イ・ヨンフン教授特別講義 9(2)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/06 21:47 投稿番号: [243 / 1474]
李承晩大統領を正しく知る
<解放前後史の再認識特別講義>
(9)実用主義、民族主義者李承晩は大韓民国建国の元勳
[イ・ヨンフン 2006-06-28]
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1732
(翻訳2)
以後5年間、彼はハーバードとプリンストンで国際政治学を勉強し、韓国人としては最初の政治学博士を取得します。以後彼がした外交主義独立運動は、彼の批判者たちがよく指摘して来たように、1945年に日帝が敗亡するまでついに成功しませんでした。彼は敗亡した国の無気力さをその過程で何度も痛切に感じました。このような経験を繰り返しながら、彼は、どんな名分論にもたやすく惑わされることのない、非常に徹底的な現実主義的で実用主義的な政治家に成長しました。
その良い例を、私は、最初の憲法の制定過程に見出します。リュウ・ジンオなどの若い法学者たちが下書きをした政府の形態は、内閣責任制でした。これに対して李承晩は強く反撥し、大統領責任制に変えました。彼の権力欲のためでしょうか? 私は、60年が経過する今日、韓国政治の日常的行動を見ながら、まだ内閣責任制は我が現実に合っていないと思います。対話と妥協の技術が相変らず足りないからです。
1987年でしたか、いよいよ長年の開発独裁の時代を終息させる大統領選挙が行われた時、どんなことが起きましたか? YSとDJ(訳者注:金泳三と金大中)という二人の野党リーダーが早く大統領になりたいという欲心を抑制することができず、結局、野党を分裂させつつ、また出身地域を分裂させながら、同時に出馬したではありませんか? どれほどこっけいな事でしたか。そんなでたらめみたいな事はその以前にも多かったし、また2006年の今日でもたびたび繰り返されていると私は思います。
そのように権力を鼻の前に置けば民主化運動を共にした政治家たちさえ分裂するのであれば、それより40年前の創始期の大韓民国の政治に、対話と妥協の芸術とも言うべき内閣責任制を安定的に立てる能力が不足していたと見ても、大きい誤りではないでしょう。李承晩が内閣責任制を流産させたのは、創始期の貧弱で混乱する国家は力強いリーダーシップを要求するという現実主義的政治原理に忠実だったからであって、自分の権力欲のためではなかったのです。
李承晩は、自分の政治目的のために、動員可能なすべての手段を動員することをためらわない政治力量を発揮しました。彼は、人間たちの名誉と権力と金に関する虚しい欲望を餌にして、自分の政治勢力を組織して彼らを動員しました。
所期の政治的目的を果たした後、李承晩は、新しいパートナーを求めて彼らを捨てました。このような李承晩の政治技術については、『解放前後史の再認識』第2巻に載せられた金日英の「戦時政治の再照明〜釜山政治波動の多次元性に対する複合的理解」と言う論文が、興味深い説明をしています。金日英教授によれば、当代の政治家として、政治のそういう本質を李承晩以上によく理解して駆使した人はいないと言います。
彼は確かに権威主義的でした。しかし、彼の権威主義政治は、彼の個人的恥部につながらなかったです。彼は禁慾的であり、清廉に暮しました。彼の政府に官僚として在職した人々は、彼が不足するドルを惜しむために、ただ1ドルの支出も直接決裁したことをよく知っています。ある自覚の足りない外交官が東京に出張した際に高級料理店に入り、激怒した大統領の叱責を受けたことはよく知られた事実です。新生後進国の政治リーダーとしてそのような美徳を見せた人は、あまり多くはいませんでした。彼は何も残さないで、無一文で死にました。
(続く)
<解放前後史の再認識特別講義>
(9)実用主義、民族主義者李承晩は大韓民国建国の元勳
[イ・ヨンフン 2006-06-28]
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1732
(翻訳2)
以後5年間、彼はハーバードとプリンストンで国際政治学を勉強し、韓国人としては最初の政治学博士を取得します。以後彼がした外交主義独立運動は、彼の批判者たちがよく指摘して来たように、1945年に日帝が敗亡するまでついに成功しませんでした。彼は敗亡した国の無気力さをその過程で何度も痛切に感じました。このような経験を繰り返しながら、彼は、どんな名分論にもたやすく惑わされることのない、非常に徹底的な現実主義的で実用主義的な政治家に成長しました。
その良い例を、私は、最初の憲法の制定過程に見出します。リュウ・ジンオなどの若い法学者たちが下書きをした政府の形態は、内閣責任制でした。これに対して李承晩は強く反撥し、大統領責任制に変えました。彼の権力欲のためでしょうか? 私は、60年が経過する今日、韓国政治の日常的行動を見ながら、まだ内閣責任制は我が現実に合っていないと思います。対話と妥協の技術が相変らず足りないからです。
1987年でしたか、いよいよ長年の開発独裁の時代を終息させる大統領選挙が行われた時、どんなことが起きましたか? YSとDJ(訳者注:金泳三と金大中)という二人の野党リーダーが早く大統領になりたいという欲心を抑制することができず、結局、野党を分裂させつつ、また出身地域を分裂させながら、同時に出馬したではありませんか? どれほどこっけいな事でしたか。そんなでたらめみたいな事はその以前にも多かったし、また2006年の今日でもたびたび繰り返されていると私は思います。
そのように権力を鼻の前に置けば民主化運動を共にした政治家たちさえ分裂するのであれば、それより40年前の創始期の大韓民国の政治に、対話と妥協の芸術とも言うべき内閣責任制を安定的に立てる能力が不足していたと見ても、大きい誤りではないでしょう。李承晩が内閣責任制を流産させたのは、創始期の貧弱で混乱する国家は力強いリーダーシップを要求するという現実主義的政治原理に忠実だったからであって、自分の権力欲のためではなかったのです。
李承晩は、自分の政治目的のために、動員可能なすべての手段を動員することをためらわない政治力量を発揮しました。彼は、人間たちの名誉と権力と金に関する虚しい欲望を餌にして、自分の政治勢力を組織して彼らを動員しました。
所期の政治的目的を果たした後、李承晩は、新しいパートナーを求めて彼らを捨てました。このような李承晩の政治技術については、『解放前後史の再認識』第2巻に載せられた金日英の「戦時政治の再照明〜釜山政治波動の多次元性に対する複合的理解」と言う論文が、興味深い説明をしています。金日英教授によれば、当代の政治家として、政治のそういう本質を李承晩以上によく理解して駆使した人はいないと言います。
彼は確かに権威主義的でした。しかし、彼の権威主義政治は、彼の個人的恥部につながらなかったです。彼は禁慾的であり、清廉に暮しました。彼の政府に官僚として在職した人々は、彼が不足するドルを惜しむために、ただ1ドルの支出も直接決裁したことをよく知っています。ある自覚の足りない外交官が東京に出張した際に高級料理店に入り、激怒した大統領の叱責を受けたことはよく知られた事実です。新生後進国の政治リーダーとしてそのような美徳を見せた人は、あまり多くはいませんでした。彼は何も残さないで、無一文で死にました。
(続く)
これは メッセージ 242 (chaamiey さん)への返信です.
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