1939年1月17日 汪兆銘派への刺客
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/18 16:56 投稿番号: [1840 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
196〜198p
《 刺客の活躍も、めだちはじめた。
まっさきに目標にされたのは、
香港で新聞
『南華日報』
を発行していた林相生である。
一月十七日午後五時ごろ、香港の徳輔路を歩行中の林相生は、
二人の男にハンマーでなぐりかかられ、前頭部を強打されて昏倒した。
生命はとりとめたが、あやうく失明する重傷であった。
アモイでは、汪兆銘の甥・沈次高が拳銃で狙撃され、殺された。
あるいは、この種の
「脅威」
に反応してか、
汪兆銘が夫人、秘書とともに渡欧すべく英、独、仏三カ国のビザを申請している、
との情報が、一月二十四日、駐日ドイツ大使館から外務省につたえられた。
この情報をうらづけるように、このころ、重慶では、米参事官ペックが、
外交部
「高官」から次のような話を聞いた。
「汪兆銘は、蒋介石将軍の特別の指示で旅券を交付された。
これは、将軍の汪兆銘にたいする友情のためと、汪をヨーロッパに旅行させて
日本および日本の傀儡政権との接触の機会を少くさせるためである」
参事官ペックによれば、同
「高官」
は、
汪兆銘が日本占領地に新政権を樹立することはあるまい、と語り、
交通部次長彭学佩も、きっぱりと断言した。
「汪先生には、積極的に日本人と一緒に働く意思はまったく無いはずだ」
ドイツ外務省政治局第八課長H・クノールによれば、
一月二十七日ごろ、広東のドイツ総領事館に、汪兆銘の使者があらわれ、
ドイツ大使館代表と香港で会談したい、と申し入れてきた。
つづいて、二月一日、ハノイのドイツ総領事館を汪兆銘の
「義弟」
なる人物が訪ねた。
「義弟」
は国民政府が混乱しており、蒋介石はソ連の影響下におかれている、
日本軍が重慶を攻撃すれば国民政府は蘭州に移る、
そうすればますます蒋介石はソ連に支配される、と解説した。
「義弟」
は、しきりに、自分が汪兆銘に権限をあたえられていることを強調し、
香港に行った帰途に再訪する、と述べた。
この
「義弟」
のハノイ・ドイツ総領事館訪問は、
明らかに外遊のためのビザの申請のためではなく、
日本との和平交渉の仲介または支持の要請とみられた。
・・・・
汪兆銘はドイツからも
「袖」
にされ、刺客の足音にもおびえざるを得ない。
汪兆銘は、ハノイ郊外のホテルから市内コロン街二十七号の家屋に移ったが、
門扉を鉄製にかえ、息をひそめた日常をおくった。
和平救国の指導者というよりは、戦々兢々の亡命者の雰囲気である……。》
これは メッセージ 1834 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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