Re: 世界人独島理解16−1
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/08/24 23:56 投稿番号: [18403 / 18519]
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西暦512年(新羅智証王13年)に于山国が新羅に服属して併合されたので新羅の一地方として編成した。
『三国史記』に「于山国帰服 歳以土宜為貢」(于山国が帰属し毎年の産物を貢いだ)と記されています。この記事により、「512年には独島を領有した」とされるのですね。
すると、日本への「遣新羅使」「遣耽羅使」は、新羅・耽羅が日本領であったことを意味するのでしょうか。「遣唐使」は、日本が唐の一地方であることを意味しません。
又、新羅高麗が、于山国に冊封使を送ったという記録も、于山国が女真族に寇されても防衛の軍隊を送ったという記録もありません。一方、中国は朝鮮に冊封使を送り、秀吉の朝鮮征伐に対抗し軍隊を送り、日清戦争の前には朝鮮防衛の為に軍隊を送りました。この様な中朝関係は、李氏朝鮮が明・清の一地方であった事実を示しています。現在、韓国は独立国家である様ですが、これは明・清に対する忘恩行為ではないでしょうか。
そして、新羅の于山国併合を合法とされながら、日韓併合を違法とする理由はありませんよね。
この愚かな私の歴史認識は修正されねばなりません。今後の展開に興味津々です。
2 于山国の大きい島である「鬱陵島」の名称が固定されると、その付属島である独島に遅くとも15世紀に「于山島」という名称が固定した。
この表現を始めて聞きました。
「于山島」という名称は、15世紀頃からのものなんですね。新羅朝・高麗朝では、何と呼ばれていたのでしょうか。まさか、領有している島に名前が付いていないなんて事はないですよね。今後の展開に興味津々です。
史料的に始めて「于山島」の名前が出てくるのは、武陵等處安撫使の金麟雨が「于山島から帰って来た」と報告する、太宗実録1417年2月5日の記録です。その報告は、「土地の産物は、大竹、水牛の皮、からむし、綿子、検樸木などであり、その島の戸数はおよそ15家族、男女86人である。」となっています。
この様に登場した「于山島」が、どの様にして、人の住めない岩石島へと変貌を遂げるのでしょうか。今後の展開に興味津々です。
3 『万機要覧』軍政編では、于山島(独島)を当時の日本の呼称も記録して、「輿地志にいう、鬱陵島と于山島は皆于山国の地であり、于山島は倭人たちが言う松島だ」としました。
「輿地志云 鬱陵・于山 皆于山國地 于山則 倭所謂 松島也」ですね。
なるほど、1808年頃、日本海には「于山国」があり、その国家は鬱陵島于山島を領有していた事実が解ります。李氏朝鮮は、朝鮮国民が于山国への国外逃亡を防ぐための施策をとっていたことが『万機要覧』に載っています。一方、日本は「于山国」を「松島」と呼び、既に「于山国」を日本領として編入していた事が解ります。
この様に、李氏朝鮮は独立国家と認識し、日本は日本領の一部と認識していた「于山国」が、何時どの様にして韓国領になったのか、今後の展開に興味津々です。
4 「朝鮮全図」は、鬱陵島の東南側の正確な位置に「独島」を描き、「Ousan」(于山)と表記しました。
1846年の金大建による「Ousan(于山)」が、「独島」を意味するというのですね。
しかし、この「Ousan(于山)」は、済州島の牛島の何倍もある大きな島です。しかも、その島は隣接していますから、鬱陵島から92km離れている「独島」と理解するには躊躇せざるを得ません。むしろ、1417年に金麟雨が「于山島」と呼んだ島を、1530年に與地勝覧附属地図が西側に描いている「于山島」を意味すると理解する方が容易です。
まぁ、こんな素人解釈は置いておいて、正確に描かれていた「Ousan(于山)」が何拾分の一にも縮小して独島になるのですから、今後の展開に興味津々です。
『三国史記』に「于山国帰服 歳以土宜為貢」(于山国が帰属し毎年の産物を貢いだ)と記されています。この記事により、「512年には独島を領有した」とされるのですね。
すると、日本への「遣新羅使」「遣耽羅使」は、新羅・耽羅が日本領であったことを意味するのでしょうか。「遣唐使」は、日本が唐の一地方であることを意味しません。
又、新羅高麗が、于山国に冊封使を送ったという記録も、于山国が女真族に寇されても防衛の軍隊を送ったという記録もありません。一方、中国は朝鮮に冊封使を送り、秀吉の朝鮮征伐に対抗し軍隊を送り、日清戦争の前には朝鮮防衛の為に軍隊を送りました。この様な中朝関係は、李氏朝鮮が明・清の一地方であった事実を示しています。現在、韓国は独立国家である様ですが、これは明・清に対する忘恩行為ではないでしょうか。
そして、新羅の于山国併合を合法とされながら、日韓併合を違法とする理由はありませんよね。
この愚かな私の歴史認識は修正されねばなりません。今後の展開に興味津々です。
2 于山国の大きい島である「鬱陵島」の名称が固定されると、その付属島である独島に遅くとも15世紀に「于山島」という名称が固定した。
この表現を始めて聞きました。
「于山島」という名称は、15世紀頃からのものなんですね。新羅朝・高麗朝では、何と呼ばれていたのでしょうか。まさか、領有している島に名前が付いていないなんて事はないですよね。今後の展開に興味津々です。
史料的に始めて「于山島」の名前が出てくるのは、武陵等處安撫使の金麟雨が「于山島から帰って来た」と報告する、太宗実録1417年2月5日の記録です。その報告は、「土地の産物は、大竹、水牛の皮、からむし、綿子、検樸木などであり、その島の戸数はおよそ15家族、男女86人である。」となっています。
この様に登場した「于山島」が、どの様にして、人の住めない岩石島へと変貌を遂げるのでしょうか。今後の展開に興味津々です。
3 『万機要覧』軍政編では、于山島(独島)を当時の日本の呼称も記録して、「輿地志にいう、鬱陵島と于山島は皆于山国の地であり、于山島は倭人たちが言う松島だ」としました。
「輿地志云 鬱陵・于山 皆于山國地 于山則 倭所謂 松島也」ですね。
なるほど、1808年頃、日本海には「于山国」があり、その国家は鬱陵島于山島を領有していた事実が解ります。李氏朝鮮は、朝鮮国民が于山国への国外逃亡を防ぐための施策をとっていたことが『万機要覧』に載っています。一方、日本は「于山国」を「松島」と呼び、既に「于山国」を日本領として編入していた事が解ります。
この様に、李氏朝鮮は独立国家と認識し、日本は日本領の一部と認識していた「于山国」が、何時どの様にして韓国領になったのか、今後の展開に興味津々です。
4 「朝鮮全図」は、鬱陵島の東南側の正確な位置に「独島」を描き、「Ousan」(于山)と表記しました。
1846年の金大建による「Ousan(于山)」が、「独島」を意味するというのですね。
しかし、この「Ousan(于山)」は、済州島の牛島の何倍もある大きな島です。しかも、その島は隣接していますから、鬱陵島から92km離れている「独島」と理解するには躊躇せざるを得ません。むしろ、1417年に金麟雨が「于山島」と呼んだ島を、1530年に與地勝覧附属地図が西側に描いている「于山島」を意味すると理解する方が容易です。
まぁ、こんな素人解釈は置いておいて、正確に描かれていた「Ousan(于山)」が何拾分の一にも縮小して独島になるのですから、今後の展開に興味津々です。
これは メッセージ 18378 (chaamiey さん)への返信です.
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