満蒙独立運動2 川島浪速
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/04/19 18:24 投稿番号: [414 / 2250]
時代は一気に、義和団事件まで遡ります。
波多野勝著 『満蒙独立運動』 PHP新書
74〜75p
《明治三十二年義和団の乱が勃発、この勢いを見て清朝が参戦して北清事変へと拡大、
日本陸軍は臨時派遣隊(福島安正少将)を送り込んだ。
旧知の福島は同郷の川島を通訳として伴った。
・・・・
連合軍は城への攻撃を主張したが、日本軍は平和解決を望み、
滞同していた川島が両軍の仲介に立った。
「紫禁城の開城については私にお任せください」
川島必死の勧告もあって翌日城内の兵は降伏して無事被害もなく解決した。
川島はさっそく宮内 (くない) 監督に命じられ城内整理に奔走した。
こうして紫禁城の治安と破壊は守られた。
連合軍の北京占領後、日本軍は、市内の一区画を警備に割りあてられた。
ここに軍政を施行するため軍事警務衙門 (がもん) を設置して、
柴五郎(柴四郎の弟)中佐が長官に就任、
まもなく川島は司令部付の通訳兼軍政署軍事警察衙門に入った。
川島は北京の治安改善のため警察制度の改革に着手、
これが警務学童の起源 (明治三十四年四月) となった。
しかし六月民政権が連合軍から清国側に移ったため、川島もこの指導が不可能になった。
内政改革の必要性を感じていた慶親王や、李鴻章が事態を危惧して、
川島を清国の警察改革に協力させるため借用願いたいと日本側に依頼した。
こうして川島は清朝側に厚い信頼を得ることになったのである。
・・・
粛親王と川島の出会いは、彼が義和団の乱後、西安から帰郷して、
北京を視察した際、川島を表敬訪問した時に始まる。
川島が破壊されつくした粛親王邸に同情を表明すると、彼は清朝にとって自業自得で、
かえって絶好の警鐘と述べたことで急速に二人は接近していった。
76p
粛親王の王妹が内蒙古の喀喇沁 (カラチン) 王の王妃だった・・・
明治三十五 (一九〇二) 年の春、大阪で開催される内国勧業博覧会に
喀喇沁を極秘に招くという動きがあった。
喀喇沁王の来日に際し、福島安正少将と王の間に日豪親善の一環として
女子のための教育機関をつくることで一致、
その一つとして河原操子 (かわはらそうこ) が
蒙古に行き王の子弟の教育にたずさわることになった。
77p
明治三十九年末北京に大雪が降ったある日のことだった。
粛親上が突然単身馬で川島宅を訪問した。
この時、粛親王は川島と暖炉を囲みながら日中両国の提携を力説、
このような親交を経て二人は義兄弟の契りを結んだ。
川島と清朝のパイプは以前にも増して太くなった。
その川島にとって辛亥革命は衝撃だった。
すでに統一清朝を再構築するのが不可能なことは理解していた。
そこで考え出したのが 「支那分割」 だったのである。
つづく
註
衙門:ガモン
役所の事
操子「みさこ」
とも言う
これは メッセージ 411 (kireigotowadame さん)への返信です.
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