第2次満蒙独立運動7 鄭家屯事件
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/09 16:23 投稿番号: [436 / 2250]
波多野勝著 『満蒙独立運動』 PHP新書
205〜206p
《パプチャプ軍が郭家屯 (かくかとん) を占領するのと前後して、
八月十三日午後七時ごろ近くの鄭家屯 (ていかとん) で一人の日本人が
中国側の巡警に殴打、連れ去られるという事件が発生した。
聞きつけた日本領事館の巡査が中国側の巡警局に行ったところ、押し返されてしまった。
そこで日本側の守備隊二十名が巡査の案内で向かったところ、中国側がこれに
射撃、日本軍も応戦、結局日本兵十一名が戦死するという事件が発生した。
・・・
鄭家屯には中西正樹、佃信夫、伊東知也といった黒龍会メンバーがすでに
かけつけていた。彼らの憤慨ぶりも大きかった。
この怒りの電報が加藤友三郎海相のところにも到着している。
彼らは日本軍の兵士が殺害されたことに 「我対支方針の機宜を失し」(八月十五日) た
と怒り、さらに日本側が蒙古軍を支援する宗社党を解散し、
さらに蒙古軍まで制圧しようというのはたいへんな事で、
「猛省一番断乎たる処置」 に出るべきではないかと進言した。
なぜ日本はパプチャプ軍を 「見殺しにすへきや」 (十七日) と問うほどだった。》
207
《一方、郭家店近くでは混乱が発生した。
張軍の近くに日本陸軍の守備隊の兵舎があり、一個中隊が駐屯していた。
両軍の戦闘で流れ弾が兵舎に飛び込んで来たため、稲生田 (いのうだ) 守備隊長が
部下を率いてパプチャプ軍陣地の撤退を要請、これを約束させた後に張軍陣地に向かった。
ところが張軍側は、その軍使に乱射してしまい、
これをみて稲生田は公主嶺の日本守備隊に支援を依頼した。
直ちに日本軍は増強され、その間に張作霖軍事顧問の菊地武夫大佐が来着、
休戦協定を結ばせた。
パプチャプ軍の存在は日本軍と奉天派との無用な摩擦を生み出していたのである。
かくしてパプチャプ軍は二週間以内に蒙古に帰還すること、
満鉄に危害を与えないため楊大城子から鄭家屯に連なる線の以東で同軍や張軍が
戦闘しないこと、またこれらの実行を確認するため日本軍が監視するというものが決定した。》
* 日本はパプチャプ軍に退かせる条件として、武器・弾薬を与えました。
207〜208p
《八月十一日上泉一行は東京を出発、十四日奉天に入り矢田総領事と相談、
十五日に大連に到着した。十六日旅順に赴いた四人は西川虎次郎参謀長と協議した。
上泉の十六日の「メモ」を紹介する。
「午前七時五十分大連発旅順に行き西川と相談、解決。
西川の案内にて末広にて昼食」「解決」 とは何か。
それは兵器等をパプチャプ軍に与え、「我勢力圏外に退避せしむること」 だった。
その兵器等は関東都督府が保管していた兵器の一部だった。これは歩兵銃 (一万二千挺)
同弾薬 (二十四万発)、野砲四門、同榴弾 (百八十発)、同榴霰弾 (三百八十発)、
手榴弾 (百発) というものだった。》
* 「張軍の近くに日本陸軍の守備隊の兵舎があり、・・・流れ弾が」
これは中国軍の良く使う手です。第三者の近くに布陣して、
相手に攻撃させにくくするものです。
もちろん自分からの射撃はおかまいなしですが。
第二次上海事変の時も、中国軍は租界の英国建物のそばに布陣していました。
つづく
205〜206p
《パプチャプ軍が郭家屯 (かくかとん) を占領するのと前後して、
八月十三日午後七時ごろ近くの鄭家屯 (ていかとん) で一人の日本人が
中国側の巡警に殴打、連れ去られるという事件が発生した。
聞きつけた日本領事館の巡査が中国側の巡警局に行ったところ、押し返されてしまった。
そこで日本側の守備隊二十名が巡査の案内で向かったところ、中国側がこれに
射撃、日本軍も応戦、結局日本兵十一名が戦死するという事件が発生した。
・・・
鄭家屯には中西正樹、佃信夫、伊東知也といった黒龍会メンバーがすでに
かけつけていた。彼らの憤慨ぶりも大きかった。
この怒りの電報が加藤友三郎海相のところにも到着している。
彼らは日本軍の兵士が殺害されたことに 「我対支方針の機宜を失し」(八月十五日) た
と怒り、さらに日本側が蒙古軍を支援する宗社党を解散し、
さらに蒙古軍まで制圧しようというのはたいへんな事で、
「猛省一番断乎たる処置」 に出るべきではないかと進言した。
なぜ日本はパプチャプ軍を 「見殺しにすへきや」 (十七日) と問うほどだった。》
207
《一方、郭家店近くでは混乱が発生した。
張軍の近くに日本陸軍の守備隊の兵舎があり、一個中隊が駐屯していた。
両軍の戦闘で流れ弾が兵舎に飛び込んで来たため、稲生田 (いのうだ) 守備隊長が
部下を率いてパプチャプ軍陣地の撤退を要請、これを約束させた後に張軍陣地に向かった。
ところが張軍側は、その軍使に乱射してしまい、
これをみて稲生田は公主嶺の日本守備隊に支援を依頼した。
直ちに日本軍は増強され、その間に張作霖軍事顧問の菊地武夫大佐が来着、
休戦協定を結ばせた。
パプチャプ軍の存在は日本軍と奉天派との無用な摩擦を生み出していたのである。
かくしてパプチャプ軍は二週間以内に蒙古に帰還すること、
満鉄に危害を与えないため楊大城子から鄭家屯に連なる線の以東で同軍や張軍が
戦闘しないこと、またこれらの実行を確認するため日本軍が監視するというものが決定した。》
* 日本はパプチャプ軍に退かせる条件として、武器・弾薬を与えました。
207〜208p
《八月十一日上泉一行は東京を出発、十四日奉天に入り矢田総領事と相談、
十五日に大連に到着した。十六日旅順に赴いた四人は西川虎次郎参謀長と協議した。
上泉の十六日の「メモ」を紹介する。
「午前七時五十分大連発旅順に行き西川と相談、解決。
西川の案内にて末広にて昼食」「解決」 とは何か。
それは兵器等をパプチャプ軍に与え、「我勢力圏外に退避せしむること」 だった。
その兵器等は関東都督府が保管していた兵器の一部だった。これは歩兵銃 (一万二千挺)
同弾薬 (二十四万発)、野砲四門、同榴弾 (百八十発)、同榴霰弾 (三百八十発)、
手榴弾 (百発) というものだった。》
* 「張軍の近くに日本陸軍の守備隊の兵舎があり、・・・流れ弾が」
これは中国軍の良く使う手です。第三者の近くに布陣して、
相手に攻撃させにくくするものです。
もちろん自分からの射撃はおかまいなしですが。
第二次上海事変の時も、中国軍は租界の英国建物のそばに布陣していました。
つづく
これは メッセージ 435 (kireigotowadame さん)への返信です.