入って中国人に南京事件真相議論しましょう
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1937年 第十軍と南京の動き
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/05 15:39 投稿番号: [1812 / 2250]
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
425p
第十軍
《 国崎支隊は、郎渓で水上機動の準備を行い、六日、同地を出発、
第十軍司令官は、杭州方面の敵にたいし、軍の左側背を掩護するため、
石湾鎮に歩兵半大隊、湖州に歩兵一大隊、下泗安に歩兵一中隊、
広徳に歩兵一中隊、ネイ国に歩兵半大隊を配備していたが、
六日、第一・第二後備歩兵団が湖州付近に到着したので、
右の警備をこれら兵団に移譲し、師団残置部隊を原所属に復帰させた。》
南京のようす
児島襄著
『日中戦争4』
183〜184p
《 南京市内は日本機の空襲による火煙でおおわれ、
外周防備にあたっていた第八十三軍、第七十一軍、第二軍団の敗兵が
続々と市内に逃げこんできた。
首都衛戍司令官唐生智は、市内の外国人に退去を勧告するとともに、
夕刻、城門の閉鎖を命じた。》
*
「南京市内が日本機の空襲で火煙でおおわれ」
と言いつつ、
「外周防備にあたっていた兵が続々と市内に逃げこんできた」
と
言うのは不自然ではないのか?
爆撃されている市内に、逃げこんだら、余計危ないだろう。
爆撃されている場所は、飛行場のような、特定の場所に限られ、
市民の居住区は比較的安全だったから、兵が逃げこんで来たのではないのか?
これは メッセージ 1803 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年11月30日 日支新関係調整方針3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/04 14:33 投稿番号: [1810 / 2250]
井本熊雄著
『支那事変作戦日誌』
297〜298p
つづき
《 第三
経済提携ノ原則ニ関スル事項
日満支三国ハ
互助連環
及
共同防共ノ実ヲ挙クル為
産業経済等ニ関シ
長短相補
有無相通ノ趣旨ニ基キ
共同互恵ヲ旨トスルコト
一、日満支三国ハ
資源ノ開発、関税、交易、航空、交通、通信、気象、測量ニ関シ
前記趣旨
並
以下ノ各項ノ要旨ヲ
具現スル如ク
所要ノ協定ヲ締結ス
二、資源ノ開発利用ニ関シテハ
北支蒙疆ニ於テ
日満ノ不足資源中
埋蔵資源ヲ求ムルヲ以テ
施策ノ重点トシ、支那ハ共同防衛
並
経済的結合ノ見地ヨリ
之ニ
特別ノ便益ヲ供与シ
其他ノ地域ニ於テモ
特定資源ノ開発ニ関シ
経済的結合ノ見地ヨリ
必要ナル便益ヲ供与ス
三、一般産業ニ就テハ
努メテ
支那側ノ事業ヲ尊重シ
日本ハ之ニ
必要ナル援助ヲ与フ
農業ニ関シテハ
之カ改良ヲ援助シ
支那民生ノ安定ニ資スルト共ニ
日本ノ所要原料資源ノ培養ヲ図ル
四、支那ノ財政経済政策ノ確立ニ関シ
日本ハ所要ノ援助ヲ為ス
五、交易ニ関シテハ
妥当ナル関税
並
海関制度ヲ採用シ
日満支間ノ一般通商ヲ
振興スルト共ニ
日満支
就中
北支間ノ物資需給ヲ
便宜
且
合理的ナラシム
六、支那ニ於ケル交通、通信、気象
並
測量ノ発達ニ関シテハ
日本ハ所要ノ援助
乃至
協力ヲ与フ
全支ニ於ケル
航空ノ発達、北支ニ於ケル
鉄道
(隴海線ヲ含ム)、
日支間
及
支那沿岸ニ於ケル
主要海運、揚子江ニ於ケル水運
並
北支及揚子江下流ニ於ケル通信ハ
日支交通協力ノ重点トス
七、日支協力ニ依リ新上海ヲ建設ス
附
一、支那ハ
事変勃発以来支那ニ於ケル
日本国民ノ蒙リタル
権利利益ノ損害ヲ補償ス
二、第三国ノ支那ニ於ケル経済活動
乃至
権益カ日満支経済提携強化ノタメ
自然ニ制限セラルルハ当然ナルモ
右強化ハ主トシテ
国防
及
国家存立ノ必要ニ
立脚セル
範囲ノモノタルヘク、
右目的ノ範囲ヲ
超エテ
第三国ノ活動
乃至
権益ヲ
不当ニ
排除
制限セントスルモノニ非ス
なおこの年十二月十八日、汪精衡の重慶脱出に呼応して近衛首相は、
同月二十二日左記の声明を発表した。
その内容は、前記東亜新秩序建設の声明並びに日支新関係調整方針の趣旨によって、
汪精衛の対蒋介石政権樹立を実現しようとする意図を表明したものであった。》
注
就中
なかんづく
と読む
汪精衛とは汪兆銘のこと
これは メッセージ 1808 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年12月6日 海軍の揚子江啓開
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/04 14:19 投稿番号: [1809 / 2250]
戦史叢書
『中国方面海軍作戦1』
460〜461p
《 六日、第一警戒部隊は江陰水道の啓開作業を続行、
前路掃海隊は北水道の略掃、保津隊は南水道の掃海を実施した。
夜半、第一掃海隊の第一、第二小隊は第一警戒部隊に編入された
(第三小隊は七日編入)。
これは第二、第三掃海隊が特設掃海隊で流れの強い江上の敵前掃海に不安があるため、
この際有力な掃海兵力を第一警戒部隊に編入し、
遡江作戦を進ちょくさせようとしたものであった
〔第一掃海隊は第一小隊
(掃五、掃六)、 第二小隊
(掃二、掃四)、
第三小隊
(掃一、掃三)
の六隻から成る〕。
前路警戒隊は内火艇四隻をもって
08:00〜17:30
クーパーバンク南方機雷礁の
小掃海を実施し、機雷一二個を拘束、内八個を爆破処分し、残り四個に浮標を付した。
南水道の掃海
閉塞線に可航水路を啓開す
「保津」
艦長は福姜沙水道の清掃、同水道西口 − 閉塞線間南寄り江面の探掃及び略掃、
陸戦隊による江岸一帯の管制機雷の調査、特別作業隊の作業協力などを命ぜられた。
またこの日から当分の間第二十四駆逐隊から准士官以上の指揮する掃海隊
(二対艇小掃海)
が
「保津」
に派遣され、同艦長の指揮を受け、
かつ宮里大佐指揮の特別作業隊から機雷処分隊が同艦長に協力することとなった。
まず林少佐指揮の曳船四隻は閉塞線下流付近の再掃海を実施し、
また前路警戒隊から派遣の小掃海隊は閉塞線南端水路の掃海を
17:30
まで実施したが、閉塞線上流の掃海には不適と認められ原隊に帰った。
「保津、勢多」
は閉塞線下流で右作業の支援に任じ、
かつ内火艇により閉塞線啓開水路の探査を実施したところ、
約四〇〇米の間に可航水路を発見した。
そこで曳船四隻がこの水路の掃海を実施、水道の両側に標識旗を立てた。
保津、第二十四駆逐隊の陸戦隊員は終日
粛山−黄山間江岸一帯の管制機雷衛所などを捜索、
粛山管制所で電纜による爆破を企てたが成功しなかった。
第二掃海隊は
16:00
旗艦安宅に合同した。》
これは メッセージ 1801 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年11月30日 日支新関係調整方針2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/03 18:40 投稿番号: [1808 / 2250]
井本熊雄著
『支那事変作戦日誌』
つづき
《 第二
共同防衛ノ原則ニ関スル事項
日満支三国ハ協同シテ
防共ニ当ルト共ニ
共通ノ治安安寧ノ維持ニ関シ
協力スルコト
一、日満支三国ハ
各其領域内ニ於ケル共産分子
及組織ヲ芟除スルト共ニ
防共ニ関スル
情報宣伝等ニ関シ
提携協力ス
二、日支協同シテ
防共ヲ実行ス
之カ為
日本ハ所要ノ軍隊ヲ
北支及蒙疆ノ要地ニ駐屯ス
三、別ニ日支防共軍事同盟ヲ締結ス
四、第二項以外ノ日本軍隊ハ
全般
並
局地ノ情勢ニ即応シ
成ルへク早期ニ
之ヲ撤収ス
但保障ノ為
北支及南京、上海、杭州三角地帯ニ於ケルモノハ
治安ノ確立スル迄
之ヲ駐屯セシム
共通ノ治安、安寧維持ノ為
揚子江沿岸特定ノ地点
及
南支沿岸特定ノ島嶼
及
之ニ関連スル地点ニ
若干ノ艦船部隊ヲ駐屯ス
尚揚子江及支那
沿岸ニ於ケル
艦船ノ航泊ハ自由トス
五、支那ハ前項治安協力ノタメ
日本ノ駐兵ニ対シ
財政的協力ノ義務ヲ負フ
六、日本ハ概ネ
駐兵地域ニ存在スル鉄道、航空、通信並主要港湾
水路ニ対シ
軍事上ノ要求権
及
監督権ヲ保留ス
七、支那ハ
警察隊及軍隊ヲ改善
整理スルト共ニ
之カ日本軍駐屯地域ノ配置
並
軍事施設ハ
当分治安及国防上
必要ノ最小限トス
日本ハ支那ノ
軍隊警察隊建設ニ関シ
顧問ノ派遣、武器ノ供給等ニ依リ協力ス》
注
芟除
:
サンジョ
刈り取り
除く
つづく
これは メッセージ 1806 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年12月6日 ラーベの日記2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/03 18:32 投稿番号: [1807 / 2250]
《 きちんと準備するには、米や小麦粉、塩、燃料、医薬品、炊事道具、
あと、なんだかしらないがとにかくいるもの全部、
日本軍が攻めてくる前に用意しておかねばならない。
医者、救護員、汚物処理、埋葬、警察、
そうだ、場合によっては警察の代わりまでやる覚悟がいる。
軍隊と一緒に、十中八九警察もいなくなるだろう。
そうなったら、治安が乱れるおそれがある。
こういうこともみなそのときになってからやれと言うのか?
なんとか考えを変えるよう、黄を説得しようとしたが無駄だった。
要するにこいつは中国人なのだ。
こいつにとっちゃ、数十万という国民の命なんかどうでもいいんだ。
そうか。貧乏人は死ぬよりほか何の役にも立たないというわけか!
防衛についても話し合った。私は必死で弁じた。ファルケンハウゼン将軍はじめ、
ドイツ人顧問は口をそろえて防衛は絶望的だといっている。
もちろん、形だけでも防衛はしなければならないだろう。
司令官にむかって、むざむざ明け渡せなどといえないことくらい百も承知だ。
面目を保ちたいのもわかる。
だが、南京を守ろうとする戦い、
この町での戦闘はまったくばかげたことであって、
無慈悲な大量虐殺以外の何物でもない!
……だが、何の役にも立たなかった。私には説得力がないのだ!
黄はいった。
名誉とは、最後の血の一滴まで戦うことにある!
ほう!
お手並み拝見といこうじゃないか!
発電所の管理人の白さんと主任技術者陸さんは、
発電所を動かすために、命がけでがんばるとか言っていた。
たしかに発電所は動いている。
はて。だれが動かしてるのかね。
白さんと陸さん、このお二人はとっくにいなくなったが。》
*
ラーベは
「南京を守ろうとする戦い、
この町での戦闘はまったくばかげたことであって、
無慈悲な大量虐殺以外の何物でもない!」
と言っている。
つまり、南京戦そのものが大虐殺なのだと。
だったら、その責任は南京戦を回避しようとしない、中国側にあるではないか。
これは メッセージ 1805 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年11月30日 日支新関係調整方針1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/02 18:41 投稿番号: [1806 / 2250]
これは、東亜新秩序に続く、具体的方針
井本熊雄著
『支那事変作戦日誌』
295〜296p
日支新関係調整方針
(昭和十三年十一月三十日御前会議決定)
日満支三国ハ
東亜ニ於ケル新秩序建設ノ理想ノ下ニ
相互ニ善隣トシテ
結合シ
東洋平和ノ枢軸タルコトヲ共同ノ目標ト為ス
之カタメ基礎タル事項左ノ如シ
一、互恵ヲ基調トスル日満支一般提携
就中善隣友好、防共協同防衛、
経済提携原則ノ設定
二、北支及蒙疆ニ於ケル国防上
並経済上
(特ニ資源ノ開発利用)
日支強度結合地帯ノ設定
蒙疆地方ハ前項ノ外
特ニ防共ノ為
軍事上並ニ政治上特殊地位ノ設定
三、揚子江下流地域ニ於ケル
経済上日支結合地帯ノ設定
四、南支沿岸特定島嶼ニ於ケル
特殊地位ノ設定
之カ具体的事項ニ関シテハ
別紙要項ニ準拠ス
別紙
第一善隣友好ノ
原則ニ関スル事項
日満支三国ハ相互ニ
本然ノ特質ヲ尊重シ
渾然相提携シテ
東洋ノ平和ヲ確保シ
善隣友好ノ実ヲ挙クル為
各般ニ亙リ
互助連環
友好促進ノ手段ヲ講スルコト
一、支那ハ満洲帝国ヲ承認シ
日本及満洲ハ支那ノ領土及主権ヲ尊重シ
日満支三国ハ新国交ヲ修復ス
二、日満支三国ハ政治、外交、教育、宣伝、交易等諸般ニ亙リ
相互ニ好宜ヲ
破壊スルカ如キ措置
及
原因ヲ撤廃シ
且将来ニ亙リ之ヲ禁絶ス
三、日満支三国ハ
相互提携ヲ基調トスル外交ヲ行ヒ
之ニ反スルカ如キ
一切ノ措置ヲ
第三国トノ関係ニ於テ
執ラサルモノトス
四、日満支三国ハ
文化ノ融合、創造及発展ニ協力ス
五、新支那ノ政治形態ハ
分治合作主義ニ則リ施策ス
蒙疆ハ高度ノ防共自治区域トス
上海、青島、廈門ハ各々既定方針ニ基ク
特別行政区域トス
六、日本ハ新中央政府ニ
少数ノ顧問ヲ派遣シ
新建設ニ協力ス
特ニ強度結合地帯
其他
特定ノ地域ニ在リテハ
所要ノ機関ニ顧問ヲ配置ス
七、日満支善隣関係ノ具現ニ伴ヒ
日本ハ漸次租界、治外法権等ノ返還ヲ考慮ス
つづく
これは メッセージ 1788 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年12月6日 ラーベの日記1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/02 18:30 投稿番号: [1805 / 2250]
《 十二月六日
ここに残っていたアメリカ人の半分以上は、今日アメリカの軍艦に乗りこんだ。
残りの人々もいつでも乗りこめるよう準備している。
われわれの仲間だけが拒否した。
これは絶対に内緒だが、といってローゼンが教えてくれたところによると、
トラウトマン大使の和平案が蒋介石に受け入れられたそうだ。
南京が占領される前に平和がくるといい、ローゼンはそういっていた。
黄上校との話し合いは忘れることができない。
黄は安全区に大反対だ。そんなものをつくったら、軍紀が乱れるというのだ。
「日本に征服された土地は、その土のひとかけらまでわれら中国人の血を吸う定めなのだ。
最後の一人が倒れるまで、防衛せねばならん。
いいですか、あなたがたが安全区を設けさえしなかったら、
いまそこに逃げこもうとしている連中を
わが兵士たちの役に立てることができたのですぞ!」
これほどまでに言語道断な台詞
(せりふ)
があるだろうか。
二の句がつげない!
しかもこいつは蒋介石委員長側近の高官ときている!
ここに残った人は、家族をつれて逃げたくても金がなかったのだ。
おまえら軍人が犯した過ちを、こういう一番気の毒な人民の命で償わせようというのか!
なぜ、金持ちを、約八十万人という恵まれた市民を逃がしたんだ?
首になわをつけても残せばよかったじゃないか?
どうしていつもいつも、一番貧しい人間だけが命を捧げなければならないんだ?
それから軍人や軍の施設を引き揚げる時期について聞いた。
最後のぎりぎりの瞬間、それよりも一分たりとも前ではない、
というのがやつの返事だ。
要するに、土壇場まで、市街戦が繰り広げられるその瞬間まで
いすわろうという肚なんだ!》
これは メッセージ 1797 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年 土肥原機関 呉佩孚工作5
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/01 18:34 投稿番号: [1804 / 2250]
晴気慶胤著
『上海テロ工作76号』
毎日新聞社
22p
《 「呉公一度呼べば天下皆応ずるだろう。
どうぞ出馬の宣言を全国に発表して、すみやかに和平を実施されたい」
といった電報が呉の机上に山と積まれた。
すべては張の大芝居だとは知らずに、すっかりだまされたこのあわれむべき老軍閥は、
新政府を樹立する機がいまや全く熟したと思い、
十一月末、 「我ら黄帝の子孫は過去の過失を反省し、戦雲を消滅しなければならない。
余は世論にしたがって救国和平のために微力を尽くそう」
と昂然として 天下に声明した。
そうして、このあやつられた道化役者は十一月三十日、
各国の新聞記者を招いて次のような時局談まで発表してしまったのである。
「自分は救国和平会に推薦されて綏靖委員会を組織し、
政府の樹立を準備する機関をつくって和平を実現する。
第一段階としては、まずその基幹となる軍隊を編成するのだ。
それには華北の遊撃隊をまず帰順させるつもりだ。
華北で地盤が固まったら日華の間に立って武力調停を行い、事変を片づける。
武力調停は国内戦争で何度も体験したから自信がある。
私が政府をつくると正式に名乗りをあげたら、
三十万ぐらいの抗日軍隊はすぐ呼応し、重慶政府には大動揺が起きるだろう」》
つづく
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1937年 中国 清野 (焦土) 作戦の始まり
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/01 18:28 投稿番号: [1803 / 2250]
鈴木明著
『「南京大虐殺」
のまぼろし』
173p
《 日本軍が句容を占領したのが合図となったように、
中国軍部隊による南京郊外の
「焼き払いの乱行」
がはじまった。
湯山
−
ここは中国のウェスト・ポイントの所在地で、
各種兵学校及び蒋将軍の臨時最高司令部があったが
−
から田園地帯を十五マイル横切って、南京に至るあらゆる建物に火が放たれた。
村落はすべて焼かれた。ついで南門周辺や下関の諸設備にも火は放たれ、
この財産破損額は、内輪に見積っても二千万〜三千万ドルにものぼり、
これは南京攻撃に先立って、
数カ月にわたって日本空軍が南京空爆によって与えた損害を上廻るものだった。
そして、日本の南京占領後、日本軍によって引き起された損害額に、
ほぼ等しいであろう。
中国軍指導部は、この焼却作戦を軍事上の要請と説明した。
日本軍に利用されそうなものは、樹木、竹やぶに至るまで一掃された。
中立国の連中は、これを
① 〝中国流〟 の大きなジェスチュア、
②
怒りとフラストレーションのあらわれ、
③
どうせ日本軍にやられるなら……
という気持、などと見ている。だが、中立国軍事監視団は、この焼き払いは、
実際上は軍事目的に殆ど役に立たなかったと見る点で一致している。》
東中野修道著
『南京大虐殺の徹底検証』
45p
〈 一九三七年
(昭和十二年)
十二月七日南京発の
『ニューヨーク・タイムズ』
のテイルマン・ダーディン記者の特電。
《 湯山と南京の間、公路沿いに
だいたい一マイルおきに堡塁
(ほうるい)
が設けられている。
首都に近づくと、中国軍に放たれた火が激しく燃え盛っていた。
敵軍が遮蔽物に使いうる農村の建物を清除しているのである。
ある谷では一村が丸々焼けていた。(略)
湯山地区では少年雑役兵が数多くいた。
少年たちは年齢十歳から十二歳、軍服姿の正規兵で、
伝令、運搬、炊事といった仕事をしている。
ときには最前線で戦争をゲームのように楽しんでいるように見える。》
少年兵が軍服を着用している限り、それは戦時国際法違反ではなかった。
ただ、少年兵までが動員されたということは、
南京の若者はほとんど動員されたことを意味する。
ダーディン記者の回想によるまでもなく、蒋介石は
「戦えるものは誰でも駆り集め」
て、南京の防衛にあたったことになる。〉
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1938年11月20日 日華協議記録を作成
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/31 18:35 投稿番号: [1802 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
文春文庫
182p
《 今井中佐は、十一月十八日、陸軍省軍務課長影佐禎昭大佐、
逓信省参与犬養健とともに上海にとび、
再び西、伊藤の二人をまじえて中国側の高、梅に会い、
二十日、前述の和平条件についての合意である
「日華協議記録」
を作成し、
日本側は影佐と今井、中国側は高と梅が調印した。
このとき、中国側は、特派員梅思平が香港、ハノイ、昆明経由で重慶にむかい、
「十二月五日以前」
に汪兆銘が重慶を出発するよう手配する、と述べた。
そして、特派員梅思平は、十一月二十九日に重慶入りの予定であったが、
二日早く、二十七日に重慶に到着した。
・・・・
183p
汪兆銘は、特派員梅思平をむかえると、
蒋介石が桂林に軍事委員会委員長桂林行営を開設するため、
十一月三十日に重慶をはなれる旨を語り、
十二月八日に重慶を
「脱出」
する、と述べた。
十一月三十日、蒋介石は予定どおりに桂林にむかったが、
この日、東京では同日の御前会議で
「日支新関係調整方針」
が決定された。
前述した上海会談の合意
「日華協議記録」
の内容に即したものであるが、
治外法権、租界の撤廃、二年以内の完全撤兵などの項目はなかった……。》
これは メッセージ 1800 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年12月5日の揚子江啓開作戦
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/31 18:30 投稿番号: [1801 / 2250]
戦史叢書
『中国方面海軍作戦1』
459〜460p
《 五日の経過、
江陰付近の南岸一帯は完全に我が手に帰し、
北岸の残敵も少数となった模様であった。
クーパーバンク付近は四日の探掃で、機雷礁の存在が確実となった。
江陰北水道啓開
前路警戒隊は、クロッシング付近に集結して啓開作業の掩護態勢をとり、
舟艇をもって逐次北水道を略掃するよう命ぜられ、
第二十四駆遂隊の各艇内火艇一隻計四隻をもって五日
11:30〜18:30
掃海作業し、
その結果クーパーバンク・ビーコンの距岸一五〇米から南方約五〇米間隔に
機雷四個確認拘束、その南方約五〇米の機雷三個
(四日
「八重山、安宅」
小掃海隊発見)
と共に計七個の機雷に浮標を付けた。
そして六日朝から掃海を続行し、右機雷を処分するに決した。
また陸戦隊員を揚陸して機雷衛所を捜索したが、衛所及び敵兵を見なかった。
南水道の清掃
「保津、勢多」
及び掃海隊の曳船四隻は福姜沙水路の清掃を続行し、
南水道閉塞線での清掃を完了した。
宮里大佐指揮の特別作業隊は閉塞線上に可航水路を発見した。
「保津」
は午後、閉塞線下流近距離に転錨した。
四日〜五日の南岸偵察成果
四日
「保津」
から上陸した聯合陸戦隊は
同日長山を占領し、機雷管制所を捜索したが発見し得ず、五日朝撤退し帰艦した。
「保津」
艦長は五日午後、陸軍部隊と連絡を遂げ巫山山頂に
陸戦隊員を駐泊させ、陸軍との連絡に当たらせた。
南岸調査の結果、粛山電電学校に数種の機雷
(触発及び視発)
多数あり、
江岸に敷設準備中の視発機雷十数個があることを知った。
また管制用電纜
(でんらん:ケーブル)
らしいものが粛山江岸に一本、
長山江岸に二本あり、長山には電纜を引っ込んだ管制所らしいものを認めた。
第二、 第三掃海隊編入、 「八重山」除かる
五日付、第二、第三掃海隊が第一警戒部隊に編入された。
第二掃海隊は天塩丸、間宮丸、雄基丸、高砂丸、安宅丸
及び第一、第二、第三玉園丸の計八隻、
第三掃海隊は八幡丸及び第一、第二、第三、第六、第七博多丸の
計六隻の特設掃海艇で掃成されていた。
「八重山」
は第一警戒部隊から除かれた。》
これは メッセージ 1793 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年11月15日 今井中佐の報告
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/30 18:38 投稿番号: [1800 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
文春文庫
180〜182p
《 上海での協議はまとまり、今井中佐は、十一月十五日、
東京の陸相官邸で、以上の内容を陸軍省、参謀本部の幹部に報告した。
一同は、おどろいた。
武漢戦がおわり、政府、軍の幹部たちがいっせいに思い悩んだのは、
あとどうするか、である。
前年の七月七日の盧溝橋事件いらい、武漢攻略まで一六カ月余の
「日中戦争」
は、
表面的には 〝連戦連勝〟 であっても、そのなかみはむしろ苦戦と難戦の連続であった。
とにかく勝ったんだ
−
と、戦いの内容の詳細を知らぬ、
あるいは知っていても眼をそらす一部の者は
「攻勢」
の継続をとなえるものの、
幹部たちは、事情を知れば知るほど前途にたいする憂慮をさそわれる。
「歓呼万歳の声も、戦争指導当局の耳には徒
(いたずら)
に哀調を留め、
旗行列何処へ行くかを危
(あや)
ぶましむ」
この参謀本部戦争指導班員堀場一雄少佐の感慨は、
「心ある人々」
に共通していたはずである。
おりから、ヨーロッパの戦雲は日ましに色濃くなり、
それだけに、中国での紛争を武力以外の方法で解決し、
軍備は
「他方面」
にそなえたいとの願望も、指導層にはひとしおであった。
「呉佩孚工作」
もそのための施策であったが、工作はすすまず、
頓挫の気配をみせはじめていた。
そこに、 「大物」
汪兆銘が蹶起し、しかも、
日本占領地外に反蒋政権を樹立する、という報告である。
「呉佩孚工作」
は、成功しても、中国側からみれば日本傀儡でしかないが、
汪兆銘の蹶起であれば、それは自発的性格をもつだけに中国国民の支持と
「事変」
の政治的解決も期待される。
「君は中国人に歎されているのではないか」
今井中佐は、そんな質問をうけた旨を記述しているが、
幹部たちにしてみれば、事態収拾に思いあぐねているときの突然の
「うまい話」
に、当惑気味でさえあったのであろう。
中佐によれば、陸軍省軍事課長田中新一大佐が、みんなの責任でやろう、といって、
課長クラスがまとまり、陸相板垣征四郎中将、参謀次長多田駿中将も同意した、という。》
*
これは、元々、松本重治氏がやっていたことだが、松本氏が病気で倒れ、
別の人の所に話が行っているため、理解されにくくなっている。
影佐大佐の所に行けば、話が解っていたのに。
これは メッセージ 1794 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年 句容攻略と百人斬り記事 第3号
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/30 18:28 投稿番号: [1799 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
182p
《 蒋介石は、十二月五日、 「守土責任」
を放棄する官吏、軍人は例外なく
軍法会議で処断する旨を布告し、句容西方の湯山陣地を視察した。
ところが、蒋介石が守将の第六十六軍第一五九師長譚邃と対談している
午前十一時ごろ、はやくも前方に日本軍の出現が報告され、銃声もきこえた。
蒋介石は、 「鎮静」
に、かつ、す早く丘をおりて南京に帰ったが、
午後一時には句容の陥落、午後四時には天王寺から北上してきた日本軍
(第九師団第三十六連隊)
が、句容西方の淳化鎮に進出したとの報告をうけた。》
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
424p
《 第十六師団の追撃隊は、五日、句容付近に陣地を占領した敵を突破し、
第九師団の追撃隊は、同日、南京第一線陣地である淳化鎮付近に進出した。》
百人斬り新聞記事
〔昭和12年12月7日
大阪毎日新聞朝刊
〕
《 百人斬り競争の二少尉/相変らず接戦の猛勇ぶり
丹陽にて 【三日】 句容にて 【五日】 浅海、光本本社特派員発
南京を目ざす
「百人斬り競争」
の二青年将校、片桐部隊向井敏明、
野田毅両少尉は句容入城にも最前線に立つて奮戦、
入城直前までの成績は向井少尉は八十九名、野田少尉は七十八名といふ接戦となつた
(両少尉の写真)
敗けず劣らずの野田少尉(右)と向井少尉(左)
(常州にて−佐藤本社特派員撮影)》
*
記者は、向井少尉が丹陽にて負傷し、入院していることを知らずに書いている。
向井少尉は12月15日まで入院しているから、丹陽から句容はおろか
南京戦にもいない。
この記事が、創作であることは明白。
これは メッセージ 1785 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年 土肥原機関 呉佩孚工作4
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/29 15:43 投稿番号: [1798 / 2250]
晴気慶胤著
『上海テロ工作76号』
毎日新聞社
21〜22p
《 すっかり気をよくした呉佩孚は、
今度は新政府樹立に乗り出すいま一つの条件として、
世論の推戴を強く要求した。
そこで張燕卿は、この要望にそうべく和平救国会を組織した。
和平救国会とは、全国的に組織された強力な和平民衆団体だと
呉には報告されたが、
その実、張は上海、香港、広東などの和平救国会を机上で簡単に編成した。
彼は救国会の任務は呉に電報してその出馬を懇請するだけで、
あとは用がないとしたからである。
その年の十一月の半ばごろ、和平救国会が各地で発会式をあげたと報告して、
張は人を派し、占領地のすべてから出馬を懇請する電報を発信させ、
呉を満悦させた。
「呉公一度呼べば天下皆応ずるだろう。
どうぞ出馬の宣言を全国に発表して、すみやかに和平を実施されたい」
といった電報が呉の机上に山と積まれた。
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1937年 安全区より中国軍の追い出しを図る
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/29 15:37 投稿番号: [1797 / 2250]
ラーベの日記
十二月五日
《 やっとのことで車に乗りこんだとたん、今度は空襲警報だ。
爆弾が落ちた。
だが今は許可証を持っているので、二度目のサイレンの後なら外に出られる。
それにあまりにやることが多くて、爆弾などかまっていられない。
こういうとひどく勇ましく聞こえるが、さいわい爆弾はいつもどこかよそに落ちている。
アメリカ大使館の仲介で、ついに、安全区についての東京からの公式回答を受け取った。
やや詳しかっただけで、ジャキノ神父によって先日電報で送られてきたものと
大筋は変わらない。
つまり、日本政府はまた拒否してはきたものの、
できるだけ配慮しようと約束してくれたのだ。
ベイツ、シュペアリングといっしょに、唐司令長官を訪ねた。
なんとしても、軍人と軍の施設をすぐに安全区から
残らず引き揚げる約束をとりつけなければならない。
それにしてもやつの返事を聞いたときのわれわれの驚きを
いったいどう言えばいいのだろう!
「とうてい無理だ。どんなに早くても二週間後になる」
だと?
そんなばかなことがあるか!
それでは、中国人兵士を入れないという条件が満たせないではないか。
そうなったら当面、 「安全区」
の名をつけることなど考えられない。
せいぜい
「難民区」
だ。
委員会のメンバーでとことん話し合った結果、新聞にのせる文句を決めた。
なにもかも水の泡にならないようにするためには、
本当のことを知らせるわけにはいかない……。
その間にも爆弾はひっきりなしに落ちてくる。
音があまりに大きい時は、椅子を少し窓から遠ざける。
あらゆる防空壕のなかでいちばんりっぱなやつが庭にあるのに。
ただそれを使う時間がないのだ。
城門は壁土で塗りこめられる。
三つの門のうち、開いているのはひとつだけだ。
といっても扉の半分だけだが。
われわれは必死で米や小麦粉を運びこんだ。
安全区を示す旗や、外にいる人たちに安全区のことを知らせる貼り紙もできている。
だが、肝心の安全性については最低の保証すら与えられないのだ!
ローゼンはかんかんになっている。中国軍が安全区のなかに隠れているというのだ。
ドイツの旗がある空き家がたくさんあり、
その近くにいる方がずっと安全だと思っているからだという。
そのとおりだと言い切る自信はない。
しかし、今日、唐司令長官と会った家も安全区のなかだったというのはたしかである。》
これは メッセージ 1791 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年11月4日 近衛声明を悪用する蒋介石
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/28 14:28 投稿番号: [1796 / 2250]
これは、長沙焚城よりも前の話、順番を間違えた。
児島襄著
『日中戦争5』
文春文庫
176〜178p
《 漢口の米総領事P・ジョスリンも、報告した。
「ソ連消息筋によれば、中国は現在の消費基準であと六カ月ぶんの弾薬を保有している。
他の外国筋および中国筋は、約八カ月ぶんだと述べている」
蒋介石自身は、十一月四日、長沙で英大使A・カーと会談したさいに、告げた。
「中国は、あと一年間は抗戦できる」
もっとも、その一年間も米英両国からの借款が条件になっている、
と蒋介石は、つけ加え、さらに、大使を凝視して強調した。
「もし、援助がなければ、中国は別の友人、たとえばソ連あるいは
日本にさえも求めざるを得ないだろう。
中国が日本と運命をともにすることになれば、
中国における日本以外の外国権益は、いっさい排除されることになる」
英大使カーの脳中には、その前日に発表された日本首相近衛文麿の声明が、うかんだ。
近衛首相の声明のうち、とくに注目されるのは、つぎの箇所であった。
「……帝国ノ冀求スル所ハ、東亜永遠ノ安定ヲ確保スベキ
新秩序ノ建設ニ在リ。
……固ヨリ国民政府ト雖モ、従来ノ指導政策ヲ一擲シ、ソノ人的構成ヲ改替シテ
更生ノ実ヲ挙ゲ、新秩序ノ建設ニ
来リ参ズルニ
於テハ、
敢テ
之ヲ拒否スルモノニアラズ」
この声明は、それが武漢攻略の直後に、その戦果を背景にしてのものであるだけに、
日本側の
「自信」
と
「強腰」
の表明とみなされた。
駐日米大使J・グルーは、 「新秩序」
宣言は、
これまでに日本も合意していた中国にたいする
「国際的姿勢」
である
門戸開放、機会均等の放棄を意味するものとみなした。
「新秩序は、日満支ブロック、いいかえれば、米合衆国、ソ連、英連邦に似た
経済・政治支配圏を東アジアにつくる政策の一部である」
国民政府への参加呼びかけは、かつての
「蒋介石ヲ対手トセズ」
方針の
修正であろうが、これはしきりにつたえられている
「呉佩孚工作」
の成功を
示唆するものではないか、と、米大使グルーは考えた。
−だが、
英大使カーは、別の印象をうけた。
旧軍閥の頭領である呉佩孚は、国民政府外の存在である。
その呉佩孚をむかえ、北京の
「臨時政府」、 南京の
「維新政府」
という
日本の〝傀儡〟政権を統一して〝新中国政府〟を樹立しようというのが、
「呉佩孚工作」
である。
それなら、蒋介石・国民政府とは別のものであり、近衛首相が国民政府に
「参加」
を呼びかける必要はないのではないか……。
英大使カーは、あるいは近衛首相の声明は国民政府そのものとの
「和平接触」
を意味しているのではないか、と首をかしげた。
*
東亜新秩序の声明では、欧米を排除するとは、一言も言っていないのだが、
蒋介石はこういう言い方をすることによって、日本がまるで欧米を排除し
中国市場の独占を図っているかの如く、疑心暗鬼にさせています。
これは メッセージ 1788 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年12月4日 第十軍と蒋介石の動き
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/28 14:12 投稿番号: [1795 / 2250]
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
424 p
第十軍
《 このころ、蕪湖付近から揚子江を遡江する敵大部隊があり、
あるいはネイ国を経て南下退却する部隊があった。
よって軍司令官は、方面軍司令官の指示に基づき、敵の退路を遮断する目的をもって、
四日、第十八師団にたいし、進路を変更してネイ国−蕪湖−南京道を
南京に向かい追撃するよう命じ、
次いで第百十四師団及び第六師団にたいし、南京に向かう追撃を命じた。
第百十四師団の先遣隊は、四日、リツ水に進入した 》
児島襄著
『日中戦争4』
182p
《 蒋介石は、句容東方、天王寺付近、リツ水付近に日本軍が出現した
との報告をうけると、「首都保衛戦」
発動を下令した。
進出した日本軍は、それぞれ第十六師団、第九師団、第百十四師団の先頭部隊である。
中支那方面軍司令官松井大将は、上海派遣軍と第十軍の進出状況をみて、
午後九時、 「中方作命第二十七号」
を発令した。
「中支那方面軍ハ、南京郊外 既設陣地ヲ奪取シ、南京城ノ攻略ヲ 準備セントス」
その準備線は、南京の北端の下関
(シャーカン)
東方的四キロの上元門、
中山門東方の小衛、光華門南東の高橋門、中華門南方の雨花台、
水西門西方の棉花地をむすぶ線とした。
いいかえれば、南京城を包囲して城壁の手前でいったんとまれ、というのである。》
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
426 p
《 方面軍司令官は、南京郊外既設陣地を奪取し南京城の攻略を準備するに決し、
十二月四日、隷下両軍の南京攻撃準備線を、おおむね上元門、小衛、高橋門、
雨花臺、綿花地の線に統制した。》
これは メッセージ 1777 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年11月12〜14日 上海での会談
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/27 18:59 投稿番号: [1794 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
文春文庫
179〜180p
《 武漢が陥落すると、汪兆銘の
「和平心」
は強化され、
特派員梅思平のほかに外交部情報司日蘇科長周隆庠を派出した
二人は、香港の元亜州司長高宗武とともに上海にあつまり、
十一月十二日から十四日にかけて、日本側の参謀本部第二部支那班長今井武夫中佐、
満鉄嘱託伊藤芳男、満鉄南京支店長西義顕と会談した。
会談では、これまでに話しあわれていた次のような 〝和平条件〟 が
あらためて検討された。
①「日華防共協定」
の締結と
「防共駐兵」
②満州国の承認
(中国側)
③治外法権の撤廃と租界の返還
(日本側)
④日本の優先権を認める経済提携
⑤和平後に撤兵開始し二年以内に完全撤兵。
ただし
「防共駐兵」
は協定期間存続(日本側)
これにたいして、特派員梅思平と科長周陸庠は、
合意の成立にともなう中国側の
「挙事計画」
を提示した。
(一) 汪兆銘は、日本政府の条件承認を知った一両日後に、
同志とともに重慶を脱出して昆明にむかう。
(二) 汪の昆明到着後に、日本政府は和平条件を公表する。
(三) 汪は蒋介石との断絶を声明し、ハノイ経由で香港に出て、
和平呼応および反蒋声明を発表する。
(四) 汪の声明に応じて、雲南軍、四川軍が反蒋独立する。
雲南省主席龍雲と四川軍将領とは同志としての盟約がある。
(五) 汪は、雲南、四川その他の日本軍未占領地域に新政府を組織し、
日本は広西、広東から撤兵して両省を新政府の
「地盤」
に加える。
…………
上海での協議はまとまり、今井中佐は、十一月十五日、東京の陸相官邸で、
以上の内容を陸軍省、参謀本部の幹部に報告した。》
これは メッセージ 1772 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年12月4日 揚子江啓開作戦
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/27 18:51 投稿番号: [1793 / 2250]
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
423p
《 上海派遣軍
四日、第十三師団は一部
(歩兵第二十六旅団長沼田重徳少将の指揮する歩兵三大隊、山砲兵一大隊基幹) を
もって揚子江水路開放ならびに石荘鎮−靖江−泰興道遮断のため、
揚子江を渡河して靖江を占領し、 主力は江陰付近を出発し、
江陰 −常州 − 奔牛鎮 − 孟河城 − 鎮江道を鎮江付近に前進し、
揚子江左岸地区に向かう作戦を準備させた。》
戦史叢書
『中国方面海軍作戦1』
458〜459p
《 四日の経過
四日、江陰要塞占領の確報があったが、巫山、
長山両砲台付近の状況はつまびらかでなかった。
この日 10:30、旗艦安宅はベントビーコン付近まで進出した。
「保津」
は
「八重山、粟、栂、蓮」
の聯合陸戦隊
(坂本大尉以下八六名)
を乗せて
09:00 出港、10:55 巫山の北東約一浬に仮泊、同地で上陸させ、
巫山砲台方面の敵情偵察、管制機雷用電纜
(でんらん:ケーブルの事)
の
発見処分及び陸軍との連絡に任じさせた。
一方
「粟、栂、蓮」
も 09:00 出港、正午ころ巫山の北方約二浬付近まで進出して
「保津」
と協力、陸戦隊の掩護に任じ、13:30 ビッグツリー浮標付近に帰着した。
「八重山」
はクーパーバンク南西にある管制機雷の位置付近の清掃計画を立て、
同艦分隊長を指揮官とし、 「八重山、安宅」
内火艇各一隻をもって小掃海隊を編成、
08:00
出発、15:20
クーパーバンク南西予想敷設線の掃海を開始し、
機雷三個を拘束した。
しかし処分するに至らず、うち一個に位置浮標を入れた。
特別掃海隊
(林少佐指揮・特掃四)
は保津艦長指揮の下に
福姜沙港水路の清掃及び航路標識設置を実施した。
神川丸機は終日、ビッグツリーの上流一、七〇〇米一帯の江中に爆弾を投下、
機雷原を暗探したが誘爆を見なかった。
また前路警戒隊指揮官は
「蓮」
に北水道の略掃を命じたが、同艦長は
「現場の操艦困難で見込みなく、また水深浅く現有掃海具では掃海不能である」
旨を報告した。
「寧海」の捕獲
保津艦長上田光治中佐は
12:15、内火艇で水路探索のため同艦発、
江陰閉塞線の南端と陸岸との間を縫うて封鎖線を突破、
我が爆撃を受け大破し江陰対岸に坐礁中の中国巡洋艦
「寧海」
を捕獲した。
この間敵陣地から機銃射撃を受け、後檣
(しょう)
上に負傷兵一名を
残したまま内火艇は避退、 「保津」
に帰艦した。
よって
「保津」
は14:55 発、 15:20 閉塞線を突破、
八★
(土+于)
港の敵陣を銃砲撃しつつ
「寧海」
に近接し前記兵を収容のうえ
18:25 閉塞線を突破し、巫山錨地に帰投した。
同夜、艦長は江陰方面陸軍部隊と連絡のため七名を上陸させた。
一行は第十三師団と連絡をとり、五日朝帰艦した。
第二十四駆逐隊は三日午後佐世保発、四日 17:00 クロッシング着、
「八重山」
と交代して前路警戒隊の任務を継承した。
「八重山」
は任務を解かれ下江した。》
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1938年11月13日 長沙焚上
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/26 18:49 投稿番号: [1792 / 2250]
趙無眠著
『日中戦争中国も同罪だ』
文藝春秋
2006年11月号
《〈 一九三八年十一月十二日午前二時、湖南省政府は
日本軍が近づいてきているとの情報
(事後にこれが誤りであったと知る)
に接し、
かねてから決めていたように
「焦土抗戦」
に打って出て、
長沙の街に自ら火を放ったのだった。
省の警備団が動員され、街を焼く命令に従ったのだが、彼らは石油、灯油、
綿花、木炭、爆薬、手榴弾を使い、門を閉じたまま焼き払ったのである。
もちろん、事前の通知などなく、民家の住人たちは深い眠りの中で、
目覚めると同時に火の海の中にたたきこまれた。
そしてほとんどの者が生きたまま焼かれ、また窒息死し、
ある者は水に飛び込んだまま茹でられてしまった。
やっと家の中から飛び出した者も、
狂ったように逃げる人の波に踏みつけられて圧死し、
河で溺死するという悶絶死をとげたのである。
この火事は結局、三日三晩、街を焼き尽くし、
千年の歴史を有する名だたる都市をただのガラクタに変えてしまった。
後の統計によれば、この火事による死者は約二万人とされたが、
ここには外地から来ていた難民や傷病兵などは含まれていない。
文物の損害は計り知れず、宋、明、清、それぞれの時代の図書や
貴重な文書、名画や書がすべて灰となってしまった。
そのなかには漢代の貴重な印鑑が含まれていたが、
それらはすべてがただの鉄と銅の塊となってしまった。
さらにいえば、米どころとして名高い長沙の収穫米も
二百万担
(一担=五十キログラム)
が焼かれてしまい、
中国で四大刺繍の一つに数えられる湖南刺繍も、
代々伝えられた優れた構図やデザインなどがすべて失われてしまった。
このときから中国の刺繍業界は目に見えて失速していくのである。〉
〈 日本〝鬼子〟が
「三光政策」
を採用し、軍隊が中国国内の村々を焼いたことを、
われわれが恨み、厳しく責めたてるのは当然だが、
はたして彼らの行動は長沙の大火事と比べて、
それ以上のものだったのだろうか?〉》
*
著者は、長沙だけが焼かれたかの如く、思っているが、そうではない。
中国軍はあちこちで、同じことをしているのだ。
日本軍が広東に近づいたときも、略奪した後、街を焼き払っている。
著者は中国人だから、「三光政策」
と言わざるを得ないのだろうが、
日本軍が近づく前に、中国軍が先にやっている。
長沙が問題になったのは、
略奪し焼き払ったのに、日本軍が来なかったから。
これでは、日本軍のせいにできない。
だから、問題なった。
これは メッセージ 1790 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年12月 安全区に高射砲を据える中国軍
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/26 18:36 投稿番号: [1791 / 2250]
ラーベの日記
《 防衛軍の責任者である唐が軍関係者や軍事施設をすべて撤退させると約束した。
それなのに、安全区の三カ所に新たに塑壕や高射砲台を配置する場が設けられている。
私は唐の使者に、 「もしただちに中止しなければ、私は辞任し、委員会も解散する」
といっておどしてやった。
するとこちらの要望どおりすべて撤退させると文書で言ってきたが、
実行には少々時間がかかるというただし書きがついていた。
十二月四日
どうにかして安全区から中国軍を立ち退かせようとするのだが、うまくいかない。
唐将軍が約束したにもかかわらず、兵士たちは引き揚げるどころか、
新たな塹壕を掘り、軍関係の電話をひいている有様だ。
今日、米を運んでくることになっていた八台のトラックのうち、半分しか着かなかった。
またまた空襲だ。何時間も続いた。
用事で飛行場にいたクレーガーは、あやうく命を落とすところだった。
百メートルぐらいしか離れていないところにいくつも爆弾が落ちたのだ。
難民は徐々に安全区に移りはじめた。
ある地方紙は
「外国人」
による難民区などへ行かないようにと、
繰り返し書き立てている。 この赤新聞は、
「空襲にともなうかもしれない危険に身をさらすことは全中国人民の義務である」
などとほざいているのだ。》
*
「空襲だ。用事で飛行場にいたクレーガーは、あやうく命を落とすところだった。」
この記述であきらかなように、日本軍は、飛行場を標的にしていた。
無差別爆撃ではないのに、善人心の日本人は簡単に騙される。
*
安全区は武装した軍人がいないという前提で作られる。
中国軍はその安全区に入って自分達を安全にして、戦争をしようとする。
こういうルール無用の連中だという事を知らねばならない。
上海でも、租界のそばに陣地を作って、
他者に害を与えまいとする、日本人の善人心を利用して、戦争した。
また、租界の中から、戦闘指揮をした中国軍将校もいた。
中国人はこういうデタラメをやって、市民に被害が出たとふざけた事を言う。
自分達が、市民を盾に使っているくせに。
こういう、詭弁・トリックに騙されるバカな日本人の如何に多い事か。
これは メッセージ 1789 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年11月13日 中国軍誤報で長沙に放火
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/25 18:39 投稿番号: [1790 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
文春文庫
182〜183p
《 十一月十三日未明、長沙で大火が発生した。
火は二日間燃えつづけ、長沙市は完全に焦土となり、
死傷約二千人、罹災者約二万人と報告された。
惨害の原因は、日本軍せまる、との
「謡言」
にあわてた中国側
「軍営当局」
が、
かねて指示された焦土作戦を発動して放火したためである。
蒋介石は長沙に出張し、責任者として長沙警備司令ホウ(豊+オオザト)悌、
警備第二団長徐見、湖南省会警察局長文重孚の三人を銃殺刑にした。
汪兆銘は、この長沙事件をとりあげ、特派員梅思平が到着する三日前、
十一月二十四日、
「何故に焦土戦術を誤解したりや」
と題する声明文を発表した。
「焦土抗戦にたいする誤解から、遂に長沙の人為的大火を引き起したことは、
痛心のきわみである……。
長沙のごとく焦土化してしまったら、すべては終りである。
戦区内の一切の物質を焼却すれば、
われわれは一体どこの資料をもって抗戦しようとするのか……」
言外に、蒋介石の戦争作法にはついていけない、との意向が、
はっきりとうかがえる表現である。》
これは メッセージ 1784 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年12月3日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/25 18:28 投稿番号: [1789 / 2250]
十二月三日
《 ローゼンが訪ねてきた。
トラウトマン大使がよろしくいっていたとのことだった。
昨晩大使は税関の艀
(はしけ)
でこちらにきたのだが、
そのまま漢口へとんぼ返りしたという。
思った通り大使は和平案を伝えに蒋介石の所へ行ったのだ。
私がそういうと、何度かためらったあと、ローゼンも認めた。
細かい内容についてはもちろん何も聞き出せなかったが、
こちらもそれ以上聞くつもりはなかった。
そういう行動に出たというだけで十分だったからだ。
うまくいくといいが!
ローゼンは私に電報を見せてくれた。
これは本当は大使あてなのだが、つぎのような内容だった。
ドイツ大使館南京分室
漢口発
三七年十二月二日
南京着
十二月三日
東京、十二月二日
日本政府は、都市をはじめ、国民政府、生命、財産、外国人及び
無抵抗の中国人民をできるだけ寛大に扱う考えをもっております。
また、国民政府がその権力を行使することによって、
首都を戦争の惨禍から救うよう期しております。
軍事上の理由により、南京の城塞地域の特別保護区を、
認めるわけにはいきません。
日本政府はこの件に関して、公的な声明を出す予定です。
ザウケン
ローゼンは、ほかの国の大使館は
これに似た内容の電報を受け取っていないことをつきとめた。
差出人の名を明かさないまま、この扱いは委員会に一任された。
ローゼンさんは、蒋介石夫人に接触してはどうか、と勧めてくれた。》
つづく
これは メッセージ 1779 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年11月3日 東亜新秩序の声明
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/24 18:47 投稿番号: [1788 / 2250]
近衛首相は
「蒋介石対手にせず」
の声明が間違っていたことを痛感し、
国民党政府の参加を念頭に置いた声明を発表しました。
井本熊雄著
『支那事変作戦日誌』
294p
《 昭和十三年十一月三日の政府声明
(東亜新秩序の声明、国民政府も拒否せずの声明とも称せられた)
今ヤ陛下ノ御稜威
(みいつ)
ニ依
(よ)
リ、 帝国陸海軍ハ克
(よ)
ク
広東、 武漢三鎮ヲ攻略シテ
支那ノ要域ヲ戡定
(かんてい)
シタリ。
国民政府ハ既ニ地方ノ一政権ニ過ギズ。
然レドモ同政府ニシテ
抗日容共政策ヲ固執スル限リ、
コレガ潰滅ヲ見ルマデハ
帝国ハ断シテ矛ヲ収ムルコトナシ。
帝国ノ冀求
(ききゅう)
スル所ハ
東亜永遠ノ安定ヲ確保スヘキ
新秩序ノ建設ニ在り。 今次征戦究極ノ目的
亦此ニ存ス。
コノ新秩序ノ建設ハ日清支三国相携ヘ、
政治、経済、文化等各般ニ亙
(わた)
リ、互助連環ノ関係ヲ樹立スルヲ以テ根幹トシ、
東亜ニ於ケル国際正義ノ確立、共同防共ノ達成、
新文化ノ創造、経済結合ノ実現ヲ期スルニ在リ。
是レ実ニ東亜ヲ安定シ、世界ノ進運ニ寄与スル所以
(ゆえん)
ナリ。
帝国カ支那ニ望ム所ハ、コノ東亜新秩序建設ノ
任務ヲ分担センコトニ在リ。
帝国ハ支那国民カ能
(よ)
ク
我カ真意ヲ理解シ、
以テ帝国ノ協カニ応ヘムコトヲ期待ス。
固
(もと)
ヨリ国民政府ト雖
(いえど)
モ
従来ノ指導政策ヲ一擲
(いってき)
シ、
ソノ人的構成ヲ改替シテ
更生ノ実ヲ挙ゲ、新秩序ノ建設ニ来リ
参スルニ於テハ
敢テ之ヲ拒否スルモノニ非ス。
帝国ハ
列国モ亦帝国ノ意図ヲ正確ニ認識シ
東亜ノ新情勢ニ適応スヘキヲ信シテ疑ハス。
就中
(なかんずく)
盟邦諸国従来ノ厚誼ニ対シテハ
深ク之ヲ多トスルモノナリ。
惟
(おも)
フニ東亜ニ於ケル新秩序ノ建設ハ、 我カ肇国
(ちょうこく)
ノ精神ニ淵源シ、
コレヲ完成スルハ
現代日本国民ニ課セラレタル光栄アル責務ナリ。
帝国ハ必要ナル国内諸般ノ改新ヲ断行シテ
愈々
(いよいよ)
総国力ノ拡充ヲ図リ、
万難ヲ排シテ斯業ノ達成ニ邁進
(まいしん)
セサルヘカラス。
茲
(ここ)
ニ政府ハ帝国不動ノ方針ト決意トヲ声明ス。》
注
冀求:キキュウ
希求に同じ。
肇国:チョウコク
建国、国の始め
これは メッセージ 1786 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年12月 向井少尉負傷入院の事実
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/24 18:35 投稿番号: [1787 / 2250]
鈴木明著
『「南京大虐殺」
のまぼろし』
90〜91p
《 直轄の隊長である富山武雄氏の証明では
4、向井少尉ハ
昭和十二年十二月二日丹陽郊外ニ於テ
左膝頭部盲貫ヲ受ケ
離隊
救護班ニ
収容セラレ
昭和十二年十二月十五日
湯水ニ於テ
部隊ニ帰隊シ
治療ス 》
とあります。
また、向井少尉の負傷入院は野田少尉も書いています。
『正論』
2001年8月号
336p
《 野田ハ
麒麟門東方ニ於テ
記者ノ
戦車ニ添乗シテ来ルニ
再会セリ
記者
「ヤアヨク会ヒマシタネ」
野田
「記者サンモ御健在デ オ目出度ウ」
記者
「今マデ幾回モ打電シマシタガ 百人斬競争ハ 日本デ大評判ラシイデスヨ。
二人トモ百人以上突破シタコトニ
(一行不明)
野田
「ソウデスカ」
記者
「マア其ノ中 新聞記事ヲ 楽ミニシテ下サイ、サヨナラ」
瞬時ニシテ 記者ハ 戦車ニ搭乗セルママ 去レリ。
当時 該記者ハ 向井ガ 丹陽ニ於テ 入院中ニシテ 不在ナルヲ 知ラザリシ為、
無錫ノ対話ヲ 基礎トシテ 紫金山ニ於イテ 向井野田両人ガ 談笑セル記事 及
向井一人ガ 壮語シタル 記事ヲ 創作シテ 発表セルモノナリ。》
*
要するに、向井少尉は負傷して入院しているのに、
その事実を知らないものだから、いい加減な事を書いているわけです。
これは メッセージ 1785 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年 戦争続行意識旺盛な蒋介石
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/23 19:04 投稿番号: [1786 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
文春文庫
173p
《
―
蒋介石は、いう。
「我遂由第一時期之阻滞戦、更進於第二時期之持久戦、
打破敵人以戦養戦之企図、而敵軍在華之泥沼乃癒陥癒深矣」
戦争の敵軍阻止の第一段階はおわり、第二段階の持久戦にはいった。
こんごは、戦いが戦いを拡大することになり、
日本はますます対中国戦の泥沼にはまりこむことになる
−
といった趣意である。
武漢戦がおわったときの感想であり、 「以空間換取時間」
という持論の表明でもある。》
175〜176p
《 現に、蒋介石は、軍政部長何応欽に次のように指示した。
「於明年二月以前
徴募新兵一百万名、以応補充需要」
つまりは、武漢戦においては、
中国側は現実には
「百万人」
の補充を必要とする打撃をうけたのであり、
「第二期之持久戦」
の態勢づくりも容易ではない、と、みこまれた。
いや、 「以戦養戦」
などという余裕はない、中国の敗北は時間の問題だ、
というのが、各国の軍事専門家に共通した判断であった。
とくに、広東が陥落したため、
香港を経由する英国その他の対中国軍事援助の流れがストップし、
それが致命的な痛手になるとの観察が、一般的であった。
ほかにも、インドシナ経由、ビルマ経由の援助ルートはある。
しかし、運賃がそれぞれトンあたり米貨約二百ドル、約百ドルと、
当時としてはきわめて割高である。
持久戦になればなるほど、中国側の負担は増大し、
当然に対外資金援助をもとめることになろうが、
はたしてどれだけ各国が応ずるものだろうか……。
「あと六カ月間」
というのが、重慶に駐在する米陸軍武官J・スチルウエル大佐が試算した
中国の
「抗戦能力」
であったが、米大使N・ジョンソンも次のように打電した。
「当地
(重慶)
の最も情報に通ずる外国軍事専門家たちは、
中国政府は、いかなる規模においても組織的抵抗を六カ月間以上つづけることは望み得ず、
ゲリラ戦の効果にも疑問があるという点で、意見が一致している」》
これは メッセージ 1782 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年 百人斬り記事 第2号
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/23 18:37 投稿番号: [1785 / 2250]
〔昭和12年12月4日
大阪毎日朝刊〕
《 丹陽にて【三日】浅海、光本本社特派員発
既報南京をめざして雄々しくも痛快極まる
「百人斬り競争」
を開始した
片桐部隊の二青年将校、向井敏明少尉、野田毅少尉両勇士は常州出発以来も
奮戦につぐ奮戦を重ねて二日午後六時丹陽に入城したが、
かたや向井少尉はすでに敵兵を斬つた数八十六名に達すれば
野田少尉も急ピツチに成績をあげ六十五と追いすがり
互いに鎬 (しのぎ) をけづる大接戦となつた、
即ち両勇士は常州、丹陽たつた十里の間に前者は三十名、後者は四十名の
敵を斬つたわけで壮烈言語に絶する阿修羅の如き奮戦振りである、
何しろ両勇士とも京滬鉄道に沿ふ同一戦線上で奔牛鎮、呂城鎮、
陵口鎮 (何れも丹陽の北) の激戦で敵陣に飛び込んでは斬り躍り込んでは斬り、
中でも向井少尉は丹陽城中正門の一番乗りを決行、
野田少尉も右の手首に軽傷を負ふなど、
この百人斬競争は赫々
(かくかく)
たる成果を挙げつつある、
記者等が丹陽入城後息をもつかせず追撃に進発する部隊を追ひかけると
向井少尉は行進の隊列の中からにこにこしながら
野田の奴が大分追ひついて来たのでぼんやりしとれん、
この分だと句容までに競争が終りさうだ、
そしたら南京までに第二回の百人斬競争をやるつもりだ、
野田の傷は軽いから心配ない、
陵口鎮で斬つた敵の骨で俺の孫六に一ケ所刃こぼれが出来たが
まだ百人や二百人は斬れるぞ、
大毎、東日の記者に審判官になつて貰ふワッハッハッハ
と語つて颯爽と進んで行つた 》
*
「向井少尉は丹陽城中正門の一番乗りを決行」
だってー?
砲兵隊の小隊長が、持ち場を離れて、
歩兵より先に一番乗りなどしたら軍法会議にかけられるぞ。
「記者等が丹陽入城後息をもつかせず追撃に進発する部隊を追ひかけると
向井少尉は行進の隊列の中からにこにこしながら」
って、
向井少尉は、この丹陽の戦いで、膝を負傷して入院しているのだけど。
向井少尉負傷入院の話は次で書きます。
これは メッセージ 1769 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年10月26日 日本軍漢口進入
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/22 15:49 投稿番号: [1784 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
文春文庫
147p
《 冷雨にぬれた街道には、中国軍遺棄屍体が散乱している。
波田支隊は、その屍体をおどりこえて行進した。
やがて中国軍敗兵に追いつき、進むにつれてその数は多くなったが、
日本側に相手を攻撃する余裕がなければ、中国側にも抵抗する戦意はない。
追いぬき、あるいは肩をならべて、ただ闇夜の道を同じ方向に歩くだけである。 》
149p
《 雨は、次第に小降りになっていたが、漢口市内の日本租界の火災は、
消防措置もとられぬまま、燃えつづけた。
海軍陸戦隊本部、正金銀行漢口支店、日本総領事館、東本願寺、
明治高等小学校、日本人倶楽部その他、
これはというめぼしい建物は軒なみに爆破炎上の対象となっている。
二軒の料亭のうち、 『福宮』
も類焼したが、 『妻鶴』
には
まだ火はおよんでいなかった。
火に遠い日本人住居は、すでに内部は掠奪されつくし、
そのいくつかの玄関の軒下に、中国人難民がうずくまって雨をさけていた。》
151p
《 午前十一時、
波田支隊は武昌城内の掃蕩を終え、一部は飛行場を占領した。
漢口、漢陽、武昌の武漢三鎮のうち、まず武昌が陥落したわけである。
その三十分間後、午前十一時三十分、漢口に南下してきた第二十三連隊の先頭の
第三大隊は、市内の江岸停車場に到着し、爆破された屋舎に日章旗をひるがえした。
つづいて、午後一時二十五分、軍艦
『八重山』
に将旗をひるがえした
近藤英次郎少将指揮の海軍遡江部隊が、漢口港に進出した。》
これは メッセージ 1780 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年12月1日〜3日揚子江啓開作戦
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/22 15:39 投稿番号: [1783 / 2250]
戦史叢書
『中国方面海軍作戦1』
457〜458p
《 12月1日に南京攻略の大海令が下った。
2日
陸軍部隊が既に江陰を占領した旨の情報があったが、
夕刻まで同方面に砲声が盛んに聞こえた。
また朝から珍しく敵大型機一〇機が上海、通州水道方面に来襲した。
前路警戒隊指揮官は午前、 「八重山」
の内火艇二隻を竹丸
(機銃武装)
の
護衛に付し、南水道クロッシングから段山上流約二・五浬
(カイリ)
までの
探掃を実施し、午後、掃海隊の曳船
(ひきぶね)
四隻をもって同所を清掃したが、
拘束機雷、水中障害物を認めず、よって主隊はクロッシングに進出した。
この日
「神川丸」
は第一警戒隊指揮官の指揮下に入り、許浦口に進出し、
その水上機は江陰閉塞線下流の予想敷設線に爆弾を投じたが誘爆せず、
敷設機雷の有無を確認するに至らなかった。
3日
江陰砲台は巫山砲台のほか、我が陸軍部隊の手に帰した。
この日から
「神川丸」
水上機隊は許浦口及び
クロッシング錨
(びょう) 地の上空直衛を開始した。
同隊は午前、午後各一回、ビッグツリー上流の機雷推定位置に爆弾を投下したが
誘爆を見なかった。なお左岸の龍潭港付近にはトーチカ陣地が発見された。
「鳥羽」
は
08:00、 クロッシング泊地発、南水道偵察の目的をもって
10:00
ころ揚沙鎮付近に進出、同艦陸戦隊は同地に上陸、
約一時間詳細に偵察したうえ昼ごろ帰投した。
巫山に砲四門あり、 「鳥羽」
に対し射撃準備中なるを認めた。
「蓮」
も同日朝、クロッシング泊地発、北水道を通過して
ビッグツリーの上流約一・五浬付近まで進出、
夕刻まで同地付近に仮泊して水路及び付近の状況を偵察して帰着した。
同艦も巫山に中国兵らしき者多数を認めた。
「堅田」
は潮時を利用し、段山沙西方水道から海北港沙北方水道一帯の敵情を
偵察すべきを命ぜられ、陸戦隊を揚陸、これを実施した。
掃海隊
(林少佐指揮
曳船四隻)
は、
スリーツリーの北東二、〇〇〇米までの南水道の清掃を完了した。》
つづく
これは メッセージ 1771 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年10月25日 蒋介石 「主導権は我に」
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/21 15:48 投稿番号: [1782 / 2250]
井本熊雄
著
『支那事変作戦日誌』
291〜292p
《 十月二十五日蒋介石は、
「……武漢の地位は重要であったが、我々の戦略は空間的には小問題で、
心を奪われて大目的を見失ってはならず、
時間的には一時の得失によって長期の政策をなおざりにすべきでない。
この故に我々は、全面戦争の過程における必然的な措置として、
武漢を放棄するに決定した。
これによって我々の軍隊は、この戦争で守勢から攻勢への転機を画することになる。
それはまた、この戦争の戦局転機の開始を示すものである。
これを誤って、戦勢不利とか退却とかに考えてはならない。
我国には、広大な領土と最大な人口と豊富な資源がある。
戦争の範囲が拡がれば拡るほど、我々の活動的な地位は強くなるであろう」
という声明を行い、これと同時に国民に告ぐる書を発表した。
その一節に、次の如く述べている。
「敵は一時武漢を占領したが、それは十一ケ月の月日を費し、
数十万にのぼる死傷者の犠牲を払わされた結果である。
しかも敵が手に入れたのは焦土と空っぽの郡市であった。
敵は武漢でわが主力を撃滅して、短期決戦に勝つという重要目的に失敗した。
今後我々は、全面的抵抗を展開するであろう。
わが軍の移動は、
退却であろうと前進であろうと、制限されない自由なものとなるであろう。
主動権は我々と共にあるであろう。
これに反し敵は、何一つ得る所がない。
敵は泥沼に深く沈んでますます増大する困難に遭遇し、ついには破滅するであろう」》
*
この声明で明らかなように、この戦争は中国の意思によって進められています。
主導権は中国が持っているのです。
蒋介石は、「日本は、短期決戦に勝つという重要目的に失敗した。」
と
勝手に、妄想していますが、日本の重要目的は停戦和平です。
中国が戦争をやめないから、仕方なく応戦しているに過ぎません。
主導権を持っている中国が、和平を言えばいつでも、戦争は終わるのです。
これは メッセージ 1780 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年 トラウトマンの和平工作
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/21 15:36 投稿番号: [1781 / 2250]
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
459pより
《 蒋介石は明らかにブリュッセル会議に期待を寄せていたが、
同会議は実質的成果を挙げずに十一月二十四日休会したので、
蒋介石は改めてトラウトマン大使の和平工作に期待を寄せ始めた。
十一月二十八日、トラウトマン大使は漢口で孔祥煕実業部長と会見、
二十九日には王寵恵外交部長と会談したのち、十二月二日、
徐謨外交部次長と同道して南京に行き、蒋介石と再び会談した。》
児島襄著
『日中戦争4』
176〜177p
《 蒋介石は、南京防禦態勢の未整に苦慮するうち、大使トラウトマンの来訪をうけ、
卒然として、ドイツの仲介を活用することを思いつき、財政部長孔祥煕にも通報した。
「為緩兵計、不得不如此耳」
緩兵は、すなわち時間かせぎである。
十二月一日には、ドイツ外相C・ノイラートが中国大使程天放に、
日本の軍事的勝利をくつがえすのは不可能に近い、
中国は一日も早く日本と
「和解」
すべきだ、と勧説した。
十二月二日、蒋介石はトラウトマンと会見し、次のように言明した。
日本側の和平条件にはそのご変化はないか、とたずね、
日本を勝者とみなす前提はうけいれられない、と指摘した。
日本側の条件が最後通告の性格であれば、それもうけいれられない。
そして、蒋介石は、中国側の条件として、
一、支那ハ
媾和交渉ノ 一基礎トシテ
日本ノ要求ヲ 受諾ス。
二、北支ノ 宗主権、 領土保全権、 行政権ニ
変更ヲ 加フ
ベカラザルコト。
三、独逸ハ 当初ヨリ
媾和交渉ノ 調停者トシテ
行動スベキコト。
四、支那ガ 第三国トノ間ニ
締結セラレタル
条約ハ、媾和交渉ニヨリ
影響ヲ受ケザルコト。》
*
トラウトマンは日本側が和平条件の改訂を検討している事を知りません。
しかしまー、蒋介石はどこまで、ずうずうしいのでしょう。
日本が、善意で出した
「大幅に譲歩した和平案」
をけり、かつ、
日本を侵略者呼ばわりして、国際連盟に訴えておきながら、
その結果が、イマイチだからと、今度は、前の条件のままで、交渉させろとは。
それも、日本を勝者とみなす前提はうけいれられない、とか、
日本側の条件が最後通告の性格であれば、それもうけいれられない。とか、
「一体、何さまのつもりか」、「本当に和平する気あるのか」
と、言いたくなりますが、
時間稼ぎが目的で、本当に和平する気が無いのなら、これは当然の行為でしょう。
この話を受けて、ドイツから話が日本に行くのは、なぜか、12月7日になります。
これは メッセージ 1779 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年10月25日 蒋介石武昌脱出
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/20 18:56 投稿番号: [1780 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
文春文庫
134p
《 十月二十五日、
蒋介石は、午前四時三十分ごろ、
武昌の
「国民政府軍事委員会委員長武漢行営」
を出発した。
夫人宋美齢が同乗した蒋介石の乗用車をはさみ、
第九戦区司令長官陳誠その他の側近をのせた車列は、
暁闇が濃い街をフルスピードで南に走りぬけた。
武昌飛行場には、六機の輸送機が待機している。
一行は、飛行場に到着すると、ただちに輸送機に分乗して離陸した。》
これは メッセージ 1778 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年12月2日 日本、安全区に対し回答
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/20 18:52 投稿番号: [1779 / 2250]
《 ラーベの日記12月2日
フランス人神父ジャキノを通じ、我々は日本から次のような電報を受け取った。
ジャキノは上海に安全区をつくった人だ。
電報一九三七年十二月一日
南京大使館(南京のアメリカ大使館)より
十一月三十日の貴殿の電報の件
以下は、南京安全区委員会にあてられたものです。
ジャキノ
「日本政府は、安全区設置の申請を受けましたが、遺憾ながら同意できません。
中国の軍隊が国民、あるいはさらにその財産に対して過ちを犯そうと、
当局としてはいささかの責も負う意思はありません。
ただ、軍事上必要な措置に反しないかぎりにおいては、
当該地区を尊重するよう、努力する所存です」
ラジオによれば、イギリスはこれをはっきりとした拒絶とみなしている。
だが我々の意見は違う。これは非常に微妙な言い方をしており、
言質を取られないよう用心してはいるが、基本的には好意的だ。
そもそもこちらは、
日本に
「中国軍の過ち」
の責任をとってもらおうなどとは考えてはいない。
結びの一文
「当該地区を尊重するよう、努力する所存……云々」
は、
ひじょうに満足のいくものだ。
アメリカ大使館を介して、我々はつぎのような返信を打った。
南京の安全区国際委員会の報告をジャキノ神父に転送してくださるようお願いします。
「ご尽力、心より感謝いたします。
軍事上必要な措置に反しないかぎり安全区を尊重する旨
日本政府が確約してくれたとのこと、一同感謝をもってうけとめております。
中国からは全面的に承認され、当初の要求は受け入れられております。
我々は安全区を組織的に管理しており、
すでに難民の流入が始まったことをご報告いたします。
しかるべき折、相応の調査をおえた暁には、
安全区の設置を中国と日本の両国に公式に通知いたします。
日本当局と再三友好的に連絡をとってくださるようお願い申し上げます。
また、当局が安全を保証する旨を直接当委員会に通知してくだされば、
難民の不安を和らげるであろうこと、
さらにまた速やかにその件について公示していただけるよう心から願っていることも、
日本側にお知らせいただくようお願いいたします。
ジョン・ラーベ
代表」
トラウトマン大使とラウテンシュラーガー書記官が漢口から戻ってきたのは、
ちょっとしたセンセーションだった。
ローゼンに事情を聞くと、これは委員会とは無関係だとのこと。
こっそり教えてくれたのだが、
大使は私が総統とクリーベルに電報を打ったことにかならずしも賛成ではないらしい。
あれは必要なかったと考えているのだ!
今日は時間がないので、あした大使を訪ねよう。
思うに、彼が戻ってきたのはドイツによる和平工作の件だろう。》
*
やはり、回答しなかったのは、南京攻撃が決まってなかったからなのですね。
前日、南京攻撃が決定したので、さっそく回答しました。
トラウトマンはこのあと蒋介石に和平を奨めます。
これは メッセージ 1777 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年10月25日 外国人ら爆弾を取り外す
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/19 18:41 投稿番号: [1778 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
文春文庫
135p
《 十月二十五日
第九十四軍長兼武漢衛戍総司令郭懺は、
米総領事P・ジョスリンと難民区委員会代表R・ジャキノ神父の
申し出に苦慮していた。
神父は、難民区の管理を委員会にゆだねてほしい、
警官百人を特派してほしいといい、
総領事は、英国、フランス、イタリヤ各国代表も同意見だが
市内施設の爆破はやめてくれと、主張する。
漢口放棄は、既述したように、すでに前日に決定されている。》
139〜140p
《 英国の海兵隊員は、中国側の爆破準備を点検し、
「日本人所有の建物以外」
の外国人家屋、
「日本人所有の建物に隣接する家屋」
のすべてから、爆薬を除去した。
午前十一時三十分、
武漢衛戍総司令郭懺は、南嶽山の蒋介石の
「爆烈破壊」
命令を受領し、
爆破を下令した。
しかし、爆音がひびき火煙が吹きあがったのは、日本租界の一部に限られていた。
英海兵隊の作業のほかに、
神父ジャキノが指導する難民区委員会のメンバーたちも、
せっせとダイナマイトをはずしまわっていたのである。》
これは メッセージ 1776 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年12月1日 南京攻撃が決まる
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/19 18:33 投稿番号: [1777 / 2250]
参謀本部の多田次長は南京攻略戦を阻止しようと努力していましたが、
いかんせん、状況が不利でした。
蒋介石は戦争をやめる気はないし、ラーベたちが安全区の承認を要求しています。
いつまでも返事しないわけにも行きません。
全てが、南京戦を進めたい下村第一部長の都合のいいように動いています。
下村第一部長は南京攻略の研究を進め、多田次長を説得しました。
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
422〜423pより
《 参謀本部第一部では制令線撤廃のころから本格的に南京攻略の研究を始め、
また第一部長は、しきりに参謀次長の説得に努めたが、次長は容易に同意しなかった。
事変処理の政略的要求を強く考えていたためである。
一方、現地軍は再三にわたり督促の意見具申をなすとともに、
その第一線を無錫−湖州の線以西に進出させていた。
よって第一部長は、十一月二十七日、方面軍参謀長あて
「当部ニ於テハ
南京攻略ヲ実行スル
固キ決意ノ下ニ
着々審議中ナリ
未タ
決裁ヲ得ル迄ニハ
至ラサルモ
取敢ス
オ含ミマテ」
と打電した。
これに対し
「唯今 貴電ヲ見テ 安心ス
勇躍
貴意ニ副フ
如クス」
との返電があった。
第一部長はさらに熱心に次長に意見具申するとともに、二十八日、
すでに作成していた作戦指導要綱を説明して、ついに次長の同意を得た。
これからは一瀉
(いっしゃ)
千里に事が運んだ。
十二月一日、大陸命第七号により中支那方面軍の戦闘序列
(中支那方面軍司令部、上海派遣軍、第十軍から成る) が令せられた。
方面軍司令官は松井石根大将である。
同日、大陸命第八号をもって
「中支那方面軍司令官ハ
海軍ト協同シテ
敵国首都南京ヲ
攻略スヘシ」
との大命が下った。
また同日の大陸指第九号により、中支那方面軍司令官はその任務遂行のため
揚子江左岸の要地に一部の作戦ができること、
海軍との協同作戦については現地協定を実施すること、などが指示された。
この日、多田参謀次長は、方面軍のかねてからの要望により、
上海に到着し現地の実情を視察した。
二日、松井大将の上海派遣軍司令官の兼任が解かれ、
同軍司令官には朝香宮鳩彦王中将
(20期)
が親補された。
方面軍は、一日、南京攻略作戦のための命令を下達し、
隷下両軍を次のように部署した。
一
上海派遣軍ハ
十二月五日頃
主力ノ行動ヲ開始シテ
重点ヲ丹陽、
句容道 方面ニ 保持シ
当面ノ敵ヲ 撃破シテ
麿盤山山系西方地区ニ
進出スヘシ
一部ハ
揚子江左岸地区ヨリ
敵ノ背後ヲ攻撃スルト共ニ
津浦鉄道 及 江北大運河ヲ
遮断セシムヘシ
三
第十軍ハ
十二月三日頃
主力ノ行動ヲ起シ
一部ヲ以テ
蕪糊方面ヨリ
南京ノ背後ニ
進出セシメ
主力ヲ以テ
当面ノ敵ヲ撃破シ
リツ水附近ニ進出スヘシ
特ニ杭州方面ニ
対シ警戒スヘシ
これは一挙南京に向かい迫撃するのではなく、南京要塞の抵抗、部隊の態勢整理を考え、
磨盤山系西方 ― リツ水付近に進出して南京攻略を準備しようとするものであった。》
これは メッセージ 1775 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年10月24日 中国軍漢口への橋を爆破
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/18 18:48 投稿番号: [1776 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
文春文庫
133〜134p
《 黄陂にあつまった将兵たちは、
はるかに漢口の方角に二本の火柱が神立するのを望見し、
夕刻にも、雷鳴のような爆発音を聞いた。
黄陂で見聞した火柱と爆音は、漢口への橋を爆破したものだが、
市内の日本租界の家屋と日本人所有であったビルには、
すでに掠奪されたあとにダイナマイトがしかけられ、爆砕の用意がととのっていた。
日本側に利用させぬため、マンホールの蓋をはじめ鉄類もいっさい除去され、
水道の破壊準備も完了した……。》
これは メッセージ 1758 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年 和平条件の改訂2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/18 18:43 投稿番号: [1775 / 2250]
つづき
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
461〜462p
《 また、日支両国が本条約を誠意をもって履行するため約定する保障事項は
(一)
日本軍ノ進出セル地域ハ
非武装地域トナシ
現在スル日本軍ハ
地方治安ノ恢復(かいふく)
ト共ニ
自主的ニ撤兵スルコト
北支ニ於ケル重要地域
及 上海附近ニ於テハ
日支協同シテ治安ノ維持
竝
(ならびに)
防共ノ為
支那警察隊ニ依ルノ外
最小限度ノ日本軍ノ駐屯
竝 此 必要ノ軍事施設
竝 主要交通ノ管理拡充ヲ
容認スルコト
(二)
支那ハ日本ニ対シ
北支五省ニ於ケル金融、関税処理、資源開発、
交通通信管理等ニ関シ
特殊権益ヲ与へ
所要機関ノ存置ヲ認ムルコト
日本ハ本条約
及 之ニ伴フ諸約定ノ実現ヲ
確認スルニ於テハ
右保証ノ為ノ約定ヲ解除シ
之ニ伴フ権益中
保証ノ目的ヲ以テ
保有セシ部分ヲ
支那ニ返還ス
之ト同時ニ日本ハ
支那ノ国権回復
及 其復興等ニ
協力ノ目的ヲ以テ
従来ヨリ有スル
其 在支利権ハ
当時ノ情勢ニ応シ
之ヲ支那ニ
返還スヘキ用意 アルコトヲ約ス
と定めた。
本案は、十二月一日、参謀本部案とし、陸軍省の同意を得て大本営陸軍部案とした。》
*
この改定案では、居留民の被害に対する賠償が追加されていますが、
逆に、従来の利権を支那に返還する用意があるとも書いてあります。
戦闘では勝っているのに、ここまで譲歩しようというのです。
しかし、こういう善人心は中国には通用しません。
これは メッセージ 1773 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年10月21日 広東占領
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/17 18:50 投稿番号: [1774 / 2250]
井本熊雄著
『支那事変作戦日誌』
281〜282p
《 十二日
〇三三〇、及川支隊
(第五師団の歩三大と山砲一大)
および
第十八師団は上陸を開始し、その成功を確認した後、
〇四三〇
第百四師団の上陸を命じ、同師団の上陸も成功した。
十二日未明上陸成功に伴い、軍は直ちに東江に向って突進するに決し、
各兵団は上陸に引続き突進を敢行し、悪路と炎熱を冒して所在の敵を撃破しつつ
十四日及川支隊および第十八師団は東江に達し、同日横瀝墟を、十五日恵州を占領した。
第百四師団は所命の進路を前進し、十五日平澤坪附近に達した。
(中略)
増城附近の敵数ケ師は、増江右岸において防戦を企図しているやに見えたが、
軍の急速な前進に伴い戦意を喪失し、指揮混乱しているように判断せられた。
そこで軍司令官は、各兵団の集結を待つことなく、
第十八師団を引続き広東に向って突進させ、第百四師団を増城附近に推進させ、
及川支隊を従化附近に進出して、軍の右側を掩護するように部署した。
第十八師団は二十日払暁、一挙に増江右岸の敵陣地を突破し、
反撃して来る敵を随所に撃破しつつ、
主力を以て増城−広東道に沿い広東に向って突進し、
二十一日追撃隊
(上野亀甫少将の率いる歩三大、砲一大、軽装甲二中)
を以て広東に突入して、これを占領した。》
これは メッセージ 1766 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1774.html
1937年 和平条件の改訂1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/17 18:46 投稿番号: [1773 / 2250]
参謀本部では、戦線が進展したために、従来の和平案を改訂する研究を進めていました。
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
461p
《 参謀本部第一部第二課第一班
(戦争指導班)
では、十一月二十四日、
大本営政府連絡会議のあったその日
「現下緊急対策」
案を作成し
「現戦果ヲ拡張強化シツツ
速ニ
南京政府ト
日支全般問題ヲ
一括解決スルコトニ 諸般ノ措置ヲ講ス」
の方針のもとに、
各種対策を考究し、班長高嶋辰彦中佐が参謀次長に意見具申した。
次長は同意し、時機をみて最高国策を動かす決意をもったようであった。
次いで同班では、至急、軍の思想統一を図るため、
堀場一雄少佐が 「支那事変解決処理方針」
案を起案した。
その趣旨は
「事変解決ハ
日支間全般ノ問題ヲ
一括シテ根本的ニ
之ヲ行フモノトシ
其交渉ハ
日支直接ニ之ヲ行ヒ
第三国ノ干渉ヲ許サス
其過程ニ於テ
第三国善意ノ内面的斡旋ハ
之ヲ認ムルモ
正式交渉ニハ
関与セシムルコトナシ
解決条項中
満洲国ニ関係アルモノハ
両国ニ対シ別途承認セシムルノ処置ヲ執ル」
「解決ノ斡旋 又ハ
交渉中ト雖
(いえども)
支那側カ
全要目承認ノ時期迄ハ
休戦スルコトナク
所要ノ作戦行動ヲ継続ス」
とし、
次いで締結方針を述べ、締結条項としては
(一)
支那ハ 満洲国ヲ正式承認スルコト
(二)
支那ハ 北支 及 内蒙ニ
夫々 日満支互助共栄 及 防共強化ノ具現ヲ
容易ナラシムヘキ政権ヲ
樹立スルコト
(三)
支那ハ
排日及反満政策ヲ
放棄スルコト
(四)
支那ハ
防共政策ヲ確立シ
日満両国ノ同政策遂行ニ協同シ
尚満洲国ト共ニ
日独伊防共協定ニ
参加ヲ約スルコト
日満支三国又ハ
何レカガ三国以外ノ国ヨリ
受クル侵略
特ニ武力侵攻
及
共産赤化工作ニ対シテハ
三国商議ノ上
直接若ハ間接ニ
協同防衛ノ措置ヲ執ルコト
(五)
日本ハ支那ノ新上海建設ニ関シ
協力スルコト
(六)
日満支三国ハ
資源開発物資交易
航空連絡交通等ニ関シ
所要ノ互恵的協定ヲ
設定スルコト
(七)
支那ハ本事変ノタメ
日本居留民ノ受ケタル損害ニ対シ
補償ノ責ニ任スルコト
(八)
日本ハ
本条約ノ成立ト同時ニ
左ノ諸協定ヲ廃棄スルコト
梅津 ・何應欽協定、河北停戦協定、 土肥原 ・ 秦徳純協定、
上海停戦協定 (昭和七年)
としている。》
つづく
*
この改定案では、居留民の被害に対する賠償が追加されています。
これまでは、賠償すら求めていなかったのです。
これほど譲歩していたにも関らず、それを蹴って侵略呼ばわりしていたのですから、
中国の悪質さがうかがわれます。
これは メッセージ 1771 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年10月21日 梅思平 汪兆銘に報告
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/16 15:53 投稿番号: [1772 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
文春文庫
179p
《 特派員梅思平は、十月二十一日、重慶にとび、
上司である中央宣伝部長周仏海と協議し、
汪兆銘にこれまでの経緯を報告して、 「蹶起」
をうながした。
汪兆銘は、はじめて聞くことでもあり、即答はさけた。
しかし、やがて武漢が陥落すると、汪兆銘の
「和平心」
は強化され、
特派員梅思平のほかに外交部情報司日蘇科長周隆庠を派出した。》
これは メッセージ 1768 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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