1938年 張鼓峯 ソ軍の反撃とその対応
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/21 19:02 投稿番号: [1722 / 2250]
井本熊雄著
『支那事変作戦日誌』
265〜266p
《 第十九師団長の独断攻撃以後の中央部の空気は下記の如くであった。
既に触れた如く中央部においては、ソ連兵が張鼓峯に進出した七月十一日以来、
これに一撃を与えて痛い目を見せ、再び国境侵犯を起さないように引きこませたい
というのがいつわらぬ全般的な希望であった。
しかもせいぜい一ケ中隊程度の小兵力で、その希望は実現できると安易に思いこんでいた。
故に第十九師団長の独断を知り、一応ソ連兵を駆逐した時は、
実際のところよくやったと思ったのが一般の空気であった。
しかしその直後、ソ連の優勢な砲兵と戦車の支援を伴う攻撃が起り、
ソ連空軍の出現により一方的に我方がたたかれ、
豆満江右岸朝鮮の土地に爆撃を受けた際は、大きな衝撃を受けた。
それは全く予期していないことであり、未だかつて例のないことであったが故である。
これに対し我方は、飛行隊、砲兵、戦車の優勢を発揮して
反撃しようという策案は出なかった。 その主たる原因は、紛争を拡大して、
万一対ソ戦争にまで発展したら大へんであることを内心強く感じるに至ったためである。
さらにわが方には、
対ソ優勢を発揮するだけの航空、戦車を集める手持ちがなかったのである。
関東軍の戦力をこの局地に注ぎこめばある程度の力は出せるが、
満洲の周辺に存在するソ軍の航空と機甲の戦力は、わが方の十倍に近い。
地上兵力も三倍位保有している。
関東軍の主体戦力を軽々しく動かすことはできない。
その他朝鮮には、僅少の戦闘隊を主とする一ケ飛行団があるのみ、
支那の戦場にある航空部隊は大部をあげて中支に展開し、漢口作戦に着手している。
そのような内幕でも、まだ八月六日頃までは、第十九師団の健闘で何とかなると思っていた。
ところが八月六日の狙撃二ケ師団基幹の兵力を以てするソ軍の真面目な攻撃以後、
前記の如き戦況下で、わが損害が大きく累加するに及び、
陸軍省にも参謀本部にも漸く憂色が濃くなった。
モスクワでは、外交交渉が七月十五日以来続けられているが、捗々しくない。
陸軍省内では、撤退論が持上って来た。
八月九日になると、わが方は停戦条件として、現在線から
一方的に一キロ後退するという大譲歩案を提出することに参謀本部も同意した。
八月十日、参謀本部第三課 (編制、動員) 長寺田雅雄大佐が、
第一線の戦況視察から帰京して、 「即時撤退論」 を強調した。
この意見は相当強く作用した。
陸軍省は、全面的に寺田意見に同意の模様である。
参謀本部も部長会議等により、首脳部は大体右の意見に傾いた。
夕刻、稲田課長以下在室の作戦課員全部が集って、会議が開かれた。
大部の部員は、挙って今直ちに撤退すべきでないことを強硬に主張した。
現在のるかそるかの分岐点のような土壇場で、
一ふん張りすることなく諦めて後退することは、
第一線の士気を崩壊させ、日本陸軍の伝統に拭い難い汚点を残す。
それに反しソ連軍に対しては、絶対的な戦勝感と優越感を与え、
この事件類似の紛争は頻発するかも知れない。
一方、モスクワでは今夜にでも停戦協定が成立しないと誰が断言し得るか。
皆な退却を主張する時こそ、もう一ふん張りする時である、
という言わば原則論であった。
結局稲田課長の裁決は、もう一晩考えようということになった。
図らずもわれわれが右の論議をしている頃、
モスクワでは重光大使とリトヴィノフ外相との間に停戦協定が成立し、
明十一日それを実現することになったのであった。
しかも、わが方が現在地より一キロ後退するという提案を、
ソ側からの提案で、それには及ばぬ、双方現在地点にて停戦しよう、
ということになった。》
265〜266p
《 第十九師団長の独断攻撃以後の中央部の空気は下記の如くであった。
既に触れた如く中央部においては、ソ連兵が張鼓峯に進出した七月十一日以来、
これに一撃を与えて痛い目を見せ、再び国境侵犯を起さないように引きこませたい
というのがいつわらぬ全般的な希望であった。
しかもせいぜい一ケ中隊程度の小兵力で、その希望は実現できると安易に思いこんでいた。
故に第十九師団長の独断を知り、一応ソ連兵を駆逐した時は、
実際のところよくやったと思ったのが一般の空気であった。
しかしその直後、ソ連の優勢な砲兵と戦車の支援を伴う攻撃が起り、
ソ連空軍の出現により一方的に我方がたたかれ、
豆満江右岸朝鮮の土地に爆撃を受けた際は、大きな衝撃を受けた。
それは全く予期していないことであり、未だかつて例のないことであったが故である。
これに対し我方は、飛行隊、砲兵、戦車の優勢を発揮して
反撃しようという策案は出なかった。 その主たる原因は、紛争を拡大して、
万一対ソ戦争にまで発展したら大へんであることを内心強く感じるに至ったためである。
さらにわが方には、
対ソ優勢を発揮するだけの航空、戦車を集める手持ちがなかったのである。
関東軍の戦力をこの局地に注ぎこめばある程度の力は出せるが、
満洲の周辺に存在するソ軍の航空と機甲の戦力は、わが方の十倍に近い。
地上兵力も三倍位保有している。
関東軍の主体戦力を軽々しく動かすことはできない。
その他朝鮮には、僅少の戦闘隊を主とする一ケ飛行団があるのみ、
支那の戦場にある航空部隊は大部をあげて中支に展開し、漢口作戦に着手している。
そのような内幕でも、まだ八月六日頃までは、第十九師団の健闘で何とかなると思っていた。
ところが八月六日の狙撃二ケ師団基幹の兵力を以てするソ軍の真面目な攻撃以後、
前記の如き戦況下で、わが損害が大きく累加するに及び、
陸軍省にも参謀本部にも漸く憂色が濃くなった。
モスクワでは、外交交渉が七月十五日以来続けられているが、捗々しくない。
陸軍省内では、撤退論が持上って来た。
八月九日になると、わが方は停戦条件として、現在線から
一方的に一キロ後退するという大譲歩案を提出することに参謀本部も同意した。
八月十日、参謀本部第三課 (編制、動員) 長寺田雅雄大佐が、
第一線の戦況視察から帰京して、 「即時撤退論」 を強調した。
この意見は相当強く作用した。
陸軍省は、全面的に寺田意見に同意の模様である。
参謀本部も部長会議等により、首脳部は大体右の意見に傾いた。
夕刻、稲田課長以下在室の作戦課員全部が集って、会議が開かれた。
大部の部員は、挙って今直ちに撤退すべきでないことを強硬に主張した。
現在のるかそるかの分岐点のような土壇場で、
一ふん張りすることなく諦めて後退することは、
第一線の士気を崩壊させ、日本陸軍の伝統に拭い難い汚点を残す。
それに反しソ連軍に対しては、絶対的な戦勝感と優越感を与え、
この事件類似の紛争は頻発するかも知れない。
一方、モスクワでは今夜にでも停戦協定が成立しないと誰が断言し得るか。
皆な退却を主張する時こそ、もう一ふん張りする時である、
という言わば原則論であった。
結局稲田課長の裁決は、もう一晩考えようということになった。
図らずもわれわれが右の論議をしている頃、
モスクワでは重光大使とリトヴィノフ外相との間に停戦協定が成立し、
明十一日それを実現することになったのであった。
しかも、わが方が現在地より一キロ後退するという提案を、
ソ側からの提案で、それには及ばぬ、双方現在地点にて停戦しよう、
ということになった。》
これは メッセージ 1720 (kir**gotowa**me さん)への返信です.