イ・ヨンフン教授特別講義 10(3)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/15 09:19 投稿番号: [260 / 1474]
1950年代は暗鬱なだけの時代だったのか
<解放前後史の再認識 特別講義>(10)伝統と近代が融合する近代化の過程
[イ・ヨンフン(ソウル大学教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-29
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1741
(翻訳その3)
別の話ですが、当時の韓国の人々の一般的意識において、人間の社会的成功と幸福を決める一番重要な要素は、学歴でした。それで、誰もが大学へ行こうと努力したのですね。貧しい農民が牛を売っても子を大学に行かせる現象は、決して珍しいことではなかったです。それで大学のことを、ウゴルタプ(牛骨塔)と称する変な言葉まで登場しました。子の勉強のために、農家に無くてはならない牛を売るような無茶をする民族が、この地球上にどこにありますか? 我が民族ですね。そうだったから、60年代以後の高度成長を可能にした「社会的能力」が、社会に多く蓄積されることができたのです。
また50年代は、社会構造にも顕著な変化があった時期でした。都市人口の比重が、1949年の17%から1960年に28%に増えました。ここには、朝鮮戦争のときに越南して来た同胞たちが都市に居住することで、実際の産業の発展とは無関係に都市が肥大したという原因もあります。ともかく、都市を中心にした中産層と彼らの市民社会が成熟し始めました。
越南同胞の大部分はキリスト教徒で、商工業に携わる人々でした。彼らが韓国市民社会の発達に寄与した役割は、小さくありません。女性の社会的権利と参加が大きく伸び始めたのも、50年代です。女子大学生の数は、1945年にわずか1086人でしたが、1960年に1万7千人にまで増大しました。
都市だけではありません。農村社会も変革を迎えていました。これについては、私たちの本に載せられたイ・マンガプの 「1950年代韓国農村の社会構造」という論文を参考にすることができます。先に言及しましたが、農地改革を通じて農村社会の伝統的な身分関係が消滅しました。両班が常民身分を支配した農村社会の構造は、すでに植民地期にかなり消えつつあったものの、相変らず地方によっては強く残っていました。
そういう身分制度が、50年代に至って完全に消去されたと言えます。両班家の葬儀の輿を町内の常民たちが担ぐ、そういうひどい事はこれ以上なくなりました。 両班と常民は、お互いに記憶している昔の身分のため、心安く付き合って協力するのは大変でした。そのような身分制の沈澱物が薄く残ってはいましたが、新しい近代的な身分とでも言いますか、学歴を中心にする社会関係が成り立つことによって、高等教育を受けた人なら両班と常民を選り分けないで、お互いに交流し協働する信頼関係ができていました。
最後に、50年代の経済について述べます。これに関しては、先立って紹介したウ・ジョンウンの論文が、50年代を再評価する先駆的な役割を果たした研究です。
50年代の経済に関してまず指摘しなければならないことは、解放、分断、戦争を経験する中で、南韓の経済がまことに惨めな状況に陥ってしまったという事実です。およそ1920年代に後退したと言っても良いくらいでした。南韓の経済が1940年の水準を回復するのは、 1965年になってからですね。50年代がいかに惨憺たる状況だったかは、財政の7割がアメリカの援助資金によっていたことを見れば、よく分かります。率直に言って、50年代は、アメリカの援助に寄生する乞食とも言うべき国でした。
しかし、話はここからです。アメリカの援助で生きる国が、アメリカの意図に反して、独自の経済政策を広げたのです。アメリカは、韓国が独自路線で工業化できるとは思わなかったし、日本があるからそんな必要もないと考えました。アメリカの望むことは、韓国がアメリカの援助で日本の工業製品を購入することでした。アメリカの立場では、それは援助の効率を高める方策でもありました。しかし、頑固極まりない李承晩は、アメリカの言うことを聞きません。再び日本に従属するなど、話にならない話でした。そして、冷戦の前線基地である韓国をアメリカが捨て去ることはできないとの読みでした。李承晩は、自立経済の建設のための独自の工業化路線を展開しました。それを輸入代替工業化戦略とも言います。そのために、李承晩大統領は、暗市場の市場為替より3倍位低い低為替政策に、頑強に固執しました。
(続く)
<解放前後史の再認識 特別講義>(10)伝統と近代が融合する近代化の過程
[イ・ヨンフン(ソウル大学教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-29
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1741
(翻訳その3)
別の話ですが、当時の韓国の人々の一般的意識において、人間の社会的成功と幸福を決める一番重要な要素は、学歴でした。それで、誰もが大学へ行こうと努力したのですね。貧しい農民が牛を売っても子を大学に行かせる現象は、決して珍しいことではなかったです。それで大学のことを、ウゴルタプ(牛骨塔)と称する変な言葉まで登場しました。子の勉強のために、農家に無くてはならない牛を売るような無茶をする民族が、この地球上にどこにありますか? 我が民族ですね。そうだったから、60年代以後の高度成長を可能にした「社会的能力」が、社会に多く蓄積されることができたのです。
また50年代は、社会構造にも顕著な変化があった時期でした。都市人口の比重が、1949年の17%から1960年に28%に増えました。ここには、朝鮮戦争のときに越南して来た同胞たちが都市に居住することで、実際の産業の発展とは無関係に都市が肥大したという原因もあります。ともかく、都市を中心にした中産層と彼らの市民社会が成熟し始めました。
越南同胞の大部分はキリスト教徒で、商工業に携わる人々でした。彼らが韓国市民社会の発達に寄与した役割は、小さくありません。女性の社会的権利と参加が大きく伸び始めたのも、50年代です。女子大学生の数は、1945年にわずか1086人でしたが、1960年に1万7千人にまで増大しました。
都市だけではありません。農村社会も変革を迎えていました。これについては、私たちの本に載せられたイ・マンガプの 「1950年代韓国農村の社会構造」という論文を参考にすることができます。先に言及しましたが、農地改革を通じて農村社会の伝統的な身分関係が消滅しました。両班が常民身分を支配した農村社会の構造は、すでに植民地期にかなり消えつつあったものの、相変らず地方によっては強く残っていました。
そういう身分制度が、50年代に至って完全に消去されたと言えます。両班家の葬儀の輿を町内の常民たちが担ぐ、そういうひどい事はこれ以上なくなりました。 両班と常民は、お互いに記憶している昔の身分のため、心安く付き合って協力するのは大変でした。そのような身分制の沈澱物が薄く残ってはいましたが、新しい近代的な身分とでも言いますか、学歴を中心にする社会関係が成り立つことによって、高等教育を受けた人なら両班と常民を選り分けないで、お互いに交流し協働する信頼関係ができていました。
最後に、50年代の経済について述べます。これに関しては、先立って紹介したウ・ジョンウンの論文が、50年代を再評価する先駆的な役割を果たした研究です。
50年代の経済に関してまず指摘しなければならないことは、解放、分断、戦争を経験する中で、南韓の経済がまことに惨めな状況に陥ってしまったという事実です。およそ1920年代に後退したと言っても良いくらいでした。南韓の経済が1940年の水準を回復するのは、 1965年になってからですね。50年代がいかに惨憺たる状況だったかは、財政の7割がアメリカの援助資金によっていたことを見れば、よく分かります。率直に言って、50年代は、アメリカの援助に寄生する乞食とも言うべき国でした。
しかし、話はここからです。アメリカの援助で生きる国が、アメリカの意図に反して、独自の経済政策を広げたのです。アメリカは、韓国が独自路線で工業化できるとは思わなかったし、日本があるからそんな必要もないと考えました。アメリカの望むことは、韓国がアメリカの援助で日本の工業製品を購入することでした。アメリカの立場では、それは援助の効率を高める方策でもありました。しかし、頑固極まりない李承晩は、アメリカの言うことを聞きません。再び日本に従属するなど、話にならない話でした。そして、冷戦の前線基地である韓国をアメリカが捨て去ることはできないとの読みでした。李承晩は、自立経済の建設のための独自の工業化路線を展開しました。それを輸入代替工業化戦略とも言います。そのために、李承晩大統領は、暗市場の市場為替より3倍位低い低為替政策に、頑強に固執しました。
(続く)
これは メッセージ 259 (chaamiey さん)への返信です.
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