入って中国人に南京事件真相議論しましょう
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1937年12月9日 ラーベの日記1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/19 15:18 投稿番号: [1841 / 2250]
《十二月九日
いまだに米を運ぶ作業が終わらない。
そのうえ、作業中のトラックが一台やられてしまった。
苦力がひとり、片目をなくして病院へ運ばれた。
・・・
ドイツ大使館のシャルフェンベルク、ヒュルター、ローゼンら三人も船に乗って
いるが、もし状況が落ち着けば、今晩会議のために上陸するつもりでいる。
・・・
午後二時、ベイツ、シュペアリング、ミルズ、龍、参謀本部の大佐、
私、のメンバーで、安全区の境界を見回る。
唐将軍が文句をいってきたからだ。
南西の境の丘から、炎と煙に包まれている町のまわり一帯が見える。
作戦上火をつけたのだ。
町じゅうが煙の帯に取り巻かれている。
安全区の南西側に高射砲台がずらっと並んでいるのに気がついた。
そのとき、日本の爆撃機が三機、姿をあらわし、約十メートル前の砲兵隊に
猛烈に砲撃された。われわれはいっせいに地面に身を伏せた。
そのままの姿勢で顔をあげると、高射砲の弾がはっきりみえた。
残念ながらいつも外れていた。いや、幸運にもいつもそれた、というべきか。
とにかく日本は同盟国なのだから。
今にも爆弾が落ちてくるだろうと覚悟していたが、運よく無事だった。
大佐は安全区を縮小しろといってきかないので、私は辞任するといって脅かし、
唐将軍が約束を破ったために難民区が作れなかったと
ヒトラー総統に電報を打つといってやった。
大佐と龍は考えこみ、家へ帰った。》
*
中国は焦土作戦をやっている。
*
ラーベが見た爆撃機は勧告ビラを撒きに来た飛行機かも知れない。
時間的に近い。
これは メッセージ 1831 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1939年1月17日 汪兆銘派への刺客
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/18 16:56 投稿番号: [1840 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
196〜198p
《 刺客の活躍も、めだちはじめた。
まっさきに目標にされたのは、
香港で新聞
『南華日報』
を発行していた林相生である。
一月十七日午後五時ごろ、香港の徳輔路を歩行中の林相生は、
二人の男にハンマーでなぐりかかられ、前頭部を強打されて昏倒した。
生命はとりとめたが、あやうく失明する重傷であった。
アモイでは、汪兆銘の甥・沈次高が拳銃で狙撃され、殺された。
あるいは、この種の
「脅威」
に反応してか、
汪兆銘が夫人、秘書とともに渡欧すべく英、独、仏三カ国のビザを申請している、
との情報が、一月二十四日、駐日ドイツ大使館から外務省につたえられた。
この情報をうらづけるように、このころ、重慶では、米参事官ペックが、
外交部
「高官」から次のような話を聞いた。
「汪兆銘は、蒋介石将軍の特別の指示で旅券を交付された。
これは、将軍の汪兆銘にたいする友情のためと、汪をヨーロッパに旅行させて
日本および日本の傀儡政権との接触の機会を少くさせるためである」
参事官ペックによれば、同
「高官」
は、
汪兆銘が日本占領地に新政権を樹立することはあるまい、と語り、
交通部次長彭学佩も、きっぱりと断言した。
「汪先生には、積極的に日本人と一緒に働く意思はまったく無いはずだ」
ドイツ外務省政治局第八課長H・クノールによれば、
一月二十七日ごろ、広東のドイツ総領事館に、汪兆銘の使者があらわれ、
ドイツ大使館代表と香港で会談したい、と申し入れてきた。
つづいて、二月一日、ハノイのドイツ総領事館を汪兆銘の
「義弟」
なる人物が訪ねた。
「義弟」
は国民政府が混乱しており、蒋介石はソ連の影響下におかれている、
日本軍が重慶を攻撃すれば国民政府は蘭州に移る、
そうすればますます蒋介石はソ連に支配される、と解説した。
「義弟」
は、しきりに、自分が汪兆銘に権限をあたえられていることを強調し、
香港に行った帰途に再訪する、と述べた。
この
「義弟」
のハノイ・ドイツ総領事館訪問は、
明らかに外遊のためのビザの申請のためではなく、
日本との和平交渉の仲介または支持の要請とみられた。
・・・・
汪兆銘はドイツからも
「袖」
にされ、刺客の足音にもおびえざるを得ない。
汪兆銘は、ハノイ郊外のホテルから市内コロン街二十七号の家屋に移ったが、
門扉を鉄製にかえ、息をひそめた日常をおくった。
和平救国の指導者というよりは、戦々兢々の亡命者の雰囲気である……。》
これは メッセージ 1834 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年12月8日 和平案検討会議
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/18 16:47 投稿番号: [1839 / 2250]
前日のディルクセン独逸大使よりの和平仲介の話を受けて、
和平条件についての検討会議が行われました。
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
460p
《 陸軍では、八日、大臣官邸で参謀次長を加えて会議を開いたが
「蒋ハ
反省ノ色
見エサルモノト認ム、
将来
反省シ来レハ
兎ニ角、
現在ノ様ナ態度ニテハ
応セラレス、
併 (しか) シ
独逸大使迄ニハ
新情勢ニ応スル
態度条件ヲ
一応渡シテ置ク必要アリ、
大臣ハ海相、 首相ト会見シ 、一応拒絶シ
蒋ノ反省ヲ促シ
時ヲオキテ
独大使ニ
当方ノ考ヘアル
条件ヲ提示スル」
ことに決めた。
注
七〜九日の連日開かれた四相会議の結果、
ドイツの仲介を受諾して話を進めることを申し合わせ、
次いで新たにディルクセン大使に内示する和平条件を、
陸海外三省事務当局で協議することになったようである。》
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
462p
《 十二月一日に、参謀本部案から、陸軍省の同意を得て大本営陸軍部案となった、
「和平交渉条件の改訂案」
は十二月八日、陸軍省が部外との折衝のために、
「多少ノ衣ヲ着セ」
「支那事変処理要綱案」
と称した。
・・・・
八日、省部関係者は、先に大本営陸軍部案とした
「支那事変解決処理方針」
案を
再検討し、九日、これを軍司令部に内示して意見を求めた。
軍令部は
「修正ヲ要スル点
無キニ非サルモ
大綱ニ於テ
之ヲ基礎トシ
差支へナキ
モノト認ム」
という見解であった。》
注
九日のところで、最初に軍司令部とあり、次に軍令部とありますが、
これは原文がそうなっているのであって、私の間違いではありません。
たぶん
「軍司令部」
は
「軍令部」
の間違いと思いますが、
一応原文のままにしておきます。
これは メッセージ 1820 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1939年1月17日 防共協定に満州国も参加
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/17 18:39 投稿番号: [1838 / 2250]
〔昭和14年1月17日
東京日日(夕刊)〕
〔新京本社特電十六日発〕
ハンガリーの防共枢軸参加に呼応して、
満洲帝国政府は十六日午後二時より国務院会議を開き、
日満共同防衛の本義に則り画期的な防共協定参加の廟議を決定、
直ちに日、独、伊の三国に通達するとともに、
張国務総理大臣談話の形式をもってこの旨、左のごとく中外に闡明
(せんめい)
した。
(国務総理大臣談)
わが国は建国以来日本帝国との共同防衛の盟約により、
不撓
(ふとう)
の決意をもって防共の第一線に立ちて活躍し来たれるところ、
更に防共の完璧を期するため防共協定に正式参加するを適当と認め、
これが機運の醸成に努め来たれるが、
今回いよいよ現防共協定締結国側の勧誘に応じ、
これら諸国との間に具体的交渉を行い、右実現を期することとせり。
〔新京本社特電十六日発〕
満洲国は日本と一徳一心、防共の精神に堅く結びつけられているのみならず、
独伊の満洲国承認によって防共の理念を一にするにいたり、
昨年五月以来日本政府を通じて防共協定加盟につき
非公式に協定国の内意を打診しつつあったところ、
ハンガリーの満洲国承認をはじめ最近における国際情勢の転換と
防共枢軸の強化に伴い、いよいよ協定加入の最高方針を樹立し、
現協定締約国側の勧誘に応じ具体的交渉を行うこととなったもので、
参議府会議通過後、直ちに御批准を経て加盟国側としての調印をするはずである。
これは メッセージ 1836 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年12月8日 海軍の揚子江啓開作戦
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/17 18:32 投稿番号: [1837 / 2250]
戦史叢書
『中国方面海軍作戦1』
462〜463p
《 長谷川長官水路啓開を督励
八日
05:30、 「保津、勢多、比良、鳥羽」
は配備に就き、
陸軍部隊は予定どおり
07:00
渡河作戦を終了した。
09:22、 長谷川長官は近藤指揮官に
「第一警戒部隊ハ
速(すみや) カニ
南京ニ至ル
水路ヲ啓開スベシ」
と命令した。
各隊の掃海状況(八日)
第二掃海隊はクーパーバンク西方から更に西方の水路を掃海した。
10:50
スリーツリー北方設標中の天塩丸は前方江上に
管制機雷の爆発二条を認めたので、
敵トーチカ
(龍潭港南西岸と推定)
を砲撃した。
同隊は
19:00
まで北水道南方水路を掃海し、
巫山弧山の連結線以東の福姜沙北岸水路の掃海を完了した。
江陰下流の閉塞線は一部啓開されていたとはいえ清掃未済であったので、
第一掃海隊はまず閘門を掃海突破後、
その上流付近の主隊泊地を掃海すべき旨命ぜられた。
同隊は天明時行動を開始した。
閘門江底に障幸物多数あり、掃海索を切断すること四回に及び、
ようやく閘門上流入口までの掃海を完了した。
10:00
から同隊は旗艦安宅の前路を掃海して嚮導
(きょうどう)
し、
10:50
終了、引続き前命令による泊地掃海を実施し、 14:15
ころこれを終了した。
田村一掃司令は
「泊地附近一帯ノ
掃海終了後、
一掃、江風、比良、勢多ヲ指揮シ
江陰ヨリ
三江営迄ノ
水路啓開ニ任ズベシ」
との命令を受け勢多を前衛兼嚮導艦、江風、比良を後衛兼機雷処分艦として、
それぞれ前方八〇〇米及び後方一、二〇〇米に占位させ、16:08
八掃海具を投入、
進撃を開始し、同時に神川丸艦長に、飛行機による警戒を依頼した。
頭★ (土+于)
港、九★ (土+于)
港、青龍港、連成洲北岸敵陣地
及び密集部隊から射撃を受けたが、
その都度これを反撃撃破し進撃を続行、 18:28
天申橋下流に警泊した。》
注
嚮導 :
キョウドウ
道案内すること。
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1939年1月13日 防共協定にハンガリー参加
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/16 18:38 投稿番号: [1836 / 2250]
〔昭和14年1月15日
東京日日(夕刊)〕
日、独、伊の招請を受諾
〔ブダペスト本社特電十三日発〕
ハンガリー外相チャーキー伯は
十三日午後一時三十分
(日本時間十三日午後九時三十分)、
松宮帝国公使、ヴィンチ・イタリー公使、エルドマンスドルフ・ドイツ公使と会見し、
ヴィンチ・イタリー公使が一同を代表して
日、独、伊三国がハンガリーの防共協定参加を招請する旨を述べ、
チャーキー外相は参加を応諾した。
〔ブダペスト十三日発同盟〕
ハンガリー政府は十三日、日独伊防共協定に参加する旨正式に声明した。
〔ベルリン本社特電十三日発〕
ドイツ政府筋は十三日、ハンガリーが防共協定に加わったことを確認した。
〔ベルリン十三日発同盟〕
ハンガリー政府は過般来日独伊防共協定参加の交渉を進めていたが、
いよいよ同協定に参加することに決定し、
十三日、ドイツ政府当局より左のごとく発表された。
ハンガリー政府は防共協定参加に関する日、
独、伊三国の招請を受諾した。
注
チャーキー伯の
「伯」
とは
「伯爵」
の事
これは メッセージ 1834 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年12月8日 海軍 陸軍の渡河に協力
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/16 18:31 投稿番号: [1835 / 2250]
海軍
戦史叢書
『中国方面海軍作戦1』
462p
《 江陰を占領した陸軍部隊
(第十三師団歩兵第二十六旅団)
は
八日未明、江陰西方地区から八★
(土+于)
港鎮東方地区に渡河上陸し、
主力は
13:00
ごろ靖江鎮に突入、
一部は天生港鎮付近の砲台を攻撃するに決した。
そこで近藤指揮官は陸軍部隊に対する協力計画を次のように定めた。
一
本職安宅、保津、比良、鳥羽、勢多ヲ率ヰ
陸軍ノ渡河作戦ニ協力ス
安宅ハ機宜行動ス
保津艦長ハ保津、比良、鳥羽、勢多ヲ指揮シ
陸軍部隊揚陸後速ニ
揚陸点上流ニ進出シ
陸軍部隊翼側ノ掩護ニ任ズべシ
右終了後何分ノ令アル迄
八★
(土+于)
港及
江陰桟橋附近ニ
一艦宛ヲ配シ
通信連絡ニ任ゼシムベシ
二
航空部隊ハ
神川丸艦長ノ定ムル所ニ依リ
左ノ如ク行動スベシ
「陸軍揚陸部隊ト
略時ヲ同ジウシテ
天生港鎮
南方江岸ノ
敵陣地ヲ爆撃、
主力部隊
靖江突入前
同地南側
敵陣地ヲ
徹底的爆撃ヲ
ソレゾレ加フベシ」
三
二十四駆逐隊司令ハ
一掃
ヲシテ
06:45発進
泊地附近ヨリ
上流ノ清掃ニ
任ゼシムベシ
四
特別掃海隊ハ
掃海部隊
指揮揮官ノ
定ムル所ニ
依リ
行動
上海派遣軍
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
424p
《 第十三師団の沼田支隊は、八日、揚子江を渡河して靖江を占領し、
じ後一部を残置して、主力は師団主力に追及した。
天谷支隊は、丹陽を経て鎮江に向かい前進し、
鎮江南方の陣地を奪取して、
八日、鎮江に進入し、付近砲台を占領した。》
これは メッセージ 1822 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1939年1月8日 汪兆銘の 「挙兵計画」
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/15 16:20 投稿番号: [1834 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
195〜196p
《 汪兆銘は、一月八日、前年の
「和平提議」
書を公表する一方、
日本側に
「挙兵計画」
をつたえた。
雲南、四川軍を約三〜六カ月間の準備で挙兵にみちびくが、
それまではもっぱら中央軍の約三分の一を抱きこむ工作をおこなう、という。
そして、汪兆銘は、この準備期間中に
「毎月香港貨約三百万元」
の支援と、
長沙、南昌などにたいする日本軍の作戦、重慶空襲を、日本側に要請した。
資金援助はともかく、軍事行動は、日本側にとっては、うけいれられない。
陸軍は、前年の十二月六日、 「昭和十三年秋以降対支処理方策」
を、
次のように決定していた。
「漢口、広東ノ攻略ヲ以テ
武力行使ニ 一期ヲ画シ……当分ノ内……
治安ノ快復ヲ
第一義ニシ……残存抗日勢力ノ 潰滅工作ハ
依然之ヲ続行スルモ、
主トシテ……謀略 及 政略ノ運営ニ俟
(ま)
ツ」
なにがなし、日本の戦争能力は一、二年間が限度だ、という蒋介石の言葉を
裏書きする
「軍事的息切れ」
の表意ともうけとれる表現である。
その意味では、日本側のほうが汪兆銘の
「挙兵工作」
を期待する事情下にある。
参謀本部支那班長今井中佐によれば、汪兆銘側は、
その同調者として軍政部長何応欽をふくむ将領の名前をあげていたが、
動く気配は感得されない。
いや、前述した交通部次長彭学佩は、張道藩、甘乃光、王世杰らとともに、
汪兆銘の腹心とさえみなされる存在であったが、 あとにつづくどころか、
逆に蒋介石の指示を受けて汪兆銘と日本側との離間をはかっている。
刺客の活躍も、めだちはじめた。》
*
重慶爆撃は、この年の5月から始まるが、もしかしたら、
汪兆銘の要請に応じたのかも知れない。
これは メッセージ 1827 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年12月8日 唐生智 舟行を禁止
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/15 16:05 投稿番号: [1833 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
192p
《 この日、日本軍は、北東から第十六師団、東から第九師団、
南から第百十四、第六師団が南京にせまり、さらに北に第十三師団、
南西に国崎支隊と第十八師団がすすんで、包囲をいそいでいた。
南京の首都衛戍司令官唐生智は、
第六十六軍
(第一五九師、第一六〇師)、第百三師、
第百十二師を南京城内に呼びもどし、
第九師団正面に第七十一軍
(第八十七師)
を増強するなどの措置をとったが、
同時に、正午すぎからは舟行を禁止した。
将兵の逃散をふせぐためと、
日本軍が蕪湖方面から揚子江沿いに北進しているので、
上流への航行が危険とみなされたからである。
・・・・》
これは メッセージ 1831 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1939年1月4日 近衛内閣総辞職
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/14 16:46 投稿番号: [1832 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
193〜194p
《 汪兆銘はドイツからも
「袖」
にされ、刺客の足音にもおびえざるを得ない。
近衛内閣が総辞職した。
かねて閣内の不統一をさそっていた日独伊三国同盟問題、
総動員法第十一条
(株主への配当制限)
問題が、直接の誘因であった。
翌日には、平沼騏一郎内閣が誕生し、
平沼首相は対中国政策が不変であることを、声明した。
−だが、
こと汪兆銘にかんしては、その
「脱出」
をさそった形の近衛首相の退陣、
それも
「脱出」
直後の退陣が、
汪工作の
「気をぬく」
効果をあたえたことは、否定できない。
「近衛も怪しからんやっちゃな。汪さんのような中国の元老を
ハノイにまで引きだしておいて、自分はさっさと辞めるとは
−
国際信義も何もあったものじゃないな」
陸軍省軍務課長影佐大佐は、そう、逓信省参与犬養健にぼやいたものである。
蒋介石は、喜んだ。
近衛首相の退陣は、そのまま日本側の和平工作の根の浅さを告げるものであり、
汪兆銘の動揺も当然に予期できるからである。
「此為我抗戦最大之収穫……」
蒋介石は、国防最高委員会の設置をはじめ、
あらためて抗戦態勢の整備にはげむとともに、
汪兆銘にたいしては、なお外遊勧告をつづけながら、
その周辺に刺客を派出してゆさぶりをかけることにした。》
これは メッセージ 1830 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年12月8日ラーベの日記と外国人の移動
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/14 16:38 投稿番号: [1831 / 2250]
十二月八日
《 ずっと行動をともにしてきた馬市長が昨日いなくなり、
われわれ委員会が難民区の行政上の問題や業務を
なにからなにまでやらざるをえなくなったいま、
私は事実上の
「市長代理」
のようなものになったわけだ。
まったくなんてことだ!
何千人もの難民が四方八方から安全区へ詰めかけ、
通りはかつての平和な時よりも活気を帯びている。
貧しい人たちが街をさまよう様子を見ていると泣けてくる。
まだ泊まるところが見つからない家族が、日が暮れていくなか、
この寒空に、家の陰や路上で横になっている。
われわれは全力を挙げて安全区を拡張しているが、
何度も何度も中国軍がくちばしをいれてくる。
いまだに引き揚げないだけではない。それを急いでいるようにもみえないのだ。
城壁の外はぐるりと焼きはらわれ、焼け出された人たちがつぎつぎと送られてくる。
われわれはさぞまぬけに思われていることだろう。
なぜなら、大々的に救援活動をしていながら、少しも実が挙がらないからだ。
外国人のなかにはこういうことをいう人もいる。
中国人の抵抗はどうせただのポーズだ、面子を失わないよう、
形ばかり戦うだけだろう、と。だが私はそうは思わない。
南京防衛軍をひきいる唐が、無分別にも、
兵士はおろか一般市民も犠牲にするのではないかと不安でしかたがない。
両替屋を開くことにした。小銭が足りなくなる。
政府の役人に友人が二人いるので、助けてくれるだろう。
われわれはみなおたがい絶望しかけている。中国軍の司令部にはほとほと手を焼く。
せっかく掲げた安全区の旗をまたもやぜんぶ持っていかれてしまった。
安全区は縮小されることになったというのだ。
大砲や堡塁 (ほうるい) のために予備の場所がいるからだという。どうするんだ?
そうなったら、なにもかも水の泡になってしまうかもしれないじゃないか。
日本にかぎつけられたらおしまいだ。おかまいなしに爆撃するだろう。
そうなったら、安全区どころか場合によっては大変な危険区になってしまう。
明日の朝早く、境界をもう一度調べてみなければ。
こんな汚い手をつかわれるとは……。予想もしていなかった。
すでに十一月二十二日に、ここは国民政府から正式に認められているというのに。》
石田勇治
編集・翻訳
『資料ドイツ外交官の見た南京事件』
5p
《一九三七年一二月八日、ヨーロッパ人は南京を離れて
ジャーディン社のハルク
〔Hulk老朽船のこと〕
へ向かった。
南京城内に残ったヨーロッパ人は総勢わずか二二人 》
これは メッセージ 1816 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1939年1月1日 蒋介石とアチソンの判断
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/13 15:17 投稿番号: [1830 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
193〜194p
《 蒋介石は、翌日の一九三九年元日に中央常務委員会臨時会議を招集することにし、
過去をふりかえって、日誌に記述した。
・・・
戦況については、この一年の間に徐州、開封、広東、武漢の
「四大重鎮」
を
失ったが、日本側にも
「重大打撃」
をあたえ、 「抗戦之自信心理」
を強めた。
「軍事與党
国之危険
最大時期
已経過去……以後
之前途
必得光明矣」
もっとも、同様に年間の回顧をこころみた北京駐在の米公使館二等書記官
G・アチソンの観測は、相違した。
二等書記官アチソンは、既述した各国の中国の戦力判断に訂正の必要はみとめず、
あと
「六〜八カ月」
が継戦の限度だと考え、前途はむしろ
「無明」
とみたのである。
だが、同時に、二等書記官アチソンは、日本側の前途も暗いと判断した。
この一年間、日本軍は予想外に広範囲な苦戦を強制され、 「失望の年」
に終った。
蒋介石政府は和平をもとめず、
日本の傀儡政府は日本軍占領地以外に行政権を行使できない。
中国は、諸外国の援助をうければ戦いつづけるだろうし、
その場合は、日本は
「走るトラにまたがって降りられぬ」
ようなもので、
遠くにすすめばすすむほど、困難が増大するはずである。
日本は、しばしば対中国戦について
「自存自衛のための戦い」
というが、
新年は、その表現の
「真実性」
を明らかにするかもしれない
−
と、二等書記官アチソンは、その報告書の中で
「予測」
した。
そして、その
「予測」
は、意外にはやく現実化するかにみえた。
国民党は、一月一日、汪兆銘の党籍を永遠に剥奪し、
いっさいの公職からも追放する決議をおこなったが、
その三日後、近衛内閣が総辞職した。》
*
アチソンは
《 蒋介石政府は和平をもとめず、・・・
日本は
「走るトラにまたがって降りられぬ」
ようなもの 》
と言っているが、そんな事は、早くから判りきっていること、今更言うまでもない。
戦争を仕掛けた中国が止めない限り、仕掛けられた日本が降りられるわけがない。
しかも、英米ソが、加害者の中国を、かわいそうな被害者であるかのごとく
扱い、援けて、戦争を止めなくさせているのだから。
*
日本の傀儡政府は日本軍占領地以外に行政権を行使できない。
当たり前だろう。
日本は、行政権を行使したくて戦争しているわけではない。
占領地に中国の行政官がいないから、已む無く自治政府にやらせているだけだ。
これは メッセージ 1827 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年12月8日 開城勧告文 の作成
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/13 15:03 投稿番号: [1829 / 2250]
早瀬利之著
『将軍の真実
南京事件
松井石根人物伝』
125〜126pより
《 松井は十二月七日から十五日まで、蘇州の方面軍司令部にいた。
八日、方面軍の幕僚会議の席上、南京政府に対して 「降伏勧告文」 を
撒布 (さんぷ) することを、中山寧人参謀に指示する。
これを受けて中山は、原文を書き、松井に見せたあと、中国語に翻訳させることにした。
しかし、翻訳担当の藤木通訳官は上海留守司令部にいるため、
翻訳の仕事は岡田尚に回された。岡田はすぐに翻訳にとりかかった。
翻訳すると、松井石根方面軍司令官に見せ、検閲を受けた。
了解が出ると、すぐに印刷にかかった。
岡田の記憶では、 「何千枚か、兵により印刷された」
とある。
それを、句容の飛行場から運び、軍用機から南京市内の上空をひと回りして撒布した。
岡田が中国語に翻訳した主文は十六行の短いもので、
最後に
「昭和十二年十二月、大日本陸軍総司令官、松井石根」
としめた。
彼が翻訳した日本文は、こうである。
「日軍百万すでに江南を席捲せり。南京城はまさに包囲の中にあり。
戦局の大勢よりみれば、今後の交戦はただ百害あって一利なし。
惟
(おも)
うに江寧の地は中国の旧都にして民国の首府なり。
明の孝陵、中山陵など古蹟、名勝蝟集
(いしゅう)
し、
さながら東亜文化の精髄の感あり。
日軍は抵抗者に対してはきわめて峻烈にして寛恕せざるも、
無辜
(むこ)
の民衆および敵意なき中国軍隊に対しては寛大をもってし、
これを犯さず、東亜文化に至りては
〔力をつくして〕
これを保護保存するの意あり。
しかして貴軍にして交戦を継続せんとするならば、
南京は勢いかならずや戦禍をまぬかれがたし。
しかして千載の文化を灰燼に帰し、十年の経営はまったく泡末とならん。
よって本司令官は、日本軍を代表して貴軍に勧告す。
すなわち南京城を和平裡に開放し、しかして左記の処置に出でよ。
昭和十二年十二月
大日本陸軍総司令官
松井石根」》
注
寛恕
カンジョ
ひろい心でゆるす。
無辜
ムコ
罪がないこと。
千載
センザイ
千年
これは メッセージ 1826 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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日本民族極悪説−米国製思想ウィルス
投稿者: kiwidream1997 投稿日時: 2012/08/12 23:18 投稿番号: [1828 / 2250]
あなたは、敗戦直後、GHQが日本の武道を禁止したのを知っていますか?
日本人は、敗戦後数年間、柔道、剣道、空手等の武道を出来なかった。
何故だか知っていますか?
それは、GHQが日本人を骨抜きにしたかったからです。
米国は日本人の民族としての誇りを木っ端微塵に抹殺したかったからです。
蛇足乍、GHQとは?
GHQ = General Headquarters = 連合国軍最高司令官総司令部
その最高司令長官がマッカーサー元帥です。
何故、米国は武道を禁止してまで日本人を徹底的に骨抜きにしたかったのか?
理由は、2つ:
1.米国は、正しい、悪いのは日本!
2.日本の独立と再軍備を永遠に阻止!
米国は、ジュネーブ条約違反である絨毯爆撃をして、無辜の日本国民を無差別大量殺戮しました。
決定打が、長崎、広島原子力爆弾投下です。
これは、人類史上稀に見る極悪非道行為です。
米国は何とか自分の非道行為を誤魔化したい。
その為に「米国は、正しい、悪いのは日本!」と言う価値観を定着させる。
そして、再び日本が武装して核を持ち、脅威にならないようにする為です。
よって、日本を永遠に骨抜きにする。
その為にGHQは、日本人贖罪意識植付け作戦を決行しました。。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(War Guilt Information Programme = 戦争罪悪論計画)を参照下さい。
上記は、長い文章ですが、完読願いたい。
重大な内容を含んでいます。
War Guiltとは体裁は良いが、実態はJapanese Guiltです。
つまり、日本人は悪い! と言う思想教育です。
GHQが如何に日本民族極悪ウィルスを浸透させて行ったか、かなり詳細に記されています。
日本人は、GHQの策略通り、自分達を極悪非道の民族だと思い込むようになった。
その為に培養されたのが日本の左翼(一部のマスコミ、一部の政治家、一部の評論家、一部の学者、殆どの労働組合、日教組等)です。
教育現場に左翼思想を持った教員が大勢配置され贖罪意識を子供達に植え付ける。
資本主義陣営に与しながら、左翼を培養し、日本人は悪い民族だと思い込ませる。
勿論、左翼はGHQが撒いて行ったウィルスに感染しているとは露程も知りません。
GHQの思想操作は、実に巧妙で狡猾です。
上記
「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」URLをクリックしますと、中ほどに下記の文章があります;
++Quote
論評など [編集]
『産経新聞』は次のように論じている。
占領期に連合国軍総司令部 (GHQ) が実施した「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」 (ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムと同義)は、今も形を変えて教育現場に生き続けている。
(中略)文芸評論家の江藤淳は著書『閉された言語空間』の中で次のように書いている。
~「いったんこの(GHQの)検閲と宣伝計画の構造が、日本の言論機関と教育体制に定着され、維持されるようになれば、
(中略)日本人のアイデンティティと歴史への信頼は、いつまでも内部崩壊を続け、また同時にいつ何時でも国際的検閲の脅威に曝され得る」~
6年前に自死した江藤の「予言」は、不幸にも現実のものとなろうとしている[25]。
高橋史朗明星大教授は、「東京裁判が倫理的に正当であることを示すとともに、
侵略戦争を行った日本国民の責任を明確にし戦争贖罪意識を植えつけることであり、
いわば日本人への『マインドコントロール計画』だった」と論じている[26]。
Unquote++
敗戦直後の新聞とラジオを使いGHQが執拗に日本人の思想操作行った事がかなり詳細に記載されています。
つまり、敗戦後GHQは、日本民族極悪説を醸造すべく思想ウィルスを巻いた。
日本人極悪民族と言う思想ウィルス。
その思想ウィルスを増長しているのが世界的にも不可思議な生命体、日本の左翼。
日本人であるにも拘わらず一生懸命に反日活動を行う鵺的(ぬえてき)生命体、日本の左翼。
GHQの作戦は大成功した!
日本人は民族としての誇りを完全に失った\xA4
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1938年12月31日 「和平建議」 電の公表
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/12 15:34 投稿番号: [1827 / 2250]
児島襄著 『日中戦争5』
192p
《 十二月三十日、ロンドンの駐英大使郭泰祺が、
汪兆銘を
「来欧暫時休養」
させてはどうか、と献言してきた。
蒋介石は、前述したように、
すでに交通部次長彭学佩を通じて汪兆銘に外遊をすすめている。
汪兆銘の外遊、すなわち、日本の和平工作にたいする肩すかしである。
「明識達見、甚感佩……汪先生……則暫時赴欧休息、
亦足以稍○ (糸+予) 経年之労瘁、且可泯絶敵人造謡之口実……」
蒋介石は、おり返して大使郭泰祺に返電し、
大使からも汪兆銘に外遊を勧告するよう、指示した。
−
ところが、
その翌日、十二月三十一日、汪兆銘の
「和平建議」
電が、公表された。
これまでの汪兆銘の行動は、その見解が公表されない限りは、
いわば
「諫言」
のための離脱であり、一種の内輪もめともみなし得る。
だが、その所見、とくに
「和平建議」
は、 「和平提議」
よりは
明確に近衛声明に呼応する内容であるだけに、
その公表は、蒋介石と国民政府にたいする離反の表意にひとしい。
「是誠
厚顔無恥之極、共通敵売国之罪、至
此已
暴露殆冬矣」
蒋介石は、ぼつ然と怒りの表情をあらわにし、 「中央同志」
と協議して、結論した。
「汪氏逃亡
及
其響応
近衛之通電、是誠利令智昏、自陥絶路、
所謂
自作○ (薛+子) 不可活也」
この日は大晦日である。
晴気慶胤著
『上海テロ工作76号』
毎日新聞社
84p
「日満支の三国は東亜の新しい秩序を建設するために結合して、
互いに善隣友好、共同防共、経済提携の実をあげねばならない。
日本は領土も賠償も求めない。中国の主権は尊重する。
治外法権の撤廃や租界の返還にも協力して中国の独立を完成させたい」
と述べられてあった。
十二月二十九
(31の間違い)
日、汪兆銘の第一次声明が内外に公表され、
香港の同志、陳公博
(汪兆銘の死後、国民政府主席、漢奸として処刑)
は、
南華日報によって活発な宣伝活動をはじめた。
その声明では
「近衛声明は公正な和平条件である。中国政府はこの声明を
交渉の基礎に、日華の国交回復に乗り出すべきである」
と強調した。
これは メッセージ 1823 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年12月7日 南京入城ニ関スル注意2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/12 15:18 投稿番号: [1826 / 2250]
1のつづき
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
427〜428p
《 六
南京入城後ノ処置
(一)
各兵団ニ
地域ヲ指定シテ
警備ニ任セシメ
主力ハ 城外適宜ノ地点ニ
集結ス
(二)
入城式、 合同慰霊祭、 防空部隊ノ推進、 南京警備部隊ノ配備等ノ件
〔略〕
七
南京城ノ攻略
及
入城ニ関スル
注意事項
(一)
皇軍カ
外国ノ首都ニ
入城スルハ
有史以来ノ
盛事ニシテ
永ク竹帛 (ちくはく)
ニ垂ルヘキ
事績タルト
世界ノ斉 (ひと) シク
注目シアル 大事件ナルニ
鑑ミ
正々堂々
将来ノ模範タルヘキ
心組ヲ以テ
各部隊ノ乱入、友軍ノ相撃、不法行為等 絶対ニ
無カラシムルヲ
要ス
(二)
部隊ノ 軍紀風紀ヲ
特ニ厳粛ニシ
支那軍民ヲシテ
皇軍ノ威武ニ
敬仰帰服セシメ
苟 (いやしく) モ名誉ヲ
毀損スルカ如キ
行為ノ
絶無ヲ期スルヲ
要ス
(三)
別ニ示ス要図ニ基キ
外国権益特ニ
外交機関ニハ
絶対ニ 接近セサルハ
固(もと) ヨリ
外交団カ
設定ヲ提議シ
我軍ニ 拒否セラレタル
中立地帯ニハ
必要ノ外立入ヲ禁シ
所要ノ地点ニ 歩哨ヲ配置ス
又
城外ニ於ケル
中山陵其他革命ノ志士ノ墓
及
明孝陵ニハ
立入ルコトヲ禁ス
(四)
入城部隊ハ
師団長カ
特ニ選抜セルモノニシテ
予メ注意事項特ニ
城内外国権益ノ位置等ヲ
徹底セシメ
絶対ニ過誤ナキヲ期シ
要スレハ歩哨ヲ配置ス
(五)
掠奪行為ヲナシ
又
不注意ト雖 (いえども)
火ヲ失スルモノハ
厳罰ニ処ス
軍隊ト同時ニ
多数ノ憲兵、補助憲兵ヲ
入城セシメ
不法行為ヲ
摘発セシム》
*
ここでは、入城は選抜された一部の部隊のみで、他は城外に集結とあります。
なお、 「略奪や不注意による失火といえども厳罰に処す」
と言っております。
つまり、略奪・放火は厳禁という事です。
これは メッセージ 1824 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年12月29日 松本氏辞令で上海を去る
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/11 16:17 投稿番号: [1825 / 2250]
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
315p
《 十二月二十日ごろだったか、本社総務局附の辞令を受けとった。
そのころ、汪兆銘が十八日に重慶を脱出したニューズを知ったが、
それに呼応したと想像できる二十三日の近衛総理の声明に、
「撤兵」
の二字がないことを発見し、
愕然として、和平運動の将来に暗影を感じた。
私は、なお数カ月の療養を必要とする自分の肉体を顧み、
残念至極に思ったが、この際は何もできないと達観した。
二十九日に、私は花子に附き添われて、熱田丸で、懐しの上海をあとにした。
かくして、まる六年間の私の
「上海時代」
は終った。》
*
かくして、松本氏の和平工作は、別人の手に移り、
松本氏が期待した形から、ずれていきます。
これも、運命のなせるわざでしょう。
これは メッセージ 1750 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年12月7日 南京入城ニ関スル注意1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/11 16:11 投稿番号: [1824 / 2250]
12月7日、中支那方面軍は、南京攻略及び入城に関して
「皇軍が外国の首都に入城するのは有史以来の事で
永く歴史に刻まれる事であり、
世界が注目する事であるから
将来の模範として、不法行為など絶対にしないように」
と注意を出しました。
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
427p
《
方面軍は、七日
「南京城攻略要領」
を示達したが、その抜粋は次のとおりである。
一
南京守城司令官
若 (もし) クハ
市政府当局
尚 残置シアル場合ニハ
開城ヲ勧告シテ
平和裡ニ入城
スルコトヲ図ル
此際各師団ハ
各々選抜セル
歩兵一大隊 〔九日、三大隊に訂正〕 ヲ基幹
トスル
部隊ヲ
先ツ
入城セシメ
城内ヲ
地域ヲ分チテ
掃蕩 (そうとう) ス
二
敵ノ残兵
尚
城壁ニ拠リ
抵抗ヲ行フ場合ニハ
戦場ニ到着シアル全砲兵ヲ
展開シテ砲撃シ
城壁ヲ奪取シ
各師団ハ歩兵一聯隊ヲ
基幹トスル部隊ヲ
以テ
城内ヲ掃蕩ス
右以外ノ主力ハ
城外適宜ノ地点ニ
集結ス
三
城内掃蕩戦ニ於テハ
作戦地域ヲ指定シ
之ヲ厳ニ確守セシメ
以テ
友軍相撃ヲ防キ
且
不法行為ニ
対スル責任ヲ
明カナラシム
四
城内ニ於ケル
両軍ノ作戦地境
共和門−公園路−中正街−中正路−漢中路
五
各軍ニ対スル配当城門
派遣軍
中山門、大平門、和平門
第十軍
共和門、中華門、水西門
つづく
*
最初に
「皇軍が外国の首都に入城するのは有史以来の事で」
と
訓示してありますが、これはまちがっています。
義和団事件のとき、既に、北京に入城しています。
これは メッセージ 1822 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1824.html
1938年12月29日 汪兆銘の 「和平建議」
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/10 18:39 投稿番号: [1823 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
191p
《 汪兆銘は、そこで、さらにその翌日、十二月二十九日、
中央監察委員会のほかに国民党総裁蒋介石もあて名に加えた
「和平建議」
電をおくった。
近衛声明の内容につき、それが中国の
「生存独立」
を阻害しないと
みなされる根拠を詳細に述べ、
声明がふれていない
「撤兵」
と駐兵地域の限定を中国側の条件として
和平を交渉せよ、と、提案したのである。
汪兆銘は、しかし、この
「和平建議」
電も、
前日の
「和平提議」
電と同様に、公表をひかえた。
蒋介石は、その点に注目して、
なお汪兆銘の公然と叛意を表明する決心が未熟だと、推理したらしい。》
これは メッセージ 1821 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年12月7日 海軍の揚子江啓開作戦
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/10 18:35 投稿番号: [1822 / 2250]
戦史叢書
『中国方面海軍作戦1』
461〜462p
《 七日、陸軍部隊の先頭は既に南京前方二〇粁
(キロ)
に進出しあり、
揚子江水路の啓開は急を要した。
そして、七日の作業を次のように下命した。
前路警戒隊は第二掃海隊と協力し北水道拘束機雷の処分及び前路の清掃
「保津、勢多」、特別掃海隊
(林少佐掃揮の曳船六隻)
は
保津艦長指揮の下に閉塞線 − 江陰間水路の南側一帯の清掃、
「比良、鳥羽」
は江陰付近に進出江陰下流の清掃をそれぞれ実施せよ。
「安宅」
は本職これを率い
10:00
泊地発、江陰に進出の予定。
各隊の作業状況は次のとおりであった。
林少佐指揮の特別掃海隊は
「勢多」
の掩護下江陰桟
(さん)
橋まで
掃海し、 18:00
清掃を終了した。
この間、閉塞線啓開水路の南側において障害物を拘束処分した。
作業終了後
「勢多」
は粛山沖に引返し警泊した。
前路警戒隊は内火艇四隻をもって
08:30
機雷礁の小掃海を開始、
前日拘束した未処分機雷四個の外更に四個拘束、計八個爆破処分し、
本機雷礁の清掃完了と認めた。
第二掃海隊はクロッシング燈船 − クーパーバンク北方間水路の清掃を
18:30
完了した。
特別作業隊及び第二十四駆連隊派遣陸戦隊は南岸の管制機雷を探査した。
粛山に管制機雷を認めず、粛山の管制機雷の爆破処分を試みたが誘爆せず、
南岸からの管制機雷に対する危険はないものと判断された。
旗艦安宅はこの日
11:00、閉塞線下流に、 「保津、比良、鳥羽」
は
江陰にそれぞれ進出したが、夕刻粛山沖に下航、警泊した。
第一掃海隊
(第三小隊欠)
は
09:30
呉淞沖発、急航し
16:30
ごろ江陰閉塞線下流で主隊に合同した。》
これは メッセージ 1809 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年12月28日 汪兆銘の蒋介石への回答
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/09 18:54 投稿番号: [1821 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
文春文庫
190〜191p
《 汪兆銘は、十二月二十八日、近衛声明にこたえる前に、
重慶の国民党中央執行常務委員会および最高国防会議あてに
「和平提議」
電を発信した。
「中国が当面している困難は、いかにして戦争を持続するかの問題であり、
日本が当面している困難は、いかにして戦争を終熄せしめるかにある」
汪兆銘は、自分は十二月九日の会議で、そう蒋介石に指摘したと述べ、
一年前にドイツ大使 O・トラウトマンが和平仲介をしたさいの日本側条件は
不明確かつ苛酷であったが、蒋介石は交渉にのりだした、
より明確で妥当な今回の近衛声明には積極的に応ずべきではないか、
と強調した。
汪兆銘は、のちに、自分が和平交渉にふみきった考え方について、言明する。
国民政府内の抗戦主張論の根拠は、汪兆銘によれば、
①すでに抗戦方針が定まっている、
②抗戦してこそ国内が統一できる、
③和平は共産党に擾乱の機会をあたえる、
④第三国が和平を希望しない、
という四点に集約できるが、汪兆銘は、
①は戦争のための戦争をいうにひとしく、
②は、国家の生存独立という戦争目的を
「府内統一」
あるいは
「保身」にすりかえるものだ、と判断する。
③についても、共産党の攪乱工作は平時も戦時も同じであるし、
④は外交の自主性を放棄することにほかならない。
「和戦は、いずれも国家の生存独立を守るためのものである。
和平の可否は、その条件によって決せられる。
その条件にして国家の生存独立を妨げるならば、和すべからず。
然らざれば、和すべきである」
近衛声明、いいかえれば、汪兆銘も間接的に事前協議に参画した
上海会議を基礎にした和平条件は、中国の
「生存独立」
の保持を可能にする。
だから、和平交渉をおこなうべきだ、と、汪兆銘は強調するのである。
この汪兆銘の主張には、既述した各国の中国の抗戦能力についての悲観的観測、
いいかえれば汪兆銘自身も中国の継戦の
「困難」
を明言するように、
軍事的敗北を予測していることと、蒋介石から遊離するよりは
ともに和平をもとめようという意向が、うかがえる。》
*
汪兆銘は
「一年前にドイツ大使O・トラウトマンが和平仲介をしたさいの
日本側条件は不明確かつ苛酷であったが、蒋介石は交渉にのりだした」
と言っているが、これは、嘘。
実際は、拒絶している。
中国人は、こういう時、都合よく、話を造り変える。
これは メッセージ 1819 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年 トラウトマン工作のつづき
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/09 18:39 投稿番号: [1820 / 2250]
12月2日のトラウトマン・蒋介石の話を受けて、
12月7日、ドイツが日本に和平仲介の話を持って来ました。
児島襄著
『日中戦争4』
189〜190p
《 12月7日、駐日ドイツ大使ディルクセンが広田外相に面会して、
外相ノイラートの指示による和平仲介の覚書を提出した。
大使ディルクセンは、すでに参謀本部の意向も承知している。
蒋介石側も交渉希望も明らかであり、戦況も講和に適していると判断されるので、
日本側の
「色良い」
返事を期待した。
だが、
広田外相の口から出たのは、予想に反する言葉であった。
「最近の偉大な軍事的成功により、
一か月前に起草された基礎の上で交渉が行えるかどうか疑問である。
陸海軍の意見も得て検討したのち返答する」
大使ディルクセンは、日本側の見解がいつかわったのか、と、質問した。
「ここ数週間の戦果が情勢を変化させた」
大使ディルクセンは、日本側は拡大した新要求を用意していると感得し、
広田外相に強調した。
「蒋介石と和平するのが、日本にとって最善の解決になる。
蒋介石の失脚、あるいは過大な要求をして和平を拒否させるのは、
かえって日本の不為になりましょう」
貴国ならびに貴大使の好意に深謝する、というのが広田外相の反応だった。》
*
参謀本部はすでに、12月1日に、
和平交渉条件の改訂案を作成していましたから、
前のままでというわけにはいかないでしょう。
即座に返答はできませんので、会議にかける事になります。
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
460p
《 早速、首陸海外四相会議を開き、日本側のとるべき態度について検討した。》
これは メッセージ 1781 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年12月26日 蒋介石の反応
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/08 18:45 投稿番号: [1819 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
188〜189p
《 だが、この近衛声明にたいして、汪兆銘は即座には呼応せず、
蒋介石のほうが、先きに反応を示した。
蒋介石は、西安の軍事会議が終了した翌日、十二月二十四日、重慶に帰った。
ただちに
「党政首長会議」
を招集して汪兆銘問題を討議したが、
蒋介石は、むしろ
「懐柔策」
を採用することにした。
「彼雖蓄意加害於余、而余仍応以善意救彼、対於此種愚詐之徒、只有可憐可痛而已」
蒋介石はそう記述しているが、そのような寛容心とは別に、
汪兆銘を日本側に走らせぬようにするのが当面の得策と判断される。
そうすれば、近衛声明が期待する
「同憂具眼ノ士」
は登場せず、
日本の工作は空中分解するはずだからである。
この夜、午後九時ごろ、蒋介石の顧問W・ドナルドは、英米大使館に電話して、
汪兆銘の言動はいっさい国民政府を代表するものではない、と通告した。
米参事官
W・ペックは、汪兆銘は行政院長孔祥熙との意見対立が原因で
ハノイに出奔した、しかし、間もなく重慶に帰ってくる、
との噂が街に流れている、と、本国に報告している。
蒋介石は、十二月二十六日、近衛声明は、
「為敵国妄図呑滅中国、独覇東亜、征服世界的総自白」
だと反駁したが、
翌日、次のように雲南省主席龍雲に電報した。
「近衛二十二日之所以発言者、全為対汪之討価、彼竟不察、而自上其当、
幸此時猶未失足、尚可為之挽救也」
そして、蒋介石は、香港の
『大公報』
主筆張季鷲にも電報をおくった。
「希対汪兆銘之有関輿論、寛留余地」
そのあと、蒋介石は、汪兆銘ととくに親交が深い交通部次長彭学佩をまねき、
「駐港不如赴欧」
と、汪兆銘に打電するよう、指示した。
香港にむかうよりもヨーロッパに外遊したほうがよい、と勧告したわけであり、
次長彭学佩は、蒋介石の
「寛大な心」
に感動した、という。
この夜、 「中央通訊」
社は、蒋介石の前日の近衛声明反駁演説を
つたえるとともに、次のような蒋介石の談話を報道した。
「汪先生は、病気療養のためにハノイに出かけたもので、日本またはドイツで
噂されているように、国民政府を代表して日本と和平交渉をするためではない。
汪先生の旅行は、国民政府とも国民党とも、なんの関係もない。
汪先生が国家の政策について独自の見解をもっているなら、
速かに帰還して政府、党の幹部と討議されんことを、希望している」》
これは メッセージ 1817 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年12月7日 中国の焦土作戦
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/08 18:35 投稿番号: [1818 / 2250]
東中野修道著
『南京大虐殺の徹底検証』
45〜46p
〈 蒋介石は焼き払い (清野) 作戦を徹底的に遂行した。
南京の東の鎮江はかつて人口二十万人を数えた江蘇省の旧省都であった。
しかし日本軍の迫るや、鎮江は支那軍の放火により、炎と包まれた。
十二月八日付の
『ニューヨーク・タイムズ』
は鎮江が
「廃墟」
となったと記す。
この自暴自棄的な清野作戦を、
十二月八日南京発のダーディンの特電は次のように伝えた。
《 防衛地帯内の障碍物が支那軍に焼かれ続けた。
昨夕焼かれたものの一つに中山陵園地区内の支那高官の高級住宅があった。
南京の周りは立ちのぼる黒煙に包まれた。
半径一六キロ以内の建物や障碍物もまた昨日支那軍に焼かれ続けたからだ。
車で前線に行くと、中山門外、中山陵東南の谷全体が燃えているのを、
本紙特派員は見た。
中山陵沿いの幹線道路を走って孝陵衛に行くと、そこの村は焼け落ちて、
燻
(くすぶ)
る廃墟であった。
この数日間に避難しなかったそこの住民たちが、
哀れにも僅かばかりの物を持って、ぞろぞろ南京へと歩いていた。
そして時々立ち止まっては、かつての我が家を今一度見るため
悲しそうに振り返っていた。》
焼かれたのは南京の東だけではなかった。
南京は、西と北に揚子江が流れる。日本軍は上海から南京に向かっていた。
従って、南京の東と南で戦闘が起こるとは、衆目の一致するところであった。
そこで、住民の強制退去後に、南の人口密集区域の中華門
(南門)
周辺が焼かれた。〉
西岡香織著
『報道戦線から見た
「日中戦争」』
118〜119p
《 陥落前後の南京市の内外が大混乱に陥ったのである。
その模様を
『南京戦史』
収録の内外の新聞記事等で見ておきたい。
「首都陥落を前にして、支那軍は七日も南京市外十マイルの地域内にある
全村落に火を放ち、日本軍の進撃に便宜を与えるような物は
全て焼払わんとしているため、南京市は濛々たる黒煙に包まれてしまった。
記者
(ダーディン)
は自動車を駆って南京市東部の戦線へ視察に赴いたが、
中山門を出ると総理陵苑の彼方の低地は一面猛火の海と化しており、
焼け落ちた家々からは、今まで踏み止まっていた村民の群が、
僅かばかり家財道具を背負ったり小脇に抱えたりして、
よろめきながら城内指して逃げ込んで来る」
〔ニューヨーク特電・七日〕》
*
この焼け出された人たちは中国政府によって、
焼け出されたのであって日本軍のしわざではない。
しかし、狡猾な連中はこういう場面の一部分を切り取って、
あたかも日本軍が、したかのように、すり替える。
これは メッセージ 1816 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年12月22日 近衛声明
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/07 18:38 投稿番号: [1817 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
文春文庫
187〜188p
《 東京時間午後七時四十分であるが、参謀本部に
香港の支那班長今井武夫中佐から次長宛
「極秘親展電」
が到着した。
「渡辺君ヨリ電話ニテ、竹中君
本二十日河内
(ハノイ)
ニ到着シタル旨
来電アリ。 一般情勢ニ鑑ミ、藤原談ハ遅クモ
明後二十二日迄ニ
発表セラレ度
旨懇願シ来レリ……」
渡辺君は元亜州局長高宗武、竹中君は汪兆銘、藤原は近衛文麿首相の暗号名である。
電文では
「明後二十二日」
とあるが、
電報到着が二十一日なので、翌日の声明発表の要請にほかならない。
近衛首相は、翌日、十二月二十二日
正午に
陸相板垣征四郎中将、海相米内光政大将、外相有田八郎をまねいて協議し、
汪兆銘側の要請に応じて、かねて用意の声明を発表することにした。
書記官長風見章によれば、近衛首相は声明文を自身で推敲した。
汪工作に関係している陸軍省軍務課長影佐禎昭大佐、逓信省参与犬養健が、
それを見たいと秘書官室に来たが、首相は
「断じて寄せつけなかった」
という。
首相声明は、午後九時二十分に発表された。
「支那ニ於ケル
同憂
具眼ノ士
ト相携ヘテ」
という表現で、汪兆銘に呼びかけた声明は、日中和平の基本要件を、
「善隣友好」 「共同防共」 「経済提携」
の三つにしぼっていた。
満州国の承認と防共駐兵を要求する半面、
経済的独占、領土割譲、戦費賠償などを否定し、
治外法権の撤廃と租界の返還についての
「積極的考慮」
を約束した。
つまりは、既述した、上海会談の合意から撤兵条項をぬいた
「日支新関係調整方針」
にそった内容である。
近衛首相は、書記官長風見章によれば、汪兆銘の
「脱出」
について
「疑懼」
をさけられず、あるいは蒋介石と
「通々」
の
「狂言」
ではないか、
との不安も感得したが、それならかえって蒋介石との和平につながって好都合だ、
と判断した、という。
だが、この近衛声明にたいして、汪兆銘は即座には呼応せず、
蒋介石のほうが、先きに反応を示した。》
これは メッセージ 1815 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年12月7日のラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/07 18:30 投稿番号: [1816 / 2250]
《 十二月七日
昨夜はさかんに車の音がしていた。そして今朝早く、だいたい五時ころ、
飛行機が何機もわが家の屋根すれすれに飛んでいった。
それが蒋介石委員長の別れの挨拶だった。
昨日の午後会った黄もいなくなった。しかも、委員長の命令で!
あとに残されたのは貧しい人たちだけ。それから、
その人たちとともに残ろうと心に決めた我々わずかなヨーロッパ人とアメリカ人だ。
そこらじゅうから、人々が家財道具や夜具をかかえて逃げこんでくる。
といってもこの人たちですら、最下層の貧民ではない。
いわば先発隊で、いくらか金があり、それと引き換えに
ここの友人知人にかくまってもらえるような人たちなのだ。
これから文字通りの無一文の連中がやってくる。
そういう人たちのために、学校や大学を開放しなければならない。
みな共同宿舎で寝泊まりし、大きな公営給食所で食べ物をもらうことになるだろう。
約束の食糧のうち、ここに運び入れることができたのはたった四分の一だ。
なにしろ車がなかったので、いいように軍隊に徴発されてしまった。
今日の午前中に、軍にトラックを二台取り上げられた。
これまでに一台しか取り返していない。
もう一台、塩が二トン積んであったほうはいまだに返ってこない。
いまゆくえを探しているところだ。
最高司令部から、たったいま、さらに二万ドル、私のところに払いこまれた。
約束の十万ドルの代わりに、全部で四万ドル受け取ったことになる。
これで満足しなければならないのだろう。
献金の分割払いのことなど、おそらく蒋介石は知らないだろうから文句もいえまい。
明日、城門が閉められ、いままで残っていたアメリカ人も船に乗る。
今日ジーメンスに電報を打った。
満期になった生命保険料を保険会社からもらってくれるように頼んだのだ。
上海放送は、トラウトマン大使が、今日漢口に到着したと伝えていた。
彼の和平案が、蒋介石に拒否されたといっている。
ローゼンからの極秘情報によれば(すでに書いたが)、
もうそれは蒋介石に受け入れられたということだが。
そのいっぽうで、目下最後の戦闘準備がすすめられている。
最後の一兵が倒れるまで戦う。兵士たちは口々にこういい張っている。
城門のちかくでは家が焼かれており、そこの住民は安全区に逃げるように指示されている。
安全区は、ひそかに人の認めるところになっていたのだ。
たったいま、クレーガーが中華門のちかくのシュメーリング家から帰ってきた。
こじ開けられ、ところどころ荒らされていたという。
現実家の彼は、とりあえず残っていた飲み物を失敬してきた。
十八時、記者会見。馬市長は欠席、外国人も半数くらいしか出席していなかった。
残りはもう発ったのだろう。
門の近くにある家は城壁の内側であっても焼き払われるという噂がひろまり、
中華門の近くに住む人たちはパニックに陥っている。
何百という家族が安全区に押しよせているが、
こんなに暗くてはもう泊まるところが見つからない。
凍え、泣きながら、女の人や子どもたちがシーツの包みに腰かけて、
寝場所を探しに行った夫や父親の帰りを待っている。
今日、二千百十七袋、米を取ってきた。明日もまた門を通れるかどうかはわからない。》
これは メッセージ 1807 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年12月19日 汪兆銘 重慶脱出
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/06 18:36 投稿番号: [1815 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
文春文庫
185p
《
十二月十三日
−
焦慮にかられて上海から香港に出かけた今井中佐に、
汪兆銘の重慶
「脱出」
は十八日にきまった、と、元亜州司長高宗武が告げた。
中佐は東京に報告しながら、不安をおさえきれなかったが、こんどは、確実であった。
汪兆銘の重慶出発日には、十八日、十九日の両説があるが、
蒋介石政治顧問W・ドナルドによれば、汪兆銘は十八日夜、
蒋介石に成都に講演に行くと語り、十九日朝、まず昆明にとんだ。
夫人陳壁君、息子孟晋、娘文煌とその夫・何文傑、四川省党務委員陳公博、
中央立法委員林柏生、芸文社主任陶希聖、中央候補執行委員曾仲鳴らが、同行した。
昆明には、先発していた中央宣伝部長周仏海が待っていた。
雲南省主席龍雲も出迎え、汪兆銘は、日本との和平交渉のために香港にむかうといい、
「挙事」
の協力をもとめた。
だが、 「同志の盟約」
をむすんだはずの主席龍雲は、首を横にふったらしい。
「汪潜抵昆明之際、初欲煽動龍雲及張発奎等叛変、然後勾引四川軍人響応、
因龍、張不為所動、並表示効忠政府」
と、蒋介石も記述している。
もっとも、主席龍雲は、汪兆銘一行を阻止することはせず、
また重慶への連絡もあとまわしにすると約束した。
そして、主席龍雲は一行のために旅客機を調達し、
汪兆銘は、十二月二十日、昆明をはなれてハノイに到着した。》
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1937年 蒋介石の焦りと南京脱出
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/06 18:30 投稿番号: [1814 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
184〜185p
《蒋介石は、ドイツ大使トラウトマンの工作の成果があらわれないのを、憂慮した。
「倭寇対徳大使
所提調停弁法、以我不能屈服、彼己決絶乎?」
日本は、大使トラウトマンを通じての提案をみて、
中国を屈服させ得ないと悟って交渉を拒絶したのではないか……。
だが、当面の事態に対処するためには和平、
せめて和平交渉による時間稼ぎが必要である。
和平仲介は、ドイツでなくてもよいわけである。では、米国はどうか……。
蒋介石は、この夜、顧問W・ドナルドを米大使館に派遣した。
大使N・ジョンソンは、各国大使とともにすでに漢口に移駐し、
二等書記官G・アチソン、海軍武官補佐官J・マクヒュー大佐が
顧問ドナルドをむかえた。
「中国は、いまや陸空軍を補強する軍需物資の輸入手段をうしなった」
顧問ドナルドは、まっさきにそう述べ、中国が米英両国で買付けた飛行機、
資材、さらにドイツが英国商社を通じて送る武器も、
日本海軍の沿岸封鎖のおかげで輸入できなくなった、と述べた。
ドイツの武器をフランス領インドシナ経由ではこぼうとしたが、
フランス政府は頑としてドイツ製兵器の通過を拒否している。
「必要な軍備が入手できなくなっては、和平交渉もやむをえなくなる」
顧問ドナルドは、和平交渉についての蒋介石の考え方はきまっている、と、二人に告げた。
「大元帥は、自分では交渉にタッチせず、政府内の親日派グループにまかせるつもりだ」
日本側も、無期限に大規模戦争をつづける自信がないので和平をもとめている、
ソ連は日本が攻撃しない限り参戦しないだろう、と顧問ドナルドはつけ加え、結語した。
「中国は絶望だ。独立国としての中国は、お仕舞いだ」
顧問ドナルドは、米国の和平仲介をもとめるとは、いわなかった。
だが、仲介をふくめての援助を米国に要請していることは、明白に感得できる。
二等書記官アチソンは、顧問ドナルドの発言の末尾に、
次のような自身の判断を書きそえて、ワシントンに中国の危急を報告した。
顧問ドナルドは、かねて蒋介石が四川、雲南、広西、貴州、江西、福建、
甘粛省にまたがる地域に
『新中国』
を建設する意図であることを述べていたが、
いまや南方からの軍需品輸入の道がとざされ、 『新中国』
の軍事的基礎を失った……。
「彼
(蒋介石)
は、彼自身と彼の意図が絶望的状態にあることを認識している」
−
その翌日、十二月七日、
蒋介石は夫人宋美齢とともに、午前六時、専用機で南京をはなれ、廬山にむかった。》
*
蒋介石は、ドイツ大使トラウトマンの工作の成果が現れないのを、憂慮しているが、
ドイツから日本には、まだ、話が行っていない。
ディルクセン大使が広田外相に話を持って行くのは、翌7日。
結果が現れなくて当然。
まー、自分が、日本の善意を踏みにじって、和平を蹴っていたのだから、
結果がどうなろうと、彼の責任、日本を恨む資格はない。
顧問ドナルドは
「中国は絶望だ。独立国としての中国は、お仕舞いだ」
と言ってるが、何を妄想しているのか。
日本は中国を征服するつもりも、属国にするつもりもない。
中国が戦争を仕掛けてやめないから、応じているだけで。
中国が反省して戦争をやめれば、済む話。
これは メッセージ 1812 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年12月8日 汪兆銘脱出できず
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/05 15:47 投稿番号: [1813 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
文春文庫
183〜184p
《 特派員梅思平は、十二月一日に香港に帰着し、
元亜州司長高宗武を通じて、上海で待機今井中佐に連絡した。
汪兆銘は八日に重慶を出発し、成都経由で十日に昆明に到着する。
「脱出」
は機密を要するので、日本側の和平条件発表は、汪が安着したあと、
十二日ごろにしてほしい
−。
東京は色めきたち、近衛首相の声明発表は十一日、
大阪市主催の中之島公会堂における演説会でおこなうことになり、
重大発表をする旨を新聞で報道し、陸軍次官も中支那派遣軍に通報した。
−
ところが、
汪兆銘は、 「脱出」
できなかった。
その予定日の十二月八日、蒋介石が桂林から重慶にもどり、しかも、翌日、
行政院長孔祥熙、秘書長張群、外交部長王寵恵とともに汪兆銘をまねき、
「今後大計」
を協議したからである。
その席上、蒋介石は、
「只要我政府不興日本言和、則日本無法亡我」
と、強調した。
こと露見か − と、汪兆銘はぎくりとしたが、
蒋介石はそれ以上は対日和平問題にはふれず、
格別の
「危機」
は感得されなかった、という。
東京では、事態の急変のため、近衛首相は
「風邪」
を理由に大阪講演をとりやめ、
さらに 〝重大発表〟 も無期延期した。
駐日米大使グルーは、〝重大発表〟 は
「呉佩孚工作」
の成功の公表だろうと
推理していたので、その中止は工作の失敗によるものと、解釈した。》
これは メッセージ 1802 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年 第十軍と南京の動き
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/05 15:39 投稿番号: [1812 / 2250]
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
425p
第十軍
《 国崎支隊は、郎渓で水上機動の準備を行い、六日、同地を出発、
第十軍司令官は、杭州方面の敵にたいし、軍の左側背を掩護するため、
石湾鎮に歩兵半大隊、湖州に歩兵一大隊、下泗安に歩兵一中隊、
広徳に歩兵一中隊、ネイ国に歩兵半大隊を配備していたが、
六日、第一・第二後備歩兵団が湖州付近に到着したので、
右の警備をこれら兵団に移譲し、師団残置部隊を原所属に復帰させた。》
南京のようす
児島襄著
『日中戦争4』
183〜184p
《 南京市内は日本機の空襲による火煙でおおわれ、
外周防備にあたっていた第八十三軍、第七十一軍、第二軍団の敗兵が
続々と市内に逃げこんできた。
首都衛戍司令官唐生智は、市内の外国人に退去を勧告するとともに、
夕刻、城門の閉鎖を命じた。》
*
「南京市内が日本機の空襲で火煙でおおわれ」
と言いつつ、
「外周防備にあたっていた兵が続々と市内に逃げこんできた」
と
言うのは不自然ではないのか?
爆撃されている市内に、逃げこんだら、余計危ないだろう。
爆撃されている場所は、飛行場のような、特定の場所に限られ、
市民の居住区は比較的安全だったから、兵が逃げこんで来たのではないのか?
これは メッセージ 1803 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年11月30日 日支新関係調整方針3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/04 14:33 投稿番号: [1810 / 2250]
井本熊雄著
『支那事変作戦日誌』
297〜298p
つづき
《 第三
経済提携ノ原則ニ関スル事項
日満支三国ハ
互助連環
及
共同防共ノ実ヲ挙クル為
産業経済等ニ関シ
長短相補
有無相通ノ趣旨ニ基キ
共同互恵ヲ旨トスルコト
一、日満支三国ハ
資源ノ開発、関税、交易、航空、交通、通信、気象、測量ニ関シ
前記趣旨
並
以下ノ各項ノ要旨ヲ
具現スル如ク
所要ノ協定ヲ締結ス
二、資源ノ開発利用ニ関シテハ
北支蒙疆ニ於テ
日満ノ不足資源中
埋蔵資源ヲ求ムルヲ以テ
施策ノ重点トシ、支那ハ共同防衛
並
経済的結合ノ見地ヨリ
之ニ
特別ノ便益ヲ供与シ
其他ノ地域ニ於テモ
特定資源ノ開発ニ関シ
経済的結合ノ見地ヨリ
必要ナル便益ヲ供与ス
三、一般産業ニ就テハ
努メテ
支那側ノ事業ヲ尊重シ
日本ハ之ニ
必要ナル援助ヲ与フ
農業ニ関シテハ
之カ改良ヲ援助シ
支那民生ノ安定ニ資スルト共ニ
日本ノ所要原料資源ノ培養ヲ図ル
四、支那ノ財政経済政策ノ確立ニ関シ
日本ハ所要ノ援助ヲ為ス
五、交易ニ関シテハ
妥当ナル関税
並
海関制度ヲ採用シ
日満支間ノ一般通商ヲ
振興スルト共ニ
日満支
就中
北支間ノ物資需給ヲ
便宜
且
合理的ナラシム
六、支那ニ於ケル交通、通信、気象
並
測量ノ発達ニ関シテハ
日本ハ所要ノ援助
乃至
協力ヲ与フ
全支ニ於ケル
航空ノ発達、北支ニ於ケル
鉄道
(隴海線ヲ含ム)、
日支間
及
支那沿岸ニ於ケル
主要海運、揚子江ニ於ケル水運
並
北支及揚子江下流ニ於ケル通信ハ
日支交通協力ノ重点トス
七、日支協力ニ依リ新上海ヲ建設ス
附
一、支那ハ
事変勃発以来支那ニ於ケル
日本国民ノ蒙リタル
権利利益ノ損害ヲ補償ス
二、第三国ノ支那ニ於ケル経済活動
乃至
権益カ日満支経済提携強化ノタメ
自然ニ制限セラルルハ当然ナルモ
右強化ハ主トシテ
国防
及
国家存立ノ必要ニ
立脚セル
範囲ノモノタルヘク、
右目的ノ範囲ヲ
超エテ
第三国ノ活動
乃至
権益ヲ
不当ニ
排除
制限セントスルモノニ非ス
なおこの年十二月十八日、汪精衡の重慶脱出に呼応して近衛首相は、
同月二十二日左記の声明を発表した。
その内容は、前記東亜新秩序建設の声明並びに日支新関係調整方針の趣旨によって、
汪精衛の対蒋介石政権樹立を実現しようとする意図を表明したものであった。》
注
就中
なかんづく
と読む
汪精衛とは汪兆銘のこと
これは メッセージ 1808 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年12月6日 海軍の揚子江啓開
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/04 14:19 投稿番号: [1809 / 2250]
戦史叢書
『中国方面海軍作戦1』
460〜461p
《 六日、第一警戒部隊は江陰水道の啓開作業を続行、
前路掃海隊は北水道の略掃、保津隊は南水道の掃海を実施した。
夜半、第一掃海隊の第一、第二小隊は第一警戒部隊に編入された
(第三小隊は七日編入)。
これは第二、第三掃海隊が特設掃海隊で流れの強い江上の敵前掃海に不安があるため、
この際有力な掃海兵力を第一警戒部隊に編入し、
遡江作戦を進ちょくさせようとしたものであった
〔第一掃海隊は第一小隊
(掃五、掃六)、 第二小隊
(掃二、掃四)、
第三小隊
(掃一、掃三)
の六隻から成る〕。
前路警戒隊は内火艇四隻をもって
08:00〜17:30
クーパーバンク南方機雷礁の
小掃海を実施し、機雷一二個を拘束、内八個を爆破処分し、残り四個に浮標を付した。
南水道の掃海
閉塞線に可航水路を啓開す
「保津」
艦長は福姜沙水道の清掃、同水道西口 − 閉塞線間南寄り江面の探掃及び略掃、
陸戦隊による江岸一帯の管制機雷の調査、特別作業隊の作業協力などを命ぜられた。
またこの日から当分の間第二十四駆逐隊から准士官以上の指揮する掃海隊
(二対艇小掃海)
が
「保津」
に派遣され、同艦長の指揮を受け、
かつ宮里大佐指揮の特別作業隊から機雷処分隊が同艦長に協力することとなった。
まず林少佐指揮の曳船四隻は閉塞線下流付近の再掃海を実施し、
また前路警戒隊から派遣の小掃海隊は閉塞線南端水路の掃海を
17:30
まで実施したが、閉塞線上流の掃海には不適と認められ原隊に帰った。
「保津、勢多」
は閉塞線下流で右作業の支援に任じ、
かつ内火艇により閉塞線啓開水路の探査を実施したところ、
約四〇〇米の間に可航水路を発見した。
そこで曳船四隻がこの水路の掃海を実施、水道の両側に標識旗を立てた。
保津、第二十四駆逐隊の陸戦隊員は終日
粛山−黄山間江岸一帯の管制機雷衛所などを捜索、
粛山管制所で電纜による爆破を企てたが成功しなかった。
第二掃海隊は
16:00
旗艦安宅に合同した。》
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1938年11月30日 日支新関係調整方針2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/03 18:40 投稿番号: [1808 / 2250]
井本熊雄著
『支那事変作戦日誌』
つづき
《 第二
共同防衛ノ原則ニ関スル事項
日満支三国ハ協同シテ
防共ニ当ルト共ニ
共通ノ治安安寧ノ維持ニ関シ
協力スルコト
一、日満支三国ハ
各其領域内ニ於ケル共産分子
及組織ヲ芟除スルト共ニ
防共ニ関スル
情報宣伝等ニ関シ
提携協力ス
二、日支協同シテ
防共ヲ実行ス
之カ為
日本ハ所要ノ軍隊ヲ
北支及蒙疆ノ要地ニ駐屯ス
三、別ニ日支防共軍事同盟ヲ締結ス
四、第二項以外ノ日本軍隊ハ
全般
並
局地ノ情勢ニ即応シ
成ルへク早期ニ
之ヲ撤収ス
但保障ノ為
北支及南京、上海、杭州三角地帯ニ於ケルモノハ
治安ノ確立スル迄
之ヲ駐屯セシム
共通ノ治安、安寧維持ノ為
揚子江沿岸特定ノ地点
及
南支沿岸特定ノ島嶼
及
之ニ関連スル地点ニ
若干ノ艦船部隊ヲ駐屯ス
尚揚子江及支那
沿岸ニ於ケル
艦船ノ航泊ハ自由トス
五、支那ハ前項治安協力ノタメ
日本ノ駐兵ニ対シ
財政的協力ノ義務ヲ負フ
六、日本ハ概ネ
駐兵地域ニ存在スル鉄道、航空、通信並主要港湾
水路ニ対シ
軍事上ノ要求権
及
監督権ヲ保留ス
七、支那ハ
警察隊及軍隊ヲ改善
整理スルト共ニ
之カ日本軍駐屯地域ノ配置
並
軍事施設ハ
当分治安及国防上
必要ノ最小限トス
日本ハ支那ノ
軍隊警察隊建設ニ関シ
顧問ノ派遣、武器ノ供給等ニ依リ協力ス》
注
芟除
:
サンジョ
刈り取り
除く
つづく
これは メッセージ 1806 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年12月6日 ラーベの日記2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/03 18:32 投稿番号: [1807 / 2250]
《 きちんと準備するには、米や小麦粉、塩、燃料、医薬品、炊事道具、
あと、なんだかしらないがとにかくいるもの全部、
日本軍が攻めてくる前に用意しておかねばならない。
医者、救護員、汚物処理、埋葬、警察、
そうだ、場合によっては警察の代わりまでやる覚悟がいる。
軍隊と一緒に、十中八九警察もいなくなるだろう。
そうなったら、治安が乱れるおそれがある。
こういうこともみなそのときになってからやれと言うのか?
なんとか考えを変えるよう、黄を説得しようとしたが無駄だった。
要するにこいつは中国人なのだ。
こいつにとっちゃ、数十万という国民の命なんかどうでもいいんだ。
そうか。貧乏人は死ぬよりほか何の役にも立たないというわけか!
防衛についても話し合った。私は必死で弁じた。ファルケンハウゼン将軍はじめ、
ドイツ人顧問は口をそろえて防衛は絶望的だといっている。
もちろん、形だけでも防衛はしなければならないだろう。
司令官にむかって、むざむざ明け渡せなどといえないことくらい百も承知だ。
面目を保ちたいのもわかる。
だが、南京を守ろうとする戦い、
この町での戦闘はまったくばかげたことであって、
無慈悲な大量虐殺以外の何物でもない!
……だが、何の役にも立たなかった。私には説得力がないのだ!
黄はいった。
名誉とは、最後の血の一滴まで戦うことにある!
ほう!
お手並み拝見といこうじゃないか!
発電所の管理人の白さんと主任技術者陸さんは、
発電所を動かすために、命がけでがんばるとか言っていた。
たしかに発電所は動いている。
はて。だれが動かしてるのかね。
白さんと陸さん、このお二人はとっくにいなくなったが。》
*
ラーベは
「南京を守ろうとする戦い、
この町での戦闘はまったくばかげたことであって、
無慈悲な大量虐殺以外の何物でもない!」
と言っている。
つまり、南京戦そのものが大虐殺なのだと。
だったら、その責任は南京戦を回避しようとしない、中国側にあるではないか。
これは メッセージ 1805 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年11月30日 日支新関係調整方針1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/02 18:41 投稿番号: [1806 / 2250]
これは、東亜新秩序に続く、具体的方針
井本熊雄著
『支那事変作戦日誌』
295〜296p
日支新関係調整方針
(昭和十三年十一月三十日御前会議決定)
日満支三国ハ
東亜ニ於ケル新秩序建設ノ理想ノ下ニ
相互ニ善隣トシテ
結合シ
東洋平和ノ枢軸タルコトヲ共同ノ目標ト為ス
之カタメ基礎タル事項左ノ如シ
一、互恵ヲ基調トスル日満支一般提携
就中善隣友好、防共協同防衛、
経済提携原則ノ設定
二、北支及蒙疆ニ於ケル国防上
並経済上
(特ニ資源ノ開発利用)
日支強度結合地帯ノ設定
蒙疆地方ハ前項ノ外
特ニ防共ノ為
軍事上並ニ政治上特殊地位ノ設定
三、揚子江下流地域ニ於ケル
経済上日支結合地帯ノ設定
四、南支沿岸特定島嶼ニ於ケル
特殊地位ノ設定
之カ具体的事項ニ関シテハ
別紙要項ニ準拠ス
別紙
第一善隣友好ノ
原則ニ関スル事項
日満支三国ハ相互ニ
本然ノ特質ヲ尊重シ
渾然相提携シテ
東洋ノ平和ヲ確保シ
善隣友好ノ実ヲ挙クル為
各般ニ亙リ
互助連環
友好促進ノ手段ヲ講スルコト
一、支那ハ満洲帝国ヲ承認シ
日本及満洲ハ支那ノ領土及主権ヲ尊重シ
日満支三国ハ新国交ヲ修復ス
二、日満支三国ハ政治、外交、教育、宣伝、交易等諸般ニ亙リ
相互ニ好宜ヲ
破壊スルカ如キ措置
及
原因ヲ撤廃シ
且将来ニ亙リ之ヲ禁絶ス
三、日満支三国ハ
相互提携ヲ基調トスル外交ヲ行ヒ
之ニ反スルカ如キ
一切ノ措置ヲ
第三国トノ関係ニ於テ
執ラサルモノトス
四、日満支三国ハ
文化ノ融合、創造及発展ニ協力ス
五、新支那ノ政治形態ハ
分治合作主義ニ則リ施策ス
蒙疆ハ高度ノ防共自治区域トス
上海、青島、廈門ハ各々既定方針ニ基ク
特別行政区域トス
六、日本ハ新中央政府ニ
少数ノ顧問ヲ派遣シ
新建設ニ協力ス
特ニ強度結合地帯
其他
特定ノ地域ニ在リテハ
所要ノ機関ニ顧問ヲ配置ス
七、日満支善隣関係ノ具現ニ伴ヒ
日本ハ漸次租界、治外法権等ノ返還ヲ考慮ス
つづく
これは メッセージ 1788 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年12月6日 ラーベの日記1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/02 18:30 投稿番号: [1805 / 2250]
《 十二月六日
ここに残っていたアメリカ人の半分以上は、今日アメリカの軍艦に乗りこんだ。
残りの人々もいつでも乗りこめるよう準備している。
われわれの仲間だけが拒否した。
これは絶対に内緒だが、といってローゼンが教えてくれたところによると、
トラウトマン大使の和平案が蒋介石に受け入れられたそうだ。
南京が占領される前に平和がくるといい、ローゼンはそういっていた。
黄上校との話し合いは忘れることができない。
黄は安全区に大反対だ。そんなものをつくったら、軍紀が乱れるというのだ。
「日本に征服された土地は、その土のひとかけらまでわれら中国人の血を吸う定めなのだ。
最後の一人が倒れるまで、防衛せねばならん。
いいですか、あなたがたが安全区を設けさえしなかったら、
いまそこに逃げこもうとしている連中を
わが兵士たちの役に立てることができたのですぞ!」
これほどまでに言語道断な台詞
(せりふ)
があるだろうか。
二の句がつげない!
しかもこいつは蒋介石委員長側近の高官ときている!
ここに残った人は、家族をつれて逃げたくても金がなかったのだ。
おまえら軍人が犯した過ちを、こういう一番気の毒な人民の命で償わせようというのか!
なぜ、金持ちを、約八十万人という恵まれた市民を逃がしたんだ?
首になわをつけても残せばよかったじゃないか?
どうしていつもいつも、一番貧しい人間だけが命を捧げなければならないんだ?
それから軍人や軍の施設を引き揚げる時期について聞いた。
最後のぎりぎりの瞬間、それよりも一分たりとも前ではない、
というのがやつの返事だ。
要するに、土壇場まで、市街戦が繰り広げられるその瞬間まで
いすわろうという肚なんだ!》
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1938年 土肥原機関 呉佩孚工作5
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/01 18:34 投稿番号: [1804 / 2250]
晴気慶胤著
『上海テロ工作76号』
毎日新聞社
22p
《 「呉公一度呼べば天下皆応ずるだろう。
どうぞ出馬の宣言を全国に発表して、すみやかに和平を実施されたい」
といった電報が呉の机上に山と積まれた。
すべては張の大芝居だとは知らずに、すっかりだまされたこのあわれむべき老軍閥は、
新政府を樹立する機がいまや全く熟したと思い、
十一月末、 「我ら黄帝の子孫は過去の過失を反省し、戦雲を消滅しなければならない。
余は世論にしたがって救国和平のために微力を尽くそう」
と昂然として 天下に声明した。
そうして、このあやつられた道化役者は十一月三十日、
各国の新聞記者を招いて次のような時局談まで発表してしまったのである。
「自分は救国和平会に推薦されて綏靖委員会を組織し、
政府の樹立を準備する機関をつくって和平を実現する。
第一段階としては、まずその基幹となる軍隊を編成するのだ。
それには華北の遊撃隊をまず帰順させるつもりだ。
華北で地盤が固まったら日華の間に立って武力調停を行い、事変を片づける。
武力調停は国内戦争で何度も体験したから自信がある。
私が政府をつくると正式に名乗りをあげたら、
三十万ぐらいの抗日軍隊はすぐ呼応し、重慶政府には大動揺が起きるだろう」》
つづく
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1937年 中国 清野 (焦土) 作戦の始まり
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/01 18:28 投稿番号: [1803 / 2250]
鈴木明著
『「南京大虐殺」
のまぼろし』
173p
《 日本軍が句容を占領したのが合図となったように、
中国軍部隊による南京郊外の
「焼き払いの乱行」
がはじまった。
湯山
−
ここは中国のウェスト・ポイントの所在地で、
各種兵学校及び蒋将軍の臨時最高司令部があったが
−
から田園地帯を十五マイル横切って、南京に至るあらゆる建物に火が放たれた。
村落はすべて焼かれた。ついで南門周辺や下関の諸設備にも火は放たれ、
この財産破損額は、内輪に見積っても二千万〜三千万ドルにものぼり、
これは南京攻撃に先立って、
数カ月にわたって日本空軍が南京空爆によって与えた損害を上廻るものだった。
そして、日本の南京占領後、日本軍によって引き起された損害額に、
ほぼ等しいであろう。
中国軍指導部は、この焼却作戦を軍事上の要請と説明した。
日本軍に利用されそうなものは、樹木、竹やぶに至るまで一掃された。
中立国の連中は、これを
① 〝中国流〟 の大きなジェスチュア、
②
怒りとフラストレーションのあらわれ、
③
どうせ日本軍にやられるなら……
という気持、などと見ている。だが、中立国軍事監視団は、この焼き払いは、
実際上は軍事目的に殆ど役に立たなかったと見る点で一致している。》
東中野修道著
『南京大虐殺の徹底検証』
45p
〈 一九三七年
(昭和十二年)
十二月七日南京発の
『ニューヨーク・タイムズ』
のテイルマン・ダーディン記者の特電。
《 湯山と南京の間、公路沿いに
だいたい一マイルおきに堡塁
(ほうるい)
が設けられている。
首都に近づくと、中国軍に放たれた火が激しく燃え盛っていた。
敵軍が遮蔽物に使いうる農村の建物を清除しているのである。
ある谷では一村が丸々焼けていた。(略)
湯山地区では少年雑役兵が数多くいた。
少年たちは年齢十歳から十二歳、軍服姿の正規兵で、
伝令、運搬、炊事といった仕事をしている。
ときには最前線で戦争をゲームのように楽しんでいるように見える。》
少年兵が軍服を着用している限り、それは戦時国際法違反ではなかった。
ただ、少年兵までが動員されたということは、
南京の若者はほとんど動員されたことを意味する。
ダーディン記者の回想によるまでもなく、蒋介石は
「戦えるものは誰でも駆り集め」
て、南京の防衛にあたったことになる。〉
これは メッセージ 1799 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年11月20日 日華協議記録を作成
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/31 18:35 投稿番号: [1802 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
文春文庫
182p
《 今井中佐は、十一月十八日、陸軍省軍務課長影佐禎昭大佐、
逓信省参与犬養健とともに上海にとび、
再び西、伊藤の二人をまじえて中国側の高、梅に会い、
二十日、前述の和平条件についての合意である
「日華協議記録」
を作成し、
日本側は影佐と今井、中国側は高と梅が調印した。
このとき、中国側は、特派員梅思平が香港、ハノイ、昆明経由で重慶にむかい、
「十二月五日以前」
に汪兆銘が重慶を出発するよう手配する、と述べた。
そして、特派員梅思平は、十一月二十九日に重慶入りの予定であったが、
二日早く、二十七日に重慶に到着した。
・・・・
183p
汪兆銘は、特派員梅思平をむかえると、
蒋介石が桂林に軍事委員会委員長桂林行営を開設するため、
十一月三十日に重慶をはなれる旨を語り、
十二月八日に重慶を
「脱出」
する、と述べた。
十一月三十日、蒋介石は予定どおりに桂林にむかったが、
この日、東京では同日の御前会議で
「日支新関係調整方針」
が決定された。
前述した上海会談の合意
「日華協議記録」
の内容に即したものであるが、
治外法権、租界の撤廃、二年以内の完全撤兵などの項目はなかった……。》
これは メッセージ 1800 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年12月5日の揚子江啓開作戦
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/31 18:30 投稿番号: [1801 / 2250]
戦史叢書
『中国方面海軍作戦1』
459〜460p
《 五日の経過、
江陰付近の南岸一帯は完全に我が手に帰し、
北岸の残敵も少数となった模様であった。
クーパーバンク付近は四日の探掃で、機雷礁の存在が確実となった。
江陰北水道啓開
前路警戒隊は、クロッシング付近に集結して啓開作業の掩護態勢をとり、
舟艇をもって逐次北水道を略掃するよう命ぜられ、
第二十四駆遂隊の各艇内火艇一隻計四隻をもって五日
11:30〜18:30
掃海作業し、
その結果クーパーバンク・ビーコンの距岸一五〇米から南方約五〇米間隔に
機雷四個確認拘束、その南方約五〇米の機雷三個
(四日
「八重山、安宅」
小掃海隊発見)
と共に計七個の機雷に浮標を付けた。
そして六日朝から掃海を続行し、右機雷を処分するに決した。
また陸戦隊員を揚陸して機雷衛所を捜索したが、衛所及び敵兵を見なかった。
南水道の清掃
「保津、勢多」
及び掃海隊の曳船四隻は福姜沙水路の清掃を続行し、
南水道閉塞線での清掃を完了した。
宮里大佐指揮の特別作業隊は閉塞線上に可航水路を発見した。
「保津」
は午後、閉塞線下流近距離に転錨した。
四日〜五日の南岸偵察成果
四日
「保津」
から上陸した聯合陸戦隊は
同日長山を占領し、機雷管制所を捜索したが発見し得ず、五日朝撤退し帰艦した。
「保津」
艦長は五日午後、陸軍部隊と連絡を遂げ巫山山頂に
陸戦隊員を駐泊させ、陸軍との連絡に当たらせた。
南岸調査の結果、粛山電電学校に数種の機雷
(触発及び視発)
多数あり、
江岸に敷設準備中の視発機雷十数個があることを知った。
また管制用電纜
(でんらん:ケーブル)
らしいものが粛山江岸に一本、
長山江岸に二本あり、長山には電纜を引っ込んだ管制所らしいものを認めた。
第二、 第三掃海隊編入、 「八重山」除かる
五日付、第二、第三掃海隊が第一警戒部隊に編入された。
第二掃海隊は天塩丸、間宮丸、雄基丸、高砂丸、安宅丸
及び第一、第二、第三玉園丸の計八隻、
第三掃海隊は八幡丸及び第一、第二、第三、第六、第七博多丸の
計六隻の特設掃海艇で掃成されていた。
「八重山」
は第一警戒部隊から除かれた。》
これは メッセージ 1793 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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