入って中国人に南京事件真相議論しましょう

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中国人による無数の暴虐事件1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/22 16:09 投稿番号: [450 / 2250]
K・カール・カワカミ著 『シナ大陸の真相   1931〜1938』 (原題 Japan in China )
訳者   福井雄三    展転社

123〜125p
《宣伝活動の結果、事態は絶望的となった。
殆どの中国の都市が日本人の住民にとってもはや安全ではなくなった。

日本人はもはや安心して家の外を歩けなくなった。
中国人の商人は反日組織の側からの報復を恐れて日本の商品を扱おうとはしなかった。

日本に対して友好的な中国人、または日本人と商売したりつきあったりしている中国人は
脅迫され、恐喝され、襲撃され、時には殺されさえもした。

中国の全国土は日本への憎しみで燃えさかっていたが、しかしそれは自然発生的に
燃え上がったものではなくて、国民政府自身が火つけ役となった大火だったのである。

当然のことながらここ数年間に反日的な事件が次から次へと目まぐるしく発生した。
次に掲げるのはその中の一部のリストである。


  ※北   支

一、一九三五年五月、日本贔屓の傾向のある二人の中国人の新聞編集者が
   天津で殺害された。

二、一九三五年一二月一七日、天津の日本軍守備隊総司令官である多田陸軍中将の
   邸宅に爆弾が投げ込まれ、中国人の召使いが負傷した。

三、一九三五年八月、満洲国の国境から天津に向けて走行中の満洲国・中国
   国際列車が匪賊に襲撃された。

   調査により判明したところでは、彼らは天津の反日組織に煽動されていた。
   約二〇名の乗客が殺害された。

四、一九三六年一月二日、天津付近のタークーで二軒の日本人商店が
   中国軍正規兵によって略奪された。

五、一九三六年六月二六日、北京近くで中国軍の正規兵が、
   豊台日本軍守備隊に所属する日本人兵士に襲いかかり重傷を負わせた。

   それに対する謝罪を要求して中国軍の兵営に赴いた日本人の陸軍大尉が
   中国軍兵士に刀と銃剣で斬りつけられた。

六、一九三六年六月一九日、山東省防東で日本人が中国人に射殺された。

七、一九三六年七月二二日、天津の市役所所属の中国人警備兵が、
   天津の日本総領事館に勤務する二名の警官を領事館の前で銃撃した。

   一人は殺され、もう一人は重傷を負った。

八、一九三六年八月二三日、河北公共治安部隊の数名の兵士が天津の日本語学校を
   襲撃して略奪し、日本人の教師に暴行を加えて拉致した。

九、一九三六年一〇月、反日組織に煽動されたストライキのおかげで、
   山東省青島の日本人経営の紡績工場が二週間閉鎖された。

一〇、一九三七年五月二三日、各々四九トンの二隻の日本の漁船が満洲国の
    大連沖で操業中に、中国の税関パトロール船に発砲された。

    中国人の税関警備兵がこの日本の漁船に乗船して捜索したが、
    犯罪に関する物は何も発見出来なかった。

一一、一九三七年六月一日、中国人の暴徒の一団が天津付近の日本人経営の
    農場施設を襲い、一つの倉庫と三つの住居に放火し、

    多くの日本人従業員が負傷した。》


つづく

中国民衆の暴虐は反日教育から2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/21 18:46 投稿番号: [449 / 2250]
つづき

K・カール・カワカミ著『シナ大陸の真相   1931〜1938』(原題 Japan in China )
訳者   福井雄三    展転社   121〜123p


《これと同じ話はあらゆる学校や大学の教科書で、
別の言葉で繰り返し述べられている。

実際問題として、中国は澎湖諸島にはっきりとした名称を付けたことは
それまで一度も無かったのである。

台湾 (フォルモサ) の島は一八九四年の日清戦争後に日本へ割譲された。

遼東半島は一九〇四〜〇五年の戦争の後に、
日本が中国からではなくロシアから獲得したものである。


例えばメキシコ政府が学校の教科書を通じてアメリカのテキサス併合を取り上げながら、
メキシコの子供たちの心にアメリカに対する憎しみの気持ちを煽り続けてきた、

などということが想像出来るであろうか?

例えばイギリス政府が現在オレゴン州やワシントン州となっている地域を
アメリカが併合したと非難することによって、

イギリスの若者の柔軟な心に反米感情を注入し続けてきた、
などということが想像出来るであろうか?

例えばワシントンの政府が手をこまねいて傍観していた場合に、
学校を通じてのこのような宣伝活動がアメリカ人の殺害やアメリカ商品のボイコット

などを含む果てしない一連の事件を引き起こした、
などということが想像出来るであろうか?


国民政府は算数の教科書すらも反日宣伝のために利用している。
例えば小学校の「高学年算数」四巻六四頁には次のような問題が載っている。


「宋哲元がシフェンコウの日本軍部隊を攻撃した時、兵士は全部で五万人いた。
その内の二万五千人を孫の部下が殺した。これは何パーセントになるか」


満洲の分離が、中国政府の教科書による日本攻撃の格好の題材に
なっていることは言うまでもない。

それが及ぼしてきた影響力は計り知れないものがある。
ここ数年間に起こった様々の事件の中で、一四、五歳かそこらの中国人の少年少女たち

(彼らの心は幼稚園や学校での反日イデオロギー教育で染まっているのだが) が、
日本人に対してなされた残虐行為の指導的役割を演じてきた。


例えば一九三六年八月、二人の日本人の新聞特派員
(その内の一人は大阪毎日と東京日々の外国関係のニュース係であった)が

投石され、刺され、物を奪われた上に殺されたのであるが、
その犯人は四川省成都の暴徒と化した子供たちや少年少女の一群だったのである。

軍の反日宣伝活動はそれに優るとも劣らず激しかった。
この十年間、中国には軍歌や憎悪を心底讃える歌が響き渡り、

中国における日本の権益を破壊すべく軍隊を煽り立てた。

軍はさらにまた、日本を不倶戴天の敵と見なすよう
兵士に注意を促すような巧みな問答形式のやり方を用いた。》


*   算数の教科書
   「宋哲元がシフェンコウの日本軍部隊を攻撃した時、兵士は全部で五万人いた。
   その内の二万五千人を孫の部下が殺した。これは何パーセントになるか」

   これと同じ教育を、今北朝鮮がやっています。


つづく

中国民衆の暴虐は反日教育から1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/20 18:34 投稿番号: [448 / 2250]
満洲事変後、大量の反日残虐事件が、発生しますが、
「満洲事変後に起こる反日は、満洲事変が直接の原因ではなく、中国の反日教育の結果」 だ

とK・カール・カワカミ氏が、言っていますので、それを紹介します。


K・カール・カワカミ著 『シナ大陸の真相   1931〜1938』 (原題 Japan in China )
訳者   福井雄三    展転社    120〜121p


《一、反日的教科書

西洋世界がはっきり肝に銘じておかねばならぬ一つのことは、
中国の反日運動は満洲を分離したことから生じたのではなく、

それ以前の日本の政策が全く融和的であった十年以上の間に
既に進行していた現象であった、ということである。

この期間に中国は反日運動のやり方を磨いてそれを実に効果的に用いてきた。
一九二八年六月、南京政府の資金援助を受けた反日連盟国民大会は次の宣言を発表した。

「我々の反日運動の目的は、日本との経済断交を引き起こすことによって
彼らを打倒することである。

その余波はやがては他の全ての帝国主義国家に及ぶだろう。
その最終目的は全ての不平等条約を取り消すことにある」


一九二九年八月までに、政府の資金援助を受けた 「不平等条約撤廃連盟」 は、
日本商品を扱っている中国人の商人を直接処罰することによって、

反日ボイコットを公然と強行した。
これは日本との外交上の紛糾を引き起こした。

日本の抗議をかわすために国民政府は一九二九年八月、
そのような公然たる直接の行動を停止した。

その代わりに国民政府は 「あらゆる地域の商人連盟 (政治的な協会ではない) は、
祖国を外国の経済的侵略から扱うために自ら責任を負うべし」 という命令を出した。

国民政府は 「個々の商人による日本商品の取引の全ての事件を調査し
かつ適切に処分しないような商人連盟は処罰の対象になる」

という訓辞を掲げた。この指令は当然の事ながら秘密に流された。


またその一方で、幼稚園から大学に至るまであらゆる教育機関が、
日本に対する敵意を幼児や若者の心に注入するために利用された。

これは国民党が蒋介石の指導の下に一九二七年南京に政府を樹立した時、とりわけ
顕著になった。一九二八年五月、南京の国民教育会議は次の決議を採択した。


一、国家の屈辱に関する豊富な資料を、中学校及び小学校の教科書に載せること。

二、我らの国家的屈辱に関する事実を宣伝し、どの国が中国の最大の敵であるかを
   国民に印象づけるために、あらゆる機会を用いて学校を利用すること。

三、国家の屈辱を描いている地図と絵を用いること。
   そしてあらゆる機会を利用して生徒の注意をそれらに向けさせること。

四、中国の最大の敵を打倒できる方法を、教師と生徒は共に学ぶこと」


この計画の中にある中国の 「最大の敵」 とは日本を意味していた。この計画が
採択される以前においてさえも、幼稚園の本には次のような言葉が載っていた。


「日本は敵国だ!   日本は中国から澎湖諸島と台湾を奪い、遼東半島を奪った。
日本は侵略国だ。

国民政府は、日本の侵略を阻止しこれらの領土を取り返すことを目的とする政府だ」


これと同じ話はあらゆる学校や大学の教科書で、別の言葉で繰り返し述べられている。
実際問題として、中国は澎湖諸島にはっきりとした名称を付けたことは

それまで一度も無かったのである。》


*   澎湖諸島と台湾は清国から割譲されたのであって、
   所有者でもなかった中国にとやかく言われる筋合いはない。

   清国以前の中国はこれらを領有していなかった。
   満洲人の王朝清国が初めて領有した。

   中国の理屈は泥棒の理屈に過ぎない。


つづく

中共の作り話

投稿者: nyaon3love 投稿日時: 2010/05/20 06:23 投稿番号: [447 / 2250]
当時国民党と共産党による内戦中で、そこに日本軍が進駐し南京を占領平定し各種テロや掠奪強姦がなくなったのだよ。
もし強姦虐殺そのものが真実なら、その行為は同じ支那人によるものだと理解したまえ。そのような悪行は得意な民族性なんだろ?

上海で日本人僧侶が殺される

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/19 18:42 投稿番号: [446 / 2250]
自分達の悪行が分からず逆恨みした中国は、反日を激化させ、
上海では日本人僧侶を殺害しました。


児島襄著 『日中戦争2』 文春文庫
169p

《上海居留民団の記録によれば、前年の「満州事変」から年末までの三カ月間で、
商社、商店、個人がうけた掠奪、暴行などの被害件数は二百件をこえ、

とくに通学児童にたいする妨害、悪戯は七百余件にも達して、
日本側の反撥を強めていた。》


174〜176p
《一月十八日   −

上海で日本人僧侶が中国人暴徒に殺害されるという、
より一層に日中関係を悪化させる事件が突発した。

この日、上海郊外の屈家橋に草庵を設けて布教中の 『日本山妙法寺』
上海布教主任天崎啓昇は、楊樹浦 (ヤンジッポ) 方面に寒行に出かけることにした。

ウチワ太鼓をたたき題目をとなえて、街を行脚してまわるのである。
僧天崎啓昇は、僧水上秀雄、信者後藤芳平、同藤村国吉、同黒岩浅次郎と

ともに、午後三時、草庵を出発した。

僧二人は白の法衣、信者三人は洋服姿であった。
一行は、虹口 (ホンキュ) 方面から匯山路に出て、華徳路を東に進んだ。

じつは、先頭に立つ僧天崎啓昇は、この華徳路を平涼路と誤解し、
公大紡・第一廠工場付近に出るつもりであったが、


道は馬玉山路に通じ、やがて午後四時すぎ、一行は同路のタオル工場
『三友実業社』 横にさしかかった。

工場付近には、工員らしい中国人がたむろしていて、一行が近づくと、
朝鮮人だ、朝鮮人だ、と口走った。

だが、一行は 『日本山妙法寺』 と墨書した提燈をもち、
たたくウチワ太鼓にも寺名が明記してあった。

「日本人だ」 「日本人だ」 との叫びが起り、次いで 「殺 (や) れ」 「殺せ」
の叫びにかわり、中国人群集約三百人が一行に大小の石塊を乱投した。

一行五人は、太鼓と腕で投石を避け、ひときわ高声で題目をとなえながら、
通りぬけようとした。


中国人群集は、一行に抵抗の意思がないことを察知すると、
喚声をあげておしよせ、棍棒と石、瓦、コンクリート杭などで五人を乱打した。

僧二人と信者後藤芳平は、法衣と服を血だらけにして倒れ、信者藤村、黒岩両人は
必死で逃れ、工部局警察の楊樹浦署によろめき込んで救援をもとめた。

楊樹浦署員は、二人を北四川路の日本人病院 『福民医院』 に送り、現場に急行した。
現場では、中国人暴徒は、信者二人が逃走したあとすぐに四散し、

遠望していた中国人巡警が付近に住む 『東華紡』 社員檀宗三郎とともに、
三人を亭国路のフランス病院 『聖心病院』 にはこんでいた。

三人は、翌日、『福民医院』 に移されて手当をうけたが、僧天崎は全治六カ月、
信者後藤は全治一カ年の重傷で、僧水上秀雄は二十四日、死亡した。》


*   ところでこの事件は田中隆吉が関東軍に頼まれて仕組んだと言っています。
   しかし僧天崎は、道を間違えたのに、その間違えた道で襲われたのです。

   雇われた襲撃者が、予定のルートから外れた所で待ち伏せするでしょうか。
   田中隆吉は自然発生的事件を自分の手柄にしたロクデナシのようです。

満洲事変後の反日

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/18 18:31 投稿番号: [445 / 2250]
孫文が中国の独立闘争をしていた頃、孫文にとって満洲は夷狄の地でした。
だから、満洲の売却に何のためらいも有りませんでした。

ところが、清国を滅ぼすと、中国は清国の全領土が欲しくなりました。
そこで侵略に乗り出すわけです。

当然、満蒙独立運動が起こります。
中国は、世界の協力を得て独立運動をつぶし、侵略にある程度成功しました。

しかし、満洲に先にいた日本人と関東軍を怒らせたため、
引っ繰り返され、土地を満洲人に取り返えさせられたわけです。

中国は自分達が泥棒である事を理解しませんから、
取り返させた日本を逆恨みし、泥棒と罵り、反日を激化させました。


児島襄著 『日中戦争2』 文春文庫

127〜129p
《中国内での反日運動は日ごとに勢いを強め、長沙、南昌、北京、
上海その他全国的に反日市民大会がひらかれた。

寧波 (ニンポー) の大会では 「対日宣戦、永久反日」 が決議され、
漢口、武漢を中心とする湖北救国会は、次の 「排日十大方針」 を宣言した。

  一、日貨を買わず日貨を用いず。

  二、日貨を積まず。

  三、日本船に乗らず。

  四、日本人と往来せず。

  五、日本人に雇われず。

  六、日本人を雇わず。

  七、日本の銀行に預金せず。

  八、日本人に食料を供給せず。

  九、日本に留学せず。

  十、日本で商売せず。

この 「十大方針」 は各地に同調の環をひろげ、同時に日本人居留民に
暴行を加える傾向も高まり、満州、中国本土からの邦人引き揚げがつづいた。


・・・
国民党中央常務委員会は、高等中学校以上の学校に 「青年義勇軍」、

初等中学校以下に 「童子義勇軍」 を組織させ、各学校の教職員、学生に
「不買日貨」 を宣誓させていたのである。

これら 「義勇軍」 は、そのほか各自の胸に 「団結奮闘雪恥救国」 と墨書した
白布をぬいつけ、毎日の朝礼のさい、次のスローガンを高唱することを義務づけられた。

「永為忠勇国民」 「誓雪中国国恥」 「恢復中国領土」 「振興中国民族」

「三民主義万歳」 「中華民国万歳」……。


つづく

満洲国建国4 川島浪速の拝謁

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/17 18:38 投稿番号: [444 / 2250]
波多野勝著 『満蒙独立運動』 PHP新書

270〜272p
《七年二月十八日独立を宣言、溥儀は満州国の執政に、
そして九年三月一日満州国皇帝に就任した。

こうしたことは、満蒙独立運動に何度も身を投じた川島をいたく感激させていた。
これこそが満蒙独立運動の結実だった。老いた川島にとってはまさに夢の実現だった。


昭和二年三月、一度川島は天津に滞在中の溥儀を訪問したことはあったが、
七年三月長春で再度溥儀に会見した時は、自身の二十年間を振り返って誠に感慨深いものだった。

まもなく拝謁 (はいえつ) の時がやってきた。謁見室の扉をしずしずと開けるや、
溥儀はツカツカと歩み寄り川島の手を固く握りしめた。

川島は敬礼も出来ず、そのまま溥儀に手を引かれて椅子の所まで導かれた。
川島の煙草の火までつける溥儀に、川島はただただ恐縮するばかりだった。

「先生は馬にまだ乗れますか。……予は唯々、風外(川島)そちを頼りと思ふ」
「予が満州国へ来たのは帰郷だ。即ち祖先の故郷に返ったのだ。……

粛親王家の子弟も、風外そちの力で一同成人しているが、予はその苦心に厚く
感謝をして居る。子弟にも川島の恩義は忘れてはならぬと堅く申付けてある」


粛親王家では数多くいた兄弟の中で二人の子息が薄儀の侍従武官を務めていた。
川島の夢はこうして今や現実になった。

帝制が実施されると、長野県松本市では帝政実施の功労者として
川島を慰労する宴が開催され、養女で満州国の服を着た廉子も参列した。


昭和十 (一九三五) 年四月、皇帝に就いた溥儀は初めて日本を訪問、
昭和天皇と会見して日満一体化を東京で華々しく演出する会合や宴に出席した。

十三日溥儀は川島邸に工藤侍衛官長を勅使として参向させた。この時、
第二次満蒙独立運動に参加した入江種矩ら関係者も呼び出され、川島邸に参集した。

満蒙独立運動は、結局、大陸浪人ではなしえなかったが、粛親王ではなく
軍部が支えた溥儀の登場によって見果てぬ夢が現実となったのである。》


*   満洲国建国は、満蒙の人達の夢だったのです。

   中国人に侵略されていた土地を取り戻すための、
   満蒙独立運動の総仕上げでもあったわけです。

   満洲は中国人の土地ではありません。満州人の土地です。清国は満洲の地で興り、
   長城を越えて明を支配しウイグル・チベットを支配したのです。

   辛亥の年になって、中国は清国から独立しました。
   蒙古もチベットも別に独立しました。ウイグルはかなり後になって独立しますが。


   しかし、中国は詭弁を使って、旧清国の支配地は全部中国の領地としました。
   だから独立運動が起こったわけです。

   ただ、日本や他の外国は中国の詭弁に騙されて、
   それらの独立闘争を妨害する動きに出ていたのです。

   しかしながら、最後に中国が関東軍を怒らせたため、ひっくり返され、
   満洲人に土地を返させられたわけです。

   ところが、中国は自分が泥棒である事を理解しませんから、
   日本を逆恨みし、悪質なテロ、残虐行為へと走りました。

満洲国の建国3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/16 15:52 投稿番号: [443 / 2250]
黄文雄著 『満洲国の遺産』 光文社

252〜253p
《東省特別区のハルビン市長・張景恵は、板垣大佐に説得され、
治安維持会を組織して一九三二年一月一日、独立宣言をした。

東辺道鎮守使、于止 (草カンムリがついてる) 山 (うしざん) は満蒙独立派とみられる
人物で、事変直後は周囲の様子をうかがっていたが、やがて保境安民派についた。

張学良ら満州軍閥が関東軍から追放された後、新国家建設運動は、
各地でまさに澎湃 (ほうはい) として生じたのだ。

一九三二年二月、全満建国促進運動連合大会が奉天城内自治指導部大講堂で開催された。
各省代表以外には、モンゴル、各種団体、満蒙青年同盟、吉林省朝鮮人、

東省特別区朝鮮人など各代表約七百人が参加し、満州建国を宣言した。


張景恵、煕洽、馬占山、臧式毅 (ぞうしきき) の満州四巨頭は、
奉天市長・張欣伯邸で新国家創設の建国会議を開き、

建国の原則と大綱を決めたが、国体・政体については、
夜を徹して激論を続けたものの決着するには至らなかった。

しかし、東北行政委員会を結成し、張景恵委員長、臧式毅、煕洽、馬占山、
湯玉麟 (とうぎょくりん)、斉王、凌陞 (りょうしょう) の六委員を選出した。

満州国政府は一九三二 (大同元) 年三月、建国を発表した。 「三千万民衆の意嚮 (いこう)
をもって即日、中華民国との関係を離脱し、満州国を創設する」 ことを宣言した。》


254〜255p
《関東軍が溥儀 (清朝の宣統帝) を擁立しようとした当時は、
日本政府内部にも反対者が少なくなかった。

たとえば松岡洋右前満鉄総裁、南次郎陸軍大臣、幣原外相らは強く反対している。
清朝復辟と誤解されやすいからだった。

板垣参謀は一九三二年一月二十九日、
本庄繁関東軍司令官の命令を受けて旅順で溥儀氏の意向を確かめた。

  このとき溥儀は、復辟にこだわっていた。その理由は、


  ①満州人、蒙古人とも帝政を欲している。

  ②宣統帝廃帝のときは、清朝優待条件で皇帝の称号は廃止されていない。
   したがって、こんにち、自分がなおも皇帝の地位にある。

  ③満州の民度は低く、帝政に適している。

   帝政の制度として内閣を組織し、その上に皇帝直属の政府を設けて、
   万機を親裁したい。清朝の故土である満州において皇帝として復帰したい。

などであった。

帝政への復帰という意向は、旧臣の鄭孝胥、羅振玉 (らしんぎょく) ら
だけでなく、復辟派の煕洽も強く支持した。》


波多野勝著 『満蒙独立運動』 PHP新書232p

《一方、満洲国の建国により、粛親王の第一王子は満州国宮内府侍従山武官に、
第七子の憲奎(けんけい) は新京特別市長、さらに龍江省府に就任、

また第十四子が斉々哈爾市長、に就任した。》


そして溥儀は九年三月一日満州国皇帝に就任し、川島浪速の夢は成就しました。

満洲国建国2 溥儀の天津脱出

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/15 15:58 投稿番号: [442 / 2250]
田中正明著 『東京裁判とは何か』 大手町ブックス   日本工業新聞社発行

155p
《清朝の廃帝を租先の地に迎え、中国本土から独立しようという運動が各地におこった。

これらの運動と同時に、溥儀氏擁立の運動となり、一九三一年十月、
満州各地の代表が、揃って天津に溥儀氏を訪ね、出馬を懇請している》


関東軍の土肥原は天津の溥儀をたずね意思を伺いました。

臼井勝美著 『満洲事変   戦争と外交と』 中公新書 105p

《土肥原は十一月二日、溥儀と会見した。
このとき溥儀は、新国家が共和か帝制かを質疑し、復辟ならば満州に行くが、

共和ならば行かないと語ったのに対し、土肥原は、もとより 「帝制」 であると明言した。
土肥原は溥儀に、この機会を逸せず、十六日以前に是非渡満ありたいと要請した。》


波多野勝著 『満蒙独立運動』 PHP新書270p

《十一月八日土肥原賢二が天津で騒擾 (そうじょう) を起こして溥儀を連れ出し、
営口を経由して旅順に入った。》


粛親王の娘で川島浪速の養女となった金壁輝(きんぺきき) は芳子と名乗り、
東洋のマタハリとして活躍していたが、溥儀の妻秋鴻を天津から脱出させた。

波多野勝著 『満蒙独立運動』 PHP新書233p

《溥儀が旧清朝の高官栄源の娘、秋鴻と結婚して天津で生活していた・・・
彼らが満州に向かう前、天津脱出に際して、

秋鴻を変装させ芳子自身は男装して夫婦を装って無事脱出した。
やはり芳子は清朝の血筋を引く人物だったのである。》

つづく

満洲国建国1 各地の独立

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/14 18:39 投稿番号: [441 / 2250]
粛親王の死去によって、満蒙独立運動は一旦途絶えたかのように見えましたが、
満蒙の人達は諦めてはいませんでした。

1931年 (昭和6年) 9月18日   柳条溝事件が起こり満州事変に発展すると、
すかさず各地方が独立を宣言しました。


児島襄著 『日中戦争2』 文春文庫129p

《九月下旬には、満州では遼寧 (奉天) 省、吉林省、黒龍江省、コロンバイル
などで独立宣言がおこなわれ、》


大日本帝国の戦争1   『満洲国の幻影』   1931−1936   毎日新聞社   27p

《9月26日   煕洽、吉林省独立を宣言》


日にちを見ると明らかですが、柳条溝事件発生から、ほんの一週間で独立宣言を
しています。いくら関東軍でも、こんなに早く、工作は出来ないでしょう。

たった一万の人数で二十万の兵や馬賊を相手に戦争をしているのですから、
工作に人を割いている余裕は無いはずです。


田中正明著 『東京裁判とは何か』 大手町ブックス   日本工業新聞社発行

155p
《一九三一年十月、満州各地の代表が、揃って天津に溥儀氏を訪ね、出馬を懇請している》


黄文雄著 『満洲国の遺産』 光文社

251〜253p
《実際、当時の満州の民は、日本関東軍の張軍閥打倒に快哉 (かいさい) を叫び、
感謝したのである。これは否定できない歴史的事実である。

奉天市では、張作霖の法律顧問・張欣伯が市長に推された。これをはじめ、奉天省の
商民代表は自治派と提携して袁金凱委員長、于沖漢副委員長の奉天自治維持会を組織した。

中国本土と絶縁して民意に基づく新政権樹立を目指し、
遼寧省地方維持委員会に改組して省の行政機構がつくられはじめたのである。

彼らが目指したのは、民族自決主義、民意による遼寧省の独立、
共和制独立国家の建設であった。


また、吉林省も独立宣言した。吉林省主席・張作相は満州事変当時、天津にいたので、
実権を握っていた東北辺防軍副司令官公署参謀長・煕洽が、

清朝復辟(ふくへき:溥儀の復位)派巨頭として長春にいた張学良派の
誠允、馮占海を追放して吉林省独立を宣言したのである。

吉林省と同時に独立宣言を発表したのは、遼寧省地方維持委員会である。
前熱河省都督・○ (門+敢) 朝璽 (かんちょうじ) ら武断派が組織した

遼寧四民臨時維持会と共同して、独立宣言を発表したのだ。


彼らの独立宣言には、「わが東北民衆は、軍閥の暴政下にあること十数年、
いまやこれらの悪勢力を一蹴すべき千載一遇 (せんざいいちぐう) の機会に到達した。

……新独立政権の建設を計らざるを得ざるに至った。
これがために、本会は張学良と関係ある綿州政府ならびに軍閥の禍首

蒋介石らの声明蠢動 (しゅんどう) を否定することを決議した……」
とある。》


大日本帝国の戦争1   『満洲国の幻影』   1931−1936 毎日新聞社 27p

《11月10日   清朝廃帝・溥儀   天津を脱出

  11月21日   馬占山、黒竜江省政府を樹立》


つづく

第3次満蒙独立運動2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/13 18:46 投稿番号: [440 / 2250]
波多野勝著 『満蒙独立運動』 PHP新書


227〜230p
《ついに、粛親王から蒙軍再編の指令が三月に出た。

  粛親王、三たび蜂起へ
大正六 (一九一七) 年三月、旅順の粛親王より軍再編成の命が到着した。

旧パ軍は再び入江種矩らも加わってハルハ河畔を出発、六月初旬進撃に移り、
ハイラルに入った。一年ぶりの再始動だった。

そこで呼倫爾 (コロンバイル) 独立の宣言を発表したのである。
驚いたのは中国やロシアだった。

五月十九日ハイラル副都統勝福から二瓶領事に対し蒙軍参加の日本人の退去を
要請してきた。・・・・

ハイラルに進出した旧パプチャプ軍に対し、ロシアと中国側は、
まず参加した日本人の追放を要請してきた。


・・・
日本政府は困惑した。・・・やむなく外務省と参謀本部が動き出した。
最も効果的な方法を寺内内閣は考えた。

日本人同志の動きを止める奥の手は、旅順の粛親王の滞在について圧力を
加えることである。効果は抜群だった。川島は再び妥協を余儀なくされた。

北京駐在のロシア公使は林公使を訪問して、宗社党軍についていくつかの問題を
提起した。これに対し、林は、責任を回避しながら妥協した。

(1) 日本人が蒙匪に参加していることは不都合であること

(2) ハルビンなどの日本領事が彼らにこの旨通知したこと

(3) 彼らは 「自己の危険に於て」 行動していること

(4) 中国政府が蒙匪を討伐して日本人が殺傷されても、中国政府の責任を問わないこと


こうなると川島の尽力もムダとなった。
日本側が外国政府に明言した以上、蒙軍と無関係とする他はなかった。

まもなくロシアや中国が協力して蒙軍を迫害することはまちがいなく、
中国軍が討伐軍を送り込んでくることは必然である。

日本人の大陸浪人に対し川島は 「今や諸君の生命は風前灯火」 で、このような
「非武士道的行為を貴下等に強ふるは小生の主義に於て絶村不可能なるは

実に遺憾に堪へざる所」 と伝える他はなかった。無念の一言だった。

これにより、日本人同志は旧パプチャプ軍から退去命令が出されて蒙古軍を
離脱して南満州に十月帰還した。


一方、日本人が離れてまもなくロシア・中国連合軍が蒙軍を攻撃、蒙ハイラルを
放棄して転戦したが、準備不足は歴然で、まもなく惨敗して四散した。》


231〜232p
《粛親王は、大正十一(一九二二)年二月旅順の邸宅で死去した。
五十七歳だった。川島は旅順にかけつけ葬儀に列席・・・

粛親王の遺体は北京に運ばれあらためて葬儀がとりおこなわれた。
慣例により溥儀から諡(おくりな) がおくられることになったが、

清朝皇族に良く使われる 「誠」 ではなく、溥儀は第一級の称でもある 「忠」 の
文字を与えた。清朝復活に心血を注いだ本当の忠臣だったという証だった。》


*   こうして満蒙独立運動は、日本政府の圧力により、ことごとく潰されました。
   過去の日本は、今の日本政府が、

   ダライラマの訪日要請を中国に気がねして断ったり、チベット・ウイグルの
   惨状も無視して、ひたすら中国におもねたりするのとそっくりでしょう。

   パプチャプや粛親王の動きでわかる様に、独立運動の主体は満蒙の人達だったのです。

   そして満蒙独立は、満洲事変まで持ち越されました。

第3次満蒙独立運動1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/12 18:29 投稿番号: [439 / 2250]
波多野勝著 『満蒙独立運動』 PHP新書

225〜227p
《パプチャプの陣没後、複数の副将軍を中心にハルハ河畔で旧パプチャプ軍は待機していた。
これを指揮する本部は大連の粛親王府、そしてハイラルが軍と本部の窓口になっていた。

ハイラルの日本人居留民団長の山崎虎一は日本人の同志や旧パプチャプ軍に
好意をみせて熱心にその仲介の労をとっていた。

大正五年九月退避移動を開始した旧パプチャプ軍に七十名ほどいた日本人は、
木鐸暢予備大尉、入江種矩予備大尉、川島浪速の弟で川島量平、中込富三郎ら

二十七名 (一説には四十人) ほどに減少していた。

この中で中込ら三人がハイラルで商店を出して前述の山崎と協力しながら
大連と旧パプチャプ軍との中継地点とした。

関東都督府民政長官代理佐藤友熊の調査では、宗社党軍の多くは離散したという。


一方、大連西公園町に本拠地を持っていた宗社党本部では、
不在がちの川島の代理に森茂が就任、

小平総治が旅順と大連間を往復して粛親王と連絡を取っていた。

川島浪速は政府の対中方針を確認するため日本に帰国していたが、
前年十二月二十八日参謀本部において田中次長に会見、一月五日大連に帰着した。

その時田中から見せられたのが、林権助北京公使が本野外相に対し、中国政府から
旧パプチャプ軍参加の日本人の退去処分要求が記されてあった書類だった。

田中次長は、この状況下であるから当分活動を中止して
「余力を蓄積すへき」 ことを川島に促したのである。


川島は執着した。すなわち、対中方針如何にかかわらず蒙軍の現状を椎持して
「他日帝国の為め之を利用」 すれば良いのではないか、

またロシア軍がかえって同軍を利用するのではないかと反論したが、
ひとまず多少の資金を得て大きな動きを見せることをやめることになった。

・・・
都督府、満鉄では武器の密輸入、輸送、ハルビンの日満商会など関係者の動きを
いっそう監視しているとの報告だった。

末尾では川島と旧パプチャプ軍を 「絶縁せしむるの処置を執らるるを希望す」
と進言までしている。


彼らにとっても宗社党軍の日本人はやっかいな存在になっていたのである。
同様な報告が二月九日在斉々哈爾 (チチハル) の二瓶 (にへい) 兵二領事からもあった。

それには、旧パプチャプ軍に入っている満州兵は 「純粋の馬賊」 で何の信仰もなく
統御が困難で、多くは解散され、今や百三十人ほどだが、

蒙古兵は 「困苦欠乏に耐」 えて軍規も厳しく、復辟を真に願っていること、
月々二万円の費用が粛親王から出ていること、

だが、わずか四〜五千の兵で東三省を占領したり、復辟実行は不可能であり、
といって旧パ軍の動きは自在で張軍の討伐は困難であること。

だが、日本人がいるため 「戦闘力を増」 し、彼らを通じて糧食や兵器の供給を得ている。


ロシア側も今は静観しているが、ハイラルに旧パ軍の一部が駐在するのは
ロシア側の神経をいらだたせていた。

このように満州では大陸浪人の存在に批判が高まっていたが、
宗杜党本部ではそれよりも焦りがあった。


つづく

断わられた粛親王の訪日要請

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/11 18:35 投稿番号: [438 / 2250]
波多野勝著 『満蒙独立運動』 PHP新書

224〜225p
《二回めの満蒙独立運動に夢破れた粛親王は、二月に入り訪日を日本側に打診してきた。

彼らの苦境を訴えると共に、満蒙挙事グループに対する緩和策、
さらには日本の対中政策の確認であった。

満蒙独立運動の黒幕の一人であり、そうでなくても北京では復辟の風説が流れ、
また一方で寺内内閣の対中政策が確定したばかりのころで、

野党がこれを利用する可能性もあった。

北京支持に方向転換を決めたばかりの政府にとって、
あまりにもタイミングの悪い訪日問題だった。


外務省は幣原次官を通じて関東都督に対し、粛親王の 「渡日を見合す」 ことを指示した。
これはすぐ粛親王に伝えられ、中止することが伝えられた。

この種の接触は、ようやく事態収拾への動きが始まったばかりのこともあり、
陸軍も二日出先の駐在陸軍武官、将校に電報を発した。

すなわち、日本の対中方針は 「不偏公平の態度」 であって、
「復辟論者の一派のみを助くる如きことは無」 く、粛親王の訪日要請も、

復辟への支援だったが関東都督府参謀長をして忠告してこれを中止させたことを紹介し、
日本の復辟援助はまったく事実無根と伝えたのである。


本野外相も、中国を以前の帝政に立て直そうとするものは 「極めて少数者」 で、
宣統帝にしても 「孤立無力」 で、復辟にはまったく関与することはないことを通知、

また都督府に対しても、外交については 「一層外交機関と連絡し其職域を侵すことなく」
と念を押すなど陸軍・参謀本部と外務省は寺内首相のイニシアチブでもあり、

珍しく協力関係にあった》


*   日本の対中方針は 「不偏公平の態度」 であって・・・

   と言っていますが、孫文の反清行動に対して、これほどの抑圧をとったでしょうか?
   孫文側にも、日本人協力者は沢山いましたけど。


次は、いよいよ第3次満蒙独立運動です。

第2次満蒙独立運動8 停戦協定破り

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/10 18:40 投稿番号: [437 / 2250]
波多野勝著 『満蒙独立運動』 PHP新書

211〜212p
《大正五年九月一日、パプチャプは全軍を集め、今までの戦闘で死亡した兵士のための
慰霊祭をおこなった。そして翌二日北に向かって郭家店を出発した。

同軍には若月太郎 (予備歩兵大尉) らの率いる宗社党軍、天鬼将軍と呼ばれる
薄益三 (はくますみ) らが率いる馬賊百騎、本隊の三千人、

新たに手に入れた野砲八門、別働隊の千人が長い列をつくっていた。
総勢五千八百人という数になっていた。それを川島がかけつけて見送った。

川島がパブチャプに会った最後の日でもあった

パプチャプ軍は受領した武器・弾薬、そして各地から集結した
日本人の部隊を加えて九月二日帰途についた。

同軍に対しては監視役として日本軍から騎兵中隊が随行、
東遼河の渡河点の新河口集落に入った。


ところが、鄭家屯事件の交渉が決着がつかないうちに、
朝陽坡で張軍が陣地を構築してパプチャプ軍に攻撃をかけて来たのである。

休戦協定違反だった。・・・
パプチャプ軍は本隊が渡河した後、陣容を整えて逆襲を開始した。

この時、日本軍の公主嶺守備隊の一中隊が応援にかけつけ、
状況は逆転し、パプチャプ軍は張軍を追い払った。

・・・
十六日には、パプチャプ軍に随伴していた日本軍の騎兵斥候が、
中国兵の射撃を受けて一人が負傷するという事件も起きた。

ともかく日本軍を巻き込む事件が偶発的にいつ発生しても不思議ではなかった。
政府はこれに気をもむことになった。陸軍では彼らに対し干渉しないこととした。》


213p
《郭家屯を出発して一カ月、あちらこちらを転戦してパプチャプ軍は
ようやく内蒙古に入った。この間にいくつかの戦闘があり・・・

内蒙古の入り口の林西城で再び戦闘が始まった。人数にまさるパブチャプ軍は緒戦で勝利、
これを見たパプチャプが手勢三百人を率いて騎馬で敵陣地に突入した。

その時、機関銃の掃射を受け戦死した。パプチャプは敵防禦陣地の下で戦死、
からだを横たえていた。あっけない幕切れになってしまった。

その後の転戦で参加していた日本人の予備少尉や予備曹長など数人が戦死した。
パプチャプ軍は十二月ようやく内蒙古の故郷にたどりついた。

こうしてパプチャプの戦闘は終わった。》



*   停戦協定破りも中国の伝統です。
   紀元前2百年、項羽と劉邦が覇権を争って闘いました。

   睨み合って埒が開かないので、
   一旦、停戦し両者引揚げて仕切り直しとなりました。

   項羽軍は協定を守って引揚げたのですが、劉邦軍は引揚げず、
   頃合いを見計らって追撃をかけたのです。

   その為、項羽軍は隊列が崩れ滅びました。
   こういう前例があったら誰も停戦協定など守れないでしょう。危ないから。

   盧溝橋事件でも、中国は停戦協定を破りました。

   次は第三次満蒙独立運動です。

第2次満蒙独立運動7 鄭家屯事件

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/09 16:23 投稿番号: [436 / 2250]
波多野勝著 『満蒙独立運動』 PHP新書

205〜206p
《パプチャプ軍が郭家屯 (かくかとん) を占領するのと前後して、
八月十三日午後七時ごろ近くの鄭家屯 (ていかとん) で一人の日本人が

中国側の巡警に殴打、連れ去られるという事件が発生した。
聞きつけた日本領事館の巡査が中国側の巡警局に行ったところ、押し返されてしまった。

そこで日本側の守備隊二十名が巡査の案内で向かったところ、中国側がこれに
射撃、日本軍も応戦、結局日本兵十一名が戦死するという事件が発生した。

・・・

鄭家屯には中西正樹、佃信夫、伊東知也といった黒龍会メンバーがすでに
かけつけていた。彼らの憤慨ぶりも大きかった。

この怒りの電報が加藤友三郎海相のところにも到着している。
彼らは日本軍の兵士が殺害されたことに 「我対支方針の機宜を失し」(八月十五日) た

と怒り、さらに日本側が蒙古軍を支援する宗社党を解散し、
さらに蒙古軍まで制圧しようというのはたいへんな事で、

「猛省一番断乎たる処置」 に出るべきではないかと進言した。
なぜ日本はパプチャプ軍を 「見殺しにすへきや」 (十七日) と問うほどだった。》


207
《一方、郭家店近くでは混乱が発生した。
張軍の近くに日本陸軍の守備隊の兵舎があり、一個中隊が駐屯していた。

両軍の戦闘で流れ弾が兵舎に飛び込んで来たため、稲生田 (いのうだ) 守備隊長が
部下を率いてパプチャプ軍陣地の撤退を要請、これを約束させた後に張軍陣地に向かった。

ところが張軍側は、その軍使に乱射してしまい、
これをみて稲生田は公主嶺の日本守備隊に支援を依頼した。

直ちに日本軍は増強され、その間に張作霖軍事顧問の菊地武夫大佐が来着、
休戦協定を結ばせた。

パプチャプ軍の存在は日本軍と奉天派との無用な摩擦を生み出していたのである。
かくしてパプチャプ軍は二週間以内に蒙古に帰還すること、

満鉄に危害を与えないため楊大城子から鄭家屯に連なる線の以東で同軍や張軍が
戦闘しないこと、またこれらの実行を確認するため日本軍が監視するというものが決定した。》


*   日本はパプチャプ軍に退かせる条件として、武器・弾薬を与えました。


207〜208p
《八月十一日上泉一行は東京を出発、十四日奉天に入り矢田総領事と相談、
十五日に大連に到着した。十六日旅順に赴いた四人は西川虎次郎参謀長と協議した。

上泉の十六日の「メモ」を紹介する。
「午前七時五十分大連発旅順に行き西川と相談、解決。

西川の案内にて末広にて昼食」「解決」 とは何か。
それは兵器等をパプチャプ軍に与え、「我勢力圏外に退避せしむること」 だった。

その兵器等は関東都督府が保管していた兵器の一部だった。これは歩兵銃 (一万二千挺)
同弾薬 (二十四万発)、野砲四門、同榴弾 (百八十発)、同榴霰弾 (三百八十発)、

手榴弾 (百発) というものだった。》



*   「張軍の近くに日本陸軍の守備隊の兵舎があり、・・・流れ弾が」

   これは中国軍の良く使う手です。第三者の近くに布陣して、
   相手に攻撃させにくくするものです。

   もちろん自分からの射撃はおかまいなしですが。
   第二次上海事変の時も、中国軍は租界の英国建物のそばに布陣していました。


つづく

第2次満蒙独立運動6 戦闘始まる

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/08 16:07 投稿番号: [435 / 2250]
日本政府は何とか、挙事を止めさせようとしていましたが、
日本人には圧力を掛けられても、蒙古人のパプチャプは止められません。


波多野勝著 『満蒙独立運動』 PHP新書

200
《大連でも交渉が続く中で、パプチャプ軍に呼応した宗社党部隊、
さらにこれを側面から支援するため大連市長の石本蹻太郎に連なるメンバーが

長春、吉林で張作霖軍の一部に工作して蜂起する運動が進行していた。

結局これが不調に終わったことが、かえって強引なテロ活動に彼らを走らせる
ことになった。実働部隊の責任者の一人は長春守備中隊長小林大尉だった。

計画では七月三十一日、ある芸妓が人力車で爆薬を三味線箱に入れて
長春城内に持ち込み、城内三十余力所で爆破させ、

それを合図に入江種矩が七人の抜刀隊を率いて責任者宅を襲撃、
一方で入江が率いる二手に分かれた部隊が侵入する。

かなりの手の込んだ占領計画だったが、実行直前に、公主嶺の独立守備隊
藤井幸槌 (さたつじ) 司令官に小林が呼び出され抑留、中止を勧告された。

長春の山内総領事も入江らに中止を勧告し、ついに蜂起は断念を余儀なくされた。》


日本政府が日本人宗社党メンバーに圧力を掛けて、9分9厘中止に成功
しかけていた時、パプチャプ軍と張作霖軍との間で戦闘が始まりました。


203
《大正五 (一九一六) 年七月下旬に始まった戦闘では、
張軍の増援部隊が続々と到着しパプチャプ軍との激戦が一週間も続いた。

七月末満州各地での総決起が遅れると判断したパブチャプは、
おりからの豪雨を利用していったん突泉 (とっせん) に移った。

方向を変えたパプチヤプ軍は、八月十四日郭家店に達した。

一方八月一日ついにパプチャプ軍は郭家店を占領、夜半に蒙軍側から
入江らに参集の来電があったため同地の川島派は同軍に加わるべく移動した。


一方、挙事中止について田中義一次長にとって頭痛の種は、
郭家店のパプチャプ軍に合流した宗社党の始末だった。

パプチャプ軍は 「運動快速」 だが、その動きを鈍らせているのは日本人が
参加している宗社党軍で、掠奪暴行もあるため、

これが「張作霖に口実を与へ、日本軍に煩累を掛け、蒙古兵を難境に陥」 らせて
いると断定、ともかく宗社党軍を分離させて

「彼等を適当に処置して将来に禍根を残さざる」 ことが必要だった。
しかし、これで挙事中止が撤回されるわけではない。

川島派や石本派の中には、割腹すべしとか、領事と差し違えるとか、
暴徒にまぎれて領事館に爆弾を投げようといった不穏な空気が満ちていた。》


つづく

第2次満蒙独立運動5 日本政府の変心2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/07 18:43 投稿番号: [434 / 2250]
波多野勝著 『満蒙独立運動』 PHP新書

188〜189p
《上泉としてはともかくパプチャプや宗社党の後始末対策が心配だった。

「……機会に乗じて清朝の回復を謀らんとするの念は、此遺臣絶滅せざる間は
決して巳むの時無し、故に余は当分南北を分立せしめ……」

統一が不可能である以上、旧清朝グループを支援するのはこれまでの経緯をみても
上泉には当然だった。川島と同じ発想である。

「彼等は自己の計画を以て最上の忠義たるべきものと信じ居るを以て
政府の政策には容易に服従せざるべし」 と述べると、

石井外相も同情はするが、政府としては大局的視野からの対応が必要だった。

「支那の宗社党然るべし、然れども日本人にして之と共にするものは
政府の意途に反してまでも盲動することなかるべきを信ず……」


政府は局面をコントロールしなくてはならなかった。反袁政策が終了した以上、
いかに全体の鉾 (ほこ) をおさめるかにあった。しかし上泉は違った。

「政府の政策には容易に服従せざるべし」

これを聞いた石井外相としては捨て置くわけにはいかない。
「そは一大事なり、外国の徒党と連合して政府の命に背かんとするものなりや」

石井外相は上泉らが中央突破してくると思ったのであろう。
しかし、上泉にも言い分があった。

「然れども此計画を為さしめたるものは政府にあらざるや……」

  反袁政策を推進して宗社党の蜂起を促しておきながら、
今さら中止とは何事かというわけである。》


190p
《さらに石井外相は、従来 「……支那の宗社党なるものは充分なる優遇法を受くるも
猶満足せざるものなりや」 と尋ねると上泉は、

「満足せざるべし……寧 (むし) ろ山間僻地 (へきち) たりとも独立せる一家を立て
閑日月を楽しみながら窃 (ひそか) に之が復仇を計るは人情にあらずや」 と

離散した家族が再び集まることに喜びを求めることを例に出しながら
清朝復活を力説したのである。さすがに石井外相は何も言えなかった。》


194
《川島には二度めのことであり無念さは筆舌に尽くせないものだった。

「例の浪人等は外務省より全く君等を是迄利用したる訳なれども
今後は用事なしと云ひたるに対し、大に憤怒して皆宗社党に走り、

且つ小池政務局長を此儘 (このまま) には置かすと云ふて怒り出し、……」(『原敬日記』)

浪人の一部が現地に走り、小池政務局長は板挟みになった。しかし時すでに遅く、
これに呼応して大連で蜂起する宗社党の各部隊が、集結していた。

だが、外交方針の転換のため、蜂起しようにも出来ない状況となっていたのである。》


195
《三十日外務省秘密会議では、ついに満州の宗社党の解散が決まった。
ついに政府主導で解散に追い込むことになった。

当初は利用し、結局はトカゲのしっぽ切りのような露骨なやり方でもあった。》


つづく

第2次満蒙独立運動5 日本政府の変心1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/06 18:31 投稿番号: [433 / 2250]
大正五 (一九一六) 年六月六日袁世凱が突然死去しました。

日本政府が宗杜党の動きを黙認していたのは、
あくまでも袁世凱が皇帝になろうとするのをくじく為だったのです。

その袁世凱が死んでしまいました。
そうなると、川島等の動きは日本政府にとって邪魔になります。

満洲侵略の野望をもっていると疑われかねませんので。
そこで、挙事の中止工作へと動き始めました。


波多野勝著 『満蒙独立運動』 PHP新書

182p
《さて、満州挙事工作中止問題は少々問題があった。日本人がかなりの数参加しており、
会議を通じてパプチャプをコントロール出来るとは誰も思えなかった。

ましてや反袁政策を推進する会議グループに対する批判は高まっていた。
満州挙事や山東挙事に積極的だった福田第二部長は辞職、

ヨーロッパ視察に向かうことになった。
後任は北京駐在武官の町田経宇少将だった。

奈良は町田と共に大島陸相に会って、会議の能力を超えた満州挙事解散の件を
「閣議にて決定せられたく」 (「奈良日記」) と要請した。・・・

もう政府の威信で止める他はなかったのである。中央では整然と干渉政策をストップ
する方針が固まっていたが、現地は直ちにこれに応ずる状況にはまったくなかった。》


184
《六月の初旬だった。満州で工作に従事していた小磯は、田中から電報を受け取った。

「貴官は参謀本部の一員たるに鑑み、
深く言動を慎み問題を激成するが如き行為あるべからず。右訓示す」》

186
《大正五年六月十三日上泉はまず大隈首相に会見・・・大隈 (は) ・・・
「支那の将来は如何になるべきか分るものか、暫らく傍観するを可とす」 と明言した。

・・・では北方挙事はどうするのか、上泉は北方が切迫していると述べたが、
大隈首相は言い放った。

「日本は公明正大にして北方挙事の如きは、政府として好まず
併 (しか) し支那人のやることは如何ともしがたし」》


187〜188p
《パプチャプ側が日本の都合で 「翻弄せられたる事を悟らば立腹すること無論」
と理解するだけに、日本の外交政策の大転換は他人事ではなかった。

・・・・
上泉は必死だった。十五日二人は二度目の会見を始めた。

まず石井外相は、自己の所信を述べ、「之まで我対支外交は宜しきを得ず」 こと、
また日中親善こそが政府の目的であり併合といった野心はない・・・」 と言明した。

石井外相は袁死去で内外での批判を浴びて方向転換を模索していたようだ。》


つづく

Re: 入って中国人に南京事件真相議論しまし

投稿者: blueprint3001 投稿日時: 2010/05/05 21:22 投稿番号: [432 / 2250]
戦争に不法で残虐な行為はつきものです。もちろん悪いことです。
ただ、一方的に相手国を責めるのは間違いです。満州に移民した日本人も敗戦後日本に戻る途中、ロシア兵や暴徒化した中国人の暴民に襲われひどい目に遭いました。多くの母親が足手まといになる為自分の幼い子供を殺さなければなりませんでした。若い女性でレイプされた者も大勢いました。
このようにして殺されたり自殺したりした日本人は少なくとも8万人になります。満州に移民した日本人は世界の移民史上もっとも悲惨な最期を遂げたといわれています。日本ではこの悲惨な記録の体験記が大量に残されていますので機会があったらあなたも読んでください。そしてお互いに戦争の悲惨さと平和の尊さを再認識して平和を守るために努力しましょう。

第2次満蒙独立運動4 張作霖爆殺失敗

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/05 15:22 投稿番号: [431 / 2250]
波多野勝著 『満蒙独立運動』 PHP新書
175〜177p

《大連に赴いていた川島の宗社党本部ではパプチャプ軍南下の障害となる
張作霖殺害計画が立案され、

伊達のグループと予備役軍人グループに命が下り、
両者協議の結果、三村豊予備少尉のグループが襲撃隊となった。

満蒙挙事において重要なポイントは、
張作霖がパプチャプや宗杜党と手を結ぶか否かということだった。

張が挙事に共鳴すれば、北方の勢力は拡大するし、
袁世凱に味方すれば重大な障害になる。

しかし張は袁の帝制運動にむしろ好意的だった。
ここに宗社党が張暗殺をねらう理由があった。・・・・


大正五年五月二十七日、中村覚関東都督が奉天にやって来る時をねらって
暗殺計画は練られた。

用心深い張も、関東都督が奉天駅にやって来るとなれば出迎えるのは当然だった。
伊達や三村豊らの決死隊は、奉天城と駅の間の張の順路を確認した。

決死隊は三村グループ。伊達グループはそれを支援する側となった。
彼らは張一行の帰路をねらった。

メンバーの斎藤正明は身体に爆薬をつけて張の座乗していると思われる
二台目の馬車に突っ込んだ。

大音響と共に護衛の兵は数名バタバタと倒れ、計画は成功したかに思われた。
ところが用心深い張は行きと帰りの馬車を変えて三台目に乗っていたのである。

素早く馬車から飛び降りた張は馬に飛び乗り、城内に向かって走り去っていた。

万一の場合に備えて隊の責任者三村が張の帰路を待ち伏せして図書館の二階から
手投げ弾を投げようとしたが、これが建物の電線に引っかかって自爆してしまった。

こうした二度の失敗をしたこともあって張作霖はいっそう用心深くなり、
奉天城の外になかなか出なくなってしまった。

この時のことをちょうど満州に派遣されていた秘密会議のメンバー八角少佐が、
後年次のように回顧している。


「……一面極めて駿敏で、私どもが会った数日前とか、張氏が城内に帰る時、
城門近くで、その馬車に爆弾を投じた者があって大さわぎとなり、

忽ち城門がしめられ、犯人の捜索が始まったのに当の張氏が見えなかったそうで、
さわぎは一層大きくなったそうでした。

さがしあぐんだ護衛の人々が城内に帰ると、彼はとっくの前、自分の家に帰って
自若としていたとの事で、皆が驚いてその敏捷なのに舌を巻いたそうですが、

彼は爆弾が飛ぶと、咄嗟に護衛兵の馬を奪って、あっという間に城門を通り、
家に帰って平気な顔をしていたので、家人も気がつかなかったそうです。

此の人にはこういう一面がありまして全くただ者ではないのです」
(『忘れ得ぬことども』)》


つづく

第2次満蒙独立運動3 また反対の動き

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/04 16:09 投稿番号: [430 / 2250]
川島らの動きを快く思わない日本の官憲がいました。


波多野勝著 『満蒙独立運動』 PHP新書

170〜171p
《大正五年三月七日の閣議決定を受けて中村覚関東都督は、内命で満州各地の官憲に対し
「排袁を目的とする本邦人の活動に対し其の取締に手心致され度、

右は本月七日決定の閣議の趣旨に副ふ次第」 とまで伝えた。
だが出兵官憲は驚きをもってこれに接した。

たとえば在安東の吉村茂領事は十六日、石井外相に対し、
来満してくる品行のよろしくない日本人たちの掠奪を黙認するのか、

むしろ関東都督府が 「急速取締」 すべきではないかと異論を報告、
また奉天駐在の矢田七太郎総領事代理は十七日、

中国軍内部の暴動ならまだしも、日本側の裏に隠れて 「不体裁なる奪掠的小暴動」 は、
自身の裁量で取り締まりを加えたいと通知してきたのである。


このため石井外相は、不満の人々に対し外務省から事務官を満州に送り
(二十一日東京出発)、反袁工作について「 政府は其の黒幕」 となり、

「政府は之を黙認」 するという趣旨を伝えさせた。

だが現地の関係者に反対論は少なからず存在した。
何よりも寺内正毅朝鮮総督が反対だった。

ところが奉天の将軍段芝貴と実質的な責任者張作霖の確執が
表面化していたことが事態をよりいっそう複雑にさせていた。


これに目をつけていたのが矢田や張作霖の軍事顧問菊地武夫である。
矢田はむしろ張を助けて満蒙独立を推進した方が、

宗杜党グループを肋けるより袁を圧迫するには現実的とみていたのである。
この報告を受けた田中次長はこの提案に色気を見せた。

四月十日田中次長は、関東都督の仲川虎次郎参謀長に、張作霖に
「此際一歩を進め日本の真意を仄 (ほのめ) かし彼をして独立せしむること」

が穏当ではないかと伝え、張の決起を促そうとするのである。
だが中村関東都督は・・・宗社党グループに好意的だった。》


172〜173p
《このように満蒙挙事の工作が様々な形でうごめいている中で、
身の危険を感じた段芝貴は北京に逃亡してしまい、

張作霖が東三省の実権を握るにいたったのである。
しかし、このことはむしろ宗社党グループに危険なことだった。

張の支配強化は、彼らの満蒙挙事 − 清朝の復活に連なるとは到底思えなかった。》


*   「矢田はむしろ張を助けて満蒙独立を推進した方が、宗社党グループを
   肋けるより袁を圧迫するには現実的とみていた」

   「袁を圧迫」とはどういう事かと言うと、袁世凱が皇帝になろうとしていたので、
   それをやめさせるための圧力として、宗社党や張作霖を利用しようという事です。

   ここで矢田や田中義一は張作霖支持です。


つづく

第2次満蒙独立運動2 川島再び動く

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/03 16:13 投稿番号: [429 / 2250]
波多野勝著 『満蒙独立運動』 PHP新書
168〜170p

《川島は同志ともいえる柴四郎 (外務参政官)、五百木良三、大竹貫一、
押川方義 (おしかわまさよし)、松平康国、上泉徳弥 (かみいずみとくや)

などと熟議し、再度満蒙独立のため尽力することに決した。
対支連合会が動き始めた。

一方、予備騎兵大尉の青柳勝敏、予備歩兵大尉の木澤暢 (もくざわちょう) は
同志と共に十一月蒙古の調査のためパプチャプ軍のいるハルハ河畔に向かった。

彼らはパプチャプに会見して、人物や見識、力量を確認した上で
将来の援助を約束して十二月末帰国した。・・・

川島は東京平河町金星館を本拠地として挙事についての計画、
兵器補充の調達方法を定め、軍事行動については青柳や木澤、

さらに工兵大尉を離れた入江種矩 (たねのり) らに委ねられた。
作戦は次のようなものだった。


責任者たる川島は粛親王と連絡を取りつつ大連に渡り、
入江らは粛親王の第七王子憲奎王 (けんけいおう) を奉じて

馬賊隊を結成して遼陽東方の山に立てこもり、
反袁の火の手をあげて中国軍を引きつけることになった。

その間に青柳らがパプチャプ軍に合流して興安嶺 (モンゴル高原の西側にある山脈)
を越えて満州に侵入、そこに、各地に準備を整えていたいくつかの特別部隊が蜂起、

中国軍が混乱に陥る中で奉天城を攻めて手中に収め、仮政府を樹立、
その上で万里の長城を越えて北京を攻め、

内蒙古から満州、北京を含む一大王国を建設、
清朝最後の皇帝宣統帝を擁して国家を固めるという広大な構想だった。

川島は鴨緑江上流の伐木公司の利権を担保に布引丸事件にも関与した
大倉組から多額の借款を得た。


翌大正五年一月下旬に青柳は同志の井上晴能 (はるかず)、松隈据吉 (まつくますえきち)、
斎藤六宏 (ろくひろ) らを連れて憲奎王と共にパプチャプ軍に加わった。

木澤、入江、岩城直一らは大連に集結、川島らも遅れて大連に入った。そこには
森茂、小平総治、若月太郎、村井修、伊達順之助、木内嶺、三村豊らも集まった。

彼らはいずれも予備後備の軍人と大陸浪人の集団だった。   まもなく
伊達のグループは奉天に赴き、城外に満蒙行商郎という薬屋を開店して拠点とした。


三月下旬あらためて同志が満州で会議をした結果、
パブチャプ軍は今後の予定として、七月初旬にハルハ河畔を出発、

七月下旬から八月初旬には南満州鉄道沿線の郭家店南北の地点に到達する、
満州の各都市を軍事偵察し、それぞれ同志を派遣して挙兵に応じる、

馬賊の中で清朝に心を寄せる者を四千八百名ほど集め、
その内二千八百名を大連に集結させる。

これらを準備した上でパプチャプ軍と合流しようというものだった。
さて、以上の計画が整ってまず着手しなくてはならなかったのが弾薬輸送だった。
・・・


大連を出発した部隊は東清鉄道を経由してハイラル、そこからハルハ河まで
陸送するというプランである。   途中でロシア官憲のチェックも予想された。

そこでまず実行したのは二人一組のグループを八組つくり、
その一組ずつが弾薬を詰めたトランクを四個携えて運ぶというプランだった。

だが、ハルピンである一組がロシア官憲にアヘンの密輸とみられて収り押さえられ失敗した。
そこで次は日清燐寸 (マッチ) 会社と三井物産の力を得て燐寸 (マッチ) 箱や
味噌樽や沢庵漬けに人れ貨物列車で送り出した。

ともかくパプチャプ軍に手渡すには、
中国やロシアの監視の目を避けなくてはならないためたいへんな作業だった。》


つづく

第2次満蒙独立運動1 パプチャプの求め

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/02 15:33 投稿番号: [428 / 2250]
波多野勝著 『満蒙独立運動』 PHP新書
165〜167p

《満蒙独立運動立役者の一人パプチャプは万里の長城の北部のトウメトの出身である。
この地には漢人の入植者が多く、牧牛地を失って失職するモンゴル人が増えていた。

彼らは明治四十四年の辛亥革命に触発されて、内モンゴルで残留するため
新中国を相手に抗戦していた。   パプチャプのこの時の書簡が残っている。


「聞くところによれば、帝政ロシア、中国、モンゴル三国協定の結果は、
あまたモンゴル人の期待を裏切って締結され、

ハルハアイマクの領地もまた中国の一地方と定められたということである。
事実とすれば、それはどうしても受け入れがたいことである」


外蒙古側はロシアや中国の支援を受けるためには、
パプチャプ軍を攻めることだった。

となると残されたパプチャプの道は、孤立した民族主義者として、
日本の力、それも清朝の復活の運動にのることだった。


大正四年六月、蒙古から二人の人物が日本にやって来た。 彼ら二人は
日露戦争の時、日本軍の特別任務班に参加したパプチャプ配下の者だった。

清朝の復活=復辟 (ふくへき) をねらって蜂起しようとしていたが、
辺境の地であるため武器や弾薬の補充もままならず、

一度北方のハルハ河畔に移って兵力の充実を図り、
かつての満蒙独立運動にならい日本の援助を求めようとしたのである。

彼らが来日して川島浪速の共鳴を受けるまでさほど時間はかからなかった。


一方、小磯国昭 (太平洋戦争中に首相歴任) 少佐が参謀本部第二部付となって満蒙旅行を
命じられたのは大正四年八月、パプチャプからの密使来日と同じころのことだった。

同地方には参謀本部から合計三つのグループが同じころ派遣されており、
参謀本部の満州への注目の度は再び高まっていた。

小磯が帰国したのは翌年三月下旬のことだった。
帰朝したら早速福田第二部長が小磯に面会した。

「君は今後、満州に在勤し参謀本部直轄の下に宗社党及び満州官民の動向を
仔細に観察し、日本陸軍として機に投じ当に採るべき方策を考察すると共に、

日本の在満権益に及ぼす影響を調査報告する任務に服して貰ひたい」
福田の命を受けて直ちに満州に向かった。

小磯は名を葛山 (くずやま) 彰と変名し、旅順の都督府陸軍部を訪れ、次いで
川島浪速や大連市長の石本蹻太郎と面談して満蒙独立連動に手を貸すことになった。》


*   「この地には漢人の入植者が多く、牧牛地を失って失職するモンゴル人が増えて」

   とありますが、これと似た話を、モンゴル自由連盟党の
   オルホノド・ダイチンさんが今現在の話として、しています。

   中国人によるモンゴルの牧草地侵略はまだ続いているようです。

   そして、ハルハアイマクの領地も勝手に中国の領地にされてしまった。
   パプチャプが怒るのは当然でしょう。


つづく

対華21カ条の要求7 反日の嵐

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/01 16:12 投稿番号: [427 / 2250]
第5号は撤回しているのに、中国から第5号を強要しているかの如く宣伝をされ、
かつ最後通牒を突きつけられたとされてしまいました。

これで、反日の嵐が起こらないわけがありません。
結局、中国側にうまく利用されたようです。



〔大正4年5月15日   時事〕   漢口で暴動、日本商店襲撃される
漢口の暴動 〔上海五月十四日午後特発〕

十三日午後六時、漢口支那町に暴動起こり、日本商店襲撃せられ、英租界、
露租界に及び、同地日本商店の一部を襲い、その結果、損害の程度未だ明らかならず。

二名以上殺害せられたり。暴動は午後十時鎮定せり。
なお別報によれば、露租界に在る田中商店破壊せられたりとあり。


日本商店襲撃さる   〔漢口五月十四日午後発〕

十三日夜、日本人が日支談判解決を祝する提灯行列を行うとの事実無根の風説伝わるや、
一部の支那人はこれを見るを恥辱なりとなし、支那商人をして商舗を閉じさしめ、

なお支那人の一団は英露両居留地内の支那町に接近せる日本商店を襲い、
貨物を破壊し、日本人負傷者数名を出だせり。

英露両居留民は義勇兵を出し、支那軍隊また鎮圧に力め、十二時頃鎮静せり。
被害日本商店は丸三薬房、笠松薬房、日隣洋行、東華公司等なり。



〔大正4年5月20日   時事〕   日本綿花漢陽工場襲撃される
暴徒、我が棉花会社を襲う   十八日午後七時頃、数百の暴徒は漢口に於ける

日本棉花会社所有の漢陽工場を襲撃して事務所を破壊し、八時半頃退散せしが、死傷者なく、
日本及び支那兵警戒中なる旨、十九日午前零時四十分漢口発日本棉花会社へ入電ありたり。

なお十八日朝、日本租界にて我が三菱倉庫焼失したるが、
原因は放火なるもののごとく、排日熱意外に猛烈なりと。〔大阪十九日電話〕



〔大正4年5月21日   東京朝日〕   重慶、福州なども形勢不穏
漢口、漢陽の暴動   漢口に於ける暴動の交渉なお未だ終わらざるに、

またまた同地に於ける三菱会社倉庫に放火する者ありたるが、対岸漢陽に於ける
日本会社の工場もまた暴徒の襲う所となり、数名負傷し、

形勢いよいよ不穏に赴きたるを以って、漢口駐屯軍は取り敢えず十五名の軍人を
漢陽に急派し、その保護の任に当らしめたり。

前次暴動の際、漢口交渉員丁士源は瀬川総領事、白川司令官に対し百方陳謝し、
暴徒の防遏 (ぼうあつ) につき大いに尽力したることなれば、

今次の暴動につきても相当の処置を採ることなるべし。

漢口附近以外目下形勢最も不穏なるは重慶、福州の箇所にして、
国貨振興の名の下に天津、済南府各地に於いて日貨排斥を企つるもの少なからず。

(毎日コミュニケーションズ『大正ニュース事典』より)


*   「対華21カ条の要求を出したのだから暴動は当然」 と言う人が
   いるかも知れません。

   しかし、骨子は孫文案で、最後通牒は中国政府の要請です。

   それに、日本人は、第5号より酷い外国人参政権を要求されても、
   暴動を起こしていません。

   それどころか、マスコミと政府は率先して推し進めていました。
   中国の暴動を当然と思う人は、反韓・反中・反政府の暴動を起こすべきでは。

   「中国の軍や警察に日本人顧問を入れろ」 はケシカランが、
   「日本の地方公務員に外国人を入れる」 は良い、

   「日本の政治家を選ぶ権利を外国人にも与えろ」 は良い、では精神分裂です。


   では、次は、満蒙独立運動に戻ります。

対華21カ条の要求6 最後通牒は中国の要請

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/04/30 18:47 投稿番号: [426 / 2250]
最後通牒は中国側の要請だった。


K・カール・カワカミ著 『シナ大陸の真相   1931〜1938』 (原題 Japan in China )
訳者   福井雄三    展転社

103p
《四月七日までに他の全ての重要な部分も合意され、日本は要求の
グル−プ五の部分を撤回し、他の点においてさらなる譲歩を行った。

二一ヶ条要求が出されたときの日本側の責任者であった外務大臣の
加藤伯爵の伝記の中に、

一九一五年の交渉の時に日本政府が最後通告を出すことを
中国側代表が非公式に求めてきた、と記されている。

その理由は、そうすることによって袁世凱大統領が条約により調印しやすくなり、
彼の政敵に対するもっともらしい言い訳を与えてくれるからだというのだ。》



ラルフ・タウンゼント著 『暗黒大陸中国の真実』 田中秀雄・先田賢紀智共訳
  芙蓉書房出版

《258p
内容が公になるずっと前に、中国代表団は内容に満足し、
調印に同意していたそうである。

ところが、中国側はこう持ち出してきた。

「内容はこれで結構だが 『要求』 ということにしてはくれまいか。
そうした方が見栄えがする。

やむなく調印したのだという風にしたいのだが」
と。

これを受けて日本側は 「その方が良いのならそういたしましょう」
と言って、高圧的な態度に出るふりをした。


259p
極東問題に詳しいジャーナリストのジョージ・ブロンソン・リー氏は親日派の雑誌で
「当時、外国人の記者にはこの辺の裏情報は知られていた」 と述べている。》


つづく

対華21カ条の要求5 五号は締結前に削除

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/04/29 16:16 投稿番号: [425 / 2250]
悪名高き第5号は実は、締結前に削除されていました。


波多野勝著 『満蒙独立運動』 PHP新書
121〜122p

《山県 (有朋) は政府の対華要求について不可解だった。
ましてや対独戦についても消極的で、

むしろ今後は寺内同様人種戦争になると読んで
中国との不要な緊張は回避したかった。

それだけに 「各国の状況を取調べず、訳の分からぬ無用の箇条まで羅列して
請求したるは大失策なり」 とまで指摘していたのである。

当初日置益駐北京公使や井上勝之助駐英大使は第五項の削除を主張したが、
加藤高明外相がこれに固執、結局、元老山県らの主張で第五項は撤回された。》


小学館発行 『日本大百科全書』 第14巻353p 「対華二十一か条の要求」

《加藤高明外相の主眼は第二号 (満蒙関係) で、元老、軍部、財界などの
要望を盛り込み、そのため二一か条に膨張したといわれる。

なお第五号は希望条項として秘密交渉にゆだね、親交国にも秘密とした。
中国側は過大な要求に反対、交渉は四月二六日まで二五回開かれたが難航した。

中国は一部の要求しか認めず、かつ第五号を外国に暴露して日本の横暴を
大きく宣伝したため、アメリカの抗議的覚書の提出、イギリスの質問などがあった。

一方、国内世論は大部分が賛成した。

政府は四月二六日に要求を若干緩和し、五月七日には第五号を削除
(元老の反対のため)したうえ、五月九日期限の最後通牒を出し中国は受諾した。》



〔大正4年5月9日   時事〕   犬養ら、加藤外交に不満

《諾否を待つ政党   明日こそはいよいよ我が最後通牒に対する回答と
差し迫った八日の、各政党本部を覗いて廻る。

芝佐久間町の国民党本部では、御大の犬養君が早朝からの出動で、
本部内の空気はなんとなく緊張して居る。

午餐にとて註文した桶うどんを前に、変わり色のモーニングで突っ起った犬養さんは、


「最後通牒に対する支那の回答?   そりゃ来なくッてどうするものか。
あれで支那が承知しないと云う訳がない。まるっきり骨抜きになって居るのだもの。

ベラ棒な、こんな事なら爾来外務省は陸軍省の隅っコへでも片附けて置くがいい」
と湯気の立つ桶の中へ箸を入れて、チューツと啜る。

あったかいのが咽喉の辺りを通過するのを待って、

「あの花道で刀を抜く奴はどだい禄でもない士 (さむらい) と
昔から相場が立って居るからな」

と例の皮肉な調子で加藤外相に一太刀浴びせて置いて、
さてそれからはいかにも心外で堪らぬと云ったふうに黙り込んで了 (しま) ったが、

沈黙の二、三分をやり過ごした後、「全体何故の譲歩なのかな。
どこかの第三国への気兼ねなら問題だ」 と眉の辺りをビリつかせる。》

(毎日コミュニケーションズ 『大正ニュース事典』)


*   犬養毅は第5号を撤回したことに不満だったようです。
   それも、「第5号を撤回した上での最後通牒とは何だ、バカか」と言いたそうです。


つづく

対華21カ条の要求4 悪名高き第5号

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/04/28 18:38 投稿番号: [424 / 2250]
第5号は悪名高くて有名ですが、こうしたのにも理由があります。
当時の新聞に次のような事が書いてありました。


〔大正4年5月15日   時事〕南満州の利権(二)
・・・

《警察問題   これまで支那に於ける居住者の最も不便を感じたるは、
高等なる裁判、法律等に存せずして、実際日々に起こる警察上の煩雑事項にあり。

邦人の移住、営業等に関して何かと妨害的圧迫を加えたるは、
皆この警察関係の出来事にして、同時に単に保安の点より云うも、

支那の警察には絶対に信頼するあたわざるものありたり。
故に当初必要なる地方に合同警察の法を要求せるは、最も至当の提議なりしと信ず。


しかるに我が最終譲歩案に於いては、「日本領事の承認したる警察法に服従し云々」
と規定するのみなるははなはだ心細く、

すべてを支那の新警察法に対する我が領事の見解に一任したるは、
実際上周到なる処置とは見るべからず。

領事館所在地もしくは特殊の地方に於いては、日本官憲の保護を受くる便誼あるは
勿論なれども、僻 (へき) 遠の地にある従業者には極めて不安固の感なくんばあらず。

ただ日本官憲の案配上、警察官吏を入るる事あたわずとせば、
事情に応じて相当の保護官吏を分派、駐在せしむる事極めて肝要なり。

この点に関する当局の用意、充分ならん事を望まざるを得ず。》

(毎日コミュニケーションズ 『大正ニュース事典』 より)


この記事は、譲歩した案に不満を述べているようです。
そして、第5号と似た要求は、列国にも前例がありました。


《〔明治32年8月23日   官報〕   山東半島一帯の鉱山・鉄道の利権獲得

山東鉱業並びに鉄道敷設契約   さきに清国政府は、独逸に於いて組織したる会社に、
山東省内の鉱山を開墾し、鉄道を敷設することを准したるが、

その契約は既に訂立し、同事業に関するいっさいの小会社はこれに合併弁理する
はずにて、清国政府は当然その権利を有するものなり。

しかして契約の条件は、およそ鉄道等を造築する事は、
必ず独逸人の資本を用い、及び独国よりその材料を輸入するを要す。


〔明治32年9月19日   時事〕   フランスが龍州、南寧間鉄道敷設権を獲得

〔九月十七日北京発〕   仏国は、清国政府に対する談判の結果として、
龍州、南寧間の鉄道に関する契約に調印の運びに至りたり。

その契約の要項は、これが敷設費に、清国政府より三百十万両を支出する事、
三年間にこれを落成せしむる事、敷設の材料及び技師は仏国のものを使用する事等なり》

(毎日コミュニケーションズ 『明治ニュース事典』 より)


そして、ロシアは、日露戦争の前、清国に

《四   同省において、ロシア軍の必要としない砲台および要塞は、すべて

    ロシア官吏立ち合いのもとに破壊すること
 
  七   ロシアは総統治権をもつロシア政務駐在官を奉天に置き、盛京将軍は

    重要事項はすべて同駐在官に報告すること

  八   地方警察のみで鎮圧できない事件が起きた場合にはロシアが援軍を派遣する》

(ウッドハウス暎子著 『日露戦争を演出した男モリソン』 上   新潮文庫18p)

という旅順協定を結ばせていました。


つづく

対華21カ条の要求3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/04/27 18:37 投稿番号: [423 / 2250]
しかし、日本は、孫文の空売りには応じませんでした。


黄文雄著 『中国・韓国の歴史歪曲』
184〜185p

《大隈内閣の加藤外相が一年後の大正四年一月十八日に、
駐支公使の日置益に指令して、袁世凱総統に突きつけた

「二十一カ条要求」 の内容は、じつは、
孫文が日本政府に秘密会議で約束したものとたいして変わりはないのである。

つまり日本政府は、孫文を中心とする南方革命派の権益の譲渡の条件を、
袁世凱を中心とする北方実権派に要求したにすぎないのだ。

日本政府としては、いまだ政権をとっていない孫文の空売りよりも保証付きの
現政権の袁世凱に 「二十一カ条要求」 をすることは、むしろ当然なことだろう。


通称 「二十一カ条」 は、普通第一号〜五号までに大きく分けられている。

   一、山東省を日本の勢力範囲とする要求   (四項目)

   二、南満、東蒙古における日本の排他的地位強化に関する旅順、大連租借、

     満鉄権益期限の九十九年延長   (七項目)

   三、漢冶萍公司に関する要求   (二項目)

   四、福建省の外国への不割譲、不貸与   (一項目)

   五、中国政府は日本の軍事、警察、財政顧問を受け入れ、

     日本から兵器供与を受ける等   (七項目)


「対支二十一カ条要求」のうち、第三号に関しては、
孫文が南京政府臨時大総統のときに孫文、黄興らが盛宣懐の提案を受け入れて、

革命資金を獲得するために、秘密交渉で一度合意したものの、
密約がばれて、南京臨時政府関係者が騒然となったほどの問題だ。

国民党は、それで分裂して章炳麟は脱退して、統一党をつくっている。

第一号、第二号、第五号の内容も孫文がほぼ一年前に
日本政府外務省に振出した権益譲渡の条件であった。》


*   ここで問題となるのが、第五号です。


つづく

対華21カ条の要求2 孫文の満洲売却計画

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/04/26 18:36 投稿番号: [422 / 2250]
実は対華二十一カ条の要求の内容の殆どは、孫文が、日本に提案したものだったのです。


黄文雄著 『満洲国の遺産』 光文社

190〜191p
《孫文は日本に満州譲渡の交渉も展開している。
「満州を買ってくれませんか?」 というわけだ。・・・

「二十一カ条」 の原案は、孫文が一九一三年に反袁世凱の第二次革命失敗後、
日本に亡命して、革命支援を得るために日本政府と秘密協定を結んださいの

利権譲渡の条件であった。
もとはといえば孫文が作ったようなものなのだ。


孫文と日本政府との秘密協定については、NHKテレビ番組
『現代史スクープ/孫文亡命九三三日の記録発見された孫文の日中盟約』

(平成三年四月二十日放送) でも明らかにされた。


孫文は、革命団体・興中会をつくった当初、すでに
「韃虜 (満州人) を駆逐し、中華を回復する」 という政治綱領を掲げていた。

辛亥革命の当初にも、孫文ら中国革命同盟会の大勢は、種族革命を掲げ、
満州人を 「東胡の賎種」「犬羊の遺ケツ」「満奴」「韃虜」だと罵倒、

〝神州中国の地を纂奪し、炎黄の子孫である漢民族を専制淫威の下に抑圧、
蹂躙した〟と非難していた。

この言い方でよくわかるように、そもそも孫文は、
満州を中国の一部とは考えていなかった。》


191〜192p
《孫文は一九一四年三月十四日、日本の加藤高明外相 (当時) の代理、
外務省の小池張道政務局長と秘密交渉に及んだ。

孫文らは満州、満鉄に関する日本権益の拡張、ドイツから得た青島を含む
山東半島の権益の継承など十一カ条に及ぶ権益供与という条件を提案した。

孫文と陳其美(ちんきび) は、この秘密文書の末尾に署名と捺印をした。》


193〜194p
《アメリカ人ジャーナリスト、ジョージ・ブロソソン・レーはかつて
孫文の顧問を務めたこともある。

彼は、自著 『満州国出現の合理性』 で、・・・
孫文についてこう書いている。


「辛亥革命当時、南京に於ける孫逸仙 (そんいつせん) は外債を起こして
袁世凱に対抗せんと死力を尽したものである。

孫は彼の政府に対し直接に援助を与て呉 (く) れるもののないことを知り、
間接の方法に依って資金を得んと試みた。

中部及南部支那に於いて重要なる公益事業及彼の共和国をして
危機を乗り切らしめんとしたのである。

即ち江蘇 (こうそ) 及 (および) 浙江 (せっこう) の両鉄道会社、
支那招商局汽船会社、漢陽鉄鋼会社並に付属の大冶 (たいや) の鉄山

及萍郷の炭山は何 (いず) れも其の財産を借款の担保に
提供したのである。……」(七二ページ)


「米国国務省が之を否認するや支那人は欧羅巴に於いて其の金を調達せんと
試みたのである。

夫 (そ) れにも亦 (また) 失敗するや今度は日本に赴き漢冶萍の財産を
担保に二百五十万円の借款を得たのである。

而 (しか) して其の契約条件たるや支那に於ける商業借款中恐らく
もっとも好条件のものであったのである」(七二ページ)

孫文は、まだ孫文自らの手に入っていなかった中国の利権を、
あちらこちらに切り売り、空売りした。》


*   孫文は満洲だけでなく、山東の権益まで供与しようとしていたのです。

   中国は対華21カ条を国辱と見なしているけど、
   それは、国父孫文を侮辱する事になるのでは。


つづく

対華21カ条の要求1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/04/25 16:03 投稿番号: [421 / 2250]
「対華二十一カ条」 の要求と言うと、日本が理不尽に押しつけた要求のように
見えますが、本来の意図はそうではなかったようです。

日本は清国から、満洲の利権を承認されていました。
ところが、辛亥独立の変乱で、中国が満洲の持ち主の清国を滅ぼしたのです。

日本は対応を迫られます。
清国を滅ぼした中国が 「満洲は俺のもの」 と言うのなら、

先に清国に勝って満洲に拠点を置いている日本も 「俺のもの」 と言えるのですが、
日本は、そうせず、新生中国に満洲の権利の確認を求めたのです。

清国との約束を中国が守るとは限りませんから。


K・カール・カワカミ著 『シナ大陸の真相   1931〜1938』(原題 Japan in China )
訳者   福井雄三    展転社    101〜102p


《中国は、満洲における日本の企業 (それは、十分可能性のあるロシアの報復に
対して日本が武装するためにはどうしても維持せねばならぬ企業であった) を

無力にしようとして様々の第三勢力と陰謀をたくらんだ。

幸運にも当時のイギリス政府は日本の動機と意図をはっきり理解していて、
満洲で日本の利益と衝突するようになっていたイギリスの私企業を全て禁止した。

このような公式の態度は、一九〇九年七月のタイムに掲載された次の社説に反映している。


「満洲問題を扱う時の中国の狙いの一つが (かつてそうであり、
今でもそうなのであるが)、

日本と   他の列強諸国の間に摩擦を生じさせることであることは、
ほとんど疑う余地が無い。

ファークメン鉄道の契約をイギリスに与えることにより (日本がその計画を
一九〇五年の議定書に対する侵害と見なすであろうことを知った後で)、

中国は明らかにイギリスと日本の仲がもつれることを望んだのである。
この点において中国の期待ははずれた。

イギリスと日本の同盟と友好関係は両国の共通の利害の上に
あまりにもしっかりと根づいているので、

そのような見え透いた策略によって重大な影響を受けるようなことは無いのである」


中央であると地方であるとを問わず中国当局があまりにも執拗に妨害政策を
推進したために、日本は一九一五年に中国に対していわゆる

「二一ヶ条要求」 を提出しなければならなくなった。

この要求に関しては中国の宣伝によってあまりにも大きな騒ぎが生じたために
その本質がかすんでしまう程であった。

この二一ヶ条要求 (その本質的な狙いは満洲における日本の利権を
保護することだったのであるが)》


つづく

満蒙独立運動 5挙事工作の中止3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/04/24 16:13 投稿番号: [420 / 2250]
波多野勝著 『満蒙独立運動』 PHP新書   93〜94p


《ところが、すでに六月上旬輸送隊は、鄭家屯 (ていかとん) の北部で
中国側の部隊の攻撃を受け、同行した松井清助大尉も重傷するという事件が起きていた。

天鬼馬賊隊も二十七人のうち十三人が戦死、
同隊にいた支援の中国人など三十九人も戦死した。

そのため武器はその場で焼却され、挙事工作の総仕上げは失敗に帰することになった。
事件の波紋は北京に、さらに列強に広まろうとしていた。


六月十二日大島健一参謀次長 (福島の後任) は、北京の青木宣純中将に電報を送った。
そこでは、武器輸送をすでに中国側官憲がこれをかぎつけており、

当方としては 「右は浪人組の計画」 として、多賀や松井らの関わりも
「個人として之れに関係したるに過きさるもの」 と暖昧にしたいと報告するのである。

日中関係を悪化させる事件となるだけに結局、個人レベルでの工作に外務省や
参謀本部でもしたかったのである。鄭家屯の事件が発生しただけにそれはなおさらだった。


・・・
さて、同次官は関東都督府 (日露戦争後、清国から租借した遼東半島地域の責任者)
参謀長に再び電報し、「高山、守田、貴志等が兎角都督府の意向に反して行動し

従て外交上全局に於て不利結果を来す恐れある」として、万一 「常軌を脱して
行動する様」 なことがあれば 「本人を招致」 すると伝えたのである。厳しい指示だった。

・・・
川島は運動失敗の影響が粛親王に及ぶことを恐れた。

彼の生活保護と従来どおり連絡交情を保持するため、川島グループの同志を
満蒙の各地に配置したいと条件を提示して内田外相から妥協を引き出し、

工作は中止することになった。
以後、旧軍人や民間人も夢がついえて故国の日本へ帰った。》


*   このようにして、第一次満蒙独立運動は潰されます。

   清国は満洲で建国され、後、長城を超え明を征服したのですから、
   満洲は中国の領土ではありません。

   しかし、当時の日本政府は、そういう理屈より、
   国際社会で波風を立てない事の方が大事でした。

   そのため満蒙独立運動を潰したのです。

   しかし川島はあきらめていません。
   満蒙独立運動は第二次、第三次とつづきます。


ですが第二次満蒙独立運動に行く前に「対華21カ条の要求」を挿入します。

満蒙独立運動と直接の関係はありませんが、
日本の満蒙問題とは深く関っていますし、中国の反日の原点みたいなものですから。

満蒙独立運動5 挙事工作の中止2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/04/23 18:46 投稿番号: [419 / 2250]
波多野勝著 『満蒙独立運動』 PHP新書


89p
《日本政府が挙事工作中止に必死に奔走する中で、すでに現地では工作が進行していた。
しかし、蒙古軍に武器、弾薬を送るといっても簡単なことではなかった。

ここで川島らが目をつけたのが公主嶺東方小孤山付近にいた
日本人グループの一団二十六人だった。

首領は薄益三 (はくますみ) といい、自身を天鬼将軍と名乗っていた。

彼は馬賊左憲章 (さけんしょう) と協力して付近一帯を支配して
満蒙独立義勇軍と称していたのである。


川島らがこの一団を利用しない手はなかった。   挙事はあきらめたものの、
武器・弾薬の手渡しについては彼らは実行に移そうとしていた。

・・・
明治四十五 (一九一二) 年三月二十五日福島次長は多賀に対し、

清朝の皇族を引き付けるのには好機だが、
「挙兵若しくは之に類する行動の如きは今尚時機に非ず」 と促した。

急な命令だった。それは 「一に外交関係上己 (や) むを得さるに
出てたるものなる」 ことを福島は強調している。

90
・・・こうして満州挙事は中止になった。


91〜93p
さて、困難が伴った武器・弾薬は、四月十九日ようやく大連に到着した。

すぐに第二回分の武器輸送も決まり、他方で輸送のため松井大尉が
四平街で多賀少佐と会い、具体的な方法を決めて出発した。

五月二日満州に入っていた多賀は 「例の事殆ど不可能」 と打電した。
前述したように横やりが入ったのである。

福島次長はすでに現役将校が表舞台で関係することは 「甚た宜しからさる」 ため、
これ以後は裏面に於て極めて必要の助言のみに止め、

実際の仕事は 「直接関係商人等をして遂行せしむる」 様に訓戒したのである。


そこで武器輸送は、民間の薄益三が率いる一団や馬賊の左憲章らの
全面的協力を得ることになった。・・・

こうした状況を知って驚いた日本政府は参謀本部を通じて川島を呼びもどした。
福島参謀次長が彼に会った。

「君は満蒙独立運動をしているそうだが、政府の閣議で、斯 (かく) の如き
行動は一切差止めることになった。今後は断然中止して呉給え」

今まで黙認状態であったにもかかわらず、ここで突然中止にするというのは
川島も納得いくはずもない。・・・川島は理由を聞いた。


「……何分にも今日は閣議で決した命令を君に伝える役目を命ぜられているのだ。
この立場にある以上、いつまでも君と議論を闘す訳には行かない。

議論があれば外務大臣の処へ行って述べて戴きたい」
命令を伝えるしかないという福島の言い分である。内田外相は川島に会見した。

「この際、満蒙を衝かれると外交上猜疑を受けて困るのだ。
……殊に列国の間には借款団ができて、日本は遠からずそれに加わる手筈になっている。

今満蒙に事を起すというようなことがあっては、国家の為に極めて面白くない。
是非、貴下の計画は中止して呉れ」》


つづく

満蒙独立運動5 挙事工作の中止1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/04/22 18:31 投稿番号: [418 / 2250]
波多野勝著 『満蒙独立運動』 PHP新書
86p

《ところが、この電報と相前後して独立運動の工作中止が北京や関係者に打電された。

高山大佐は突然に動きを封じられ、当面中国人と面会しないこととし、
宗社党との接触を一時取り止めた。》


87〜88p
《参謀本部第二部長宇都宮少将が訪中しようとし・・・多方面に様々な憶測が飛びかった。

海軍は上海駐在の宗方小太郎を通じて中国情勢を探っており、宇都宮訪中の真意を
調べていた。その中で宗社党幹部と接触する風説が当地に流れ始めていた。

すでに宗方は宗社党関係者と面会しており、・・・宗社党関係者が「頻 (しきり) に
事を急ぎ、如何なる故か宇都宮陸軍少将の来遊を嘱望 (しょくぼう) し、

其 (その) 上海に来るを待て之と密会」する計画を本省に報告した。


上海の増田高頼 (たかより) 海軍中佐も、軍令部に村して、・・・
「我か陸軍は本件に付同少将に何等内訓ありや、

小官は実力は疑はし今日事を挙げれば失敗に帰すべしと認む、
宗方より時期尚早を説て見合せ方勧告せり」 と批判的な報告をおこなった。

・・・
そこで参謀本部では、宇都宮少将の訪中は

「視察何等の内命をも含居さる」 こと、また陸相の意向もあって
宗社党等のある地点に行くことは取り止めになったと回答したのである。


ところで官革交渉を仲介したイギリスは袁世凱の手腕に期待していた。
明治四十五 (一九一一) 年二月十六日イギリス大使マクドナルドは

内田外相に満州を含む南北統一政府を袁主導で樹立する、
満州分離運動は中国保全とならないと通知していた。

同様な視点はロシア側にもあった。日露戦争後、両国は蜜月時代をむかえた。
その絆というべき日露協商の枠組を越えるような挙事工作に賛同するはずもなかった。

二十日内田外相は、日本の特殊権益が守られるならば不干渉の態度を保持すると
対英協調をマクドナルド大使に伝えた。


しかし、満州において日本政府の意図が出先に徹底していなかった。
・・・

内田外相は、宗社党関係日本人の行動は政府としては 「固より之を是認せざる次第」 で
「穏便なる方法」 で取り締まることを指示したのである。

陸軍の出兵論を押さえている以上、これは当然のことだった。

そこで政府は粛親王や川島らの動きについては、当初黙認の動きを見せながら、
かくして方針は大転換することになった。

二月二十一日、外務省は福島次長を通じて川島に対し、粛親王を北京へもどすか、
あるいは他の場所へ移動させることを要請した。》


つづく

満蒙独立運動4 陸軍将校の関わり

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/04/21 18:29 投稿番号: [417 / 2250]
波多野勝著 『満蒙独立運動』 PHP新書
82p

《清国で北洋軍官学校の教官を務めていた人物に多賀宗之(少佐)がいる。

多賀は革命勃発まもなくの明治四十四年十一月四日訓令により清国内の、
それも 「満人に関する情報を蒐集 (しゅうしゅう)」 して報告することになった。

もう一つの任務は、川島浪速と気脈を通じて清朝内等の内情を偵知することだった。
ここに陸軍と川島の満蒙独立運動の接点が出来上がった。》


83p
《明治四十五年一月三十日北京の高山公道大佐は福島次長に電報を送り、

喀喇沁王との借款も進行しており、「蒙古挙兵の実行は着々共進歩を進め」 と
武装蜂起の可能性を示唆する動きを知らせてきた。

このため参謀本部では、二月守田利遠 (としとお) 少佐らを蒙古地方へ派遣、さらに
高山大佐には奉天に駐在して亡命した清国皇族の動向を調査することが命じられた。》


85〜86p
《二月十四日長谷川好道 (よしみち) 参謀総長は多賀に次のような訓令を指示した。

(1) 北京若しくは承徳府に位置して内蒙古に関する情報を蒐集 (しゅうしゅう) すること

(2) 各武官、関東都府、在四平街の守田大佐、在奉天の高山大佐と連絡を保持すること

(3) 田口暢 (ちょう) 大尉、松井清助大尉、木村直人大尉を貴官の指揮に属すること

まさしく満蒙挙事工作の真只中に多賀は入ることになった。
十七日多賀は宇都宮少将への電報で、蒙古の馬賊の頭二人に

「金を与へて信用せしめ且つ恩を着せ置くは将来実行の為め必要」 で、
一千円を送付して欲しいと送った。


蒙古の各王が北京から避難するという名目で退去させ、
満州の地で彼らに資金や武器などを支給すること、

また三月十三日多賀に対し、旅順での武器の陸揚げは
「世人の疑惑を深く」 するということで大連陸揚げが決まった。

三月十三日喀喇沁 (カラチン)、巴林 (パリン) 王は、松井、木村の両大尉が
同行して北京を出発した。

これを察知した袁世凱は関係者を通じて多賀に接触してきたが、多賀ははぐらかした。

ともかく多賀の働きで喀喇沁と巴林との間に秘密の借款は成立、
それを見てから北京を脱出させた。

金額は合計十一万円で、三万円は参謀本部からの資金であるが、
八万円が何と外務省だった。外務省も関わっていたのである。


一方、張作霖側もこうした動向には疑問だった。
いったい 「日本の意思は果して何れにあるや」 と問うほどだった。

すでに満州に勢力を持っている張作霖にとって単なる亡命であれば
擁護する立場にもなりえた。

だが、謀略的活動となると日本側に不信を持っても不思議ではなかったのである。》


つづく

Re: 入って中国人に南京事件真相議論しまし

投稿者: censorshipbreaker 投稿日時: 2010/04/20 21:09 投稿番号: [416 / 2250]
映画   南京の真実   記録映画編(上海〜南京陥落)
http://www.youtube.com/watch?v=fSMZnOsEy4A
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6970002

映画   南京の真実   記録映画編(南京陥落後)
http://www.youtube.com/watch?v=AAJhJnYH7yU
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6967583

南京の真実   証言編
http://www.youtube.com/watch?v=mZm7apsJlB0
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6964417

満蒙独立運動3 川島の支那分割論

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/04/20 18:33 投稿番号: [415 / 2250]
波多野勝著 『満蒙独立運動』 PHP新書
79p

《川島は、南北妥協に反対だった。しかし、清朝を残すためには
革命勢力の強い中国の南方を分離する方が得策だった。》


78p
《清朝のパワーダウンを熟知する川島は清国の民政部顧問だった旧知の宮島大八への
電報(「竹下勇文書」十一月十日)で、日本が覇権を確立するためには

満州東部蒙古を占領すべきであること、
それには、まさに崩壊しようとする清朝を

「我が力にて扶掖」 して、黄河以北三国を独立させ、以南は革命国家の
自由行動に一任することで平和を回複することが列国の利益と断定していた。

ましてや中国人は 「強勢なる威圧なくては到底制御すべからざる性質なることを覚悟」
すべきで、革命党に対して 「無意義の同情を表する如き道楽して居る時に非ず」 と結んでいる。

現状の中国に落胆しつつも、中国分割やむなしということである。
革命が 「道楽」 とは手厳しいが、川島にとって孫文の革命などは問題外だった。》


80
《一方、清朝の忠臣ともいうべき良弼 (りょうひつ)、鉄良 (てつりょう) らは
親王たちと連絡を取りあい、清朝の・命脈を支えるため宗社党を組織した。

喀喇沁 (カラチン) 王などは最後まで皇帝退位に反対だったが、
ほどなく宗社党の中心的人物の一人良弼が爆殺され、彼らは極度の恐怖に陥った。

彼らが川島を頼りとするのも不思議ではなかった。

十二月六日川島は福島次長を通じて横浜正金銀行から二万両の借款を
喀喇沁王に与えるべく依頼、二十三日政府の承諾を得て横浜正金銀行の

北京支店から銀二万両が出された。軍資金はこうして整った。

明治四十五年一月二十二日参謀本部へ電報を送り、「此の袁と孫との
八百長的芝居を打破せざれば我帝国は非常なる不利に陥る」 とまで述べた》


81p
《川島は日本政府を通じて関東都督府に訓令して便宜と援助を与えるよう
「配慮」 ありたいと依頼するのである。

すでに喀喇沁王に対し三万発の弾薬を二十九日に送り、
川島と同王との密約や借款証書をかわし挙兵の準備は進んでいた。

だが、参謀本部としても露骨な日本人の介入は回避したかった。それを理解していた
川島は表面はどこまでも宗社党関係者の自由な行動にすることで水面下で行動していた

・・・
皇帝退位は明治四十五 (一九一二) 年二月二日夜決定し、
川島はかねての計画どおり粛親王を北京から脱出させた。

・・・
粛親王が落ちのびた満州はどうだったのだろうか。
すでに革命党や馬賊や匪賊が入り乱れていた。》


つづく

*   川島は 「日本が覇権を確立するためには満州東部蒙古を占領すべき」 と
   言っていますが、これはあくまでも、「清朝を残す」 ための手段であって、

   別に「日本が盗れ!」 と言っているわけではありません。

満蒙独立運動2 川島浪速

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/04/19 18:24 投稿番号: [414 / 2250]
時代は一気に、義和団事件まで遡ります。


波多野勝著 『満蒙独立運動』 PHP新書
74〜75p

《明治三十二年義和団の乱が勃発、この勢いを見て清朝が参戦して北清事変へと拡大、
日本陸軍は臨時派遣隊(福島安正少将)を送り込んだ。

旧知の福島は同郷の川島を通訳として伴った。
・・・・

連合軍は城への攻撃を主張したが、日本軍は平和解決を望み、
滞同していた川島が両軍の仲介に立った。

「紫禁城の開城については私にお任せください」
川島必死の勧告もあって翌日城内の兵は降伏して無事被害もなく解決した。


川島はさっそく宮内 (くない) 監督に命じられ城内整理に奔走した。
こうして紫禁城の治安と破壊は守られた。

連合軍の北京占領後、日本軍は、市内の一区画を警備に割りあてられた。
ここに軍政を施行するため軍事警務衙門 (がもん) を設置して、

柴五郎(柴四郎の弟)中佐が長官に就任、
まもなく川島は司令部付の通訳兼軍政署軍事警察衙門に入った。

川島は北京の治安改善のため警察制度の改革に着手、
これが警務学童の起源 (明治三十四年四月) となった。


しかし六月民政権が連合軍から清国側に移ったため、川島もこの指導が不可能になった。

内政改革の必要性を感じていた慶親王や、李鴻章が事態を危惧して、
川島を清国の警察改革に協力させるため借用願いたいと日本側に依頼した。

こうして川島は清朝側に厚い信頼を得ることになったのである。
・・・

粛親王と川島の出会いは、彼が義和団の乱後、西安から帰郷して、
北京を視察した際、川島を表敬訪問した時に始まる。

川島が破壊されつくした粛親王邸に同情を表明すると、彼は清朝にとって自業自得で、
かえって絶好の警鐘と述べたことで急速に二人は接近していった。


76p
粛親王の王妹が内蒙古の喀喇沁 (カラチン) 王の王妃だった・・・

明治三十五 (一九〇二) 年の春、大阪で開催される内国勧業博覧会に
喀喇沁を極秘に招くという動きがあった。

喀喇沁王の来日に際し、福島安正少将と王の間に日豪親善の一環として
女子のための教育機関をつくることで一致、

その一つとして河原操子 (かわはらそうこ) が
蒙古に行き王の子弟の教育にたずさわることになった。


77p
明治三十九年末北京に大雪が降ったある日のことだった。
粛親上が突然単身馬で川島宅を訪問した。

この時、粛親王は川島と暖炉を囲みながら日中両国の提携を力説、
このような親交を経て二人は義兄弟の契りを結んだ。

川島と清朝のパイプは以前にも増して太くなった。
その川島にとって辛亥革命は衝撃だった。

すでに統一清朝を再構築するのが不可能なことは理解していた。
そこで考え出したのが 「支那分割」 だったのである。


つづく

註    衙門:ガモン    役所の事
    操子「みさこ」   とも言う

辛亥独立変乱時の虐殺事件

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/04/18 15:54 投稿番号: [413 / 2250]
これは満蒙独立運動からは外れますが、元々、
中国の残虐を示すために書き始めた事ですから、本筋の虐殺事件を挿入しましょう。

辛亥独立の変乱の時にも南京事件はありました。
これを第一次にしようかと思ったのですが

一般には、昭和二年が第一次として有名ですので、それに合わせました。


波多野勝著 『満蒙独立運動』 PHP新書 105p

《(大正2年・1913年) 袁世凱率いる北軍が勝利を続けていく中で
続けざまに三つの事件が発生した。

第一は   八月五日   川崎亨大尉が南軍のスパイとして監禁されたエン州事件、

第二は、八月十一日   中清派遣隊のある少尉が警戒線内に入り
     暴行を受けたという漢口事件、

第三は、九月二日   北軍が南京に進駐して日本人数名が混乱の中で
     殺害された南京事件である。》


黄文雄著 『満州国の遺産』 光文社 154p

《1911年の辛亥革命後、世界を驚かせた出来事がある。
西安革命軍が満洲人にたいして大虐殺を行ったのである。

漢民族による満洲人の射殺、惨殺、火炙り、婦女暴行が一週間も続き、
二、三万人が虐殺された。(レー 『満州国出現の合理性』、194ページ)。

孫文の民族革命のスローガン 「駆逐韃虜」 が暴走したのだ。
満州人の国であった清が滅びた後、満州人はどこへ行ってしまったのだろうか。

推測するに、彼らは漢民族の大海に消えたというよりも、民族名を隠して
ひっそりと暮らし、満州人と名乗らなかっただけであろう。

あえて名乗り出たのは、満州再興を唱えた宗社党だけではないか。》


註:   レーとは「G・ブロンソン・レー」と言う人の事
    「宗社党」は次の次辺りから頻繁に出て来ますので、その時わかります。


次からは満蒙独立運動の本筋に入ります。

Re: そうすか?  つづき

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/04/18 15:49 投稿番号: [412 / 2250]
>なぜ日本の軍隊は中国に行ったんすか?


関東軍を忘れてた。
どうせ、満蒙関係で頻繁に出てくるから補足しておこう。

日露戦争の後   1905年9月のポーツマス条約で、
日本は満洲の利権をロシアから譲り受けました。

そこには、鉄道もはいっており、ロシアは鉄道を守るための守備隊を置いていました。
日本が鉄道守備隊を置く権利はポーツマス条約に明記されています。

但し、場所は清国の領地であるため、清国の許可を得る必要がありました。
1905年12月、小村寿太郎が北京で日清条約を締結し、正式に認められました。


黄文雄著 『満洲国の遺産』 光文社
215p

《一九〇五年九月、アメリカの軍港ポーツマスで、・・・講和条約が調印された。
・・・ロシアは南満州の権益を日本に譲渡し、・・・日本は、長春以南の権益も獲得した。

同年十二月、小村寿太郎が北京で日清条約を締結し、
ロシアから譲渡された権益を承認させた。

日清条約で清は、関東州の租借権の承認ほか、
長春〜旅順間の鉄道・同支線・附属地の特権、鉄道附属炭坑採掘権、

南満州各都市の居住・交易の権益、鉄道沿線の日本軍駐屯地から
二十里以内への清軍の立入禁止などを承認している。》


220p
《ポーツマス条約には、鉄道保護のために一キロ当たり十五名を超えない範囲で
守備兵を置く権利が明記されている。

これで計算すると、鉄路守備隊の最大規模は一万四千四百十九名、実質二個師団に
なるのだった。その後の日清条約第一条でもこの約款は再確認されている。

「関東軍」 の前身がこうして生まれた。》


日本は満州族の王朝・清国の許可を得て 「満洲に鉄道守備隊を置いている」 のです。
「武力の脅迫によってか」 と言う中国人がいるかもしれません。

しかし、その中国は、武力によって清国を滅ぼし、その領土を侵略しました。
日本は借りただけ。泥棒したわけでありません。

借地者の日本が、泥棒の中国に、非難される筋合いはありません。


清国は、満洲に日本の鉄道守備隊を置かせる事によって、
彼らの故地を保全したと言うべきでしょう。1945年までは。

満蒙独立運動1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/04/17 16:38 投稿番号: [411 / 2250]
話は、1912年にさかのぼります。

この年の1月1日 (まだ辛亥の年:下に註あり)、
中国の14省が清国から独立し中華民国を建てました。

我々は 『辛亥革命』 と習いましたが、これは言葉の使い方が間違っています。
ほんとうは 『辛亥独立』 と言うべきです。


宮脇淳子著 『世界史の中の満州帝国』 PHP新書 160p

《一九一二年一月一日には、清国にもとからあった一八省のうち一四省が独立を宣言し、
孫文を臨時大総統に選んで中華民国臨時政府が誕生した。

独立宣言をしなかったのは、直隷・河南・山東・甘粛省で、
新設の奉天・吉林・黒龍江と新疆省も独立宣言をしなかった。》

ここには書かれていませんが、チベットや蒙古も漢民族の独立国家には参加していません。
チベットや蒙古・ウイグルは、別に独立しました。



宮脇淳子著 『世界史の中の満州帝国』 PHP新書170p

《一九一一年十二月一日、モンゴルの独立を宣言した。 清朝大臣の三多は
フレーのロシア領事館に保護を求めて、キャフタからシベリア経由で帰国した。

十二月二十九日、仏教の高僧ジェブツンダンバ・ホトクト八世が元首に推戴されて、
ボグド・ハーンとなった。 これを中国では 「外蒙古」 と呼ぶ。

・・・・
一九一三年一月、モンゴルとチベットは、相互の独立を確認し合う条約を締結した。》


しかし、新生中国は彼らの独立を認めないのですね。自分は清国から独立したくせに。
チベットやウイグル、蒙古は別に中国から支配されていたわけではありません。

満洲人の王朝から支配されていたのです。
中国人も同じく満洲人の王朝から支配されていました。

満洲人の王朝・清が傾けば、チベットやウイグル、蒙古が独立するのに
何の問題がありましょう。

元宗主国でもない中国に許可を貰う必要はありません。


しかし、中国は、チベット・ウイグル・蒙古を
自分の支配下の地域と勝手に妄想して征服にのりだしました。

チベットは高地のため戦後まで行けません。
満蒙は日本の関東軍が先にいます。従って想うようには行きません。

そこで、西の東トルキスタン (ウイグル) が真っ先に征服されました。
今ある、チベット・ウイグル問題はここに端を発しています。


そして、満蒙問題も同じ線上にある事は理解できますね。

次は、満蒙独立運動本論に入る前に、辛亥独立の変乱における虐殺事件を書きます。
それが本来の趣旨ですから。


註: 辛亥の年は旧暦の呼び方のため、
   西暦では1911年の2月の途中から1912年の2月初めまでに当ります。

   もっとも閏月があったりすると、3月にずれたりしますが、
   それでも、西暦1912年の1月はまだ辛亥の年です。
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