竹島
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Re: 太政官その1
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2010/09/18 21:16 投稿番号: [18440 / 18519]
>ahirutousagi2様は、1877年3月の太政官判断に影響した地図として、1867年の勝海舟「大日本国沿海略図」(アルゴノート・ダジュレーが竹島・松島)及び1875年の陸軍参謀局「朝鮮全図」(鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島)を挙げられました(No.18320)。
ほかにもあげていますよ。そのあとで二つほどあげていますし、ウィキペディアの地図も参照していいでしょう。太政官判断に影響を与えるものではありませんが、その判断を考える証左として「大日本府県分轄図」も提示しました。アラレさんはいろいろ理由をとってつけていましたが、無意味なことだと思います。内務省地理局の発行であることに間違いはないからです。
その存在が不明確で点線が入っていようが、例外的な地図が存在しようが別にどうでもいいことだと私は思っています。問題は当時の太政官がいかなる情報を取り入れたかであり、それをどう整合的に理解するかがすべてであると思っています。
アラレさんは「ほら、ちがう地図もあるじゃないか。点線があるからそんな島はなかったとおもっていたはず」と仰っているように見受けられますが、それは、どう考えても三条実美の解釈にも、「大日本府県分轄図」にも、何とも整合性がとれない解釈であると思います。こじつければ、陰謀論なり、策略論なりでもでっちあげなければならないことでしょう。実際にアラレさんはそういう類の解釈もあったかに記憶しています。「大日本府県分轄図」の解釈において。
>当時既に、欧米の地図をよく知る人は、竹島=鬱陵島をダジュレー島=松島としたシーボルトの誤りは継承しましたが、アルゴノートは架空の島と認識しており、竹島をアルゴノートに比定しようとは思わなかったのではないでしょうか?
よく知る人がどう考えたにせよ、当時の政府の基本的な立脚点は、アルゴノート=竹島、ダジュレー=松島という理解に、何の違和感も感じられません。官製の地図のほとんどがそうなのですから。点線であろうと、一部、違ったものがあろうと。架空の可能性の理解云々や特定の地図のありようを取り出しても無意味でしょう。時代状況として、複数の見方がありえた状況であり、その中から政府の立場は最大公約数的に理解すべき、つまりその後の天城の調査や三条実美の記述まで含めて、理解すべきだと申し上げています。
アラレさんの上記のご主張はきわめて主観的なものであり、想像以外にそれを裏付ける根拠はほぼないのではないでしょうか。それを説明するために特定の地図や点線を挙げてもしかたないということです。百歩譲ってアラレさんの想像があたっていたとしても、天城や三条実美の規定から、太政官が示した松島の位置は明確に記されているとすべきだと思われます。
>さらにahirutousagi2様は、江戸時代に広く普及していた長久保赤水系の地図や伊能忠敬の地図を無視されているようです。新政府は、明治最初期には、幕府と同様に、竹島・松島を日本領とは考えていませんでした。
ここから以下は、何を仰りたいのか、失礼ながらよく分かりませんでした。私はもともと、島根県への編入以前は、江戸時代まで含めて竹島・松島は無主地としての理解をしているものですので。
以下、続きます。
これは メッセージ 18428 (ararenotomo1 さん)への返信です.
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太政官は古来の竹島松島と認識していた
投稿者: ararenotomo1 投稿日時: 2010/09/15 22:15 投稿番号: [18439 / 18519]
take_8591様、ご意見を有難うございます。まだ少し誤解があるようです。
take_8591様は、“私は、No.18373において「1-01」〜「1-15」の地図を掲げ、明治政府が「松島=ダジュレー島」認識を有していたことを示唆する状況を示しました。対して、ararenotomo1さんは「明治政府は鬱陵島に松島の名も認めました(18429)」と主張されますが、これは松島がダジュレー島であるかリャンコ島であるかを特定できない状態で、「竹島外一島」を版図外としたという主張なのでしょうか。”とお尋ねになったので、先ずお答え致します。
私は“明治政府が「松島=ダジュレー島」認識を有していた”とは思いません。しかし、一部の政府機関、例えば陸海軍や文部省の一部では、シーボルトの間違いに基づく、松島を鬱陵島に比定する地図も作られました。ただし、明治政府の公式見解は1877年の太政官指令「日本海内竹島外一島ヲ版図外ト定ム」で決まった、と私は考えております。No.18332で書いたように、島根県提出資料『原由之大畧』の記述から、「竹島外一島」の竹島は鬱陵島であり、また外一島を、私は松島と特定しました。それは、『隠州視聴合紀』以来、日本人が知っていた「古来の松島」です。島根県提出資料に「松島=ダジュレー島を示唆するものは何もありません」(No.18362)。
>前島密が「松島=ダジュレー島」を否定する言説を残していないことが、明治政府内の「松島=ダジュレー島」認識を示唆するものと言えます。
前島密が太政官に上申した『日本海内竹島外一島地籍編纂方伺』には、「竹島外一島之儀本邦関係無之儀」の文言があります。前述のように、竹島は鬱陵島、外一島は「古来の松島」ですから、前島密は「松島=ダジュレー島」を明確に否定しています。
>私が、No.18373で示した15枚の地図の内、「現存せず(nicht vorhanden)と記された」地図は『1856年アメリカ艦隊ペリー提督の地図』『1855年ハイネの地図』だけではないでしょうか。余の地図は、日本で作成された地図は、アルゴノート島の実存性を示唆しています。
1-02を除く日本人作製の地図で、1-07, 11~15は竹島を点線で描き、1-09, 10は古来の竹島松島の認識で描かれています。アルゴノート島の実存性を示唆しているのは、「橋本玉蘭の大日本四神全図」だけではないでしょうか。
>『磯竹島事略』に、「與地勝覧に謂う于山と欝陵は1島である」旨を記しています。この概念を有していた田辺太一は、『第十四号附け札』で「松島は朝鮮の鬱陵島にして我版図中ならず」と述べ、『第二十三号』で「松島は我邦人の命せる名にして、其実は朝鮮蔚陵島に属する于山なり」と記しています。この事実から、田辺太一は、欝陵・鬱陵・蔚陵・于山を1島と認識していたことが解ります。
確かに、『磯竹島事略』は『輿地勝覽』の「一説于山欝陵本一島」だけを取り出して引用しています。しかし、漢籍に詳しい田辺太一は『輿地勝覽』の「于山島欝陵島一云武陵一云羽陵(分註:二島在縣正東海中・・)」を知っていたと思います(Nos.14932, 18247, 18431)。もし、田辺が欝陵・鬱陵・蔚陵・于山を一島と認識していたならば、「蔚陵島に属する于山なり」は「蔚陵島に属する蔚陵島なり」となってしまいます。
>本スレで問題にしているのは、「明治10年の松島」であり、「元禄期の松島」ではありませんし、明治14年以降に存した「古来の竹島と松島」でもありません。
take_8591様は、「明治10年の松島」を「ダジュレー島」として、「元禄期の松島」とは異なると考えておられるようです。しかし私は、「明治10年の松島」を太政官指令の外一島である「古来の松島」として、「元禄期の松島」と同一のものと考えます。太政官指令が根拠の一つにした『原由之大畧』は、松島を「次ニ一島アリ松島ト呼フ周囲三十町許竹島ト同一線路ニ在リ」と書いていますが、「元禄期の松島」を記した『磯竹島覺書』も、「松嶋両國江附属之嶋ニ而ハ無御座候竹嶋江渡海之筋ニ在之嶋ニ而御座候」即ち、竹島への渡海の筋としています。明治14年以降に存した「古来の竹島と松島」の意味はよく分かりませんが、「古来の竹島」は鬱陵島、「古来の松島」は現竹島、と私は認識しています。
これは メッセージ 18433 (take_8591 さん)への返信です.
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日清両帝国図 & 釣魚島解密
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2010/09/13 23:27 投稿番号: [18438 / 18519]
これは メッセージ 18436 (senkaku_islands さん)への返信です.
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Re: 竹島展望台 & 台湾も認めていた
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2010/09/12 11:20 投稿番号: [18437 / 18519]
私はこの掲示板で何も案件は抱えていないので、「chaamieyさん案件」などという言い方はやめていただけませんか?
これは メッセージ 18436 (senkaku_islands さん)への返信です.
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竹島展望台 & 台湾も認めていた
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2010/09/12 07:10 投稿番号: [18436 / 18519]
これは メッセージ 18423 (senkaku_islands さん)への返信です.
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世界中がダジュレー島とは別に鬱陵島を認定
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/09/12 00:59 投稿番号: [18435 / 18519]
林子平は、竹島とは別に鬱陵島を描きました。
1855年の英国は、ダジュレー島とは別に于山島鬱陵島を描きました。
『Japan and Korea 1855』
http://collections.lib.uwm.edu/cdm4/item_viewer.php?CISOROOT=/agdm&CISOPTR=704&CISOBOX=1&REC=12
この様に、世界中が、鬱陵島を半島の近くに在る島であり、ダジュレー島とは異なる島であるとの認識を持っていました。原因は、韓国が、『與地勝覧』で「半島から、欝陵島の峯頭の樹木及山根の沙渚が、歴歴可見である」と当時の漢字文化圏の世界に知らせたことにあります。この様に記載されている『與地勝覧』を読んだ者が「鬱陵島を半島の近くに在る島」と認識するのは当然のことです。
1846年の『carte de la Coree』及び1899年の『大韓全図』は、半島の姿形を比較的正確に描いています。この正確性に比較して、鬱陵島の大きさ・属島の数と形は、非常に劣悪です。又、半島の姿形が正確に描かれているとの前提を置く場合、半島からの距離も、『carte de la Coree』は半分程度・『大韓全図』は3分1程度に描かれています。
この様に、李氏朝鮮の末期頃の認識が、『carte de la Coree』及び『大韓全図』が描く鬱陵島は、ダジュレー島とは異なる島であるとの認識を持っていたと認定するに合理性があります。16世紀〜19世紀の朝鮮が、鬱陵島とダジュレー島が同じ島であると認識していたとするには無理があります。
これは メッセージ 18434 (take_8591 さん)への返信です.
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世界人独島理解16−6
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/09/12 00:32 投稿番号: [18434 / 18519]
「世界人が独島問題を理解するための16のポイント」シン・ヨンハ
http://plaza1.snu.ac.kr/~bigbear1/booklet/dokdo16point.pdf6
西ヨーロッパの 1737年の地図も、独島を朝鮮領土として描きました。
(1)
フランスの有名な地理学者ダンヴィル(B.B.D'Anville)が 1737年に朝鮮王国全図(Royaume de Coree)を描いたが、独島と鬱陵島を朝鮮領土として描きました。ダンヴィルの地図では独島(于山島)と鬱陵島を韓国の東海岸により近接して描き、独島が韓国領土であることを一層明瞭に表示しました。
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1737年ダンヴィル図の画像
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1737年にフランスの地理学者ダンヴィル(J.B.B.D'Anville)が描いた『朝鮮王国全図』。独島と鬱陵島を韓国の東海岸により近接して描き、独島が韓国領土であることを一層明瞭に表示しています。
(2)
イギリスの地図学者ボーウェン(E.Bowen)が1752年に描いた朝鮮王国図(Carte du Royaume de Kau-Li ou Coree)においても独島と鬱陵島を韓半島の東海岸に非常に近接して描き、鬱陵島と独島が朝鮮領土であることを明白に表示しました。また、東海の名称を「朝鮮(韓国)海」(Mer de Coree)と表記したことも注目すべき特徴です。
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1755年ボーウェン図の画像
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イギリスの地図製作家ボーウェンが1755年に描いた朝鮮王国全図 (ソウル歴史博物館所蔵)。独島と鬱陵島を韓半島に一層近接して描き、独島と鬱陵島が韓国領土であることを示しました。東海を「朝鮮海」(Mer de Coree)と表記したことも大きな特徴です。
この外、西洋の18・19世紀の地図で韓半島周辺の島々を描いた諸地図は、鬱陵島、独島を全て韓国の領土と認知して描いています。
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以上は、chaamieyさんの翻訳
http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/52668041.html
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Re: 誰もリャンコ島を想起していなかった
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/09/11 21:06 投稿番号: [18433 / 18519]
3
明治初年の于山島認識
明治初年に編纂された『磯竹島事略』に、「與地勝覧に謂う于山と欝陵は1島である」旨を記しています。この概念を有していた田辺太一は、『第十四号附け札』で「松島は
朝鮮の鬱陵島にして我版図中ならず」と述べ、『第二十三号』で「松島は我邦人の命せる名にして、其実は朝鮮蔚陵島に属する于山なり」と記しています。
この事実から、田辺太一は、欝陵・鬱陵・蔚陵・于山を1島と認識していたことが解ります。
これは『與地勝覧』→『磯竹島事略』→『第十四号附け札』→『第二十三号』と読み込んだ結果ですが、ararenotomo1さんのそれは『與地勝覧』から直に『第二十三号』を表示し自分に不都合な文献を除外して得た思い込みに過ぎません。
磯竹島事略
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04_01/takeshima04c.data/shiryou-4-1-2.pdf竹島考證 下
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a343tan1649-1881/4
明治10年の松島
本スレで問題にしているのは、「明治10年の松島」であり、「元禄期の松島」ではありませんし、明治14年以降に存した「古来の竹島と松島」でもありません。
5
本スレッド
太政官は竹島外一島を鬱陵島・現竹島と認識
ararenotomo1
18362
L
太政官は竹島と外一島を共に松島と認識
take_8591
18366
L
太政官は竹島と外一島を共に・・・認識
2
take_8591
18373
L
太政官は竹島と外一島を共に・・・
3
take_8591
18374
−L
Re:
太政官は竹島と外一島を共に松島と認識
ararenotomo1
18386
−−L
誰もリャンコ島を想起していなかった1
take_8591
18398
−−L
誰もリャンコ島を想起していなかった2
take_8591
18399
−−L
誰もリャンコ島を想起していなかった3
take_8591
18400
−−−L
Re:
誰もリャンコ島を想起していなかった
ararenotomo1
18429
−−−−L
Re:
誰もリャンコ島を想起していなかった
take_8591
18430
−−−−−L
>Re:
誰もリャンコ島を想起していなかった
ararenotomo1
18431
これは メッセージ 18432 (take_8591 さん)への返信です.
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Re: 誰もリャンコ島を想起していなかった
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/09/11 20:54 投稿番号: [18432 / 18519]
1
松島=ダジュレー島を示唆するもの
私は、「明治政府が言葉を使用して意思統一を図っている組織である限り、「松島」の文言を使用した命令・報告が、ある時はダジュレー島とし、又ある時はリャンコ島とすることはあり得ません。(18398)」と主張し、ararenotomo1さんは「松島=ダジュレー島を示唆するものは何もありません(18362)」と主張されます。(註)「示唆」とは「それとなく知らせること。ほのめかすこと。」と定義されます。
そこで、私は、No.18373において「1-01」〜「1-15」の地図を掲げ、明治政府が「松島=ダジュレー島」認識を有していたことを示唆する状況を示しました。
対して、ararenotomo1さんは「明治政府は鬱陵島に松島の名も認めました(18429)」と主張されますが、これは松島がダジュレー島であるかリャンコ島であるかを特定できない状態で、「竹島外一島」を版図外としたという主張なのでしょうか。
又、ararenotomo1さんは「原由之大畧は、松島が竹島へ行く途中の島であることを明確に述べている。(18429)」と主張されますが、誰も「松島が竹島へ行く途中の島である」を争っていません。
又、ararenotomo1さんは「地理に精通していた前島密は、この松島がリャンコ島であることを知っていたようです」と主張されます。しかし、前島密が、『1-07
1867年
勝海舟の大日本沿海略図(18373)』と異なる地理認識を有していたと出来る状況はありません。尚、「鹿児島・対馬から北海道まで日本全土を何度も旅行し、地理には精通していました。(18362)」、「極めて有能な前島密は最新情報に詳しかったでしょう。(18431)」というararenotomo1さんの推論は、前島密が「松島=ダジュレー島」の認識を有していなかった根拠とはなりえません。むしろ、かかる前島密が「松島=ダジュレー島」を否定する言説を残していないことが、明示政府内の「松島=ダジュレー島」認識を示唆するものと言えます。
2
竹島=アルゴノート島の存在性
ararenotomo1さんは「現存せず(nicht vorhanden)と記されたアルゴノート島に比定するなど、全く無意味でしょう。(18429)」と主張されます。
しかし、私が、No.18373で示した15枚の地図の内、「現存せず(nicht vorhanden)と記された」地図は『1856年
アメリカ艦隊ペリー提督の地図』『1855年
ハイネの地図』だけではないでしょうか。余の地図は、日本で作成された地図は、アルゴノート島の実存性を示唆しています。すると、「全く無意味でしょう(18429)」との主張は、全く無意味でしょう。
又、No.18374等で示したように、当時の情報を総合すると、朝鮮が鬱陵島とする島がアルゴノート島である可能性が高かったと認められます。明治政府が自分で確認することなく、「アルゴノート島は現存せず」との決定を下すことはできませんし、「現存せず」の島に名前を付けても何ら問題ないと思われます。
明治13年に天城艦が松島に廻航する迄の間、明治政府はアルゴノート島の実存性を考慮して政策を決定していたとするのが合理的です。
これは メッセージ 18431 (ararenotomo1 さん)への返信です.
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>Re: 誰もリャンコ島を想起していなかった
投稿者: ararenotomo1 投稿日時: 2010/09/10 07:08 投稿番号: [18431 / 18519]
take_8591様、早速のレスポンスに感謝します。
take_8591様は、前島密は『勝海舟の大日本沿海略図』のダジュレー島=松島とした地理認識を引継ぎ「この松島がリャンコ島であることを知っていた」に結びつく情報は存在しない、と述べられました。しかし、「ウィキペディア:竹島外一島」は、“前島密らは欧米列強各国からの相次ぐ情報で、シーボルト海図以前の徳川時代に「松島」と呼ばれていた島は、『大日本国沿海略図』では「リエンコヲルトロック」となっていることを知っていた。”と書いています(No.18362)。極めて有能な前島密は最新情報に詳しかったでしょう。
take_8591様はまた、“前島密には、『勝海舟の大日本沿海略図』と異なる地理認識を有していた場合、その事を明示的に示す義務があります。”と述べられましたが、私には全く理解できません。英国海図を観て作ったとされる勝海舟識『大日本國沿海略圖』と異なる地理認識を有している事を、何故、大久保利通の信頼の篤い前島密が、明示的に示す義務があるのでしょうか?又そうしなければ、何故、上司同僚部下は前島密が1867年の『大日本國沿海略圖』の地理認識を有していると判断するのでしょうか?
>川上健三『竹島の歴史地理学的研究』は、「竹島外一島」に触れていませんから、そこで使用されている「古来の竹島と松島」というのは1880年以降の知見に基づくものと推察できます。ararenotomo1さんは、1877年において「古来の竹島と松島」という概念が存したという主張ですから、川上健三氏のそれとは異なる概念です。
よく分かりませんが、川上健三氏は、「竹島外一島」とは関係なく、「古来の竹島と松島」を、シーボルトが比定した竹島=アルゴノート島や松島=ダジュレー島と区別するために使いました。私も同様です。
>朝鮮名于山島をLiancourt Rocksと呼んだ事実はありません。
北澤正誠編『竹島考證』(1881)によると、外務省交信局長田邉太一は「松島ハ我邦人ノ命セル名ニシテ其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ」と言っています。即ち、朝鮮名于山島は日本名松島であり、前島密らはその松島が「リエンコヲルトロック」であることを知っていました(No.18362)。従って、于山島はLiancourt Rocksとなります。
私はNo.15525で、大田才次郎『新撰朝鮮地理誌』(1894)が、江原道の島嶼として、「竹島、鬱陵島、于山島ハ共ニ東海ノ中ニ散布セル諸島ナリ」と書いている事を示しました。
take_8591様は、“『新撰朝鮮地理誌』は、その5頁で、竹島=アルゴノート島、松島=ダジュレー島としています。その上で、102頁に上記を記述し、松島=鬱陵島+于山島としています。”と述べられました。確かに、5頁の地図は竹島を点線で描き、アルゴノート島の積りかもしれません。ただし、松島=鬱陵島+于山島の于山島は、鬱陵島の北東沖約2kmの竹嶼即ち竹島(Jukdo)と考えられているようですが、これは疑問です。
于山島は竹嶼を指すこともありましたが、先に示したように、田邉太一は、松島は日本人の命名と書いていますから、竹嶼ではあり得ません。日本人は隠岐から鬱陵島への略中間にある島を、17世紀以来松島と呼んできました。それが于山島です(Nos.18247, 18264)。
田邉が、松島は朝鮮鬱陵島に属する于山島である、と認識したのは、『東國輿地勝覽』や『高麗史』の記述からかもしれません。特に、『高麗史』にある「于山武陵本二島相距不遠風日晴明則可望見」、よく晴れた日に武陵(鬱陵島)から望見できる島として于山(松島)を認識したのかもしれません。或いは安陪恭庵『因幡志』(1796)の「欝陵島(日本ニテ是ヲ竹嶋ト称ス)子山嶋(日本ニテ松嶋ト呼)是ナリ」から知ったのかもしれません。これについては下記ブログの49・64番目のコメントも参照して下さい。
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2009/11/4the-22nd-column-seeking-truth-based.htm
l>于山島がLiancourt Rocksに変貌を遂げるのは戦後のことです。
上記は知りませんが、于山島=古来の松島=Liancourt Rocksと考えています(No.18428)。
これは メッセージ 18430 (take_8591 さん)への返信です.
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Re: 誰もリャンコ島を想起していなかった
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/09/08 17:57 投稿番号: [18430 / 18519]
ararenotomo1さんは、「地理に精通していた前島密は、この松島がリャンコ島であることを知っていた」旨の主張をされ、次の経歴を根拠とされます。
前島密は、箱館の諸術調所で武田斐三郎に航海術を学び、1859〜1861年に函館から日本海を南下し太平洋岸に出て函館に戻る航海や、ロシア領ニコライエフスクへの航海等を行っています。また、鹿児島・対馬から北海道まで日本全土を何度も旅行し、地理には精通していました。(No.18362)
この前島密の経歴からすると、その地理認識は『勝海舟の大日本沿海略図』に表されていると考えられ、幕府海軍がダジュレー島=松島としていた認識を引継いでいたと考えられます。すると、ここには、「この松島がリャンコ島であることを知っていた」に結びつく情報は存在しません。
又、内務少輔としての前島密には、『勝海舟の大日本沿海略図』と異なる地理認識を有していた場合、その事を明示的に示す義務があります。「この松島がリャンコ島であることを知っていた」を明示していなければ、上司同僚部下は『勝海舟の大日本沿海略図』の地理認識を有していると判断し、その判断により前島発信情報が処理されます。
古典的名著である川上健三『竹島の歴史地理学的研究』は、「竹島外一島」に触れていませんから、そこで使用されている「古来の竹島と松島」というのは1880年以降の知見に基づくものと推察できます。ararenotomo1さんは、1877年において「古来の竹島と松島」という概念が存したという主張ですから、川上健三氏のそれとは異なる概念です。
>
朝鮮名于山島を、Liancourt RocksやHornet Rocks或いはヲリウツ礁メ子ライ礁等と、勝手な名前を付けた。(No.18429)
>
次の例は、読点をきちっと打ち、竹島、鬱陵島、于山島がそれぞれ別個の島であることを明確に示しています。「江原道島嶼:- - 竹島、鬱陵島、于山島ハ共ニ東海ノ中ニ散布セル諸島ナリ」(大田才次郎『新撰朝鮮地理誌』博文舘, 1894, 復刻大空社, 2005)。(No.15525)
朝鮮名于山島をLiancourt Rocksと呼んだ事実はありません。
例えば、『新撰朝鮮地理誌』は、その5頁で、竹島=アルゴノート島、松島=ダジュレー島としています。その上で、102頁に上記を記述し、松島=鬱陵島+于山島としています。
于山島がLiancourt Rocksに変貌を遂げるのは戦後のことです。
以上検討した様に、ararenotomo1さんは、「古来の竹島と松島」「シーボルトは、竹島を誤って松島=ダジュレー島とした」「朝鮮名于山島をLiancourt Rocksとした」等と、1877年に存在しなった概念を用いて、自説を補強しているに過ぎないと思われます。
これは メッセージ 18429 (ararenotomo1 さん)への返信です.
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Re: 誰もリャンコ島を想起していなかった
投稿者: ararenotomo1 投稿日時: 2010/09/06 22:30 投稿番号: [18429 / 18519]
take_8591様、詳しい長文のご意見をありがとうございます。幾つかの事実誤認と、私の考えに対して少し誤解があるようなので、説明したいと思います。
>1)明治政府が「松島」と呼ぶ島はダジュレー島である。(中略)ararenotomo1さんは、ある時はダジュレー島とし、又ある時はリャンコ島として、ご自分の主張に都合の良いように文献解釈をしていると考えています。
明治政府は鬱陵島に松島の名も認めましたが(No.18248)、ダジュレー島に比定した訳ではありません。私も、「竹島外一島本邦関係無之」の竹島を鬱陵島としましたが、ダジュレー島としたことはありません。又、外一島は、『原由之大畧』の記述「次ニ一島アリ松島ト呼フ周囲三十町許竹島ト同一線路ニ在リ隠岐ヲ距ル八拾里許」から、私は「松島ト呼フ」島と解釈しました。地理に精通していた前島密は、「ウィキペディア:竹島外一島」が書いているように、この松島がリャンコ島であることを知っていたようです(No.18362)。
>「古来の竹島と松島」というのはararenotomo1さんの造語であって、当時の文献に現れた文言ではありません。
15世紀に始まった欧米人の侵略は、18世紀には日本海(東海)に達し、日本も韓国(朝鮮)も幾つかの由緒ある地名を失いかけました。日本名竹島或いは朝鮮名鬱陵島を、アルゴノート島やダジュレー島、日本名松島或いは朝鮮名于山島を、Liancourt RocksやHornet Rocks或いはヲリウツ礁メ子ライ礁等と、勝手な名前を付けたのは、その最たる例でしょう。またシーボルトは、竹島を誤って松島=ダジュレー島としました。それらを区別するため「古来」を使いましたが、私の造語ではありません。古典的名著である川上健三『竹島の歴史地理学的研究』(古今書院, 1966)も使っています。
>ararenotomo1さんは、現代的視点で「元禄期の竹島はダジュレー島」である、又、現代的視点で「鬱陵島はダジュレー島」であるから、明治10年の明治政府は「竹島はダジュレー島」の認識を有していたと主張されますが、論理的に成立しない主張です。
よく理解できませんが、私は“明治政府は「竹島はダジュレー島」の認識を有していたと主張”したことはありません。
>4)朝鮮名「鬱陵島」はアルゴノート島
>ararenotomo1さんが、鬱陵島=ダジュレー島とされる根拠がわかりません。
私は鬱陵島=ダジュレー島としたことはありませんが、take_8591様が欧米人命名のアルゴノート島やダジュレー島に拘る理由が、少し分かりました。take_8591様は、欧米の誤った地図に基づき、ahirutousagi2様と同様に、竹島をアルゴノート島、松島をダジュレー島に比定して、内務省・太政官が「本邦関係無之」とした「竹島外一島」を何れも鬱陵島にしたいのではないかと思います。しかし、先に示したように、『原由之大畧』は、松島が竹島へ行く途中の島であることを明確に述べています。また、その竹島を、現存せず(nicht vorhanden)と記されたアルゴノート島に比定するなど、全く無意味でしょう。
>5)島根県の「松島」認識はより明確になった。
明治14年島根県が提出した『日本海内松島開墾之儀ニ付伺』の松島は、シーボルトが誤って松島とした竹島=鬱陵島のことです。これについての議論はNo.17667を参照して下さい。
最後にtake_8591様は、「ararenotomo1さんが明らかにしているのは元禄期の松島がリャンコ島を意味することのみで、明治政府がリャンコ島を松島と呼んでいた事実と根拠を明らかにされていません。」と書かれました。「元禄期の松島」即ち、寛文7(1667)年の『隠州視聴合紀』にある「戌亥間行二日一夜有松島又一日程有竹島」の松島が、リャンコ島を意味する、とのtake_8591様の考えに同意します。ありがとうございます。
私は、繰返し述べたように(Nos.18184, 18248, 18332, 18333, 18362)、明治政府が版図外とした外一島は、シーボルトが誤ってダジュレー島=松島とした竹島=鬱陵島ではなく、元禄期の松島=古来の松島=リャンコ島=現竹島と考えております。
これは メッセージ 18400 (take_8591 さん)への返信です.
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太政官:架空島アルゴノートに比定?
投稿者: ararenotomo1 投稿日時: 2010/09/06 22:20 投稿番号: [18428 / 18519]
ahirutousagi2様のご意見は、誤解したこともありましたが、だいたいは理解している積りです。しかし、次の点がどうしてもよく分かりません。
ahirutousagi2様は、No.18392で「確かなことは、竹島・松島を判図外とした。それは前後の数々の資料からアルゴノート島・ダジュレー島に比定された、」と書いておられます。また、No.18186では「政府から出ていた資料がことごとく竹島=アルゴノート、松島=ダジュレーであった」と述べておられます。しかし、当時の政府資料がことごとく竹島=アルゴノート、松島=ダジュレーを表しているでしょうか?
ahirutousagi2様は、1877年3月の太政官判断に影響した地図として、1867年の勝海舟「大日本国沿海略図」(アルゴノート・ダジュレーが竹島・松島)及び1875年の陸軍参謀局「朝鮮全図」(鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島)を挙げられました(No.18320)。
勝海舟識『大日本國沿海略圖』は、英国海図を観て作ったとされ、鬱陵島の形をした松島の西北に点線で竹嶋を描き、東南にリェンコヲルトロックとして二つの小島を載せています。参考にした英国海図は、take_8591様がNo.18373で示された1863年のJapan and Korea図と思われますが、これはTako sima or ArgonautをP.D.として点線で表しています。陸軍参謀局『朝鮮全圖』も同様に竹島は点線です。また、Perryの『日本遠征記』の地図は、I. Argonautを現存せず(nicht vorhanden)と記し、島の形を描いていません。さらに、1876年3月刊海軍省水路寮製図課長大後秀勝の『大日本海路(海陸)全圖』では、松島と記された鬱陵島とその南にヲリウツ瀬・メ子ライ瀬の二つの島は描かれていますが、アルゴノートに当たる島はありません(川上健三『竹島の歴史地理学的研究』古今書院, 1966)。当時既に、欧米の地図をよく知る人は、竹島=鬱陵島をダジュレー島=松島としたシーボルトの誤りは継承しましたが、アルゴノートは架空の島と認識しており、竹島をアルゴノートに比定しようとは思わなかったのではないでしょうか?
さらにahirutousagi2様は、江戸時代に広く普及していた長久保赤水系の地図や伊能忠敬の地図を無視されているようです。新政府は、明治最初期には、幕府と同様に、竹島・松島を日本領とは考えていませんでした。1871年の川上寛『大日本地圖』や1873年の中根淑『兵要日本地理小誌全圖』に竹島松島は描かれておりません(Nos.16955, 17667)。
初等地理教科書『日本地誌略』で「(隠岐)西北ノ洋中ニ、松島・竹島アリ、」と書いた大槻修二は、1875年の『日本地誌要略』では「此國ハ、日本海中西邉ノ絶島ニシテ、其西北洋中ニ、松島・竹島ノ兩島アリ、共ニ朝鮮・地方ニ接近スレドモ、亦・居民・統屬ナク、各方ノ人、時ニ来リテ、海獵ノ場トナスト云フ、」と詳述し、松島・竹島を無主地と見做しましたが、西洋図の影響は全く受けていません(No.15715)。
ただし、海軍省は、1876年12月ロシア海軍の海図を翻訳した『朝鮮東海岸圖』を出版し、鬱陵島を松島とし、隠岐よりにヲリウツ礁・メ子ライ礁、朝鮮よりに点線でアルゴナフタ島を描きました(Nos.17667, 17668)。そして、軍艦天城は、1878年と1880年松島を調査し、1883年7月刊行の『水路雑誌』第41号に、「鬱陵島(一名松嶋)」として詳しく記載し、公的に鬱陵島を松島と認定しました。そこで日本政府は、「日本称松島一名竹島朝鮮称蔚陵島」等と鬱陵島に松島の名も許しました。しかし決して、古来の竹島=鬱陵島を否定した訳ではありません(No.18248)。『原由之大畧』にある「磯竹島一ニ竹島ト稱ス隠岐國ノ乾位一百二拾里許ニ在リ周囲凡十里許山峻嶮ニシテ平地少シ・・魚貝ハ枚挙ニ暇アラス就中海鹿鮑ヲ物産ノ最トス・・」や「次ニ一島アリ松島ト呼フ周囲三十町許竹島ト同一線路ニ在リ隠岐ヲ距ル八拾里許樹竹稀ナリ亦魚獸ヲ産ス」を消し去ることは出来ません。
松島という名を鬱陵島に取られたので、本来の松島はリャンコ島等と呼ばれました。しかし次第に、本来の松島の名が復活してきました。1901年の恒屋盛服『朝鮮開化史』は于山島に「日本人ハ松島ト名ク」と注記し(No.15525)、1902年の釜山領事館報告『韓國欝陵島事情』には、「本島ノ正東約五十海里ニ三小島アリ之ヲリャンコ島ト云ヒ本邦人ハ松島ト稱ス」とあります。これら「前後の資料の整合性」からの「答え」は、日本政府が竹島=鬱陵島のみならず「本来の松島=リャンコ島」も版図外にしたことでしょう。
これは メッセージ 18392 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
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東海(日本海)を高麗大和百済海と妥協しよう
投稿者: kundaikun 投稿日時: 2010/09/05 18:15 投稿番号: [18427 / 18519]
東海を高麗大和百済海と妥協しよう
英語では kori-yamato-kudara seaと妥協しよう。。ok?
それでは日本人の大和百済の臣民たちも歓迎するでしょう。
独島(竹島)という名称も高麗大和百済島だと妥協して呼ぼう。。ok?
英語では kori-yamato-kudara island?
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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林子平の2枚の地図
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/09/05 18:14 投稿番号: [18426 / 18519]
これは メッセージ 18424 (take_8591 さん)への返信です.
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シンヨンハ氏の言う「正確」とは ?
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/09/05 17:48 投稿番号: [18425 / 18519]
これは メッセージ 18424 (take_8591 さん)への返信です.
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世界人独島理解16−5
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/09/05 17:25 投稿番号: [18424 / 18519]
「世界人が独島問題を理解するための16のポイント」
シン・ヨンハ
http://plaza1.snu.ac.kr/~bigbear1/booklet/dokdo16point.pdf5
日本で最高に権威のある1875年の古地図も独島は韓国領土だと明白に規定しています。
(1)
日本の有名な実学者林子平が1785年に編纂した『三国通覧図説』の付属地図に『三国接壌之図』があるが、各国の領土を国別に異なる色で彩色した地図です。この地図で、朝鮮は黄色、日本は緑色で彩色されているところ、この地図は東海の中に鬱陵島と独島を正確な位置に描き、朝鮮の色である黄色を彩色して鬱陵島と独島が朝鮮の領土であることを明確にしました。
この地図は、鬱陵島と独島の領有国をさらに明瞭にさせるために、その上に改めて「朝鮮の所有(朝鮮ノ持へ)」と文字まで書き入れました。独島が韓国領土であることをより明白にしたのです。
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三国接壌之図の画像
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1785年、日本の実学者林子平が描いた『三国接壌之図』
(2)
林子平の1875年の『三国通覧図説』とその付属地図である『三国接壌之図』を、ドイツ人クラプロト(J.Klaproth)が1832年にフランス語で翻訳出版しました。この地図でも韓国は黄色、日本は緑色に彩色したが、東海の中の鬱陵島と独島は韓国の色である黄色で彩色して韓国領土であることを明白に表示しました。
クラプロトは、独島と鬱陵島の黄色の島の上に改めて「Takenoshima a la coree(タケシマは朝鮮のもの)」と書き、独島と鬱陵島が韓国領土であることを一層明瞭に明らかにしました。
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三国接壌之図フランス語の画像
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林の『三国通覧図説』と『三国接壌之図』をドイツ人クラプロト(J.Klaproth)が1832年にフランス語で翻訳出版する際に、鬱陵島と独島を韓国の色である黄色で塗って「鬱陵島と独島は韓国の領土(Takenoshima a la coree )」と記録した地図
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以上は、chaamieyさんの翻訳
http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/52639416.html
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固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/18424.html
松島東望楼 & グアテマラ 7日(火曜)
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2010/09/05 07:54 投稿番号: [18423 / 18519]
これは メッセージ 18418 (senkaku_islands さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/18423.html
貴方は、奥さんの姿形を知っていますか
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/09/04 19:06 投稿番号: [18422 / 18519]
1
認識と領有
韓国大統領は、独島問題に対して「長年、連れ添ってきた我女房を、隣の男が俺の女房だ、と言い始めた様なものだ。」としました。(出典:失念)
「長年連れ添ってきた我女房」であれば、その姿形を認識している筈です。隣三軒両隣の奥さんと間違える様なことはありえません。
尚、特定の女性の姿形を知っていても、それは「我が女房」に直結しません。生計を一にしているとか、毎朝の食事を作ってくれるとか、夫婦としての営みをしていて始めて「我が女房」となります。
外務省は、「認識」との文言を使用しています。これは「発見」概念とは異なる状態を想定していると考えられますが、その違いは判りません。勝手ですが、「認識」とは、その島の姿形について他島と峻別できる情報を有し、再訪問可能な程度に航路を把握している状態にあることをいう。とします。
2
韓国によるリャンコ島の認識
于山国は、5世紀頃に最盛期を向かえ12世紀頃まで存続したことになっています。ここに暮らしていた于山国人が、リャンコ島への航海をしていた可能性は否定できません。しかし、この高い航海技術は、李氏朝鮮に引継がれていません。李氏朝鮮が鬱陵島に渡るのに四苦八苦していた状態は、これまで見てきたとおりです。李氏朝鮮に引継がれていないのですから、于山国人による認識は韓国人による認識とすることはできません。
1694年の張漢相は、鬱陵島から東を眺めるもリャンコ島には行きませんでした。1882年の李奎遠は、鬱陵島から東を眺めるも「一挙の石一撮の土なし」としました。この両時、朝鮮は鬱陵島への日本人の進出に悩んでいました。にも関わらず、「一挙の石一撮の土なし」と出来るのですから、この時の朝鮮人はリャンコ島を知らなかったと解されます。
3
日本海にある4つの島
日本海には、リャンコ島程度以上の島が4個あります。隠岐島・リャンコ島・チェクト・鬱陵島です。
韓国が、この4つの島の姿形について他島と峻別できる情報を有し、再訪問可能な程度に航路を把握している状態にあったのは何時からでしょうか。
日本は、遅くとも17世紀初頭には、このこの4つの島を認識していたと出来ます。史料的に裏付けられるのは、17世紀末です。
韓国は、1711年の朴昌錫『鬱陵島圖形』において2島の発見が出来ていると認められますが、4島の発見が確認できるのは1904年の『軍艦新高行動日誌』となります。
これは メッセージ 18419 (take_8591 さん)への返信です.
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竹島(鬱陵島)領有権の確立
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/09/04 18:53 投稿番号: [18421 / 18519]
日朝で和平が成ったのは1607年です。この時、鬱陵島の領有権がどの様になったかは定かではありません。しかし、これより前に始まっていた竹島(鬱陵島)渡海は継続されました。
1615年、幕府は朝鮮に書を送って「磯竹島は日本属島である」と諭すが、朝鮮は「磯竹島とは我国の鬱陵島のことである」としてこれを許しませんでした(通航一覧137巻)。この時、日本は漁業等を行っていました。朝鮮は『與地勝覧」に記載があることから「その島のことは知っているから我のものだ」と反論しました。尚、『芝峰類説』・『西渓雑録』に日本人による鬱陵島渡海の事実が記されていますから、日本人による実効支配の情報はソウル市内迄は届いていたと思われます。しかし、朝鮮朝廷はこの情報に対して何らの策を執りませんでした。
1620年、幕府は、磯竹島に居住していた鷺坂(磯竹)弥左衛門を潜商の罪で捕えました。1615年の返書では「海賊と看做して取り締まる」としていた朝鮮が、1617年に日本に対し警察権の行使を要望したためです。
1620年〜1624年、幕府は大谷村川両家に対し『竹島渡海免許』を与えました。その後、1693年まで両家の竹島渡海事業は継続しますが、免許のコピーを携えた渡海でした。記録では、この事業途上で2回難破し、朝鮮海岸にたどり着いたとされています。1615年に「磯竹島領有権」を日本が主張していると知っていた朝鮮は、『竹島渡海免許』を確認しても、日本に正式な抗議をしませんでした。朝鮮実録にはその記録すら残っていません。
1693年、両家は磯竹島で安龍福を捕らえ、幕府に『竹島渡海免許』の実効性を問いました。対馬藩を介した日本の苦情を受けた朝鮮は、ここで始めて動きました。
以上の様に、幕府は島の実効支配(継続的有効利用)を以って領有と考え、朝鮮は島の発見(認識)を以って領有としていたことが解ります。
これは メッセージ 18419 (take_8591 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/18421.html
一応、隠州視聴合記の解釈
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/09/02 04:06 投稿番号: [18420 / 18519]
http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/52613341.html
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s
隠州在北海中故隠岐嶋ト云
按訓海中言遠岐故名○
其在巽地言嶋前也
知夫郡海部郡属焉
其位震地言嶋後也
周吉郡穏地郡属之・・・・・・・其府者周吉郡南岸西郷豊崎也
従是南至雲州美穂関三十五里
辰巳至伯州赤碕浦四十里、未申至石州温泉津五十八里
自子至卯無可往地
戍亥間行二日一有松嶋
又一日程有竹嶋
俗言磯竹島多竹魚海鹿
此二島無人之地
見高麗如自雲州望隠州
然則日本之乾地
以此州為限矣
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e
これを3部に分けます。
1
隠州の中点を求める
「その東南に在るが島前で、その東に在るを島後と言う」と記されています。島後は島前の北東に在りますから、海上の一点から東南と東を眺めていることが解ります。この一点は、竹島を含んだ隠岐州の各島を加重平均して求めた中点と思われます。
又、1里=1海里強に設定して、美穂関・赤碕浦・温泉津からその距離を逆に遡って行けば上記中点に辿り付きます。
2
松島・竹島の存在
上記中点から2日で松島、更に1日で竹島があります。
ここで注意すべきは、美穂関・赤碕浦・温泉津には州名が付いていたのに、松島竹島には州名が付いていません。もし、朝鮮領と考えていたなら、高麗松島・高麗竹島と記す筈です。州名が付いていないのは、斉藤氏が松島竹島を隠州に属すると考えていたからです。隠州視聴合記において、州名が付いていない地名は全て隠州に属しています。少なくとも、大谷村川両家が、葵の御旗を立て出航し、領地保全の朱印状を拝領したと吹聴している松島竹島を朝鮮領と記録する地方官僚はいません。
3
竹島への感慨
辿り着いて更に先を見れば、その向こうに在るのは朝鮮である。
その距離は、雲州と隠州の程しか離れていない。
然らば、即ち、ここが日本の最西北端である。
竹島を含む隠州が日本の限界点であると、感慨にひたる。
これは メッセージ 18419 (take_8591 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/18420.html
世界人独島理解16−4
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/09/02 03:51 投稿番号: [18419 / 18519]
世界人が独島問題を理解するための16のポイント」
http://plaza1.snu.ac.kr/~bigbear1/booklet/dokdo16point.pdf4
日本が独島を歴史的に領有したという根拠は、20世紀初期までただ1件も全くありません。日本政府が提示した17世紀の日本で最も古い文献なども、「独島」は韓国領土だと記録しています。
(1)
日本外務省は、1960年に韓国政府に送った外交文書において、日本は1667年に編纂された『隠州視聴合記』(斎藤豊仙編)において鬱陵島を「竹島」(タケシマ)、独島を「松島」(マツシマ)と呼び、独島を日本の領土として認知したと主張しました。
ところが、いざ『隠州視聴合記』を開いて見れば、この古文献の内容は、独島(松島)と鬱陵島(竹島)から高麗(韓国)を見るのはあたかも日本の雲州から隠岐を見るようであり、この二つの島、独島(松島)と鬱陵島(竹島)は高麗(韓国)に属した島で、日本の西北方の国境は隠岐島(隠州)を限界とすると明白に記録しています。
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隠州視聴合記の画像
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独島を記録した日本最初の古文献、1667年の『隠州視聴合記』は、独島と鬱陵島から高麗を見るのはあたかも雲洲から隠州(隠岐島)を見るようであるので、「日本の西北方の領土は隠州をもって限界とする」と言う要旨の記録
日本最初の独島を記録した古文献も独島が韓国領土であり、日本の西北方の領土は隠岐島を限界とすると記録したのは、歴史的真実がそうだったからです。
(2)
日本外務省は、今回の『2008-10ポイント』(1)において、1779年に描かれた改正日本輿地路程全図(長久保赤水編)が「独島」を認識していたと主張しました。
改正日本輿地路程全図の1846年版原本は、保坂祐二教授によれば、経度緯度がない地図であり、鬱陵島と独島の2島を描いたのは位置だけ描いたのであって日本の領土として描いたのではなく、改訂版の鬱陵島(竹島)、独島(松島)の部分を拡大して見れば、「高麗を見るのは出雲国から隠岐島を見るのと似ている(見高麗猶雲州望隠州)」という文字を2島の上に書き入れたが、この文句は隠州視聴合記の結論の文言と同様であり、鬱陵島、独島の2島が高麗のものであって日本の領土ではないことを教えてくれるのです。
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日本輿地路程全図の画像
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改正日本輿地路程全図の鬱陵島、独島部分の拡大図(保坂祐二教授提供)
隠州視聴合記の説明と同じく鬱陵島(竹島)、独島(松島)を朝鮮領土と見なしている。
改正日本輿地路程全図(1779年)も独島と鬱陵島が韓国領土であることを示唆しているのです。
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以上は、chaamieyさんの翻訳
http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/52613341.html
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鬱陵島の食事 & パラグアイ 4日(土曜)
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2010/09/02 00:10 投稿番号: [18418 / 18519]
これは メッセージ 18377 (senkaku_islands さん)への返信です.
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韓国では詐欺師を知者と呼ぶのか
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/09/01 07:39 投稿番号: [18417 / 18519]
1
慶州にある半月城にはひとつの伝説が残されています。
まだ半月城が建てられる以前のこと。後に新羅第4代国王となる昔脱解は、その土地が非常に縁起のいい場所であることを知りました。ぜひともそこに住みたいと思いましたが、すでにそこには新羅の重臣瓠公の家がありました。あきらめきれない昔脱解はなんとかしてこの土地を手に入れようと一計を案じます。瓠公の家の周りに砥石や金物、炭などを埋めると、後日瓠公に向かって言いました。
「この土地はもともと私の先祖のものなので返してください。私の先祖はこの土地に長く住んでおり、わずかの間他の国に出ただけです。先祖はここで鍛冶屋を営んでいました。きっと家の周辺を掘れば確実な証拠品が出てくるでしょう。」
驚いた瓠公が家の周辺を調べてみると、確かに金属や砥石などが出てきました。それを見た瓠公はしぶしぶながら納得し、この地を手放したそうです。
その後、事件の一部始終が第2代国王、南解王の耳に入りました。たいへん優秀な人物だと喜んだ南解王は昔脱解を婿養子にとり、後の第4代国王としました。昔脱解はこの吉兆の地を王城とすることに定め、それを引き継いで第5代国王、婆娑王が半月城を完成させました。
http://www.pusannavi.com/miru/1073/article/2
于山国が新羅に服属した経緯は、世宗実録地理誌に次のとおりです。
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s
恃險不服
智證王十二年
異斯夫爲何瑟羅州軍主
謂于山人愚悍
難以威來
可以計服
乃多以木造猛獸
分載戰船抵其國
誑之曰
“汝若不服, 則即放此獸”
國人懼來降。
〈地勢の)険しさを頼んで従わないので、智証王12年に、異斯夫が何瑟羅州軍主になったとき、「于山国人々は愚かで荒しくて、威厳では服従させにくいから、計略を以って従わせるのが良い」と言って、木造りの荒しいけだものをたくさん作り、多くの戦船に分けて積んでその国へ行き、欺いて言う「君たちが降伏しなければ、この荒しい獣放すぞ」、そうしたら、その国人々が恐ろしがって来て降伏した。
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e
3
昔脱解にしろ、異斯夫にしろ、上記の説話において『知者』の評価を得ています。
日本若しくは中国において、かかる人物を知者と呼ぶことはありません。本当にこの様な事実があったとしても、本人が隠し周りが隠すことにより、歴史の中で風化し、現在には伝わらないものです。ところが、韓国においては、この様な説話が現在に伝わっているのです。
これは メッセージ 18414 (take_8591 さん)への返信です.
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『輿地勝覧』は改竄されたか?
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/09/01 07:04 投稿番号: [18416 / 18519]
地図とは、「地球表面の一部または全部を一定の割合で縮小し、記号・文字などを用いて平面上に表した図。」と定義されます。
「一定の割合で縮小」したものですから、東に在る物は『東』に、遠くに在る物は『遠く』に描かなければなりません。東西を逆にしたり、遠近を無視したものは地図ではありません。勿論、測量技術が劣悪であるから、今日のように正確には描かれていないのは仕方のない事です。
ところが、シンヨンハ氏は、「于山島が鬱陵島よりも韓半島側に近く描かれているのは・・・より明確に韓国領土として表示されているものと解釈することが合理的です。」と主張されます。
シンヨンハ氏は、意図的に、東西を逆にし、遠近を無視したと主張するのです。
これは、地図の改竄です。
シンヨンハ氏は、「『輿地勝覧』は『改竄』された」と主張しているのです。
シンヨンハ氏は、「輿地勝覧・・・を、当時の漢字文化圏世界に再表明、公布したのです。・・・当時の日本も真実の前に承服したのでした。」と主張します。その一方で、「輿地勝覧は改竄された」とも主張します。
シンヨンハ氏は、改竄された資料に基づく主張であっても、相手方が「真実の前に承服した」態度をしめせば有効であると考えているのです。これは、韓国において詐欺師を知者と呼ぶ風習に基づいています。
これは メッセージ 18414 (take_8591 さん)への返信です.
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輿地勝覧と成宗実録の齟齬
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/09/01 06:54 投稿番号: [18415 / 18519]
『輿地勝覧』の「于山島・鬱陵島」の項は、次の言葉で終わっています。
成宗二年
有告別有三峯島者
乃遣朴宗元往見之。因風濤不得泊而還。同行一船
泊欝陵島
只取大竹大鰒魚。回啓云
島中無居民矣。
成宗実録に次の記事が見つかりました。
1470年12月11日に、永安道から苦情があった。「逃賦を逃れ、國に背き、三峯島に投往する者がいる。」と
1472年3月6日に、朝議を開いて検討した。「三峯島は江原の境に在り、土地が沃饒なのに、海道險阻だから放置していた。対策を講ずる必要がある。」と。
1472年3月20日に、朴宗元を三峯島敬差官に任ずる。
1472年6月12日に、江原道觀察使が報告する。「朴宗元は武陵島の近くで、大風に遭遇し難破して還る。」「しかし、部隊の一部が武陵島に至り、三日間島中を捜索したが、大竹があるのみで、居民はいなかった。」と。
他方、永安道も1471年5月に金漢京を派遣しており、その報告は「島人相接」であった。
朴宗元と金漢京の報告が異なるので、永安道観察使は金自周を派遣した。1472年10月22日に報告する。「三峯島の形を圖にした。島には30余人の朝鮮人がいたので、怖くて還った。」と。
1479年10月26日に、又、永安道から苦情があった。
1480年に、朴宗元を三峯島敬差官に任じて派遣しようとしたら、朴宗元は水路を憚って病気になり、その内梅雨となったので中止した。
以上の状況を次の様に考えます。
1
三峯島は明らかに独島ではありません。尚、三峯島敬差官団は、三峯島ではなく武陵島に上陸し捜索しています。
2
「三峯島は江原の境」に在ります。これは、江原境の外と解されます。なぜなら、江原道は三峯島を全く管理していないからです。
3
『輿地勝覧』は1472年の記事で終わっています。その後の事件は無かったことになりました。金漢京・金自周は朝廷ではなく永安道が派遣した官吏ですから、その言動は信用できないとされたのです。そして、信用できない者の言動に載せられて行った施策も又無かったことになりました。
4
『輿地勝覧』が正史であるとすれば、李氏朝鮮は、朴宗元の報告により、鬱陵島を「大竹大鰒魚が採れるだけの島で、潛居する者のいない無人島である。」と認識していました。
5
1472年に朴宗元を派遣してからは、1694年に張漢相を派遣する迄の220年間、李氏朝鮮が放置していた島ですが、粛宗は空島にしていたのは政策であると主張しました。
これは メッセージ 18414 (take_8591 さん)への返信です.
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世界人独島理解16−3
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/08/30 10:42 投稿番号: [18414 / 18519]
世界人が独島問題を理解するための16のポイント」
http://plaza1.snu.ac.kr/~bigbear1/booklet/dokdo16point.pdf3 韓国は、15世紀と16世紀に独島が韓国領土であることを当時の漢字文化圏の世界に知らせました。日本を含めた全ての漢字圏世界がもちろん抗議することなく承服しました。
(1)
朝鮮王朝政府は、1481年に朝鮮王国の領土解説書として『東国輿地勝覧』を編纂発刊しました。続いて50年後の1531年には、この本を増補して『新増東国輿地勝覧』を発刊したが、新たに増補した部分は毎回「新増」と表示したので、初版本がなくても新増本を見れば初版の部分と新増の部分を区別して全て見ることができます。
この『新増東国輿地勝覧』に地方行政所属が明示され説明がつけられている地域は全て朝鮮王国の領土であることを、当時の朝鮮王国政府は当時の漢字文化圏の世界に再表明しました。
『東国輿地勝覧』と『新増東国輿地勝覧』において、「独島(于山島)」と鬱陵島は朝鮮江原道蔚珍県に属する東海の中の2つの島だと説明されています。この本により、朝鮮王朝政府は独島が朝鮮領土であり江原道蔚珍県に属する島であることを、当時の漢字文化圏世界に再表明、公布したのです。もちろん、この時に日本が独島(于山島)は朝鮮領土ではないと反論したことは全くありませんでした。当時の日本も真実の前に承服したのでした。
『新増東国輿地勝覧』には朝鮮領土の解説とともに八道総図(全国地図)と道別地図が添えられています。
(2)
日本外務省は、最近、『2008-10ポイント』(2)において、『新増東国輿地勝覧』の付属地図『八道総図』では于山島(独島)が鬱陵島よりもっと韓半島側に近い内側に描かれているから、于山島(独島)は実在しない架空の島だと主張しました。これは、15世紀の日本の地図の隠岐島が今の位置のとおり正確に描かれていなかったからと言って隠岐島が実在しない架空の島だと主張することと同じ減らず口です。
15世紀の世界のあらゆる古地図は、当時の地図製作能力では位置が今日のように正確には描かれていません。ヨーロッパと日本の古地図も全てそうです。『八道総図』において于山島(独島)が鬱陵島よりも韓半島側に近く描かれているのは、領土問題と関連しては、鬱陵島が韓国領土である以上、鬱陵島よりもさらに韓半島に近く描かれている于山島(独島)は、より明確に韓国領土として表示されているものと解釈することが合理的です。
韓国では、地図製図能力の進歩に伴って、18世紀に入れば于山島(独島)は今の「独島」の位置に「于山島」が正確に描かれ、まさに「于山島」が「独島」であることを明確に証明してくれています。18世紀に描かれたチョン・サンギの『東國全圖』がその例です。
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以上は、chaamieyさんの翻訳
http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/52592494.html
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于山と武陵の二島は相去不遠
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/08/30 03:40 投稿番号: [18413 / 18519]
シンヨンハ氏は、「2島が、江原道蔚珍県のすぐ東海の中にあり、距離が遠くない」と翻訳していますから、下條氏の言う「2島は半島から離れていない」の解を踏襲しているように見えます。しかし、シンヨンハ氏の論文解釈も古文献解釈と同様に、独島教の教義に則って解さなければなりません。
「于山島と鬱陵島の2島は(not=が)、距離が遠くない」なのでしょう。
1416年9月2日の金麟雨発言は「武陵島ははるかな海中にあり、人が通わない」です。1437年2月8日の大臣発言は「此島は陸地から遠くて、風水が甚だしく惡い」です。1438年7月15日の兵曹発言は「海中絶域」です。1438年7月26日の江原道監司発言は「近頃の者は、大洋を渡るのを恐れている」です。
この様に、半島と鬱陵島の間は「相去遠い」という認識が朝廷内にあった事実を示しています。
では、鬱陵島と独島の間はどうなのでしょうか。その距離は、半島と鬱陵島の間とほぼ同じですが、鬱陵島はとにかく行き着くことができれば良いのですが、独島では生活できませんから往復の距離を設定しなければなりませんん。仮に、鬱陵島独島間に穏やかな海が広がっているとしても、「相去遠い」と判断せざるをえません。
すると、「相去不遠」とする2島の内の1島は架空の島であるか、チェクトと解するかしかありません。
これは メッセージ 18404 (take_8591 さん)への返信です.
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三陟都護府蔚珍縣に属するか于山島
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/08/30 03:28 投稿番号: [18412 / 18519]
シンヨンハ氏は、「韓国は、高麗時代は勿論、朝鮮王である世宗が独島を江原道蔚珍県に属した朝鮮領土として統治したことを記録しています。」と主張されますが、何に依拠した主張なのか判りません。
1417年2月8日・1436年6月19日・1437年2月8日と3回に渡って、鬱陵島の籍を江原道に入れる建白が為されるが、何れも却下されています。又、于山茂陵等處按撫使の金麟雨・茂陵島巡審敬差官の南薈はソウルから命令されているのです。按撫使派遣が江原道の裁量に任されていなかった事が解ります。この様に、「世宗が独島を江原道蔚珍県に属した朝鮮領土として統治」していなかった記録のみが残っているのです。
1425年10月20日の王発言は「捕還した逃民は、潛從他國ではない。」です。これを「他国から潜む」とは解せませんから、「他国に従いて潜む」と解します。1438年7月15日の兵曹発言は「茂陵島が本國之地に係ると雖も、海中絶域なので、國家は縣邑を置いていない。」です。この「係る」の解釈は微妙ですが、本国の地とは別に茂陵島があると解されます。この様に、朝鮮領土で無かったことも明白です。
尚、金麟雨と南薈を于山島に派遣した目的は、職場放棄した逃隱者を連れ戻し、税金を納めさせることですから、于山島が独島でないことも明らかです。
これは メッセージ 18404 (take_8591 さん)への返信です.
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世宗実録の鬱陵島記事
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/08/30 03:16 投稿番号: [18411 / 18519]
1419年3月29日
武陵島に潛居しようと謀議した者を杖一百にした。
1419年4月1日
武陵出來男婦共十七名が、平丘驛に至り、絶糧となる。然るに、これを援ける者がいない。王は救済命令を出した。
1423年-月-日
武陵島に男婦28名が逃げた。
1425年5月-日
武陵島に男婦7名を残して平海に来た者を捕らえた。
1425年8月8日
金麟雨を于山武陵等處按撫使に任じて、刷還を命じた。
1425年10月20日
金麟雨が本島で20名を逮捕し、官員46人を失った。王は「何が益なのか。この島には別段の産物もない。」と言った。
1425年10月20日
王が「逃げた理由は賦役を兔れたと解される。」「捕還した逃民は、潛從他國ではない。赦前の犯罪だから、罪を加えるのは宜しくない。」と言うので、逃民を深遠な山郡に置き、3年後に赦免するようにした。
1425年10月26日
于山茂陵等處按撫使の金麟雨を賞する。
1425年11月20日
茂陵島の帰途に難破した者の慰霊祭を行う。
1425年12月28日
漂流者10名が日本から帰国した。36人は溺死した。
1426年12月13日
茂陵島と対馬に逃げて火藥秘術を教えないか心配なので、沿海で火薬を造らない様にした。
1432年-月-日
『新撰八道地理志』編纂。二島相去不遠
風日芿明
則可望見。
1436年6月19日
江原道監司柳季聞啓。「武陵島・牛山は土沃多産だから移民してはどうか。」
1437年2月8日
「茂陵島は土地が半島の10倍も肥えている。嶺東の藩籍としてはどうか」の江原道監司建白あり。「此島は陸地から遠くて、風水が甚だしく惡い。郡縣は置けない。」と反対あり。「茂陵島が無人になって久しい。若し倭奴が先據すれば、將來之患となる。毎年人を送って島を探索する様にしてはどうか。」と結論する。
1438年4月21日
武陵島は土沃可居なので、南薈と曹敏を茂陵島巡審敬差官にした。
1438年7月15日
南薈と曹敏は、男女66人を逮捕し、土地の産物を持ち帰った。
1438年7月15日
發船一日一夜乃至・・・東西一日程, 南北一日半程
1438年7月15日
議政府據兵曹呈啓。茂陵島が本國之地に係ると雖も、海中絶域なので、國家は縣邑を置いていない。逃隱者への逃避之罪は容赦しないが、温情を以って罰せよ。
1438年7月26日
傳旨江原道監司。茂陵島は本来人の住む処である。昔は往來之地であった。然に、近頃の者は、大洋を渡るのを恐れている。昼夜これを憂慮している。
1438年11月25日
茂陵島に逃入した首謀者を絞刑に処した。従犯は流刑。
1439年2月7日
茂陵島で暮らしていた者を絞刑に処した。
1454年-月-日
世宗実録地理誌。三陟都護府
蔚珍縣。于山武陵二島
在縣正東海中。【二島
相去不遠
風日芿明則可望見
新羅時稱于山國
一云鬱陵島
地方百里・・・
これは メッセージ 18404 (take_8591 さん)への返信です.
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太宗実録の鬱陵島記事
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/08/30 03:06 投稿番号: [18410 / 18519]
1403年8月11日
江陵道の武陵島の居民を半島に出るように言い付けた。
1407年3月16日
対馬島守護宗貞茂が、武陵島に移住して暮すことを要請したが、これを断る.
1412年4月15日
流山國島人12名が江原道を訪ねて曰く。「私達は武陵島で生長したが、今は11戸60余人で流山國島で住んでいる。」と。觀察使は、彼らが逃げないように通州高城杆城に分置した。
1416年9月2日
江原道都觀察使は聞いた事がある。「武陵島の周回は七息で、傍に小島がある。昔、方之用が十五家を従え、時に假倭寇を為した。」と。
1416年9月2日
三陟人金麟雨は奏上した。「武陵島ははるかな海中にあり、人が通わない。軍役を避ける者や逃亡者が島に入る。若し島に多くの人が入れば倭寇が必ず入り、江原道を侵す事になる。」と。
1416年9月2日
金麟雨を武陵等處安撫使にし、其頭目を諭す様に命じた。
1417年2月5日
金麟雨が于山島から還り報告する。「土地の産物を献上する。居住民3人を率いてきた。其島には、15戸男女86人が住む。」
1417年2月8日
「物資と主帥を送って慰撫し、土貢を納めさせてはどうか。」と建議あり、王は「彼らは、役を逃れ楽に暮らすのが目的だから、土貢を定めると定着しない。」と許可しなかった。
1417年2月8日
金麟雨に于山武陵等處の居人を出陸させるよう命じた。
1417年2月8日
于山人3名には、各衣一襲を与えた。
1417年8月6日
倭が于山、武陵を寇した。
これは メッセージ 18404 (take_8591 さん)への返信です.
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Re: パクッた竹島にパクリ守護神
投稿者: kiyoakl 投稿日時: 2010/08/27 20:38 投稿番号: [18409 / 18519]
本物がテコンV倒して竹島を奪還すればいい
これは メッセージ 18408 (freefigh さん)への返信です.
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パクッた竹島にパクリ守護神
投稿者: freefigh 投稿日時: 2010/08/27 20:14 投稿番号: [18408 / 18519]
韓国政府は「マジンガーZ」のパクリアニメの「テコンV」を竹島の守護神にしたそうな。
まさに朝鮮人の大詐欺精神を象徴する話です。
「テコンVよ!
お前に正義の心があるなら、日本のために竹島を奪還せよ!!」
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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ほらね
投稿者: heisinokumaarasi 投稿日時: 2010/08/27 19:13 投稿番号: [18407 / 18519]
珍走団・成人式で暴れる糞ガキ・特攻服(朝鮮進駐軍)・・・在日チョン・部落民
ツバや痰を吐く・下賤・下品な行為・発言・・・・・・・・・在日チョン・シナ人
所かまわず脱糞・放尿・ゴミのポイ捨て・・・・・・・・・・シナ人・在日チョン
街の落書き・器物破損・日本を汚す・・・・・・・・・・・・在日チョン
エセ街宣右翼(下劣な罵声・大音量の街宣・下品な黒車)・・在日チョン
DQN車・ビグスクや車での迷惑大音量・・・・・・・・・・在日チョン・部落民・大阪系のバカ
凶悪犯罪(強姦・殺人・強盗・窃盗)・薬物・・・・・・・・在日チョン・シナ人・南北朝鮮・部落民
暴力団(やくざ)・チンピラ・ホスト・クズ男・・・・・・・在日チョン・部落民
振り込み詐偽・その他詐偽・嘘つき・裏切り・・・・・・・・在日チョン・シナ人
サラ金・ヤミ金・パチンコ・その他イカサマ商売・・・・・・在日チョン・南北朝鮮
民主、社民、共産、公明の支持者・反日左翼・日教組・・・・在日チョン・シナ人・南北朝鮮・部落民
創価学会・統一教会・その他カルト・・・・・・・・・・・・在日チョン・シナ人・南北朝鮮
差別・被害者捏造ビジネス・金に卑しい・・・・・・・・・・在日チョン・部落民
反日マスゴミ(朝日・毎日・TBS・電通・NHK等)・・・シナ・南北朝鮮・在日南北チョン
【まとめ】
日本のレベル低下・下賤・下劣な文化や犯罪・・・・・・・・在日チョン・シナ人・部落民の仕業
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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于山鬱陵二島と鬱陵于山二島
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/08/27 18:42 投稿番号: [18406 / 18519]
物には序列があり、これを侵してはなりません。
この理念、朝鮮朱子学において、病的に強いものがあります。
すると、「于山鬱陵二島」と「鬱陵于山二島」という概念は、全く異なる概念であると推察されます。
「于山鬱陵二島」の概念を端的に現しているのが、『與地勝覧』に掲載された「八道総図」です。「八道総図」に于山島は半島と鬱陵島の間に描かれています。『與地勝覧』本文は「一説于山欝陵本一島」と記されています。又、世宗実録地理誌と同年代に編纂された『高麗史』に「一云于山武陵本二島」と記されています。
この様に、日本海上にある于山国が、2島で構成されているのか、1島なのか判然としない状態をして「于山鬱陵二島」と表現されているのが明らかです。
1694年李氏朝鮮は、張漢相を鬱陵島に派遣しました。しかし、張漢相はチェクトと独島を遠望したと推察されますが、何れの島に対しても「于山島」の名を冠することが出来ませんでした。1711年李氏朝鮮は、朴昌錫を鬱陵島に派遣しました。朴昌錫は鬱陵島圖形を残しました。鬱陵島圖形はチェクトを「于山島」と命名し、「海長竹田
所謂于山島」と記しました。1808年李氏朝鮮は、万機要覧を編纂しました。万機要覧は「鬱陵于山
皆于山國地」と記しました。
この様に、日本海上にある于山国が鬱陵島とチェクトで構成されていると明確に認識した場合、「鬱陵于山二島」と表現されているのが明らかです。
これは メッセージ 18404 (take_8591 さん)への返信です.
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于山島鬱陵島の2島は朝鮮領ではない
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/08/27 18:24 投稿番号: [18405 / 18519]
シンヨンハ氏は、「韓国は、高麗時代は勿論、朝鮮王である世宗が独島を江原道蔚珍県に属した朝鮮領土として統治したことを記録しています。」と主張されますが、何に依拠した主張なのか判りません。
先ず、『世宗実録地理誌』は、于山島鬱陵島を「規式」に則って記録していません。「規式」に則れば、「陸地より相去る水路の息数」を記録しなければなりませんが、シンヨンハ氏は規式に則った記録は存在せず、ただ、于山島鬱陵島の状況を記録しているに過ぎないと言い張る様です。
このシンヨンハ氏の主張は、「規式」に則った記録をしていない『世宗実録地理誌』は于山島鬱陵島を李氏朝鮮領として認識していないと結論付けざるを得ません。
次いで、「昔の新羅時代には于山国と称しており、新羅に併合されたことが確認できる」と主張されますが、半島政権による「于山国」認識は、高麗から李氏朝鮮へと継承されています。高麗史は、鬱陵島付近の地域を「于山国」と称しています。更に、万機要覧には「輿地志云
鬱陵・于山
皆于山國地」と記録され、「于山国」が依然として存在していた事が確認できます。
この様に、李氏朝鮮歴代の王は、蔚珍県の東の日本海に「于山国」を認識していたのです。他国との認識を持っているのに、「江原道蔚珍県に属した朝鮮領土」と言える筈がありません。尚、内藤正中氏に拠れば、無人の留守宅に忍び込んで物品を持ち去ろうとも、それに拠って留守宅の所有権を主張できないのだそうです。
下條氏『竹島は日韓どちらのものか』p163〜p165に次のとおりです。
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s
(世宗実録地理誌の編纂においては)、州府郡県の地方官庁では「規式」に準拠して資料が集められたわけだが、これは鬱陵島のような島嶼の場合も同様であった。例えば『慶尚道地理誌』では、島嶼の規式は次のようなものであった。
諸島は、陸地より相去る水路の息数、及び島中、前に在りて人民の接居、農作の有無。
(中略)『慶尚道地理誌』では、興善島は「陸地より相去ること水路10里。人民来住して耕作す」と記された。それが、『新撰八道地理誌』を経て、致死の最終段階である『世宗実録地理誌』では「水路10里。人民来住して耕作す」に落ち着いた。『世宗実録地理誌』では、「規式」の一部である「陸地より相去ること」の一節が削られたのである。
(中略)17世紀末、鬱陵島の領有を巡る争いが起こると、南九萬は当然のように『東国與地勝覧』の「歴々と見える」を蔚珍県から鬱陵島が「見える」と解釈したのである。
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e
これは メッセージ 18404 (take_8591 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/18405.html
世界人独島理解16−2
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/08/27 18:13 投稿番号: [18404 / 18519]
「世界人が独島問題を理解するための16のポイント」−2
http://plaza1.snu.ac.kr/~bigbear1/booklet/dokdo16point.pdf
韓国は、高麗時代は勿論、朝鮮王である世宗が独島を江原道蔚珍県に属した朝鮮領土として統治したことを記録しています。
1
朝鮮王朝世宗大王の統治記録である世宗実録(世宗実録)地理誌は、「独島(于山島)と鬱陵島の2島が、江原道蔚珍県のすぐ東海の中にあり、距離が遠くなく、天気が清明ならば見えて、新羅の時には于山国と称した。」と記録しました。世宗は、“独島(于山島)・鬱陵島按撫使”という職責の金麟雨を、二回も派遣してその統治権を行使しました。
2
世宗実録地理誌は、独島と鬱陵島の2島が、昔の新羅時代には于山国と称しており、新羅に併合されたことが確認できるだけでなく、天気が清明な場合には鬱陵島から独島が見えると記録しました。
東海には少し大きい島として鬱陵島と独島と日本隠岐島の3島があるだけなのに、鬱陵島では韓国東海岸は遠くて見えないし、日本隠岐島も遠くて見えません。ただ、天気が清明な日にだけ独島(于山島)がやや小く見えます。
この事実は、于山島が即ち独島なのを証明することと同時に、15世紀に独島が世宗の統治をずっと受けた朝鮮王国の領土だったことをはっきりと証明しています。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/18404.html
Re: 世界人独島理解16−1
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/08/24 23:56 投稿番号: [18403 / 18519]
1
西暦512年(新羅智証王13年)に于山国が新羅に服属して併合されたので新羅の一地方として編成した。
『三国史記』に「于山国帰服
歳以土宜為貢」(于山国が帰属し毎年の産物を貢いだ)と記されています。この記事により、「512年には独島を領有した」とされるのですね。
すると、日本への「遣新羅使」「遣耽羅使」は、新羅・耽羅が日本領であったことを意味するのでしょうか。「遣唐使」は、日本が唐の一地方であることを意味しません。
又、新羅高麗が、于山国に冊封使を送ったという記録も、于山国が女真族に寇されても防衛の軍隊を送ったという記録もありません。一方、中国は朝鮮に冊封使を送り、秀吉の朝鮮征伐に対抗し軍隊を送り、日清戦争の前には朝鮮防衛の為に軍隊を送りました。この様な中朝関係は、李氏朝鮮が明・清の一地方であった事実を示しています。現在、韓国は独立国家である様ですが、これは明・清に対する忘恩行為ではないでしょうか。
そして、新羅の于山国併合を合法とされながら、日韓併合を違法とする理由はありませんよね。
この愚かな私の歴史認識は修正されねばなりません。今後の展開に興味津々です。
2
于山国の大きい島である「鬱陵島」の名称が固定されると、その付属島である独島に遅くとも15世紀に「于山島」という名称が固定した。
この表現を始めて聞きました。
「于山島」という名称は、15世紀頃からのものなんですね。新羅朝・高麗朝では、何と呼ばれていたのでしょうか。まさか、領有している島に名前が付いていないなんて事はないですよね。今後の展開に興味津々です。
史料的に始めて「于山島」の名前が出てくるのは、武陵等處安撫使の金麟雨が「于山島から帰って来た」と報告する、太宗実録1417年2月5日の記録です。その報告は、「土地の産物は、大竹、水牛の皮、からむし、綿子、検樸木などであり、その島の戸数はおよそ15家族、男女86人である。」となっています。
この様に登場した「于山島」が、どの様にして、人の住めない岩石島へと変貌を遂げるのでしょうか。今後の展開に興味津々です。
3
『万機要覧』軍政編では、于山島(独島)を当時の日本の呼称も記録して、「輿地志にいう、鬱陵島と于山島は皆于山国の地であり、于山島は倭人たちが言う松島だ」としました。
「輿地志云
鬱陵・于山
皆于山國地
于山則
倭所謂
松島也」ですね。
なるほど、1808年頃、日本海には「于山国」があり、その国家は鬱陵島于山島を領有していた事実が解ります。李氏朝鮮は、朝鮮国民が于山国への国外逃亡を防ぐための施策をとっていたことが『万機要覧』に載っています。一方、日本は「于山国」を「松島」と呼び、既に「于山国」を日本領として編入していた事が解ります。
この様に、李氏朝鮮は独立国家と認識し、日本は日本領の一部と認識していた「于山国」が、何時どの様にして韓国領になったのか、今後の展開に興味津々です。
4
「朝鮮全図」は、鬱陵島の東南側の正確な位置に「独島」を描き、「Ousan」(于山)と表記しました。
1846年の金大建による「Ousan(于山)」が、「独島」を意味するというのですね。
しかし、この「Ousan(于山)」は、済州島の牛島の何倍もある大きな島です。しかも、その島は隣接していますから、鬱陵島から92km離れている「独島」と理解するには躊躇せざるを得ません。むしろ、1417年に金麟雨が「于山島」と呼んだ島を、1530年に與地勝覧附属地図が西側に描いている「于山島」を意味すると理解する方が容易です。
まぁ、こんな素人解釈は置いておいて、正確に描かれていた「Ousan(于山)」が何拾分の一にも縮小して独島になるのですから、今後の展開に興味津々です。
これは メッセージ 18378 (chaamiey さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/18403.html
Re: 世界人独島理解16−1
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/08/24 23:41 投稿番号: [18402 / 18519]
このパンフレットのタイトルは、「世界人が独島問題を理解するための16のポイント」です。しかし、ハングルで書かれたものしか無い模様です。
独島学会は、2005/03/01に『韓国の領土
独島物語』を発行し、日本語・中国語・英語など8ヶ国語に翻訳したものをWeb上に公開しています。ところが、2005/11/11に『なぜ日本の獨島領有權主張は誤りなのか』を発行し、日本語に翻訳したものをWeb上に公開していましたが、リンク元の頁を削除しました。
どうやら、多国語に翻訳すると問題が発生するようです。
このパンフレットの『16−3』は『東国輿地勝覧』を示して「独島が韓国領土なのを漢字文化圏世界に知らせました」と宣言しています。
どうやら、独島学会は、世界中がハングル文化圏世界と考えているようです。否、もしかしたら、独島学会の独島理論を理解できるのは、ハングルを解する少数に過ぎないことを自認したのかも知れません。
これは メッセージ 18378 (chaamiey さん)への返信です.
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ハングルを教えたのは日本人だった!
投稿者: heisinokumaarasi 投稿日時: 2010/08/23 19:04 投稿番号: [18401 / 18519]
これは メッセージ 18400 (take_8591 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/18401.html
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