1938年12月8日 汪兆銘脱出できず
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/05 15:47 投稿番号: [1813 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
文春文庫
183〜184p
《 特派員梅思平は、十二月一日に香港に帰着し、
元亜州司長高宗武を通じて、上海で待機今井中佐に連絡した。
汪兆銘は八日に重慶を出発し、成都経由で十日に昆明に到着する。
「脱出」
は機密を要するので、日本側の和平条件発表は、汪が安着したあと、
十二日ごろにしてほしい
−。
東京は色めきたち、近衛首相の声明発表は十一日、
大阪市主催の中之島公会堂における演説会でおこなうことになり、
重大発表をする旨を新聞で報道し、陸軍次官も中支那派遣軍に通報した。
−
ところが、
汪兆銘は、 「脱出」
できなかった。
その予定日の十二月八日、蒋介石が桂林から重慶にもどり、しかも、翌日、
行政院長孔祥熙、秘書長張群、外交部長王寵恵とともに汪兆銘をまねき、
「今後大計」
を協議したからである。
その席上、蒋介石は、
「只要我政府不興日本言和、則日本無法亡我」
と、強調した。
こと露見か − と、汪兆銘はぎくりとしたが、
蒋介石はそれ以上は対日和平問題にはふれず、
格別の
「危機」
は感得されなかった、という。
東京では、事態の急変のため、近衛首相は
「風邪」
を理由に大阪講演をとりやめ、
さらに 〝重大発表〟 も無期延期した。
駐日米大使グルーは、〝重大発表〟 は
「呉佩孚工作」
の成功の公表だろうと
推理していたので、その中止は工作の失敗によるものと、解釈した。》
これは メッセージ 1802 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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