1938年 土肥原機関設立2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/15 18:44 投稿番号: [1710 / 2250]
晴気慶胤
(はるけよしたね)
著
『上海テロ工作76号』
毎日新聞社
17p
《 当時、日本車の占領地には、昭和十三年はじめごろ組織された二つの政府があった。
すなわち、華北
(黄河以北)
に生まれた王克敏一派の臨時政府と、
華中
(揚子江下流)
において梁鴻志らが組織した維新政府がそれであった。
いずれも日本軍と協力し、 「反共減党」 (共産党に反対し、国民党を滅ぼす)
の
旗印を掲げて占領地の収拾につとめたが、しかし、
この二つの政府は何らの自主性も自活力もない形骸
(けいがい)
さながらの
弱体政権で、日本の武力に支えられながら、わずかに都市とその周辺においてのみ
「政府」
の空名を維持したにすぎなかった。
そればかりではなく民衆は、口をそろえて
「売国政府」
だと
痛罵するという実情であった。
したがって全中国民衆の圧倒的支持を受け、強大な武力と財力を持ち、
なお国際列強の強力な支持をうけて立つ重慶政府に対するには、
これらの新興政府はあまりに無力で、重慶政府を政治的に屈服させようなどとは、
どれだけひいき目でみても夢想だにできなかった。
そこで大本営は強力な中央政府を別に新しく樹立しようと考えた。
その具体案は当時、有能な在野の政客だとの定評があった唐紹儀と、
旧軍閥の中では傑出した声望をもつ呉佩孚に新政府を組織させて、
全占領地を支配させる。
そうして当時漢口北方に駐屯していた広西軍を、重慶側から寝返らせる工作と
相まって、重慶政府を崩壊させようと図ったものであった。
大本営はこの工作の実施機関として昭和十三年七月、
土肥原機関を編成して大本営の直轄とした。
機関長は唐紹儀と旧知の土肥原賢二中将で、そのもとに呉佩孚および
広西軍との連絡にあたる大迫通貞少将
(のち、第四十七師団長)
と
和知鷹二大佐が配属され、当時少佐だった私もその末席に列したのであった。》
*
本のタイトルには
『上海テロ工作』
と、オドロオドロしくありますが、
実際には
「テロ対策」
と見るべき活動のようです。
結果的には、松本重治氏が倒れ帰国した後、松本氏がやりかけた和平工作を、
彼らが、引き継ぐ形になります。
と言っても、引き継ぎの手続きがあるわけではありません。
結果として、そうなるだけです。
反日人間から見れば
「善人の松本重治氏」
の汪兆銘工作を、
「極悪特務機関」
が引き継ぐなど、理解に苦しむ結果となるでしょう。
色眼鏡を掛けていては、物事はまともに見えません。
これは メッセージ 1708 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1710.html