮮の社会と経済も近代化し始めました。日本人たちが工場を建てて農場を建てれば、朝鮮人たちが労働者として、小作農として雇用されます。それによって朝鮮人の所得が増加し始めます。さらに、朝鮮人の中にも、日本人を模範として工場を建てて企業家に成長する階層が発生します。
先ほど、近代民法の基本精神について述べました。私的自由の原則ですね。朝鮮人にもそういう私的自由の原則が適用されます。そうしてこそ「同化」ですから。
ところで、全体人口の2〜3%に過ぎない日本人が、朝鮮の土地と資源を全て所有することができたでしょうか? 絶対的には、相変らず朝鮮人所有の財産が多かったのです。そして、朝鮮人資産家の中から、日本人に学んだり、日本に留学して上級学校を卒業した近代的な人間集団が生まれます。今日の三星グループと現代グループを創業したイ・ビョンチョル先生と鄭周永(チョン・ジュヨン)先生も、共に、植民地期に企業を起こした人々です。
1939年末になると、そのように朝鮮人であって工場を経営している人の数が、日本人より多くなり4千人を超えるようになります。近代化の主役はあくまでも日本人でしたが、多数の朝鮮人たちもそこにようやく参加し始めたのです。近代から差別されながら近代を学習して、近代を実践し始めたのです。 そのようにして生じた近代的な人的資本を土台として、後に日帝がこの地から退いた時、この地に私たちの力で近代経済と近代社会と近代国家を建設することができたのです。
人間の理性で歴史の偶然性をすべて知ることはできません。日帝が永久併合しようとして同化政策を展開した結果がそのようになるとは、誰が分かったでしょうか。そんなことを指して、歴史の奸智だと言うのかも知れません。このように、日帝が朝鮮を植民地として支配した歴史の意義を近代的な法と制度の移植を通じた朝鮮の近代化という点に見出す学説を、「植民地近代化論」と言います。
今、放送をしている私と一緒に、主に経済史を研究する人々がそんな主張をし始めましたが、いつのまにか、知ってか知らずか、私どもを批判する人々がそういう名前を付けてくれました。「植民地近代化論」に関して、また植民地期に生じた経済的変化に関してもっと詳しく知りたい人は、『解放前後史の再認識』第1巻に掲載されたキム・ナンニョンの「植民地時期の工業化再論」とチュ・イクチョンの「植民地時期の生活水準」と言う二つの論文を参照してください。私の性急な話よりもずっと詳しく有益な説明があります。
イ・ヨンフン(ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)
*イ・ヨンフン教授の <解放前後史の再認識>特別講義EBSラジオホームページ(もう一度聞く)で聞くことができます。
http://www.ebs.co.kr/Homepage/?progcd=0002420
(終)
これは メッセージ 207 (chaamiey さん)への返信です.
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朝鮮民族
投稿者: imp_mania_jk 投稿日時: 2006/06/23 11:19 投稿番号: [208 / 1474]
<朝鮮民族>
モンゴル族→漢民族→満州族の辺境自治区となる(主人が変わる度に前の主人を虐殺)。
仏教徒を大粛正→殲滅。儒教原理主義へと進む。
中国や満州族の属国植民地となる。
中国大陸の民族と混血進む(梨泰院は元々は混血児を捨てる異胎院)。
毎年、物・金・女を中国へ貢ぎ人口1000万人前後で文明も人口も停滞。
済州島へ侵攻。
18〜19世紀、英国で産業革命が始まり欧米に波及
1807年
フルトンが蒸気船を発明
1825年
スチーブンソンが蒸気機関車を発明
1853年
【日米】ペリー提督の黒船が日本の江戸湾に出現。(´⊂_` )開国シテクダサ〜イ
┏1854年
【日米】日本開国!神奈川条約を締結。
┃1858年
【日米】日米通商条約
┃1866-1872年【朝仏】徹底した鎖国・攘夷政策によりカトリック信者8000人余を殺害。
┃
平民白丁に知恵を付けるなニダ!異教徒は氏ねニダ!<ヽ`∀´>グサッξ ・。>・)Σ
┃1866年
【朝仏】9名の仏人神父殺害の報復として仏軍が軍船7隻を派遣するも敗れる。
┃
ウリは今の生活が好きニダ!邪魔するなニダ!<ヽ`Д´>=≡⊃ξ ・。>・)Σ
┃1866年
【朝米】米国商船ジェネラル・シャーマン号が江華島に侵入。通商を求めるが撃沈される。
┃
サンギョウカクメイ?そんなの要らないニダ!<ヽ`Д´>=≡⊃( ´_⊃`) Σ
┃1871年
【朝】米国艦隊が朝鮮西海岸に出現。通商と賠償を求めるが奇襲を受け撤退。
┃
身分制度が不安定になるニダ!近寄るなニダ!<ヽ`Д´>=≡⊃( ´_⊃`) Σ
┃1875年
【日朝】日本軍が開国を求めて江華島に侵入。
┃
開国しなよ、「文明開化」はいいぞ?(
´∀`)つ))
<`Д´ヽ>
┃
福沢諭吉が『文明論之概略』の中で、civilizationの訳語として【文明開化】という言葉を使用。
┃1876年
【日朝】江華島条約(日朝修好条規)にて、日朝間の開国を実現。
┃
(
´∀`)人<`∀´ヽ>とりあえずイルボンは恐いから付き合ってやるニダ
┃1880年
【日米】米国政府が日本に朝鮮当局との仲介を求めるが日本は拒否。中国に仲介を依頼。
┗1882年
【米朝】やっと【朝鮮開国】-米朝修交条約 <ヽ`∀´>人(´⊂_` )
↑
ただでさえ『両班、地方両班、中等民、平民、白丁』の原始的奴隷貴族社会だったのに、
日本と比べても30年近く産業革命の流れに乗り遅れ、しかも生産活動をしない階級の両班の
人数は併合前には40%近くに達して国が立ち行かなくなり、そんな状態で力を付けた列強国達の
間に晒され存亡の危機に陥る。
<ヽ`Д´>アイゴー!ウリナラは馬鹿だったニダ!生き残るためにはもう日本に併合してもらうしか無いニダ!
↓
<朝鮮系日本人>
日本に併合を願い出て『日本人』となる。
文明が一気に1500年飛躍する。←コレで自分達が優秀民族と大きな勘違い&妄想にハマる!
人口倍増。<ヽ`∀´>ホルホルホルホル♪
アジア各地で日本人を騙り、乱暴狼藉を行う。
日本本土や満州地域(満州は朝鮮人の方が遥かに多かった)、樺太地域(戦後、残留日本人を猛烈に虐待)
へ、大量移民(徴用なんて大嘘。日本へ入国させろとデモまで起きる始末)。
これは メッセージ 1 (justina_eto さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授 最新稿(4)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/06/22 22:32 投稿番号: [207 / 1474]
植民地収奪論 VS 植民地近代化論
『解放前後史の再認識』特別講義
(3)日本の朝鮮同化政策が生んだ朝鮮近代化
[ イ・ヨンフン / 2006-06-21 ] (翻訳)(4)
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1701
その代表的なものが、1912年に発布された『朝鮮民事令』です。この時施行された日本の民法は、今の大韓民国の民法にもつながっています。二つの法を比べてみれば、最初の表現の順序までも変わらない部分が多いのです。
ところで、近代的な民法の核心原理は何でしょうか? これについて、民法学者たちは、「私的自由の原則」を言います。もう少し具体的に説明すると、人間は国家や他人に拘束されない自由な存在として、その社会生活と経済生活は自分の自由な意思によるというものです。これは財産権制度と係わって、第一に「所有権絶対の原則」として現われます。所有権は絶対的に不可侵であり、国家もこれを恣意的に侵害するとか制限することができないというのです。
二番目は「契約自由の原則」です。これは、財産権を譲渡するとか処分するにおいて、所有者の自由意思に基づく契約だけが法的に有効だということです。先ほども指摘しましたが、今日の大韓民国の国民が享受している財産権制度は、まさにここから出発しています。日帝は、朝鮮の社会と経済を統合する政治原理として、民主主義と自由主義は導入しませんでした。日本自身が自由民主主義をまだ体得していなかったと言えます。彼らは、家族主義的で全体主義的な政治原理を、天皇制の形態で発達させたのです。
日本が自由民主主義の政治原理を理解して実践するのは、アメリカによって天皇制ミリタリズムが解体された1945年以後からです。ところが、日帝は、天皇制という政治体制下で、社会生活と経済生活の原理として、近代的な民法を西ヨーロッパから取り入れて自己流で定着させました。そのため、大きく見れば、明治維新以後の日本を近代社会と呼びます。その西ヨーロッパ起源の近代の要素が、植民地期に朝鮮に移植されたのです。まさに、植民地朝鮮を永久に日本帝国の領土に編入して併合し、ひいては同化させる目的からでした。
経済的な側面の同化政策について、もう少し説明します。近代的な民法と商法が移植された植民地朝鮮は、結局日本と一つの市場に統合されました。1920年までに全ての関税が廃止されました。資本と商品の往来の障害が消えたわけです。そのことよって、二つの地域間の貿易が大きく発展しました。
貿易が発達すればどうなりますか?
皆さんも御存知のとおり、1960年代以後、韓国経済は輸出貿易を牽引力として高度成長を果たしました。同じことです。貿易が増えれば経済は成長するようになります。
経済とは、家計と企業の間の財貨と労動力と所得の流れです。これに輸出と輸入が加われば、循環の規模が大きくなりますね。経済成長が持続して、一人当たり所得水準も増加します。その過程で日本から資本が入って来て、朝鮮の土地を開墾して工場を建てました。そのように、日本人が主体になった経済成長でした。そのように頻繁に資本が入って来て経済成長が持続すれば、結局どうなりますか? 朝鮮の土地と地下資源と工業施設は、ますます日本人の所有になります。正しくこのようなことが、経済学的に言って真正な意味での植民地的収奪ですね。
「奪った」のではなく、投資をして韓半島の経済的資源を日本人の所有に変えて行ったのです。正にその点において、永久併合と同化政策による実質的な収奪の恐ろしい結果を見ることになります。言い換えますが、詐欺と暴力で人民の財産を奪うのは、古代の掠奪国家や中世の征服国家の特徴です。日帝はそういう野蛮の国ではありませんでした。日本は近代社会であり近代国家でした。彼らは、韓半島を永久に日本領土に編入しようとしたし、その目的のために投資をしたのです。
これは メッセージ 206 (chaamiey さん)への返信です.
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Re: イ・ヨンフン教授 最新稿(3)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/06/22 20:08 投稿番号: [206 / 1474]
植民地収奪論 VS 植民地近代化論
『解放前後史の再認識』特別講義(3)日本の朝鮮同化政策が生んだ朝鮮近代化
[ イ・ヨンフン / 2006-06-21 ] (翻訳)(3)
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1701
そのほか、経済史研究者たちの精緻な統計的推定によれば、植民地期の1910〜1940年にわたり、韓半島の総所得は年平均3.7%の速度で持続的に成長しました。それは、当時の世界では高い水準でした。20世紀前半、世界の資本主義は停滞と危機の時代でした。それで、先進国と言っても、だいたい2%前後の低い成長率でありました。ところが、日本だけは特に3〜4%の高い成長率を見せ、我が韓半島も、日本の領土に編入されていたことにより、日本本土と同じ程度の経済成長率を見せたのです。
皆さんは、もう私の話に不快感と疳の虫を抑えきれないかも知れません。しかし、冷静に考えて見ましょう。 例えば、大韓民国という国があって、全羅道は年平均4%成長し、慶尚道は年平均 −4%で後退することはありえないでしょう。同じ理屈です。韓半島は日本帝国の一部分として日帝の領土になってしまいました。一領土になったことを指して、歴史学者たちが植民地と言っているだけです。まさにその理由によって、日本が経済成長したのと全く同じ程度に、韓半島でも経済成長が生じたのです。
なぜそのようになったのでしょうか? 日本へ米を奪って運んだのではなく、日本へ米を輸出したからです。当時は、輸出ではなく 「移出」といいました。とにかく日本の米代が朝鮮より高くて、市場原理によって日本に輸出されたわけです。その結果、輸出した農民や地主には輸出所得が発生するようになります。国内で米を処分するよりも多くの所得が発生します。それで経済が成長するのです。その輸出代金で日本の綿製品のような工産品も輸入して、満洲から足りない食糧も買入れて、銀行と会社に投資もして、工場も作ったりしたのです。
このような経済的変化をありのままに理解するために、私たちは、日帝が韓半島を植民地として支配した目的や方式というところから正しく知る必要があります。
日帝が韓半島を植民地として支配した基本目的は、いわゆる「永久併合」でした。日帝が残した統治資料を見れば、「永久併合」と言う言葉がうんざりする程によく出てきます。永久に日本の領土にするというわけです。日本の人々は、ここに20年とか30年とか住んだら帰ろうと思って来たのではないのです。永久に住もうと考えてやって来ました。この点をきちんと見つめる必要があります。
それで、「永久併合」という目的を果たすためにはどのようにしますか。何より、朝鮮の社会と経済を日本と同じように同化させる必要があります。そういう目的で、日帝は、自分の国の法と制度を植民地朝鮮に移植しました。そうしてこそ、日本人たちが朝鮮に渡って来て自分の国のように不便なしに楽に暮せるではありませんか。朝鮮人たちに対しては、その文化と精神を奪って日本人にしてしまえば、永久に併合しておくことができます。そうするためには、朝鮮の文化と精神をそのままにして置いてはいけないですね。新しい文化と精神を取り入れて、朝鮮人を日本人に変える必要がありました。そういう目的で、日帝は、近代的な法と制度を朝鮮に移植したのです。
これは メッセージ 205 (chaamiey さん)への返信です.
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イ・ヨンフン教授 最新稿(2)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/06/22 00:03 投稿番号: [205 / 1474]
植民地収奪論 VS 植民地近代化論
『解放前後史の再認識』特別講義(3)日本の朝鮮同化政策が生んだ朝鮮近代化
[ イ・ヨンフン / 2006-06-21 ] (翻訳)(2)
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1701
しかし、このような話は、皆、事実ではないのです。びっくりする人は多いでしょうが、要点のみを述べれば、このような話は、皆、教科書を書いた歴史学者たちが作り出した話なのです。
解放以後の歴史教科書を検討して見れば、1960年代まではこのような話はありませんでした。ところが、1970年代に入って、特に1974年以後、国定教科書体制に移ると共に、上のような乱暴な記述が教科書に登場し始めました。 このことについては、ここでこれ以上詳しく説明する余裕がないので、知りたい方は私の以前の論文を参照してください。(イ・ヨンフン、「国史教科書に描かれた日帝の収奪像とその神話性」、『時代精神』28,2005)
先に紹介したように、収奪論は1930年代からありました。ところで、その時の収奪は一種の理論的なものとして、マルクス主義的収奪でした。ところが、1970年代からの収奪は、何らの対価を支払わないでただ暴力的に奪われたという、文字どおりの掠奪だと言えます。しかし、それは事実ではありません。そういう剥き出しの掠奪としての収奪論が1970年代から教科書に登場したことは、韓国の歴史学界が、まだ日帝下の植民地時期を科学的に認識する能力と姿勢が不足していることを意味しています。
正当な対価を支払わないで土地と米を奪い去るならば、その結果はどうなりますか? ちょうど風船の空気が抜けるように経済は萎縮するしかありません。それはあまりにも当たり前の事実なので、敢えて証明する必要もないほどです。それによって人々はますます貧乏になり、人口は減ることになります。
ところが事実はどうでしょうか。正反対でした。1910年の朝鮮人の人口は、おおよそ1600〜1700万人位でした。1940年には2400万人でした。日本と満洲に出た人を合わせれば2600万人くらいでした。わずか30年の短い期間に50%以上人口が増えたわけですが、このような人口増加現象は、経済が潰れていたら想像することができないことです。
(続く)
これは メッセージ 203 (chaamiey さん)への返信です.
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1988年ソウル五輪
投稿者: hyottoko_dockoy 投稿日時: 2006/06/21 23:43 投稿番号: [204 / 1474]
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李栄薫(イ・ヨンフン)教授 最新稿
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/06/21 23:30 投稿番号: [203 / 1474]
植民地収奪論 VS 植民地近代化論
『解放前後史の再認識』特別講義(3)日本の朝鮮同化政策が生んだ朝鮮近代化
[ イ・ヨンフン / 2006-06-21 ] (翻訳)
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1701
自由主義に基礎を置く新しい歴史認識と民族主義に基礎を置く古い歴史認識は、1905〜1945年の間の日帝下の植民地期をどう理解するかにおいて、大きく異なっています。 現在の国史学界で主流を占めている民族主義的歴史認識は、日帝が大韓帝国の国権を侵奪して、朝鮮の土地と食糧と資源と労働力を収奪することによって我が民族の生存権を否定して、我が民族の正常な発展の道を歪めたと主張しています。
これを「植民地収奪論」と言います。ここには、歴史を階級的な観点から搾取関係として認識するマルクス主義な歴史学と経済学が大きい影響を及ぼしました。例えば、韓国で近代的な歴史学と経済学は 1930年代から始まったと言えますが、その創始期の歴史学者と経済学者を見れば、たいてい唯物史観に立脚したマルクス主義者の場合が多かったのです。
収奪論をもう少し具体的に紹介すれば、次の通りです。日帝は、土地調査事業(1910年〜1918年)を実施するに当たり、農民たちに所有農地を届出申告させることにしました。ところが、申告が何なのか分からない農民たちの中には、申告期限を逃した人が多かったのです。そのため、全国の農地の4割にもなる多くの土地が総督府の所有地として没収されたし、これらの土地は、日本から来た移住農民や東洋拓殖株式会社などに捨て値で渡されたというのです。これまでの40年間、大韓民国の国史教科書は学生たちにこのように教えて来ました。
また、国史教科書では、日帝が、生産された米の半分を奪って日本へ積み出したとなっています。 作物が実れば日本の警察と憲兵が銃剣を突き付けて半分を奪ったように、そのように直接書いてはありませんがそのように解釈されるような文脈で、学生たちを教えて来ました。
また、日帝は、朝鮮人の労動力を収奪したと言います。1940年代の戦時期に約650万人の朝鮮人を前線、工場、炭鉱に強制連行し、賃金も払わずに奴隷同様にこき使ったというのです。その中に、朝鮮の娘たちのこともあります。従軍慰安婦(挺身隊)という名目で朝鮮の娘たちを動員して日本軍の慰安婦にしたが、その数は数十万人にのぼると教科書は記述しています。
しかし、このような話は、皆、事実ではないのです。
(続く)
これは メッセージ 1 (justina_eto さん)への返信です.
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ジャスティナ様 200番突破
投稿者: jgeilsbandfreek 投稿日時: 2006/06/20 15:03 投稿番号: [202 / 1474]
おめでとうございます。
これからも、清く正しく美しく生きて下さい。
これは メッセージ 200 (justina_eto さん)への返信です.
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韓カテ資料室 目次 2b
投稿者: justina_eto 投稿日時: 2006/06/20 14:39 投稿番号: [201 / 1474]
<投稿のお約束>
ヘッダには
1.トピ名
2.内容のわかるもの
を取り入れるようお願いします
例)トピ名
女性・笑う・現実・民度・火病
等
例)リンク(外部リンク)・NEWS(新聞・テレビネタ)・PHOTO(写真ネタ)
199 『「在日」論の嘘
贖罪の呪縛を解く』
toapanlang
2006/ 6/16 23:02
198 動画
SirOtome
2006/ 6/15 22:18
194 訂正
FIFAランキング(2006.05.18)
justina_eto
2006/ 6/15 14:48
193 リンク
FIFAランキング(2006.06.18)
justina_eto
2006/ 6/15 14:47
192 リンク
通信用語
himaneko92
2006/ 6/15 14:31
191 Re: 『朴正煕、最後の一日』
justina_eto
2006/ 6/15 14:24
190 『朴正煕、最後の一日』
toapanlang
2006/ 6/15 14:20
189 リンク
釜山で食事を
justina_eto
2006/ 6/15 8:24
188 朝鮮出身兵取扱教育
5
toapanlang
2006/ 6/12 16:20
187 朝鮮出身兵取扱教育
4
toapanlang
2006/ 6/12 16:03
186 朝鮮出身兵取扱教育
3
toapanlang
2006/ 6/12 15:47
185 朝鮮出身兵取扱教育
2
toapanlang
2006/ 6/12 15:20
184 朝鮮出身兵取扱教育
1
toapanlang
2006/ 6/12 14:58
183 アメリカ人が見た朝鮮の開発
chaamiey
2006/ 6/11 20:45
182 Re: 偏ってる共○通信
trip_in_the_night
2006/ 6/11 17:30
180 偏ってる共○通信
imp_mania_jk
2006/ 6/ 9 19:25
179 朝鮮軍司令部 1904‐1945
imp_mania_jk
2006/ 6/ 9 19:08
178 北朝鮮
sonoba_kagiri
2006/ 6/ 9 2:12
176 大怪獣語録
2
ricky_eto
2006/ 6/ 8 16:11
171 大怪獣語録
trip_in_the_night
2006/ 6/ 8 15:39
170 リンク
02W杯顛末記
ricky_eto
2006/ 6/ 7 11:41
169 歴史
アラチ君奮戦記(別名
外道戦記
justina_eto
2006/ 6/ 7 10:36
167 蒙古襲来絵詞
ricky_eto
2006/ 6/ 6 9:17
164 変な人がトピ主しています。
jgeilsbandfreek
2006/ 6/ 5 14:17
163 いいかげんな仮説・
himajin92
2006/ 6/ 3 16:52
162 Re: リンク
大韓民国憲法
ricky_eto
2006/ 6/ 1 16:50
161 Re: リンク
大韓民国憲法
koshien21c
2006/ 6/ 1 16:45
160 リンク
大韓民国憲法
ricky_eto
2006/ 6/ 1 16:34
159 新撰姓氏録
toapanlang
2006/ 6/ 1 14:47
158 NEWS
人身売買の国
justina_eto
2006/ 5/30 11:43
157 NEWS
偽証する韓国
justina_eto
2006/ 5/29 8:40
156 TAEKWONV!
grosser770
2006/ 5/26 17:03
155 リンク
ウィキペディア
仏国寺
justina_eto
2006/ 5/25 9:32
154 韓カテ語講座 1-1
ricky_eto
2006/ 5/23 16:18
153 NEWS
テロ
ricky_eto
2006/ 5/22 8:47
152 対馬
sonoba_kagiri
2006/ 5/21 2:06
151 虚構の強制連行、資料ビデオHP
akanbei_21c
2006/ 5/20 11:24
これは メッセージ 200 (justina_eto さん)への返信です.
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韓カテ資料室 目次 2a
投稿者: justina_eto 投稿日時: 2006/06/20 14:36 投稿番号: [200 / 1474]
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例)トピ名
女性・笑う・現実・民度・火病
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150 リンク
既出?
himaneko92
2006/ 5/19 13:57
149 Re: ヨボセヨー
himaneko92
2006/ 5/17 15:32
148 ヨボセヨー
justina_eto
2006/ 5/17 15:26
145 雑談
4様の家が火病
もとい
火災
justina_eto
2006/ 5/16 21:04
144 リンク
シルミド(by
朝鮮日報
justina_eto
2006/ 5/15 9:25
143 リンク
日本と朝鮮の因縁の歴史
licky_eto
2006/ 5/14 23:32
142 Re: 自分的にはヒット
samurai_06_japan
2006/ 5/13 4:12
140 『桓檀古記』偽書の根拠2
toapanlang
2006/ 5/12 23:43
139 リンク
韓流映画HP
justina_eto
2006/ 5/12 14:08
138 NEWS
売国享受の妄言
ricky_eto
2006/ 5/12 9:06
137 自分的にはヒット
pup_pooh_one
2006/ 5/12 1:33
136 『桓檀古記』偽書の根拠
toapanlang
2006/ 5/11 23:58
135 韓スポ
テコンドー物語
ricky_eto
2006/ 5/11 15:23
134 リンク
韓國古跡探訪
ricky_eto
2006/ 5/10 14:11
133 鳩焼き映像
sonoba_kagiri
2006/ 5/ 9 23:44
132 伝説の故郷(怪談)
bulgom2006
2006/ 5/ 9 22:09
131 「現代韓国人の国民性格」
koshien21c
2006/ 5/ 9 11:49
130 朝鮮の古代文字
toapanlang
2006/ 5/ 9 11:05
129 Re: リンク
朝鮮地図
toapanlang
2006/ 5/ 9 10:08
128 ★ わしの好きな韓国歌総合セット。その2
bulgom2006
2006/ 5/ 8 7:29
127 ☆ わしの好きな韓国歌総合セット。
bulgom2006
2006/ 5/ 8 7:11
126 大清国属
高麗国旗
trip_in_the_night
2006/ 5/ 7 16:49
125 わしの好きな韓国歌17
bulgom2006
2006/ 5/ 7 0:34
124 わしの好きな韓国歌16
bulgom2006
2006/ 5/ 7 0:08
123 わしの好きな韓国歌15
bulgom2006
2006/ 5/ 6 3:11
122 わしの好きな韓国歌14
bulgom2006
2006/ 5/ 6 1:33
121 わしの好きな韓国歌13
bulgom2006
2006/ 5/ 6 1:16
120 わしの好きな韓国歌12
bulgom2006
2006/ 5/ 6 0:51
119 わしの好きな韓国歌11
bulgom2006
2006/ 5/ 6 0:35
118 ホロン部の由来
imp_mania_jk
2006/ 5/ 4 22:21
117
KBS旧「歴史スペシャル」資料
usagigamemaimai
2006/ 5/ 4 16:34
116
「焚書」関連
usagigamemaimai
2006/ 5/ 4 16:11
115 Re: データ
犯罪の比較
imp_mania_jk
2006/ 5/ 3 1:49
113 データ
犯罪の比較
licky_eto
2006/ 5/ 2 7:14
112 自分の好きな「、」の歌
wbc_champion2006
2006/ 5/ 1 23:16
111 三国史記(追加)
toapanlang
2006/ 5/ 1 21:32
110 韓カテ過去ログ
trip_in_the_night
2006/ 5/ 1 21:24
109 Re: わしの好きな韓国歌8
starquest5271
2006/ 5/ 1 14:21
108 NEWS
報○200○
himaneko92
2006/ 5/ 1 10:53
103 わしの好きな韓国歌10
bulgom2006
2006/ 5/ 1 3:46
102 わしの好きな韓国歌9
bulgom2006
2006/ 5/ 1 2:48
101 おや?
imp_mania_jk
2006/ 5/ 1 1:37
これは メッセージ 107 (justina_eto さん)への返信です.
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『「在日」論の嘘 贖罪の呪縛を解く』
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2006/06/16 23:02 投稿番号: [199 / 1474]
著者は帰化済みの在日三世である浅川晃宏氏。現在、名古屋大学専任講師。
出版社はPHP研究所。
「いわゆる「在日」に関する最近の主張について、その問題を検証し、結局は捏造による「嘘」であることを明らかにするものである。」
「まえがき」より
本書で取り上げられて批判されているのは、
第1章:姜尚中
第2章:朴一
第3章:辛淑玉
第4章:井筒和幸
第5章:テッサ・モーリス&朝日新聞
第6章:東京都保健士管理職裁判で露呈した特権意識(鄭香均)
第7章:大沼保昭東大教授の著書『国籍と人権』にみられる国籍剥奪の「嘘」
著者自身も言うように、鄭大均氏の『在日・強制連行の神話』を発展させた内容である。
これは メッセージ 1 (justina_eto さん)への返信です.
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動画
投稿者: SirOtome 投稿日時: 2006/06/15 22:18 投稿番号: [198 / 1474]
これは メッセージ 1 (justina_eto さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/4za5aba5fbbqnabcbc_1/198.html
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