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1937年12月24日 兵民分離の住民登録

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/14 18:52 投稿番号: [2110 / 2250]
東中野修道著   『南京大虐殺の徹底検証』   233〜235p


〈 南京陥落から二週間にして、事態はほとんど沈静化したことになる。

では、何が、事態の沈静化をもたらしたのか。

その一つの要因として、国際委員会の日本軍批判が挙げられよう。

それに対する日本側の   「厳重」   すぎる処罰も、その一つの要因であったであろう。

しかし、それ以上に、決定的な要因が二つ考えられるのである。



一つは、十二月二十二日に布告され、二十四日から一斉に開始された住民登録である。

これにより市民は、日本軍の指定する登記所に   「各自」   出頭を要請された。

代理申請は不可能であった。 「良民票」   交付と言われるこの住民登録により、

日本軍は兵士と市民の分離を図ったのである。



もう一つが、住民登録と同時に始まった査問工作であった。

「兵士と、市民とを、分離しつづけることができなかった」(二号文書)

とは、国際委員会の告白であった。 そのため、安全地帯に潜伏する

敗残兵の摘出作業が、南京住民立ち会いのもとに始まったのである。



この兵民分離の査問工作を担当したのが、 『南京戦史資料集Ⅰ』   の

「佐々木到一少将私記」   にもあるように、歩兵第三十旅団長の佐々木少将であった。

第十六師団司令部の内田義直通訳官は、その査問工作に立ち会った感想を、

次のように回想する。以下は   『南京戦史』   からの引用である。



《 中国人の言葉には地方訛りがある。

南京を守備した中国軍は、広東、広西、湖南の兵隊で南方訛りであって、

言葉で兵隊と市民の区別は難しかった。

しかし身体つきを見れば兵隊と一般市民とは、直ぐ区別がつく。

自治委員会の中国人と一緒に相談しながら分離作業をやったので、

一般市民を狩り立てるようなことはなかった。

上衣だけが民服で、下着が兵隊服のものが多く、すぐ見分けがついた。》



恐らく、内田通訳官の回想に間違いはないであろう。

『南京安全地帯の記録』   には、あること無いことを含めて、

様々な日本軍批判が収録されているが、被害者の実名を挙げて、

兵民分離工作が市民に累を及ぼしたという記録は一つもない。



こうして約二千の敗残兵と武器が摘発されたと   「佐々木到一少将私記」   は記す。

従って、国際委員会十号文書 (十二月十八日付)   が

「武装解除された支那兵集団すら存在しない」   と主張したのは、誤りであった。



昭和十三年一月十日付の   『読売新聞』   は、

「難民調査は暮から始められて、七日漸く一段落を告げて、

敗残兵一千六百名とその他のものは安民居住の所を与へられ、

今では大手を振って城内を歩けるやうになった」   と記す。



潜伏に困難を来し、自ら出頭して市民登録を許可された支那兵もいたのである。

このため、潜伏兵が急減し、あわせて撹乱工作も減少した。

そしてまた、潜伏兵の出頭により、人口数が増加した。〉
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