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第2次満蒙独立運動1 パプチャプの求め

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/02 15:33 投稿番号: [428 / 2250]
波多野勝著 『満蒙独立運動』 PHP新書
165〜167p

《満蒙独立運動立役者の一人パプチャプは万里の長城の北部のトウメトの出身である。
この地には漢人の入植者が多く、牧牛地を失って失職するモンゴル人が増えていた。

彼らは明治四十四年の辛亥革命に触発されて、内モンゴルで残留するため
新中国を相手に抗戦していた。   パプチャプのこの時の書簡が残っている。


「聞くところによれば、帝政ロシア、中国、モンゴル三国協定の結果は、
あまたモンゴル人の期待を裏切って締結され、

ハルハアイマクの領地もまた中国の一地方と定められたということである。
事実とすれば、それはどうしても受け入れがたいことである」


外蒙古側はロシアや中国の支援を受けるためには、
パプチャプ軍を攻めることだった。

となると残されたパプチャプの道は、孤立した民族主義者として、
日本の力、それも清朝の復活の運動にのることだった。


大正四年六月、蒙古から二人の人物が日本にやって来た。 彼ら二人は
日露戦争の時、日本軍の特別任務班に参加したパプチャプ配下の者だった。

清朝の復活=復辟 (ふくへき) をねらって蜂起しようとしていたが、
辺境の地であるため武器や弾薬の補充もままならず、

一度北方のハルハ河畔に移って兵力の充実を図り、
かつての満蒙独立運動にならい日本の援助を求めようとしたのである。

彼らが来日して川島浪速の共鳴を受けるまでさほど時間はかからなかった。


一方、小磯国昭 (太平洋戦争中に首相歴任) 少佐が参謀本部第二部付となって満蒙旅行を
命じられたのは大正四年八月、パプチャプからの密使来日と同じころのことだった。

同地方には参謀本部から合計三つのグループが同じころ派遣されており、
参謀本部の満州への注目の度は再び高まっていた。

小磯が帰国したのは翌年三月下旬のことだった。
帰朝したら早速福田第二部長が小磯に面会した。

「君は今後、満州に在勤し参謀本部直轄の下に宗社党及び満州官民の動向を
仔細に観察し、日本陸軍として機に投じ当に採るべき方策を考察すると共に、

日本の在満権益に及ぼす影響を調査報告する任務に服して貰ひたい」
福田の命を受けて直ちに満州に向かった。

小磯は名を葛山 (くずやま) 彰と変名し、旅順の都督府陸軍部を訪れ、次いで
川島浪速や大連市長の石本蹻太郎と面談して満蒙独立連動に手を貸すことになった。》


*   「この地には漢人の入植者が多く、牧牛地を失って失職するモンゴル人が増えて」

   とありますが、これと似た話を、モンゴル自由連盟党の
   オルホノド・ダイチンさんが今現在の話として、しています。

   中国人によるモンゴルの牧草地侵略はまだ続いているようです。

   そして、ハルハアイマクの領地も勝手に中国の領地にされてしまった。
   パプチャプが怒るのは当然でしょう。


つづく
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