入って中国人に南京事件真相議論しましょう

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | [ メッセージ # オフセット ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

1937年 体験談3 七百名の敵を捕らえる2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/26 18:40 投稿番号: [1731 / 2250]
黄浦江付近まで−歩兵第四十七連隊   (大分)   第三大隊第十二中隊座談会より
A軍曹


松江を朝の七時頃出発しました。

横光分隊が路上斥候となり、部隊の一五〇メートル前方を前進、

その後に車両部隊が続行、その車両の間に二個分隊を適当の間隔に配置して、

一個分隊が後方警戒に当たりました。



道の曲がり角のところで、向こうから十名ばかり白旗をかかげてくるのに出逢いました。

斥候よりの報告がないので、小隊長殿が駆けつけて見られますと、

どうやら降伏してきたらしいのです。

都合のいいことには小隊の坂部上等兵が少し支那語が話せるので、

訊ねさせてみますと、向こうの部落に同僚が七百名ばかりいて、

みんな降伏したいと言っているとのことです。



七百名 − 一寸   (ちょっと)   想像のつかない話です。

それに自分達は一個小隊   (約七十名)、車両部隊なんて戦闘力は無いも同じです。

敵に抗戦の意志があるとすれば、これは大変なことです。

それでこちらは慎重にかまえ、二個分隊で武装解除に当たり、

他は全部戦闘隊形をとらせられました。



二十三連隊の大隊砲も通り合わせましたので、これにも陣地進入をしてもらい、

降伏兵がくるのを待ちました。

そうして待っている間に、崑山から帰りの軍参謀や軍属の方もこられて、

やがて、向こうから長蛇の列をなして、こちらにくる支那軍を迎えました。



皆逞   (たくま)   しい顔つきをしている、

無表情な彼らの神経に隠されているのが何だろうかと一寸たじろぎもしましたが、

虎穴に入らずんば虎児を得ず、と武装解除をさせ、軍属にたのみ前進しました。

そのときびっくりしたのは彼らの持っていた書類の中に、

出征当時の六師団の中隊長以上の名が全部載っていたことです。



∪曹長

あれは実際特ダネだった。

くるもきたり七百名の降伏兵を見たとき、私はもう、戦争はじき済むと思いました。

奴らも今頃は皇軍の協力者として、新支那へ力強い生命を吹き込んでいることでしょう。》



*   この人達は、捕まえた捕虜が

   「今頃は皇軍の協力者として、新支那へ力強い生命を吹き込んでいることでしょう。」

   と言っています。

   後世の人の言う大虐殺など、この人たちにとっては想像もつかない話でしょう。

1938年8月28日 松本氏神尾氏と情報交換

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/25 19:00 投稿番号: [1730 / 2250]
松本重治著   『上海時代・下』   中公新書
305〜306p


《 二十八日は日曜。また松代君に電話をかけ、

雨が上ったら神尾氏とゴルフでもやり、

神尾氏と久しぶりに晩餐をいっしょにしたいと申し入れた。



神尾氏はOK、 「正金」   支店長の有吉さんが、余分のゴルフ・セットをもってくるから、

九竜のコースで午後一時からゴルフができる由、十時ごろ晴天となったので、

午後、神尾・有吉組と松本・松代組と一ラウンドをやった。

勝敗は憶えていなかったが、神尾氏の日記によると、

私らのほうが勝った由   (同上、七二ページ参照)。



晩めしは、神尾氏と二人だけでゆっくり話し合った。

神尾氏は、宇垣 − 孔祥熙、張群を背景とする

張季鸞 − 緒方を背景とする

神尾の二つのチャンネルが出来つつあると確認してくれた。



そして、緒方氏は近衛・宇垣両氏と連絡を保っていることも私には判った。

それだけ打ち明けてくれたので、私も、高宗武の東京行きのこと、

高君が多田・杉山・岩永三氏らに会ったことを、あらかた話をした。



神尾氏から、

張季鸞が、日本が相手とすべきは、絶対に蒋介石であると主張していること、

神尾氏と喬輔三との接触は喬君の家庭ぐるみの交際なので、

旅に出ている自分(神尾)は温かい歓待を嬉しく思っていることなどを聞いた。



私は、喬輔三はよい人物だが、大任を果せる力量は疑わしく、

おそらく、孔のメッセンジャーだけだろうということ、

中村総領事はまじめな能吏ではあるが、外交官の通弊で、

中国との接触を独占的に考える傾向があるだろうこと、

喬輔三相手なら、機略のある外交交渉はおぼつかないのではないか、

ということなどを、神尾さんに率直に話した。



神尾さんは、「松本君のいうことは、いろいろ思い当ることがある」   といっていた。

話し合った結果、お互いに秘密を守りながらできるだけ協力しようと約束し合った

(神尾氏同上、七二−七三ページ参照)。

神尾氏との会談には、二人で、緒方・岩永の両先輩の

日中関係への関心のあることなども出て、非常に愉(たの) しかった。》

1937年 体験談3 七百名の敵を捕らえる1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/25 18:51 投稿番号: [1729 / 2250]
東中野修道   編著   『1937南京攻略戦の真実』   小学館文庫
162〜164p


七百名の敵を捕らえる − 歩兵第四十七連隊(大分)   七本部   H軍曹


《 杭州湾に上陸して連隊本部付きで、一線中隊は各二百発ずつ弾薬を携行し、

自分は後の弾薬を海月庵に集め、大隊小行李   (しょうこうり)   を纏   (まと)   めて

一線へと十日出発しました。



十三日に松江   (しょうこう)   に到着して、それから二里半ばかりのところで

一本道路でしたが、前方に支那人が沢山いました。

このとき自分たちの兵力は、十二中隊が分散兵を集合せしめて約一ケ小隊、

小銃が四十挺   (ちょう)   ぐらいでしたが、クリークの岸に戦闘準備をしました。



すると、敵の将校らしいのが、前方二町ぐらいの所で止まりました。

それでこちらも前進しましたが、敵には全然戦闘意志はなく、

チェッコ九、小銃百三十、モーゼル三を持った敵が、

道路の両側にズラリと集まりました。



七百名ぐらいおりましたが、早速まず武装解除をさせました。

小銃には全部装填 (そうてん) してありました。

〝これだけの人員が、それに比較して殆ど戦闘力のない我々に向かってくれば、

ひとたまりもなかったのに〟 と後でホーッとしたことでありました。

これらの兵器は輜重   (しちょう)   兵に持たせました。



注   :   チェッコとはチェコスロバキア製の機関銃の事。


つづく

1938年8月27日 松本氏香港で高宗武と会う

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/24 15:33 投稿番号: [1728 / 2250]
松本重治著   『上海時代・下』   中公新書
304〜305p


《 私は八月二十五日に上海を白山丸で発ち、二十七日朝、香港に到着した。

香港ホテルに投宿してから、高君を訪ねた。

彼は、だいぶんよくなったが、寝たり起きたりの容態であった。

朝粥をいっしょに食べながら、少し話し出すと、高君が



「シゲちゃん、僕の健康は今のところ東西に奔走するわけにはゆかぬ。

『仏』   との相談で、梅思平という人物を身替りにするから、

和平運動の諸案件を、彼ととくと相談してくれないか」   と、

突然の話で、私は少なからず当惑した。



「どこの馬の骨だか判らぬ男と、僕には話はできんね」   というと、

高君が、 「梅君は、『仏』   といっしょにもう半年以上も、和平問題を考えてきた人だ。

『仏』   が折紙つきの推薦をするのだから、君も我慢して、交渉をやってくれ」   と、

しきりに頼む。 「では、梅君とやらと話合いを続けるが、

まとまったところを、君に報告することにしよう。

明二十八日は日曜だから、二十九日からやろうと梅君に伝えてくれ」   と、

しぶしぶながら私も承諾した。



高君の宅を辞してから、神尾茂氏宛の緒方竹虎氏の親展書簡を頼まれているので、

神尾氏を訪ね、緒方書簡を手渡した   (神尾茂   『香港日記』   六八〜六九ページ参照)。



夜は、松代支局長と支局員一同と、中華料理を食べつつ懇談した。

その際、松代君から、神尾氏と張季鸞が会っていること、

宇垣外相が孔祥熙を対手に直接交渉を計画しているが、香港での窓口は、

日本側は中村総領事、中国側は孔の秘書喬輔三であることを知った。

ほかに矢田七太郎氏が香港にいることも判った。》



注    『仏』   とは周仏海の事

1937年 体験談2 唐子浜で捕らえた姑娘2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/24 15:24 投稿番号: [1727 / 2250]
東中野修道   編著   『1937南京攻略戦の真実』   小学館文庫
191〜192p


《 いろいろ調べられるけれども臭いところは無いらしい。

ちょうど中隊に通訳がいなくて、何かと不自由していたこととて、

通訳代わりに使うことにしましたが、

炊事をさせると日本人の味の好みを心得て、乙なところを見せる。

所帯馴れしているから、兵隊にほどよく愛矯をふりまく。

姉さん、おっかさん、婆さん、好みの愛称をつけて、皆で大切にしたものです。



ときには宵待草や荒城の月を聞かせてくれました。

毎日の行軍も宿営も楽しみでした。

和気藹々   (わきあいあい)   として夕方の団欒   (だんらん)   の

紅一点、和やかなものです。



しかし相手は柳腰   (りゅうよう)   の支那女性、南京へ南京への猛迫撃に、

我々に伍   (ご)   して行ける筈がない。

中隊長殿が見かねて上海の方へ帰されたが、

その日の行軍のけだるいこと、道の遠いこと、足の重いこと、

皆、考えこんでしまっていました。



昨日までは中隊の先頭に婀娜   (なまめかしい)   しい奴が、

颯爽   (さっそう)   と秋風に吹かれながら、中支の荒野を馳けっていた。

「おいきついなあ」 「うん」   返事も上っすべり。誰かが思い出し風に、


「変なこと言いっこなしよ、皆兄弟じゃないか」


と彼女の口真似をすれば、とたんに爆笑が湧くが、

またもとのむっちりした重苦しい空気に帰る。

それに耐えかねた兵が   「宵待草のやるせなさ」、彼女の得意な歌だ。



翌日からはまたもとの何もなかったようになって、

一路南京へと、ほとんど小走りで行きました。

陣中の紅一点、あの日のあのときのことどもが未だに思い出に残っています。》


つづく

1938年8月 松本重治氏、高宗武を見舞う

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/23 15:26 投稿番号: [1726 / 2250]
松本重治著   『上海時代・下』   中公新書
304p


《 八月十日ごろであったか、突然、高君から電話があった。

「楊樹浦の病院から電話しているのだが、一度会いたい」   との話で、

すぐ飛んで行って、高君を見舞った。



様子を聞くと、上海に帰ってから喀血したらしい。

もう二週間も絶対安静をしてきたが、まだ数日は安静にしていなければならないという。

いっしょに病院食を食べながら、高君をできるだけ元気づけるように努めた。

二、三日経って、また病院に行くと、だいぶんよくなったので、

一両日中に香港へ船で行くという話だ。



話をしているうちに、

六月、香港で、彼が蒋・汪両者の間に、如何に行動すべきかについて

苦心しているといったが、いまだに同じ問題に煩悶しているのだと判断できた。

それに関連して、日本への信頼の問題もあったようだ。

別れる前に、高君から、私に八月下旬にぜひ香港に来てくれとの頼みがあった。》



塚本誠著   『ある情報将校の記録』   中公文庫
266p

《 高宗武の離日後この動きが進展をみせないので、

高宗武の計画は蹉跌したのではないか、と影佐さんは心を痛めていた。

しかし、後になってわかったのだが

高は香港に帰ってから病気で動けなかったのである。》



*   塚本氏は   「高は香港に帰ってから病気で動けなかった」   と

   言っているが、これは彼の勘違いで、

   「高は上海に帰ってから病気で動けなかった」   と言うのが正しい。

   楊樹浦は上海でしかも日本の管轄区域だから。

1937年 体験談2 唐子浜で捕らえた姑娘1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/23 15:15 投稿番号: [1725 / 2250]
東中野修道   編著   『1937南京攻略戦の真実』   小学館文庫
190〜191p


唐子浜で捕らえた姑娘   (クーニャン) −

歩兵第十三連隊   (熊本)   第十一中隊   歩兵曹長   K・S


《 日軍百万上陸のアドバルンが、内地のような感じのする空に揚げられて、

まず敵胆を寒からしめて二日目、

雨にたたかれ、ぐいぐいと肩に食いこむ装具に喘   (あえ)   ぎ、

泥濘   (ぬかるみ)   に膝   (ひざ)   を没し、倒れたりして、

泥人形よろしく金山衛を通り、唐子浜で露営することになりました。



私は半張りの破れかかった軍靴をどたばた言わせつつ、道路の警戒を命ぜられ、

部落の端に行き、何か言いたそうな兵隊の顔を無視して、

わざと命令的に警戒区署を定めていた。

実は私も泣きたいくらいでした。そのときのことです。

特に監視すべき方向はこの方向と道路上を指すと、



指したところに忽然   (こつぜん)   と姑娘が現れて、

窈窕   (ようちょう)   たる姿態が楚々   (そそ)   として、

この方にくるじゃありませんか。

誰だって面喰   (めんくら)   います。



付近は敗残兵も正規軍も、うようよしている。

そこを敵の方からくるんです。〝こやつ、てっきり〇〇〇だ〟

素早く区署を済まし、泥人形は遮蔽   (しゃへい)   には持ってこいと伏せておりました。

身近にきて、兼ねて手筈の通り、私が一人立ち上がって、

通せんぼをして誰何   (すいか)   しますと、



一寸たじろいだ風でしたが、

「日本の兵隊さんね」、流暢な日本語なんです。

また面喰った。兵隊もぞろぞろ集まってくる。

改めて面   (おもて)   を見ると、歳の頃二十七、八、戦禍に災いされたのか、

心持ち擦   (す)   れてはいるが、

明眸皓歯   (めいぼうこうし)   の部類に編入される代物なのです。



聞いて見ると、上海から逃げてきたけれど、皆殺されたり、はぐれたりして、

これは支那軍の方にいると危ないと思い、やってきたという。

「日本語はどこで覚えた」   と聞くと、

「長崎に四年、活水女学校を卒業して、上海の日本人書店に雇われていた」

と言います。

何はともあれ、まずこれへと、久し振りに柔らかい日本語を聞いた感傷も手伝って、

中隊長殿のところに連れて行きました。》


つづく

1938年 張鼓峯事件と 辻正信

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/22 18:56 投稿番号: [1724 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
60〜62p


《 昭和十三年の夏、傍受電は満鮮ソの国境に近い張鼓峰   (ちょうこほう)

付近において、ソ連軍の積極的企図を察知させる兆候を伝えた。


この地域は朝鮮軍司令官の防衛任務に含まれている。

他人の疝気   (せんき)   を頭痛に病むのではないが、

地続きの関東軍には放っておけない関係があった。

大越参謀と共に現地を確認する任務を受けて現場に急行した。

朝鮮軍守備隊がよい顔をしないのも当然である。



危険を冒しながら張鼓峰の斜面を登ると、霧で蔽われた山上には

ソ連兵のふるうシャベルの金属音が近くに聞こえる。

彼我の国境は高地の頂上を通過しているが、最高同点を占領し、

満領内の斜面にも溢れ出ていることは疑う余地がない。



しかし、防衛任務を持たない関東軍としては、それ以上の行動は許されない。

見たままの状況を中央部と朝鮮軍に知らせて成り行きを見守っていた。

これほど明瞭な侵犯を、そのまま頬被りすることは、東京もできなかったのだろう。

間もなく、敵を撃攘   (げきじょう)   して国境線を確保する命令が朝鮮軍に下った。



北朝鮮駐屯の第十九師団が応急動員で戦場に駆けつけ、押   (お)   ッ取り刀で

戦線に逐次加入したものの、準備を整え制高の利に拠って待つ

ソ連軍を駆逐するのは容易な業   (わざ)   ではなかった。

約二週間にわたる苦戦で双方共に相当の死傷を生じたが、

戦車と空軍と重砲を惜しみなく注入する敵の強襲で、戦いはいつ果てるとも見えなかった。



この上は関東軍の主力を以て、南下するソ連軍の側面を脅威し、

牽制するほかに良策はない。

植田将軍は東部正面の全軍に応急派兵を下令し、

主力を東寧、綏芬河正面に推進し、いつでも変に応じ得る態勢を整えた。

師団長も兵も天幕内に待機して、進撃命令を待ちながら戦闘訓練に熱中した。



北朝鮮の鉄道要点をソ連機に爆撃せられながらも、我が飛行隊の行動は、

厳しく制限されて戦わねばならぬ。朝鮮軍の苦悩は、察するに余りある。

脚を縛られて喧嘩するような戦いに勝味のあるはずはない。



拡大を望まないのは双方の意志であり、モスクワの交渉開始から停戦命令が

両軍に伝えられ、不首尾の結果を以て局を結んだ。

千数百の死傷者を出した戦場の跡には、依然としてソ連軍が

不法越境の既成事実を確保している。確かに我が負けである。



善後処置として、琿春一帯の防衛任務を関東軍司令官に一任せられ、

朝鮮軍は朝鮮内のみの防衛に切り換えられたのはその翌春であった。



*   辻正信は   「間もなく、敵を撃攘   (げきじょう)   して国境線を確保する

   命令が朝鮮軍に下った。」   と言っているが、彼は真実を知らなかった。
  


   天皇がダメだと言っているのに、勝手に攻撃したのだ。

   起こった事は仕方ないから、承認されたが、積極的攻撃は、

   どんなに悲惨な結果になっても、許可されなかった。

1937年 体験談1 危うし支那の第五列

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/22 18:45 投稿番号: [1723 / 2250]
ここからは東中野修道   編著   『1937南京攻略戦の真実』   小学館文庫

によっています。

この本は、もともとは靖国神社の偕行文庫にある、昭和15年11月編纂の

『第六師団   転戦実話   南京編』   上下二巻の藁半紙刷り本を

東中野氏が文庫本として出されたものです。

そういうわけで、原本は靖国神社にあるそうです。



ここでは、名前がイニシャルになっていますが、その理由は、

執筆者から掲載の許可を得るため、本人または関係者の連絡先確認に努力したけど、

65年前のことで、戦友会も解散していて、多くの人に連絡できず、

仕方なくイニシャル表記にしたという話です。

この本は戦時中に書かれているため、戦後の思想転向の影響は受けていません。



76〜77p

《危うし支那の第五列   −   歩兵第四十七連隊   (大分)   第二大隊第六中隊   S伍長


上陸してから尖兵   (せんぺい)   小隊として追及に移りました。

金山の街に入りかけたときです。

犬一匹おらんと想像した街から、年の頃二十五六の姑娘   (クーニャン)   が出てきます。

そして私たちを見ても別に逃げようともしないのです。



小隊長殿が呼びにやられて、 「敵はいないか」   と訊   (たず)   ねられると、

「二日前に日本軍が通ったから、誰もおらん」   と答えます。

私たちが   「五師団だろうか」   などと話しながら行こうとしますと、

小隊長殿が、 「待て、警戒を怠るな」   と注意し、

「尖兵擲弾筒   (てきだんとう)   を加え、軽機は木の根で援護」

と命じて行かれました。



そこはちょうど街の入口で、二〇メートルほど左に畠があり、

竹薮   (たけやぶ)   があって、そこに一軒家がありました。

尖兵が街に入り終えた頃、突然その一軒家から猛射してきました。

案の定とすぐ配備につき、擲弾筒を射ちますと、二三べんで動揺しはじめ退却しました

が、すんでのところで中国第五列の餌食になるところでした。》



注:   上陸とは   杭州湾上陸の事

    金山とは   金山衛という街のこと



つづく

1938年 張鼓峯 ソ軍の反撃とその対応

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/21 19:02 投稿番号: [1722 / 2250]
井本熊雄著   『支那事変作戦日誌』
265〜266p


《 第十九師団長の独断攻撃以後の中央部の空気は下記の如くであった。

既に触れた如く中央部においては、ソ連兵が張鼓峯に進出した七月十一日以来、

これに一撃を与えて痛い目を見せ、再び国境侵犯を起さないように引きこませたい

というのがいつわらぬ全般的な希望であった。

しかもせいぜい一ケ中隊程度の小兵力で、その希望は実現できると安易に思いこんでいた。



故に第十九師団長の独断を知り、一応ソ連兵を駆逐した時は、

実際のところよくやったと思ったのが一般の空気であった。



しかしその直後、ソ連の優勢な砲兵と戦車の支援を伴う攻撃が起り、

ソ連空軍の出現により一方的に我方がたたかれ、

豆満江右岸朝鮮の土地に爆撃を受けた際は、大きな衝撃を受けた。

それは全く予期していないことであり、未だかつて例のないことであったが故である。



これに対し我方は、飛行隊、砲兵、戦車の優勢を発揮して

反撃しようという策案は出なかった。   その主たる原因は、紛争を拡大して、

万一対ソ戦争にまで発展したら大へんであることを内心強く感じるに至ったためである。



さらにわが方には、

対ソ優勢を発揮するだけの航空、戦車を集める手持ちがなかったのである。

関東軍の戦力をこの局地に注ぎこめばある程度の力は出せるが、

満洲の周辺に存在するソ軍の航空と機甲の戦力は、わが方の十倍に近い。

地上兵力も三倍位保有している。

関東軍の主体戦力を軽々しく動かすことはできない。

その他朝鮮には、僅少の戦闘隊を主とする一ケ飛行団があるのみ、

支那の戦場にある航空部隊は大部をあげて中支に展開し、漢口作戦に着手している。



そのような内幕でも、まだ八月六日頃までは、第十九師団の健闘で何とかなると思っていた。

ところが八月六日の狙撃二ケ師団基幹の兵力を以てするソ軍の真面目な攻撃以後、

前記の如き戦況下で、わが損害が大きく累加するに及び、

陸軍省にも参謀本部にも漸く憂色が濃くなった。



モスクワでは、外交交渉が七月十五日以来続けられているが、捗々しくない。

陸軍省内では、撤退論が持上って来た。

八月九日になると、わが方は停戦条件として、現在線から

一方的に一キロ後退するという大譲歩案を提出することに参謀本部も同意した。



八月十日、参謀本部第三課   (編制、動員)   長寺田雅雄大佐が、

第一線の戦況視察から帰京して、 「即時撤退論」   を強調した。

この意見は相当強く作用した。

陸軍省は、全面的に寺田意見に同意の模様である。

参謀本部も部長会議等により、首脳部は大体右の意見に傾いた。

夕刻、稲田課長以下在室の作戦課員全部が集って、会議が開かれた。



大部の部員は、挙って今直ちに撤退すべきでないことを強硬に主張した。

現在のるかそるかの分岐点のような土壇場で、

一ふん張りすることなく諦めて後退することは、

第一線の士気を崩壊させ、日本陸軍の伝統に拭い難い汚点を残す。



それに反しソ連軍に対しては、絶対的な戦勝感と優越感を与え、

この事件類似の紛争は頻発するかも知れない。

一方、モスクワでは今夜にでも停戦協定が成立しないと誰が断言し得るか。

皆な退却を主張する時こそ、もう一ふん張りする時である、

という言わば原則論であった。



結局稲田課長の裁決は、もう一晩考えようということになった。

図らずもわれわれが右の論議をしている頃、

モスクワでは重光大使とリトヴィノフ外相との間に停戦協定が成立し、

明十一日それを実現することになったのであった。

しかも、わが方が現在地より一キロ後退するという提案を、

ソ側からの提案で、それには及ばぬ、双方現在地点にて停戦しよう、

ということになった。》

1937年 焼却・皆殺し命令は本当か?

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/21 18:51 投稿番号: [1721 / 2250]
秦郁彦著   『南京事件』   71pに、宮下手記として


《「わが柳川兵団は上陸後、(1)   民家を発見したら全部焼却すること、

(2) 老若男女を問わず人間を見たら射殺せよ」との命令を受けた》


というのがあります。また


《 第6師団歩45連隊長だった竹下義晴氏が、火の始末を注意した所、

部下の大隊長から   「中支を全部焼き払えと軍司令官が言っているのを

新連隊長は知らないのですか」   と反問された》



という話も載っています。

さて、では、こんな命令は本当にあったのでしょうか?

少なくとも、参謀本部は出ていないようです。

杭州湾上陸作戦の出陣の前に、逆の命令を出していますから。

  「1660   第十軍への命令と注意」   参照

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552022058&tid=ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfb faj5doc0a47a4dea47a4ga4a6&sid=552022058&mid=1660



また、児島襄著   『日中戦争4』   162pには


《 司令官柳川中将は、独断進撃を発起するにあたって、とくに、この日、

次のような訓示を下達した。


「……窃   (ひそか)   ニ聞ク所ニ拠レバ、 最モ忌ムベキ婦女暴行、

金品強奪ノ犯行二、三ニ止マラズト謂   (い)   フ。

斯   (かく) テハ集団ノ戦績ヲ汚辱シ、 皇軍ノ威武ヲ涜   (けが)   スモノニシテ、

寔   (まこと)   ニ痛嘆ニ堪ヘズ。

隷下将兵克   (よ)   ク自省自戒シ、 軍紀厳正益々士気ヲ振起シ、

各々其ノ任務ニ邁進スベシ」》



とあり、皇軍の名誉を汚すなと訓示しています。尚、児島氏は、この続きに


《 実際には、その種の非行例は数件にとどまっていたが、

実直な性格の柳川中将としては、一例もみすごす気にはなれず、

全軍に戒言したのである。》


と補足しています。

略奪、婦女暴行すら戒めている人が、「皆殺し・焼却命令」を出すでしょうか?



当時の第6師団に従軍していた、毎日新聞の五島広作記者の証言を見てみましょう。


阿羅健一著   『「南京事件」   日本人48人の証言』   小学館文庫   60〜61p


《 五島氏は当時、大阪毎日新聞   (現在の毎日新聞)   の記者として熊本支局に

勤めており、第六師団の北支派遣とともに第六師団に従軍することになった。

だから第六師団の従軍記者であり、南京攻略戦だけでなく、

北支の保定・正定戦、さらに杭州湾上陸作戦にも従軍している。



―   五島さんは第六師団のどの辺で従軍取材していましたか。

   「いつも師団司令部にいました。北支に行く時から一緒だったので、

   谷師団長にかわいがられまして、作戦会議もみておけ、と

   谷中将の命令で藤原武参謀が呼びにくることもありました」


―   崑山前後、軍の方から、中国人は女・子供にかかわらずすべて殺すべし、

   という命令があったといいますが……。

   「そんなことはありません。私は師団の司令部にいて、

   師団長と行動を共にすることが多かったのですが、聞いたことはありません。

   東京裁判があってからの作り話ではないでしょうか」


―   第六師団は北支で感状をもらってないから、

   中支で残虐行為をやったと言う人もいますが……。

   「はじめて聞いた話です。第六師団でそんなことはありませんでした。

   先ほどの話同様、谷中将が処刑されてからの作り話でしょう。

   戦後、中国の言い分に合わせた話がよく作られています」》



と言っています。

  どうも、第六師団長もそのような命令は出していないようです。



次は、杭州湾上陸時の兵隊たちの体験談です。

1938年8月  張鼓峯事件 ソ連軍の反撃

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/20 18:54 投稿番号: [1720 / 2250]
井本熊雄著   『支那事変作戦日誌』   263〜265p


《 八月一日よりソ軍は優勢な航空部隊を以て、

わが第一線および豆満江右岸の北鮮の交通破壊等を始めた。

これに対し、わが方も飛行隊を使用して対応せんとする第一線の希望に対し、

中央部は不拡大方針を堅持して最後まで許可しなかった。

そのため航空と戦車に関する限りわが第一線はたたかれっ放しで

隠忍することを強要させられた。



八月二日からソ軍は航空および戦車攻撃を加え、相当真面目な攻撃を開始した。

ために多数の死傷を生ずるに至った。

師団は戦況を打解するため、水流峯南麓方面からソ軍の右側背を衝く如く

越境攻撃することを考え、朝鮮軍を通じて中央部に意見其申したが、

中央部は事態の拡大を慮ってこれを許さなかった(八月三日)。

戦車の使用も、わが中央部は最後まで容認しなかった。



八月六日ソ軍は狙撃二ケ師団、優勢な砲兵、戦車百台強、爆撃機約八十、

戦闘機約二十の兵力を以てわが張鼓峯、沙草峯の部隊に攻撃し来り、

爾後至近距離に止って攻撃を反復した。

わが方は戦車、航空部隊を欠き、ソ軍に比しその他の兵力もはるかに劣勢である上に、

反撃のため越境や他方面に戦力を指向することを禁じられているので、

現在地点で専守防禦を行い、損害の多発を忍ぶ以外に方法がなくなった。



六日以後の死傷は、毎日約二百名に上り、八日までの死傷累計約六百、

十日には一千を越えるに至った。

「楠公湊川の精神により、困難なる戦況に対処せん」   とする

師団長の報告電報を読んだのは、八日か九日であったと記憶する。



第十九師団の独断攻撃後、逐次困難を加えた第一線の状況に対し、

現地からの要望乃至独自の考えで中央部の処置した対策を列挙すれば、

次のようなことであった。



平時態勢の第十九師団の各部隊を対敵戦闘に使用することは、

大陸命によらなければならないので、逐次にその手続をして、

第十九師団全部が戦闘に参加し得るようにした後、同師団の動員を下令した。



その外関東軍から長射程の列車砲など四〜五中隊、工兵、高射砲隊若干、

病院列車を派遣し、南満にいた第百四師団を琿春、延吉間の地区に推進し、

また東満の若干部隊を東部国境方向へ移動させて、間接に対ソ圧力を強化した。



北支方面軍から野戦重砲兵、独立機関銃隊、高射砲隊等若干を転用した。

第二十師団   (南鮮)   から歩兵一大隊を第十九師団に補充した外、

内地から幹部以下千五百名の補充を準備した。



以上は八月六日から十二日にわたる処置であったが、

その殆ど全部が戦場に到着する前に停戦交渉が成立したので、

実際は戦闘には加入しなかった。》


つづく

1937年 黄浦江水路啓開作戦

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/20 18:46 投稿番号: [1719 / 2250]
8月12日に中国は、南市と仏租界との境界線前面江上に汽船、大型ジャンク等を

沈没させ、又は係留し、航路を閉塞していました。

そこで、海軍はこれを取り除く作業にかかります。

まず、閉塞線上に置かれている中国船   「中和」   の捕獲にとりかかりました。

ところが、近付くと、江岸から機銃攻撃を受けます。



戦史叢書   『中国方面海軍作戦〈1〉』   448〜449p


《(11月)   10日   20:00、 「小鷹」   は   「出雲、安宅、栗、栂、朝日」   派遣の

捕獲隊員   (川添亮一中尉以下30名)   を乗せて出港、

20:20、 「二見」   支援の下に閉塞線に進出、 「中和」   に横付けし、これを捕獲した。

「中和」   には敵兵はおらず、船内調査の結果異常はなかった。



「小鷹」   は21:07 以降敵機銃の集中射撃を受け、人員、船体にかなりの損害を生じた。

22:55、「小鷹」   は捕獲隊を残したまま   「中和」   の横付けを離した。

捕獲隊員は   「小鷹」   出港後も終夜、間欠的に射撃を受けた。

11日朝   「小鷹」   は被害修理のため下江した。



同日、安田支隊の山砲四門は江岸に進出、南市敵陣を砲撃し、

「二見、保津、比良」   はこれに協力した。

11:45、 第一港務部長   (朝日艦長宮里秀徳大佐兼務)の指揮する

沈船処分特別作業隊乗艇の朝日水雷艇は   「中和」   に至り、

捕獲隊に弾薬、糧食を補給したが、被弾し進退の自由を失い、

12:10、出雲水雷艇に救助された。



12:16、右特別作業隊の住吉丸、楓丸は沈船下流に係留し

航路を閉塞する大型ジャンクの除去作業を開始、

南市から射撃する敵と交戦しつつ、 13:50   作業を完了した。

14:15、特別作業隊は   「中和」   撤去作業を開始せんとしたが、

敵の抵抗が激しいため作業進ちょくせず、

一たん中止して引揚げ、 「中和」   との交通も遮断された。



12日朝から   「比良、保津、二見」   は安田支隊と協力、南市江岸の敵を制圧し、

15:30   ころ敗退却の兆しを認めた。

16:30、 「栗」   は閉塞線下流着、掩護任務に就き、

特別作業隊は   「中和」   に赴き引出し準備を完成し、

17:25   住吉丸で   「中和」   引出しに成功、



水路の一部を啓開し、直ちに付近の掃海を開始した。

一方、 「保津、比良」   聯合陸戦隊は、

17:50   南市ネイ紹商輪公司及びその付近一帯を占領した。

12日   18:20、特別作業隊の掃海隊は閉塞線付近の掃海を開始し、 20:50   終了した。

13日   07:40〜15:00、掃海隊は閉塞線付近航路を掃海し、機雷三個を拘束、

諸岡安一少佐指揮の爆破隊の協力を得て、うち二個を処分した。



07:30 「保津、比良」   の陸戦隊は南市を撤退し、 「栗、栂」   聯合陸戦隊と交代した。

08:05   「保津、比良」   は保津艦長指揮の下に上海を出港、閉塞線を通過、

20:00   閔行着、敵巡洋艦四隻を捕獲し、 「保津」   は更に遡江、

12:28、 得勝港   (上海上流二〇浬)   に達し、水路を啓開した。

この日、 「勢多」   は楓丸と共に上海発、閔行下流までの陸軍の糧食、弾薬の輸送に

協力し、 「栗、熱海」   は閉塞線付近の中国舟艇抑留に従事した。



14日、 聯合掃海隊   (指揮官諸岡少佐)   が編成され、啓開水路上流の掃海に従事した。

この日以降爆破又は拘束処分した成果は、   14日機雷二個、水中障害物一個、

15日機雷二個、   16日機雷二個、   17日機雷二個、水中障害物一個、

18日水中障害物一個であった。・・・  

16日、第11戦隊聯合陸戦隊は南市占領地区を陸軍に引継ぎ撤退した。》

1938年7月31日 師団の独断張鼓峯攻撃2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/19 18:47 投稿番号: [1718 / 2250]
井本熊雄著   『支那事変作戦日誌』   262〜263p


《 ところが師団長は、佐藤幸徳歩兵第七十五連隊長に命じ、

三十一日未明、沙草峯、張鼓峯一帯のソ連軍陣地を夜襲させた。


この独断処置に対しては、不拡大方針を遵奉していた師団参謀長中村大佐、

参謀斎藤中佐は強く反対したが、師団長は前記の   「別個の事態」   論を主張して、

参謀の意見を聴こうとしなかったと、中村大佐自ら手記を書いているようである。


佐藤連隊長は   「沙草峯を占領するためには、地形上まず張鼓峯を占領しなければならぬ」

という理由で連隊主力を張鼓峯に指向し、

沙草峯には指揮下に入った歩兵一中隊を向けただけであったといわれる。



この報告は、上司より差止められることを考慮して、

攻撃が終り張鼓峯一帯の高地を占領した後に行われ、独断攻撃の理由として

「沙草峯方面附近の敵攻撃し来りたるを以て、佐藤部隊はこれに反撃を加え……」

となっている。

しかし、ソ連兵の攻撃前進の事実はなかったのが真相のようである。



右の報告を朝鮮軍より受けた陸軍中央部は、次長電で事態の拡大を制しておいて、

新たに上奏して大陸命第百六十三号の発令となった。


    命    令

  朝鮮軍司令官ハ当分ノ間   張鼓峯、沙草峯附近   概ネ現進出線附近ヲ占拠シ

  且ツ右以外軍正面ノ   満ソ国境ノ警戒ヲ   厳ナラシムヘシ


右命令に基づく指示としては、事態を拡大しないように、

慎重を期すべきことが重々示された。



また陸軍省からは次官電を以て、沙草峯ならびに張鼓峯事件の処理方針が示された。

その方針は、 「本事件ニ就テハ   不拡大方針ヲ堅持スルコト   従前ト異ルコトナク、

公正妥当且ツ平和的ノ見地ニ立チ   局地問題トシテ敏速ニ   之ガ解決ヲ期ス、

之ガタメ事件ヲ速カニ   外交的商議ニ移ス」   というものである。



右命令の御裁可を受けるため、葉山に参内して状況を報告した多田次長は、

陸相に対する七月二十日の先例もあり、

天皇の御意向如何に関し多大の憂慮を抱いていたが、別にお咎めはなく、

できたことは仕方がないとして、

さらに問題を起すことなく手際よくソ軍を駆逐したことに安心を示され、

これ以上事態を拡大しないよう、注意せられた。



次長は憂慮の胸を撫でおろし、この状況は第一線に対しても伝達せられ、

特に第十九師団長以下夜襲決行部隊長等を感激させた。


しかし事態はそのままでは収まらなかった。》


つづく

1937年 松本重治氏、ジャキノ難民区へ3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/19 18:39 投稿番号: [1717 / 2250]
松本重治氏著   『上海時代(下)』   中公新書
239〜240p


《 それは喧嘩ではなかった。一段高いところに立っている人が

乾パン、饅頭、煎餅その他を難民たちに配給している最中で、

その配給の食料を、とり巻く多くの手が一度に、とり合っている光景であった。



神父は、突如、飛ぶように、難民の中に分け入り、大声で、

「とり合いはやめろ。しずかに順々に配給を受けろ」   と怒鳴って制止しようとする。

それでも、一両日以前から何も食わない人々は制止にも耳を藉 (か) さず、

二十本や三十本の手が一度に、一つの饅頭をつかもうとする。

神父は、傍らの強そうな難民の手を払いのけたり、頭を叩いたりしている。



先刻まで静かだった神父は、たちまち阿修羅か仁王のように変って、

乱媒なまでに、いうことを聴かぬ難民をなぐりつける。

やっとこさでみんなが静かになって配給を受けるようになった。

餓鬼ということばを知っていた私は、生れて初めて、餓鬼の生態を眼前に見た。



同時に、神父になぐられた難民は、少しも抵抗しない。

愛の鞭とはこのようなものか、とも考えさせられた。

私は、黙然として難民救済に挺身する神父ジャキノの姿を見直した。

ほんとに偉い人間の一人がここに立っているのだとの実感を禁じ得ず、

神父との別れの握手をしながらも、自然と私の頭が下った。



難民救済のための食料は、神父の依頼に応じて、

杜月笙ら青幇の福祉部業部の手で用意されたのだと、神父から承知した。

・・・とにかく、ジャキノ神父の主唱、主宰した難民区は大成功であった。

私も、この計画の初めに、少しばかりのお手伝いができたことを

いまだに嬉しく思っている。・・・

日高さんの手紙に、彼の回想らしい箇処があるので、

日本側の主役としての日高さんの往年の努力を記念する意味で左に掲載させてもらう。



「……南市陥落はたしか十一月十一   (ママ)   日だったと思います。

夜来いよいよというので、寝ていて   も気になり、早朝南市に行って見たところ、

大した混乱もなく、南市の   (難民区の)   境界線近くの

ジャキノ神父の本部に辿 (たど) りつきました。

神父は、ニコニコしながら、手を振り、無事を祝し、ナカナカ大変でしたが、

区内には一発も弾丸が落ちなかった。

だが境界の近くで破裂した弾片でこの通り長い黒の法衣の裾が裂けているのを見せ、

境界線に立っていた様子を示しました。



そこでビールを一杯のんで祝杯、その辺を一巡。

女、ことに児等がたかって神父の手にブラ下り、

神父は頭を撫でて、ポケットからボンボンを出して皆に与える。

何とも云えぬほほえましい光景は、今も眼底にあります。

その後数回訪ねて見ましたが、いつも真に気持のよい場面に接し、

当時、毎日陰惨な日夜を過ごした私にとって、一つのオアシスでした。



日本軍人の態度も穏当でした。……

時々切迫した光景もあり、兵が銃をつきつけたこともあった事もあるそうです。

そのとき後方から兵がソッと十字を切って見せて、神父をはげました話も聞きました。」》



*   「一両日以前から何も食わない人々は制止にも耳を藉 (か) さず・・・・

   餓鬼ということばを知っていた私は、生れて初めて、餓鬼の生態を眼前に見た。」


   と、松本氏は書いているが、東日本大震災に於ける、日本人の行動を見たら、

   その見方は、どうだろうか?



   日本人は一両日以前から何も食ってなくても、整然としている。

   松本氏の善人心が中国人の野蛮な行動を、不必要に善く解釈していないか?

1938年7月29日 師団の独断張鼓峯攻撃1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/18 18:49 投稿番号: [1716 / 2250]
井本熊雄著   『支那事変作戦日誌』
261〜262p


《 前記の如く、第十九師団長は国境に有力な一部を残して監視させ、

その他の集中部隊は原駐地に帰還させる処置を講じ、

帰還部隊はその行動の緒についていた。



ところがその翌日七月二十九日の朝九時半頃、

張鼓峯北方約二キロの沙草峯南側の稜線に、ソ連兵約十名が進出して工事を始めた。

慶興に残って当面の情況を観察していた尾高師団長は、この報告を受けると

すぐ将軍峯にいた千田国境守備隊長に命じて攻撃させた。



師団長はこの処置を、 「任務上必要なりという信念に基づいて」   といっている。

我方は約二十名の兵力で、午後三時頃この敵を駆逐した後引上げたが、

四時頃になるとソ連は兵力を増加し、後方に戦車を伴って元の高地に進出して来て、

さらに張鼓峯附近から砲撃を加えた。



右の状況を軍司令官に報告した師団長は、

「本事件は全く敵の不法挑戦によるものにして、我方においては

張鼓峯事件とは全然性質を異にし、別個に処理すべきものと確信す」   と

附記している。この理由は牽強附会である。



朝鮮軍司令官は師団長の決心、処置を認め、

事態を拡大しないように慎重に指導する旨を附記して、

状況を三十日の午前一時過ぎ総長、大臣に報告した。

これを受けた中央部は、午後五時頃次長より、 「沙草峯事件は、

差当り不拡大の方針を堅持して   実施しある現地部隊の   処理に委せる

方針で進んでいる」   旨を返電した。》


つづく

1937年 松本重治氏、ジャキノ難民区へ2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/18 18:43 投稿番号: [1715 / 2250]
松本重治氏著   『上海時代(下)』   中公新書   237〜238p


《 神父の事務所は境界線間際の、たしか、二階の八疊敷くらいの部屋であり、

簡素な卓と四、五脚の椅子だけがあった。

そこで片腕のジャキノ神父と握手しながら、

「私はティンパーレーの友人の同盟通信の松本です。ご成功を心から祝します」   と

祝詞を述べたあと、 「この二人は私の同僚です」   と紹介した。



神父は、私の手を堅く握り締めながら、

「日本側の協力がなければ、この計画はできるものではなかった。

あなたや、日高参事官のご協力も、ティンパーレー君から詳細承知しています。

どうもありがとう。ほんとにありがとう」   といって、

自分の努力など一言もいわない。



「せっかくのご訪問だから、シャンペンでいっしょに祝杯を挙げるべきだが、

ビールで堪忍してください」   と、静かな、しかし朗らかな笑みをたたえながら、

ビールの栓をいきなり三、四本も抜いた。

こちらは思いがけぬ饗応で、いささか面くらったが、

ジャキノ神父の今までの苦心の数々を想いやりながら、勧められるままに、

幾度も、グラスをカチンとやりながら、ビールを飲みほした。



私が、 「記念のために、神父の写其を撮らせてください」   というと、

「あなた方とごいっしょなら」   との返事。

あくまでも自分を虚しくした態度に、私はいたく打たれた。

「では、君も入って、三人で撮ることにしましょう」   と、神父を間にして、

殿木君と私とが左右の椅子に座を占めた。

カメラマンがシャッターを切る直前に、神父は、 「オットット」   と

いいながら、空のビール壜 (ビン) を一本ずつ、卓の下に隠した。



「気がつきませんでしたね」   と、こちらは恐縮した。

写真撮影が終ったとたんに、助手らしい中国人が室に入ってきて、

「喧嘩が始まったようです」   と報告した。ジャキノ神父は、やおら立ち上がって、

「すぐ行く」   と返事しながら、私らに、

「あなた方も新聞記者だから、難民の連中がどうしているかを観察されたいなら、

ご案内しましょう」 「何よりありがたい」   と、私らも神父に随いていった。》



つづく

1938年7月末 松本重治氏、上海に帰る

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/17 15:24 投稿番号: [1714 / 2250]
松本重治著   『上海時代・下』   中公新書
303〜304p


《 私は、高君の滞在中も、近衛さん、岩永さん、

影佐大佐   (六月からは陸軍省軍務課長)と、それぞれ、両三回打合せをした。

だいたいの諒承を得たので、月末、上海に帰ったが、

その後暫く、高君からは連絡がなかった。



ところが、私が近衛さんと会談したことを、上海にいた中国側和平派は、

早くも聞きつけて、私に会見を申し込む人が少なくなかった。

ことに傅式説や趙正平は、それぞれ和平運動をやっているから、

緊密な連絡をとって欲しいといってきた。



傅君は、蔵前出身で、当時は上海大廈大学教授であり、

貴族院議員の井上匡四郎子爵とも特別の連絡があった。

趙君は曁南大学の学長であり、傅君とともに上海文化界での名士であった。

いちばん因ったことは、私があたかも近衛総理の代表だと定め込んでいたことだった。



そうではないと如何に説明しても、彼らは、依然、聴かなかった。

だから、彼らに会うときは、私はあたり障りのないような話をしなければならず、

少なからず当惑した。それよりも悩んだのは、高君の消息であった。》




塚本誠著   『ある情報将校の記録』   中公文庫
266 p

《 高宗武の離日後この動きが進展をみせないので、

高宗武の計画は蹉跌したのではないか、と影佐さんは心を痛めていた。

しかし、後になってわかったのだが

高は香港に帰ってから病気で動けなかったのである。》

1937年 塚本氏の見たジャキノ避難民区

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/17 15:17 投稿番号: [1713 / 2250]
塚本誠著   『ある情報将校の記録』


218p

《 払暁、歩兵部隊に先んじて市街に進出すると、

敵影を認めないばかりか住民はすべて南市北部フランス租界に近い地区に集められ、

その避難民区は、その周囲にフランスの小旗を掲げて標示されている。

この地区に近づくと、背広に巻脚絆姿の日本人が挨拶した。

上海総領事館の田中正一領事である。



田中さんの話によると、この避難民区は、

カトリックの神父でジャキノーというフランス人の志によって設けられ、

「ジャキノー避難民区」   と呼ばれているという。》



219p

《 ここで   「ジャキノー避難民区」   についてふれておきたいと思う。

ジャキノー神父は、かねがね上海周辺の避難民の救済に心を痛め、

対策の一つとして南市避難民区を考えたのだが、それを創設するについては

日本側、とりわけ軍部の同意をとりつけることが先決であった。



神父がその手懸りをつかむことができず困っていたのを知った

英紙   「マンチェスター・ガーディアン」   のティンパレー特派員が、

同盟通信の松本重治氏を訪ねて仲介の労を頼んだ。

松本さんの尽力で、日高総領事および軍特務部の楠本実隆大佐の

同意が得られたということである。



南市の避難民対策では、ジャキノー神父の志に感じて青幇の巨頭杜月笙が

その組織を動員して煎餅や乾パンなどの食糧その他の配給に当たった。

この避難地区には、その後大場鎮付近などからも避難民が殺到し、

ジャキノー神父は上海戦だけでも、

飢餓に瀕した六十万余の人命を救ったといわれる。》

1938年7月 蒋介石、高宗武の文書を討議

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/16 15:09 投稿番号: [1712 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   文春文庫
420p


《 蒋介石は、高宗武文書を受理しても即座には反応を示さず、

三日後、七月二十五日になって、汪兆銘をまねき、張群をまじえて内容を討議した。

その討議の詳細は不明だが、 「蒋公大事長編初稿」   には、次のように記録されている。


「(七月)   二十五日   与汪兆銘、張群討論高宗武報告内容、公覚察汪之神態頗不自然」


あるいは、汪兆銘の言動に対日和平に 〝色気〟 をみせる気配が

うかがわれたのかも、しれない。》



*   「与汪兆銘、張群討論高宗武報告内容、公覚察汪之神態頗不自然」の翻訳


    汪兆銘、張群と高宗武報告の内容を討論す。

    公   (蒋介石)   は汪の態度のすこぶる不自然さを感じる。

1937年 松本重治氏、ジャキノ難民区へ1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/16 14:59 投稿番号: [1711 / 2250]
松本重治著   『上海時代(下)』   中公新書    237p


《 塚本大尉以下二十名の兵が率先、陣頭に立って、

境界線に近づく歩兵部隊が難民区に入ることを抑え、

軍規を維持し得たことは、難民区の成功に少なからざる寄与をしたことになった。



十三日の朝、私は、前々日から塚本大尉と行動を共にした同僚の

殿木 (圭一) 記者から、前日の難民区の成立成功についての報告を受けた。



私が   「殿木君、何べんも両市と支社とを往復してもらってご苦労だったが、

僕自身も、難民区に行って、ジャキノ神父に   『おめでとう』   をいいたいから、

君、済まんが、いま一度、僕といっしょに行ってくれないかね」   というと、

「松本さん、ジャキノ神父の計画を知っておられるのですか。

喜んでいっしょに行きましょう。カメラマンを連れて」   という快い返事だ。



そこで、三人で、殿木君の案内で、車を走らせた。難民区は、難民が充満していた。

殿木君に   「神父はどこにいるだろう?」   と尋ねると、

「昨日会った場所はこここら辺でしたがね」   と殿木君からは少し頼りない返事だ。

「ジャキノ先生   (シンサン:上海語の発音)   に会いたいんだが」

と数人の難民を相手に押問答をやったが埒があかない。



困ったなあと思っていると、しばらくして、 「仏国人有了   (ファコニンユーラ)」   と

私らにいいながら一方を指す人が二、三人現れた。

なるほど、難民がジャキノ神父の名を知っているはずはない。

しかし、数日前にここに来ていた難民は、

フランス人が難民の世話をしていたことだけは知っているわけだった。



「仏国人   (ファコニン)   に会いたいんだ。

私たちは仏国人の朋友   (ポンユー)   なんだ」   というと、

有志が私らをジャキノ神父のいるところまで案内してくれた。



つづく

1938年 土肥原機関設立2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/15 18:44 投稿番号: [1710 / 2250]
晴気慶胤   (はるけよしたね)   著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
17p


《 当時、日本車の占領地には、昭和十三年はじめごろ組織された二つの政府があった。

すなわち、華北   (黄河以北)   に生まれた王克敏一派の臨時政府と、

華中   (揚子江下流)   において梁鴻志らが組織した維新政府がそれであった。



いずれも日本軍と協力し、 「反共減党」 (共産党に反対し、国民党を滅ぼす)   の

旗印を掲げて占領地の収拾につとめたが、しかし、

この二つの政府は何らの自主性も自活力もない形骸   (けいがい)   さながらの

弱体政権で、日本の武力に支えられながら、わずかに都市とその周辺においてのみ

「政府」   の空名を維持したにすぎなかった。



そればかりではなく民衆は、口をそろえて   「売国政府」   だと

痛罵するという実情であった。

したがって全中国民衆の圧倒的支持を受け、強大な武力と財力を持ち、

なお国際列強の強力な支持をうけて立つ重慶政府に対するには、

これらの新興政府はあまりに無力で、重慶政府を政治的に屈服させようなどとは、

どれだけひいき目でみても夢想だにできなかった。



そこで大本営は強力な中央政府を別に新しく樹立しようと考えた。

その具体案は当時、有能な在野の政客だとの定評があった唐紹儀と、

旧軍閥の中では傑出した声望をもつ呉佩孚に新政府を組織させて、

全占領地を支配させる。

そうして当時漢口北方に駐屯していた広西軍を、重慶側から寝返らせる工作と

相まって、重慶政府を崩壊させようと図ったものであった。



大本営はこの工作の実施機関として昭和十三年七月、

土肥原機関を編成して大本営の直轄とした。

機関長は唐紹儀と旧知の土肥原賢二中将で、そのもとに呉佩孚および

広西軍との連絡にあたる大迫通貞少将   (のち、第四十七師団長)   と

和知鷹二大佐が配属され、当時少佐だった私もその末席に列したのであった。》



*   本のタイトルには   『上海テロ工作』   と、オドロオドロしくありますが、

   実際には   「テロ対策」   と見るべき活動のようです。



   結果的には、松本重治氏が倒れ帰国した後、松本氏がやりかけた和平工作を、

   彼らが、引き継ぐ形になります。

   と言っても、引き継ぎの手続きがあるわけではありません。

   結果として、そうなるだけです。



   反日人間から見れば   「善人の松本重治氏」   の汪兆銘工作を、

   「極悪特務機関」   が引き継ぐなど、理解に苦しむ結果となるでしょう。

   色眼鏡を掛けていては、物事はまともに見えません。

1937年 南市攻略戦2 新聞記事

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/15 18:33 投稿番号: [1709 / 2250]
〔昭和12年11月12日   東京日日〕


《 〔南市にて十一日平栗、鈴木両本社特派員発〕

皇軍は十一日、ついに上海城内入口に日章旗を高く掲げ、

ここに上海周辺の敵兵を完全に叩きつぶし、最後の止めを刺した。

思えば八月二十三日、先遣部隊の敵前上陸以来聖戦七十余日、

文字通り血戦、奮闘あったが、ヨーロッパ大戦の休戦日であるこの日、

皇軍上海城入りは全く意義深いものがある。



南市及び城内の支那人に徹底的覚醒の鞭を振るった南市攻撃は、

国際環視の下に十一日午後零時二十分から開始された。

二十分間機関銃制圧射撃が行われた後、松井 (健) 部隊、島部隊将兵が

日暉路前のクリーク一帯に煙幕を張った。

神風というか、この日の風向は初め東南の風であったが、

集中射撃を行うころから西南の風に一変、白煙濠々と敵陣地一帯を蔽うた。



この時とばかり敵の機関銃猛射を物ともせず、川並部隊、松本部隊の決死隊が

普家宅東方湾曲地点に架設された軽渡橋を渡って突撃、

松野中尉の一隊、中村見習士官の一隊が零時三十八分、

その地点より、北方二百メートルの個所より佐藤、榊原○隊等陸続と渡河して

敵兵を一挙に粉砕しつつ、その第一線は午後一時、すでに呂斑路に進撃した。



川並部隊の進撃に伴って鷹森部隊も黄浦江岸よりクリークを渡って、

手向かう敗残兵を蹴散らしつつどんどん進撃、

かくて夕刻までに川並、鷹森両部隊は上海兵工廠、江南造船所、

上海地方法院、民国審判所、滬杭甬鉄道南停車場、大同大学その他の

重要建物を次々と占拠し、その第一線は城内に至って日章旗を掲げた。



南市及び城内の一般支那避難民は豊浜路以北の地域に密集して避難中で、

我が皇軍部隊は善良な住民のため特に城内への進撃を差し控えた。

この日の敵前渡河は仏祖界を横に控え、各国人観戦の下に堂々と行われたもので、

仏、伊、英など各国の警備兵も皇軍将兵の勇敢なる様を眼のあたりに見て讃嘆した。》

1938年7月22日 土肥原機関設立1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/14 18:52 投稿番号: [1708 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   文春文庫


414p

《 事変解決のためには、蒋政権の   「屈伏」   か   「潰滅」   は必須要件である。

そのためには、作戦による痛打と並行して、謀略による蒋介石陣営の切りくずしが

有効となる。


内部の将軍、有力政治家の寝返りをさそえれば、それはそのまま

中国軍の戦力と戦意の破砕、 「新中央政府」   の基礎がためにつながるからである。

この謀略工作については、じつは、すでに六月十七日、参謀本部は

「第二期謀略計画」   を策定し、現地軍に通告していた。

計画は   「獣(けもの)」   工作と   「鳥」   工作にわかれていた。》



416p

新中央政権の樹立にも関連する   「鳥」   の主要なものを、後者にした。

そして、唐紹儀、呉佩孚、断雲鵬の三人を政治工作の目標人物にさだめた。


唐紹儀は、孫文とともに辛亥革命の原動力になった国民党の元老。

呉佩孚はいわゆる直隷派の総帥で、反蒋介石派の軍人を統督できるとみられる存在。

断雲鵬は、山東軍閥の統領で、根強い反蒋感情の持ち主。

それぞれ七十八歳、六十六歳、六十一歳という年齢であり、

いずれも隠退生活をおくっている。



参謀本部は、三人に共通して   「過去ノ栄光」、 「反蒋介石」、

なお持っているはずの   「隠然タル勢力」   に注目して、人選した。


その意味でも、この時期には、現に国民政府のナンバー2である

五十三歳の汪兆銘に視線をそそぐ必要は、感得されなかったといえよう。



五相会議は、この人選もふくめて   「第二期謀略計画」   の中央機関の

担任部分を確認し、さらに、第十四師団長から参謀本部付に転出した

土肥原賢二中将を、工作責任者にした。


中将のほかに柴山兼四郎大佐、晴気慶胤   (はるけよしたね)   少佐、

香川義雄少佐   (以上、本部)、 大迫通貞少将   (北支)、和知鷹二大佐   (中南支)

を主務者にする   『土肥原機関』   がつくられ、七月二十二日に発令された。》

1937年 南市攻略戦1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/14 18:39 投稿番号: [1707 / 2250]
塚本誠著   『ある情報将校の記録』   216〜218p


《 南市無血攻略の工作も成功せず、敵は日暉クリークに沿う堅固な陣地に拠って

上海戦最後の抵抗を行なうことが明らかになった。

敵の右翼の拠点はフランス租界の境界線上に設けられているので、

この陣地攻撃ではわが銃砲弾が租界内に流れて国際問題が起こる公算が極めて大きい。

その上、南市には多数の避難民がいるだろうから、その取扱いいかんでは

人道上の問題として列国の批判の的となることも予想された。



わが第一線歩兵部隊は岐阜の川並部隊で、呉淞上陸以来三ケ月、

いま追撃戦に移ったのであるが、上海の特殊事情には暗い。

これらの事情を攻撃部隊に配慮せよと要求することは無理であるから、

それを未然に防ぐことこそ上海憲兵隊の戦闘任務であると私は考えた。

そこで岡村大尉と相談して、岡村の租界分隊と私の特高課から、

現地事情に精通する下士官以下約二十名を私が指揮して

攻撃部隊の第一線に随伴することにした。



十一日、南市攻撃が始まった。集中砲撃が終ると、歩兵第六十八聯隊の攻撃開始。

憲兵もこの第一線について日暉クリークを渡河する。

案の定、敵はフランス租界を背にしたトーチカから側射してくる。

私は中隊長のいる線まで進出して、歩兵部隊の射法を注視していた。

その時、うしろから部下の一憲兵が   「鉄帽を被ってもよいですか」   と

大声で叫ぶので   「済まん、かぶれ」   と答えたが胸にジンとくるものがあった。

私は鉄帽は開戦以来まだ手にいれていないのである。



その時私のそばに一人の新聞記者が伏せている。

尋ねると同盟通信の殿木圭一記者と答えた。

殿木君をみると彼はどこで拾ったか青天白日のマークのある鉄カブトをかぶっている。

私はこれが縁でその後長いつき合いとなるのだが、これこそ戦場で拾った友人である。

逐次敵を圧迫し南市の西南端に達したが、市街突入は翌払暁ということで、

私らも第一線と共に敵と対峠したまま夜を徹した。



殿木君は社へ連絡に帰るというので途中まで憲兵に護衛させたが明方近くに帰って来た。

あまりに帰りが早いのでそのわけをきくと、難民区からフランス租界内への

水汲み入口があるからそれを抜けて来たとのこと。よくよく大胆敏捷な男である。



払暁、歩兵部隊に先んじて市街に進出すると、敵影を認めないばかりか

住民はすべて南市北部フランス租界に近い地区に集められ、

その避難民区は、その周囲にフランスの小旗を掲げて標示されている。

この地区に近づくと、背広に巻脚絆姿の日本人が挨拶した。

上海総領事館の田中正一領事である。



田中さんの話によると、この避難民区は、カトリックの神父でジャキノーという

フランス人の志によって設けられ、 「ジャキノー避難民区」   と呼ばれているという。

いい時に田中さんに会ったものだ。

田中さんの応援で、フランス側との折衝は円満に進んだ。



私は一応、南市一帯を憲兵に巡察、検索させたのち、長以下数名をもって

南市憲兵分駐所を開設させる処置をとり、主力の憲兵はその所属に復帰させた。

南市の掃蕩が終った十二日の夕方、路上で飯盒メシを食べていた兵隊に声をかけると、

「上陸以来初めて電灯の見えるところで御飯が食べられました」   と、しんみり答えた。》

1938年7月 中国軍またも毒ガス使う

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/13 18:44 投稿番号: [1706 / 2250]
昭和13年7月22日の同盟ニュース

暴虐支那軍又も不法 !!

  イベリッド糜爛性毒ガス使用


「我が森本部隊の息をもつかせぬ猛攻撃に敗退一路を辿   (たど)   る支那軍は、

張杏鎮において、又もや不法にも、

猛烈爆発式撒毒管によるイベリッド糜爛   (びらん)   性毒ガスを使用、

我が急追をはばまんとしたが我が方の適切なる處置によって何の被害もなかった。」



注     「處」   は   「処」   の旧字体

     よって   「處置」   とは   「処置」   のこと。

1937年 新聞に載った大前軍曹らの捜索

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/13 18:33 投稿番号: [1705 / 2250]
塚本誠著   『ある情報将校の記録』   215〜216p


《 翌朝、昨日の   「朝日」   の記者が白川さんから聞いたといって取材に来たが、

十一月十三日の   「朝日」   にその記事がのっていた。

     両部下を捜して三ケ月

       ―   憲兵大尉一番乗りに秘める悲話   ―

             (竜華鎮にて、斎藤(一)特派員十一日発)


   《 九日午後一時、竜華の街を驀進   (ばくしん)   する戦車の先頭に

   悲壮な決意を漲   (みなぎ)   らせて乗り込んでいた憲兵大尉がいた。

   わが上海憲兵隊の塚本誠大尉だ。竜華一番乗りだ。



   戦車が淞滬警備司令部の前に止まると、

   残敵が潜んでいるかも知れぬその建物内に単身飛び込んで

   虱潰   (しらみつぶ)   しに舎内を検索した。

   この一番乗りの蔭には事変の直前不幸敵手に斃   (たお)   れた

   二人の部下への熱情が秘められていたのだ。



記事は既述の大前軍曹、熊野通訳の行方不明の事件を記した後、

次のように続けられている。


   二人の事件も支那事変の大渦に巻き込まれ、その後淞滬警備司令部で

   二人とも銃殺されたとの情報がはいったまま今日に及んでしまった。

   塚本大尉の頭の中には二人が若   (も)   し銃殺されたとしても

   仮令   (たとい)   一品でも遺品を手に入れ遺族に送りたい一念であったのだ。

   大尉は左の如く語った。

   「私は竜華占領の今日の日をどんなに待ったことか。

   今日もこうして怪しげな土饅頭にまで捜索を続けているのです」》

1938年7月21日 高宗武 日本から帰国

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/12 18:52 投稿番号: [1704 / 2250]
松本重治著   『上海時代・下』   中公新書
303p

《 七月二十一日、高君は伊藤君に伴われて横浜を発ち、上海に向った。》



児島襄著   『日中戦争4』   文春文庫
419p


《 外交部亜州司長は、日本や他の国でいえば、外務省アジア局長である。

そのような高級官吏が、あえて政府の意思に反しても密航して和平をもとめる、

とすれば、日本でなくてもどの国でも、相手国の困難はよほどだと考えるのは、

自然であろう。



蒋介石は、司長高宗武の行動が日本側に和平工作を思いつかせたとすれば、

一方でよけいなことだが、

他方では、中国の事情を誤判断させる効果もあったと判断し、その帰国を待った。



だが、亜州司長高宗武は、漢口に帰らなかった。

高宗武は、七月二十一日に香港に到着したが、渡日の成果は思わしくなく、

おまけに持病の結核も悪化したので、航空便で日本側との会談記録と日記を

漢口におくり、自身は療養生活をおくることにした。

書類は、翌日、副秘書長周仏海の手もとにとどいた。



日記および会談録に記載されている日本側発言は、微妙な表現ではあったが、

必ずしも汪兆銘の出馬を歓迎しないわけではない、

との趣意がくみとれる内容になっていた。

手のうちをあきらかにしたくない配慮によるものか。高宗武をはげますためか。

それとも   「蒋介石ヲ対手ニセズ」   の真意が汪兆銘歓迎にあるのか……。

副秘書長周仏海にも、そのへんの判定はつきにくかったが、

もともと〝汪兆銘派〟でもあるので、まず一件書類を汪兆銘に提示した。



一読した汪兆銘は、自分に先きに見せたことは伏せて、

蒋介石に提出するよう、周仏海に指示した。》

1937年11月9日 南市攻略の下調査

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/12 18:45 投稿番号: [1703 / 2250]
塚本誠著   『ある情報将校の記録』   213〜215pより


《 戦況が一段落つく頃、私は下士官何人かと再び崑山花園アパートに寝起きしていた。

十一月八日夜北站   (上海北駅)   方面に激しい銃砲声が起こる。

私のアパート付近にも敵弾が飛来する。

私はいよいよ、この夜北站の敵が退却を始めるものと察した。

残るのは南市付近の敵だけであると判断した。



その頃、南市の敵を降伏させる工作が軍特務部の楠本大佐の手で行なわれており、

例の森さんが協力していたようである。軍特務部とは、占領地区軍政を担当するもので、

占領地区の拡大とともに上海武官室がこれに改編されたものである。

この頃、喜多少将は王克敏と共に、 「北支政権」   樹立のため北京へ移り、

後任の軍特務部長は原田熊吉少将   (22期)   である。



十一月九日、私は部下若干名を率い自動車で南市へ向かった。

途中蘇州河の鉄橋は爆破されていて工兵隊が修築中なので車を捨てて前進した。

あとから追撃隊の尖兵が来たので、連絡すると歩六五   (岐阜)   の青山中隊とわかった。

これと同行して進むと十数名の敵を発見し

尖兵中隊は停止して機関銃を馬からおろそうとしている。

私は   「敗残の敵だ。突っ込んで行けば逃げる」   といって、

いっしょに突撃すると案の定逃げてしまった。



その時敵情捜索の友軍戦車二台が来たので要務を告げて

私はその先頭戦車に乗って前進をつづける。

竜華飛行場を偵察の後、敵の淞滬警備司令部のあった建物の前に来た。

ここは警備司令楊虎のいたところで大前軍曹、熊野通訳はここで銃殺された疑いもある。

私は下車して建物の中を一巡したが手懸りになるようなものは見当たらなかった。



南市の敵が撤退を始めたという情報はなかったので楠本大佐の工作の成果は疑わしい。

やがて日暉クリークの橋が見える。そこを渡れば南市だ。

戦車がその橋にさしかかろうとする一瞬、大爆音と共に白煙が戦車の展望孔をとざした。

敵が、あわてて地雷に点火してしまったらしく、私の命は助かった。

敵弾が戦車の鋼板にはね返る。対岸には敵の陣地があることがわかった。

私は偵察の目的を達した。

戦車長を促して竜華に向かって後退すると青山中隊が来たので敵情を話し、

現在地に停止し主力の前進を掩護すべきであろうと意見を述べた。



その時、同行していた   「朝日」   の記者と称する人が私から取材をしようとしたので、

私は   「急いで報告に帰らねばならぬ。取材がしたいのなら白川支局長にきいてくれ」

と言いすてて戦車に飛び乗った。途中楠本大佐に出会った。

大佐は南市工作の成果を確めに出てこられたのである。

私は遺憾ながらそれが不成功に終ったことを報告せざるをえなかった。

大場鎮に進出していた軍司令部へ行き長勇第二課長に南市攻撃の必要を報告し、

再び竜華へとって返して宿営した。》



*   塚本憲兵大尉は、機関銃を降ろそうとする青山中隊の兵に、

   「敗残の敵だ。突っ込めば逃げる」

   といって、中国兵を殺させず、逃がさせた。



   中国や反日日本人の言う、残虐日本兵とは、正反対の行為をしている。

   しかし、反日人は残虐日本兵を好み、こういう事実には目を鎖す。

1938年7月21日 張鼓峯同盟ニュース

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/11 18:44 投稿番号: [1702 / 2250]
同盟ニュース   昭和13年7月21日(木)

一觸即發の危機迫る !!

ソ聨越境兵、張鼓峯に鐵條網



暗雲低迷不氣味な沈黙の中に刻々と危機迫る日満蘇國境線。

断乎たる我が張鼓峯将軍峰の一線より撤退すべき要求を一蹴し

猶も煙秋附近に大兵を續々終結しつヽあるソ聨の不法に對し

我方は徹底的糺明をなすべく閣議は強硬方針と決した。

寫眞はソ聨の誇る輕戰車隊

1937年11月6日 日独伊防共協定調印

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/11 18:39 投稿番号: [1701 / 2250]
日独防共協定は前年度からあったが、これにイタリアが加わった。

1937年11月6日   ローマで日独伊防共協定は調印された。

1938年 張鼓峯 天皇の反対後の処置

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/10 15:51 投稿番号: [1700 / 2250]
井本熊雄著   『支那事変作戦日誌』
258〜259p


《 天皇は、明らかに実力行使を許さない御考えである。

その御意図が示された以上、実力行使は厳に禁止する如く、

徹底した処置が講ぜられるべきであった。



ところが、事実は中央の措置も現地の態度もあいまいで、後述するような

独断用兵による張鼓峯攻撃を行い、ソ軍の反撃によって思わぬ苦境に陥り、

とんだドジを踏み、大失敗をしでかすことになったのである。

現地の第十九師団では、荒尾少佐の連絡もあり、作戦課長からの示唆電も

承知し、意気込んで張鼓峯攻撃の準備を進めていた。



朝鮮軍司令部からの攻撃準備進捗度に対する照会電に対し、

師団は二十日または二十一日夜には攻撃可能の見込みと返事をした。

なお第十九師団は、張鼓峯東方八百米の高地   (自ら将軍峯と命名)   を、

将来あるべき作戦を容易ならしめるため事前に占領することを強く

意見具申するとともに、その準備を進めた。   朝鮮軍はこれが実行を抑え、

一方では大本営に対して、師団の希望認可方意見を具申したが、



その到着は右天皇の御意図が示された後であったので、参謀次長は認可されない旨返電した。

軍司令官は師団長に、不認可のため占領企図を中止するよう示した。

師団は、既に占領部隊   (歩兵一中隊位)   が行動を起していたのに対して

中止を命じ、左岸に進出していた該部隊を、

二十一日夜明けまでにやっと停止させたという一幕もあった。



しかし事実はそれと違っていて、この部隊は将軍峯を占領し、

その後本事件の結末までここにいたのが真相であったようである。》


つづく

1937年制令線の設定と中支那方面軍の編成

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/09 15:33 投稿番号: [1699 / 2250]
中国軍は退却しはじめましたので、追撃戦に移るわけですが、

参謀本部は、戦線が無限に拡大するのを恐れて、制令線を設けました。



戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   397p


《十一月七日、臨命第六百号をもって

「中支那方面軍ノ   作戦地域ハ   概ネ蘇州、 嘉興ヲ連ヌル線   以東トス」・・・


参謀次長から方面軍参謀長あて、次のような通牒を発した。


作戦地域ヲ   蘇州−嘉興ノ線以東   ト定メラレタルハ

方面軍主力カ   該線迄押出スコトヲ   予期スルニ非ス

貴軍ノ任務ハ   依然上海付近ノ敵ヲ   掃滅スルニアリテ・・・》



*   また、この日、第十軍と上海派遣軍とを指揮する組織として、

   中支那方面軍の編合   (戦闘序列ではない)   及び任務が発令されました。

   中支那方面軍司令官には松井大将が選ばれ、上海派遣軍司令官と兼任です。

   中支那方面軍への命令は以下の通りです。



戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   398p


《 一   中支那方面軍ハ   支那方面艦隊ト協同シ   上海西北方ノ敵主力ヲ

   崑山付近ノ地区ニ於テ   捕捉殲滅ス


  二   上海派遣軍ハ   依然   蘇州河南方地区ノ攻撃ヲ続行シテ

   上海市ヲ封鎖スルト共ニ   重点ヲ   京滬鉄道北側地区ニ   保持スル如ク

   崑山方向ニ対スル   攻撃ヲ準備スヘシ

   十一月中旬   有力ナル兵団ヲ   白茆口付近ニ上陸セシメ

   神速ナル行動ヲ以テ   敵ノ退路ヲ遮断スヘシ


  三   第十軍ハ主力ヲ以テ   松江付近ニ進出シテ   上海派遣軍ノ

    蘇州河南方地区ニ   於ケル作戦ニ   協力スルト共ニ   崑山方面ニ対スル

    爾後ノ攻撃ヲ準備スヘシ


四   作戦地境ハ   北橋鎮、呉江ヲ   連ヌル線トス 》



*   制令線を設けた    つまり、南京へ行くなど、考えていなかったと言う事です。

   中国や反日日本人の妄想する侵略など、頭になかったのです。

1938年7月20日 張鼓峯襲撃計画、天皇叱責

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/09 15:21 投稿番号: [1698 / 2250]
井本熊雄著   『支那事変作戦日誌』
257〜258p


《 さて参謀本部は七月二十日、右記大陸命   (案)   を上奏して御裁可を得ようとした。

上奏の書類には本とそれに対する説明文を付し、御前で上奏者が御説明するのが

恒例である。参謀総長の御説明案には、左記の文句が記述せられてあった。



「張鼓峯の位置は、

大兵力を集めて抗争を拡大する危険は比較的少ないと考えられますので、

寧ろこの際一撃を加えてソ聯邦の抗争意志を圧縮し置くを至当と判断致します。


……事件を局地的に処理し得ると考えている次第でありますが、

万一ソ聯邦が本事件を利用し、

故意に事態の紛糾拡大を計るような場合が起るに至りますれば、

漢口攻略開始以前ならば兵力の転用その他の諸問題には開始以後よりも

好都合であると思うのであります。……」



ところが二十日の上奏は、思いもよらぬ結末となった。

天皇は外務大臣   (宇垣一成)、 海軍大臣   (米内光政)、内大臣   (湯浅倉平)   等から、

ソ連と外交交渉する前に兵力を以てソ連兵を駆逐するが如き措置はとるべきでない、

という意見を聞かれて、そのようにお考えが決っていた模様である。



そこで、上奏させておいて不裁可では、参謀総長、陸軍大臣の立場がなくなる

だろうという配慮から、予め侍従武官から

「兵力使用の上奏ならばお許しはないので、上奏するに及ばない」   ことを伝達した。

参謀総長   (閑院宮)   は一旦参内されたが、

右のような事情であるので上奏を取り止めて退出された。



然るに板垣陸軍大臣には何の間違いか、そのことが明確に伝わらなかった。

また陸軍大臣は、海軍大臣も外務大臣も実力行使に賛成であると受取っていた模様である。

五相会議および個人的相互の面接では、そのような印象を陸相が受ける発言があったり、

また軍令部が陸軍案に同意していることなどから、

陸相としては海軍、外務も同意と思ってもあながち無理からぬ経緯があった、

という当時の宮中側近の高官の見解も今日文献として残っている。



板垣陸相は、二十日ひる頃上奏した。

板垣陸相が、右の如く連絡不十分で実情を知らずに上奏のため参内したとしても、

内大臣、侍従武官長あたりから、上奏前に連絡して取止めさせる方法は

いくらでもあった筈と思われるが、その辺の経線はわからない。

上奏の内容は、兵力使用に伴う陸軍大臣としての見解および

第十九師団の動員関係であった。



天皇より陸相に対し、 「他の関係大臣の意向はどうか」   と御下問があった。

陸軍大臣は   「外務大臣も海軍大臣も同意であります」   と申上げた。

これは、いたく天皇を刺戟   (しげき)   する言葉であった。



天皇が、また陸軍が自分をごまかすとお取りになったとしても無理はない。

そこで天皇は、「満州事変、支那事変の勃発共に陸軍のやり方はけしからん

というような意味」   でお叱りがあったらしい。

「当面の問題も、朕の許しなくして兵を用いることはまかりならぬ」   と

厳しい態度を示されたようである。板垣陸相は恐懼して退出し、

もう二度と御前に出ることはできないと云って辞職を決意したらしいが、

近衛首相の取りなしで事なく済んだようである。》

1937年 略奪する中国軍、総崩れの兆候

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/08 18:29 投稿番号: [1697 / 2250]
上海派遣軍の大場鎮占領、蘇州河渡河、そして第十軍の杭州湾上陸により、

蘇州河南の中国軍兵士は、挟み打ちを恐れて、退却モードになりました。

そうすると、中国軍お得意の略奪行動が表れます。



上海の中国軍、総崩れの兆候   〔昭和12年11月8日   東京日日(夕刊)〕


《 某所着電によれば、我が飛行機の偵察によると、浦東方面の敵は五日、

我が陸軍の杭州湾上陸以来右往左往し、全く混乱状態に陥れるもののごとく、

殊に蘇州河南方地区の支那軍は六日来、虹橋路方面支那人家屋は勿論、

外国人住宅、教会等を見境もなく盛んに掠奪している。

支那軍は退去前には必ず掠奪するのが習わしで、すでに掠奪を開始せるより見て、

上海付近支那軍は近く全戦線総崩れとなるものと観測される。



〔上海本社特電七日発〕(軍七日午後八時発表)

六日午前、黄浦江南岸に到達せる〇〇部隊は、七日午後六時頃、

黄浦江を越えて北岸に進出し、更に松江に向かって攻撃前進中なり。



〔上海七日発同盟〕   事変以来浦東に蟠踞   (ばんきょ)   せる敵大部隊は

我が陸軍新鋭部隊の杭州湾上陸により多大の脅威を受け、

動揺の色顕著なるものがあったが、敵は袋の鼠となるを恐れて、

咫尺   (しせき)   を弁ぜぬ濃霧と夜陰に乗じ

六日夜来浦東を抛棄   (ほうき)   し、上海西北に向け続々退却を開始した。



蘇州河南岸を大躍進   〔上海にて七日平栗本社特派員発〕

田上、石井両部隊の一線は七日午後三時から総攻撃を開始し

雨中猛攻撃を加え、歩兵部隊は勝庚部落を占拠した。

〇〇部隊の右翼方面では蘇州河に架橋し、

後続部隊とともに戦車、砲車も渡河し、いよいよ戦果を拡大しつつある。》



注   :   咫尺   シセキ     親指と中指を開いた長さ、   短い事。

     咫尺を弁ぜぬ     一寸先も見分けがつかないこと。

1938年7月19日参謀本部張鼓峯襲撃を計画

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/08 18:25 投稿番号: [1696 / 2250]
井本熊雄著   『支那事変作戦日誌』
255〜256p


《 朝鮮軍司令官は右命令に基づいて、第十九師団長に対し、

歩兵約四大隊、山砲兵約二大隊、重砲一大隊を基幹とする部隊四会、慶興、

阿吾地間の地区に集結させる処置を進め、七月十九日朝までにその兵力配置を終った。



ここまでは、一応至当で冷静な処置であったと思う。

ところが参謀本部の作戦課では、有末中佐出発後当面の対策について

あれこれ考えた結果、何とかして張鼓峯のソ連兵を急襲してこれを駆逐し、

外交交渉もその成果を利用して有利に導きたいという意向が強くなった。



しかしこの考えの中には、万一それによって簡単にソ側が引込まず、

事態が拡大悪化する場合のことは全く考えず、断乎として小兵力でソ連兵を駆逐すれば、

ソ側は引っこんでしまって事態は有利に解決するという単純な考え方であったのである。



稲田作戦課長もこの考え方に賛成であって、その実行を決意し、

十九日中に参謀総長まで決裁を受け、陸軍省の首脳部の同意も収付け、

反対意向の海軍軍令部にも納得させ、

二十日参謀総長より上奏してそのための大陸命を発令する準備を進めたのである。

二十日の上奏は問題なく御裁可があるものと思いこみ、

朝鮮軍に連絡のため、準備した大陸命案を携えて作戦課の荒尾少佐が十九日出発した。》


つづく



同盟ニュース   昭和13年7月19日(火)

《 不法 !! ソ聨、満領侵入!

   帝國断乎、至急撤退を要求


満鮮蘇國境附近張鼓峯に突如 !! 不法にも侵入、

霧の時を利用して頻りに陣地構築する蘇聨の越境問題に對して

我が帝國は断乎、至急撤退を強硬に要求しつヽあるが、

これは粛清血の嵐に動揺中の民心轉換の一流の詐術とも見られてゐる。》

1937年 報道部のアドバルーン作戦2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/07 18:51 投稿番号: [1695 / 2250]
西岡香織著   『報道戦線から見た   「日中戦争」』
195〜196p


《 終戦の翌昭和二十一年末から始まった日本初のクイズ番組、 「話の泉」   の

解答者として評判をとり、タレントの走りと言われる堀内敬三であるが、

上海事変ではアドバルーンの組み立てに苦労したというのも、面白い話である。



翌二十八日   「日軍到蘇州河」   を萬歳館屋上から掲揚し、

十一月六日朝には   「日軍百萬上陸杭州北岸」   を同館上に掲揚した。

「百万」   は大軍の意味であるが、

「結果的に見て、この文字が一番評判よく、アドバルーン宣伝中の白眉であった」。



また、これを上海西郊に運び、蘇州河対岸の敵前にも掲揚したところ、

「敵は怒ったの怒らないの、六日の午後五時であったが、

銃砲の猛射間断なく、浮揚三十分位にして、惜しいかな撃墜された」。


しかし   「この気球浮揚は、邦字紙、外字紙、華字紙、ラジオ等によって

大々的に報道され、敵はこれがために大恐惶 (きょうこう) を来たし、

遂にその退却を早めたとまでいわれている」


報道部員や職員はこの後も連日のようにアドバルーン造りに励み、

支那軍側の負けても勝ったとするデマ宣伝を押さえ込む効果を挙げた。

まさにアドバルーンは報道部の新兵器となったのである。



新聞記事

《〔昭和12年11月8日   東京日日(夕刊)〕   〔蘇州河畔にて六日伊藤   (実)   特派員発〕


六日、我が上海戦線においては前面の敵の動揺を尻目に全戦線にわたり

軍歌の夕を催して、敵の度胆を奪う豪華陣を布いた。

「日本軍百万、杭州湾に上陸す」   と大書したアドバルーンが敵前線の真上、

わが○○部隊の屯   (たむ)   ろする蘇州河中央造兵廠付近の空に揚がった。

六日正午、軍報道都では本社選歌   「進軍の歌」   と   「露営の歌」   を皇軍陣地に

自動車で配布し、蓄音機から拡声器で新戦場に時ならぬ壊しの軍歌調を放送した。



空には雨雲を衝く友軍飛行機の爆音、地上には彼我の砲声殷々たる中に流れる軍楽に、

稲田から綿畑からクリークから、われ勝ちに飛び出す兵隊さん達、

炊事をやめて立ち上がるもの、病床にあるもの、負傷の足を引きずり、

戦友の一局にすがって来るものなど、拡声器の傍 (そば) は黒山のようにいっぱい、

中にはすでに覚えた歌詞に戦闘帽を打ち振り、指揮者気取りの音頭を取るもの、

泥濘もものかは軍靴の音も爽やかに寄贈の歌詞を手に合唱、

アンコールアンコール、夕闇迫る頃まで歌い続けられた。



特に   「露営の歌」   は勇士の実感をそそり、

感極まって次の攻撃に武者振るいする勇士も多数あった。

この間、敵は我武者羅に砲弾を降らせたが、いたずらに我が士気を鼓舞するのみ、

軍馬の嘶   (いなな)   きとともに我が勇士の合唱は江南の空を圧し続けた。》

1938年7月14〜16日 張鼓峯事件処理要綱

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/07 18:40 投稿番号: [1694 / 2250]
井本熊雄著   『支那事変作戦日誌』
254〜255p


《 作戦課は直ちに   「張鼓峯事件処理要綱」   として左記を立案し、

十四日省部の首脳の決裁を得て当面の処理方針とした。


  一、日満両国政府より、対ソ強硬抗議により外交交渉によって撤兵させる。

  二、外交折衝の状況悪化した場合の万一に即応するため、

    所要に応じ兵力を事件正面に集中する。

  三、実力行使は中央の命令による。



同時に右の方針を、参謀次長より朝鮮軍に打電した。

陸軍省も次官電で同趣旨を七月十五日打電したが、特にその末尾に、

「ソ側が万一我要求に応ぜずして撤退せざる場合、

直ちに武力を以てこれを駆逐すべきや否やは、慎重な考慮を必要とす」

と一本釘をさしている。以上の趣旨を現地軍に明示するため、

七月十六日左記大陸命が発令せられた。



  大陸命第一五四号

  一、朝鮮軍司令官ハ   張鼓峯附近ニ於ケル蘇軍ノ不法越境ニ対シ

    所要ニ応シ   在鮮部隊ヲ国境ニ近ク集中スルコトヲ得、

    但シ之ガ実力行使ハ命令ニ依ル

  二、細項ニ関シテハ   参謀総長ヲシテ指示セシム



右の発令とともに、参謀本部より、

「右の命令による措置は外交折衝支援の示威手段であると共に、

万一の場合に応ずるために事件正面に兵力を集中することを認められたものである。

これが実施は貴電意見の如く、大局の見地から慎重に善処せられたい。

対ソ折衝はモスクワおよびハルビンで行われる筈。



なお当部より連絡のため有末中佐   (作戦課)   および甲谷少佐   (第二部ロシア班)   を

派遣する」   と打電した。

有末、甲谷両参謀は十六日午後東京を出発し、右命令を携行して京城に向った。》

1937年 報道部のアドバルーン作戦1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/06 18:55 投稿番号: [1693 / 2250]
馬淵報道部は中国のデマ宣伝に何とか対抗できるものはないか、と考え、

アドバルーンを揚げることにしました。



西岡香織著   『報道戦線から見た   「日中戦争」』
194〜195p


《 アドバルーンも、宣伝戦の新兵器として大活躍したが、その経緯は、

馬淵の   『報道戦線』   に詳しく記されている。

「報道部では事変勃発と共に、東京市神田区淡路町・銀星座の広告気球を

予め購入していたが、これを利用した最初は、昭和十二年十月二十七日、

大場鎮占領の時、上海虹口   (ホンキュ)   なる萬歳館六階屋上に於てであった。



上海では、工部局がアドバルーンを禁止していたので、

広告用気球は市民もまだこれを知らなかった。



二十六日、大場鎮占領の報を得た所謂砲弾下の報道部では、

辻、江島等のタイピスト嬢のほか、折から萬歳館に泊まり合わせていた

放送協会の友安君や堀内敬三君、西村楽天君等が徹夜して文字網を作製し、

翌二十七日午前五時、それっというので上昇の準備をしたが、

誰一人アドバルーンを掲揚した経験者がなく、

ああでもないこうでもないと研究しつつ、ともかくも完全に浮揚させた。



『日軍占領   (赤字)   大場鎮   (黒字)』」



この時のことについて、堀内敬三自身は次の短文を残している。

「大場鎮の陥   (お)   ちた晩、金子少佐は   『さあアドバルーンを揚げよう』   と調子づいた。

『よし来た』   と多数が報道部の事務所に馳せ向って、

夜半から   『日軍占領大場鎮』   の字を網の目に縫いつけにかかった。

萬歳館の女中さん達も報道部の運転手君たちも、針と糸とを持ってせっせと働いた。

その間に空襲が二度ばかり来たが、平気だった。皆嬉しさに夢中だった。



三時頃から私は放送局の島山技師と二人、萬歳館の屋上でバルーンの組立てにかかった。

懐中電灯の光で説明書を見ながらやるのだから、はかどらない。

そのうちに懐中電灯の光を見て北停車場から小銃を撃ってきた。



『とうとう見つけたね』

『まだ逃げないのかね、支那さん、よく粘るなあ』   島山君も私も意気軒昂であった。

しかし仕事は中々はかどらない。そのうちに夜があけた。弾丸は来なくなった。

文字の網が出来て運転手君が   『わっしょ、わっしょ』   と運んで来る。

午前七時、やっとこさで、最初のアドバルーンが虹口の空にあがった。

嬉しかった」   (「最初のアドバルーン」   堀内敬三、前出   『紙弾』   所収)》


つづく

1938年 高宗武、日本で要人と会う

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/06 18:44 投稿番号: [1692 / 2250]
松本重治著   『上海時代・下』   中公新書
302〜303p


《 高君は、影佐大佐や今井中佐の引廻しで、多田参謀次長や板垣陸軍大臣とも会った

(今井武夫著   『支那事変の回想』   六九ページ参照)。

また、私の紹介で   (犬養氏の希望もあり)、

高君は、市兵衛町の住友家の別邸で犬養健氏にも会った

(犬養健著   『揚子江は今も流れている』   二三−八四ページ参照)。

また、私は犬養氏を影佐大佐に紹介した   (同上、五八−六八ページ参照)。



そして、岩永さんのところへも高君を連れていった。途中、車のなかで、

「宗武、岩永さんには、何でも話してさしつかえはないよ。

僕の最も尊敬しているボスなんだもの」   と説明しておいた。

岩永さんは高君を温かく迎えてくれたが、高君は、



「では、ご挨拶やお礼は抜きで、本論に入らせていただきます。

こんどの和平運動は、松本君と僕とがやり始めたのです。

こんどの訪日で、陸軍の責任者たちも、撤兵の声明、領土・賠償の不要求、

治外法権の撤廃というような線を考えておられることが判りました。

これならば、中国側も、抗戦路線を止揚して、和平運動がやれるという確信ができました。



ただ、蒋介石領導とするか、汪兆銘領導とするか、私自身、まだ迷っているのです。

一長一短ありますからね。しかし、日本側には、どうも、汪兆銘相手ならば

という気分があるようです。

中国側では、この点がまだ問題で、日本側としては、戦争の大乗的解決に、

ほんとに固まっているかが問題です。岩永さんあたりのご尽力が願わしいです」

と述べた。



岩永さんは、 「正直、率直なお話を聞いて、嬉しく思います。

お話の要点は判ったように思いますから、

近く近衛総理にも、あなたの話を伝えて、善処するよう話しましょう。

おからだを大切にね」   といってくれた。》



*   高宗武は日本に来て、安全に、和平の話ができる。

   日本軍が彼の安全を護ってくれている。

   逆の事が中国で可能だろうか?

   日本人は重慶に行けない。

   それどころか、高宗武自身、中国に帰ったら、命の保証はない。

   日本人と和平を話し合う事が、敵対行為とされている。

   どちらが平和的な国家か?   平和主義者は事実を見るべきだろう。
[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | [ メッセージ # オフセット ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)