入って中国人に南京事件真相議論しましょう
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1938年 土肥原機関に暗雲 唐紹儀暗殺され
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/10 18:52 投稿番号: [1760 / 2250]
晴気慶胤著
『上海テロ工作76号』
毎日新聞社
18p
《 土肥原中将は、唐紹儀を首班に推し、
呉佩孚を側面から協力させて新中央政府の骨幹とし、十月末に新政府を成立させ、
それまでに広西軍を寝返らせようと諸般の準備を進めた。
ところが唐紹儀は十月はじめに上海で暗殺され、
広西軍の寝返りもちょっと見込みがないことがわかり、
新政府の樹立工作はここに全く挫折した。
だが土肥原中将は容易に計画を捨てず、
今度は呉佩孚を中心とした新政府を立てようとした。》
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1937年11月24日 九カ国会議閉会
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/10 18:47 投稿番号: [1759 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
169p
《 国民政府は、ブリュッセルの九カ国会議が
対日制裁の具体的方策を決定することを期待していたが、
会議は、二十四日、抽象的な宣言を採択しただけで閉会した。》
*
蒋介石は、いい結果が出るものと期待して、
日本からの大幅に譲歩した和平案を蹴ったのに、逆効果になりました。
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1938年9月29日 中国軍 堤防を破壊し去る
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/09 18:49 投稿番号: [1758 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
文春文庫
83〜84p
《 九月二十九日午前零時、
第二軍長李延年は、右翼兵団総司令李品仙の許可を得て、
第九師に馬口湖北岸、第五十七師には馬口湖北西部と揚子江岸との狭隘部への
集結を下令し、移動開始時刻を
「午前二時」
に指定した。
・・・・
最後まで抵抗をつづけたのは、象山砲台である。
砲台は攻撃する呉第五特別陸戦隊を砲撃し、
揚子江を遡航してきた海軍艦艇も阻止しつづけた。
・・・・
現実に田家鎮に進出してみれば、敵はいない。
海軍より
「一足先き」
の事態にそれほどの感動をさそわれるものでもない……。
午前十一時三十分。
支隊長今村少将を先頭にして、呉第四特別陸戦隊司令横木中佐とともに、
軍旗と軍艦旗をならべての入城式がおこなわれた。
街は、中国軍が堤防を破壊して去ったため、
半分以上が水びたしとなり、汚臭が強烈にたちこめていた。》
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1937年11月24日の南京 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/09 18:44 投稿番号: [1757 / 2250]
11月24日
《 ロイター通信社がはやくも国際委員会の計画について報じた。
すでにきのうの昼、ローゼンも、ラジオで聞いたという。
それによると、東京で抗議の動きがあるとのこと。
とっくに南京から逃げ出したくせになんでアメリカがでしゃばるのか、
ということらしい。それを受けてローゼンは上海のドイツ総領事館あてに
こんな電報を打った。いつものようにアメリカ海軍の仲介だ。
当地の国際委員会、ドイツ・ジーメンス社のラーベを代表に、
イギリス人、アメリカ人、デンマーク人、ドイツ人の各委員は、
中国および日本に、南京に直接戦闘行為が及んだ場合の
一般市民安全区の設置を求めております。
アメリカ大使は総領事館を通じ、この件を上海の日本大使と東京へ伝えました。
この保護区は一朝有事の際に、非戦闘員にのみ安全な避難先を提供するものです。
ドイツ人の代表に免じ、この人道的な提言に対する、
非公式の、とはいえ公式の場合に劣らない温かいご支援を乞う次第です。
私の手元にはザッツブーフ*しかありません。
よってこれを東京に転送し、米海軍を介してドイツ総領事館および
日本当局の返信を頂きたいと思います。
ローゼン
*
外務関係で用いられた暗号対照コード表で、
ドイツ語の単語がすべて五ケタの数字で表記される。
機密が保護されないため、極秘電報には用いられない。
中央病院院長のJ・ヘンリー・劉先生が去り、
「後を託された」
医師たちも二人ともいなくなってしまった。
伝道団のアメリカ人医師たちがいてくれなかったら、
この大ぜいの負傷者はどうなってしまったかわからない。
先日、贈られたトラックを一台動員した。
車が徴発されないよう、運転手の劉漢臣はドイツ国旗を掲げて走っている。
中国兵はトラックとみれば残らずとり上げてしまう。
カルロヴィッツ社のクリスティアン・クレーガーの話では
「命令」
が出たという。
つまり、南京の住民はすべて町を離れるようにという指令である。》
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1938年9月23日 中国軍揚子江を決壊さす
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/08 15:40 投稿番号: [1756 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
文春文庫
69〜70p
《 第五戦区右翼兵団総司令李品仙は、第二軍の事情に不満をもち、
二十三日午前十時、次のように下令した。
「兵団為
鞏固武漢門戸、固守
田家鎮之目的、
田塞守備軍
応固守田
基本陣地及黄、馬二湖間地区……」
そして、最後に厳命した。
「非有命令不得撤退」
−。
総司令李品仙は、また、
第二軍の士気を高揚するために、武穴鎮の下流で揚子江堤を決潰させ、
日本軍の南からの進出にたいする顧慮を除去することにした。
−
ところが、
この揚子江氾濫作戦は、逆効果をもたらしただけであった。
氾濫した江水は、武山湖から黄泥湖一帯にあふれたが、おかげで日本側は、
工兵が鉄舟で第一線に弾薬、糧食をはこぶことができたからである。
その帰途には、傷兵も後送できる……。
しかも、二十三日夜半すぎには、田家鎮守護のためには不可欠とみられた
対岸の富池口が陥落した。》
注
鞏固
(キョウコ)
「強固」
の本来の字
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1937年 南京進撃への策謀
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/08 15:34 投稿番号: [1755 / 2250]
第十軍が、独断で南京進撃しようとするのを、参謀本部の多田次長が止めました。
しかし、南京進撃を進めたいのは、第十軍だけではありません。
多田次長の部下の下村第一部長もそうです。
下村部長は秘策を練りました。
それは、大本営
(但し、宣戦布告した正規の戦時ではないので、
新たに事変に適用できる法令を作って設置された)
会議を利用することです。
児島襄著
『日中戦争4』
165〜167p
《 制令線の廃止が指示された十一月二十四日は、
第一回大本営御前会議の開催日でもあった。
天皇をむかえた会議出席者は
〔陸軍〕=参謀総長閑院宮載仁元帥、陸相杉山元大将、
参謀次長多田駿中将、参謀本部第一部長下村定少将。
〔海軍〕=軍令部総長伏見宮博恭元帥、海相米内光政大将、
軍令部次長嶋田繁太郎中将、軍令部第一部長近藤信竹少将。
この日の会議は、陸海軍の作戦計画を上奏するだけで、下問も質疑もなく、
しごく形式的な会議が予定されていた。
現に、会議は、両総長が作戦方針、両部長がその説明書を朗読して、終った。
―
ところが、
実際には、会議には、参謀本部第一部長下村少将の 〝工作〟 がひそめられていた。
下村部長の説明は、部員有末次中佐が起案して多田次長の承認も得たものだが、
その中支那方面軍の作戦については、次のように述べられていた。
「元来、此ノ軍ハ
上海付近ノ敵ヲ
掃滅スルヲ任務トシ
……
其ノ推進力ニハ
相当ノ制限ガ御座居マス
……
随 (したがっ) テ
一挙 直チニ
南京ニ到達シ得ベシトハ
考ヘテ居リマセヌ……」
つまりは、南京には行かぬ、行くにしても慎重に行く、
という多田次長の思想を反映した文言である。
南京進撃を主張する下村少将としては、この章句は不満である。
御前会議での上奏は、最高方針の決定にほかならず、
このままでは南京攻略は不発になりかねないし、方針を修正するには、
さらに上奏して時間をとられることになる。
下村少将は、そこで、会議の前に多田次長に語った。
「南京攻撃をやる場合があると云ふことを、申すかも知れません」
少将は、そのときの多田次長の反応を記述していないが、次長としては、
少将が南京問題について
「軽く」
付言する程度と理解したらしい。
だが、御前会議では、下村少将は、前述の説明案文につづいて、
次のように言明したのである。
「統帥部ト致シマシテハ、 今後ノ状況如何ニヨリ
該方面軍ヲシテ
新ナル準備態勢ヲ整ヘ、 南京其ノ他ヲ
攻撃セシムルコトヲモ
考慮シテ居リマス」
このくだりが朗読されたとき、参席者の多くは、思わず眉をあげて意外感を表明した。
御前会議では、発言するとき以外は、不動の姿勢のまま端坐して終始するのが慣例である。
一同は、それ以上の動きを示すことなく散会した。》
*
次長は怒ったが、後のまつり、ほとんど既定事項となってしまったわけです。
誰もが、動けない、つまり、反論できない状態を利用して既成事実化したのです。
と言っても、まだ南京攻撃が決まったわけではありません。
可能性が開かれただけです。
南京攻撃が決まるのは、まだ後です。
これは メッセージ 1753 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年9月17日 中国軍揚子江を決壊させる
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/07 15:14 投稿番号: [1754 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
文春文庫
61〜62p
《 第二軍長李延年は、九月十七日、今村支隊が松山口を完全占領し、
海軍・呉第四特別陸戦隊
(續木禎弌中佐)
が武穴鎮を攻略したのを知ると、
第九師と第五十七師の作戦地境を、馬口湖と黄泥湖の中間を縦断する線にかえた。
・・・・
今村支隊すなわち第十三連隊の前途が容易でないことは、
すでに地象と天象が告示していた。
松山口の前面は、右の馬口湖と左の黄泥湖にはさまれた陸路であるが、
両湖は中国側の揚子江決潰作戦によってあふれだし、
陸路の幅はさらにせばめられてわずか約三キロになっている。 》
これは メッセージ 1752 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年 制令線の廃止と新制令線の設定
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/07 15:10 投稿番号: [1753 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
164〜165p
《 第十軍参謀長田辺盛武少将をまねいての協議の結果は、さっそく
二十二日の中支那方面軍の第十軍にたいする南京追撃中止命令に具現したが、
同時に、その方面軍命令には、次の但し書がつけ加えられていた。
「但シ、湖州ヨリ
一部先遣隊ヲ
派遣スルコトヲ得」
先発隊を出して主力はあとから行け、との含意がうかがわれる命令であるが、
方面軍は、さらに参謀本部に意見具申してきた。
「中支那方面軍ハ、 事変解決ヲ速
(すみや)
カナラシムル為、
現在ノ敵ノ頽勢
(たいせい)
ニ乗ジ、 南京ヲ攻略スルヲ要ス」
疲れている上海派遣軍も、 「旬日」 (十日間)
の休養をとれば
追撃戦を実行できる、という。
なにがなし、第十軍がはりきり、方面軍がひきずられた感じである。
参謀次長多田中将は、 「不可
(いか)
ん」 「不可ん」
と連呼したが、
すでにひきずられるよりも
「ひきずりたい」
意思をもつ下村少将らに説得され、
十一月二十四日
「大陸指第五号」
を発令した。
「臨命第六〇〇号ヲ以テ指示セル
中支那方面軍作戦地域ハ、 之ヲ廃ス」
南京進撃
−
の下令にひとしい。
参謀次長多田駿中将は、しかし、なお内心では南京攻略に反対であった。》
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
419〜420p
《 次長は戦線拡大を深く憂慮していたので、
同日十八時、方面軍参謀長あて要旨次のように打電した。
「任務に基づく戦場追撃は認める。しかし状況によっては
大湖北方地区で方面軍の一部が無錫以西に進出することがあるのは予期するが、
大湖南方地区では湖州以西に戦面を分散拡大することのないよう、
また他に転用のため第十一師団及び重藤旅団等を
十二月初旬までに上海付近に集結させるよう考慮されたい。」
二十四日、方面軍は
「第二期作戦計画ノ大綱」
を作成し、
二十五日これを配布しかつ両軍に対し、無錫−湖州の線において、
じ後の作戦を準備せよと命じた。 》
*
つまりは、無錫−湖州までの線を新しい制令線とするようなものです。
簡単には、南京進撃を許可しません。
注
頽勢:タイセイ
くずれかかった勢い。
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1938年9月11日 日本軍催涙ガス弾使用
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/06 18:41 投稿番号: [1752 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
文春文庫
53p
《
−
九月十一日、
第十三師団総攻撃
−
の日である。
・・・
八〇〇高地右側の第百四連隊は、前述した
「スケジュール表
」にしたがって、
丸山を攻撃した。
午後一時に砲撃を開始し、午後二時に第二、第三大隊が前進をはじめた。
午後三時、砲兵は歩兵の突撃支援のために煙弾と催涙ガス弾をうちこんだ。
「山一面は白煙と黒煙におおわれて凄惨な様相を呈し、
第一線将兵は地獄の中にある感じさえした」
しかし、攻撃は順調にはすすまなかった。
第百四連隊の左側の第六十五連隊は、第三大隊にマンジュウ山を確保させ、
第一大隊に三角山を攻めさせながら、第二大隊による八〇〇高地突撃をこころみた。
だが、中国軍の抵抗は激しく、八〇〇高地の中腹の部落にとびこんだ
第二大隊第八中隊は、そこで
「十字砲火」
の渦にまきこまれて
「行動不能」
になった。》
55〜56p
《 −
午後九時すぎ、
・・・
第百四連隊は丸山にたいする黎明攻撃を準備し、第六十五連隊は、
第二大隊が八〇〇高地の頂上まで約五百メートルの地点にせまっていた。
第六十五連隊戦記
『花の白虎部隊』
は、この稜線を
「血の道」
と回顧するが、
その呼称に誇張はなかった。
遅滞戦闘を命じられた中国軍第八十八師第五二八団の抗戦はめざましく、
機銃を乱射し、手榴弾を
「ナダレ」
のようにころがし落して、
第二大隊の接近を阻止した。
催涙ガス弾をうちこんだが、おりが悪く、風は上から下に吹いてきて、
ガスだ、防毒面だ、とあわてるのは、第二大隊自身であった。
そのガス煙をとおして、山頂のマイクから中国人なまりの日本語が流れてくる。
「ニホングンノミナサン、ココハアナタガタノクルトコロジャナイ……
クレバ、ミナ、シニマス……」
丁重な言葉づかいだけに、かえって小馬鹿にされた印象をうけ、
第二大隊将兵は、歯ぎしりした。》
これは メッセージ 1748 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年11月22日ラーベ国際委員会の代表に
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/06 18:31 投稿番号: [1751 / 2250]
ラーベの日記11月22日
《 十七時に、国際委員会の会議。南京の非戦闘員のための中立区域設置の件。
私は
「代表」
に選ばれてしまった。
辞退したが押し切られた。
良いことをするのだ、受けることにしよう。
どうか、無事つとまるように。
責任重大だ。
ドイツ大使が船で帰る直前、委員会の事務局長のスマイス教授を紹介することができた。
大使は委員会から日本大使にあてた電報を読んで同意してくれた。
これはアメリカ大使館の無線を通じて、上海のアメリカ総領事館から発信される。
イギリスとアメリカの大使にはすでに承認してもらった。
話し合った結果、上海の日本大使館に届くまで、電報の内容は公開しないことになった。
これが無駄にならないよう、祈るばかりだ。
フランスの委員はいない。それはここにフランス人がいないからで、
イタリア人も同じだ。英語の電報の内容は要約すると次のようになる。
デンマーク、ドイツ、イギリス、アメリカ合衆国の各国民によって構成される
当委員会は、国民政府と日本政府に対し、
南京市内ないしはその近郊で戦いが勃発した場合にそなえて、
難民のために安全区の設置を提案する。
国際委員会は、次の点を国民政府に保証してもらうことを約束する。
軍事交通局を含むあらゆる軍事施設を
「安全区」
から撤退させ、
非武装地帯とし、ピストルを装備した民団警官のみを置く。
また、その場合、すべての兵士およびあらゆる階級、
身分の士官の立ち入りは禁止される。
国際委員会は、これらが遵守され、滞りなく遂行されるよう配慮する。
国際委員会は、日本政府が人道的理由から安全区を尊重するべく
配慮してくれるよう願っている。
そのような慈悲深い措置こそ、責任ある日中両国政府の名誉となると信ずる。
国民政府との交渉をできるだけ早く成立させ、
難民保護のために必要な準備を整えられるよう、
日本当局のすみやかな回答を切望する。》
これは メッセージ 1749 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年9月11日 松本重治氏病気で入院す
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/05 18:52 投稿番号: [1750 / 2250]
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
314〜315p
《 九月八日、上海に帰り、 「同盟」
の仕事がたまっていたので、
二、三日でそれを片附けてから、報告のため東京へ行こうと考えていたが、
どうも身体の調子がよくない。
微熱があるようで、アパートにひとりでいては養生もできないので、
十一日だったか、北四川路の福民病院に入った。
「同盟」
の仕事は、田村 (源治) 君以下の同僚に一切を託して、
心配はないと思った。
松井内科部長が診察してくれたが、よく判らない。
胸部疾患じゃないかともいっていたので、一高の同級生の小児科の
小原直射君の夫妻が滋養分を摂ったほうがよいといって、
夜食に、すしなどを作って、もってきてくれた。が、どうもすっきりしない。
四、五日経つと、四十度ぐらいの高熱が出てきた。腸チブスと診断された。
真正チブスとパラ・チブスの二種の菌が発見され、
高度の熱が続き、心臓も怪しくなってくるし、頭が重くて、はっきりしない。
気懸りになっていたのは、梅思平との合意点を東京に伝えることであった。
それらは、メモ・ブックに書いてあるので、それだけは枕の下に置いていた。
入院数日後のある日、東京から駈けつけてくれた西君と伊藤君とが
私のベッドの傍に立っていた。メモ・ブックを手渡すとともに、
梅君や高君との話の要点を、病床で報告した。
報告し終ると、私は、重荷がおりたようで、それ以来、約二週間昏々と睡ってしまった。
危篤に近い状態が二度ほどあった。
東京で岩永さんが心配して、長兄の長与又郎博士と宮川伝研所長とが相談し、
若い医者を伝研から上海に急派するとともに、
毎日の熱と脈搏とを東京へ電報で知らせ、
両博士が処置をこの若いお医者に電信で指示する、という有様だった。》
これは メッセージ 1746 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年 敗走中国兵による略奪・放火
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/05 18:47 投稿番号: [1749 / 2250]
日本軍は敗走する中国兵を追って西へ進撃しました。
この時、三光作戦をやったという話がありますが、果たしてどうなのでしょう。
略奪が全くなかったとは言いませんが、
実は日本軍が来る前に中国軍が先に略奪していたのです。
上海から南京へ敗走する途中、中国軍は略奪や放火をやりました。
これについては、幾つかの証言があります。
ラーベの日記
《 11月10日
上海から戻ってきたわが国の軍事顧問の話では、
前線のうしろでは、軽傷を負った中国人の兵士たちがうろついているという。
もう統制がとれなくなっているのだろう。
そのため、夜はもはやモーゼル拳銃なしには旅はできないそうだ。
11月16日
蘇州では、舞い戻ってきた中国の敗残兵によって、ひどい略奪が行われたという。
済南の手前にある鉄橋が中国人の手によって爆破されたという。
日本人の進攻を防ぐため。》
孫元良の回想録
《 やがて我々は崑山から蘇州に後退し、ここで一休みできる筈だったが、
蘇州は既に秩序が乱れ収拾不能な都市になっており、我々に休む間を与えなかった 》
(鈴木明著
『新 「南京大虐殺」
のまぼろし』
211p)
第九師団・第36連隊長・脇坂次郎氏の東京裁判宣誓供述書
《 上海から南京に進軍中、我が部隊は常に先頭に立ったが、
沿道の部落の家屋が焼却され、毀損され、
また家屋内が略奪されていたのが相当認められた。
これは支那軍が退却に際し…放火・破壊した、
支那軍民の常習たる戦時の略奪によるものであると、支那人民から聞いた 》
(富士信夫著
『「南京大虐殺」
はこうして作られた』
211〜212p)
第九師団・山砲第九連隊・第七中隊長大内義秀氏の供述書
《 わが部隊は、蘇州へ向けて進撃すべく命をうけ、第一線部隊として進み、
蘇州到着までは、ほとんど敵の抵抗を受けなかったが、
蘇州に至る間の部落は酷く焼かれ、屋根のある家は少なく、住民もいなかった。
このような破壊は、支那軍が退却に際して行ったものと認める」・・・。
南京の東方約八里
(注・約三十二キロ)
の山地帯で敵の大きな抵抗にあった。
・・・この付近では営舎として利用できる家屋は支那軍のため焼却されていて
一軒もなく、日本軍はすべて野営した。》
(富士信夫著
『「南京大虐殺」
はこうして作られた』
210p)
徐永昌の日記
《 11月26日
聞くところによれば、蒋介石は、
不安分子がリツ水、リツ陽などで強奪・強盗などを働いたと聞いて
激怒したとの事 》
(鈴木明著
『新 「南京大虐殺」
のまぼろし』
220p)
これは メッセージ 1745 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年9月6日 日本軍とらえた捕虜を釈放
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/04 18:45 投稿番号: [1748 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
文春文庫
46〜47p
《 (中国は)
九月六日未明、同日
「二十時」
を期して
「開始撤退」
するよう、第二十六、第六十八軍に下令した。
−だが、
夜が明けると、同時に第二十六、第六十八軍の各部隊は
いっせいに退却をはじめ、日本軍第六師団は、全線にわたって追撃した。
第四十五連隊は、田中大尉の第十中隊を先頭にして、広済にむかった。
山をおりて本道に出ると、 「戦意を失った敗敵」
がうろついている。
足もとがヒョロヒョロしているので訊問すると、
「四日間なにも食べていない」
旨を応えた。
お互いさまだ、とうなずいた第十中隊長田中大尉は、
日本側の食糧事情にも思いあたり、部下が約三十人の捕虜を連行すると、
また漢口で会おう、といって、全員を釈放した。 》
これは メッセージ 1744 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年11月 制令線の撤廃論議2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/04 18:41 投稿番号: [1747 / 2250]
児島襄著
『日中戦争』
162〜164p
《 十一月十九日、戦況はさらにすすみ、上海派遣軍第九師団は蘇州、
第十軍第十八師団は嘉興を占領した。
制令線に到達したのである。
が、すかさず、第十軍司令官柳川中将は、 「丁集作命甲第三十一号」
を下令した。
「集団ハ機ヲ失セズ
一挙南京ニ敵を追撃セントス」
その翌日、十一月二十日
・・・
参謀本部第一部長下村少将によれば、第十軍の南京独断進撃は、
この日はじめて報告をうけた。
「集団ハ、十九日朝、全力ヲ以テ
南京ニ向ツテスル
追撃ヲ命令シ、
概ネ左ノ如ク部署セリ」
という電報が、到着したのである。
「之は直ぐに止めさせなくちゃ不可
(いか)
ん。 作戦指導も之では不可ぬ」
参謀次長多田中将はおどろき、第一部長下村少将に指示したが、少将は、既述したように
「今一押し」
したほうがよい、との考えになっている。
「第十軍が斯
(こ)
ういふことを言つて居つても、
方面軍は中央の意図に非常に忠実にやつて居るのですから、
当然、方面軍が第十軍に対して処置するでせう。
それを中央が指示するといふやうなことは、よくありますまい」
少将は、そう応えた、と記述しているが、参謀次長多田中将は、
「兎に角、之は急を要するから是非止めさせて呉れ」
と、くり返し、少将は、中支那方面軍参謀長塚田少将に、
第十軍の企図が制令線を定めた命令に反する旨の注意電を発信した。》
つづく
これは メッセージ 1737 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年9月5日 松本氏、徐新六の死を知る
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/03 18:44 投稿番号: [1746 / 2250]
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
312〜313p
《 九月五日、高君から、朝めしに来てくれという電話があったので、
行ってみると、高君は、だいぶん元気になったようだ。
いっしょに、ゼラチンの入った中国風の朝粥を食べた。
結核にはゼラチンがいいとの説明も用いた。
私は、梅岩との会談内容の要点を、高君に話した。
高君は、梅君からその都度連絡があったらしく、だいたいは承知していて、
高君も、やっと和平運動の首班は汪兆銘に決めたという決意を話した。
ただ、 「蒋・汪両者の将来の関係は、なお熟考を要するが、これは私の責任だ」
といっていた。
話が一段落したとき、突然、周作民が現れた。
私がそこにいたので周作民も驚いたようだったが、
久しぶりで、私に会って喜んでいた。
しかし、周作民は、高君と私とに、
「新六が死んだんだよ。今、号外で、今朝、日本の海軍機が、
新六の乗っていた重慶行きの民間の飛行機を撃ち、
飛行機は不時着で、乗客九名中六名は焼死体となり、
あと三名は重軽傷だという話だ」
という。
私が
「徐新六さんがその三名の中にあればよいがね」
というと、
高君は、 「新六は、必ず死んでいるよ。
エンジンが焼けたときなんか、新六は、他の乗客に
『どうぞおさきへ』
などといって、自分は最後に機体から出ようとしたが、
すでに機体に火が廻っていたに違いない」
といった。
三人暗然として、新六のため祈る気持が一杯で、みんな黙ってしまった。
しばらくすると、高君が、
「シゲちゃん、新六も作民も、みんな和平運動の有力な後援者なのだよ」
といった。
私は、 「昨秋中、定期的に会って話をしていたのは、新六だけだったのに」
と繰り言をもらした。
それには、周作民も高君も、また驚いたようであった。
私は、周さんと高君と話があるのだと推測して、
「宗武、からだを大切にね」
と、顔をじっと見ながらいった。
高君は、 「シゲちゃん、もう大丈夫だよ、新六は亡くなったが、
これからは、僕も働かなくては」
と張り切っていた。》
これは メッセージ 1742 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年11月 国民政府の遷都宣言
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/03 18:37 投稿番号: [1745 / 2250]
〔昭和12年11月21日
東京朝日〕
《〔上海二十日発同盟〕
国民政府の遷都宣言の内容、左のごとし。
盧溝橋事変発生以来、平津
(北京・天津の事)
が陥落し戦事蔓延してより、
国民政府は日本の止まるところを知らざる侵略に鑑み、
自衛のため抗戦するに決定、全国の民衆は敵情心に燃えて戦い、
全体将士は忠勇奮戦した。
侵略された各省は極めて激烈な奮闘をなし、極めて壮烈なる犠牲となった。
しかして淞滬の一隅では抗戦既に三カ月に亘る。
各地の将士は奮って国難に赴き、その前線にあっては血肉のみを以って塹壕を構築し、
死すとも退かず。日本はその陸、海、空軍の力を合わせて攻撃し来たったのである。
陣地は灰燼となるも軍心は金石のごとく、
戦場における勇気と戦事の激烈とは、実に民族独立の精神を明示するものである。
しかして中華民族復興の基礎となるものである。
日本は更に暴威を揮い、兵を分けて西進し我が首都に迫る。
その意を察するに、その暴力により我に城下の盟を要求せんとするものであるが、
彼は我が国が抗戦自衛を決定した日より既に最後の関頭たる事を銘記し、
国家の生命のため、国際正義と世界平和を図るため、
屈服の余地なきに至った事を知らない。
およそ血気あるものは、むしろ瓦全より玉砕を欲する決心を持たざるものはない。
国民政府は戦局に適応し全局を統一して、長期抗戦のため本日、重慶に移転する。
今後は最大の規模により持久の戦闘に従事する。
中華は多数の人民と土地の広大と、人々が必死の決心を備え、
更に熱血と土地とを以って凝結し一丸となり、
いかなる迫力もこれを分離する事は出来ない。
外は国際の同情を得、内に民衆の団結あり。
抗戦を継続して、必ず国家民族生存独立の目的を達するであろう。
特にここに宣言する。》
注
淞滬:呉淞から上海までの地域の事
これは メッセージ 1743 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年 両角大佐、「足鎖」の少年兵に激怒
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/02 19:02 投稿番号: [1744 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
文春文庫
39〜40p
《 九月二日には、無事に黎家集についた。
苦労したのは、第十三師団である。
葉家集の中国軍は頑強に抵抗し、第百四連隊第二大隊は、
一日から二日朝までかかってようやく部落を占領した。
部落には、師団の
「十カ月ぶん」
の飯米が遺棄されていて、
報告をうけた第百三旅団長山田栴二少将は、拍手して喜んだ。
第百四連隊の左側の第六十五連隊も、開順街をまもる約三百人の
「犠牲兵」
の抵抗にてこずった。
ようやく突破してみると、ひとつのトーチカ陣地に、十六、七歳の少年兵が
足を鎖で支柱に結びつけられ、手榴弾で自決している姿が発見された。
捕虜の説明によると、 「足鎖」
は少年兵自身の希望によるもので、
死守の覚悟が動揺して逃げてはならぬとの自戒のためであった、
上官もその嘆願にしたがって少年兵の足に鎖をまき施錠した、という。
だが、第六十五連隊長両角業作大佐は、怒った。
たとえ、少年兵が望み願ったにせよ、そのような異常事をゆるすのは、
指揮官として欠格である。
「非人道もはなはだしい。鬼畜にもまさる敵軍の将校どもだ」
大佐は、怒りと哀悼の意を、涙でにじむ双眼で表明しながら、
酸鼻な少年兵の屍体に黙祷した。》
これは メッセージ 1742 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年 蒋介石の「ここまで来てみろ」宣言
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/02 18:54 投稿番号: [1743 / 2250]
上海を攻撃していた中国軍は第十軍の上陸をきっかけに、退却をはじめました。
そのスピードが速いため、追いかける方も、無人の野を行くかのようになりました。
11月19日
日本軍は制令線の蘇州・嘉興を陥落させます。
ここでストップです。
この時、蒋介石は
「・・・敵が南京に至れば我々は南京を防衛する。
敵が四川を攻撃すれば我々は四川を防衛する。
敵の侵略が続く限り我々は永久に戦い続けるであろう」
(鈴木明著
『「南京大虐殺」
のまぼろし』
159p)
と世界に向けて宣言しました。
まるで、 「ここまで来てみろ」
と言ってるかのように。
しかし、まー、よく、こういう妄言が吐けるものです。
日本は
「戦争を止めよう」
と温和な和平案を出したのに、それを蹴っておいて、
「日本が侵略している」
と、ふざけた事を言っているのです。
好条件の和平案をけっておいて、「侵略された」
も何もないでしょう。
当時の日本には、まだ、南京へ行く計画はありません。
一部の将軍が南京進撃を進言していますが、参謀本部が止めています。
しかし、蒋介石が和平を拒否し続ければ、
“南京進撃” の抑止も続けられなくなるでしょう。
これは メッセージ 1741 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年9月2日 松本・梅思平会談
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/01 14:40 投稿番号: [1742 / 2250]
松本重治著『上海時代・下』中公新書
311〜312p
《 第五回の会談は、久しぶりに香港ホテルでやった。総ざらえのためであった。
私が、「日本が撤兵を決して、その声明をやれば、君たちの和平運動は
どのように進展するかを話してくれ給え」
と頼むと、
梅君は、初めて、 「和平運動は、汪
(兆銘)
さんに領導してもらわなければいかん。
周仏海など私らの同志は汪さんの傘下に入る。
汪さんと行動をともにするのは、雲南の竜雲、四川の将領、広東の張発奎その他だが、
すでに、内々に連絡をとっているのだ。
停戦、撤兵に反対するものは中国にはないはずだからね」
と、
いろいろの手筈や計画を詳細に話してくれた。
最後に、梅君は、
「今までのところ、蒋さんはじめ、日本を信用していないのだ。
最大の問題は、日本が、君のいったように、
中国人が日本を信用できるように行動してくれることが、いちばん重要なのだ。
その点、松本君や君の同志の努力に俟つばかりだ。こちらも、一生懸命にやるよ」
といって、幾度も固い握手を繰り返して、別れた。
梅君が帰ってから、私はホテルの部屋で、ますます私らの重大な責任を感じた。
五回の会談中に、すでに九月二日には、喬輔三から中村総領事に対し、
「宇垣 − 孔祥熙との交渉は打切りにしたい」
と通告してきたのを知った
(梅思平・松本の合意内容は、後日、十一月二十日附の
「日華協議記録」
にその骨子だけは再現されているが、
ニュアンスは、少なからず変っている。今井氏前掲、八〇−八一ページ参照)。》
*
《梅君は、 「今までのところ、蒋さんはじめ、日本を信用していないのだ。・・・」》
とあるが、気にする必要はない。
中国人は、中国人すら信用しない。
「雲南の竜雲が行動をともにする」
と勝手におもいこんでいるが、
後に裏切られる。
向こうは信用していないのだ。
どっちについたが安全か?
で二股かけているだけ。
これは メッセージ 1740 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年11月19日 蘇州 ・ 嘉興陥落
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/01 14:25 投稿番号: [1741 / 2250]
『大日本帝国の戦争2
太平洋戦争』
毎日新聞社刊
22p
《 11/19
中支那方面軍、蘇州 ・ 嘉興占領 》
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
418p
《 参謀本部は第十軍から次の十九日発電の報告を受けた。
一
集団ハ
本日正午頃
嘉興ヲ占領シ
夕刻
略々
掃蕩ヲ完了ス 》
鈴木明著
『 新 「南京大虐殺」 のまぼろし 』
219p
《 徐永昌の日記
19日
九時、嘉興が占領されたことを知る
(日本軍発表によると、嘉興を占領したのは十一月十九日)。
伝聞によれば、敵はあまり労せずして占領したとのこと。
常州の顧祝同から電話あり、わが軍は既に無錫、江陰の線まで後退の由。
何応欽、白崇禧など連れ立って蒋介石の許を訪れ、現状を見るに、
長期間の
(南京)
守城は
(戦力を消耗するので)
必要なく、
江陰の線で何日か持ちこたえればよし、と進言。
何応欽は、軍政部所管の物資、兵器を運ぶのに、百本の列車が必要と発言、
蒋介石は、嘉興、蘇州の失陥をきいても、顔色一つ変えなかった。》
児島襄著
『日中戦争』
162p
《 十一月十九日、戦況はさらにすすみ、上海派遣軍第九師団は蘇州、
第十軍第十八師団は嘉興を占領した。
制令線に到達したのである。》
これは メッセージ 1739 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年9月1日 松本・梅思平会談
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/30 14:52 投稿番号: [1740 / 2250]
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
310〜311p
《 翌々日の第四回は、また別の小さな中国人のホテルで開かれた。
調度品その他が、だんだんわるくなってきた。
私が、「梅君、会議の場所が、だんだん格下げになってきたようだが、
話は、お互いに格下げはできんよ。
今日は、例の排日・抗日の宣伝や教育について、君の意見を聴きたい」
と問題を出すと、
梅君は、「抗日の宣伝や教育の問題は、あまり重要ではないだろう。
もともと、日本の帝国主義が中国の民族主義を武力や恐喝でいじめるものだから、
自然にそうなるんだ。国民政府や党部の取締りなんか、いくらやったってだめだろう。
松本君、そう思わないかね」
という。
私が
「そのとおりだ。本を匡せば、末はちゃんとよくなる。
中共や救国会がいくら効果的に宣伝をやったとしても、
火元が消えれば、自然、焔も消える。
撤兵をやれば、万事解決だ」
との持論を話すと、
「松本君、そのとおりだ。
しかし、近衛総理が解っても、日本には統帥権とかいうものがあって、
政府とは別行動をとってきたように思うが、撤兵は大丈夫かね?」
と、念を押す。
「梅君、君も相当な日本通になったね」
と、私が少しからかうと、梅君も大笑いする。
私がつづけて、
「だから、こんどの和平交渉は、私らは、統帥部の幕僚幹部と話を進めているのだ、
外務省には、話はしていないのだ」
というと、
「イヤ、それで、よく解った。中国の排日教育と日本の統帥権とね」
と、梅君もうなずく。
私は、 「排日教育の行き過ぎと統帥権の濫用とだよ。
とにかく、日本は、中国観を百八十度転回して、新たにしなければならん。
そうすれば、中国の日本観だって、また百八十度変ることになる」
というと、
梅君は、 「そのとおりだ」
といわんばかりに、大いにうなずいたのであった。》
*
梅思平が
「反日教育は、日本の武力や恐喝の結果だ」
と言い、
松本氏は、これに納得し
「中共や救国会がいくら効果的に宣伝をやったとしても、
火元が消えれば、自然、焔も消える。」
と能天気な事を言っている。
しかし、これが間違いのもとである。
日本が武力で威嚇する前に、中国人のテロや暴行、略奪があっている。
日本が抗議しても、蛙の面に小便の態度、だから、武力威嚇となる。
これは日清戦争より前からで、日清関係では台湾征伐までさかのぼれる。
「火元が消えれば、自然、焔も消える。」
と思うのは日本人の感覚。
現に日本軍が撤兵して67年近くなるが、未だに反日教育は消えてない。
火が消えたら、向こうは、火をつけるのだ。
つづく
これは メッセージ 1738 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年 中国 遷都と南京守城を決める
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/30 14:30 投稿番号: [1739 / 2250]
鈴木明著
『 新 「南京大虐殺」 のまぼろし 』
218〜219p
《 徐永昌の日記
11月15日
「11時、蒋介石が会議を招集、私が先着し、何応欽、唐生智、白崇禧、
○○
(判読出来ず。以下同じ)、 劉斐が続いて到着。
この会議で、敵と交戦しながら、首都機能を長江上流に移転されることが決定した。
私は、作戦を中断することは出来ないが、
急に臨んで、あわてふためくのは不可であると述べた。
会議後、何応欽は、銃弾を運ぶだけでも、準備が十日は必要だ。
何故
(蒋介石は)
このことをもっと早くいってくれないか、
と不満げな口ぶりだった。
16日
十時、何応欽宅にて、各軍事機関の移転を決定。
何応欽は細かく説明していたが、一向に要領を得ず。
十二時帰宅、四時半
(上海方面の)
兵力配置を調整した。
広東軍と貴州軍を左翼
(南京から見て左、つまり揚子江の側)
に、
広西軍、湖南軍を右翼
(太湖の南)
に投入、
左翼から中央軍を五、六軍団引揚げさせ、南京防衛に当られる方針。
六時から会議は再開。南京守城を決議。
唐生智が司令長官となり、三カ月ないし一年を守衛出来るだろう、と皆に期待される。
続いて汪精衛が政府機関を動かす方法について報告。
最後に蒋介石は〝抗戦既に三カ月経って、わが軍の死傷者は三十万人に達した〟と報告。
次いで、日本はドイツ、イタリアの国際勢力を背景とし
(イタリアは、この日記の書かれた約十日前、十一月八日に
「日独防共協定」
に加わって、日独への好意を示していた)、
わが国の方は、イギリス、アメリカ、フランス、ソ連の応援があるが
(十一月から、日本に対して非難決議を行うと期待されていた
「九カ国会議」
が、
十一月二二日からベルギーのブリュッセルで開かれており、
十五日は、まだその会議が進行している最中だった)、
まだ対立点も残されており、予断は出来ない。
そのためには、ねばり強い抗戦を続けなければならず
(首都を重慶に移して
―
日本は、重慶まで攻めてくることは出来ない)、
日本も戦いを止めるわけにはゆかず、これによって、国際情勢の変化も考えられる。
抗戦を続けるに当って一番大切なことは、
持久戦に耐えられる民族精神を持つことである、という。 》
*
この中で、蒋介石は
「日本はドイツ、イタリアの国際勢力を背景とし」
と言っているが、この言い方はおかしい。
ドイツ軍事顧問が、現に、中国軍を指揮し助けているではないか。
恩知らずにもほどがある。
ドイツは九カ国条約会議に参加しなかっただけで、
イタリアは日本糾弾宣言案に反対しただけだ。
ドイツが不参加なのは当然である。
この戦争は中国がしかけた事を、内部から知っているのだから。
日本が侵略しているとは、口が裂けても言えないし、
と言って、中国が悪いとも、立場上いえない。
日独伊防共協定が敵とするのは共産主義であって中国ではない。
つづく
これは メッセージ 1737 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年8月31日 松本・梅思平会談
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/29 18:42 投稿番号: [1738 / 2250]
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
309〜310p
《 翌日の第三回目の会談は、梅君の提案で、第三の場所を、
小さな中国人経営のホテルに定めた。梅君から、
「撤兵問題を君は話したが、撤兵に要する期間の問題とか、
例外的に駐兵する区域の問題とかは、君はどう考えるか?」
と、まず質問があった。
私は、待ってたとばかりに、
「撤兵には少なくも一カ年半か二年はかかるよ。あまりに早急に撤兵すれば、
撤兵区域を、中央軍と、八路軍や新四軍とが奪い合うに定っている。
治安がわるくなれば、君たちの心配している民生のための問題も懸念される。
それに、華北の一部と蒙疆にも、一部の駐兵が必要だろう。
もちろん駐兵は防共の名義だが、名義だけではなく、
実際上、防共のための必要から、そういう区域に、
一定期間、駐兵するという日本側の主張は、ぜひ考慮してもらいたい」
と主張した。
梅君は、
「撤兵は原則だということは解るが、例外が多すぎては、原則も変になってしまう。
しかし、君がいう防共のための小さな特定区域の駐兵と、
しかも、一定期間と限るというなら、呑んでよい。
しかし、ちらほら聞いたことだが、日本側は、上海を中心とする長江下流の
『三角地帯』
とかの駐兵を要求しているそうだ。僕は絶対反対だよ」
と、きっぱりいう。
私が、 「『三角地帯』
の駐兵は、海軍が主張しているように聞いているが、
盧溝橋事件以前の原状回復という限度なら、文句はないだろう」
と、
少し譲歩しながら、切り返すと、梅君は、
「そこまで君が譲歩するなら、 『三角地帯』
の問題は、解消したとみてよいね」
とだめを押す。
私は、東京で影佐大佐との話合いで、
陸軍としては、そこまで譲ってもいいとのことを想い出していたので、
「海軍は、まだぶつぶついうかも知れぬが、大局が走れば、これは、折れるだろう。
それで、 『三角地帯』
論議は、ここではもうやめよう」
と答えた。
梅君も私も、少し疲れてきたので、午後六時ごろ、打ち切った。
周隆序君は、徹頭徹尾、忠実、かつ正確に、通訳してくれた。》
つづく
これは メッセージ 1736 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年11月 制令線の撤廃論議1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/29 18:35 投稿番号: [1737 / 2250]
第十軍が杭州湾に上陸し、
第16師団が11月13日に、揚子江の白茆口に上陸してから、
中国軍は完全に退却を始めました。
現在の我々なら、 「よかった、敵が逃げた。戦わなくて済む」
となるですが、
第十軍の上層部は不満だったようです。
児島襄著
『日中戦争4』
161pには
《「上海決戦」
が不発に終り、
期待した
「剿滅戦」
は
「撃退戦」
でしかなく、
しかも、中国軍の雪崩れ風の退却ぶりをみると、もはや
「中支那方面ニ於テ
敵軍主力ヲ捕捉殲滅
スルノ機会ハ
逸シ去リタルモノ」
と、判定されるからであった。
いわば、第十軍の主目標は失われたわけである。
第十軍は、だから、新目標として首都南京をえらび、その占領によって
中国側に
「政戦両略上ノ打撃」
をあたえよう、と決心する。》
とあります。しかし、参謀本部が蘇州 − 嘉興ノ線までという制限を設けています。
これでは、面白くないから、制令線をはずしてくれという話になるわけです。
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
417pより
参謀本部作戦課では、十一月十五日、情勢判断を行い、
制令線を変える必要はないと判決しました。
しかし第一部長下村定少将は、
「この際、戦機をとらえて制令線をいっせいに今一押し出て強圧を加えたらどうか」
と
作戦課に研究を命じたのです。
結局、河辺作戦課長が上海に赴き、現地の実情を確かめてからとなりました。
児島襄著
『日中戦争』
161〜162p
《上海では、中支那方面軍司令官松井大将、参謀長塚田少将、参謀副長武藤大佐の
いずれもが上海派遣軍の疲労を指摘し、ひきつづいての進撃作戦は困難だ、
と説明・・・だが、第十軍はまだ疲れていない。
・・・
第十軍もふくめて中支那方面軍が制令線内で日をすごしたら、どうなるか。
北支那方面軍も、ようやく太原を攻略 (十一月八日) したが、
待機の態勢をとっている。全日本軍が腰をすえるのは、
そのまま中国軍に戦力回復の時間を贈与するだけではないのか。・・・
つづく
これは メッセージ 1735 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年8月30日 松本・梅思平会談
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/28 18:44 投稿番号: [1736 / 2250]
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
307〜309p
《 翌八月三十日午後三時、梅君が予約してくれたグロスターハウス・ホテルの
部屋に行き、梅君、周君と、すぐ本論に入った。
まず梅君から発言し、
「僕を推輓してくれたのは蒋介石であったと昨日も松本君に話したが、
そういう私情はこの際は問題にならない。
日本軍の撤兵の条件として、
日本側が蒋の下野を要求するのは、もっともだとは思うが、
中国側の事情としては、抗日戦争の指導者たる蒋介石の下野を、
日本側が条件として要求すれば、一切の交渉がだめになる。
もし宇垣外相が孔祥熙対手の交渉でそれを持ち出せば、
孔との交渉は、きっと早晩打切りになる。これは間違いがない。
仮に日本側が撤兵を声明し、現実に一部的に撤兵をやったって、
蒋が下野することは、中共が絶対反対になるに定っている。
ふたたび内戦の開始となって、とめどがなくなる。
中国の民生はどうなるか、事実、日中戦争をやっているのに、
また内戦となれば、中国の国民生活の苦しみは、想像を絶することになる。
僕らが和平を唱えるのも、中国の民生を考えるからだ。
内戦での国共の勝敗如何は第二の問題で、第一の問題は民生を保護することにある。
この考え方は、汪兆銘はじめ、周仏海、陶希聖、胡適、張君バイ
(萬+力)
ら、
みんな同じ考え方なのだ。根本は人道問題なのだ。
松本君、中国事情に通じている君にこれが解らんはずはないだろう」と、
論法鋭く詰め寄る。私にも解らぬこともないので、
「日本側の要求としての蒋介石の下野は、固執しない。
その点は、私も日本に行って説得しようが、二つの代案を君に考えてもらいたい。
第一は、蒋の下野は、中国側で措置すること、第二は満州国の承認だ。
第一の点は、撤兵声明を梃子にして中国側の和平運動を大々的に強化する。
そして、結果的には、抗戦継続反対の輿論が強くなれば、
蒋介石が名分を立てて下野し得ることにはならないかという点、
第二には、今まで、日本の政府と国民は、もう七年間も、『日満中の協力』
というスローガンを国策のシンボルと考えてきた。
だから、撤兵の第二の条件として、満州国の承認ということを、
日本側は、きっと主張するに違いない。
蒋介石の本心だって、抗戦の目的は、長城以南の領土的、行政的主権の完整にあるので、
東北四省は、場合によっては、どうでもよいというのではないか」
と論じた。
梅君は、「松本君のいうことは、中国にとって容易ではないが、
われわれにも、その二点は、充分に考慮に値すると思う。
東北四省が、
『赤く』
なってしまえば、われわれにも重大な危険を
感ずる次第だからである。イギリスなんかも、それを心配して、
リース・ロスをして、その点を持ち出させたのだ」
と答えた。》
つづく
これは メッセージ 1734 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年11月 上海での手榴弾テロ
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/28 18:30 投稿番号: [1735 / 2250]
上海を包囲していた、中国軍の脅威は大体取り除かれました。
しかし、まだ、安心はできません。
中国が和平を拒絶しているからです。
それに租界にはテロリストが潜伏しています。
塚本誠著
『ある情報将校の記録』
224〜225p
《 戦線が上海から西へ遠ざかっていった十一月中旬のある日、
軍はわが威武を上海市民に誇示すべく、
上海周辺の諸兵種の部隊から混成一旅団を編成、
共同租界内で示威行進を行なうことになった。
行進順路は、ゼスフィルド公園を発起点とし、
アペニン路
(共同租界とフランス租界の境界線)
から虞洽郷路
(ユーヤチンロ)
と
南京路の交叉点
(競馬場東側)
を右折し、
上海の銀座通りともいうべき南京路を東進して北四川路に抜けるのである。
上海憲兵隊は五十嵐隊長以下が行進の警戒に当たった。
行進部隊は意気揚々、先頭の軍楽隊、各隊の喇叭手を先頭に行進するのだが、
両側の店舗は悉く鉄扉を閉じ、ビルの窓はすべてカーテンをおろし、
路上には中国人の影はまったくない。
日頃雑踏を極める南京路が死の街と化しているのは、中国民衆の無言の抵抗である。
部隊の最後尾が南京路の永安、新々両デパートの前にさしかかった時、
突然最後の部隊に向かって一人の中国人が手榴弾を投げつけ、
兵士が一名傷をうけて倒れた。
犯人は工部局巡警の手で直ちに処置され、
行進部隊は最後尾の中隊だけを残して行進を続けていった。
この時、私は部隊の最後尾を前進していたので、直ちに部下に現場検証を命じ、
軍渉外部長深堀中佐
(28期)
と共に最寄りの店先のベンチに腰を下した。
そこへ真先に駈けつけて来たのが同盟通信の記者堀口瑞典君である。
その時、米軍の警備司令官が革の鞭を手にして単身やって来て、
抗議めいた態度で深堀中佐に話しかけるが、中佐は黙ったままである。
堀口君が私に、
「南京路と虞洽郷路の交叉点に日本軍が米軍警備地区へ銃口を向けて
軽機関銃を据えているのは怪しからんといっているのだ」
と説明したので私がその旨を中佐に伝えると同時に、米軍司令官に日本語で
「わかった。悪かった」
というと堀口君が直ぐに通訳してくれた。
彼は、 「オーケー」
と私に笑顔を見せて立ち去った。》
これは メッセージ 1733 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年8月29日 松本・梅思平会談
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/27 18:51 投稿番号: [1734 / 2250]
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
306〜307p
《 八月二十九日から、五回にわたって会談した。
初めは香港ホテルで始めたが、最初二、三回ぐらいで済むと思ったが、
梅君は、なかなかの論客で、しかもネタを少しずつ出すという態度であり、
おまけに、通訳入りなので、話が進まず、結局、五回になってしまった。
終ったのは九月三日の土曜日であった。
汪派であり外交部科長の周陸庠君が終始通訳をやってくれた。
日本語がすごく巧いうえ、人柄もよかった。
私は、第一回の会談では、まず梅君がどういう人物であるかを確かめる必要が
あったので、冗談をいったり、私の身の上話などをしたら、
彼も、だんだんほぐれて、彼の身の上話や、得意の江寧県の模範県長時代の話をしたが、
おかげで借金が出来てしまったこと、しかし、そのため蒋介石に認められたこと、
それから、周仏海とは、CC団の同志であり、
陥落以前から南京で和平問題を談じ合ってきたことなどを、率直に話してくれた。
そんなことで、ずいぶん時間が要ったが、別れる前に、私が、
和平運動の成否は撤兵にあり、撤兵のためには、日本側としては
蒋介石の下野が必要だと、簡潔に話すと、
梅君は、急に真剣になり、「松本君のいうとおり、撤兵は和平運動の要であるが、
蒋の下野を日本側が要求するというかたちはまずい」
と、言下に断言しながら、
次回は、その間題からゆっくり話そうといった。
そして、あとをつけられるといけないから、
明日はグロスターハウス・ホテルにしようと提案したので、承知した。
しかし、私は疲れやすいので、ランチのあと、ちょっと午睡
(ひるね)
をしてから
毎回午後三時としようと頼み、梅君も諒解してくれた。》
つづく
これは メッセージ 1728 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年 体験談4 敵傷病兵に施薬
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/27 18:45 投稿番号: [1733 / 2250]
これは、体験談3における座談会の続きなので、H上等兵の所属は、たぶん、
歩兵第四十七連隊
(大分)
第三大隊第十二中隊と思われます。
東中野修道
編著
『1937南京攻略戦の真実』
小学館文庫
164〜166p
《 H上等兵
黄浦江で汽船や帆船を見、ホーこんなところにも船がと感嘆の声を洩らして
なお前進し、河に面した村落で露営することになりました。
早速好きな食べ物はないかと永田上等兵と二人で行きますと、
家の陰に一人の男がうずくまって苦しそうに喘
(あえ)
いでいます。
すかしてみると敵兵です。
しばらく佇
(たたず)
んで様子を見ていますと、
負傷でもないが如何
(いか)
にも苦しそうです。
起こして調べてみますと何も持っていません。
そして世の終わりのような顔つきで腹を指さし、ウンウン唸
(うな)
ります。
可哀相でしたので連れてかえり、クレオソートを飲ませて部屋の隅にねせておきました。
一晩中厠
(かわや)
に往復してはヒイヒイ年甲斐もなく泣いていました。
おかげでおちおち眠れもしませんでした。
翌日は共に退
(ひ)
いて歩けんと思いましたので、
分隊全員で病に斃
(たお)
れた敵兵に贈る義捐金
(ぎえんきん)
を募り、
少ない糧秣
(りょうまつ)
を分けるとか、
後からくる友軍に依頼状を書いてやるとかしましたら、
すっかり感激して慟哭
(どうこく)していました。
敵傷兵に施薬−歩兵第四十七連隊(大分)
第二中隊
伍長
S・S
敵の大軍は、我が軍のために完全に撃破されました。
見れば幾十となく敵の死体が転がつております。
中にはまだ虫の息で唸っておる者さえおります。これを見られた隊長が、
「苦しいか、今、薬をやるぞ」
と何かやられますと、一兵士は目を開けて、
「冷水、冷水」
と、かすれた声で哀願しました。誰かが水を飲ませてやりますと、
両手を合わせ涙をたたえ、 「謝、謝」
と伏し拝みました。
これは青浦城陥落直後の話ですが、今までに我が中隊では幾十人となく、
敵兵を救い、郷里に帰してやりました。
その中には中隊のために骨身を惜しまず、弾丸下もものともせず、
実に勇敢によく働いた者も沢山あります。
そして彼らが故里に送り帰される時は別れを惜しんで泣いて別れるのでした。
謝々と
別れを惜しむ
村はづれ》
*
日本兵は捕虜を虐殺したかのように言われていますが、
実は義捐金
(ぎえんきん)
まで募って援けていたんですね。
地震災害や津波災害でなく、戦って斃れた敵兵にまで。
これを虐殺にすり替えられ、それを信じる日本人はバカですね。
これは メッセージ 1731 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年8月28日 日本軍初めて特殊煙使用
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/26 18:51 投稿番号: [1732 / 2250]
日本軍は漢口攻略戦に於いて特殊煙を使用しました。
児島襄著
『日中戦争5』
文春文庫
33p
《 八月二十八日、第二軍方面では、第十師団第三十九連隊が六安を攻略した。
第三十九連隊にとっては、徐州戦いらいの戦闘であったが、
第一大隊が午後五時十二分に南門から突入し、次いで第三大隊が西門を占領した。
中国軍守備隊は、大部分が西門から退却ずみであったが、なお少数の残兵が
門内の民家を拠点にして抵抗した。
第三大隊は、 「特殊煙
(毒ガス)
ヲ使用シテ撃滅」
した。
第三十九連隊の損害は戦死四人、負傷三十人であった。
第十一軍第百六師団の戦場でも、翌日、八月二十九日、凱歌があがった。》
*
ここで、毒ガスとありますが、日本軍が使ったものは、催涙ガスとか
クシャミ剤で、イペリットガスのようなものではありません。
*
捕捉、昭和14
(1939)
年になって初めて、
黄剤
(イペリットなどのビラン性ガス)
の使用が検討されます。
《 大陸指第四五二号
指示
大陸命第二百四十一号に基き左の如く指示す
一
北支那方面軍司令官は
現占拠地域内の作戦に方
(あた)
り
黄剤等の特種資材を使用し其作戦上の価値を研究すへし
二、右研究は左の範囲に於て実施するものとす
イ
事実の秘匿に関しては万般の処置を講す
特に第三国人に対する被害を絶無ならしむると共に
彼等に秘匿することに関し遺憾なからしむ
ロ
支那軍隊以外の一般支那人に対する被害は極力少なからしむ
ハ
実施は山西省内の僻地
(へきち)
に於て秘匿の為に便利なる
局地に限定し試験研究の目的を達する最小限とす
ニ
雨下は之を行はす
昭和十四年五月十三日
参謀総長
載仁親王
北支那方面軍司令官
杉山元殿
(『毒ガス戦関係資料Ⅱ』P258)》
*
ここでは外国人はもちろん、一般支那人にも被害を極力少なくしろと言っています。
無差別使用の指令ではありません。
これは メッセージ 1706 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年 体験談3 七百名の敵を捕らえる2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/26 18:40 投稿番号: [1731 / 2250]
黄浦江付近まで−歩兵第四十七連隊
(大分)
第三大隊第十二中隊座談会より
A軍曹
松江を朝の七時頃出発しました。
横光分隊が路上斥候となり、部隊の一五〇メートル前方を前進、
その後に車両部隊が続行、その車両の間に二個分隊を適当の間隔に配置して、
一個分隊が後方警戒に当たりました。
道の曲がり角のところで、向こうから十名ばかり白旗をかかげてくるのに出逢いました。
斥候よりの報告がないので、小隊長殿が駆けつけて見られますと、
どうやら降伏してきたらしいのです。
都合のいいことには小隊の坂部上等兵が少し支那語が話せるので、
訊ねさせてみますと、向こうの部落に同僚が七百名ばかりいて、
みんな降伏したいと言っているとのことです。
七百名 − 一寸
(ちょっと)
想像のつかない話です。
それに自分達は一個小隊
(約七十名)、車両部隊なんて戦闘力は無いも同じです。
敵に抗戦の意志があるとすれば、これは大変なことです。
それでこちらは慎重にかまえ、二個分隊で武装解除に当たり、
他は全部戦闘隊形をとらせられました。
二十三連隊の大隊砲も通り合わせましたので、これにも陣地進入をしてもらい、
降伏兵がくるのを待ちました。
そうして待っている間に、崑山から帰りの軍参謀や軍属の方もこられて、
やがて、向こうから長蛇の列をなして、こちらにくる支那軍を迎えました。
皆逞
(たくま)
しい顔つきをしている、
無表情な彼らの神経に隠されているのが何だろうかと一寸たじろぎもしましたが、
虎穴に入らずんば虎児を得ず、と武装解除をさせ、軍属にたのみ前進しました。
そのときびっくりしたのは彼らの持っていた書類の中に、
出征当時の六師団の中隊長以上の名が全部載っていたことです。
∪曹長
あれは実際特ダネだった。
くるもきたり七百名の降伏兵を見たとき、私はもう、戦争はじき済むと思いました。
奴らも今頃は皇軍の協力者として、新支那へ力強い生命を吹き込んでいることでしょう。》
*
この人達は、捕まえた捕虜が
「今頃は皇軍の協力者として、新支那へ力強い生命を吹き込んでいることでしょう。」
と言っています。
後世の人の言う大虐殺など、この人たちにとっては想像もつかない話でしょう。
これは メッセージ 1729 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年8月28日 松本氏神尾氏と情報交換
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/25 19:00 投稿番号: [1730 / 2250]
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
305〜306p
《 二十八日は日曜。また松代君に電話をかけ、
雨が上ったら神尾氏とゴルフでもやり、
神尾氏と久しぶりに晩餐をいっしょにしたいと申し入れた。
神尾氏はOK、 「正金」
支店長の有吉さんが、余分のゴルフ・セットをもってくるから、
九竜のコースで午後一時からゴルフができる由、十時ごろ晴天となったので、
午後、神尾・有吉組と松本・松代組と一ラウンドをやった。
勝敗は憶えていなかったが、神尾氏の日記によると、
私らのほうが勝った由
(同上、七二ページ参照)。
晩めしは、神尾氏と二人だけでゆっくり話し合った。
神尾氏は、宇垣 − 孔祥熙、張群を背景とする
張季鸞 − 緒方を背景とする
神尾の二つのチャンネルが出来つつあると確認してくれた。
そして、緒方氏は近衛・宇垣両氏と連絡を保っていることも私には判った。
それだけ打ち明けてくれたので、私も、高宗武の東京行きのこと、
高君が多田・杉山・岩永三氏らに会ったことを、あらかた話をした。
神尾氏から、
張季鸞が、日本が相手とすべきは、絶対に蒋介石であると主張していること、
神尾氏と喬輔三との接触は喬君の家庭ぐるみの交際なので、
旅に出ている自分(神尾)は温かい歓待を嬉しく思っていることなどを聞いた。
私は、喬輔三はよい人物だが、大任を果せる力量は疑わしく、
おそらく、孔のメッセンジャーだけだろうということ、
中村総領事はまじめな能吏ではあるが、外交官の通弊で、
中国との接触を独占的に考える傾向があるだろうこと、
喬輔三相手なら、機略のある外交交渉はおぼつかないのではないか、
ということなどを、神尾さんに率直に話した。
神尾さんは、「松本君のいうことは、いろいろ思い当ることがある」
といっていた。
話し合った結果、お互いに秘密を守りながらできるだけ協力しようと約束し合った
(神尾氏同上、七二−七三ページ参照)。
神尾氏との会談には、二人で、緒方・岩永の両先輩の
日中関係への関心のあることなども出て、非常に愉(たの) しかった。》
これは メッセージ 1728 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年 体験談3 七百名の敵を捕らえる1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/25 18:51 投稿番号: [1729 / 2250]
東中野修道
編著
『1937南京攻略戦の真実』
小学館文庫
162〜164p
七百名の敵を捕らえる − 歩兵第四十七連隊(大分)
七本部
H軍曹
《 杭州湾に上陸して連隊本部付きで、一線中隊は各二百発ずつ弾薬を携行し、
自分は後の弾薬を海月庵に集め、大隊小行李
(しょうこうり)
を纏
(まと)
めて
一線へと十日出発しました。
十三日に松江
(しょうこう)
に到着して、それから二里半ばかりのところで
一本道路でしたが、前方に支那人が沢山いました。
このとき自分たちの兵力は、十二中隊が分散兵を集合せしめて約一ケ小隊、
小銃が四十挺
(ちょう)
ぐらいでしたが、クリークの岸に戦闘準備をしました。
すると、敵の将校らしいのが、前方二町ぐらいの所で止まりました。
それでこちらも前進しましたが、敵には全然戦闘意志はなく、
チェッコ九、小銃百三十、モーゼル三を持った敵が、
道路の両側にズラリと集まりました。
七百名ぐらいおりましたが、早速まず武装解除をさせました。
小銃には全部装填 (そうてん) してありました。
〝これだけの人員が、それに比較して殆ど戦闘力のない我々に向かってくれば、
ひとたまりもなかったのに〟 と後でホーッとしたことでありました。
これらの兵器は輜重
(しちょう)
兵に持たせました。
注
:
チェッコとはチェコスロバキア製の機関銃の事。
つづく
これは メッセージ 1727 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年8月27日 松本氏香港で高宗武と会う
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/24 15:33 投稿番号: [1728 / 2250]
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
304〜305p
《 私は八月二十五日に上海を白山丸で発ち、二十七日朝、香港に到着した。
香港ホテルに投宿してから、高君を訪ねた。
彼は、だいぶんよくなったが、寝たり起きたりの容態であった。
朝粥をいっしょに食べながら、少し話し出すと、高君が
「シゲちゃん、僕の健康は今のところ東西に奔走するわけにはゆかぬ。
『仏』
との相談で、梅思平という人物を身替りにするから、
和平運動の諸案件を、彼ととくと相談してくれないか」
と、
突然の話で、私は少なからず当惑した。
「どこの馬の骨だか判らぬ男と、僕には話はできんね」
というと、
高君が、 「梅君は、『仏』
といっしょにもう半年以上も、和平問題を考えてきた人だ。
『仏』
が折紙つきの推薦をするのだから、君も我慢して、交渉をやってくれ」
と、
しきりに頼む。 「では、梅君とやらと話合いを続けるが、
まとまったところを、君に報告することにしよう。
明二十八日は日曜だから、二十九日からやろうと梅君に伝えてくれ」
と、
しぶしぶながら私も承諾した。
高君の宅を辞してから、神尾茂氏宛の緒方竹虎氏の親展書簡を頼まれているので、
神尾氏を訪ね、緒方書簡を手渡した
(神尾茂
『香港日記』
六八〜六九ページ参照)。
夜は、松代支局長と支局員一同と、中華料理を食べつつ懇談した。
その際、松代君から、神尾氏と張季鸞が会っていること、
宇垣外相が孔祥熙を対手に直接交渉を計画しているが、香港での窓口は、
日本側は中村総領事、中国側は孔の秘書喬輔三であることを知った。
ほかに矢田七太郎氏が香港にいることも判った。》
注
『仏』
とは周仏海の事
これは メッセージ 1726 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年 体験談2 唐子浜で捕らえた姑娘2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/24 15:24 投稿番号: [1727 / 2250]
東中野修道
編著
『1937南京攻略戦の真実』
小学館文庫
191〜192p
《 いろいろ調べられるけれども臭いところは無いらしい。
ちょうど中隊に通訳がいなくて、何かと不自由していたこととて、
通訳代わりに使うことにしましたが、
炊事をさせると日本人の味の好みを心得て、乙なところを見せる。
所帯馴れしているから、兵隊にほどよく愛矯をふりまく。
姉さん、おっかさん、婆さん、好みの愛称をつけて、皆で大切にしたものです。
ときには宵待草や荒城の月を聞かせてくれました。
毎日の行軍も宿営も楽しみでした。
和気藹々
(わきあいあい)
として夕方の団欒
(だんらん)
の
紅一点、和やかなものです。
しかし相手は柳腰
(りゅうよう)
の支那女性、南京へ南京への猛迫撃に、
我々に伍
(ご)
して行ける筈がない。
中隊長殿が見かねて上海の方へ帰されたが、
その日の行軍のけだるいこと、道の遠いこと、足の重いこと、
皆、考えこんでしまっていました。
昨日までは中隊の先頭に婀娜
(なまめかしい)
しい奴が、
颯爽
(さっそう)
と秋風に吹かれながら、中支の荒野を馳けっていた。
「おいきついなあ」 「うん」
返事も上っすべり。誰かが思い出し風に、
「変なこと言いっこなしよ、皆兄弟じゃないか」
と彼女の口真似をすれば、とたんに爆笑が湧くが、
またもとのむっちりした重苦しい空気に帰る。
それに耐えかねた兵が
「宵待草のやるせなさ」、彼女の得意な歌だ。
翌日からはまたもとの何もなかったようになって、
一路南京へと、ほとんど小走りで行きました。
陣中の紅一点、あの日のあのときのことどもが未だに思い出に残っています。》
つづく
これは メッセージ 1725 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年8月 松本重治氏、高宗武を見舞う
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/23 15:26 投稿番号: [1726 / 2250]
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
304p
《 八月十日ごろであったか、突然、高君から電話があった。
「楊樹浦の病院から電話しているのだが、一度会いたい」
との話で、
すぐ飛んで行って、高君を見舞った。
様子を聞くと、上海に帰ってから喀血したらしい。
もう二週間も絶対安静をしてきたが、まだ数日は安静にしていなければならないという。
いっしょに病院食を食べながら、高君をできるだけ元気づけるように努めた。
二、三日経って、また病院に行くと、だいぶんよくなったので、
一両日中に香港へ船で行くという話だ。
話をしているうちに、
六月、香港で、彼が蒋・汪両者の間に、如何に行動すべきかについて
苦心しているといったが、いまだに同じ問題に煩悶しているのだと判断できた。
それに関連して、日本への信頼の問題もあったようだ。
別れる前に、高君から、私に八月下旬にぜひ香港に来てくれとの頼みがあった。》
塚本誠著
『ある情報将校の記録』
中公文庫
266p
《 高宗武の離日後この動きが進展をみせないので、
高宗武の計画は蹉跌したのではないか、と影佐さんは心を痛めていた。
しかし、後になってわかったのだが
高は香港に帰ってから病気で動けなかったのである。》
*
塚本氏は
「高は香港に帰ってから病気で動けなかった」
と
言っているが、これは彼の勘違いで、
「高は上海に帰ってから病気で動けなかった」
と言うのが正しい。
楊樹浦は上海でしかも日本の管轄区域だから。
これは メッセージ 1714 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年 体験談2 唐子浜で捕らえた姑娘1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/23 15:15 投稿番号: [1725 / 2250]
東中野修道
編著
『1937南京攻略戦の真実』
小学館文庫
190〜191p
唐子浜で捕らえた姑娘
(クーニャン) −
歩兵第十三連隊
(熊本)
第十一中隊
歩兵曹長
K・S
《 日軍百万上陸のアドバルンが、内地のような感じのする空に揚げられて、
まず敵胆を寒からしめて二日目、
雨にたたかれ、ぐいぐいと肩に食いこむ装具に喘
(あえ)
ぎ、
泥濘
(ぬかるみ)
に膝
(ひざ)
を没し、倒れたりして、
泥人形よろしく金山衛を通り、唐子浜で露営することになりました。
私は半張りの破れかかった軍靴をどたばた言わせつつ、道路の警戒を命ぜられ、
部落の端に行き、何か言いたそうな兵隊の顔を無視して、
わざと命令的に警戒区署を定めていた。
実は私も泣きたいくらいでした。そのときのことです。
特に監視すべき方向はこの方向と道路上を指すと、
指したところに忽然
(こつぜん)
と姑娘が現れて、
窈窕
(ようちょう)
たる姿態が楚々
(そそ)
として、
この方にくるじゃありませんか。
誰だって面喰
(めんくら)
います。
付近は敗残兵も正規軍も、うようよしている。
そこを敵の方からくるんです。〝こやつ、てっきり〇〇〇だ〟
素早く区署を済まし、泥人形は遮蔽
(しゃへい)
には持ってこいと伏せておりました。
身近にきて、兼ねて手筈の通り、私が一人立ち上がって、
通せんぼをして誰何
(すいか)
しますと、
一寸たじろいだ風でしたが、
「日本の兵隊さんね」、流暢な日本語なんです。
また面喰った。兵隊もぞろぞろ集まってくる。
改めて面
(おもて)
を見ると、歳の頃二十七、八、戦禍に災いされたのか、
心持ち擦
(す)
れてはいるが、
明眸皓歯
(めいぼうこうし)
の部類に編入される代物なのです。
聞いて見ると、上海から逃げてきたけれど、皆殺されたり、はぐれたりして、
これは支那軍の方にいると危ないと思い、やってきたという。
「日本語はどこで覚えた」
と聞くと、
「長崎に四年、活水女学校を卒業して、上海の日本人書店に雇われていた」
と言います。
何はともあれ、まずこれへと、久し振りに柔らかい日本語を聞いた感傷も手伝って、
中隊長殿のところに連れて行きました。》
つづく
これは メッセージ 1723 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年 張鼓峯事件と 辻正信
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/22 18:56 投稿番号: [1724 / 2250]
辻正信著
「ノモンハン秘史」
毎日ワンズ
60〜62p
《 昭和十三年の夏、傍受電は満鮮ソの国境に近い張鼓峰
(ちょうこほう)
付近において、ソ連軍の積極的企図を察知させる兆候を伝えた。
この地域は朝鮮軍司令官の防衛任務に含まれている。
他人の疝気
(せんき)
を頭痛に病むのではないが、
地続きの関東軍には放っておけない関係があった。
大越参謀と共に現地を確認する任務を受けて現場に急行した。
朝鮮軍守備隊がよい顔をしないのも当然である。
危険を冒しながら張鼓峰の斜面を登ると、霧で蔽われた山上には
ソ連兵のふるうシャベルの金属音が近くに聞こえる。
彼我の国境は高地の頂上を通過しているが、最高同点を占領し、
満領内の斜面にも溢れ出ていることは疑う余地がない。
しかし、防衛任務を持たない関東軍としては、それ以上の行動は許されない。
見たままの状況を中央部と朝鮮軍に知らせて成り行きを見守っていた。
これほど明瞭な侵犯を、そのまま頬被りすることは、東京もできなかったのだろう。
間もなく、敵を撃攘
(げきじょう)
して国境線を確保する命令が朝鮮軍に下った。
北朝鮮駐屯の第十九師団が応急動員で戦場に駆けつけ、押
(お)
ッ取り刀で
戦線に逐次加入したものの、準備を整え制高の利に拠って待つ
ソ連軍を駆逐するのは容易な業
(わざ)
ではなかった。
約二週間にわたる苦戦で双方共に相当の死傷を生じたが、
戦車と空軍と重砲を惜しみなく注入する敵の強襲で、戦いはいつ果てるとも見えなかった。
この上は関東軍の主力を以て、南下するソ連軍の側面を脅威し、
牽制するほかに良策はない。
植田将軍は東部正面の全軍に応急派兵を下令し、
主力を東寧、綏芬河正面に推進し、いつでも変に応じ得る態勢を整えた。
師団長も兵も天幕内に待機して、進撃命令を待ちながら戦闘訓練に熱中した。
北朝鮮の鉄道要点をソ連機に爆撃せられながらも、我が飛行隊の行動は、
厳しく制限されて戦わねばならぬ。朝鮮軍の苦悩は、察するに余りある。
脚を縛られて喧嘩するような戦いに勝味のあるはずはない。
拡大を望まないのは双方の意志であり、モスクワの交渉開始から停戦命令が
両軍に伝えられ、不首尾の結果を以て局を結んだ。
千数百の死傷者を出した戦場の跡には、依然としてソ連軍が
不法越境の既成事実を確保している。確かに我が負けである。
善後処置として、琿春一帯の防衛任務を関東軍司令官に一任せられ、
朝鮮軍は朝鮮内のみの防衛に切り換えられたのはその翌春であった。
*
辻正信は
「間もなく、敵を撃攘
(げきじょう)
して国境線を確保する
命令が朝鮮軍に下った。」
と言っているが、彼は真実を知らなかった。
天皇がダメだと言っているのに、勝手に攻撃したのだ。
起こった事は仕方ないから、承認されたが、積極的攻撃は、
どんなに悲惨な結果になっても、許可されなかった。
これは メッセージ 1722 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年 体験談1 危うし支那の第五列
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/22 18:45 投稿番号: [1723 / 2250]
ここからは東中野修道
編著
『1937南京攻略戦の真実』
小学館文庫
によっています。
この本は、もともとは靖国神社の偕行文庫にある、昭和15年11月編纂の
『第六師団
転戦実話
南京編』
上下二巻の藁半紙刷り本を
東中野氏が文庫本として出されたものです。
そういうわけで、原本は靖国神社にあるそうです。
ここでは、名前がイニシャルになっていますが、その理由は、
執筆者から掲載の許可を得るため、本人または関係者の連絡先確認に努力したけど、
65年前のことで、戦友会も解散していて、多くの人に連絡できず、
仕方なくイニシャル表記にしたという話です。
この本は戦時中に書かれているため、戦後の思想転向の影響は受けていません。
76〜77p
《危うし支那の第五列
−
歩兵第四十七連隊
(大分)
第二大隊第六中隊
S伍長
上陸してから尖兵
(せんぺい)
小隊として追及に移りました。
金山の街に入りかけたときです。
犬一匹おらんと想像した街から、年の頃二十五六の姑娘
(クーニャン)
が出てきます。
そして私たちを見ても別に逃げようともしないのです。
小隊長殿が呼びにやられて、 「敵はいないか」
と訊
(たず)
ねられると、
「二日前に日本軍が通ったから、誰もおらん」
と答えます。
私たちが
「五師団だろうか」
などと話しながら行こうとしますと、
小隊長殿が、 「待て、警戒を怠るな」
と注意し、
「尖兵擲弾筒
(てきだんとう)
を加え、軽機は木の根で援護」
と命じて行かれました。
そこはちょうど街の入口で、二〇メートルほど左に畠があり、
竹薮
(たけやぶ)
があって、そこに一軒家がありました。
尖兵が街に入り終えた頃、突然その一軒家から猛射してきました。
案の定とすぐ配備につき、擲弾筒を射ちますと、二三べんで動揺しはじめ退却しました
が、すんでのところで中国第五列の餌食になるところでした。》
注:
上陸とは
杭州湾上陸の事
金山とは
金山衛という街のこと
つづく
これは メッセージ 1721 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年 張鼓峯 ソ軍の反撃とその対応
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/21 19:02 投稿番号: [1722 / 2250]
井本熊雄著
『支那事変作戦日誌』
265〜266p
《 第十九師団長の独断攻撃以後の中央部の空気は下記の如くであった。
既に触れた如く中央部においては、ソ連兵が張鼓峯に進出した七月十一日以来、
これに一撃を与えて痛い目を見せ、再び国境侵犯を起さないように引きこませたい
というのがいつわらぬ全般的な希望であった。
しかもせいぜい一ケ中隊程度の小兵力で、その希望は実現できると安易に思いこんでいた。
故に第十九師団長の独断を知り、一応ソ連兵を駆逐した時は、
実際のところよくやったと思ったのが一般の空気であった。
しかしその直後、ソ連の優勢な砲兵と戦車の支援を伴う攻撃が起り、
ソ連空軍の出現により一方的に我方がたたかれ、
豆満江右岸朝鮮の土地に爆撃を受けた際は、大きな衝撃を受けた。
それは全く予期していないことであり、未だかつて例のないことであったが故である。
これに対し我方は、飛行隊、砲兵、戦車の優勢を発揮して
反撃しようという策案は出なかった。
その主たる原因は、紛争を拡大して、
万一対ソ戦争にまで発展したら大へんであることを内心強く感じるに至ったためである。
さらにわが方には、
対ソ優勢を発揮するだけの航空、戦車を集める手持ちがなかったのである。
関東軍の戦力をこの局地に注ぎこめばある程度の力は出せるが、
満洲の周辺に存在するソ軍の航空と機甲の戦力は、わが方の十倍に近い。
地上兵力も三倍位保有している。
関東軍の主体戦力を軽々しく動かすことはできない。
その他朝鮮には、僅少の戦闘隊を主とする一ケ飛行団があるのみ、
支那の戦場にある航空部隊は大部をあげて中支に展開し、漢口作戦に着手している。
そのような内幕でも、まだ八月六日頃までは、第十九師団の健闘で何とかなると思っていた。
ところが八月六日の狙撃二ケ師団基幹の兵力を以てするソ軍の真面目な攻撃以後、
前記の如き戦況下で、わが損害が大きく累加するに及び、
陸軍省にも参謀本部にも漸く憂色が濃くなった。
モスクワでは、外交交渉が七月十五日以来続けられているが、捗々しくない。
陸軍省内では、撤退論が持上って来た。
八月九日になると、わが方は停戦条件として、現在線から
一方的に一キロ後退するという大譲歩案を提出することに参謀本部も同意した。
八月十日、参謀本部第三課
(編制、動員)
長寺田雅雄大佐が、
第一線の戦況視察から帰京して、 「即時撤退論」
を強調した。
この意見は相当強く作用した。
陸軍省は、全面的に寺田意見に同意の模様である。
参謀本部も部長会議等により、首脳部は大体右の意見に傾いた。
夕刻、稲田課長以下在室の作戦課員全部が集って、会議が開かれた。
大部の部員は、挙って今直ちに撤退すべきでないことを強硬に主張した。
現在のるかそるかの分岐点のような土壇場で、
一ふん張りすることなく諦めて後退することは、
第一線の士気を崩壊させ、日本陸軍の伝統に拭い難い汚点を残す。
それに反しソ連軍に対しては、絶対的な戦勝感と優越感を与え、
この事件類似の紛争は頻発するかも知れない。
一方、モスクワでは今夜にでも停戦協定が成立しないと誰が断言し得るか。
皆な退却を主張する時こそ、もう一ふん張りする時である、
という言わば原則論であった。
結局稲田課長の裁決は、もう一晩考えようということになった。
図らずもわれわれが右の論議をしている頃、
モスクワでは重光大使とリトヴィノフ外相との間に停戦協定が成立し、
明十一日それを実現することになったのであった。
しかも、わが方が現在地より一キロ後退するという提案を、
ソ側からの提案で、それには及ばぬ、双方現在地点にて停戦しよう、
ということになった。》
これは メッセージ 1720 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年 焼却・皆殺し命令は本当か?
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/06/21 18:51 投稿番号: [1721 / 2250]
秦郁彦著
『南京事件』
71pに、宮下手記として
《「わが柳川兵団は上陸後、(1)
民家を発見したら全部焼却すること、
(2) 老若男女を問わず人間を見たら射殺せよ」との命令を受けた》
というのがあります。また
《 第6師団歩45連隊長だった竹下義晴氏が、火の始末を注意した所、
部下の大隊長から
「中支を全部焼き払えと軍司令官が言っているのを
新連隊長は知らないのですか」
と反問された》
という話も載っています。
さて、では、こんな命令は本当にあったのでしょうか?
少なくとも、参謀本部は出ていないようです。
杭州湾上陸作戦の出陣の前に、逆の命令を出していますから。
「1660
第十軍への命令と注意」
参照
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552022058&tid=ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfb
faj5doc0a47a4dea47a4ga4a6&sid=552022058&mid=1660また、児島襄著
『日中戦争4』
162pには
《 司令官柳川中将は、独断進撃を発起するにあたって、とくに、この日、
次のような訓示を下達した。
「……窃
(ひそか)
ニ聞ク所ニ拠レバ、 最モ忌ムベキ婦女暴行、
金品強奪ノ犯行二、三ニ止マラズト謂
(い)
フ。
斯
(かく) テハ集団ノ戦績ヲ汚辱シ、 皇軍ノ威武ヲ涜
(けが)
スモノニシテ、
寔
(まこと)
ニ痛嘆ニ堪ヘズ。
隷下将兵克
(よ)
ク自省自戒シ、 軍紀厳正益々士気ヲ振起シ、
各々其ノ任務ニ邁進スベシ」》
とあり、皇軍の名誉を汚すなと訓示しています。尚、児島氏は、この続きに
《 実際には、その種の非行例は数件にとどまっていたが、
実直な性格の柳川中将としては、一例もみすごす気にはなれず、
全軍に戒言したのである。》
と補足しています。
略奪、婦女暴行すら戒めている人が、「皆殺し・焼却命令」を出すでしょうか?
当時の第6師団に従軍していた、毎日新聞の五島広作記者の証言を見てみましょう。
阿羅健一著
『「南京事件」
日本人48人の証言』
小学館文庫
60〜61p
《 五島氏は当時、大阪毎日新聞
(現在の毎日新聞)
の記者として熊本支局に
勤めており、第六師団の北支派遣とともに第六師団に従軍することになった。
だから第六師団の従軍記者であり、南京攻略戦だけでなく、
北支の保定・正定戦、さらに杭州湾上陸作戦にも従軍している。
―
五島さんは第六師団のどの辺で従軍取材していましたか。
「いつも師団司令部にいました。北支に行く時から一緒だったので、
谷師団長にかわいがられまして、作戦会議もみておけ、と
谷中将の命令で藤原武参謀が呼びにくることもありました」
―
崑山前後、軍の方から、中国人は女・子供にかかわらずすべて殺すべし、
という命令があったといいますが……。
「そんなことはありません。私は師団の司令部にいて、
師団長と行動を共にすることが多かったのですが、聞いたことはありません。
東京裁判があってからの作り話ではないでしょうか」
―
第六師団は北支で感状をもらってないから、
中支で残虐行為をやったと言う人もいますが……。
「はじめて聞いた話です。第六師団でそんなことはありませんでした。
先ほどの話同様、谷中将が処刑されてからの作り話でしょう。
戦後、中国の言い分に合わせた話がよく作られています」》
と言っています。
どうも、第六師団長もそのような命令は出していないようです。
次は、杭州湾上陸時の兵隊たちの体験談です。
これは メッセージ 1697 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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