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1938年8月  張鼓峯事件 ソ連軍の反撃

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/20 18:54 投稿番号: [1720 / 2250]
井本熊雄著   『支那事変作戦日誌』   263〜265p


《 八月一日よりソ軍は優勢な航空部隊を以て、

わが第一線および豆満江右岸の北鮮の交通破壊等を始めた。

これに対し、わが方も飛行隊を使用して対応せんとする第一線の希望に対し、

中央部は不拡大方針を堅持して最後まで許可しなかった。

そのため航空と戦車に関する限りわが第一線はたたかれっ放しで

隠忍することを強要させられた。



八月二日からソ軍は航空および戦車攻撃を加え、相当真面目な攻撃を開始した。

ために多数の死傷を生ずるに至った。

師団は戦況を打解するため、水流峯南麓方面からソ軍の右側背を衝く如く

越境攻撃することを考え、朝鮮軍を通じて中央部に意見其申したが、

中央部は事態の拡大を慮ってこれを許さなかった(八月三日)。

戦車の使用も、わが中央部は最後まで容認しなかった。



八月六日ソ軍は狙撃二ケ師団、優勢な砲兵、戦車百台強、爆撃機約八十、

戦闘機約二十の兵力を以てわが張鼓峯、沙草峯の部隊に攻撃し来り、

爾後至近距離に止って攻撃を反復した。

わが方は戦車、航空部隊を欠き、ソ軍に比しその他の兵力もはるかに劣勢である上に、

反撃のため越境や他方面に戦力を指向することを禁じられているので、

現在地点で専守防禦を行い、損害の多発を忍ぶ以外に方法がなくなった。



六日以後の死傷は、毎日約二百名に上り、八日までの死傷累計約六百、

十日には一千を越えるに至った。

「楠公湊川の精神により、困難なる戦況に対処せん」   とする

師団長の報告電報を読んだのは、八日か九日であったと記憶する。



第十九師団の独断攻撃後、逐次困難を加えた第一線の状況に対し、

現地からの要望乃至独自の考えで中央部の処置した対策を列挙すれば、

次のようなことであった。



平時態勢の第十九師団の各部隊を対敵戦闘に使用することは、

大陸命によらなければならないので、逐次にその手続をして、

第十九師団全部が戦闘に参加し得るようにした後、同師団の動員を下令した。



その外関東軍から長射程の列車砲など四〜五中隊、工兵、高射砲隊若干、

病院列車を派遣し、南満にいた第百四師団を琿春、延吉間の地区に推進し、

また東満の若干部隊を東部国境方向へ移動させて、間接に対ソ圧力を強化した。



北支方面軍から野戦重砲兵、独立機関銃隊、高射砲隊等若干を転用した。

第二十師団   (南鮮)   から歩兵一大隊を第十九師団に補充した外、

内地から幹部以下千五百名の補充を準備した。



以上は八月六日から十二日にわたる処置であったが、

その殆ど全部が戦場に到着する前に停戦交渉が成立したので、

実際は戦闘には加入しなかった。》


つづく
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