竹島

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

輿地勝覧と成宗実録の齟齬

投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/09/01 06:54 投稿番号: [18415 / 18519]
  『輿地勝覧』の「于山島・鬱陵島」の項は、次の言葉で終わっています。
   成宗二年   有告別有三峯島者   乃遣朴宗元往見之。因風濤不得泊而還。同行一船   泊欝陵島   只取大竹大鰒魚。回啓云   島中無居民矣。

  成宗実録に次の記事が見つかりました。
  1470年12月11日に、永安道から苦情があった。「逃賦を逃れ、國に背き、三峯島に投往する者がいる。」と
  1472年3月6日に、朝議を開いて検討した。「三峯島は江原の境に在り、土地が沃饒なのに、海道險阻だから放置していた。対策を講ずる必要がある。」と。
  1472年3月20日に、朴宗元を三峯島敬差官に任ずる。
  1472年6月12日に、江原道觀察使が報告する。「朴宗元は武陵島の近くで、大風に遭遇し難破して還る。」「しかし、部隊の一部が武陵島に至り、三日間島中を捜索したが、大竹があるのみで、居民はいなかった。」と。
  他方、永安道も1471年5月に金漢京を派遣しており、その報告は「島人相接」であった。
  朴宗元と金漢京の報告が異なるので、永安道観察使は金自周を派遣した。1472年10月22日に報告する。「三峯島の形を圖にした。島には30余人の朝鮮人がいたので、怖くて還った。」と。
  1479年10月26日に、又、永安道から苦情があった。
  1480年に、朴宗元を三峯島敬差官に任じて派遣しようとしたら、朴宗元は水路を憚って病気になり、その内梅雨となったので中止した。


  以上の状況を次の様に考えます。

   1   三峯島は明らかに独島ではありません。尚、三峯島敬差官団は、三峯島ではなく武陵島に上陸し捜索しています。
   2   「三峯島は江原の境」に在ります。これは、江原境の外と解されます。なぜなら、江原道は三峯島を全く管理していないからです。
   3   『輿地勝覧』は1472年の記事で終わっています。その後の事件は無かったことになりました。金漢京・金自周は朝廷ではなく永安道が派遣した官吏ですから、その言動は信用できないとされたのです。そして、信用できない者の言動に載せられて行った施策も又無かったことになりました。
   4   『輿地勝覧』が正史であるとすれば、李氏朝鮮は、朴宗元の報告により、鬱陵島を「大竹大鰒魚が採れるだけの島で、潛居する者のいない無人島である。」と認識していました。
   5   1472年に朴宗元を派遣してからは、1694年に張漢相を派遣する迄の220年間、李氏朝鮮が放置していた島ですが、粛宗は空島にしていたのは政策であると主張しました。
[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)