入って中国人に南京事件真相議論しましょう
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1937年 海軍の揚子江啓開準備
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/16 15:48 投稿番号: [1771 / 2250]
戦史叢書
『中国方面海軍作戦〈1〉』
454p
《 遡江作戦準備
陸軍作戦の進展に伴い、江陰閉塞線を突破し、
水路を啓開し、陸軍と協力敵首都を攻略する企図の下、
長谷川司令長官は
二十五日、第二警戒部隊に江陰水路啓開を準備すべきを命じ、
第十一戦隊に駆逐艦二隻、砲艦一隻を、第一港務部に曳船四隻を、
「出雲」 に掃海員を、それぞれ派出して、右に協力すべきを命じ
二十六日、 第一水雷隊を上流警戒隊に編入した。
二十六日、 「鵲」
は段山沙上流でジャンクを威嚇砲撃した。
二十七日、 「蓮、栂」
及び
「出雲」
運用長林紫郎大尉指揮の
掃海用曳船四隻は徐六芤口沖に到着した。
第一水雷隊は、劉海沙付近に敵兵を認めずと報告した。
二十八日、 「蓮、栂」
及び曳船四隻は
「クロッシング」
付近に
進出し、上流水路啓開準備を行った。
二十九日、 長谷川長官は第二警戒部隊指揮官あて、江陰付近水路啓開を下命した。
「蓮」
艦長指揮の掃海艇隊は二十九日午後、
「クーパー・クロッシング」
水道の一部を略掃した。
三十日、第一水雷隊司令指揮の上流警戒隊は、
第一水雷隊
(隼欠) 、蓮、栂、掃海用曳船四隻をもって
「クロッシング」
より
上流の水路を啓開中、巫山、蕭山砲台から砲撃を受けた。
交戦約一時間、発射弾は各艇一〇〇発に達し、
巫山は沈黙したが、蕭山の敵砲の射程が我より大であったので、一応避退した。
この間、艦上から江陰の閉塞線が望見された。》
これは メッセージ 1769 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年 土肥原機関 呉佩孚工作3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/15 15:36 投稿番号: [1770 / 2250]
晴気慶胤著
『上海テロ工作76号』
毎日新聞社
20〜21p
《 呉佩孚工作はこうして早くも絶望的な暗礁に乗り上げてしまった。
しかし、土肥原中将はよく隠忍して、北支軍と呉佩孚の和解につとめ、
次のような協定を結んで、円満解決を図ろうとしたのである。
一、呉佩孚は日本軍占領地においては匪賊を招撫しない。
また北京では当分、政治活動を行わない。
二、呉に帰順した匪賊は臨時政府の指揮をうける。
三、新中央政府の軍隊は未占領地だった黄河の南岸で匪賊を招撫して編成し、
北支軍はその編成を援助する。
四、黄河河畔の開封に弁事処を設け、呉佩孚が政治運動を行い、
軍隊を招撫する事務所とする。
ところがそのとき張燕卿という男が、勝手に呉佩孚の代理となって協定に調印した。
そして呉佩孚には日本軍と協定を結んだことを隠して、
北支軍と協力して招撫工作を黄河南岸の敵地区にまで広げ、
招撫事務所を開封に設けることになったとだけ報告した。
そのため呉佩孚は、占領地においては匪賊の招撫が禁ぜられ、
せっかく彼に帰順した匪賊は、臨時政府に引き渡さなければならなくなった
協定が結ばれたことも知らないで、
北支軍が心を改めて積極的に自分に協力してくれるようになったのはうれしいと、
話を全然逆に解釈していた。
すっかり気をよくした呉佩孚は、
今度は新政府樹立に乗り出すいま一つの条件として、世論の推戴を強く要求した。
そこで張燕卿は、この要望にそうべく和平救国会を組織した。》
つづく
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1937年 「百人斬り」 記事 第一号
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/15 15:31 投稿番号: [1769 / 2250]
第16師団は29日常州に進出しました。
ここで、向井・野田の両将校は、カメラマン佐藤振寿氏と会い、写真をとっています。
日本軍の二将校・百人斬り競争
〔昭和12年12月1日付大阪毎日夕刊〕
《【常州にて二十九日光本特派員発】
常熟、無錫間の四十キロを六日間で破った○○部隊の快速は
これと同一の距離の無錫、常州間をたつた三日間で破ってしまった。
神速といはうか何といはうか、仮令
(たとへ)
ようもないこの快進撃の
第一線に立つ片桐部隊に、「百人斬り競争」
を企てた青年将校が二名ある、
しかもこの競争が無錫出発の際初められたというのに、
一人はすでに五十六人を斬り、もう一人は二十五人斬りを果たしたという。
一人は富山部隊向井敏明少尉
(山口県玖珂郡神代村出身)、
もう一人は同部隊野田毅少尉
(鹿児島県肝属郡田代村出身)
である 、
この二人は無錫入城と同時に直ちに追撃戦に移った際、どちらからともなく、
「南京に着くまで百人斬りの競争をしようじゃないか」
という相談がまとまり、
銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀
「関の孫六」
を撫でれば、
野田少尉も無銘ながら先祖伝来の宝刀を誇るといった風で互いに競争するところあり、
無錫進発後向井少尉は鉄道路線北六、七キロの線を大移動しながら前進、
野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになり、
いったん二人は分かれ分かれになったが、
出発の翌朝、野田少尉は無錫をさる八キロの無名部落で敵トーチカに突進し、
四名の敵を斬り伏せて先陣の名乗りをあげたが、
このことを聞いた向井少尉は奮然起って、その夜、横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み、
五十二名を斬り捨ててしまった 、
その後野田少尉は横林鎮で九名、威野関鎮で六名、
最後に廿九日常州駅で六名と合計廿五名を斬り、
向井少尉はその後常州駅付近で四名を斬り記者等
(光本、浅海、安田各本社特派員)
が
駅に行ったとき、この二人が駅頭で会見してゐる光景にぶつかった 、両少尉は語る、
<向井少尉> この分だと南京どころか丹陽で、俺の方が百人くらい斬ることになるだろう、
野田の負けだ、俺の刀は五十六人斬つて歯こぼれがたった一つしかないぞ
<野田少尉> 僕等は二人とも、逃げるのは斬らないことにしています、
僕は○官をやつているので成績があがらないが、丹陽までには大記録にしてみせる
記者らが、「この記事が新聞に出ると、お嫁さんの口が一度にどっと来ますよ」
と
水を向けると、何と八十幾人斬りの両勇士、ひげ面をほんのりと赤めて
照れること照れること百人斬り競争!/両少尉、早くも八十人 》
*
「トーチカに突進し、四名の敵を斬り伏せ」だって?
コンクリートで固めたトーチカの機関銃相手に、日本刀で突撃ってか?
よく、生きて、たどりつけたね。
乃木大将の部下が、みんなこうだったら、二〇三高地は、犠牲者 0 で落とせたのに。
向井少尉は砲兵隊の小隊長だから、大砲でやった方が早いのだけど。
56人の敵兵は、たった一人の向井少尉に切られるまで、反撃せずに待っていたのかな?
砲兵隊の小隊長が、本職の大砲を使わず、勝手に持ち場を離れて、
敵陣に切り込みなどしたら、軍法会議にかけられると思うが。
その前に機関銃で蜂の巣になって、靖国に祀られるか。
まー、これだけバカバカしいと、軍の検閲係も、笑って通すだろうな。
つづく
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1938年10月12日、汪兆銘 日本の条件を考慮
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/14 14:48 投稿番号: [1768 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
文春文庫
178〜179p
《 汪兆銘は、武漢戦で京漢線の信陽が陥落し、
日本軍第二十一軍が広東攻略のためにバイヤス湾に上陸した十月十二日、
英
『ロイター』
通信記者のインタビューに応じて語った。
「日本が提出する和平条件が、中国の国家としての存続を妨げなければ、
討論の基礎にすべきであろう」
この言葉は、これも既述した日本との和平交渉をこころみていた
元国民政府外交部亜州司長高宗武らを、勇気づけた。
司長高宗武は、香港で病床に伏し、
かわって中央宣伝部香港特派員梅思平が、ほそぼそと日本側と連絡していた。》
これは メッセージ 1742 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年11月29日ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/14 14:39 投稿番号: [1767 / 2250]
十一月二十九日
《 シュペアリングから電話。
王固盤が辞任し、後任が指名されたとのこと。
スマイスは、
「こんどの警察庁長は、警察といっしょに逃げ出すようなことはないだろう」
と言っている。もしそうだとしたらこれは初めてのいいニュースになるだろう。
十六時に会議。たとえ日本が承認しなくても、なんらかの手を打たなければ。
ローゼンから電話。
日本人は安全区に関する提案に応ずるかどうかまだ検討中だといってきたという。
もしかしたら祖国ドイツからなにか働きかけがあったのではないだろうか。
それにしても唐生智がしたような発言
(『南京を死守する』
云々)
は、迷惑千万だ。
司令官というのはそういうものかもしれないが、やつはとかく大見得を切りたがる。
まともに防衛できもしないくせに、よくもそんな口がきけたもんだ。
われわれはこの揚子江のデルタ地帯で文字通りの袋の鼠だというのに。
持ち物を整理していたらたまたま総統の写真が出てきた。ヒトラー・ユーゲントの
リーダー、パルドゥア・フォン・シラッハの詩が添えられている。
(詩は省略)
これを読んでふたたび勇気がでた。
ヒトラー総統はきっと力になってくださる。私はあきらめない。
「君やわれとひとしき素朴で飾らない人」
であるあの方は、
自国民だけでなく、中国の民の苦しみにも深く心を痛めてくださるにちがいない。
ヒトラーの一言が、彼の言葉だけが、日本政府にこの上ない大きな影響力をもつこと、
安全区の設置に有利になることを疑う者は、我々ドイツ人はもとより、
ほかの外国人のなかにもいない。
総統は必ずやそのお言葉を発してくださるだろう!
十八時。イギリス文化会館で定例会。
そのとき、市長が国際委員会の発足を正式に発表した。
私はいった。我々はすべての大使館から道義的な理由によって支持されており、
アメリカ大使館を通じて上海の日本大使にすでに電報を二本打った。
そして個人的にヒトラー総統およびクリーベル総領事にも打電した、と。
「ただ、総統からの回答は期待できないと思います。 この種のきわめて
微妙な外交問題は、おそらく他の方法で処理されると思われるからです。
ですが、その一方で、
私には総統が援助を拒否されるはずはないという確信があります。
あともう二、三日待っていただきたい。
なぜなら、日本から承諾を得ることについて、まだ諦めたわけではないからです」
蒋介石は委員会に十万ドルの寄付を申し出た。
私はカルロヴィッツ社のクレーガーを財務委員として推薦した。
これは承認され、クレーガーは快く引き受けてくれた。
また、例の家
(寧海路五号)
に住んでもらえないかと頼んだところ、
これも承知してくれた。
ドイツ国旗を掲げているのに、
内政部を警備している兵士にトラックが没収されてしまった。
唐の代理である龍上校
(大佐)
に電話して返してもらったときには、
夜の十一時になっていた。》
*
ラーベは、30余年中国にいるため、ヒットラーを知らない。
立派な人格者と勘違いしている。
これは メッセージ 1765 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年10月12日 広東作戦バイアス湾上陸
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/13 18:43 投稿番号: [1766 / 2250]
広東作戦の目的は、英国からの対中支援物資を止めて、
戦争を終結させることにあったのです。
井本熊雄著
『支那事変作戦日誌』
271〜272p
《 広東作戦の目的はいうまでもなく、当時としては支那沿岸唯一の
大輸血口とも称すべき香港からの対支援助物資の流入を阻止して、
蒋政権の抗戦力を弱化し、できればこの占領によって敵に与える衝撃を
漢口作戦と相まって戦争終結の契機としたいところにあった。》
*
海軍は前から広東への爆撃を実行していました。
しかし、陸軍が実際に占領しない限り、物資の輸送は止まりません。
280〜281p
《 軍は十月九日、第五艦隊護衛の下に馬公出発、敵の妨害を受けることなく
十一日薄暮バイアス湾口に到達し、
十二日
〇二一五
泊地進入を了った。
別に十隻の一船団は、十日馬公を出発し、
十二日未明
汕頭入口の企望湾に到り陽動した後、
十四日バイアス湾に到着した。
・・・・
十二日
〇三三〇、及川支隊(第五師団の歩三大と山砲一大)
および第十八師団は上陸を開始し、その成功を確認した後、
〇四三〇
第百四師団の上陸を命じ、同師団の上陸も成功した。》
これは メッセージ 1758 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年11月28日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/13 18:35 投稿番号: [1765 / 2250]
十一月二十八日
《 昨日、蒋介石と話し合った結果についてのローゼンの報告。
「防衛は、この町の外側だけか、それとも内側でも戦うのか」
という質問に対して、
「われわれは両方の場合にそなえている」
という答えが返ってきた。
次に、
「もしも最悪の事態になった場合、だれが秩序を守るのか、つまりだれが
行政官として残り、警察力を行使して暴徒が不法行為を行わないようにするのか」
という質問に対する蒋介石もしくは唐の返事は、
「そのときは日本人がすればよい」
というものだった。
言いかえれば、役人はだれひとりここには残らないということだ。
何十万もの国民のために、だれも身をささげないとは……。
さすが、賢明なお考えだ!
・・・
今日の午後、ラジオでは、安全区に関して何もいっていなかった。
十五時。スマイスの家で行われる会議のため、シュペアリングが迎えにきた。
この会議で、フィッチを正式に役員に、
杭立武を中国側の顧問に任命することになっていた。
日本から返事をもらうまでは、これ以上動けないということで意見が一致した。
ミルズがいった。客観的にみて、南京の防衛など馬鹿げている。
それより穏やかに明け渡した方がよいのではないか。
できるだけ早いうちに中国の最高権力者である蒋介石と唐将軍に
そのことを伝えるべきではなかろうか。
だが杭立武の意見はちがう。今はその時期ではないというのだ。
結局、日本政府から承認されるまで待とうということになった。
十六時半に散会。あまり成果はなかった。なにもかも中途半端だからだ。
十八時にイギリス文化会館で会議。
郵便局長の李奇氏は、郵便局が正式に閉鎖されることになったと伝えた。
けれどもポストの郵便物は時々回収されるので、手紙を投函することはできるという。
リッチー氏は少し興奮しているようだった。
彼の部下は大勢いてこれまでよく働いてきたが、そっくりいなくなってしまうのだ。
人々の話では、日本軍は蕪湖より六十キロ離れたところにきていて、
三日後にはこちらに着くという。
だがそれはおかしい。そんなことは不可能だと思う。
会議で、中国語で印刷された大きな紙をもらった。
中国兵に襲われないよう、ドアに貼れというのだ。
今日、ドイツ人顧問の家が兵士に押し入られたそうだ。
もっともこれはすぐに解決した。
寧海路五号の新居に、今日、表札とドイツ国旗を取り付けてもらった。
ここには表向きだけ住んでいることにするつもりだ。
うちの庭ではいま、三番目の防空壕作りが急ピッチで進んでいる。
二番目のほうは、あきらめざるをえなくなった。水浸しになってしまったからだ。
警察庁長王固盤は、南京には中国人がまだ二十万人住んでいるとくりかえした。
ここにとどまるのかと尋ねると、予想通りの答えが返ってきた。
「できるだけ長く」
つまり、ずらかるということだな!》
*
南京の人口はこの時点で20万人だった。
*
中国では、何かあると暴徒が暴れまわるのが普通、
そして中国兵が中国の民家を襲う、
だから、ドアに貼り紙をせよとなる。
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1938年 土肥原機関 呉佩孚工作2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/12 18:45 投稿番号: [1764 / 2250]
晴気慶胤著
『上海テロ工作76号』
毎日新聞社
19〜20p
《 呉佩孚は、大迫少将が彼の時局収拾策に全く同意したものであると受け取った。
そして大本営派遣の大迫が同意したからには、北支軍も異存はないはずだと思いこみ、
さっそく匪賊を日本軍の占領地で招撫し、軍隊の編成に着手した。
そのころ華北の匪賊なるものは、いろんなものは合して百万を超えていた。
治安確保のためには、まずこれらを一掃しなければならないので、
北支軍は農村における討匪の手をどんどん広めていった。
一方、臨時政府も機構が充実してきたので、日本軍の討匪行と相まって、
華北の治安はようやく点と線から、面にまでおよんできたのである。
匪賊の側からみれば、これは大きな圧迫であった。
折も折、呉佩孚が招撫工作をはじめたので、
匪賊どもは日本軍の討伐からまぬがれるため、渡りに舟と喜んで招撫に応じ、
数万の匪軍がたちまち呉の足もとへ帰順してきた。
呉佩孚の私兵となった匪賊どもは、われわれは新中央政府の直系軍だといばりちらし、
臨時政府などは間もなく解消するだろうと宣伝した。
このため、まだ基礎の固まらない臨時政府の内部は非常に動揺した。
将来の不安をおもんばかって、逃亡する官吏や軍警が続出するという騒ぎだった。
こうした臨時政府の動揺は、日本軍の軍政や作戦の遂行に、
直接、間接影響するところが大きく、いろんな面で支障をきたすことが少なくなかった。
立腹した北支軍は、しばしば呉佩孚に善処を要望したが、
頑迷な老軍閥はいっかな応じる色も見せず、事態はいよいよ悪化してきた。
やむなく実力行使に移った北支軍は、帰順部隊の駐屯地を実力で回復して
臨時政府の行政地域に編入し、反抗する匪賊の討伐をはじめた。
呉佩孚工作はこうして早くも絶望的な暗礁に乗り上げてしまった。》
つづく
これは メッセージ 1762 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年 百人斬り新聞記事の発端
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/12 18:40 投稿番号: [1763 / 2250]
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
420〜421p
《 上海派遣軍は、呉福陣地突破後、悪路を冒して追撃を続行し、・・・
第十六・第十一師団及び第九師団の主力は無錫に前進し、
二十三日から無錫東方既設陣地による敵を攻撃し、二十五日同地を占領した。》
この無錫において、向井少尉と野田少尉そして浅海記者は出会ったようです。
ここから、百人斬りの新聞記事の構想が始まります。
以下は
『正論』
2001年8月号
335〜336pにあった、野田毅少尉の手記です。
これは2001年三月上旬、鹿児島県田代町に住む野田氏の実妹、マサさん
(2001年当時七十二歳)
が保管していた遺品の中から、見つけたものです。
野田毅少尉の手記
新聞記事ノ真相
《・・・十年以前ノコトナレバ
記憶確実ナラザルモ
無錫ニ於ケル朝食後ノ
冗談笑話ノ一説
次ノ如キモノモアリタリ。
記者「貴殿等ノ剣ノ名ハ何デスカ」
向井 「関ノ孫六デス」
野田 「無名デス」
記者 「斬レマスカネ」
向井 「サア未ダ斬ツタ経験ハアリマセンガ
日本ニハ昔カラ
百人斬トカ
千人斬トカ
云フ武勇伝ガアリマス。
真実ニ昔ハ百人モ斬ツタモノカナア。 上海方面デハ鉄兜ヲ、 切ツタトカ云フガ」
記者 「一体無錫カラ南京マデノ間ニ
白兵戦デ何人位
斬レルモノデセウカネ」
向井 「常ニ第一線ニ立チ
戦死サヘシナケレバネー」
記者 「ドウデス
無錫カラ南京マデ
何人斬レルモノカ
競争シテミタラ
記事ノ特種ヲ探シテ
ヰルンデスガ」
向井 「ソウデスネ
無錫附近ノ戦斗デ
向井二O人野田一O人トスルカ。
無錫カラ常州マデノ間ノ戦斗デハ
向井四O人野田三O人、
無錫カラ丹陽マデ六O対五O、 無錫カラ句容マデ九O対八O、
無錫カラ南京マデノ間ノ戦斗デハ
向井野田共ニ百人以上ト
云フコトニシタラ、 オイ野田ドウ考ヘルカ、 小説ダガ」
野田 「ソンナコトハ実行不可能ダ、 武人トシテ虚名ヲ売ルコトハ
乗気ニナレナイネ」
記者 「百人斬競争ノ武勇伝ガ
記事ニ出タラ
花嫁サンガ殺到シマスゾ
ハハハ、 写真ヲトリマセウ」
向井 「チョット恥ヅカシイガ
記事ノ種ガ無ケレバ気ノ毒デス。
二人ノ名前ヲ貸シテアゲマセウカ」
記者 「記事ハ
一切記者ニ任セテ下サイ」
其ノ後被告等ハ
職務上絶対ニ
カカル百人斬リ競争ノ如キハ
為サザリキ。》
*
ここでの、向井少尉の善意での空想話が元となり、
百人斬りの話が捏造されました。
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1938年 土肥原機関 呉佩孚工作1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/11 18:48 投稿番号: [1762 / 2250]
晴気慶胤著
『上海テロ工作76号』
毎日新聞社
18〜19p
《 呉佩孚は国民党の力がまだ弱かったころ、
中国の大半を一時支配した旧軍閥の巨頭であったが、
軍閥仲間の争覇戦に敗れ、十数年前に北京に引退した時代の敗残者である。
当時六十七歳だったこの老兵は、時代の推移さえも知らぬ頑迷な男だったが、
軍閥華やかなりしころの彼の声望が今でもあるとうぬぼれて、
政界への復活の機会を虎視たんたんとしてねらっていた。
土肥原中将はこうした男を、これ幸いとばかり利用しようと図ったのである。
呉佩孚は
「中央政府をつくってはどうか」
とすすめる大迫少将に対して、
次のようなことを述べた。
「事変は私が調停すれば片づくであろう。
もし天下の世論が私が調停に立つことを希望すれば調停の労をとってもよい。
しかし、調停に立つ前にそれを重慶政府に強要して受諾させることができるだけの
実力を養っておきたい。そのためには華北の匪賊を招撫したい。
私が命令すれば匪賊はすぐ集まる。匪賊を軍隊に改編して手兵とし、
彼らが支配していた土地に善政をしけば、軍、政の実力は容易に養える。
基幹となる軍隊ができたら政府をつくって行政区域を広げ、臨時政府を解消する。
蒋介石が調停をきかないときは、新政府の行政区域を重慶まで広げて、
事変を解決すればよい」
それは全く途方もない話だった。
日華事変を日華軍閥の争いのように昔ながらの眼で見た彼は、
匪賊を招撫して養った実力と軍閥当時の声望をもってすれば、
調停は容易に成功すると思ったのだった。
さすがの大迫少将も、この古色蒼然たる男の政治的手腕には、
いささかも期待をかけることができなかった。
ただ大迫少将は、新政府樹立の機運を中国の有識者層の間に醸成するため、
呉佩孚を利用したいと考えた。
つまり呉佩孚に、時局収拾のため草廬から出馬して新政府を組織すると
天下に声明させて、新政府樹立の機運をみなぎらせようと思ったのであった。
そこで呉佩孚には切に出馬を希望したが、もちろん彼を利用する下心があるため、
誇大妄想に近い老軍閥の時局収拾方策なるものに対しては、
その場では強いて反対もしなかった。
頑迷な呉佩孚に真っ向から理非を解けば、話がこじれるに決まっている。
それよりもうまく機嫌をつくろって、早く出馬させる方が得策と考えたからであった。
呉佩孚を一たん舞台に引き出してから、
後でゆっくりと彼が演じようとする芸の中で、
日本側にとって都合の悪いところをやめさせようとしたのだ。》
つづく
これは メッセージ 1760 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年11月 安全区の承認を求めるラーベ
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/11 18:40 投稿番号: [1761 / 2250]
ラーベの日記11月25日
《 ラジオによると、非戦闘員の安全区に対して、
日本はこれまでのところ最終的な回答をよこしていない
上海ドイツ総領事館を通じて、おなじく上海にいるラーマン党地方支部長に頼んで
ヒトラー総統とクリーベル総領事*に電報を打とうと決心した。
今日、つぎのような電報を打つつもりだ。
在上海ドイツ総領事館。
党支部長ラーマン殿。つぎの電報をどうか転送してくださるようお願いします。
総統閣下
末尾に署名いたしております私ことナチ党南京支部員、当地の国際委員会代表は、
総統閣下に対し、非戦闘員の中立区域設置の件に関する日本政府への好意ある
お取りなしをいただくよう、衷心よりお願いいたすものです。
さもなければ、目前に迫った南京をめぐる戦闘で、
二十万人以上の生命が危機にさらされることになります。
ナチ式敬礼をもって。
ジーメンス・南京
ラーベ
クリーベル総領事殿
本日私が総統へお願いしました日本政府に対する非戦闘員安全区設置に関する
お取りなしについて、貴殿のご尽力を心よりお願いする次第です。
さもないと、目前に迫った戦闘での恐るべき流血が避けられません。
ハイル・ヒトラー!
ジーメンス・南京および国際委員会代表
ラーベ
*ヘルマン・クリーベルは一九二三年のヒトラーによる反乱に加わり、
ヒトラーと共に禁固刑を受けた。だがこの頃にはヒトラーへの進言など、
とうにできない立場にあった。
電報代を考えてラーマン氏は後込
(しりご)
みするかもしれない。
そう思ったので、費用は私が持つからとりあえずジーメンスに
請求してくださいと付け加えた。
今日は路線バスがない。全部漢口へ行ってしまったという。
これで街はいくらか静かになるだろう。
まだ二十万人をこす非戦闘員がいるというけれども。
ここらでもういいかげんに安全区がつくれるといいが。
ヒトラー総統が力をお貸しくださるようにと、神に祈った。》
*
ラーベは気をもんでいるが、
日本が回答をよこさないのは、まだ、南京攻撃が、決まってないからだろう。
ラーベ達は、南京戦は当然という前提で
「 安全区を」
作っているが、
日本は、上海で戦争を終わらせるつもりで、中国の飲める和平案を出していた。
それを蒋介石が蹴った為、南京へ行くか、留まるかでもめている最中なのだ。
南京で戦争すると決めてもいないのに、南京の
「安全区を認めろ」
と
言われても返事の出来る筈がない。
「安全区を支持する」
と言えば、自動的に南京戦を決めた事になる。
さりとて、蒋介石が和平を拒否している以上、 「南京戦は無い」
とも言えない。
よって、「安全区は不要」
とも言えない。
だから、返答ができないのだろう。
これは メッセージ 1757 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年 土肥原機関に暗雲 唐紹儀暗殺され
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/10 18:52 投稿番号: [1760 / 2250]
晴気慶胤著
『上海テロ工作76号』
毎日新聞社
18p
《 土肥原中将は、唐紹儀を首班に推し、
呉佩孚を側面から協力させて新中央政府の骨幹とし、十月末に新政府を成立させ、
それまでに広西軍を寝返らせようと諸般の準備を進めた。
ところが唐紹儀は十月はじめに上海で暗殺され、
広西軍の寝返りもちょっと見込みがないことがわかり、
新政府の樹立工作はここに全く挫折した。
だが土肥原中将は容易に計画を捨てず、
今度は呉佩孚を中心とした新政府を立てようとした。》
これは メッセージ 1710 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年11月24日 九カ国会議閉会
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/10 18:47 投稿番号: [1759 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
169p
《 国民政府は、ブリュッセルの九カ国会議が
対日制裁の具体的方策を決定することを期待していたが、
会議は、二十四日、抽象的な宣言を採択しただけで閉会した。》
*
蒋介石は、いい結果が出るものと期待して、
日本からの大幅に譲歩した和平案を蹴ったのに、逆効果になりました。
これは メッセージ 1683 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年9月29日 中国軍 堤防を破壊し去る
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/09 18:49 投稿番号: [1758 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
文春文庫
83〜84p
《 九月二十九日午前零時、
第二軍長李延年は、右翼兵団総司令李品仙の許可を得て、
第九師に馬口湖北岸、第五十七師には馬口湖北西部と揚子江岸との狭隘部への
集結を下令し、移動開始時刻を
「午前二時」
に指定した。
・・・・
最後まで抵抗をつづけたのは、象山砲台である。
砲台は攻撃する呉第五特別陸戦隊を砲撃し、
揚子江を遡航してきた海軍艦艇も阻止しつづけた。
・・・・
現実に田家鎮に進出してみれば、敵はいない。
海軍より
「一足先き」
の事態にそれほどの感動をさそわれるものでもない……。
午前十一時三十分。
支隊長今村少将を先頭にして、呉第四特別陸戦隊司令横木中佐とともに、
軍旗と軍艦旗をならべての入城式がおこなわれた。
街は、中国軍が堤防を破壊して去ったため、
半分以上が水びたしとなり、汚臭が強烈にたちこめていた。》
これは メッセージ 1756 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年11月24日の南京 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/09 18:44 投稿番号: [1757 / 2250]
11月24日
《 ロイター通信社がはやくも国際委員会の計画について報じた。
すでにきのうの昼、ローゼンも、ラジオで聞いたという。
それによると、東京で抗議の動きがあるとのこと。
とっくに南京から逃げ出したくせになんでアメリカがでしゃばるのか、
ということらしい。それを受けてローゼンは上海のドイツ総領事館あてに
こんな電報を打った。いつものようにアメリカ海軍の仲介だ。
当地の国際委員会、ドイツ・ジーメンス社のラーベを代表に、
イギリス人、アメリカ人、デンマーク人、ドイツ人の各委員は、
中国および日本に、南京に直接戦闘行為が及んだ場合の
一般市民安全区の設置を求めております。
アメリカ大使は総領事館を通じ、この件を上海の日本大使と東京へ伝えました。
この保護区は一朝有事の際に、非戦闘員にのみ安全な避難先を提供するものです。
ドイツ人の代表に免じ、この人道的な提言に対する、
非公式の、とはいえ公式の場合に劣らない温かいご支援を乞う次第です。
私の手元にはザッツブーフ*しかありません。
よってこれを東京に転送し、米海軍を介してドイツ総領事館および
日本当局の返信を頂きたいと思います。
ローゼン
*
外務関係で用いられた暗号対照コード表で、
ドイツ語の単語がすべて五ケタの数字で表記される。
機密が保護されないため、極秘電報には用いられない。
中央病院院長のJ・ヘンリー・劉先生が去り、
「後を託された」
医師たちも二人ともいなくなってしまった。
伝道団のアメリカ人医師たちがいてくれなかったら、
この大ぜいの負傷者はどうなってしまったかわからない。
先日、贈られたトラックを一台動員した。
車が徴発されないよう、運転手の劉漢臣はドイツ国旗を掲げて走っている。
中国兵はトラックとみれば残らずとり上げてしまう。
カルロヴィッツ社のクリスティアン・クレーガーの話では
「命令」
が出たという。
つまり、南京の住民はすべて町を離れるようにという指令である。》
これは メッセージ 1751 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年9月23日 中国軍揚子江を決壊さす
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/08 15:40 投稿番号: [1756 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
文春文庫
69〜70p
《 第五戦区右翼兵団総司令李品仙は、第二軍の事情に不満をもち、
二十三日午前十時、次のように下令した。
「兵団為
鞏固武漢門戸、固守
田家鎮之目的、
田塞守備軍
応固守田
基本陣地及黄、馬二湖間地区……」
そして、最後に厳命した。
「非有命令不得撤退」
−。
総司令李品仙は、また、
第二軍の士気を高揚するために、武穴鎮の下流で揚子江堤を決潰させ、
日本軍の南からの進出にたいする顧慮を除去することにした。
−
ところが、
この揚子江氾濫作戦は、逆効果をもたらしただけであった。
氾濫した江水は、武山湖から黄泥湖一帯にあふれたが、おかげで日本側は、
工兵が鉄舟で第一線に弾薬、糧食をはこぶことができたからである。
その帰途には、傷兵も後送できる……。
しかも、二十三日夜半すぎには、田家鎮守護のためには不可欠とみられた
対岸の富池口が陥落した。》
注
鞏固
(キョウコ)
「強固」
の本来の字
これは メッセージ 1754 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年 南京進撃への策謀
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/08 15:34 投稿番号: [1755 / 2250]
第十軍が、独断で南京進撃しようとするのを、参謀本部の多田次長が止めました。
しかし、南京進撃を進めたいのは、第十軍だけではありません。
多田次長の部下の下村第一部長もそうです。
下村部長は秘策を練りました。
それは、大本営
(但し、宣戦布告した正規の戦時ではないので、
新たに事変に適用できる法令を作って設置された)
会議を利用することです。
児島襄著
『日中戦争4』
165〜167p
《 制令線の廃止が指示された十一月二十四日は、
第一回大本営御前会議の開催日でもあった。
天皇をむかえた会議出席者は
〔陸軍〕=参謀総長閑院宮載仁元帥、陸相杉山元大将、
参謀次長多田駿中将、参謀本部第一部長下村定少将。
〔海軍〕=軍令部総長伏見宮博恭元帥、海相米内光政大将、
軍令部次長嶋田繁太郎中将、軍令部第一部長近藤信竹少将。
この日の会議は、陸海軍の作戦計画を上奏するだけで、下問も質疑もなく、
しごく形式的な会議が予定されていた。
現に、会議は、両総長が作戦方針、両部長がその説明書を朗読して、終った。
―
ところが、
実際には、会議には、参謀本部第一部長下村少将の 〝工作〟 がひそめられていた。
下村部長の説明は、部員有末次中佐が起案して多田次長の承認も得たものだが、
その中支那方面軍の作戦については、次のように述べられていた。
「元来、此ノ軍ハ
上海付近ノ敵ヲ
掃滅スルヲ任務トシ
……
其ノ推進力ニハ
相当ノ制限ガ御座居マス
……
随 (したがっ) テ
一挙 直チニ
南京ニ到達シ得ベシトハ
考ヘテ居リマセヌ……」
つまりは、南京には行かぬ、行くにしても慎重に行く、
という多田次長の思想を反映した文言である。
南京進撃を主張する下村少将としては、この章句は不満である。
御前会議での上奏は、最高方針の決定にほかならず、
このままでは南京攻略は不発になりかねないし、方針を修正するには、
さらに上奏して時間をとられることになる。
下村少将は、そこで、会議の前に多田次長に語った。
「南京攻撃をやる場合があると云ふことを、申すかも知れません」
少将は、そのときの多田次長の反応を記述していないが、次長としては、
少将が南京問題について
「軽く」
付言する程度と理解したらしい。
だが、御前会議では、下村少将は、前述の説明案文につづいて、
次のように言明したのである。
「統帥部ト致シマシテハ、 今後ノ状況如何ニヨリ
該方面軍ヲシテ
新ナル準備態勢ヲ整ヘ、 南京其ノ他ヲ
攻撃セシムルコトヲモ
考慮シテ居リマス」
このくだりが朗読されたとき、参席者の多くは、思わず眉をあげて意外感を表明した。
御前会議では、発言するとき以外は、不動の姿勢のまま端坐して終始するのが慣例である。
一同は、それ以上の動きを示すことなく散会した。》
*
次長は怒ったが、後のまつり、ほとんど既定事項となってしまったわけです。
誰もが、動けない、つまり、反論できない状態を利用して既成事実化したのです。
と言っても、まだ南京攻撃が決まったわけではありません。
可能性が開かれただけです。
南京攻撃が決まるのは、まだ後です。
これは メッセージ 1753 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年9月17日 中国軍揚子江を決壊させる
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/07 15:14 投稿番号: [1754 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
文春文庫
61〜62p
《 第二軍長李延年は、九月十七日、今村支隊が松山口を完全占領し、
海軍・呉第四特別陸戦隊
(續木禎弌中佐)
が武穴鎮を攻略したのを知ると、
第九師と第五十七師の作戦地境を、馬口湖と黄泥湖の中間を縦断する線にかえた。
・・・・
今村支隊すなわち第十三連隊の前途が容易でないことは、
すでに地象と天象が告示していた。
松山口の前面は、右の馬口湖と左の黄泥湖にはさまれた陸路であるが、
両湖は中国側の揚子江決潰作戦によってあふれだし、
陸路の幅はさらにせばめられてわずか約三キロになっている。 》
これは メッセージ 1752 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年 制令線の廃止と新制令線の設定
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/07 15:10 投稿番号: [1753 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
164〜165p
《 第十軍参謀長田辺盛武少将をまねいての協議の結果は、さっそく
二十二日の中支那方面軍の第十軍にたいする南京追撃中止命令に具現したが、
同時に、その方面軍命令には、次の但し書がつけ加えられていた。
「但シ、湖州ヨリ
一部先遣隊ヲ
派遣スルコトヲ得」
先発隊を出して主力はあとから行け、との含意がうかがわれる命令であるが、
方面軍は、さらに参謀本部に意見具申してきた。
「中支那方面軍ハ、 事変解決ヲ速
(すみや)
カナラシムル為、
現在ノ敵ノ頽勢
(たいせい)
ニ乗ジ、 南京ヲ攻略スルヲ要ス」
疲れている上海派遣軍も、 「旬日」 (十日間)
の休養をとれば
追撃戦を実行できる、という。
なにがなし、第十軍がはりきり、方面軍がひきずられた感じである。
参謀次長多田中将は、 「不可
(いか)
ん」 「不可ん」
と連呼したが、
すでにひきずられるよりも
「ひきずりたい」
意思をもつ下村少将らに説得され、
十一月二十四日
「大陸指第五号」
を発令した。
「臨命第六〇〇号ヲ以テ指示セル
中支那方面軍作戦地域ハ、 之ヲ廃ス」
南京進撃
−
の下令にひとしい。
参謀次長多田駿中将は、しかし、なお内心では南京攻略に反対であった。》
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
419〜420p
《 次長は戦線拡大を深く憂慮していたので、
同日十八時、方面軍参謀長あて要旨次のように打電した。
「任務に基づく戦場追撃は認める。しかし状況によっては
大湖北方地区で方面軍の一部が無錫以西に進出することがあるのは予期するが、
大湖南方地区では湖州以西に戦面を分散拡大することのないよう、
また他に転用のため第十一師団及び重藤旅団等を
十二月初旬までに上海付近に集結させるよう考慮されたい。」
二十四日、方面軍は
「第二期作戦計画ノ大綱」
を作成し、
二十五日これを配布しかつ両軍に対し、無錫−湖州の線において、
じ後の作戦を準備せよと命じた。 》
*
つまりは、無錫−湖州までの線を新しい制令線とするようなものです。
簡単には、南京進撃を許可しません。
注
頽勢:タイセイ
くずれかかった勢い。
これは メッセージ 1747 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年9月11日 日本軍催涙ガス弾使用
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/06 18:41 投稿番号: [1752 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
文春文庫
53p
《
−
九月十一日、
第十三師団総攻撃
−
の日である。
・・・
八〇〇高地右側の第百四連隊は、前述した
「スケジュール表
」にしたがって、
丸山を攻撃した。
午後一時に砲撃を開始し、午後二時に第二、第三大隊が前進をはじめた。
午後三時、砲兵は歩兵の突撃支援のために煙弾と催涙ガス弾をうちこんだ。
「山一面は白煙と黒煙におおわれて凄惨な様相を呈し、
第一線将兵は地獄の中にある感じさえした」
しかし、攻撃は順調にはすすまなかった。
第百四連隊の左側の第六十五連隊は、第三大隊にマンジュウ山を確保させ、
第一大隊に三角山を攻めさせながら、第二大隊による八〇〇高地突撃をこころみた。
だが、中国軍の抵抗は激しく、八〇〇高地の中腹の部落にとびこんだ
第二大隊第八中隊は、そこで
「十字砲火」
の渦にまきこまれて
「行動不能」
になった。》
55〜56p
《 −
午後九時すぎ、
・・・
第百四連隊は丸山にたいする黎明攻撃を準備し、第六十五連隊は、
第二大隊が八〇〇高地の頂上まで約五百メートルの地点にせまっていた。
第六十五連隊戦記
『花の白虎部隊』
は、この稜線を
「血の道」
と回顧するが、
その呼称に誇張はなかった。
遅滞戦闘を命じられた中国軍第八十八師第五二八団の抗戦はめざましく、
機銃を乱射し、手榴弾を
「ナダレ」
のようにころがし落して、
第二大隊の接近を阻止した。
催涙ガス弾をうちこんだが、おりが悪く、風は上から下に吹いてきて、
ガスだ、防毒面だ、とあわてるのは、第二大隊自身であった。
そのガス煙をとおして、山頂のマイクから中国人なまりの日本語が流れてくる。
「ニホングンノミナサン、ココハアナタガタノクルトコロジャナイ……
クレバ、ミナ、シニマス……」
丁重な言葉づかいだけに、かえって小馬鹿にされた印象をうけ、
第二大隊将兵は、歯ぎしりした。》
これは メッセージ 1748 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年11月22日ラーベ国際委員会の代表に
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/06 18:31 投稿番号: [1751 / 2250]
ラーベの日記11月22日
《 十七時に、国際委員会の会議。南京の非戦闘員のための中立区域設置の件。
私は
「代表」
に選ばれてしまった。
辞退したが押し切られた。
良いことをするのだ、受けることにしよう。
どうか、無事つとまるように。
責任重大だ。
ドイツ大使が船で帰る直前、委員会の事務局長のスマイス教授を紹介することができた。
大使は委員会から日本大使にあてた電報を読んで同意してくれた。
これはアメリカ大使館の無線を通じて、上海のアメリカ総領事館から発信される。
イギリスとアメリカの大使にはすでに承認してもらった。
話し合った結果、上海の日本大使館に届くまで、電報の内容は公開しないことになった。
これが無駄にならないよう、祈るばかりだ。
フランスの委員はいない。それはここにフランス人がいないからで、
イタリア人も同じだ。英語の電報の内容は要約すると次のようになる。
デンマーク、ドイツ、イギリス、アメリカ合衆国の各国民によって構成される
当委員会は、国民政府と日本政府に対し、
南京市内ないしはその近郊で戦いが勃発した場合にそなえて、
難民のために安全区の設置を提案する。
国際委員会は、次の点を国民政府に保証してもらうことを約束する。
軍事交通局を含むあらゆる軍事施設を
「安全区」
から撤退させ、
非武装地帯とし、ピストルを装備した民団警官のみを置く。
また、その場合、すべての兵士およびあらゆる階級、
身分の士官の立ち入りは禁止される。
国際委員会は、これらが遵守され、滞りなく遂行されるよう配慮する。
国際委員会は、日本政府が人道的理由から安全区を尊重するべく
配慮してくれるよう願っている。
そのような慈悲深い措置こそ、責任ある日中両国政府の名誉となると信ずる。
国民政府との交渉をできるだけ早く成立させ、
難民保護のために必要な準備を整えられるよう、
日本当局のすみやかな回答を切望する。》
これは メッセージ 1749 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年9月11日 松本重治氏病気で入院す
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/05 18:52 投稿番号: [1750 / 2250]
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
314〜315p
《 九月八日、上海に帰り、 「同盟」
の仕事がたまっていたので、
二、三日でそれを片附けてから、報告のため東京へ行こうと考えていたが、
どうも身体の調子がよくない。
微熱があるようで、アパートにひとりでいては養生もできないので、
十一日だったか、北四川路の福民病院に入った。
「同盟」
の仕事は、田村 (源治) 君以下の同僚に一切を託して、
心配はないと思った。
松井内科部長が診察してくれたが、よく判らない。
胸部疾患じゃないかともいっていたので、一高の同級生の小児科の
小原直射君の夫妻が滋養分を摂ったほうがよいといって、
夜食に、すしなどを作って、もってきてくれた。が、どうもすっきりしない。
四、五日経つと、四十度ぐらいの高熱が出てきた。腸チブスと診断された。
真正チブスとパラ・チブスの二種の菌が発見され、
高度の熱が続き、心臓も怪しくなってくるし、頭が重くて、はっきりしない。
気懸りになっていたのは、梅思平との合意点を東京に伝えることであった。
それらは、メモ・ブックに書いてあるので、それだけは枕の下に置いていた。
入院数日後のある日、東京から駈けつけてくれた西君と伊藤君とが
私のベッドの傍に立っていた。メモ・ブックを手渡すとともに、
梅君や高君との話の要点を、病床で報告した。
報告し終ると、私は、重荷がおりたようで、それ以来、約二週間昏々と睡ってしまった。
危篤に近い状態が二度ほどあった。
東京で岩永さんが心配して、長兄の長与又郎博士と宮川伝研所長とが相談し、
若い医者を伝研から上海に急派するとともに、
毎日の熱と脈搏とを東京へ電報で知らせ、
両博士が処置をこの若いお医者に電信で指示する、という有様だった。》
これは メッセージ 1746 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年 敗走中国兵による略奪・放火
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/05 18:47 投稿番号: [1749 / 2250]
日本軍は敗走する中国兵を追って西へ進撃しました。
この時、三光作戦をやったという話がありますが、果たしてどうなのでしょう。
略奪が全くなかったとは言いませんが、
実は日本軍が来る前に中国軍が先に略奪していたのです。
上海から南京へ敗走する途中、中国軍は略奪や放火をやりました。
これについては、幾つかの証言があります。
ラーベの日記
《 11月10日
上海から戻ってきたわが国の軍事顧問の話では、
前線のうしろでは、軽傷を負った中国人の兵士たちがうろついているという。
もう統制がとれなくなっているのだろう。
そのため、夜はもはやモーゼル拳銃なしには旅はできないそうだ。
11月16日
蘇州では、舞い戻ってきた中国の敗残兵によって、ひどい略奪が行われたという。
済南の手前にある鉄橋が中国人の手によって爆破されたという。
日本人の進攻を防ぐため。》
孫元良の回想録
《 やがて我々は崑山から蘇州に後退し、ここで一休みできる筈だったが、
蘇州は既に秩序が乱れ収拾不能な都市になっており、我々に休む間を与えなかった 》
(鈴木明著
『新 「南京大虐殺」
のまぼろし』
211p)
第九師団・第36連隊長・脇坂次郎氏の東京裁判宣誓供述書
《 上海から南京に進軍中、我が部隊は常に先頭に立ったが、
沿道の部落の家屋が焼却され、毀損され、
また家屋内が略奪されていたのが相当認められた。
これは支那軍が退却に際し…放火・破壊した、
支那軍民の常習たる戦時の略奪によるものであると、支那人民から聞いた 》
(富士信夫著
『「南京大虐殺」
はこうして作られた』
211〜212p)
第九師団・山砲第九連隊・第七中隊長大内義秀氏の供述書
《 わが部隊は、蘇州へ向けて進撃すべく命をうけ、第一線部隊として進み、
蘇州到着までは、ほとんど敵の抵抗を受けなかったが、
蘇州に至る間の部落は酷く焼かれ、屋根のある家は少なく、住民もいなかった。
このような破壊は、支那軍が退却に際して行ったものと認める」・・・。
南京の東方約八里
(注・約三十二キロ)
の山地帯で敵の大きな抵抗にあった。
・・・この付近では営舎として利用できる家屋は支那軍のため焼却されていて
一軒もなく、日本軍はすべて野営した。》
(富士信夫著
『「南京大虐殺」
はこうして作られた』
210p)
徐永昌の日記
《 11月26日
聞くところによれば、蒋介石は、
不安分子がリツ水、リツ陽などで強奪・強盗などを働いたと聞いて
激怒したとの事 》
(鈴木明著
『新 「南京大虐殺」
のまぼろし』
220p)
これは メッセージ 1745 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年9月6日 日本軍とらえた捕虜を釈放
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/04 18:45 投稿番号: [1748 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
文春文庫
46〜47p
《 (中国は)
九月六日未明、同日
「二十時」
を期して
「開始撤退」
するよう、第二十六、第六十八軍に下令した。
−だが、
夜が明けると、同時に第二十六、第六十八軍の各部隊は
いっせいに退却をはじめ、日本軍第六師団は、全線にわたって追撃した。
第四十五連隊は、田中大尉の第十中隊を先頭にして、広済にむかった。
山をおりて本道に出ると、 「戦意を失った敗敵」
がうろついている。
足もとがヒョロヒョロしているので訊問すると、
「四日間なにも食べていない」
旨を応えた。
お互いさまだ、とうなずいた第十中隊長田中大尉は、
日本側の食糧事情にも思いあたり、部下が約三十人の捕虜を連行すると、
また漢口で会おう、といって、全員を釈放した。 》
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1937年11月 制令線の撤廃論議2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/04 18:41 投稿番号: [1747 / 2250]
児島襄著
『日中戦争』
162〜164p
《 十一月十九日、戦況はさらにすすみ、上海派遣軍第九師団は蘇州、
第十軍第十八師団は嘉興を占領した。
制令線に到達したのである。
が、すかさず、第十軍司令官柳川中将は、 「丁集作命甲第三十一号」
を下令した。
「集団ハ機ヲ失セズ
一挙南京ニ敵を追撃セントス」
その翌日、十一月二十日
・・・
参謀本部第一部長下村少将によれば、第十軍の南京独断進撃は、
この日はじめて報告をうけた。
「集団ハ、十九日朝、全力ヲ以テ
南京ニ向ツテスル
追撃ヲ命令シ、
概ネ左ノ如ク部署セリ」
という電報が、到着したのである。
「之は直ぐに止めさせなくちゃ不可
(いか)
ん。 作戦指導も之では不可ぬ」
参謀次長多田中将はおどろき、第一部長下村少将に指示したが、少将は、既述したように
「今一押し」
したほうがよい、との考えになっている。
「第十軍が斯
(こ)
ういふことを言つて居つても、
方面軍は中央の意図に非常に忠実にやつて居るのですから、
当然、方面軍が第十軍に対して処置するでせう。
それを中央が指示するといふやうなことは、よくありますまい」
少将は、そう応えた、と記述しているが、参謀次長多田中将は、
「兎に角、之は急を要するから是非止めさせて呉れ」
と、くり返し、少将は、中支那方面軍参謀長塚田少将に、
第十軍の企図が制令線を定めた命令に反する旨の注意電を発信した。》
つづく
これは メッセージ 1737 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年9月5日 松本氏、徐新六の死を知る
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/03 18:44 投稿番号: [1746 / 2250]
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
312〜313p
《 九月五日、高君から、朝めしに来てくれという電話があったので、
行ってみると、高君は、だいぶん元気になったようだ。
いっしょに、ゼラチンの入った中国風の朝粥を食べた。
結核にはゼラチンがいいとの説明も用いた。
私は、梅岩との会談内容の要点を、高君に話した。
高君は、梅君からその都度連絡があったらしく、だいたいは承知していて、
高君も、やっと和平運動の首班は汪兆銘に決めたという決意を話した。
ただ、 「蒋・汪両者の将来の関係は、なお熟考を要するが、これは私の責任だ」
といっていた。
話が一段落したとき、突然、周作民が現れた。
私がそこにいたので周作民も驚いたようだったが、
久しぶりで、私に会って喜んでいた。
しかし、周作民は、高君と私とに、
「新六が死んだんだよ。今、号外で、今朝、日本の海軍機が、
新六の乗っていた重慶行きの民間の飛行機を撃ち、
飛行機は不時着で、乗客九名中六名は焼死体となり、
あと三名は重軽傷だという話だ」
という。
私が
「徐新六さんがその三名の中にあればよいがね」
というと、
高君は、 「新六は、必ず死んでいるよ。
エンジンが焼けたときなんか、新六は、他の乗客に
『どうぞおさきへ』
などといって、自分は最後に機体から出ようとしたが、
すでに機体に火が廻っていたに違いない」
といった。
三人暗然として、新六のため祈る気持が一杯で、みんな黙ってしまった。
しばらくすると、高君が、
「シゲちゃん、新六も作民も、みんな和平運動の有力な後援者なのだよ」
といった。
私は、 「昨秋中、定期的に会って話をしていたのは、新六だけだったのに」
と繰り言をもらした。
それには、周作民も高君も、また驚いたようであった。
私は、周さんと高君と話があるのだと推測して、
「宗武、からだを大切にね」
と、顔をじっと見ながらいった。
高君は、 「シゲちゃん、もう大丈夫だよ、新六は亡くなったが、
これからは、僕も働かなくては」
と張り切っていた。》
これは メッセージ 1742 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年11月 国民政府の遷都宣言
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/03 18:37 投稿番号: [1745 / 2250]
〔昭和12年11月21日
東京朝日〕
《〔上海二十日発同盟〕
国民政府の遷都宣言の内容、左のごとし。
盧溝橋事変発生以来、平津
(北京・天津の事)
が陥落し戦事蔓延してより、
国民政府は日本の止まるところを知らざる侵略に鑑み、
自衛のため抗戦するに決定、全国の民衆は敵情心に燃えて戦い、
全体将士は忠勇奮戦した。
侵略された各省は極めて激烈な奮闘をなし、極めて壮烈なる犠牲となった。
しかして淞滬の一隅では抗戦既に三カ月に亘る。
各地の将士は奮って国難に赴き、その前線にあっては血肉のみを以って塹壕を構築し、
死すとも退かず。日本はその陸、海、空軍の力を合わせて攻撃し来たったのである。
陣地は灰燼となるも軍心は金石のごとく、
戦場における勇気と戦事の激烈とは、実に民族独立の精神を明示するものである。
しかして中華民族復興の基礎となるものである。
日本は更に暴威を揮い、兵を分けて西進し我が首都に迫る。
その意を察するに、その暴力により我に城下の盟を要求せんとするものであるが、
彼は我が国が抗戦自衛を決定した日より既に最後の関頭たる事を銘記し、
国家の生命のため、国際正義と世界平和を図るため、
屈服の余地なきに至った事を知らない。
およそ血気あるものは、むしろ瓦全より玉砕を欲する決心を持たざるものはない。
国民政府は戦局に適応し全局を統一して、長期抗戦のため本日、重慶に移転する。
今後は最大の規模により持久の戦闘に従事する。
中華は多数の人民と土地の広大と、人々が必死の決心を備え、
更に熱血と土地とを以って凝結し一丸となり、
いかなる迫力もこれを分離する事は出来ない。
外は国際の同情を得、内に民衆の団結あり。
抗戦を継続して、必ず国家民族生存独立の目的を達するであろう。
特にここに宣言する。》
注
淞滬:呉淞から上海までの地域の事
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1938年 両角大佐、「足鎖」の少年兵に激怒
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/02 19:02 投稿番号: [1744 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
文春文庫
39〜40p
《 九月二日には、無事に黎家集についた。
苦労したのは、第十三師団である。
葉家集の中国軍は頑強に抵抗し、第百四連隊第二大隊は、
一日から二日朝までかかってようやく部落を占領した。
部落には、師団の
「十カ月ぶん」
の飯米が遺棄されていて、
報告をうけた第百三旅団長山田栴二少将は、拍手して喜んだ。
第百四連隊の左側の第六十五連隊も、開順街をまもる約三百人の
「犠牲兵」
の抵抗にてこずった。
ようやく突破してみると、ひとつのトーチカ陣地に、十六、七歳の少年兵が
足を鎖で支柱に結びつけられ、手榴弾で自決している姿が発見された。
捕虜の説明によると、 「足鎖」
は少年兵自身の希望によるもので、
死守の覚悟が動揺して逃げてはならぬとの自戒のためであった、
上官もその嘆願にしたがって少年兵の足に鎖をまき施錠した、という。
だが、第六十五連隊長両角業作大佐は、怒った。
たとえ、少年兵が望み願ったにせよ、そのような異常事をゆるすのは、
指揮官として欠格である。
「非人道もはなはだしい。鬼畜にもまさる敵軍の将校どもだ」
大佐は、怒りと哀悼の意を、涙でにじむ双眼で表明しながら、
酸鼻な少年兵の屍体に黙祷した。》
これは メッセージ 1742 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年 蒋介石の「ここまで来てみろ」宣言
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/02 18:54 投稿番号: [1743 / 2250]
上海を攻撃していた中国軍は第十軍の上陸をきっかけに、退却をはじめました。
そのスピードが速いため、追いかける方も、無人の野を行くかのようになりました。
11月19日
日本軍は制令線の蘇州・嘉興を陥落させます。
ここでストップです。
この時、蒋介石は
「・・・敵が南京に至れば我々は南京を防衛する。
敵が四川を攻撃すれば我々は四川を防衛する。
敵の侵略が続く限り我々は永久に戦い続けるであろう」
(鈴木明著
『「南京大虐殺」
のまぼろし』
159p)
と世界に向けて宣言しました。
まるで、 「ここまで来てみろ」
と言ってるかのように。
しかし、まー、よく、こういう妄言が吐けるものです。
日本は
「戦争を止めよう」
と温和な和平案を出したのに、それを蹴っておいて、
「日本が侵略している」
と、ふざけた事を言っているのです。
好条件の和平案をけっておいて、「侵略された」
も何もないでしょう。
当時の日本には、まだ、南京へ行く計画はありません。
一部の将軍が南京進撃を進言していますが、参謀本部が止めています。
しかし、蒋介石が和平を拒否し続ければ、
“南京進撃” の抑止も続けられなくなるでしょう。
これは メッセージ 1741 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年9月2日 松本・梅思平会談
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/01 14:40 投稿番号: [1742 / 2250]
松本重治著『上海時代・下』中公新書
311〜312p
《 第五回の会談は、久しぶりに香港ホテルでやった。総ざらえのためであった。
私が、「日本が撤兵を決して、その声明をやれば、君たちの和平運動は
どのように進展するかを話してくれ給え」
と頼むと、
梅君は、初めて、 「和平運動は、汪
(兆銘)
さんに領導してもらわなければいかん。
周仏海など私らの同志は汪さんの傘下に入る。
汪さんと行動をともにするのは、雲南の竜雲、四川の将領、広東の張発奎その他だが、
すでに、内々に連絡をとっているのだ。
停戦、撤兵に反対するものは中国にはないはずだからね」
と、
いろいろの手筈や計画を詳細に話してくれた。
最後に、梅君は、
「今までのところ、蒋さんはじめ、日本を信用していないのだ。
最大の問題は、日本が、君のいったように、
中国人が日本を信用できるように行動してくれることが、いちばん重要なのだ。
その点、松本君や君の同志の努力に俟つばかりだ。こちらも、一生懸命にやるよ」
といって、幾度も固い握手を繰り返して、別れた。
梅君が帰ってから、私はホテルの部屋で、ますます私らの重大な責任を感じた。
五回の会談中に、すでに九月二日には、喬輔三から中村総領事に対し、
「宇垣 − 孔祥熙との交渉は打切りにしたい」
と通告してきたのを知った
(梅思平・松本の合意内容は、後日、十一月二十日附の
「日華協議記録」
にその骨子だけは再現されているが、
ニュアンスは、少なからず変っている。今井氏前掲、八〇−八一ページ参照)。》
*
《梅君は、 「今までのところ、蒋さんはじめ、日本を信用していないのだ。・・・」》
とあるが、気にする必要はない。
中国人は、中国人すら信用しない。
「雲南の竜雲が行動をともにする」
と勝手におもいこんでいるが、
後に裏切られる。
向こうは信用していないのだ。
どっちについたが安全か?
で二股かけているだけ。
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1937年11月19日 蘇州 ・ 嘉興陥落
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/01 14:25 投稿番号: [1741 / 2250]
『大日本帝国の戦争2
太平洋戦争』
毎日新聞社刊
22p
《 11/19
中支那方面軍、蘇州 ・ 嘉興占領 》
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
418p
《 参謀本部は第十軍から次の十九日発電の報告を受けた。
一
集団ハ
本日正午頃
嘉興ヲ占領シ
夕刻
略々
掃蕩ヲ完了ス 》
鈴木明著
『 新 「南京大虐殺」 のまぼろし 』
219p
《 徐永昌の日記
19日
九時、嘉興が占領されたことを知る
(日本軍発表によると、嘉興を占領したのは十一月十九日)。
伝聞によれば、敵はあまり労せずして占領したとのこと。
常州の顧祝同から電話あり、わが軍は既に無錫、江陰の線まで後退の由。
何応欽、白崇禧など連れ立って蒋介石の許を訪れ、現状を見るに、
長期間の
(南京)
守城は
(戦力を消耗するので)
必要なく、
江陰の線で何日か持ちこたえればよし、と進言。
何応欽は、軍政部所管の物資、兵器を運ぶのに、百本の列車が必要と発言、
蒋介石は、嘉興、蘇州の失陥をきいても、顔色一つ変えなかった。》
児島襄著
『日中戦争』
162p
《 十一月十九日、戦況はさらにすすみ、上海派遣軍第九師団は蘇州、
第十軍第十八師団は嘉興を占領した。
制令線に到達したのである。》
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1938年9月1日 松本・梅思平会談
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/30 14:52 投稿番号: [1740 / 2250]
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
310〜311p
《 翌々日の第四回は、また別の小さな中国人のホテルで開かれた。
調度品その他が、だんだんわるくなってきた。
私が、「梅君、会議の場所が、だんだん格下げになってきたようだが、
話は、お互いに格下げはできんよ。
今日は、例の排日・抗日の宣伝や教育について、君の意見を聴きたい」
と問題を出すと、
梅君は、「抗日の宣伝や教育の問題は、あまり重要ではないだろう。
もともと、日本の帝国主義が中国の民族主義を武力や恐喝でいじめるものだから、
自然にそうなるんだ。国民政府や党部の取締りなんか、いくらやったってだめだろう。
松本君、そう思わないかね」
という。
私が
「そのとおりだ。本を匡せば、末はちゃんとよくなる。
中共や救国会がいくら効果的に宣伝をやったとしても、
火元が消えれば、自然、焔も消える。
撤兵をやれば、万事解決だ」
との持論を話すと、
「松本君、そのとおりだ。
しかし、近衛総理が解っても、日本には統帥権とかいうものがあって、
政府とは別行動をとってきたように思うが、撤兵は大丈夫かね?」
と、念を押す。
「梅君、君も相当な日本通になったね」
と、私が少しからかうと、梅君も大笑いする。
私がつづけて、
「だから、こんどの和平交渉は、私らは、統帥部の幕僚幹部と話を進めているのだ、
外務省には、話はしていないのだ」
というと、
「イヤ、それで、よく解った。中国の排日教育と日本の統帥権とね」
と、梅君もうなずく。
私は、 「排日教育の行き過ぎと統帥権の濫用とだよ。
とにかく、日本は、中国観を百八十度転回して、新たにしなければならん。
そうすれば、中国の日本観だって、また百八十度変ることになる」
というと、
梅君は、 「そのとおりだ」
といわんばかりに、大いにうなずいたのであった。》
*
梅思平が
「反日教育は、日本の武力や恐喝の結果だ」
と言い、
松本氏は、これに納得し
「中共や救国会がいくら効果的に宣伝をやったとしても、
火元が消えれば、自然、焔も消える。」
と能天気な事を言っている。
しかし、これが間違いのもとである。
日本が武力で威嚇する前に、中国人のテロや暴行、略奪があっている。
日本が抗議しても、蛙の面に小便の態度、だから、武力威嚇となる。
これは日清戦争より前からで、日清関係では台湾征伐までさかのぼれる。
「火元が消えれば、自然、焔も消える。」
と思うのは日本人の感覚。
現に日本軍が撤兵して67年近くなるが、未だに反日教育は消えてない。
火が消えたら、向こうは、火をつけるのだ。
つづく
これは メッセージ 1738 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年 中国 遷都と南京守城を決める
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/30 14:30 投稿番号: [1739 / 2250]
鈴木明著
『 新 「南京大虐殺」 のまぼろし 』
218〜219p
《 徐永昌の日記
11月15日
「11時、蒋介石が会議を招集、私が先着し、何応欽、唐生智、白崇禧、
○○
(判読出来ず。以下同じ)、 劉斐が続いて到着。
この会議で、敵と交戦しながら、首都機能を長江上流に移転されることが決定した。
私は、作戦を中断することは出来ないが、
急に臨んで、あわてふためくのは不可であると述べた。
会議後、何応欽は、銃弾を運ぶだけでも、準備が十日は必要だ。
何故
(蒋介石は)
このことをもっと早くいってくれないか、
と不満げな口ぶりだった。
16日
十時、何応欽宅にて、各軍事機関の移転を決定。
何応欽は細かく説明していたが、一向に要領を得ず。
十二時帰宅、四時半
(上海方面の)
兵力配置を調整した。
広東軍と貴州軍を左翼
(南京から見て左、つまり揚子江の側)
に、
広西軍、湖南軍を右翼
(太湖の南)
に投入、
左翼から中央軍を五、六軍団引揚げさせ、南京防衛に当られる方針。
六時から会議は再開。南京守城を決議。
唐生智が司令長官となり、三カ月ないし一年を守衛出来るだろう、と皆に期待される。
続いて汪精衛が政府機関を動かす方法について報告。
最後に蒋介石は〝抗戦既に三カ月経って、わが軍の死傷者は三十万人に達した〟と報告。
次いで、日本はドイツ、イタリアの国際勢力を背景とし
(イタリアは、この日記の書かれた約十日前、十一月八日に
「日独防共協定」
に加わって、日独への好意を示していた)、
わが国の方は、イギリス、アメリカ、フランス、ソ連の応援があるが
(十一月から、日本に対して非難決議を行うと期待されていた
「九カ国会議」
が、
十一月二二日からベルギーのブリュッセルで開かれており、
十五日は、まだその会議が進行している最中だった)、
まだ対立点も残されており、予断は出来ない。
そのためには、ねばり強い抗戦を続けなければならず
(首都を重慶に移して
―
日本は、重慶まで攻めてくることは出来ない)、
日本も戦いを止めるわけにはゆかず、これによって、国際情勢の変化も考えられる。
抗戦を続けるに当って一番大切なことは、
持久戦に耐えられる民族精神を持つことである、という。 》
*
この中で、蒋介石は
「日本はドイツ、イタリアの国際勢力を背景とし」
と言っているが、この言い方はおかしい。
ドイツ軍事顧問が、現に、中国軍を指揮し助けているではないか。
恩知らずにもほどがある。
ドイツは九カ国条約会議に参加しなかっただけで、
イタリアは日本糾弾宣言案に反対しただけだ。
ドイツが不参加なのは当然である。
この戦争は中国がしかけた事を、内部から知っているのだから。
日本が侵略しているとは、口が裂けても言えないし、
と言って、中国が悪いとも、立場上いえない。
日独伊防共協定が敵とするのは共産主義であって中国ではない。
つづく
これは メッセージ 1737 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年8月31日 松本・梅思平会談
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/29 18:42 投稿番号: [1738 / 2250]
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
309〜310p
《 翌日の第三回目の会談は、梅君の提案で、第三の場所を、
小さな中国人経営のホテルに定めた。梅君から、
「撤兵問題を君は話したが、撤兵に要する期間の問題とか、
例外的に駐兵する区域の問題とかは、君はどう考えるか?」
と、まず質問があった。
私は、待ってたとばかりに、
「撤兵には少なくも一カ年半か二年はかかるよ。あまりに早急に撤兵すれば、
撤兵区域を、中央軍と、八路軍や新四軍とが奪い合うに定っている。
治安がわるくなれば、君たちの心配している民生のための問題も懸念される。
それに、華北の一部と蒙疆にも、一部の駐兵が必要だろう。
もちろん駐兵は防共の名義だが、名義だけではなく、
実際上、防共のための必要から、そういう区域に、
一定期間、駐兵するという日本側の主張は、ぜひ考慮してもらいたい」
と主張した。
梅君は、
「撤兵は原則だということは解るが、例外が多すぎては、原則も変になってしまう。
しかし、君がいう防共のための小さな特定区域の駐兵と、
しかも、一定期間と限るというなら、呑んでよい。
しかし、ちらほら聞いたことだが、日本側は、上海を中心とする長江下流の
『三角地帯』
とかの駐兵を要求しているそうだ。僕は絶対反対だよ」
と、きっぱりいう。
私が、 「『三角地帯』
の駐兵は、海軍が主張しているように聞いているが、
盧溝橋事件以前の原状回復という限度なら、文句はないだろう」
と、
少し譲歩しながら、切り返すと、梅君は、
「そこまで君が譲歩するなら、 『三角地帯』
の問題は、解消したとみてよいね」
とだめを押す。
私は、東京で影佐大佐との話合いで、
陸軍としては、そこまで譲ってもいいとのことを想い出していたので、
「海軍は、まだぶつぶついうかも知れぬが、大局が走れば、これは、折れるだろう。
それで、 『三角地帯』
論議は、ここではもうやめよう」
と答えた。
梅君も私も、少し疲れてきたので、午後六時ごろ、打ち切った。
周隆序君は、徹頭徹尾、忠実、かつ正確に、通訳してくれた。》
つづく
これは メッセージ 1736 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年11月 制令線の撤廃論議1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/29 18:35 投稿番号: [1737 / 2250]
第十軍が杭州湾に上陸し、
第16師団が11月13日に、揚子江の白茆口に上陸してから、
中国軍は完全に退却を始めました。
現在の我々なら、 「よかった、敵が逃げた。戦わなくて済む」
となるですが、
第十軍の上層部は不満だったようです。
児島襄著
『日中戦争4』
161pには
《「上海決戦」
が不発に終り、
期待した
「剿滅戦」
は
「撃退戦」
でしかなく、
しかも、中国軍の雪崩れ風の退却ぶりをみると、もはや
「中支那方面ニ於テ
敵軍主力ヲ捕捉殲滅
スルノ機会ハ
逸シ去リタルモノ」
と、判定されるからであった。
いわば、第十軍の主目標は失われたわけである。
第十軍は、だから、新目標として首都南京をえらび、その占領によって
中国側に
「政戦両略上ノ打撃」
をあたえよう、と決心する。》
とあります。しかし、参謀本部が蘇州 − 嘉興ノ線までという制限を設けています。
これでは、面白くないから、制令線をはずしてくれという話になるわけです。
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
417pより
参謀本部作戦課では、十一月十五日、情勢判断を行い、
制令線を変える必要はないと判決しました。
しかし第一部長下村定少将は、
「この際、戦機をとらえて制令線をいっせいに今一押し出て強圧を加えたらどうか」
と
作戦課に研究を命じたのです。
結局、河辺作戦課長が上海に赴き、現地の実情を確かめてからとなりました。
児島襄著
『日中戦争』
161〜162p
《上海では、中支那方面軍司令官松井大将、参謀長塚田少将、参謀副長武藤大佐の
いずれもが上海派遣軍の疲労を指摘し、ひきつづいての進撃作戦は困難だ、
と説明・・・だが、第十軍はまだ疲れていない。
・・・
第十軍もふくめて中支那方面軍が制令線内で日をすごしたら、どうなるか。
北支那方面軍も、ようやく太原を攻略 (十一月八日) したが、
待機の態勢をとっている。全日本軍が腰をすえるのは、
そのまま中国軍に戦力回復の時間を贈与するだけではないのか。・・・
つづく
これは メッセージ 1735 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年8月30日 松本・梅思平会談
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/28 18:44 投稿番号: [1736 / 2250]
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
307〜309p
《 翌八月三十日午後三時、梅君が予約してくれたグロスターハウス・ホテルの
部屋に行き、梅君、周君と、すぐ本論に入った。
まず梅君から発言し、
「僕を推輓してくれたのは蒋介石であったと昨日も松本君に話したが、
そういう私情はこの際は問題にならない。
日本軍の撤兵の条件として、
日本側が蒋の下野を要求するのは、もっともだとは思うが、
中国側の事情としては、抗日戦争の指導者たる蒋介石の下野を、
日本側が条件として要求すれば、一切の交渉がだめになる。
もし宇垣外相が孔祥熙対手の交渉でそれを持ち出せば、
孔との交渉は、きっと早晩打切りになる。これは間違いがない。
仮に日本側が撤兵を声明し、現実に一部的に撤兵をやったって、
蒋が下野することは、中共が絶対反対になるに定っている。
ふたたび内戦の開始となって、とめどがなくなる。
中国の民生はどうなるか、事実、日中戦争をやっているのに、
また内戦となれば、中国の国民生活の苦しみは、想像を絶することになる。
僕らが和平を唱えるのも、中国の民生を考えるからだ。
内戦での国共の勝敗如何は第二の問題で、第一の問題は民生を保護することにある。
この考え方は、汪兆銘はじめ、周仏海、陶希聖、胡適、張君バイ
(萬+力)
ら、
みんな同じ考え方なのだ。根本は人道問題なのだ。
松本君、中国事情に通じている君にこれが解らんはずはないだろう」と、
論法鋭く詰め寄る。私にも解らぬこともないので、
「日本側の要求としての蒋介石の下野は、固執しない。
その点は、私も日本に行って説得しようが、二つの代案を君に考えてもらいたい。
第一は、蒋の下野は、中国側で措置すること、第二は満州国の承認だ。
第一の点は、撤兵声明を梃子にして中国側の和平運動を大々的に強化する。
そして、結果的には、抗戦継続反対の輿論が強くなれば、
蒋介石が名分を立てて下野し得ることにはならないかという点、
第二には、今まで、日本の政府と国民は、もう七年間も、『日満中の協力』
というスローガンを国策のシンボルと考えてきた。
だから、撤兵の第二の条件として、満州国の承認ということを、
日本側は、きっと主張するに違いない。
蒋介石の本心だって、抗戦の目的は、長城以南の領土的、行政的主権の完整にあるので、
東北四省は、場合によっては、どうでもよいというのではないか」
と論じた。
梅君は、「松本君のいうことは、中国にとって容易ではないが、
われわれにも、その二点は、充分に考慮に値すると思う。
東北四省が、
『赤く』
なってしまえば、われわれにも重大な危険を
感ずる次第だからである。イギリスなんかも、それを心配して、
リース・ロスをして、その点を持ち出させたのだ」
と答えた。》
つづく
これは メッセージ 1734 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年11月 上海での手榴弾テロ
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/28 18:30 投稿番号: [1735 / 2250]
上海を包囲していた、中国軍の脅威は大体取り除かれました。
しかし、まだ、安心はできません。
中国が和平を拒絶しているからです。
それに租界にはテロリストが潜伏しています。
塚本誠著
『ある情報将校の記録』
224〜225p
《 戦線が上海から西へ遠ざかっていった十一月中旬のある日、
軍はわが威武を上海市民に誇示すべく、
上海周辺の諸兵種の部隊から混成一旅団を編成、
共同租界内で示威行進を行なうことになった。
行進順路は、ゼスフィルド公園を発起点とし、
アペニン路
(共同租界とフランス租界の境界線)
から虞洽郷路
(ユーヤチンロ)
と
南京路の交叉点
(競馬場東側)
を右折し、
上海の銀座通りともいうべき南京路を東進して北四川路に抜けるのである。
上海憲兵隊は五十嵐隊長以下が行進の警戒に当たった。
行進部隊は意気揚々、先頭の軍楽隊、各隊の喇叭手を先頭に行進するのだが、
両側の店舗は悉く鉄扉を閉じ、ビルの窓はすべてカーテンをおろし、
路上には中国人の影はまったくない。
日頃雑踏を極める南京路が死の街と化しているのは、中国民衆の無言の抵抗である。
部隊の最後尾が南京路の永安、新々両デパートの前にさしかかった時、
突然最後の部隊に向かって一人の中国人が手榴弾を投げつけ、
兵士が一名傷をうけて倒れた。
犯人は工部局巡警の手で直ちに処置され、
行進部隊は最後尾の中隊だけを残して行進を続けていった。
この時、私は部隊の最後尾を前進していたので、直ちに部下に現場検証を命じ、
軍渉外部長深堀中佐
(28期)
と共に最寄りの店先のベンチに腰を下した。
そこへ真先に駈けつけて来たのが同盟通信の記者堀口瑞典君である。
その時、米軍の警備司令官が革の鞭を手にして単身やって来て、
抗議めいた態度で深堀中佐に話しかけるが、中佐は黙ったままである。
堀口君が私に、
「南京路と虞洽郷路の交叉点に日本軍が米軍警備地区へ銃口を向けて
軽機関銃を据えているのは怪しからんといっているのだ」
と説明したので私がその旨を中佐に伝えると同時に、米軍司令官に日本語で
「わかった。悪かった」
というと堀口君が直ぐに通訳してくれた。
彼は、 「オーケー」
と私に笑顔を見せて立ち去った。》
これは メッセージ 1733 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年8月29日 松本・梅思平会談
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/27 18:51 投稿番号: [1734 / 2250]
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
306〜307p
《 八月二十九日から、五回にわたって会談した。
初めは香港ホテルで始めたが、最初二、三回ぐらいで済むと思ったが、
梅君は、なかなかの論客で、しかもネタを少しずつ出すという態度であり、
おまけに、通訳入りなので、話が進まず、結局、五回になってしまった。
終ったのは九月三日の土曜日であった。
汪派であり外交部科長の周陸庠君が終始通訳をやってくれた。
日本語がすごく巧いうえ、人柄もよかった。
私は、第一回の会談では、まず梅君がどういう人物であるかを確かめる必要が
あったので、冗談をいったり、私の身の上話などをしたら、
彼も、だんだんほぐれて、彼の身の上話や、得意の江寧県の模範県長時代の話をしたが、
おかげで借金が出来てしまったこと、しかし、そのため蒋介石に認められたこと、
それから、周仏海とは、CC団の同志であり、
陥落以前から南京で和平問題を談じ合ってきたことなどを、率直に話してくれた。
そんなことで、ずいぶん時間が要ったが、別れる前に、私が、
和平運動の成否は撤兵にあり、撤兵のためには、日本側としては
蒋介石の下野が必要だと、簡潔に話すと、
梅君は、急に真剣になり、「松本君のいうとおり、撤兵は和平運動の要であるが、
蒋の下野を日本側が要求するというかたちはまずい」
と、言下に断言しながら、
次回は、その間題からゆっくり話そうといった。
そして、あとをつけられるといけないから、
明日はグロスターハウス・ホテルにしようと提案したので、承知した。
しかし、私は疲れやすいので、ランチのあと、ちょっと午睡
(ひるね)
をしてから
毎回午後三時としようと頼み、梅君も諒解してくれた。》
つづく
これは メッセージ 1728 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年 体験談4 敵傷病兵に施薬
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/27 18:45 投稿番号: [1733 / 2250]
これは、体験談3における座談会の続きなので、H上等兵の所属は、たぶん、
歩兵第四十七連隊
(大分)
第三大隊第十二中隊と思われます。
東中野修道
編著
『1937南京攻略戦の真実』
小学館文庫
164〜166p
《 H上等兵
黄浦江で汽船や帆船を見、ホーこんなところにも船がと感嘆の声を洩らして
なお前進し、河に面した村落で露営することになりました。
早速好きな食べ物はないかと永田上等兵と二人で行きますと、
家の陰に一人の男がうずくまって苦しそうに喘
(あえ)
いでいます。
すかしてみると敵兵です。
しばらく佇
(たたず)
んで様子を見ていますと、
負傷でもないが如何
(いか)
にも苦しそうです。
起こして調べてみますと何も持っていません。
そして世の終わりのような顔つきで腹を指さし、ウンウン唸
(うな)
ります。
可哀相でしたので連れてかえり、クレオソートを飲ませて部屋の隅にねせておきました。
一晩中厠
(かわや)
に往復してはヒイヒイ年甲斐もなく泣いていました。
おかげでおちおち眠れもしませんでした。
翌日は共に退
(ひ)
いて歩けんと思いましたので、
分隊全員で病に斃
(たお)
れた敵兵に贈る義捐金
(ぎえんきん)
を募り、
少ない糧秣
(りょうまつ)
を分けるとか、
後からくる友軍に依頼状を書いてやるとかしましたら、
すっかり感激して慟哭
(どうこく)していました。
敵傷兵に施薬−歩兵第四十七連隊(大分)
第二中隊
伍長
S・S
敵の大軍は、我が軍のために完全に撃破されました。
見れば幾十となく敵の死体が転がつております。
中にはまだ虫の息で唸っておる者さえおります。これを見られた隊長が、
「苦しいか、今、薬をやるぞ」
と何かやられますと、一兵士は目を開けて、
「冷水、冷水」
と、かすれた声で哀願しました。誰かが水を飲ませてやりますと、
両手を合わせ涙をたたえ、 「謝、謝」
と伏し拝みました。
これは青浦城陥落直後の話ですが、今までに我が中隊では幾十人となく、
敵兵を救い、郷里に帰してやりました。
その中には中隊のために骨身を惜しまず、弾丸下もものともせず、
実に勇敢によく働いた者も沢山あります。
そして彼らが故里に送り帰される時は別れを惜しんで泣いて別れるのでした。
謝々と
別れを惜しむ
村はづれ》
*
日本兵は捕虜を虐殺したかのように言われていますが、
実は義捐金
(ぎえんきん)
まで募って援けていたんですね。
地震災害や津波災害でなく、戦って斃れた敵兵にまで。
これを虐殺にすり替えられ、それを信じる日本人はバカですね。
これは メッセージ 1731 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年8月28日 日本軍初めて特殊煙使用
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/26 18:51 投稿番号: [1732 / 2250]
日本軍は漢口攻略戦に於いて特殊煙を使用しました。
児島襄著
『日中戦争5』
文春文庫
33p
《 八月二十八日、第二軍方面では、第十師団第三十九連隊が六安を攻略した。
第三十九連隊にとっては、徐州戦いらいの戦闘であったが、
第一大隊が午後五時十二分に南門から突入し、次いで第三大隊が西門を占領した。
中国軍守備隊は、大部分が西門から退却ずみであったが、なお少数の残兵が
門内の民家を拠点にして抵抗した。
第三大隊は、 「特殊煙
(毒ガス)
ヲ使用シテ撃滅」
した。
第三十九連隊の損害は戦死四人、負傷三十人であった。
第十一軍第百六師団の戦場でも、翌日、八月二十九日、凱歌があがった。》
*
ここで、毒ガスとありますが、日本軍が使ったものは、催涙ガスとか
クシャミ剤で、イペリットガスのようなものではありません。
*
捕捉、昭和14
(1939)
年になって初めて、
黄剤
(イペリットなどのビラン性ガス)
の使用が検討されます。
《 大陸指第四五二号
指示
大陸命第二百四十一号に基き左の如く指示す
一
北支那方面軍司令官は
現占拠地域内の作戦に方
(あた)
り
黄剤等の特種資材を使用し其作戦上の価値を研究すへし
二、右研究は左の範囲に於て実施するものとす
イ
事実の秘匿に関しては万般の処置を講す
特に第三国人に対する被害を絶無ならしむると共に
彼等に秘匿することに関し遺憾なからしむ
ロ
支那軍隊以外の一般支那人に対する被害は極力少なからしむ
ハ
実施は山西省内の僻地
(へきち)
に於て秘匿の為に便利なる
局地に限定し試験研究の目的を達する最小限とす
ニ
雨下は之を行はす
昭和十四年五月十三日
参謀総長
載仁親王
北支那方面軍司令官
杉山元殿
(『毒ガス戦関係資料Ⅱ』P258)》
*
ここでは外国人はもちろん、一般支那人にも被害を極力少なくしろと言っています。
無差別使用の指令ではありません。
これは メッセージ 1706 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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