1937年 南市攻略戦1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/14 18:39 投稿番号: [1707 / 2250]
塚本誠著
『ある情報将校の記録』
216〜218p
《 南市無血攻略の工作も成功せず、敵は日暉クリークに沿う堅固な陣地に拠って
上海戦最後の抵抗を行なうことが明らかになった。
敵の右翼の拠点はフランス租界の境界線上に設けられているので、
この陣地攻撃ではわが銃砲弾が租界内に流れて国際問題が起こる公算が極めて大きい。
その上、南市には多数の避難民がいるだろうから、その取扱いいかんでは
人道上の問題として列国の批判の的となることも予想された。
わが第一線歩兵部隊は岐阜の川並部隊で、呉淞上陸以来三ケ月、
いま追撃戦に移ったのであるが、上海の特殊事情には暗い。
これらの事情を攻撃部隊に配慮せよと要求することは無理であるから、
それを未然に防ぐことこそ上海憲兵隊の戦闘任務であると私は考えた。
そこで岡村大尉と相談して、岡村の租界分隊と私の特高課から、
現地事情に精通する下士官以下約二十名を私が指揮して
攻撃部隊の第一線に随伴することにした。
十一日、南市攻撃が始まった。集中砲撃が終ると、歩兵第六十八聯隊の攻撃開始。
憲兵もこの第一線について日暉クリークを渡河する。
案の定、敵はフランス租界を背にしたトーチカから側射してくる。
私は中隊長のいる線まで進出して、歩兵部隊の射法を注視していた。
その時、うしろから部下の一憲兵が 「鉄帽を被ってもよいですか」 と
大声で叫ぶので 「済まん、かぶれ」 と答えたが胸にジンとくるものがあった。
私は鉄帽は開戦以来まだ手にいれていないのである。
その時私のそばに一人の新聞記者が伏せている。
尋ねると同盟通信の殿木圭一記者と答えた。
殿木君をみると彼はどこで拾ったか青天白日のマークのある鉄カブトをかぶっている。
私はこれが縁でその後長いつき合いとなるのだが、これこそ戦場で拾った友人である。
逐次敵を圧迫し南市の西南端に達したが、市街突入は翌払暁ということで、
私らも第一線と共に敵と対峠したまま夜を徹した。
殿木君は社へ連絡に帰るというので途中まで憲兵に護衛させたが明方近くに帰って来た。
あまりに帰りが早いのでそのわけをきくと、難民区からフランス租界内への
水汲み入口があるからそれを抜けて来たとのこと。よくよく大胆敏捷な男である。
払暁、歩兵部隊に先んじて市街に進出すると、敵影を認めないばかりか
住民はすべて南市北部フランス租界に近い地区に集められ、
その避難民区は、その周囲にフランスの小旗を掲げて標示されている。
この地区に近づくと、背広に巻脚絆姿の日本人が挨拶した。
上海総領事館の田中正一領事である。
田中さんの話によると、この避難民区は、カトリックの神父でジャキノーという
フランス人の志によって設けられ、 「ジャキノー避難民区」 と呼ばれているという。
いい時に田中さんに会ったものだ。
田中さんの応援で、フランス側との折衝は円満に進んだ。
私は一応、南市一帯を憲兵に巡察、検索させたのち、長以下数名をもって
南市憲兵分駐所を開設させる処置をとり、主力の憲兵はその所属に復帰させた。
南市の掃蕩が終った十二日の夕方、路上で飯盒メシを食べていた兵隊に声をかけると、
「上陸以来初めて電灯の見えるところで御飯が食べられました」 と、しんみり答えた。》
《 南市無血攻略の工作も成功せず、敵は日暉クリークに沿う堅固な陣地に拠って
上海戦最後の抵抗を行なうことが明らかになった。
敵の右翼の拠点はフランス租界の境界線上に設けられているので、
この陣地攻撃ではわが銃砲弾が租界内に流れて国際問題が起こる公算が極めて大きい。
その上、南市には多数の避難民がいるだろうから、その取扱いいかんでは
人道上の問題として列国の批判の的となることも予想された。
わが第一線歩兵部隊は岐阜の川並部隊で、呉淞上陸以来三ケ月、
いま追撃戦に移ったのであるが、上海の特殊事情には暗い。
これらの事情を攻撃部隊に配慮せよと要求することは無理であるから、
それを未然に防ぐことこそ上海憲兵隊の戦闘任務であると私は考えた。
そこで岡村大尉と相談して、岡村の租界分隊と私の特高課から、
現地事情に精通する下士官以下約二十名を私が指揮して
攻撃部隊の第一線に随伴することにした。
十一日、南市攻撃が始まった。集中砲撃が終ると、歩兵第六十八聯隊の攻撃開始。
憲兵もこの第一線について日暉クリークを渡河する。
案の定、敵はフランス租界を背にしたトーチカから側射してくる。
私は中隊長のいる線まで進出して、歩兵部隊の射法を注視していた。
その時、うしろから部下の一憲兵が 「鉄帽を被ってもよいですか」 と
大声で叫ぶので 「済まん、かぶれ」 と答えたが胸にジンとくるものがあった。
私は鉄帽は開戦以来まだ手にいれていないのである。
その時私のそばに一人の新聞記者が伏せている。
尋ねると同盟通信の殿木圭一記者と答えた。
殿木君をみると彼はどこで拾ったか青天白日のマークのある鉄カブトをかぶっている。
私はこれが縁でその後長いつき合いとなるのだが、これこそ戦場で拾った友人である。
逐次敵を圧迫し南市の西南端に達したが、市街突入は翌払暁ということで、
私らも第一線と共に敵と対峠したまま夜を徹した。
殿木君は社へ連絡に帰るというので途中まで憲兵に護衛させたが明方近くに帰って来た。
あまりに帰りが早いのでそのわけをきくと、難民区からフランス租界内への
水汲み入口があるからそれを抜けて来たとのこと。よくよく大胆敏捷な男である。
払暁、歩兵部隊に先んじて市街に進出すると、敵影を認めないばかりか
住民はすべて南市北部フランス租界に近い地区に集められ、
その避難民区は、その周囲にフランスの小旗を掲げて標示されている。
この地区に近づくと、背広に巻脚絆姿の日本人が挨拶した。
上海総領事館の田中正一領事である。
田中さんの話によると、この避難民区は、カトリックの神父でジャキノーという
フランス人の志によって設けられ、 「ジャキノー避難民区」 と呼ばれているという。
いい時に田中さんに会ったものだ。
田中さんの応援で、フランス側との折衝は円満に進んだ。
私は一応、南市一帯を憲兵に巡察、検索させたのち、長以下数名をもって
南市憲兵分駐所を開設させる処置をとり、主力の憲兵はその所属に復帰させた。
南市の掃蕩が終った十二日の夕方、路上で飯盒メシを食べていた兵隊に声をかけると、
「上陸以来初めて電灯の見えるところで御飯が食べられました」 と、しんみり答えた。》
これは メッセージ 1705 (kir**gotowa**me さん)への返信です.