入って中国人に南京事件真相議論しましょう
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1937年 杭州湾上陸作戦2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/05 18:48 投稿番号: [1691 / 2250]
戦史叢書
『中国方面海軍作戦〈1〉』
439〜440p
《 23:45
「川内」
から第二船団あて、 「泊地進入用意、K隊進出セヨ」
が下命され、
「若葉」
誘導の下にK隊は右に出て増速、C隊も右に出てK隊に続行し、
第一分隊と並び三列縦隊となった。
当時の情況を第一水雷戦隊司令部事変日誌は
「・・・折シモ海上平穏ニシテ
殆ド満天雲ニ掩ハレ
新月二日ノ暗夜ハ
奇襲進入ニ最適・・・次第ニ濛気ヲ発生・・視界ハ日出後迄モ
依然トシテ不良
・・・揚陸状況ハ
元ヨリ上陸後ノ状況等モ
少シモ知ルコトヲ得ザリキ」
と記している。・・・
05:15
上陸用舟艇に移乗した陸軍部隊は、
濃霧の中を陸岸に向け輸送船を発進、上陸を開始した。
上陸軍は左側支隊正面で若干の抵抗を受けただけで、
06:30
完全に奇襲上陸に成功した。
10:50
には早くも金山衛城に日章旗が掲げられた。六日正午、上海においては、
「日軍百萬上陸杭州北岸」
のアドバルーンが掲げられ、士気大いに上がった。
左側支隊は海岸線付近陣地による敵の頑強な阻止にあい、水際付近で対峙した。
杭州湾は潮の干満差は五米に及び、このため生ずる潮流は
最大五節 (ノット) にも達するところであり、
左側支隊は時間の経過とともに潮が満ちて肩付近まで水に浸り対戦し、苦戦となった。
護衛艦隊は艦載機の全力を挙げて陸戦に協力した。
陸軍側の要望により、揚陸用桟橋を構築することとなり、連合工作隊の編成が下命された。
上陸兵団の作戦進ちょく状況にかんがみ、
第二次船団搭載の重器材は上海に揚陸することとなり
「有明」
は 08:00 泊地発、 17:00呉淞に到着、
「 朝日」
と協同し輸送船の世話及び情況連絡等に従事した。
この日揚陸作業は大いに進ちょくした。
十一月十一日、第百十四師団の戦列部隊は揚陸を完了した。
また上陸以来進撃を続けた第六師団は、上海派遣軍と完全に連係を確保した。
「有明」
は引き続き第一船団一二隻の荷揚促進に努めたが、
兵船在泊輸送船は総数約六〇隻に達し埠頭待ちのため作業は進ちょくしなかった。》
*
上海の港が混雑し埠頭待ちのため、荷揚げが遅れ、
第十軍への物資の補給が遅れました。
これは メッセージ 1689 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年7月11日 張鼓峯 ソ連兵越境
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/05 18:40 投稿番号: [1690 / 2250]
井本熊雄著
『支那事変作戦日誌』
252〜254p
《 漢口作戦の準備促進に大童であった七月十三日、参謀本部は朝鮮軍から、
「第十九師団の報告によれば、七月十一日、約四十名のソ連兵が
張鼓峯山頂に進出して陣地の構築を始めた」
という報告に接した。
当時作戦課長以下、張鼓峯の地名もその位置も知らず、
地図をさがして、始めてその位置を確認したのであった。
ソ領沿海州が細長くウラジオから南に延びて、満ソ国境は張鼓峯の南麓で豆満江に入り、
それ以南は河口まで同江の中流が国境である。
張鼓峯の頂上が国境であるか否かは、各種相異る資料があって厳密にいえば疑問であるが、
当時参謀本部では、ソ連兵が進出した場所が国境であると考えていた。
この報告を受けた第一印象は、不法に国境を侵犯したソ連兵は
実力を以て駆逐すべきだ、という極めて常識的な感じであった。
この感じは当時省部の一般的な気持であって、従来国境に事件が生じたことは数多いが、
いずれもわが方の断乎とした実力行使で大事に至らずに片付いて来た経験から、
それは自然的な考え方であった。
事実今まで国境紛争が大規模になった例もないし、大したこととは思わなかったのである。
朝鮮軍司令官からは続いて、
「長池
(張鼓峯東側の池)
付近は、
ソ連は条約の示す所によりソ領なりと従来より主張し、
我方は、ソ側の発行せる地図によるも明らかに満領なりと解しある係争地である。
そこにソ側が無断前記の如き処置に出るのは、明らかに不法行為である。
しかし該地が左程重要性を持たないのと、
目下支那事変の重要企図進行中であることを考え、直ちに実力を以て反撃的処置に出ず、
軍はまず条理をつくし現地において直接交渉し、ソ側の撤退を求める考えである。
しかし万一ソ側が結局わが要求に応じない場合は、
断乎実力を以てソ兵を長池以東に駆逐する企図を持っている。
ついては、満州国およびわが国においてもソ連に交渉して、
その不法侵犯に抗議し、速やかに旧位置に撤退させるよう指導せられたい」
という電報があった。》
児島襄著
『日中戦争4』
文春文庫
413p
《 十二日に、ソ満国境で
「張鼓峯事件」
がおこり、
日本は
「二正面作戦」
を強制された。
中国側にとっては有利な材料であり、参政会は、
「在最高統帥蒋委員長領導之下、抗戦到底」
と決議した。》
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1937年 杭州湾上陸作戦1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/04 18:47 投稿番号: [1689 / 2250]
戦史叢書
『中国方面海軍作戦〈1〉』
435〜439p
《 第十八師団は門司で乗船、十月九日五島富江泊地に集結し訓練。
第六師団及び国崎支隊は十月二十七日塘沽において乗船、
八口浦
(木浦西方)
に集合。
二十八日以降逐次一水戦
(一部欠)
と合同し待機。
豊田長官は
「妙高」
を率い、十月二十七日佐世保発、
翌二十八日馬鞍群島緑華山錨地着、同地において作戦準備、
全作戦支援に任ずるとともに、駆逐艦に移乗し上海に回航、
長谷川長官らと作戦打ち合わせを行った。
「名取」
は十月三十日、第十軍司令部乗艦後佐世保発、
富江において第十八師団の揚陸演習指導の後、
八口浦経由、十一月三日緑華山錨地着待機。
十一月二日、各護衛隊はそれぞれ船団を護衛し、上陸点に向け集合地を進発。
「夕暮」
のみ誘導すべきD隊の到着が遅れたため4日、上陸点に向かった。
船団は予定どおり南下した。
・・・
17:29、二三〇度方向一五粁
(キロメートル)
付近に英国駆逐艦を認めた。
同艦は船団前方を横切り、 18:10
「川内」
の左舷正横二、五〇〇米を
反航航過し、船団に接近した。
「由良」
及び第十六号掃海艇は英艦と同航監視した。
H作戦部隊指揮官は我が企図を暴露することを防ぐため、
18:56、 同作戦部隊あて、 「由良付近ニ
英国駆逐艦アリ
極力送信電波ヲ捜索
補捉セバ直グ知ラセ
電波捜索区分左ノ通り(著者略)」
と命令した。
英国駆逐艦は第二船団左舷側を反航航過後第一船団に差しかかったので、
「木曾」
及び直衛の駆逐艦は煙幕を展張し、船団を遮蔽した。
やがて煙幕の陰に英国駆逐艦を見失った。》
つづく
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1938年7月6日 中国軍毒ガス使用
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/04 18:38 投稿番号: [1688 / 2250]
『昭和史研究所会報』第40号
平成12年8月10日
信夫淳平氏
『戦時国際法講義』
より
『六日
[ 昭和十三年七月 ]
山西南部曲沃南方地区の戦闘で
敵は突如毒瓦斯弾を発射し、
一時同方面山嶽一帯は濛々
(もうもう)
たる毒瓦斯に鎖されたが、
我部隊の神速果敢なる防御処置に依り兵九名が意識を失つたのみで、
幸ひ大なる被害はなかつた。
毒瓦斯は検査の結果塩化ピクリンサンと判明、
蘇聯
(ソレン)
製の疑ひ濃厚である。』 ( 同月六日曲沃発「同盟」 )
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1937年 蘇州河敵前渡河作戦
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/03 16:11 投稿番号: [1687 / 2250]
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
380〜381p
《 蘇州河南岸には平時から構築された特火点陣地があり、
事変勃発後は野戦築城により補強されていた。
上海派遣軍司令官は、軍主力が蘇州河の線に進出すると、
上海南市を完全に封鎖するため、引き続き蘇州河南岸の敵を攻撃するに決した。
すなわち主攻を北新芤−陳家橋道両側の地区に保持し、
第三・第九師団を十一月二日までに渡河させ、
第百一師団を上海北西側に集結し第三師団に続いて渡河できるよう準備させ、
第十一師団は南翔方面の敵に対し軍主力の右側を掩護するよう部署した。
また三十一日、重藤・永津両支隊を揚子江上流方面の作戦に当たらせるため、
第十三師団に両支隊と守備を交代するよう命じた。(交代完了は十一月四日)
第三師団は十月三十一日、渡河を開始した。
左翼方面では一部が渡河しただけで頓挫したが、
右翼方面では十一月五日ころ、渡河に成功し、逐次南岸に地歩を獲得した。
また第九師団は、十一月一日右翼隊方面の渡河に成功し、
左翼隊は二日、右翼隊の渡河点から渡河してその左翼に進出したが、
師団正面の優勢な敵は、師団の渡河点に対し正面から逆襲を繰り返し、
さらに蘇州河北岸南翔方面から逐次兵力を南岸に移して師団の右側を圧迫したので、
師団は一時苦境に陥った。
よって軍司令官は、第十一師団に江橋鎮
(南翔南東約四粁
(キロ))
付近を攻撃させた。
第九師団は、敵の攻撃を排除し逐次南方に地歩を占めたが、
軍司令官は、同師団の攻撃を更に進展させるため、
七日、第百一師団の一部
(歩兵一聯隊、野砲兵一大隊基幹)
を配属し、
また第百一師団主力をして第九師団の左翼後で渡河を準備させた。
第百一師団の一部は、八日、第九師団の右翼に加入し、主力は架橋を実施したが、
九日、軍命令により渡河を取りやめた。
(上海方面の戦闘進捗は、派遣軍の力攻と、
後述する第十軍が敵の側背に進出したためとみられる)》
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1938年7月6日 蒋介石の強気発言
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/03 16:05 投稿番号: [1686 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
文春文庫
417〜418p
《 蒋介石は、強気の姿勢を維持していた。
七月六日といえば、ちょうど亜州司長高宗武が滞京二日目をむかえたとき
であったが、蒋介石は、漢口に国民参政会第一次大会を招集した。
大会には、毛沢東、呉玉章その他の中国共産党幹部もまねかれ、蒋介石は、
「告全国軍民」「告世界友邦人士」 「告日本国民」
の三声明を発表した。
「告日本国民」
では、とくに日中友好関係をきずつけた中国を侵略して
いるのは、軍閥である旨が、強調された。
日本出征軍隊には
「所謂
『大和魂』
及
『武士道』
精神、己掃地無存」
の
状態だが、これも軍閥の指導の結果、
このままでは
「両国仇怨」
は子々孫々までうけつがれる、
日中両国の
「公敵」
である軍閥を阻止せよ……。
蒋介石は、翌日、「抗戦建国記念日」
と名づけた支那事変一周年記念日を
むかえると、手記した。
「少年時代閲読中日甲午戦史与日俄戦史、其時間少則数月、
多亦不満一年……此次戦局巳途一年……科其不能持久也」
日本は、日清戦争、日露戦争ともに一年未満しか戦っていない。
事変はすでに一年たった。
長くは持久できないだろう − というのである。》
*
「日中友好関係をきずつけた中国を侵略しているのは、軍閥」
という妄言は蒋介石の責任転嫁。
日本は、何度も停戦や和平を持ちかけているのに、
それを踏みにじって戦争を続けているのが蒋介石。
蒋介石が戦争を止めれば、それで終わる。
「事変はすでに一年たった。長くは持久できないだろう」
要するに、蒋介石は、戦争を止める気などないわけだ。
それでいて、侵略されたなど、妄言を吐いている。
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1937年10月 中国軍 蘇州河の南に後退
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/02 14:07 投稿番号: [1685 / 2250]
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
380p
《 二十六日、軍は大場鎮を攻略し、滬寧鉄道を遮断し、
二十七日、蘇州河の線に到達した。
・・・
一方、海軍陸戦隊は27日に閘北
(ざほく)
一帯を占領し、掃蕩を完了した。》
*
陸戦隊を攻撃していた八十七師や八十八師は蘇州河の南に後退しました。
383p
《「中国軍の記録
―
淞滬付近の戦闘
(二)
『抗戦簡史』」
次いで
(10月)
三〇日新芤鎮以南で抵抗を継続した。
この際、わが方の撤退掩護の任務をもって閘北四行倉庫を死守する
八百の勇士はついに孤立となったが、命により撤退し
かつ英国の好意により租界内に退入した。》
*
蘇州河の南に逃げたからと言って戦争をやめたわけではありません。
日本軍の占領地の周りは全部中国軍が包囲しています。
彼等は外国人の協力を得て、戦争を続けます。
西岡香織著
『報道戦線から見た
「日中戦争」』
91pには
《 蘇州河以南、両租界住民の九十%以上は支那人であって、
中には抗日に燃える分子も多かったので、租界当局が口にいう中立の守れる筈がなく、
支那軍人は便衣に変じ租界内に於て作戦に関係ある仕事に従事し、
観測所や信号所を設けていたことも認められる。
租界の住民は陣地を築いたり、軍隊のために糧抹や弾薬を補給運搬し、
又各病院には支那軍の戦傷者が充満したのであるが、
甚だしいのは、工部局の衛生自動車が弾薬や戦傷患者を運搬したと言うことである」
(馬淵『報道戦線』)》
*
とあります。
そこで蘇州河の南へ行くため敵前渡河が行われる事になります。
つづく
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1938年7月 高宗武と影佐大佐の会見
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/02 13:59 投稿番号: [1684 / 2250]
塚本誠著
『ある情報将校の記録』
中公文庫
264〜265p
《 影佐さんは高宗武と箱根で二回会見する。
高は、「蒋政権を否認した日本の現状としては、
日中間の和平を招来するためには蒋以外の人を求めなければなるまい。
それには汪精衛
(汪兆銘)
を措いて他にこれを求め難い。
汪はかねてから速やかに日中問題を解決する必要を痛感し、
和平論を唱道しているが、国民政府内においては到底彼の主張は容れられないので、
むしろ政府の外部から国民運動を起こし、和平運動を展開、
蒋介石をして和平論を傾聴させる契機を醸成するのが適当である」
との考えを述べた。
影佐さんはこれに賛意を表したが、
それを実行するには日本は非常な責任を負わねばならないこともわかっていた。
日本は軍事的にはもちろんのこと、政治的経済的にも
中国に侵略を企図しているのではなく、
また中国においてますます発展する民族主義を否認するものでもない。
むしろこれに十分の理解と同情とをもって協力することを事実の上で示さねばならない。
高の計画遂行を援助するためには非常な努力を要するだろうと痛感していた。
影佐大佐は十三年の六月、陸軍省軍務課長に転じたので自ら主任となり
陸、海、外、大蔵の事務当局と共に日中関係調整方針要領案を作成した。
この案の基本方針は、
日中両国は道義に立脚して各々その本質を発展充実することを基本として、
両国の政治、軍事、経済、文化万般にわたり
互恵平等の原則による提携協力を求めようとするものである。
同案はその後、国の最高方針として決定された。》
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1937年11月6日 蒋介石 和平案を蹴る
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/01 18:49 投稿番号: [1683 / 2250]
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
457p
《
十一月三日、ディルクセン大使は、ドイツ外務省に右会談のもようを報告し
「日本のこれらの条件は極めて穏健なものであるから、
中国がこれを受諾するよう圧力をかけるのが賢明と思われる」
と述べた。
ドイツ外務省も、日本側の示した条件は交渉開始の基礎として妥当なものと判断し、
同日、トラウトマン大使あて、これを中国側に伝えるよう訓令した。
十一月六日、トラウトマン大使は、孔祥煕実業部長だけが列席している場で、
蒋介石に日本側の意向を伝えた。
蒋介石は現在これに応じられないと回答した》
児島襄著
『日中戦争4』
156〜157p
《 大使ディルクセンは、日本側条件は
「穏健」
なものであり、
中国側も
「面子」
をつぶさずに受諾できると思う、と、外相ノイラートに報告
・・・
外相ノイラートは、大使ディルクセンの意見に同意し、
翌日、駐中国大使トラウトマンに蒋介石との接触を指示し、
この日、五日の会見になったのである。
蒋介石自身は、この日の会談については、簡単に次のように記録している。
「徳国駐華大使
陶徳曼
(トラウトマン)、 試図斡旋
中日戦争、
伝達
敵方所
主張之媾和条件、 厳詞拒絶之」》
鈴木明著
『新「南京大虐殺」のまぼろし』
222p
《
蒋介石は直ちに、この提案に対して
「拒絶」
の意志を伝えた。
これは第二次
「国共合作」
をやったばかり、という中国側の空気もあったと思うが、
何よりも大きな
「拒否原因」
は、十一月三日から行われていた
「ブリュッセル九カ国会議」
の行方を見守っていたからである。》
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
277p
《 まず高君が漢口での中枢の考え方を、左のとおり説明した。
「十一月上旬、広田外相から日本の和平条件七項目をディルクセン駐日ドイツ使が接受し、
ベルリンのヒットラーの諒承を得て、トラウトマン駐華ドイツ大使が、
王 (寵恵) 外交部長に日本の意向を伝えたが、王部長は、蒋介石の意見として、
『中国は国際連盟に提訴してあり、九カ国条約の関係国がブリュッセルで会議中なので、
その結果を見るまでは、日本の条件を考応すべきではない』
との返事をした。」
278p
《白は、 『これだけの条件だとすれば、何のため戦争をしているのか』
とさえいった。》
*
白崇禧将軍が後に
『これだけの条件だとすれば、何のため戦争をしているのか』
と言ったくらい温和な条件なのに、蒋介石は蹴ったのです。
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1938年7月5日 松本重治氏東京着
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/01 18:41 投稿番号: [1682 / 2250]
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
300〜302p
《 高宗武を見送ってから、彼に遅れないように、
七月五日には東京に着かなければと思って、
四日、飛行機を利用し、福岡からは汽車で、五日の四時半、東京駅に着いた。
伊藤君が駅頭に迎えに来てくれていて、
「『四郎』 (高宗武)
は一時間ほど前に横浜から築地の
『花蝶』
に着いた。
五郎もその足ですぐ来てくれ。いっしょに行こう」
という。
タクシーの中で、私が
「『花蝶』
とはどんなところだ」
と質すと、
伊藤君が
「あれは、陸軍が始終使っている料亭で、警護もやりやすいから、
影佐さんが定めたのだよ」
と答える。「花蝶」
に行くと、高君はじめ西君もいた。
やがて影佐大佐も現れて、晩餐は、みんないっしょにやるようになった。
私は前もって岩永さんに報告していたので、待っていられるのかと思って、
食事中、六時ごろ、岩永さんに、電話で高君と私の東京着を知らせた。
食事まで用意されていたらしいが、 「ここを済ませたら、すぐ参ります」
といって、電話を切った。
やっと食事が済んだので、岩永邸にタクシーを走らせた。
岩永さんは、 「松本君、いろいろご苦労だね」
と、まずいってくれた。
それから、私は、香港での高君との会談要領を報告した。
彼が東京に来た目的は、多田参謀次長その他の要路の人々、とくに近衛さん、
岩永さんとも会見し、日本側、とくに陸軍が早期和平を希望しているか
どうかを確かめ、その方法として、一月十六日の声明にかかわらず、
蒋介石との直接交渉をやる気があるかどうか、また蒋介石とやる気がないとすれば、
汪兆銘とならば話を進めるかどうかを突きとめるにある、云々と説明し、
極秘のことだが、中国側の和平運動の成否は、
日本側の撤兵声明如何によると私が信じている、と述べた。
岩永さんは、 「だいたい判ったよ。そんなところだろうね。
近衛は、内々に、一月十六日の声明を取り消す決意らしいが、
松本君、撤兵云々はなかなか容易のことではないことを君に注意しておくよ」
といわれたので、私は昨年末の南京の虐殺事件と、
日本の大使館を閉めて帰国する途上の駐日参事館揚雲竹に偶然出会ったところ、
「兵を按じて動かず」、すなわち漢口攻撃の兵を停めて和平交渉を行うことを
示唆されたことを簡単に説明して、
「このうえ、どこまでも戦争を続ければ、
日本国民は道徳的に完全に堕落してしまいますよ。
楊雲竹の
『按兵不動』
の案を、日本がこの秋、漢口攻略を前に断行して、
和平に切り換えることが必要でしょう」
といった。
岩永さんは、「例のビスマルクのやり方を俺は近衛以下に説いているのだ。
楊君のいったことを日本がやれば、俺のいってきたとおりになるのだが、
陸軍の石頭には、どうも困ったものだ。
しかし、高君にはぜひ会いたいから、君、ひとつ、アレンジしてくれ給え。
実は、高君が東京に来るというので、俺もここで部屋を一室あけて、待っていたのだよ」
「岩永さん、そこまで気をつかっていただいて、まことに済みません。
高君にも岩永さんのご好意はさっそく伝えます。きっと感激することでしょう」
といって、引き退った。》
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1937年10〜11月 日本 和平案を呈示
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/31 18:43 投稿番号: [1681 / 2250]
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
456〜457p
《 十月二十一日、広田外相はディルクセン大使に、
ドイツが九カ国会議への参加を拒否するとともに
日支和平のあっせんに乗り出すことを希望する旨伝えた。
同日、ディルクセン大使から報告を受けたドイツ外務省は、
翌二十二日、在支トラウトマン大使あて
「 ドイツは日支直接交渉のためコミュニケーションのチャンネルになる用意のある」
旨を打電した。
トラウトマン大使は、前述の馬奈木中佐との会談により日本参謀本部の意向も承知したので、
十月三十日、中国の陳介外交部次長と会談し、本国政府の意向を伝達すると同時に
日本との協定を求めるべき時がきた旨を、非常な熱意をもって語った。
陳次長も乗り気になり日本側の条件を知りたいと述べた。》
児島襄著
『日中戦争4』
156p
《 十月二十八日、日本政府は、外務次官掘内謙介を通じて、
駐日ドイツ大使H・ディルクセンに日中和平の仲介を打診してきた。
ドイツ外務省は、駐中国大使トラウトマンに中国外務部長陳介に
日本側の打診をつたえさせるとともに、
次官H・マケンゼンはドイツ側としては日中両国の
「伝書使」
の役目
以上のことをやるつもりはない、と大使に通告した。
しかし、日本側は、十一月二日、あらためて外相広田弘毅が大使ディルクセンを
まねき、日中和平についての日本側条件を提示した。》
鈴木明著
『旧「南京大虐殺」のまぼろし』
159p
《十一月二日、日本は七つの条件で停戦を申し入れた。その条件とは
①内蒙古に自治政府を樹立する。
②満州国国境に非武装地帯を設定する。
③上海の非武装地帯を拡大する。
④抗日政策を止める。
⑤共同して防共に当る。
⑥関税率の引下げ。
⑦中国における外国権益を尊重する、の七項目であったと伝えられる。》
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
457p
《 十一月三日、ディルクセン大使は、ドイツ外務省に右会談のもようを報告し
「日本のこれらの条件は極めて穏健なものであるから、
中国がこれを受諾するよう圧力をかけるのが賢明と思われる」
と述べた。
ドイツ外務省も、日本側の示した条件は交渉開始の基礎として妥当なものと判断し、
同日、トラウトマン大使あて、これを中国側に伝えるよう訓令した。》
これは メッセージ 1656 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年7月5日 高宗武横浜着
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/31 18:34 投稿番号: [1680 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
文春文庫
408p
《 −
七月五日、
白い船体に黄色い三本煙突の客船が、横浜に入港した。
上海から大連まわりの
『エンプレス・オブ・ジャパン』
号である。
桟橋には憲兵、警官がならび、やがて下船した二人の乗客を
一般の出迎えの人々からさえぎるようにして、用意された乗用車にのせた。
車は東京にむかい、九段の陸軍
「借行社」
に到着したが、
中にはいった二人はまた出てきて、木挽町の旅館
『花蝶』 (経営者鈴木よね)
に投宿した。
二人は、満鉄嘱託伊藤芳男と国民政府外交部亜州司長高宗武であり、
警戒は、陸軍省軍務課長影佐禎昭大佐の手配によるものであった。
司長高宗武は、日中和平工作のために、ひそかに来日したのである。
もっとも、その資格は、外交部亜州司長の肩書は保持していたが、
すでに 〝私的〟 でしかなかった。》
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1937年 英国人の中国軍援助
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/30 18:46 投稿番号: [1679 / 2250]
富士信夫著
『「南京大虐殺」
はこうして作られた』
には、
松井大将の証言として、次のようなことが書いてあります。
203p
《 当時、上海付近の欧米諸国はほとんど大部分が支那側に同情していたが、
・・・一、二の実例を上げれば、イギリスは上海付近の支那軍に対して、
糧食、武器の援助をしていた。》
263p
《 本作戦に対する列国軍民の態度には遺憾なもの少なくなく、
彼らは厳正な中立国として一九三二年列国の停戦協定を守らず、
中国政府及びその軍隊に同情するのあまり、直接間接に日本軍の作戦を妨害し、
中国軍の作戦に便宜を与え、時にはこれを援助する行動も少なくなかった。
例えば、その国旗を中国軍の悪用に任せ、あるいは中国軍に武器を与え、
食糧を供する等、中立国として偏頗
(へんぱ)
な行為にでたのである。》
また、鈴木明著
『新「南京大虐殺」のまぼろし』
194〜195pによりますと
《『八一三淞滬 (しょうこ) 抗戦』・・・劉勁持は、こう書いている。
・・・
何日か経って、私はとんでもない話をきいた。
王敬久は八十七師の司令部と、共同租界を電話線で結び、
本人は
(イギリス)
租界地から電話で指揮を出していた、というのだ。
一方、八十八師は蘇州河に沿った河岸に建っている堅牢な建物である
〝四行倉庫〟
に本部を移してしまった。この一帯なら対岸がイギリス租界だから、
日本軍も誤爆を恐れて空中から爆撃を行うようなことはなかった。》
そして、戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
の383pには
「中国軍の記録
―
淞滬付近の戦闘 (二)
『抗戦簡史』」
の記述として
《 次いで
(10月)
三〇日新芤鎮以南で抵抗を継続した。
この際、わが方の撤退掩護の任務をもって閘北四行倉庫を死守する八百の勇士は
ついに孤立となったが、命により撤退しかつ英国の好意により租界内に退入した。》
と書いてあります。
これ以外にも、
英軍は日本軍の海上作戦に対するスパイ行動らしきものまでしていました。
杭州湾上陸作戦のため、日本艦隊が陸軍輸送を秘密裏にやっていたところ、
たまたま、英国駆逐艦に出くわします。
戦史叢書
『中国方面海軍作戦〈1〉』
439pには
《(11月4日)
17:29、二三〇度方向一五粁付近に英国駆逐艦を認めた。
同艦は船団前方を横切り、
18:10
「川内」
の左舷正横二、五〇〇米を
反航航過し、船団に接近した。
「由良」
及び第十六号掃海艇は英艦と同航監視した。
H作戦部隊指揮官は我が企図を暴露することを防ぐため、18:56、同作戦部隊あて、
「由良付近ニ英国駆逐艦アリ
極力送信電波ヲ捜索補捉セバ直グ知ラセ」
と命令した。
英国駆逐艦は第二船団左舷側を反航航過後第一船団に差しかかったので、
「木曾」
及び直衛の駆逐艦は煙幕を展張し、船団を遮蔽した。
やがて煙幕の陰に英国駆逐艦を見失った。》
とあります。
英国駆逐艦は日本船団の前を横切り、反転航行して接近したというのです。
行き先を探り、通報しようという魂胆だったのかも知れません。
こうなると、中立の枠を超えて、完全に中国軍に味方しています。
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1938年7月5日 ドイツ顧問団引上げ5
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/30 18:36 投稿番号: [1678 / 2250]
阿羅健一著
『日中戦争はドイツが仕組んだ』
小学館
238p
《 七月五日、屋根にハーケンクロイツが描かれた特別列車は、
香港に向けて漢口を出発した。
それでも中国に残った者がいた。
ナチス突撃隊の東部指導者を務めていたヴァルター・シュテンネス大尉である。
シュテンネス大尉は昭和六年にヒトラーと対立し、反乱を起こして解任され、
そのときシュテンネスの部下約一万もナチスを辞めている。
ナチスを辞めたシュテンネスは、中国に来て、蒋介石の親衛隊長を務めていた。
「日本は絶対に中国に勝つことはできない」
そういってシュテンネスは中国にとどまった。》
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1937年 中国に迎合する外国報道陣
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/29 18:50 投稿番号: [1677 / 2250]
西岡香織著
『報道戦線から見た 「日中戦争」』
92〜94pより
《・・・上海では抗日テロが横行したが、
最初から激しかったのは新聞関係者に対するものであった。
「抗日新聞を背後から操縦するものは、重慶政府の言論統制機関であるが、
これが租界に存在し、黄白によって買収する外、
脅迫威圧により論説記事の指導統制を行い、
少しでも日本に有利な事や蒋政権に不利な事を書けば、
忽ち暴力を加えて弾圧し、これを裏切るものは漢奸として血祭に上げる。
抗日言論によって政治テロを使嗾し遊撃隊を煽動するので、
租界は勿論、租界外の我が占領地区内の治安を撹乱し、
日本と手を握りたい各方面の中国人も、ジャーナリズムの暴露と
其の後の崇りが恐ろしいので、皆尻込みするという有様であった。
かくして新しい中国を建設するため日本と提携した親日要人で暗殺せられたものは、
……既に数百人に及び、漢奸の汚名で恐怖政策の血祭に上げられたものは、
数千、数万の多きに達しているのである」(馬淵『報道戦線』)
・・・蒋政権は独裁を強化すると共に、
対内外情勢の複雑化に鑑み言論統制に頗る過酷を極めた。
欧米列強は、もとより事実に於て蒋介石政府及び支那民衆に媚びていたのであるが、
事変勃発と共に、蒋介石は莫大な宣伝費を投じて第三国有力紙を買収し、
反日記事に依って世界の同情支援を求むることに全力を尽した」
このような上海では、慮溝橋事件以来、
世界の世論が日本の不利に傾くのも当然であった。
そして上海事変となれば、
上海の言論機関がますます日本の
「侵略」
を誇大宣伝したので、
日本軍が武力で勝てば勝つほど、世界の世論は支那に同情的になって行った。
「一歩郊外に出づれば戦場である上海に於てさえ、
外字紙、華字紙は大袈裟に支那軍の大捷を報じ、日本軍の敗北を伝え、
上海の外人も華人も皆これを本当にしていたのだから始末が悪かった。
外人記者に対し上海市長・愈鴻鈞が頻りに黄白と巧みな愛嬌を振りまけば、
淞滬
(呉淞・上海)
警備司令・張治中がトリック一杯で戦況を説明するのが、
皆真実として世界に放送され、定期会見には押すな押すなの大盛況であった。
これに反して、日本側は声をからして外人記者を呼び集めても、仲々集まらない。
宇都宮(直賢)少佐が事変前から駐在武官であった関係上、
わざわざメトロポールヘ出かけて行ってプレス・コンプレンスを開いたが、
個人的には好くても、……
日本の正義とか戦勝という段になると、
ことさら眼と耳を塞いでしまい、
その結果は徒らに支那側の宣伝を跋扈跳梁せしめるという有様であった。
支那側に至っては……針程の事を棒大にし、嘘から誠を出し、
煽動的に人心を動かす技術にはほとほと感心して了(しま)った。
このように、中国大陸における権益の競争者である日本に対し、
英米仏等は完全に支那側に立ち、
蒋介石政権もそれを徹底的に利用して国際世論を引きつけたのである。》
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1938年7月4日 中国軍毒ガス使用の報道
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/29 18:40 投稿番号: [1676 / 2250]
信夫淳平氏
『戦時国際法講義』
より
『山西各地に於ける敵は先般来頻々と毒瓦斯を使用してゐたが、
去二日には蒙城鎮 (臨汾南方) の東方に於て
我が猛撃に堪え兼ねた第八十三師に属する敵部隊が、
又も退却に際し大々的に毒瓦斯を放射し、
翌三日には更に聞喜付近の我が部隊に対し多数の毒瓦斯弾を発射した。
今回のものは従来に比しその毒性更に強烈であったが、
我が防毒防備完全なるため殆ど損害を受けなかった。
我方は敵が遺棄した放射弾その他を押収したが、
蘇聯製の疑ひ濃厚なるもの多数あり。』 ( 同年七月四日北京発「同盟」 )
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1937年 ルール無用の中国式戦法
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/28 18:48 投稿番号: [1675 / 2250]
日本軍は大場鎮を攻略し南下して蘇州河の近くにいきますと、困った事に直面しました。
中国軍は、外国の旗を悪用し、外国の権益を盾にする戦法をとっていたのです。
西岡香織著
『報道戦線から見た 「日中戦争」』
90p
《 支那軍は外国権益を楯にした卑劣な戦闘を平気で行い
・・・
外国権益の錯綜する此の地で、我が軍隊が、外国権益を保護して戦う
ということは、誠に至難中の至難である。
敵はドンドン大砲や機関銃を撃って来るのに、我が軍は租界の中に砲弾を落さぬため、
ミスミス大砲の有効射撃を止め、肉弾を以て敵陣地に突込むという、
無理な戦闘をしたのであった 》
91p
《上海事変を通じ、ビル等の建築物に拠る支那軍が、欧米各国の国旗を翻して
日本軍の砲撃をさけ、日本軍が近づくと国旗を倒して射撃を開始する 》
同様のことは、松井大将の東京裁判の証言にも出て来ます。
富士信夫著
『
南京大虐殺」
はこうして作られた』
158p
《 外国権益の保護で中国の戦場で事実上困惑したことは、
中国軍および中国の常民が米、英、独等の外国旗を濫用し、
日本軍の作戦を妨害する事実の少なくなかったことである。
例えば、揚州には外国権益は存在しないことは前もって調査の上明らかであった
にも拘らず、英、米、仏の国旗を揚げているものがあったので不審に思い
調査したところ、中国人が外国旗を濫用していたことが明らかになった。》
198p
《 一部の将兵はいわゆる便衣兵となり、軍服を脱ぎ、平衣を着て残留し、
我が将兵を狙撃し、我が軍の背後を脅かすことも少なくなく、
付近人民もあるいは電線を切断し、あるいは烽火を上げる等
直接間接に支那軍の戦闘に協力し、我が軍に幾多の危難を与えた。
また、同地付近に駐屯した米・英・仏諸国の軍隊もまた支那軍に同情して
幾多の支援を与え、我が軍の行動に故意に妨害を与えた事実がすくなくなかった。》
鈴木明著
『新
「南京大虐殺」
のまぼろし』
194〜195p
《『八一三淞滬
(しょうこ)
抗戦』・・・劉勁持は、こう書いている。
・・・
何日か経って、私はとんでもない話をきいた。
王敬久は八十七師の司令部と、共同租界を電話線で結び、
本人は
(イギリス)
租界地から電話で指揮を出していた、というのだ。
一方、八十八師は蘇州河に沿った河岸に建っている堅牢な建物である
〝四行倉庫〟
に本部を移してしまった。この一帯なら対岸がイギリス租界だから、
日本軍も誤爆を恐れて空中から爆撃を行うようなことはなかった。》
秦郁彦著
『南京事件』
72p
《 歩41連隊第三大隊の戦闘詳報
「11月22日
15:00、計家湾ニ到着、コノ時敗残兵約二百白旗ヲ樹テ
数家屋ニ終結シアルヲ以テ捕虜トスベク努メタルモ、
至近距離ニ達スルヤ、ピストル、手榴弾ヲ以テ抵抗セルニヨリ
全部之ヲ刺殺又ハ射殺ス・・・」》
注 : 淞滬の
「淞」
はウースン (呉淞) で、 「滬」
は上海のこと。
よって、淞滬とは
呉淞〜上海地域をさす。
*
こういう、中国人のルール無用のやり方が、外国人や市民に害を及ぼし、
日本軍の民間人に対する厳しい対応につながって来るわけです。
こういうやり方をしておいて、民間人、女、子供、を殺されたと言っても通りません。
非は中国側にあります。
これは メッセージ 1672 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年7月3日 高宗武上海を発ち横浜へ
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/28 18:37 投稿番号: [1674 / 2250]
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
298〜300p
《 私は、八時ごろから、ハミルトンハウスの私のアパートでひとりパイプを燻らせていた。
十時になると、ベルを押す人があった。やはり高君だった。
色眼鏡をかけていて、人違いのようであった。
部屋に入って色眼鏡をとると、いつもの高君のようになった。
「元気かいで」
と尋ねると、 「健康は大丈夫だ」
という。
しかし、何か考え込んでいるようで、いつもの元気がない。
「どうかしたのか」
と問うと、 「シゲちゃん、実は相談に来たのだ」
「相談って、何を?」
「いろいろ考えたが、日本に行くのはやめようかと思っているところだ」
「エッ、それはどういうわけかね。あれだけ香港で決心したといっていたのに」
「君に叱られると思って、躊躇したが、
とにかく君の意見も聴きたいと思ってやってきたのだ」
「宗武
(ツンウー)、 君には君の考え方があるだろう。僕はそれを尊重する。
しかし、伊藤君も船で待っているし、西君は影佐さんらといろいろ準備を
しているらしい。日本側は、君たちを漢奸には、絶対しないことを約束する。
そのようなこととなれば、僕らも、君らも、中途でもやめようではないか。
蒋さんとの問題は仏
(周仏海のこと)
が引き受けたといったそうじゃないか。
君の東京行きは、決して蒋さんや中国を裏切ることにはならんよ。
君は東京に行って、中国永遠の和平福祉のために、日本の友人たちに懸河の弁を
振うべきだ。汪さんその他の和平派の主張を堂々と述べるがよい。
そして、日本に対して要望すべきものは要望すべしだ。
君の東京行きは絶対に君の失敗にはならんよ。僕が太鼓判を押すよ。
君は、君にあらずしてはできないことを、やってくるべきだ。
通郵問題以来の君の勇気は、この際こそ、大いに奮って行くべきだ」
と、私は、たてつづけに話した。
高君が
「僕も漢奸になりたくないよ。だが、シゲちゃんが、そういうなら、
また考え直すことにしようかな」
と独り言のようなことをいう。
「宗武、時間はあと一時間ばかりしかないよ。何を心配しているのかね」
と尋ねると、
「実は、船に乗るには、ガーデン・ブリッジを通らねばならんだろう。
あそこの陸戦隊の哨兵に誰何されでもしたら一大事だと、心配している。
夜分のほうが警戒がより厳重だと聞いているんで」 と、高君には似合わず弱気を出す。
「何だ、宗武、心配はそれなのかね。それなら僕には、策がある。絶対に大丈夫だ。
見送りの用意に
『同盟』
の自動車を待たせてある。
まだ半時間は充分あるから、ここで水割の杯を挙げて、壮行会をやろうや」
といって、お互いに水割を飲んだ。
「僕の策というのは、まず僕の将校待遇の従軍記者のバッジを君につけさせる。
帽子も僕の帽子をかぶって行くんだ。
まさかの場合のために、僕の名刺を君のポケットに入れておくんだ。
そして、哨兵は左側に立っているから、車の左側の席に僕が坐り、君は右側に坐る。
車には
『同盟』
社旗を立てて走る。あとは僕に委せておけよ」
と、
細々注意すると、高君も、だいぶん安心したらしく、
「じゃあ、行くことにする」
と、彼のほうから僕を促した。
車がガーデン・ブリッジにさしかかって、哨兵の前を通るとき、わざと速度を
少しおとしながら、 「同盟通信!」
と、私は哨兵に声高く告げた。
「よろしい」
との返事で、車は、全速力で碼頭に向って走った。
「どうだい、宗武」
というと、
「君があまり大きな声で叫ぶので、こっちがびっくりしたよ」
と笑う。
「さあ、バッジと帽子を返しておくれよ」
というと、高君がまた笑う。
やがて碼頭に着いた。エンプレス・オヴ・ジャパン号が横づけになっている。
船に入ると、伊藤君が待っていて、高君と握手する。
「あまり遅いので、心配しちゃったよ。五郎、あとは、僕が引き受ける」
という。
「三郎、頼んだよ。みんなによろしく、東京でまた会おう」
といって別れた。》
これは メッセージ 1645 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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Re: 入って中国人に南京事件真相議論しまし
投稿者: marikoshunji 投稿日時: 2012/05/28 11:44 投稿番号: [1673 / 2250]
南京事件についての私の意見ですが、中国と日本が戦争をしていたことは、お互いにとってとても不幸な時期でした。戦いになれば、自分の生死にかかわることなどで恐らく普段では考えられないような精神状態になります。ときには最前線の兵士は怒りに任せて残虐な行為をしたことでしょう。同じ日本人としてお詫びします。しかしどうしても、組織として、上からの命令で30万人もの市民を殺したということは信じられません。そんな無慈悲な行為を善として行えばそのような指導者は私としても許せません
ただ、何人か何十人を殺傷したことは事実でしょう私は生まれてからずっと日本人なので、日本のことは理解しているつもりです。われわれの常識では無抵抗な人を殺すなどとんでもないことと考えています。
日本もアメリカから広島に原始爆弾が落とされて、何十万人が瞬間的に死にました。今、日本人はそのことについてアメリカを非難する人はいません。戦争は過酷なものとして、日本人は二度と戦争はしないと誓いを立てました。わたしも、日本と中国は隣ですから、仲良くしてしていかなければならないと考えています、かなりの努力は必要ですがお互いに過去にとらわれず、今とこれからの日中関係を大事にしていくことがどうしても必要です。中国国民に対してははわたしは親しみを持っています。しかし、中国政府に対して是非対日批判の教育は止めて欲しいと願っています、わたしは、戦争を知らない子供たちにも、中国の子供達と仲良くなってもらいたいのです。
これは メッセージ 1 (rdup さん)への返信です.
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1937年 海軍陸戦隊の閘北 (ザホク) 制圧
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/27 15:21 投稿番号: [1672 / 2250]
戦史叢書
『中国方面海軍作戦 〈1〉』
400〜402 pより
《 8日、上海派遣軍は大場鎮攻略を下命した。
同日付、上海特別陸戦隊は陸上戦闘に関し上海派遣軍司令官の指揮を受けることとなった。
このころ上海方面は連日降雨、
敵はこれを利用し
10日、11日各千名近くの兵力を閘北
(ザホク)
方面に増勢した模様であった。
我が方は連日砲戦を継続した。
13日我が砲隊は一航戦
(第一航空戦隊の略)
と協力し、
閘北鉄道管理局、敵砲隊陣地を砲撃した。
北部支隊方面は12〜13日の夜
敵の活発な逆襲を撃退した。
14日も一航戦と協力し閘北南西部を砲撃した。数カ所に火災が発生した。
ところが、18:30
ごろ三義里方面の敵が我が第二大隊正面に
主攻撃を向け虹口
(ホンキュ)
方面租界に侵入すべく猛撃を開始した。
19:00
ごろ敵の銃隊二コ中隊が三義里方面から第二大隊川公路陣地方面へ来襲、
続いて第十大隊ハスケル路陣地へ約二コ中隊が突撃、
20:00
ごろ敵の攻撃最も猛烈を極めた。
各隊は本隊から増援を得て奮戦二時間半、敵に多大の損害を与え撃退した。
15日、日没後北部支隊及び閘北部隊正面に敵の逆襲があったが直ちに撃退した。
翌16日我が方は、閘北広東中学及び江湾南方の商学院にいた敵部隊を
まず一航戦の爆撃により逃走させ機銃掃射で損害を与えた。・・・
20日
北四川路方面に、21日全線にわたり敵は攻撃の気配を見せたが、
いずれも撃退した。・・・
23日
敵は後退を開始した模様であった。
24日
上海派遣軍司令官の命令に基づき攻撃開始、北四川路方面の我が部隊は
逐次進出し、北部八字橋方面は夜に至るまで攻撃を続行した。
25日も派遣軍の攻撃前進に策応し攻撃続行に努めたが閘北方面の敵は
動揺の色を見せず、北部戦線では同夜商科大学を占領した。
26日
22:30
ごろ敵は北四川路方面に対し大規模な逆襲を決行してきたが、
我が方は交戦一時間この敵を撃退した。
この日陸軍部隊は夕刻、既に大場鎮を占領しており、敵は蘇州河に向け退却中であった。
そこで陸戦部隊も26日夜、絶えず敵と接触を保持し
特に左翼の蘇州河方面では激戦を継続のまま、
27日
04:30
月明を利用し、予定計画に基づき右翼に重点をおいて総攻撃を開始した。
05:05
全軍進撃開始、各隊は宝興路の敵第一線突破に全力を挙げた。
右翼隊が最初に第一線突破に成功し
07:00
閘北西端に進出し、
更に南方に転じて敵の退路を遮断するよう行動した。
同時刻左翼隊は北停車場鉄路管理局を占領、次いで中央隊及び左翼隊は
敵を逐次西方及び南方、次いで東方ポケット地帯内に追いつめ掃蕩した。
そして
18:00
ごろ西行上海貯蓄総公貨桟
(四行倉庫)
に追いつめた
残敵約一〇〇名の外、夜間各部の残敵を掃蕩した。
なお別に西方に向かい追撃した一隊は真茹駅を占領した。
この戦闘で我が陸戦部隊は閘北全部、大隆鉄廠、中央造兵廠、真茹駅を占領、・・・。
四行倉庫の残敵に対してはその後包囲態勢を取り降伏勧告をしたが
応じなかったので、31日
01:45
砲撃制圧する一方、
03:00
突撃隊が突入し完全に残敵を掃蕩した 》
つづく
これは メッセージ 1667 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1672.html
1938年7月2日 蒋介石 和平仲介の拒否
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/27 15:08 投稿番号: [1671 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
文春文庫
410p
《 七月二日には、英紙
『デイリー・エクスプレス』
特派員と会見して、声明した。
「徐非中国将主権完全恢復、絶不歓迎任何国家調停中日戦争」
この言明は、英国、フランス、スウェーデン、スイスが共同で
日中和平のあっせんにのりだすらしい、との外電にこたえる形でおこなわれた。
抗戦決意の表明であると同時に、第三国の仲介はうけないが、
主権回復ができる直接の和平交渉には応ずる用意がある、
とも、うけとれる内容である。》
*
この一事でもって、戦争を望んでいるのは中国であることが解る。
日本が持ち出す和平を、中国が拒否しているのだ。
その上で、「侵略された」
とか、ふざけた宣伝をしている。
これは メッセージ 1668 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1671.html
Re: 入って中国人に南京事件真相議論しまし
投稿者: papaulidon 投稿日時: 2012/05/27 00:51 投稿番号: [1670 / 2250]
こんにちは!
私には中国、韓国、そして欧米の友人がたくさんいます。どこの国の人たちも個人としてはとても友好的で親切です。個人と個人との関係では何の問題もなく親密な関係を保っています。誰でもきっとこんな経験があると思います。しかし政治が絡むと状況は少し違います。たとえば05年に中国で起きた反日運動の時は、私は上海で仕事をしていました。積極的に反日活動をしたのは北方人が多かったと思いますが、彼らとて個人的には私に対して反感を表したりはしませんでした。私も彼らが感じている過去の日本(主に帝国軍)が中国で行った過激な蛮行が何であったかは彼らの家族が受けた被害の様子から恥と感じています。南京でも同様です。上海でも南の香港でも同様の事件は起きています。家族を大事にする気持ちが強い中韓の人たちにとって無念さと悔しさは忘れる事が出来ないのは当然です。その点、米軍によって原爆を落とされ多くの都市部を焼け野原とされた日本が終戦直後から過度の親米国家となったのはアジアの人たちには理解できない事ではないでしょうか?話が少しそれてしまいましたが、私も南京の虐殺記念館へ行った事が有ります。入口に大きく書かれた30万人の文字には大きな衝撃を受けました。日本の一部には南京事件は無かったとか、30万人も殺していないとか主張する人もいますが、数字の正確さが問題なのではなく南京だけだはなく中国全土で帝国軍人が行った蛮行は戦時中の作戦行動とは言え行き過ぎが有った事は事実です。日本でも蛮行の体験を語る元軍人も少なく有りません。
これは メッセージ 1 (rdup さん)への返信です.
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Re: 入って中国人に南京事件真相議論しまし
投稿者: papaulidon 投稿日時: 2012/05/27 00:41 投稿番号: [1669 / 2250]
こんにちは!
私には中国、韓国、そして欧米の友人がたくさんいます。どこの国の人たちも個人としてはとても友好的で親切です。個人と個人との関係では何の問題もなく親密な関係を保っています。誰でもきっとこんな経験があると思います。しかし政治が絡むと状況は少し違います。たとえば05年に中国で起きた反日運動の時は、私は上海で仕事をしていました。積極的に反日活動をしたのは北方人が多かったと思いますが、彼らとて個人的には私に対して反感を表したりはしませんでした。私も彼らが感じている過去の日本(主に帝国軍)が中国で行った過激な蛮行が何であったかは彼らの家族が受けた被害の様子から恥と感じています。南京でも同様です。上海でも南の香港でも同様の事件は起きています。家族を大事にする気持ちが強い中韓の人たちにとって無念さと悔しさは忘れる事が出来ないのは当然です。その点、米軍によって原爆を落とされ多くの都市部を焼け野原とされた日本が終戦直後から過度の親米国家となったのはアジアの人たちには理解できない事ではないでしょうか?
これは メッセージ 1 (rdup さん)への返信です.
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1938年7月1日 板垣陸相 蒋介石政権を否定
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/26 15:52 投稿番号: [1668 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
文春文庫
410〜411p
《 陸相板垣征四郎中将が、七月一日、言明した。
「蒋介石政権の存続する限り、日支間に和平はない……
今日の事態に導いた最大の責任者蒋介石と手をにぎって、
平和談判などできた義理じゃないじゃないか」》
これは メッセージ 1655 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年10月23〜25日 陸軍の大場鎮攻略
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/26 15:49 投稿番号: [1667 / 2250]
戦史叢書 『中国方面海軍作戦〈1〉』 400 p
《 8日、上海派遣軍は大場鎮攻略を下命した》
井本熊男著 『支那事変作戦日誌』
156〜157p
《 10月23日、漸く大場鎮攻撃が始まり、右より第9、第3と併列した両師団は、
各々約2キロの戦闘正面を以て重点を第3師団に保持して猛攻した。
この戦闘では、第3師団の正面に約120門の我砲兵火が指向せられた。
上海派遣軍には重砲兵が少なかったので、三ケ師団増派の際、
砲兵力の不足を補うため15サンチ榴弾砲一旅団と一聯隊、
15サンチ加農砲二大隊、10サンチ加農砲四乃至五大隊、
24サンチ榴弾砲一大隊等が派遣せられ、
その他北支から15サンチ加農砲二大隊を10月中旬、上海に転用の処置をした。
右の砲兵諸部隊の増加は、大部分到着し大場鎮の戦闘に間に合った。
遺憾ながら弾薬が十分になかった。
そのため砲数に比例した砲兵火力の発揮ができなかったのである。
一般に上海戦の困難は、弾薬の不足がその重大原因の一つであった。
第9、第3両師団は力攻に力攻を重ね、
10月25日遂に大場鎮の陣地を突破して、その南方に戦果を拡張した。》
注:サンチとはセンチメートルの事
加農砲はキャノン砲の漢字表記
これは メッセージ 1638 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年 ジャキノ難民区設立3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/25 18:56 投稿番号: [1666 / 2250]
松本重治氏著
『上海時代 (下) 』
中公新書
234〜235p
《 「……上海に於ける安全地帯
(所謂ジャキノ・ゾーン)。
上海周辺の戦闘が進み、中国軍の総退却が予見された頃
(十月末−松本註)、
ジャキノ神父を中心とする英米仏諾等諸国人から成る国際委員会が出来て、
南市
(上海南部の支那町)
の一部を区切って、戦火がこの方面に及んだ場合、
中国人を収容するため
『安全地帯』
として、
日中、双方から認めて貰いたいという話がありました。
最初にジャキノ神父は
「マンチェスター・ガーディアン」
紙の特派員
ティンパーレー氏に伴われて、私の許
(もと)
に参られ、この話をされたのであります。
私は岡本上海総領事及び岡崎総領事と協議し、この案の実現の為め、
お世話を致しました。
松井陸軍最高司令官も長谷川海軍最高司令も最初から極めて好意的な態度を示され、
これを認めることになり、中国側もこれを認めました。
そのさい松井軍司令官は金壱万円を委員会に寄付してこれを助けられました
(長谷川司令長官も同額を贈られました)。
また広田外務大臣は十二月八日付でジャキノ神父宛書翰を送り、
その人道的事業に対する日本国民の讃美と敬意とを伝え、
その成功を祈る旨を表明されました。
この計画を日本国が認めたのは、
(1)
この地区は純粋の支那町であり、またジャキノ神父はじめ委員全部の
公正無私な気持や態度が明瞭であったこと。
(2)
委員会は、戦闘のある場合、中国非戦闘員を収容保護し、戦闘終了後は、
暫くの間、引き続彼等を救護するが、地区内の行政や取締りは
日本軍の全権力の下にあることを認め、
委員会はこれに関与せぬことを最初から明かにしたこと。
(3)
この地区に隣接した仏租界当局の好意的協力があったため、委員会は、
戦闘中同地区の
『中立性』
を維持する実力を持つと認められたこと。
(4)
同地区の位置に鑑み、戦闘が近くで行われた場合、その
『安全』
を
尊重することが出来ると認められたこと等の理由に基くものでありました。
上海戦の最後の段階には、この地区の境まで戦脚が及びましたが、
日本軍の砲弾は一発も地域内に落下せず、逃げ込んだ中国兵は委員の手によって、
みな武装解除され、日本軍は地区内に入らず、極めて平穏に経過しました。
かくて、同地区は、数千戸の中国家屋と、約二十五万人の中国民衆の生命とを
救い得たのであります。この事情は当時委員会から出版されたパンフレットに
詳しく記されてあります。……」》
注
: 「英米仏諾等諸国人」
の中の
「諾」
の字はノルウェー
( 諾威 )
を指す。
これは メッセージ 1664 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年6月28日 中国軍の防毒面押収
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/25 18:47 投稿番号: [1665 / 2250]
《『山西にある我軍の後方撹乱を企図せる敵は・・・悪性の毒瓦斯を使用しつつあり。
敵はこの毒瓦斯使用に方
(あた)
り彼れ自ら損害を招くので、
之を防止せんがため何れも優秀なる防毒面を準備し、
その後にありても昭和十三年六月、過般山西西部にて我軍に押収せられた防毒面は
独逸製二四式二千、白耳義
(ベルギー)
製二千五百、
支那製一万、その他二万の多数に上ってゐる。』
( 同年六月二十八日石家荘発
「同盟」 )》
信夫淳平氏
『戦時国際法講義』
より
(『昭和史研究所会報』
第40号
平成12年8月10日)
『大阪毎日新聞』
昭和十三年六月二十九日(夕刊)
敗敵、毒ガス作戦
山西省で防毒面多数押収
石家荘【二十八日】後藤(基)本社特派員発
《 徐州、帰徳、開封を逐はれ朧海線上を西へ西へと遁走した敵は
今や西安を拠点として山西省内に大軍を潜入せしめ、
小癪にもわが占領地区の攪乱、同蒲線の奪還を企図しつつあるが如く、
○○部隊発表によれば最近山西西方地区でベルギー製二百五十、
支那製一万その他約二万の防毒面をわが方にて押収せるが、
支那軍がかかる大量の防毒面を備へてゐることは卑劣にも
毒ガスによりわが精鋭無敵の皇軍に抗せんとする意図を明白にしてをり、
さきにわが進撃を阻むため黄河を決潰せしめ数十万の自国良民の生命財産を奪つた敵は
ここにまた毒ガス使用の戦術を用ふるに至つたことを示し、
断末魔の支那群は明瞭に人道と国際道義を踏みにじつてゐる。》
*
『大阪毎日新聞』
の記事はインターネットを引用しています。
文字の間違いではないかと思われる個所がありますが、
大勢に影響ないのでこのまま行きます。
「支那群」
は支那軍の入力ミスではないかと思われます。
これは メッセージ 1647 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年 ジャキノ難民区設立2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/24 18:36 投稿番号: [1664 / 2250]
松本重治氏著
『上海時代(下)』
中公新書
233〜234p
《 二人で地図を検
(しら)
べてみて、
「これは、地理的にみて、都合がよさそうだね。 ただ、いま一つの条件は、
中国兵が武装したままで、難民区に逃げ込むようなことがないようにすることにある。
その点、仏租界側や中国側にはっきりさせておく必要があろうね。
それがはっきりすれば、日本側も反対できぬことになるだろうからね」
と、私が即座に附言すると、ティンパーレー君は、
「ジャキノ神父は、今松本君がいったような条件について、すでに手を打っている。
神父の構想には、仏租界当局も全面的に協力を約しているから、
万一、逃げる中国将兵が、仏租界を通って北側から難民区になだれ込むような場合には、
仏租界の実力を用いて、そういう敗残兵を武装解除させる決意をもっているようだ。
ジャキノ神父は、日本側が賛成ならば、ただちに、英、米、仏等の民間有志者による
国際委員会を作ることにつき、関係者たちの内諾を得てある。国際委員会が出来て、
日本側の支持が得られれば、中国側も同意を拒否し得ないと思うんだ」
と返事する。
私は、 「 そういう話ならば、きっと成功するよ。
すぐ、大使館に行って日高さんに話をしてみよう。その首尾は君にすぐ電話しよう。
おそらく日高さんは、 『ティンパーレーにジャキノ神父と同道して大使館に来てもらい、
直接、両氏から話を聞こう』
ということになるだろう。
日高参事官は、英語のほかフランス語にも堪能な人だからね」
というと、
ティンパーレー君は、嬉しさに笑みを顔面一杯に表し、
「では、松本君からの電話を待っている」
といいつつ、
私と固い握手を交して支社を出ていった。
私は、車を飛ばして大使館に赴き、日高さんに、こうこうしかじかと話をすると、
日高さんは、 「では、ご両人に来てもらい、直接話をうかがいましょう。
よい考えだから、私もできるだけ尽力しましょう」
といってくれた。
すぐ翌日の約束の時間を打ち合せ、支社にとって返して、
私は、ティンパーレー君にその旨電話をかけた。
ちょうどジャキノ神父も同席で、両人はとても喜んでくれた。
翌日、日高さんは、ジャキノ神父とティンパーレー君から詳細の計画を聞き、
すぐ協力を約したが、彼は、南市の問題を担当していた陸軍特務部の楠本大佐と連絡して、
協力を得たうえ、松井軍司令官と長谷川司令長官とに、直接、会見して、
両首脳者の賛成を得た。
その間の日高さんの活動は、いとも鮮やかであったが、それについては、
日高さんによる「極東国際軍事裁判所宣誓供述書」
の数行を左に引用したい。》
つづく
これは メッセージ 1662 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年6月28日 ドイツ顧問団引上げ4
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/24 18:30 投稿番号: [1663 / 2250]
阿羅健一著
『日中戦争はドイツが仕組んだ』
小学館
238p
《 六月二十八日、トラウトマン大使が召喚された。
最後になって、蒋介石は顧問団のためお別れパーティを盛大に開いた。》
これは メッセージ 1661 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年 ジャキノ難民区設立1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/23 18:50 投稿番号: [1662 / 2250]
松本重治氏著
『 上海時代 (下) 』
中公新書
231〜233p
《 大場鎮の陥落が目前に考えられていたころ、ある夕刻、
『マンチェスター・ガーディアン』
の特派員ティンパーレー君が、
ひょっこりと
「同盟」
支社に私を訪ねてきた。
私とティンパーレー君とは、もう二、三年の交友関係にあったが、
彼は記者というより、学者肌の、良心の強い人物であった。
円転滑脱というより、むしろ無骨な物腰で、しかしやさしい眼つきの男であり、
リベラリズムの香りの高い
『マンチェスター・ガーディアン』
には、
まずふさわしい特派員だと、私はつねづね尊敬していた。
ティンパーレー君が、
「松本君、ちょっとまじめな話があるんだが」
と
切り出した話は、大要左のとおりであった。
「南市方面で中国人に対する伝道を二十年ほどやってきた
ジャキノというフランス人のカトリック神父がいる。
彼は第一次世界大戦では、従軍僧として戦傷を受け、片腕を失った勇士でもある。
彼は、日中両軍が南市の一部を難民区として承認してくれれば、
二、三十万の中国人の生命が保障されることも可能だ、と着想して、
一応中国側に話をしたが、中国側は、まず、日本側が同意、支持してくれねば、という。
しかし、残念なことに、ジャキノ神父は、信頼するに足る日本人を一人も知らない。
そこで、神父は、以前から識っている私
(ティンパーレー)
に相談を持ち込み、
その構想を日本側のしかるべき人物に伝えてくれないかという話であった。
それで、私は、まず君
(松本)
に相談するわけだ。
そこで、君がこの構想に賛成なら、どういうふうに
日本側にアプローチをしたらよいのかを教えてくれ給え。
これは、事実上、局部的な停戦協定をも意味するもので、
複雑な問題もからむ惧れがあるので、幾度か躊躇したが、
君だけには話を打ち明けることに決心した。それで、今日ここに来たのだ。
君がノーといえば、私も断念して、神父にそのように返事するほかはない。
もしイエスといってくれれば、最有力な味方を得たように思うが」
と、
ティンパーレー君は、熱を籠めて、私に語った。
「ティンパーレー君、ようこそ来てくれたね。
また、私を信頼して大切な話をもってきてくれたことを感謝する。
話は、だいたい解った。私は大賛成だから、微力ながらベストを尽しましょう」
というと、彼は非常に喜んだ。
「松本君、日本側にどういうアプローチをやられるつもりかね?」
と尋ねるから、私が
「さしづめ、私の信頼している先輩の日高参事官に話を打ち明ける。
彼にはきっと陸海軍によい連絡があるはずだ。
占領区域の行政担当は陸軍特務部であるが、その楠本大佐は、
かつて武官補佐官として、私ら記者とは何でも話のできる人物だ。こういう問題に
ついては、日高さんは、まず楠本大佐と話を始めることだろうと
推察される。
お話を聴いて、直感して重要だと考える点は、どこら辺に難民区を設定すれば、
軍の作戦上、支障がいちばん少ないか、ということだ」
というと、ティンパーレー君は、 「ジャキノ神父は、その点を充分に考え抜いたようで、
幸いにも、南市
『城内』
の方浜路以北の地区を難民区に当てれば、
すべての条件が充足されるように信ぜられるといっている」
と答える。》
つづく
これは メッセージ 1652 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年6月27日 ドイツ顧問団引上げ3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/23 18:39 投稿番号: [1661 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
文春文庫
407p
《 さすがに、ここまで強硬な態度を示されては、
蒋介石も解約を承知せざるを得ず、
六月二十七日、団長ファルケンハウゼン中将に別れを告げた。
ドイツ軍事顧問団は、盧溝橋事件が発生したときは四十六人をかぞえた。
そのご十四人が帰国し、いまは将校二十二人、技術者十人になっていた。
「われわれは、国籍を失ってもよい。中国人として生きていく」
七人がそう残留を宣言したが、残り二十五人は帰国することにした。
祖国に戦争が近づいている
−
というのが、帰国決意の主因であったが、
顧問団員P・ハインリッヒ中佐は、もうひとつの判断を記録している。
「団長も同意見だったが、われわれは、もはや中国は敗北しつつあるとみた。
いずれは、われわれも難民になる運命はまぬかれず、
蒋介石もそれを承知すればこそ、われわれに帰国をすすめたにちがいない」》
これは メッセージ 1649 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年 第十軍への命令と注意
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/22 18:51 投稿番号: [1660 / 2250]
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
390p
《 十月二十日、臨参命第百十九号をもって次のように下命された。
一
上海方面ニ第十軍竝
(ならびに)
所要ノ兵力ヲ増派ス
二
第十軍司令官ハ
海軍ト協力シテ
杭州湾北岸ニ上陸シ
上海派遣軍司令官ノ任務達成ヲ
容易ナラシムヘシ
三
上海派遣軍司令官ハ
現任務ヲ続行スルト共ニ
第十軍ノ上陸ヲ援助スヘシ》
「上海派遣軍司令官ノ任務達成ヲ
容易ナラシムヘシ」
要するに、
上海居留民救出に向かった上海派遣軍を援けろということです。
それから参謀本部の次長多田中将が第十軍参謀長田辺盛武少将に次のように述べました。
児島襄
『日中戦争4』
148p
《「上海付近ニ於テ
一大戦果ヲ収ムルコトハ、 最モ緊要ニシテ
且
(かつ)
絶対要件ナルニ付、 凡 (あら) ユル困難ヲ克服シテ
作戦目的ヲ達成シ、 以テ世界注視ノ戦場ニ
我ガ威武ヲ発揚セラレンコトヲ
切望シテ巳
(や) マズ」
参謀長田辺少将も、参謀たちに訓示している。
「北支那及
(および)
上海方面ノ各軍ニ於テハ、 作戦ノ外ニ多分ニ
政治的施策ヲ必要トスルコトハ、其作戦地域ノ特殊性ニ鑑ミ
巳 (や) ムコトヲ得ザル処ナルモ、 当集団ニ在リテハ
之ト全然趣ヲ異ニシ、
敵ニ殲滅的打撃ヲ与ヘ、 戦局ヲ此ノ一戦ニ決スルヲ以テ
軍ノ使命ノ凡 (すべ) テナリトス」
つまりは、上海の戦況を打開して中国軍に再起不能の
「必殺打」
を加えるべく、
参謀本部がいかに期待をよせ、第十軍もまた奮起の決意に燃えているかが、
二人の発言に顕示されている。》
多田次長は、世界注視の戦場だからと注意を与えています。
そして、田辺第十軍参謀長は敵に殲滅的打撃を与へて、
戦局を此の一戦に決せよ、と言っています。
つまり、この一戦で戦争を終わらせろという事です。
また参謀本部は戦訓をもとにした教令を示達するなかで、
田辺少将はつぎの事を注意しています
児島襄
『日中戦争4』
151p
《とかく家屋、村落を焼きはらう傾向があるが、なるべくやめたほうがよい、と注意する。
「寒冷季ニ入ラントスルニ際シ……其利用価値大ナルヲ以テナリ」
とくに上海戦線でめだったのは、便衣隊の襲撃であるが、
少将は、その点についても厳告している。
「一般ノ支那住民ハ老人、女、子供ト雖モ敵ノ間諜ヲ勤メ……敵ヲ誘導シ
……日本軍ノ単独兵ニ危害ヲ加フル等、寔 (まこと) ニ、油断ナリ難キ
実例多キヲ以テ……斯クノ如キ行為ヲ認メシ場合ハ、
些 (いささか) モ仮借スルコトナク、断乎タル処置ヲ執ルベシ」》
つまり、 「老人、女、子供といえども、上述のような行為をしたら、
断固たる処置をとれ」
という事でして、
無辜の民を殺せと命じているわけではありません。
これは、中国のやり方がああだから、仕方がないのです。
そして、杭州湾上陸にむかいます。
これは メッセージ 1658 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年6月26日 中国軍揚子江堤防を破壊
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/22 18:38 投稿番号: [1659 / 2250]
前に黄河の堤防を決壊させた中国軍は、こんどは揚子江の堤防を決壊させました。
昭和13年6月26日の同盟ニュース
“ 悪逆、暴虐、その極に達す
敵、揚子江堤防を決壊 ”
《 悪逆の限り、黄河決壊の暴挙を敢えてなし、
無辜の民幾十万かを絶望の淵にたたき込んだ蒋介石は、
なんたる無謀か、皇軍を怖るあまり、又しても進撃を阻まんとして、
太湖南方揚子江両岸の馬華堤を破壊し、
付近一帯の住民は濁流渦巻く大水害に見舞われんとし、
怨嗟憤怒は地に満ちている
》
これは メッセージ 1631 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年 第十軍の編成
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/21 19:13 投稿番号: [1658 / 2250]
下村第一部長主導のもと、杭州湾上陸作戦の準備が進められました。
上陸作戦を敢行する軍は、上海派遣軍とは別組織で第十軍として編成されました。
従って、松井大将の指揮権の及ばない軍隊です。
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
386pには
《 新たに上海方面に派遣する兵団はこれを上海派遣軍に増派するのではなく
別個の軍として使用する考えで検討・・・
下村部長の上海方面作戦のねらいは・・・
前面にいる75コ師にのぼる敵軍主力と決戦を交え、
これを撃破するという積極的な考えであり、・・・
敵主力をたたいて戦争の終結を図ることを意図していた。》
とあります。ここでも、やはり、戦争の終結が目的でした。
侵略が目的ではありません。
次に、軍の編成ですが、
児島襄著
『日中戦争4』
文庫本147〜148pには
《 十月二十日、柳川平助中将を司令官にする第十軍の戦闘序列が下令された。
内地から第十八師団
(牛島貞雄中将)
と第百十四師団
(末松茂治中将)、
北支那方面軍の第一軍から第六師団
(谷寿夫中将)
および第五師団第九旅団
(国崎登少将)
主力の国崎支隊、
第二軍から第十六師団
(中島今朝吾中将)
をあわせての編成である。》
となっています。
これは メッセージ 1640 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年6月24日 蒋介石、高宗武を批判
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/21 19:07 投稿番号: [1657 / 2250]
蒋介石は、高宗武が松本氏と和平工作をしているのを知ったのでしょうか、
批判しました。
児島襄著
『日中戦争4』
文春文庫
410p
《 現に、蒋介石は、六月二十四日、
「聞
外交部亜州司長高宗武
竟
己秘密離港赴日、
以其擅自行動、
膽大妄為如此、殊出意外」
と、日誌に記録する》
翻訳すると、
「外交部亜州司長高宗武は、ついに
(竟)、すでに
(己)
秘密裡に香港を離れ、
日本に赴いて、ほしいままに行動していると聞く、
かくの如く大胆な妄動を為す、殊出意外」
とでもなりますか。
厳密には少し違うかも知れませんが、当らずとも遠からずでしょう。
実際には、まだ、中国を出ていないのですけど。
これは メッセージ 1645 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年10月17日 トラウトマン工作開始
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/20 16:24 投稿番号: [1656 / 2250]
石原少将は満州に転出する前、馬奈木中佐に、
トラウトマン駐支・独大使への和平仲介依頼工作を頼んでいきました。
井本熊男著
『支那事変作戦日誌』
192p
《 十二年九月、石原第一部長の転出直前、
当時第二部部員であった馬奈木中佐は会食懇談の席上で
『今度支那の大使に
着任したトラウトマンはベルリソで補佐官をしていた時代の友人である』
と話したところ、
石原第一部長は
『それは願ってもないことだ。すぐ支那に行ってトウラトマンと
会い、日支和平工作に関する手がかりを作ってくれ』
と云い出した。
結局馬奈木中佐は在京のドイツ武官オットー大佐と同道して上海に赴き、
オットー大佐がトラウトマンと会談する橋渡しの役をしたというのである。 》
松本重治著
『上海時代・下』
224〜225p
《 九月二十七日附で、不拡大派の総帥であった参謀本部第一部長石原少将は
中央を追われ、関東軍参謀副長に補せられてしまった。
東京を発つ数日前に、部下の馬奈木
(敬信)
中佐に対し、
「イギリスの調停は、あまり好かなかったが、それがだめとなったから、
どうしてもドイツに調停を頼んで欲しい。
君はドイツ通だから、オットー大使館附武官と相談して、何とかして、やって欲しい」
と、局面の収拾のためのいわば遺言のようなものを残して、満州に赴任した。
これが、トラウトマンの仲介交渉の発端であった。 》
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
455p
《
陸軍では、石原第一部長が、かねてからドイツを仲介として事変の終息を
図ろうとし、第二部部員馬奈木敬信中佐 (28期) を通じて
ドイツ大使館付武官オット少将と連絡し、極秘のうちに交渉を進めていた。
ドイツ側も日支諸懸案の全面的解決については事変前から関心を持っていた
ところであるので、両者の話し合いは急速に進んだ。
馬奈木中佐はオット少将とともに、表向きは戦線視察、
ドイツの対支援助の調整を目的として、十月十七日東京出発、上海に至り、
かつて駐独武官輔佐官当時から懇意であったトラウトマン駐支・独大使に
上海まで出行してもらって、二十六日ころ、会談した。
馬奈木中佐が和平の必要、仲介の労をとってもらいたい旨を語ったところ
(具体的条件は示さず)、 大使は極力やりましょうという熱意のある返事であった。 》
鈴木明著
『新
「南京大虐殺」
のまぼろし』
221p
《 和平工作の仕掛けは、日本の側からである。のままズルズルと戦争を延ばされれば、
日本は不利になると判断した参謀本部の石原莞爾は、十月半ばには
「早期休戦」
を決断し、参謀部員の馬奈木敬信
(中佐・元ドイツ駐在日本大使館武官補佐官)
と、
このとき駐日ドイツ大使館の武官をしていたオイゲン・オットーをひそかに
上海に派遣し、十月二十六日にトラウトマン駐華大使を上海に呼んで、
キャセイ・ホテルで三日間にわたり中国側の意向、
日本側の条件などについて話し合った。
ここで手ごたえを得た馬奈木は、石原を通して外相広田弘毅に連絡、
広田は正式
(といっても秘密裏)
に駐日大使のディルクセンに対し、
ドイツに仲介を依頼した。》
この結果、ドイツ大使を通じての和平の提案が、日本側からなされます。
つづく
これは メッセージ 1632 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年6月24日 宇垣外相の対支方針
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/20 16:11 投稿番号: [1655 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
文春文庫
404〜405p
《 内閣改造(註、五月二十六日)
によって外相に就任した宇垣一成大将
・・・、大将の考え方は、就任のさいに首相近衛文麿公爵に承諾させた
次の四条件に明示されている。
「一、閣内ノ一致結束ヲ一層強化ス。
二、速
(すみやか)
ニ対時局ノ方針ヲ決定ス。
三、対支外交ノ一元化ヲ期ス。
四、蒋政権ヲ対手ニセズ云々ニ
深ク拘泥セズ」
つまり、宇垣外相としては日支和平工作をこころざしているのだが、
その意向は、六月二十四日、五相会議(首相、外相、蔵相、陸相、海相)で
決定した
「今後ノ支那事変指導方針」
に、より明確に表明されていた。
「一、支那事変ノ直接解決ニ
国力ヲ集中指向シ、概ネ本年中ニ
戦争目的ヲ達成スルコトヲ
前提トシ、内外諸般ノ施策ヲシテ
総テ之ニ即応セシム。
二、第三国ノ友好的橋渡シハ、条件次第ニテ
之ヲ受諾スルヲ妨ゲズ。」
第一項が、漢口作戦とその背後にある陸海軍の思想を表示していることは、
容易に理解できる。
そして、 「内外諸般ノ施策」
という表現に
宇垣外相の和平工作が内蔵され、
第二項は、とくに外相の考えを強調したものである。
「世界の不可思議、不可解事は、何と云ふても列国の対支援助である。
日本の空爆に対して、人道上宜しくないと抗議をつづけて居りながらも、
他面に於ては、戦闘力の欠けて居る支那に兵器や人を供給して、
空爆以上の悲惨事を継続せしめて居ることは、不可思議であり、
また不可解事である。
彼等の人道上云々の説も、何となく権威の薄き感を与へる。咄、否乎」
とは、宇垣外相の日誌
(六月五日)
の記述であるが、
外相は、五相会議でも、日英関係の調整の必要を強調した。》
これは メッセージ 1609 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年中国、日本軍が毒ガス使用と訴える
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/19 13:52 投稿番号: [1654 / 2250]
〔昭和12年10月17日
中外商業(夕刊)〕]
《 王氏またも誣告
(ぶこく) 〔ニューヨーク十五日発同盟〕
支那政府外交部長王寵恵氏は十五日、米国に向けラジオを通じて放送演説を試み、
支那における日本軍の行動を誣告して、次のごとく述べた。
米国民はこの際日本を援助するような挙にはいっさい出ないよう切望する。
日本軍が支那軍に対し非人道的行為を行って居るのは明白で、
日本軍が毒瓦斯
(ガス)
を使用して居ることは、南京赤十字病院院医長
エッチンガー博士並びに連盟保健部代表ボルチック博士の確認する所である。
逆宣伝反駁
(はんばく)、
駐米大使館 〔ワシントン十五日発同盟〕
駐米帝国大使館当局は十五日、
UP通信記者との会見において、日本軍が催嚏 (さいてい) 瓦斯並びに
ダムダム弾を使用したとの支那側の宣伝を否定し、
逆に本国政府より接受した確証を挙げて、
支那軍こそダムダム弾の使用者だと、左のごとく反駁した。
上海附近の戦線で支那逃亡兵の遺棄した弾薬箱からダムダム弾が発見された。
早速東京に送って保管したが、将来禁止武器使用問題が起こった場合、
証拠として提出するはずである。》
ところで、この毒ガス記事に符号する記述がラーベの日記10月14日にあります。
《日本人が毒ガスを使っているとの噂しきり。地元の新聞が伝えるところによると、
すでにここの病院にガス中毒の中国人兵士たちが運ばれてきているという。》
ラーベの日記が10月14日で、米国の記事が10月15日ですから、全く同じ時です。
ところで、後で書きますが、英国は中国に毒ガスを供給していたのです。
そして、中国は日本軍に対して毒ガスを使用していました。
早瀬利之著
『将軍の真実
南京事件
松井石根人物伝』
63p
《 のちに判明したことのひとつに、
中国軍側は化学兵器弾を司令部近くに撃ち込んでいる。
九月二日のことで、司令官の松井自身、
「石齢水泡のようなものが広がった」 のを見ている。
化学兵器については日本軍も
「緑筒」 「赤筒」
の二種類をもっていたが、
松井の使用禁止令で、ついに上海戦、南京戦には使われなかった。
しかし中国側は、化学兵器も含めて砲弾を遠距離から、水産学校めがけて撃ち込んだ。 》
とあります。
日本軍が使ってないのに、中国兵がガス中毒になったという事は、
自分たちの毒ガスの取り扱いを間違って浴びたという事でしょう。
それを巧妙に日本軍のせいにすり替えたという事でしょう。
そもそも、日本軍が、毒ガスを使っていたなら、こんなに苦戦はしません。
敵は大軍ですから、そこに毒ガス弾を撃ち込めば、効果てきめん、
敵に多大な損害を与えられ、戦局は有利に運んだでしょう。
苦戦したのは使ってなかったからです。
なお、上陸した陸軍にコレラが流行ったのも、中国側の細菌戦との疑いもあります。
児島襄著
『日中戦争4』
151pに
《衛生とくに飲水にかんする注意をおこたってはならない。
井戸水にはアメーバ赤痢薗がうようよしているほか、
九月に上海戦線でコレラ患者が多発したのは、中国軍の細菌戦による疑いが濃厚である。
「支那軍ノ指令ヲ
奪取セルトコロ、 其ノ中ニ
井戸水ヲ飲用ス
ベカラズトノ
指示アリ。 即チ敵ガ
井戸ニ細菌ヲ
投ゼシモノト
察セラル」》
とありますから。
中国というのは、とことん、自分のやった犯罪を日本に転嫁するものです。
これは メッセージ 1622 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年6月24日 ドイツ顧問団引上げ2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/19 13:36 投稿番号: [1653 / 2250]
阿羅健一著
『日中戦争はドイツが仕組んだ』
小学館
238p
《 一九三八年六月二十四日、とうとう顧問団は事務所を閉鎖し、
蒋介石の許可が下りる、下りないに、かかわらず帰国することを決定した。》
これは メッセージ 1651 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年 特務に監視される 松本−徐 会談
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/18 18:44 投稿番号: [1652 / 2250]
松本重治氏は和平の糸口を見つけるべく、
中国人の徐新六
(シューシンロー)
と定期的に会合をしていましたが、
これを快く思わない中国側に監視されていました。
松本重治氏著
『上海時代(下)』
中公新書
229p
《 三回目のカセイ・ホテルでの会合
(十月十四日)
の際、
徐さんは、中国人らしく、
一種の特務隊が二人の動静を監視しているという気配を感じたらしく、
「次の会合は、どこか、ほかのところでやりましょうや」
という。
私は、狙われているのは、私よりも徐さんのほうだと感じ、
「徐さん、次の会合は、ホール=パッチのアパートで、
四時半ごろのお茶の会にしたら如何」
と提案すると、
徐さんは、 「そうできれば、それに越したことはない」
という。
四回目は、ホール=パッチと打合せのうえ、彼のアパートを借用した。
そこで両三回の会合をやったが、その翌日、上海クラブでホール=パッチに会うと、
「シゲ、どうも、僕のアパートも監視されている。中国人ボーイが密告したらしいから。
この次のお二人の会合は、アメリカ大使館附武官に内情を話したら、
武官が自分のアパートを使ってくれというので、そうして欲しい」
という。
*
このように、中国は和平の働きかけをする者を国賊と見なして赦さないのです。
以前、図書館で見た古い支那事変の写真本には、
電線に首をぶら下げてある写真があり、
そこには、日本人と仲良くしたので、見せしめに殺されて、
首をぶら下げられた支那人というような説明がありました。
その本は10年くらい前に図書館から消えましたので、もはや確認できませんが。
その本がなくても、揚子江流域の日本人が引揚げる前の
状況を見ればおよその想像はつきます。
かつ、和平反対の態度も、盧溝橋事件以来の日本側の和平提案を、
中国側がことごとく、踏みにじり、潰している事からも明白です。
中国は、自分から戦争を仕掛けており、和平などする気は、サラサラないくせに、
連盟に、日本に侵略されているなどと、報告しているのです。
これは メッセージ 1628 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1652.html
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