入って中国人に南京事件真相議論しましょう
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通州大虐殺ー30万人を虐殺
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/01/05 06:47 投稿番号: [693 / 2250]
30万でも3千でも一人でも同じ。まさか数量は減少したら、日本人や通州の被害者や彼らの親類の悲しい感じも減少できる?いいえ、同じです。
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中国人の伝統的虐殺方法
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/01/04 17:20 投稿番号: [692 / 2250]
「近水楼入口で女将らしき人の死体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあった。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥(は)がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、4つ5つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。陰部は刃物でえぐられたらしく、血痕が散乱していた。帳場や配膳室は足の踏み場もない程散乱し、略奪の跡をまざまざと示していた。女中部屋に女中らしき日本婦人の4つの死体があり、全部もがいて死んだようだった。折り重なって死んでいたが、1名だけは局部を露出し上向きになっていた。帳場配膳室では男1人、女2人が横倒れ、或(ある)いはうつ伏し或いは上向いて死んでおり、闘った跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のようだった。女2人はいずれも背部から銃剣を突き刺されていた。階下座敷に女の死体2つ、素っ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。1年前に行ったことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素っ裸の死体があった。その裏の日本人の家では親子2人が惨殺されていた。子供は手の指を揃(そろ)えて切断されていた。南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の死体が路上に放置してあったが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた」
(東京裁判の証言より)
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7月30日 通州事件5 救援部隊の到着1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/01/04 15:43 投稿番号: [691 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
391〜393p
《 七月三十日、守備隊は朝来幾組かの斥候を城内のそこここに派遣した。
そして極力敵情を探索し、併 (あわ) せて居留民の収容に努めた。
この日午後四時ごろ、守備隊直接警戒の監視兵が
「増援隊がやって来たぞ!」
と、
狂気のように大声を挙げた。 すると守備隊の兵隊も、収容されていた居留民も、
一斉に
「ワーッ」
という喚声諸共、門の方に向って走り始めた。
馬蹄の響も高らかに、まず駆けつけて来たのが一ヶ分隊の乗馬斥候である。
指揮官の軍曹は辻村中佐を求めて兵舎の中に入って行った。
そして軍曹は中佐を前に顔をほてらせながら報告した。
「萱島部隊の先遣斥候、長以下六名、到着致しました。
部隊は目下、通州街道を守備隊に向って急進中で、
主力は約一時間後、到着し得る距離にあります」
斥候は言葉を続けた。
「萱島連隊長殿からお言付けで、部隊は二十八日、南苑付近の戦闘で、
三十数名の死傷者を生じ、その運搬に難渋しておりますので、
守備隊から自動車二、三輌、至急拝借したいと申しておられます。
部隊の位置へは、我々斥候がこれから誘導して参ります」
トラック数台は直ちに、山田自動車隊の手で整えられた。
それが通州街道を西に向って疾駆し始めたころ、守備隊の柵のあたりには、
増援隊の来着を待つ避難邦人の群の山が築かれていた。
中には西の城門まで駆け出して行く者さえあった。
やがて
「来たぞ来たぞッ、万歳、増援隊万歳!」
守備隊の筋向い、
通州師範学校の前にカーキ色の日本軍の姿が点々として見え始めて来た。
この日午後、在留邦人探索の目的をもって派遣された望月少尉の偵察隊は、
まず通州特務機関に向って行った。
門のところまで来ると、早くも異様な屍臭が鼻を衝く。二、三歩中に入って行くと、
壁という壁には、機関銃弾が蜂の巣のように射ち込まれていて、
戦闘がいかに熾烈 (しれつ) だったかを物語っていた。玄関に近づくとそこには、
顔も名前も判別出来ないような機関員の惨殺死体が構わっていた。
堅く握りしめた五本の指、真っ赤に染まった背広服、見るからに壮烈果敢、
最後まで特務機関を死守した苦闘の状が偲ばれるのだった。
別の一機関員は両手を荒縄で縛り上げられ、刺され、撲られ、
散々に斬りさいなまれたあげく、首が斬り落されていた。
応接間にはワイシャツを二の腕までもまくり上げ、身に六弾をうけた甲斐少佐が、
白鉢巻も勇ましく、大の字なりに横わっていた。
すぐ其の情報室は、天井まで焼け落ちていて、部屋の前の石畳には、
可憐な少年給仕二人の死体が構わっていた。
重要書類焼却の任務を忠実に果し、拳銃一つに己が生命を託し、
頑張って頑張り抜いたのだろう。》
つづく
これは メッセージ 689 (kireigotowadame さん)への返信です.
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南京大虐殺は中国のでっち上げ
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/01/03 23:05 投稿番号: [690 / 2250]
この通州事件の虐殺のありさまをじっくり観察すれば気が付く。
南京大虐殺と同じ殺し方ではないか。中国人にしかできない殺し方。
当時、中国人はあちこちでこのような虐殺と強奪を行っていた。
同じ自国民に対してである。そしてその虐殺をあたかも日本人がやったかのように仕組んでニセモノの写真を作った。このニセモノの写真を本物と思ったのか、何十枚も自分の本に掲載してあたかも南京大虐殺があったかのように書いた元朝日新聞の記者がいた。私も彼の本を読んだとき、虐殺は本当にあったのだと思いました。しかしそれらの写真がニセモノであることが判明して愕然としました。その時以来、南京大虐殺は疑えば疑うほどほころびが出てくることがわかった。
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7月29日 通州虐殺事件4 近水楼4
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/01/03 14:55 投稿番号: [689 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
390〜391p
《 この一言、実に一同に最後の決心をつけさせてくれました。
ほこり臭い土塀の路次を抜けて行くと、あたりの中国人や野良犬までが、
胡散臭さそうな眼付きをして、私達一行を眺めているのです。
私達は黙々として様々な想いにふけりながら、
文字通り屠所の羊となって曳(ひ) かれて行くのでした。
やがて銃殺場につきました。そこは北門城壁のすぐ近くで、城壁の土は一部分
崩れ落ち、その斜面に楊柳の潅木 (かんぼく) が点々生い繁っております。
城壁の内側には黄色く濁った水をたたえて、幅十メートルばかりの濠があり、
私達はその城壁の下、細い道路上に一列に立たされて、
濠の手前から銃殺される事になったのです。
ちょうど真昼どき、非常な暑さでしたけれど、
この時まで暑さの事なんかちょっとも考えた事はありませんでした。
私が一団の最先頭に立って城壁の下まで進んで行くと、
初めて城壁からムーッと暑さの照り返しがくるのを意識しました。
振り返って後を見ると、濠のあちらでは二十名近くの保安隊が、
隊伍を整えて今、狙撃の準備にとりかかっているではありませんか。
私達十一名は、一列にならんで濠の縁に立たされました。
保安隊の兵が、ガチャリと銃に弾を込めた瞬間
「皆さん逃げましょう」
絹を裂くような女の一声!
とたん、ハッと我に返った私は、もう無我夢中でした。 あらかじめ緩めておいた
手のいましめを外し、一散に城壁の崩れを上へ上へと駆け上りました。
パンパン!
ビューンビューン!
という音が、私一人を追っかけて来ます。
どこをどう走ったか、全く覚えておりません。次の瞬間、私は城壁上から身を躍らせ、
丈余の城壁の外側を、ズルズル下に滑り降りている自分を見出しました。
石垣に生えた楊の枝がビシンと顔に撥ね返って来る。
両の掌が真赤になるまで擦り剥(む)かれてしまう。
全くこの時の気持といったら、心も身に添わず、使い古した映画みたいに、
眼の前を小さな星の光が盛んに乱れ飛んでおりました。
ドスーン、下に転がり落ちるや否や、私は直ちに小さな溝を渡って、
一散に生い繁る高梁畑の巾にとび込みました。
それこそ本当にモグラかドブ鼠の様な格好だったと思います。私は高梁の幹を
押し分け押し開き、がむしゃらに前方、大きな楊の木の方向に進んで行きました。
途中、背後で激しい一斉射撃の銃声を耳にしましたが、想えばあの銃声が、
逃げ遅れた同胞十名の生命をついに断ってしまったのでしょう。
それからの数日間、本当に飲まず食わずの私は、あるいは高梁の畑に眠り、
あるいはドブの中にひそみ、精神力ただ一つで盲目滅法西へ西へと歩み続け、
八月一日、ようやく北京城朝陽門外に到着する事が出来ました。
いったん銃殺場まで引っ張られて行って、首の座に直った私が、
今、こうしてあなたとお話している事を思うと、夢ではなかろうかと、
今なお我と我が身をつねってみたくなるくらいです。》
児島襄著 『日中戦争4』 文春文庫
54p
《『旭食堂』
では、女性五人が射殺または刺殺され、男の子二人が
足をつかまれてさかさに壁にうちつけられ、頭骨を粉砕されて殺された。》
つづく
これは メッセージ 688 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月29日 通州虐殺事件4 近水楼3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/01/02 15:07 投稿番号: [688 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
389〜390p
《 私はポケットの中の百元の旅費を、スッカリまき上げられてしまったばかりでなく、
さらに商売道具のカメラまで取られてしまい、それこそ着のみ着のままになってしまいました。
この際、金なんかてんで問題じゃありません。生命さえ保証してくれるんだったら、
百元が千元でも決して惜しいとは思わなかったんです。
ところがどうでしょう。金を全部集め終ると、保安隊はどこからか麻縄を持ち出して来て、
私達の腕を片ッ端しから縛り始めました。
私は今までによく、中国の巡警が賭博犯人や何かを捕まえて、
何人も数珠つなぎにして引っ張って行くのを見た事がありますが、
今の私達は、全くあれと同じにされてしまったのです。
二階から降されて玄関まで来ると、どうでしょう。
まだ真新しい壁、柱に、小銃弾や拳銃弾が沢山食い込んでいて、
そこの板張りには、朱色の血潮がダブダブ一面に流れているのです。
私は歩きながら、チラリと左の方、女中部屋をのぞき込みました。
そこには三、四名の女中が、惨殺されたばかりと見えて、深紅に染まって
折り重なっており、まだ完全に死に切れないでピグピグうごめいているんです。
残忍眼をおおわしめるといおうか気の弱いご婦人なんかにこの場の光景をお見せしたら、
即座に貧血を起して倒れてしまう事は確実です。私達はこの日朝から、
今か今かと、立て続けに生命の脅威におびえ続けてきたもんですから、
大分肚も据わってしまい、冷静に情況を判断するだけの余裕が出来ておりました。
私共が近水楼の玄関前に曳き出された時、そうです。もう十一時にはなっていたでしょう。
時計が無いからわからんのですよ。真夏の陽が、頭の真上からカンカン照りつけて
おりました。そこへ先程の隊長がやって来て、
「生命を保護する」
といった言葉なんかてんで忘れ、部下に対し
「オイ、
こいつ等を北門内の槍斃場 (チャンピージャン) へ連れて行け!」
と命じました。
槍斃場 (チャンピージャン)、つまり銃殺場、
このくらいの中国語は皆わかるもんですから、そこで一同愕然 (がくぜん) として!
さてはやっぱり銃殺だったのか
−
と、今さらながら瞞 (だま) された事に気がつきました。
武装した数名の保安隊に護衛され、銃殺場に引き立てられて行く途中、私は
−
どうせこうなったら、我我何もおとなしく保安隊のいう事なんか聴く必要はない。
生きるか死ぬかの瀬戸際じゃないか。一つこの縄、ブチ切って逃げてやろう。
逃げられるだけ逃げて、それで失敗したからといっても、死ぬ事においては
結局同じじゃないか。万が一助かるという事がないでもあるまい。
−
盛んにそんな気持にかり立てられました。
その時、その中の一人の婦人が
「皆さん、殺されると決まったら、日本人として立派に覚悟いたしましょう」
と、キッパリ大声で言い放ちました。》
つづく
これは メッセージ 685 (kireigotowadame さん)への返信です.
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Re: 通州事件ー東京裁判の証言より
投稿者: konoyo_anoyo 投稿日時: 2011/01/01 21:22 投稿番号: [687 / 2250]
これって全く南京大虐殺そのものですね〜。
南京大虐殺はシナ人が日本国を貶めるために造った。
通州事件の大虐殺は事実有った。これをシナ人学べ!
ま、シナ人は21世紀になっても蛮人そのもの。
これは メッセージ 686 (kabu_kachan7 さん)への返信です.
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通州事件ー東京裁判の証言より
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/01/01 19:02 投稿番号: [686 / 2250]
次の文章は、通州事件の目撃者による証言の一部である。
「守備隊の東門を出ると、数間ごとに居留民男女の死体が横たわっていた。某飲食店では、一家ことごとく首と両手を切断され、婦人は十四、五歳以上は全部強姦されていた。旭軒という飲食店に入ると、七、八名の女が全部裸体にされ、強姦射刺殺され、陰部に箒を押し込んである者、口中に砂を入れてある者、腹部を縦に断ち割ってある者など見るに堪えなかった。東門の近くの池では、首を電線で縛り、両手を合わせて、それに八番線を通し、一家六名数珠つなぎにして引き廻した形跡歴然たる死体が浮かんで居り、池の水は真っ赤になっていた。夜半まで生存者の収容に当たり、『日本人はいないか』と叫んで各戸ごとに調査すると、鼻に牛の如く針金を通された子供、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦などが、そこそこの塵箱の中やら塀の陰から出て来た」(朝日新聞法廷記者団『東京裁判』昭和三十八年・中巻30ページ)
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7月29日 通州虐殺事件4 近水楼2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/01/01 17:14 投稿番号: [685 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
387〜389p
《 やがて表の方で、 「ピリリーッ、ピリッ!」
という呼笛の音が聞えました。
学生団はそれを合図にドヤドヤッと家の中にとび込んで来ました。
屋根裏の小窓からのぞいていると、彼等は椅子、机、お客さんの靴、置時計など、
手当り次第に掠奪を始めているのが、手にとるようによくわかります。
突然、玄関の所で、二、三発の銃声と共に、けたたましい女の悲鳴が起りました。
これは玄関脇の押入れに隠れていた女中達が、拳銃弾の洗礼をうけ、
非業の最期をとげた時の悲痛な叫びだったのです。
学生団は土足のまま、とうとう二階まで駆け上って来ました。
襖や板戸を蹴飛ばす音、すぐ間近で発射する拳銃の響、
最初のうちは単なる掠奪だと思っていたのですが、先程のボーイの言葉といい、
今また玄関口での女の悲鳴といい、それやこれやを思い合わせ
−
彼等の目的とするところは、日本人の虐殺なんだ
−
そう感付いた時、にわかに襟元から三斗の冷水を浴せかけられたような気持がしました。
我々の運命はもはや旦夕に迫っているんだ。お互いはいわず語らず、ただ、
わずかに目くばせしながら、息をこらして事の成り行きを静観し続けました。
辛い、学生達は私共が天井裏に隠れている事には、とうとう気がつかなかったらしく、
やがて
「さあ、取るだけ取ったらみんな下へ降りろ!」
声諸共、ドカドカ階段を降りて表の方に行ってしまいました。
−
やれ安心!
−
息つく暇もなく、今度は保安隊が入れ違いに入って来ました。
一難去ってまた一難、こいつらは冀東長官殷汝耕の衛隊なのです。
彼等はスッカラカンに掠奪された部屋の中に、まだ何か目星しいものが
残ってやしないかと、眼を皿のようにしてあちこち捜し回りました。
そしてだんだん私達の隠れている方に近づいて来ました。この時の気持といったら、
十一人が十一人、全く生きた心地もせず、ただただ神仏にすがりたい気持で一杯でした。
−
南無三
−
しかしその時はもうおそかったのです。保安隊の隊長らしいのが、
私達の屋根裏の入り口を見付け出してしまいました。
何とかッ!
と叫ぶと、部下の保安隊が五、六名、バタバタッと彼の周囲に駆け
集まって来ました。隊長は、グッと首を突き伸ばし、私共の方に向って呼びかけました。
「おい君達、君達の生命は確実に保護して上げる。
保護する代りに持っている金は全部ここに出し給え!」
否といえばすぐにでも発射せんばかりに、隊長の右手には大型拳銃が握られているのです。
一同は無言のまま、ゴソゴソやって蟇口や財布の中から、
しわくちゃになった一元札や、紫色の判をベタベタ押した五元紙幣を
取り出しました。彼等は金が欲しいばかりに、
私達一人一人に手を貸して、屋根裏から下に助け降してくれました。》
つづく
これは メッセージ 684 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月29日 通州虐殺事件4 近水楼1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/31 14:09 投稿番号: [684 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
386〜387p
《 残忍な殺戮は町から町へ、巷 (ちまた) から巷へと続けられて行った。
掠奪は城内随所で、もうだれはばかるところなく、白昼公然行われていた。
かの有名な近水楼の大虐殺、並 (ならび) に凄惨 (せいさん) 極まる銃殺場の
情況については、当時だれ一人これを知る者もなかったが、
同盟通信特派員、安藤利男氏が、冒険をあえてして銃殺場を脱出し、
北京にたどり着いたので、初めて惨劇の実相が世界に向って発表されたのである。
安藤特派員が、直接私に語った真相は次の通りだった。
その晩、私は近水楼に泊っておりました。
二十九日の明け方早くから起った銃声や砲声。私は寝床の中で
−
いよいよ通州の近くでも戦争が始まったんだなあ、宝通寺の敗残兵共、
いくらこんなところでジタバタしたって勝てるもんか。
やるつもりならやってみろ
−
そんな事を考えておりました。
でもそこが特派員としての職業意識ですかね。戦争が始まったなら始まったで、
早速これをニュースにして送らなければならぬ。
ちょうどいいところに来合わせたとはいうものの、果してこれがどの程度の
ニュースバリューを持っているかな、など思いながら、
床から起き上ろうとした時、銃声砲声が俄然はげしくなってきました。
どうやらすぐ近くの日本軍守備隊付近で起っているらしいのです。
−
さては日本軍、もうやっているんだな!
勇ましいなあ
−
私はホテルのガラス戸越しに外の様子を窺いました。
すると池のかなたを、カーキ服の保安隊が走る。
黒服黒帽の学生らしいのが走る。それ等が所嫌わずポンポン拳銃をブッ放して
騒ぎ回っているのです。初めて冀東保安隊の兵変と云う事に気がつきました。
銃声は大掃除の時、畳をたたく音にも似て、ある時は激しく、ある時は静かに、
また時としては全くの沈黙状態にかえる事さえあったのでした。
午前九時半、いったん銃声も静まり、ホッと一安心しているところに、
近水楼子飼いの中国人ボーイが、血相変えてとび込んで来ました。
「大変です!
旦那!
街では日本人が鏖殺 (みなごろ) しになっていますぜ!
北平館も旭食堂も、女給さんや店の人達、みんな血だらけになって殺されちゃいました。
早く!早く今の中 (うち) に逃げ出して下さい!
今に家にもきっと保安隊がやって来ますよッ!」
近水楼の女中達はそれを聞くなり、キャーッといって騒ぎ始めました。
荷物を整理する者、身の置きどころもなく右往左往する者等々。
その中に銃声砲声がまたまた激しくなってきました。
黒服の学生団がだんだん近水楼の方に押し寄せて来ます。
私はすぐさま二階に駆け上り、畳をあげて一応の弾避けをこしらえてはみましたものの、
彼等が家の中に躍り込んで来たが最後、こんな事くらいで対応出来得るものじゃないと
悟りまして、宿泊客十九名の中、我々十一名は天井板を外して、
屋根裏にもぐり込んで行きました。
女中や何か、下の部屋にいた人達は、
それぞれ物置きや押入れの中に隠れたようでした。》
つづく
これは メッセージ 683 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月29日 通州虐殺事件3−2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/30 17:35 投稿番号: [683 / 2250]
浜口特務機関員兄妹の死2
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
385〜386p
《 一通り掠奪が終りますと、彼等はみんなドヤドヤ出て行ってしまいました。
私はかすかに目を見開いてあたりの様子を窺いました。
すると文子さんが全身血に染まって苦しそうな息づかいの下から
「痛い!
痛い!」
と唸 (うな) っています。
「文ちゃん!
しっかりしてね。今すぐ介抱してあげますよ」
と小声でいって、
その方にいざり寄ろうとしましたけれど、私も横腹の傷から出血が止まらず、
ズキズキ痛んで寝返り打つ事さえ出来ない有様です。
手を差し伸べて文子さんに触るだけがようやっとの事でした。
可哀相に文子さんは転々として、しきりに苦しみ悶えておりましたが、最後に
「お母さま!
お母さま!」
二声呼んだきり、とうとう息を引取ってしまいました。
文子さんはお父様もお母様も、もう七、八年も前に亡くなっておりました。
でも非常な親思いの娘さんでしたから、この時、多分お母様の霊が文子さんを
迎いにいらっしゃったのかもわかりません。
それから数時間、私は意識不明の中に、こんこんとして眠り続けました。
ふと気がつきますと、安田さんの奥様が、他の方の死体の間から頭をもたげて、
あたりを見回しておられるのです。私は覚えず
「奥様!」
呼んだっきり、しばらくは続く言葉もございませんでした。嬉しさ、悲しさ、
怖ろしさ、あらゆる感情がゴッチャになって、一時にこみ上げて来たのですね。
十人ばかりの中、助かったのは私と安田さんの奥様と、タッタ二人っきりでした。
外の方ではまだ一しきり、激しい銃声砲声が続いておりました。
でもあの日、日本軍の飛行機の爆音が聞えた時の嬉しさ
−ああこれでやっと助かる−
生れてこの方、こんなに有難いと思った事はありませんでした。
翌三十日、私は守備隊の方に助け出されてこちらに参りましたが、
ここでまず気にかかりましたのは主人の消息です。
私は傷の痛みも押しこらえ、兵隊さん方とご一緒に特務機関に参りました。
ここは本当に形容のしようもないほどひどく荒されておりまして、保安隊の死体と
日本人の死体とが、入り混じって数多くそこの土間に斃 (たお) れておりました。
私はようやくにしてその中から、主人の死体を見出しましたが、
随分悪戦苦闘したものとみえまして、身体には弾丸が七発も食い込んでおり、
その上、大きな切り傷までも受けていまして、
全く顔をそむけずにはおられない状態でした。
こうして主人は遂に命を堕してしまいましたが、でも、光栄ある特務機関の一員として、
お国のために大陸の土となりました事は、どんなに本望だった事でございましょう。
兄妹そろって靖国神社にお祭りしていただけるとうかがいまして、今となっては
ただそれだけがせめてもの……といったまま、夫人はハンカチで顔を掩って嗚咽した。》
つづく
これは メッセージ 682 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月29日 通州虐殺事件3−1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/29 18:55 投稿番号: [682 / 2250]
浜口特務機関員兄妹の死1
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
383〜385p
《 次にもう一人、通州特務機関員、浜口良二氏の夫人、
茂子さんから当時の模様をきいてみよう。
主人は機関の方のお仕事が忙しいため、そのころは連日連夜、
特務機関に詰め切っておりました。
私は二十八日の夜、同じく特務機関にタイピストとしてお勤めしておりました主人の妹、
文子さんと、枕を並べて寝ておりましたところ、
明け方近く、突然、パンパーンという激しい銃声が始まりました。
これが冀東保安隊の反乱だなどとは、どうして想像いたしましょう。
私はお近くの安田さんの奥さんやその他の方々と
「これはきっと宝通寺にいた二十九軍の敗残兵が、
意趣返しにやって来たに違いありませんワ。ナーニ、
「守備隊には日本の兵隊さんがいらっしゃるし、城内には城内で、
冀東の保安隊が沢山いるんだから、私達、親船に乗った気持でいればいいのよ。
この機会に、ちょっと戦争見物でもさせていただきましょうか」
など話し会って、コワイ中にもお互い励ましあっておりました。
ところが銃声は下火になるどころか、ますます激しさを加えて参ります。
そしてだんだん私共の家の方に近づいて来る事がわかって来ました。
一人の奥さんが
「ちょっと外の様子を確かめてみましょう」
と、表の戸を
開けたとたん、ビュッ、と飛んで来た一発の小銃弾で、負傷なさってしまいました。
間もなくその敵兵は、門を壊し土塀を乗り越え、ドヤドヤ家の中へとび込んで参りました。
そのカーキ色の服を見た時
「アラッ!冀東の保安隊じゃない?」
私達は覚えず声を挙げて驚くと同時に、にわかに怖ろしさが増して来ました。
今の今まで、何よりの味方と信頼し切っていたその保安隊に、
スッカリ裏切られてしまったんですもの!
小銃、拳銃の弾が情け容赦なく、パンパン私共の方に注がれて参ります。
一緒に集まっていた方々が、私の眼の前でバタバタ斃 (たお) されて行くのです。
私が実の妹のように可愛がっていた文子さんも、とうとうやられてしまいました。
私も一発、右腹部に弾をうけましてその場に倒れてしまいました。
保安隊は片ッ端から掠奪を始めています。私と安田さんの奥さんとは、
真っ赤に返り血を浴びて倒れていましたため、多分もう死んだとでも思ったのでしょう。
それでも大刀で私の肩を小突きながら
「死んだか。死んだか」
と確かめているのです。
ちょっとでも動いたらバッサリやられてしまうんですから、
私はもう、本当に息を殺して死んだ風を装っておりました。
そしたら保安隊の一人が、突然、私の指輪を、指も千切れんばかりにもぎ取りました。
次に腕時計を剥ぎ取りました。
他の方々の死体を彼方 (あっち) に転がしたり此方 (こっち) に転がしたりして、
まだ何か金目のものはないかと探しているらしいのです。》
つづく
これは メッセージ 681 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月29日 通州虐殺事件2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/28 18:42 投稿番号: [681 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
381〜383p
《 一通り掠奪が終ると、保安隊は私に、「起てッ!」
と荒々しい怒声。
私はほとんど追いまくられるようにして北門内の銃殺場、女子師範学堂に
引っ張られて行きました。そこにはすでに、
私より先に捕まえられた二十人あまりの内、鮮人が来ておりました。
みんな蒼ざめた、そして髪ふり乱した顔に、沈痛の色を漂わしております。
まだうら若い朝鮮の女性が、荒縄でグルグル巻きに縛られたまま、
保安隊から銃の台尻で、骨も砕けんばかりにヒドくたたかれ、
ヒーヒー叫び声をあげている姿を目撃しました。
いったいあの女性に何の罪咎 (つみとが) があるというのでしょう。
いや、これは決して他人事ではない、やがては間もなく私の身にも降りかかって
来るのだと思った時、もうジッと正視している事が出来ないで、
下を向いたまま目をつぶってしまいました。
私の脳裏にはまず洋子の姿が映じて参りました。満洲夫の叫び声が聞えて参りました。
−
そうだ。私は早く帰って、満洲夫を助け出してやらなければならない
−。
私は眼を開きました。そしてあたりを見回しますと、監視兵の姿が見えません。
私は立ち上りました。そしてまっしぐらに町の方にとび出しました。
もう傷の痛さも仕返しの怖ろしさも、何も考えませんでした。
土塀の間を縫って、グネグネした小路をたどって、どこをどう走ったかも、
全然記憶に残っておりません。
やがて私が目ぬき通りを横切ろうとした時、保安隊の幹部が三人、馬に乗って
走って来るのに出会いました。私はもうこれで、お終いだと観念しました。
ところが彼等は、別に馬の速度を落すような様子もなく、
それでも何度も何度も振り返り、私の方を眺めながら行き過ぎました。
恐らく頭から一杯浴びた洋子の血汐と肉片を見て、大変な重傷だ、
放っておいても間もなく死ぬだろうぐらいに思ったのかも知れません。
私が家にたどりつくと、主人は家の前で敵弾に当って、すでにこと切れておりました。
満洲夫は私が曳 (ひ) かれた後を慕って、追いかけたのでしょう。
その方向に腹這い寄ったまま、出血多量でなくなっておりました。
家の中に入って見ると、もう床板一枚無いまでにひどい掠奪をうけているのです。
この掠奪は、保安隊だけがやったのではなく、近所の住民がこのドサグサに便乗し、
何から何まで運び去っていった事は明瞭でした。
彼等はそれから後も、まだ何か残ってやしないかと入れ代り立ち代りやって
来ますので、私はその都度、今度こそは今度こそはと覚悟を決めておりました。
・・・
お昼ごろ、どこからともなく飛行機の爆音が聞えて参りました。日本軍の飛行機です。
私はこの時程嬉しい思いをした事はありませんでした。
覚えず庭にとび出して、今まで大事に大事に懐に納めておりました
日の丸の旗を取り出しまして、力一杯振り回しました。
−
日本人がここにおりますよ!
−
叫びたい気持で一杯でした。
でも付近には保安隊がまだまだ沢山います。
見つかったが最後、一たまりもなく殺されてしまいますので、
振っては家の中に駆け込み、またとび出しては振る
そうした努力は致しましたけれど、飛行機にはそれが通じたのか通じなかったのか、
やがて北の方へ飛び去って行ってしまいました。
・・・
ともかくここを脱出しよう。・・・
と思いつきました。
その手段として中国人のようにスッカリ断髪してしまい、
汚れた中国服を身にまといまして、脱出の機会をうかがいました。
我が爆撃のお陰で保安隊もスッカリ退散してしまい、三十日には日本の兵隊さんが
私達を救い出しに来て下さいましたので、どうやら命だけは助かる事が出来ました。》
つづく
これは メッセージ 680 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月29日 通州虐殺事件1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/27 18:43 投稿番号: [680 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
379〜380p
浜田巡査部長一家の惨劇
《 反乱保安隊は、日本守備隊を包囲し、日本特務機関を襲ったばかりでなく、
更に日本居留民の家を一軒残らず襲撃した。
そして破壊、掠奪、暴行、殺戮、およそ残虐の限りをつくしたのである。
通州邦人大虐殺の報が伝わると、日本国民の血は、にわかに逆流し始めた。
−
中国をたたけ!
蒋政権を倒せ、通州殉難二百の仇を報ずるまでは、
断じて戦の矛 (ほこ) を収めるべからず
−
世諭はごうごうとして、日本全土を風靡 (ふうび) した。
彼等保安隊の残忍さについて守備隊に避難して来た数名の人々から、
当時の実情を聴いてみよう。
領事館警察巡査部長、浜田末喜氏夫人静江さんは、その日の惨禍におびえながら語った。
二十八日の晩、主人は当直勤務でしたので、私は五歳の満洲夫 (ますお) と
二歳の洋子を抱いて家で寝ておりました。
すると夜中の三時すぎ、表の方で火事が起ったのか、
ガラス戸がパーッと明るくなって参りました。
私はとび起きて外をみると、冀東保安隊が前の家を毀し、火を放っていました。
銃剣や抜身の大刀が、ギラギラその火に光っていました。
「大変だ!」
私はとっさに子供二人を両腕にかかえ、
押し入れの中にかくれて頭から蒲団をかぶりました。
ところが今度は裏口の方から、急にバリバリ音が聞え出しました。
二、三十名の保安隊が塀をたたき壊して私の家にとび込んで来たのです。
時計がちょうど四時を打っていました。
私はあまりの怖ろしさに、シッカリ両腕の子供を抱きしめました。
満洲夫の方はそれでももう、いくから恐怖心があると見えまして、
ジーッと息を殺して私にしがみついていましたが、洋子はまだ何の判別も
ありませんので窮屈なあまり、とうとう目を覚して泣き出してしまいました。
で、これを黙らせようと思いまして、私は乳房を含ませましたが、
この時はすでに、敵にさとられた後だったのです。
ドカーン、たちまち一発、手榴弾がたたきつけられ、左手に抱いていた洋子を粉砕、
その生温い血潮と肉片とは、私の頭から顔一面にベットリかかってしまいました。
一方満洲夫はこの手榴弾のために、股の肉をゴッソリそぎ取られ、
苦しさのあまりヒーヒー泣き叫んでおります。
保安隊の一人はツカツカ私のそばに進んで来まして、いきなり銃剣でもってグサリ!
私の右腋 (わき) の下を突き刺しました。
私がよろめくところをさらに靴で蹴り上げ、私の髪を鷲掴 (わしづか) みにすると、
ズルズル引きずって表の方に引っ張り出しました。
「お母ちゃん!痛いよう!
お母ちゃん」
満洲夫の声が、彼の方から聞えて来ます。
しかしその時の私は、一目その満洲夫を振り返ってやる事さえも出来なかったのです。
保安隊は手当り次第掠奪を働き、倒れている私から、血のついた帯まで
外して持って行く始末です。やがて夜は次第に明け放れて来ました。
平常顔見知りの近所の中国人がだんだん集って来て、このありさまをジーッと
冷たい眼で眺めているのが、本当に口惜しゅうございました。》
つづく
これは メッセージ 679 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月29日 通州守備隊襲撃される5
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/26 15:36 投稿番号: [679 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 文春文庫
51〜53p
《 襲撃は、まず特務機関、警察分署、旅館、出張所、食堂、民家、
次いで守備隊など、日本人の所在地にたいして、いっせいにおこなわれた。
特務機関には、軍人は機関長細木繁中佐と補佐官甲斐厚少佐の二人だけで、
ほかに機関員九人、給仕二人がいた。
この夜は、機関長細木中佐は官舎で就寝し、武道場には
『恵通航空公司』
連絡員緒方一策が宿泊していた。
攻撃してきた保安隊は、小銃、機銃を乱射し、青竜刀をふりかざし、
あっという間に建物を包囲した。
特務機関の武器は拳銃、小銃、軽機関銃、手榴弾である。
甲斐少佐は、自鉢巻をし、ワイシャツの袖をまくりあげ、拳銃と軍刀をもって
応戦の指揮をとり、軍人でない機関員たちも思い思いに武器をとって戦った。
だが、保安隊は四方から射弾を集中するだけでなく、
屋根にのぼり、瓦をはがして内部を射つ。
甲斐少佐と機関員四人は応接室に追いこまれ少佐が六発の弾丸をうけて
斃 (たお) れると、他の四人も次々に死傷した。
残る六人と〝宿泊人〟緒方一策は、情報室にたてこもって応戦した。
機関長細木中佐は、異変を知ると、さっそく自動車で
「冀東防共自治政府」
に
むかったが、門前で約一個中隊の保安隊に阻止された。
じつは、政府庁舎はすでに保安隊におそわれ、日本人顧問三人と経済調査員として
赴任したばかりの柘植大学二年生亀井実が惨殺されていた。
ただし、襲撃はこの日本人四人だけに限られ、
政府主席殷汝耕の部屋には一兵もはいらなかった。
細木中佐は、知らない。
車をおり、指揮官らしい保安隊員に近づいたが、とたんに銃声がひびき、
胸部に拳銃弾をうけてよろめく中佐の頭上に、青竜刀がふりおろされた。
グシッーという異音とともに、中佐の頭部が断裁され、噴出する血をさけて
飛びのく保安隊の前に、即死した中佐の身体が棒倒しにたおれた。
特務機関では、情報室での攻防がつづいていたが、一人が頭部を射たれて
斃れたあと、片隅のガソリン罐が被弾して火災が発生した。
情報室には暗号書その他の機密書類があるので、
危急の場合の焼却用にガソリンが常備されていたのである。
火災発生は、書類焼却という緊急措置にかなったわけだが、
機関員たちはそれと気づく余裕もなく、また一人が斃されながら、
隣接する風呂場に退避したのち、脱出した。》
つづく
これは メッセージ 678 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月29日 通州守備隊襲撃される4
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/25 15:42 投稿番号: [678 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
376〜377p
《 深更一時半、敵襲に備え、まんじりともせず待機の姿勢を保ち続けていたとき、
あわただしく、辻村中佐の部屋の扉をたたいた。
「司令官殿、電報が参りました。河辺旅団司令部からであります」
中佐は懐中電燈の光を頼りに電文を拾い読んだ。
「救援のため、萱島部隊主力を、直ちに貴地に派遣す。守備隊はあくまで、
現位置を固守しあるべし」
二十何通目かの無電が、ようやく通じたのだった。
救援隊が来る
−
の報は、たちまちの中に全兵員に伝えられた。
守備隊、自動車隊のつわもの達は、前途の曙光を見出して元気百倍した。
闇の中から自動車のエンジンの音が聞えてくる。いよいよ敵襲か。
兵は沈黙して耳をそばだてた。二、三の兵が銃を片手に、入口の方にとび出して行った。
まさしくトラックが一台、ヘッドライトをギラギラさせて、
しきりに兵舎の入り口を捜し求めている。
監視兵が
「止れッ、だれかッ」
と叫んだ。
「日本軍だあ、熱河から来た機械化兵団だあ」
そう言いながら自動車からとび降りた日本兵三名、
将校が先頭に立って入り口の方に歩き始めた。
この将校は関東軍の酒井機械化兵団司令部付の大島修理輜重兵大尉だった。
大尉は右腕を負傷しているとみえて、軍服には血潮が点々、滴 (したた) っていた。
大尉は辻村中佐に答えた。それによると順義に駐屯し、
酒井兵団の残置物件を監視していたが、昨日、突然反乱保安隊が襲撃して来た。
直ちにこれに応戦し、辛うじてこの方面に血路を切り開いてきた。
したがって通州でも保安隊が反乱を起した事は知らなかったという。
「ここに来られる途中、保安隊にはぶつかりませんでしたか」
と辻村中佐が聞くと
「今さき、この通州に入りがけ、あれは多分北門でしょうか、
城外で大勢の保安隊にぶつかったんです。
暗闇の中で制止を食いまして、こりゃあいかんと思ったもんですから、
遮二無二スピードを出して突破しちゃったんです。後の方から射撃してましたけれど」
「敵の兵力は」
「そう百名か二百くらい、道路脇に固まって休んでいました。
何しろ暗かったのと急いでおったのとで、はっきりした事はわかりませんでした。
それから城門の外に、野砲四門と弾薬が多数、放ったらかしたままになっていました」
「時に順義の戦闘で死傷者は出ませんでしたか」
「一緒にこちらに運んで来ていますが、戦死十一名、負傷は私の他に兵一名、
それから無傷の者がこの萩原曹長をふくめて十名です」
辻村中佐は明け方近く、ペンを走らせて河辺旅団長に宛て、電報報告をしたためた。
「冀東保安隊は二十九日夜は攻撃し来らず。目下なお城北、教導総隊付近に集結しあり。
兵力砲兵一中隊、歩騎工合計二千を下らず、萱島部隊は未だ到着しあらず。
我が方の損害、戦死将校二、兵十八、負傷将校一、下士官一、兵十一、
計三十三名、軍医及び衛生材料至急手配せられたし
辻村部隊長」
外には七月三十日の陽光が、鈍い光を営庭一杯に投げかけているところだった。》
つづく
これは メッセージ 677 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月29日 通州守備隊襲撃される3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/24 18:39 投稿番号: [677 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
374〜376p
《 通信兵は今朝から、無電のキーをたたき続けた。だが午後になっても、
どこからも応答がない。辻村中佐は、最後の肚を決めなければならなかった。
中佐は弾雨の中で、香月軍司令官に宛てた二通の報告書を認ためた。
そして守備隊雇傭の中国人通訳を呼んで俺が戦死したらお前はここを脱出し、
この報告書を、たとい幾日かかっても構わない。どんな方法をとっても差し支えない。
必ず軍司令官閣下にお届けしてくれと分厚い封筒を手渡した。
−
細木中佐の特務機関は街中に孤立していたが、今ごろいったいどんな風になって
いるだろう?
それにもまして、三百の居留民は果してみんな無事でいるだろうか
−。
だが守備隊は千数百名の敵を相手に、自分達を守っていくだけで精一杯なのである。
陽はまだ高かった。大陸の灼熱が、頭の真上からジリジリ照りつけていた。
今朝から息つく暇もない十時間余の激戦に、兵は疲れ切っていた。
気力だけが戦闘を持ちこたえているのだ。
銃眼に噛りついたまま、うつろな眼で、失神せんばかりの初年兵さえいる。
今日はまだ、朝飯も昼飯も水一滴も咽喉 (のど) を通していなかったのだ。
危険をおかして倉庫に弾薬を取りに行った二年兵が帰って来た。
彼は乾麺包とサイダーを両脇に抱え込み、敵弾を冒して戻って来た。
兵たちは小さな一包の乾麺包と、生ぬるいサイダー一本に喜色満面、
全員射撃の合い間合い間に乾麺包を貪り食い、
サイダーを喇叭 (ラッパ) 飲みして、空腹と渇とをいやすのだった。
弾薬の爆発は四時間の間、ひっきりなしに打ち続いた。
そして十七輛全部が爆発し終ると、午後の四時ごろ、ようやく下火になってきた。
だがまだ、そのあたりの材木や莚 (むしろ) などがブスブス音を立てていぶっていた。
−
戦場に静けさが帰った。
どこからともなく爆音が聞えて来る。
白い入道雲の右上に一機、二機、三機、四機……十機。この編隊は、
熱河承徳の飛行場に在る、中富秀夫大佐の隷下の、戦爆連合の三編隊だった。
飯島飛行士から詳細な報告を聞いて、通州事件の勃発を知った大佐は、
独断十機に対して出動を命じたのである。
機影は見る見る中に大きくなり、爆音も高らかに通州上空を遊弋し始めた。
先頭を行く指揮官機からパッと白い煙が流れた。
信号拳銃だ。
−
敵の位置を示せ
−
敵は遮蔽物の下に影をひそめ、
息を殺しているのだから、上空からは全くその姿が見えないらしい。
辻村中佐は兵に命じ、兵器手入れ用の長い晒布(さらし)を持って来させ、屋上に布いた。
そして弾薬箱や雨樋などでにわか造りの矢印を形造し、
帽子を振って敵主力のいる東北方を指し示した。
−
了解
−、機は両翼を大きく.ハングした。機はぐんぐん下降した。
爆撃の嵐、逃げ惑う保安隊の頭上には爆弾が雨と降りそそいだ。
一瞬にして主客顛倒し敵は、蒼惶囲みを解いて遠く城外に敗退して行った。
地上救援部隊の到着は依然予期できないが、
しかし守備隊はこの時漸 (ようや) く生気を取り戻したのだった。
辻村中佐はこの機会を利用し、各隊長を集め、夜間配備に関する要旨命令を下達した。
倉庫に貯蔵されてあった米俵、麦俵、兵室の藁(わら)蒲団までが
土嚢代りに兵舎の入り口に積み上げられた。
兵全員が急造のバリケートづくりに努力している折り、営庭の彼方から
五名の朝鮮婦人が柵を乗り越え、髪振り乱し、駆け込んで来た。
「助けて、助けて」
やっとそれだけいうと、あたりはばからず泣き崩れてしまった。
この五人を通じ、初めて通州邦人大虐殺の概貌 (がいぼう) が、
守備隊に伝えられたのである。》
つづく
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7月29日 通州守備隊襲撃される2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/23 15:56 投稿番号: [676 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
373〜374p
《 敵は午前九時、守備隊東北方二、三百メートル、満州電電会社の高い建物を占領し、
脚下の広場に野砲四門を据えつけ始めた。
命中精度は次第によくなって、弾は守備隊中央の煙突を吹き飛ばし、
また本部東面、煉瓦造りの兵舎の一角を粉砕した。
当時守備隊の装備は、軽機関銃と小銃、それに手榴弾があるだけで、重火器は何も
持っていない。遥かに装備優秀な保安隊に対して、もう手も足も出せない実情であった。
山田自動車隊の木造兵舎は、二十発の流弾をたたき込まれ、全壊に近い状態だった。
山田中隊長のすぐ眼の前で、軽機関銃を操作中だった堀尾英一上等兵に、
野砲の弾丸が命中して、一瞬に影も形もなくなった。あおりを食って、
中隊長は横の壁にたたきつけられたが、幸い擦 (かす) り傷一つ負わなかった。
営庭の東南角に二千五百缶のガソリンが、うず高く積み重ねられてあった。
午前十一時、敵の砲弾が一発、その真っただ中で炸裂した。
物凄い爆発音もろ共、火焔は天に沖 (ちゅう) して巻き上り、黒煙は地上数百メートルの
高さに立ちこめて、城内一帯夕暮のような薄闇の中に包まれてしまった。
敵も味方も暫らくの間、視界が完全に閉ざされてしまった。敵はこの爆発が
余りにも凄まじかったため、それに気をとられて砲撃を止めてしまった。
このとき、日本軍の飛行機一機が、にわかに立ち登ったこのおびただしい黒煙を
いぶかって、東南の空から通州の街に近づいて来た。
将兵は飛行隊の救援だと雀躍乱舞した。
この飛行機は、
鈴木混成旅団に配属されたプスモス機で、操縦は満州航空の飯島飛行士。
つまり七月十六日朝、私を古北口から通州まで運んでくれたあの飛行機だったのである。
機は下げ舵をとって高度五、六百メートルまで舞い降りて来た。
そして通州の上空を数回、輪を描いて偵察していたが、やがてアッサリ機首を
北に向け、熱河の空指して飛び去って行ってしまった。
一時間ばかり沈黙していた敵の砲は、思い出したように再び砲撃を始めだした。
いったい、砲撃というのは、遠距離からする場合は、ヒュルヒュルヒュルドカーン、
という音がして、勇ましい戦場気分を盛り立てるが、今、保安隊が射ってくる
ゼロ距離射撃とは、発射音と炸裂音とが全く同時である。
ダダーン、と射ったが最後、建物が活発に三センチばかりも水平動を起し、
鼓膜は突き貫かれたようにキーンとして、
呼吸が一時、吸い込んだままで止まってしまう。そこへ煉瓦の破片、土くれや
木片が、頭の上からバラバラッと覆いかぶさるように降ってくるのだ。
その近距離射撃がこんどは弾薬を満載したトラックの一台に命中して火災を起した。
銃砲弾はつぎからつぎへと自爆を起して、万雷の一時に落ちるような大音響である。
砲弾の破片がうなりを生じて四周に飛散する。》
つづく
これは メッセージ 675 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月29日 通州守備隊襲撃される1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/22 18:39 投稿番号: [675 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
372〜373p
《 二十九日、あけ方四時、銃声が響いた。辻村中佐は夢をさまされた。
続いて五、六発の銃声。南の方、営庭のかなたからである。
−
新南門には六名の我が監視兵と、保安隊の一部が警戒のため出ていたはずだ。
何か間違いでも起したのかも知れぬ
−
中佐は軍服に身づくろいした。部屋の扉が激しくたたかれた。
中国兵の襲撃を知らせる守備隊長藤尾心一中尉の緊張した声だ。
営舎の廊下をあわただしく、靴音が乱れとんでいる。
中佐は、一昨日萱島部隊によって潰走させられた傅鴻恩部隊の反撃に違いない
と判断し、守備隊長と屋上に駆け上り、闇をすかして見ると、
営庭の周囲はすでに、蟻の這い出る隙もないまでに包囲されている。
敵兵は怪しい叫び声をあげて右往左往する。兵力は千名を下らず、とても傅鴻恩の
一ケ営くらいのものではない。二十九軍の増援部隊か、敵の実体が一向に掴めなかった。
中佐はこの時、守備地区高級先任者として、藤尾、山田の両隊を統轄指揮し、
直ちに戦闘部署を下命した。そして南半部を藤尾小隊、北半部を山田中隊に割り当てた。
営舎の屋上と営庭とには、我が防禦陣が布かれ、戦闘員たると非戦闘員たるとを問わず、
日本人と名のつく者は、一人残らず銃を執って起ち上り、
彼等の猛射に対して捨て身の応戦を試みる事となった。
二十六日の夜以来、この守備隊の北側兵舎に泊っていた山田自動車中隊の五十名は、
これから弾薬輸送に出発しようと脚絆を巻いている、
ちょうどその時銃声が始まったのである。
中隊長山田正大尉はさらに矢継ぎ早に、郡司准尉は西正面の故に、
望月少尉は東正面、望楼と衛兵所北側の突角は大塚上等兵が分隊を率いて
守備せよと命令した。
杉山分隊と堀尾分隊は予備隊として大尉のそばに置いたが、銃声はいよいよ激しくなり、
西正面からは敵兵突撃の「殺 (シャー)!」という喊声 (かんせい) さえも聞えてくる。
この時郡司准尉から山田大尉へ敵は二十九軍ではなくて、
冀東の保安隊であると最初の敵情がもたらされてきた。
南正面の敵は、続々守備隊営庭に入り込んで来た。
本部屋上の軽機関銃は、これに対して猛然火を吐いた。
敵はすでに本部兵舎の三、四十メートルの近距離に攻め寄せて来ている。
敵味方は兵舎の上と下で激しく射ち合った。戦闘はすでに完全な肉迫戦となって、
手榴弾の爆声が、兵舎の彼方でも此方でも盛んに起っていた。
辻村司令官と藤尾守備隊長とは、本部屋上で戦闘を指揮していた。
硝煙のにおいが鼻を衝いて流れてくる。
守備隊長は拳銃に弾丸を込めると、辻村中佐の方を振り返っていった。
「今、通信所に行って見て来たんですが、有線はスッカリ切られて全く使えません。
全力を挙げて無線に連絡をとらせているんですが、まだどこからも応答はありません」
味方に負傷者が出はじめた。
藤尾中尉は、その時兵営の外側に沿って、駈け歩で移動中の新しい敵部隊を発見した。
一歩乗り出し双眼鏡を眼にあてた瞬間、一弾が、中尉の胸板を射ち貫いた。
屋上、屋外の銃声、爆声は一しきり激しさを加えてきた。
辻村隊長の傍らにあった指揮班の兵が中尉の遺骸を隊長室に運んだ。
そして訣 (わか) れの敬礼を行なうと銃をとりあげ、
一散に元の持場に走り去って行った。》
つづく
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南京大嘘記念館
投稿者: miumumin 投稿日時: 2010/12/22 14:37 投稿番号: [674 / 2250]
議論も何も・・・中共のプロパガンダってだけ。シナ人が嘘をつくのはシナ人だから。南京虐殺なんて信じるバカは少数派。
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7月28〜29日 宋哲元の撤退と蜂起指令
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/21 18:44 投稿番号: [673 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 文春文庫
48〜51p
《 宋哲元は、緊急幹部会議をひらき、 「堅守北京」
か、それとも
「退守保定」
かの選択を協議した。
蒋介石の命令を守って北京で戦いぬくべきだとの意見と、北京の
「文化」
と
「古城」 を灰燼にすべきではないとの主張が対立したが、宋哲元は
「退却」
を決断した。
宋哲元は、自身の第二十九軍長以外の職務である冀察政務委員会委員長、
冀察綏靖公署主任、また副軍長秦徳純の兼職の北京市長を
第三十八師長張自忠に代理させることにし、午後十時すぎ、
乗用車で北京・西直門から保定にむかい南下した。
退去は日本側にも事前通告していたが、それにしても、蒋介石に
「固守」
を誓言してから、わずか二十四時間余の北京放棄である。
「歴代古都、竟淪犬豕矣!
悲痛何如!」
(歴代の古都がついに犬、ブタの徒に汚されるのか、なんと悲しいことか)
蒋介石は、宋哲元の退去を知ると、そう日誌に記述して嘆息したが、
同時に、軍費
「五十万元」
をおくる旨を宋哲元に打電した。
南苑での敗戦と照合すれば、北京の固守はすでに非現実的であり、このさいは、
むしろ、宋哲元を鼓舞して戦意を強化させるのが得策と判断されたからである。
だが、
宋哲元も、戦意を失っていたわけではなかった。
退却を決断したあと、宋哲元は、なお日本軍の北京占領を牽制する手段として、
通州と天津に分駐する冀東保安隊と第三十八師の一部に 〝蜂起〟 を指令していたのである。
指令は、実行された。
七月二十九日午前二時すぎ、天津の第三十八師副師長李文田は、
天津市府秘書長馬彦○(羽+中) とともに約五千人の兵力で天津車站(駅)、
東機器局、飛行場、日本租界、支那駐屯軍司令部などを襲撃した。
しかし、保安隊が参加しなかったこともあって、いずれも撃退された。
通州の場合は、しかし、事情が相違していた。
通州には、中国軍部隊として、独立第三十九旅第七一七団第一営 (傅鴻恩) が、
郊外に駐屯していたが、二十七日、支那駐屯軍歩兵第二連隊主力の攻撃をうけて、退却した。
第二連隊は、前述したように南苑攻撃に参加するが、その前に通州の安全を
確保するために中国側の武装解除をもとめ、拒否されたので
「撃攘」
したのである。
これで、通州は
「無事の街」
になったとみなされた。
通州は、親日政権
「冀東防共自治政府」
の所在地であり、
四個総隊と教導総隊から成る冀東保安隊のうち、
第一、第二総隊および教導総隊約三千人が駐留している。
第三、第四総隊は天津に分駐していたが、宋哲元の 〝蜂起〟 指令に背をむけた。
通州の保安隊も同様に親日心に富むものとみなされ、しかも、野砲を持つ強力な
存在なので、第二連隊が南苑にむかったあとも、警備能力は十分だと考えられたからである。
ところが、実際には、第一総隊長兼教導総隊長張慶餘、第二総隊長張硯田は、
既述したように、ひそかに宋哲元に服従している。
しかも、保安隊員のほとんどは血気にはやる十八〜二十歳の青年であり、南苑
戦闘にかんしては、中国側が勝ったとのラジオ、新聞の逆宣伝を信じて興奮していた。
それだけに、宋哲元の 〝蜂起〟 指令をうけると、文字どおりに
「武者ぶるい」
して蹶起 (けっき) した。》
つづく
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7月29日 城門に日章旗を掲げる中国人
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/20 18:48 投稿番号: [672 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
361〜362p
《 二十九日午前四時、北京市政府秘書鄭文軒から特務機関に電話がかかってきた。
「北京城内に在った二十九軍は、百三十二師の一部を除いて全部の撤退を完了しました。
・・・・
街中の土嚢は、この前一度、宋哲元が撤去させた事があったけれど、
いつの間にかまた元通り、積み上げられていた。それも午前中には
ことごとく取り除かれて、北京の街や胡同が、急に広々した明るい感じに変ってきた。
兵営の近くに行って見ると、真新しい灰色の軍衣が、あちらにもこちらにも、
点々脱ぎ捨てられてある。あたりの民衆にそのわけを聞いてみると、
彼等は服を脱ぐ真似、走る真似を身振りおかしくやって
「他們換了衣服都 (ターメンホヮンライフートー) 併命的パオ了(ピンミンデパオラ)」
彼等は皆服を脱ぎ捨て、命がけで逃げ出してしまったというのである。
路傍には、安全栓を抜いたままの手榴弾がまだゴロゴロところがっていた。
物騒な事おびただしい。民衆の感想を聞いてみると
「これで戦争は終ったんだ。
また今まで通り、あの懐かしい京劇が見られるのが一番うれしい」
と実に天真爛渡である。
宋哲元と一緒に都落ちした要人の家々には、この日から戸毎に英、米、独、伊、
あるいはフランスの国旗がへんぽんとひるがえるようになった。
いうまでもなく、これは自分の財産が、敵産として差し押えられぬよう、
にわかづくりのカモフラージュである事がうなずかれた。
午前九時半、突然、大使館から電話がかかってきた。
「今、哈達門 (ハーターメン) に大日章旗が翻っているんですよ。
あんな所を占領すると、外交団から文句をいってきやしないかと思って、
警備隊に連絡してみたんです。そしたら警備隊からは一兵も出していない
というご返事なんです。特務機関の方で何かお心当りはございませんか」
「サア、全然知りませんね」
「すると憲兵隊の方でしょうか知ら」
「とにかくまずい事をやったもんですね。私早速赤藤分隊長に聞いてみて上げましょう」
憲兵隊に連絡すると、分隊長もまったく知らなかった。
「今からすぐ、現場に兵をやって調べさせてみましょう」
との事だった。
憲兵が二人、哈達門 (ハーターメン) 吟噴門に駆け上って行って見ると、
楼門には敷布ほどもある大きな日の丸が掲げられ、その下に中国人が
二人しゃがんで満面の笑みをたたえている。
国旗はこの二人が掲げたものと判明した。
彼等の真意はわからないが、表面的には日本軍歓迎の意を表わそうと、
白布に赤インクで、にわかづくりにこしらえたもので、
その日の丸の形たるや丸だか六角だかわかりやしない。憲兵は、ともかくも
「謝々 (シェーシェー)、辛苦辛苦 (シンクーシンクー)」
と銅子児 (トンズル) 若干を
与えその旗を引きおろし、参考のため大使館に送り届けた。万一外交団から
文句が出たら、実物を見せて説明するのが一番の早わかりだと思ったからである。》
つづく
これは メッセージ 671 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月28日 宋哲元の北京脱出
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/19 16:13 投稿番号: [671 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
359〜360p
《「桜井は殺しても死なんような頑丈な体格だから、まあ大丈夫だとは思うが、
僕も一遍見舞に行ってやろう」
と機関長がいった。
その時、中島顧問と笠井顧問とが、ドヤドヤ大応接室にとび込んで来た。
今、進徳社から電話がかかって来て武田嘱託が聞いているが、
二十九軍の撤退に関する事らしいという。
そこへ武田嘱託が入って来た。
「ただいま進徳社から電話がありました。宋哲元は決心を変更し、
北京城内には百三十二師の二ヶ団だけを留め、
宋軍長、秦徳純副軍長以下二十九軍全部、今夜十一時阜城門経由、
門頭溝を追って永定河右岸に撤退することになりました……」
「宋哲元自身も撤退する?」
「ついてはその時刻に、阜城門のところで顧問かだれか、日本側から人を派遣して
いただいて、二十九軍の撤退情況を確認していただきたい、というんです」
「そういう事になったのか。すぐ今井武官に電話して、
ご苦労だがもう一遍機関まで来てもらうよう、連絡してくれ」
武官は五分もたたないうちにやって来た。
一同は二十九軍の撤退をめぐっての対策あれこれを討議した。
その結果、撤退は、今日の総攻撃に驚いたもので突発的に計画されたもの。
撤退情況視察は、明朝市内をドライブの形で行なうことなどが決った。
二十八日夕刻における、進徳社の空気はあわただしかった。
南苑三十八師の潰滅という悲報は、首脳者達の胸に、大きな衝撃を与えた。
百三十二師長趙登禹中将戦死の報道は、彼等の心に驚愕を与えずにはおかなかった。
僅かに一縷 (る) の望みを嘱していた、特務機関斡旋の手蔓 (づる) も、
親日分子の張璧を使っての工作が日本側の峻拒 (しゅんきょ) によって
今や完全に断ち切られてしまった。ぐずぐずしていたら、自分達も
やがては趙登禹の二の舞を踏むようにならないとも限らない。
「撤退しよう。日本軍の手がまだ四周に伸びてしまわないうちに、
この北京城を脱出するんだ。今やこれ以外、我々の生きる道は見当らない」
決議がそう決まった時、二十八日の夕陽は、あたかも冀察の運命を
示唆するかのように、ようやく西山の端に傾きかけていた。
要人達はすぐさま北京脱出の支度にとりかかった。宋哲元はこの時、張自忠を
自分の部屋に呼び寄せて、いとも沈痛な態度で、冀察の後事を委嘱した。
―
張自忠は親日家である。日本側の覚えも格別目出度い方である。
だから、これを自分の代理として北京に留め、日本側との善後交渉に当らせたなら、
この間の空気をいくらかなりとも柔らげる事が出来るのではなかろうか。
―
というのが、この時の宋哲元の気持だった。
斉燮元や張允栄、張璧などの長老はじめ、たとえそれが若手であっても、
一応知日派と目されるような連中は、一律に残留組のメンバーに加えられた。
こうして華北の重鎮、宋哲元の都落ちは、急遽、かつ極秘裏に行なわれ、
憲兵司令、邵文凱 (しょうぶんがい) 中将に対してさえ、
何等それが知らされていないような有様だった。
二十八日午後十時すぎ、三台の乗用車がカーテンを深くおろしたまま、
静かに北京城西直門をすべり出た。》
つづく
これは メッセージ 670 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月28日 趙登禹将軍を手厚く葬る
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/18 15:32 投稿番号: [670 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
347p
《 南苑柳営に在って緊急措置を指令していた趙登禹は、日本軍の攻撃がますます
熾烈になってくるにつれ、やがて自らの身の危険を感ずるようになった。
そこで正午過ぎ、脱出すべく決心した。これから北京に引き返そう。
もし俺がここで斃 (たお) れてしまったら冷酷な秦徳純のことだ。
今後百三十二師はいったいどうなってしまうだろう。・・・
二十九軍の副軍長○(ニンベン+冬) 凌閣と、北京城内に潜行するための計画を立てた。》
348〜349p
《 自動車は八十キロのスピードで猛進して来る。
我が散兵壕はこれを前方三百メートルに近づけた後、一斉猛射を浴せかけた。
こんどは重機関銃までがこれに加わっているのだからたまらない。
トラックと乗用車は、三差路の南、わずか五十メートルのところで馬の死体に
乗り上げてしまった。二つの自動車間の距離は精々二十メートルあるかなしかだ。
我が兵は止めの射撃を浴せた。トラックからは一兵も降りて来ない。
乗用車から一人、便衣を纏った男がよろよろとはい出して来て、
道路西側の溝の中に、身体半分をのめり込ませたが、
それもそのまま動かなくなってしまった。
銃声は止んだ。あたりは元の静けさに戻った。
我が兵四、五名が.ハラバラッと壕をとび出して自動車に走り寄った。
先頭のトラックはエンジン部に蜂の巣のような弾痕を留め、
乗っていた兵は折り重なって即死していた。
二、三その中で死んだ真似をしていた者もあったが、
哀れを催したのでそのまま見逃す事にする。
兵はその後方の乗用車に近づいて行った。
自動車の扉は、蜂の巣そっくり、何百と云う弾痕が印されている。
運転手は大腿部に数発の銃創をうけ、ようやく車からはい出して来たが、
ひどい出血のため、間もなくその場でこと切れてしまった。
後部の座席には、痩身便衣の紳士が、掌を膝に置いたまま、
眠るがごとくクッションにもたれて息絶えている。
頭から足の先までにかなり銃弾を受けていた。
その脇の副官らしい男は、横窓に頭をもたせかけたままで動かなかった。
副官のポケットを探ると、第百三十二師中将師長趙登禹という名刺が沢山現れた。
背広一揃と重要信書、すなわち蒋介石主席から宋哲元に宛てた電報、
宋哲元が趙登禹に与えた命令、書簡、その他百三十二師将校の勤惰表なども
一括してクッションの上に置かれてある。
便衣の紳士が趙登禹師長であった事は、明かだった。
はるか後方に停まった後続のトラックも、兵は全員戦死、さきほど溝にのめり込んだ
便衣の男からは、二十九軍副軍長○(ニンベン+冬) 凌閣という名刺が何枚か入手された。
「趙登禹将軍陣没す」
この報は、当時不眠不休の激務に追われ通していた私に、
霹靂一声の衝動を与えた。
ただもう何とはなしに、もっとも身近な人がなくなったような
愕 (おどろ) きに私の胸は一杯だった。
趙登禹の遺骸は、中島軍事顧問の手によって丁重に収容され、戦局小康を得た
八月の初旬、北京外城先農壇の片ほとり、牡丹の名所として有名な古刹、
竜潭寺 (りゅうたんじ) に手厚く葬られる事となった。特務機関や武官室、
軍事顧問部からは幾多麗わしい生花を贈って、趙師長生前の功をたたえた。
彼の口からはもう、永遠に東亜の和平を聞く事は出来なくなってしまった。
−
しかし将軍よ、乞う意を安んじて瞑目 (めいもく) せよ。
君をもっとも苦しめた秦徳純、馮治安等はすでに北京から追い退けられ、
君は永遠にこの憧 (あこが) れの森の都、北京に骨を埋める事となったのである−
私が独語しながら、彼の墓前に注いだウイスキーの一瓶、それは和平が達成された暁、
心おきなく飲み明かそうと語った彼とのかねての約束を果すべく、
そして真の日華提携を祈念する意味である事を知る者は、
恐らく彼の霊以外、何者もなかったであろう。》
つづく
これは メッセージ 669 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月28日 日本側の実力行使開始
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/17 18:44 投稿番号: [669 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 文春文庫
47〜48p
《
−
北京と南京、
この二つの都市は、それぞれ日本の京都と東京に対比できるであろう。
だが、北京と京都では、ともに首都の座を南京と東京にゆずって古都の地位を
たもっているとはいえ、北京は、〝遷都〟された期間がより短いだけに、
なお中国のシンボル的存在とみなされていた。
そして、いまや日中両軍の直接の衝突の場は、その北京を中心にする北支である。
蒋介石は、両国の対決気構えが明らかになった七月二十七日夕、あらためて
第二十九軍長宋哲元にたいして、 「加深壕溝、固守勿退」
と北京保持を電令した。
宋哲元も、決意のほどを強調して返電した。
「北京為華北重鎮、人心所繋……己決心固守北京……決不敢棺有畏避」
このあと、宋哲元は、翌日の夜明けに
「全面進攻」
をする旨を各部隊に指示し、
かねて
「秘密連絡」
していた親日政権である
「冀東防共自治政府」(殿汝耕)
保安隊にたいしても、 「奇襲敵後方」
せよと密令した。
−
だが、
日本側のほうが、動きはす早かった。
支那駐屯軍司令官香月清司中将は、七月二十八日午前零時、
「独自ノ行動ヲ執ル」
旨の宋哲元あて 〝開戦通告〟 を北京特務機関につたえ、
機関長松井太久郎大佐は、午前二時、北京市政府秘書朱毓真に電話で伝達した。
日本軍の攻撃目標は、中国側の第三十八師 (張自忠)、
第百三十二師 (趙登禹) の主力が駐屯する南苑にさだめられ、
事前の空襲につづいて、午前八時、攻撃前進が開始された。
第二十師団 (川岸文三郎中将) の主力である第四十旅団 (山下奉文少将) が
南方から、支那駐屯軍歩兵第二連隊 (萱島高大佐) が東の通州方向から、
第一連隊 (牟田口廉也大佐) は北西から南苑をめざした。
中国軍は圧倒され、午前十一時には、第一連隊第三大隊 (一木清直少佐) は
南苑北方約一キロに移動して、中国軍の北京への退路遮断の態勢をとる余裕ができている。
正午すぎ、第二十九軍副軍長○(ニンベン+冬) 凌閣と第百三十二師長趙登禹は、
便衣に着かえ、乗用車にかぶせた網に楊柳の枝をさしこんで偽装し、北京にむかった。
が、午後零時五十分ごろ、第一連隊第三大隊が待つ天羅荘部落で阻止され、
二人は機銃弾をあびて戦死した。》
つづく
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7月27日 通州事件の前 南京デマ放送
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/16 18:38 投稿番号: [668 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
369〜371p
《 南京の放送局といえば、満州事変以来、すぐにもう、
「ああ
あのデマ放送か」
とうなずかれるほど有名になっていたが、
これが盧溝橋事件以後、活発な宣伝を始めていた。
もっともこれも、蒋介石がこれによって自国民の志気を鼓舞し、
世論を統一し、敗戦中国を崩壊の淵に追い込まなかった効果、
それは極めて大きく評価されて然るべきであろう。
確か七月二十七日ごろと記憶するが、
北京特務機関がキャッチした南京放送ニュースは次のようにいっていた。
「日本軍は盧溝橋の戦場において、我が優勢な二十九軍と交戦の結果、
支離滅裂の敗戦に陥り、豊台と郎坊とは完全に我が手に奪還してしまった。
北京及び天津方面に在る日本居留民は、家財をまとめ、
目下陸続、満州、朝鮮乃至 (ないし)本国に向って引き揚げを急いでいるが、
今日の情勢をもって推移すれば、日本軍が我が華北一帯から、
完全に姿を消してしまうのもここ旬日を出ないであろう。
現に我が中央軍は、津浦、京漢両鉄道によって、陸続華北の戦野に兵を進めつつあり。
また蒋委員長も、今すでに河南省鄭州に達し、
一両日中には保定に赴いて自ら戦線を督励するはずである」
そして最後に
「なお、最近北京における軍事会議の結果、蒋委員長は、
近く二十九軍を提げて、大挙冀東を攻撃し、偽都通州を屠 (ほふ) り、
逆賊殷汝耕を血祭りにして、満州失地快復の第一声を挙げる事を決議した」
と叫んでいる。
事実、通州のような田舎に引込んでいると、
日本軍でさえとかく全般の情勢にうといのが通例である。
いわんや冀東の保安隊など、戦争はいったいどちらが勝っているのか敗けているのか、
皆目わからず、半信半疑でいたところへこうしたラジオ放送である。
彼等には放送の一言一句が、非常な魅力と迫力とをもって泌み込んで行ったのも、
うなずけないことはない。
日本軍を撃破した宋哲元がこの冀東に攻め込んで来た場合、我々の運命は
いったいどうなるのか、いつまでも殷汝耕なんかに付いているのは危険千万だ。
機先を制し、進んで殷長官を生どりにし、これを北京に持って行って宋委員長に
献上したら、きっと重賞にあずかれるに違いない。
通州に在る日本軍の兵力は、今が一番少ない時だ。事を起すなら今の中に限る。
−
こうした気持に駆り立てられた冀東の保安隊総隊長張硯田 (ちょうけんでん) 、
張慶余の両名は、それから寄り寄り反乱計画を立て始めたらしい。
かねがね冀東転覆の策士として入り込んでいた、郭鉄夫 (かくてつぶ) あたりが
この虚につけ込んで総隊長連中をたきつけたのは事実だし、
共産学生の一味がこれに合流していた事も確実である。
七月二十七日、新たに兵站司令官として通州に着任した辻村中佐は、
とりあえず事務所を通州守備隊の中に開設した。
そして二十八日、通州特務機関、冀東政府、
保安隊幹部等への挨拶回りにあわただしい一日を過し・・・。》
つづく
これは メッセージ 667 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月27日 通州保安隊への誤爆事件
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/15 18:49 投稿番号: [667 / 2250]
これは 「663
7月26〜27日
通州事件の前段階」 のつづき
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
368〜369p
《 午前三時、中国軍からはついに回答がなく、さらに密偵の報告によると、
彼等の兵営には抗戦の気勢が横溢しており、
この夜中、兵馬のざわめきひとしおだとの事である。
すさまじい砲銃声が天地を鳴動した。膺懲戦の幕が切って落されたのである。
城壁の上から火を吐く機関銃、楊柳の木立から起る軍馬のいななき。
七月二十七日黎明四時の冷たい空気を揺り動かして、
日本軍の砲撃は四発宛、整然として撃ち続けられた。
傅鴻恩部隊抗戦の弾丸は、それこそしどろもどろ、
右の方にとんだかと思うと今度は左の方にとび散って来る。
低伸した弾丸が道路の真ん中で土くれをハネとばす。
今度は高い高い弾丸が城壁を越えて、通州城の遥か北の方まで飛んで行った。
夜はほのぼのとあけ離れ、ニブ色の陽の光が城壁を照らし始めた。
この時、戦闘に協力すべき友軍爆撃編隊が通州上空に浮び出て来た。
浮足立った中国軍の頭上に猛烈な爆弾の雨を注ぎ始めた。
兵はクモの子を散らしたように、兵営の外へとび出して行く。
それが新南門を固めていた我が軍からの、横なぐりの銃火を浴びる。
この戦闘において、我が軍は将校以下六名の戦死者と、二十六名の負傷者を生じたが、
新設連隊初陣の殊勲に、将兵の士気はあがった。
二十七日午前十一時ごろまでに、付近一帯の残敵掃蕩を完全に終り、宝通寺の
中国兵営にはもはや一兵の姿も見受けられず、戦闘目的は、完全に達成する事が出来た。
ところがこの戦闘に関連して、厄介な問題が起った。
宝通寺の兵営と境を接している冀東保安隊幹部訓練所では、
爆撃隊が対地戦闘を開始したと知るや、好奇心から隊員一同、
広い校庭にとび出して、この戦闘を見物し始めたのである。
華北の戦場に到着したのは数日前であり、通州の戦闘参加の命令をうけたのが
今日の明け方だという飛行隊は、冀東と冀察の境界線がどのようになっているのか、
保安隊訓練所がどこにあるのか、そのような細かい点はわからない。
だから今、脚下にとび出して騒いでいる冀東保安隊の姿を見た時、
二十九軍の一味に違いない、と即断したのも無理はなかった。
爆撃の雨は、この保安隊の頭上にも、浴せかけられたのである。
たちまち保安隊員の数名が重傷を負い、数名はその場に爆死した。
細木機関長はこの報を聞くと直ちに自動車をとばして、冀東政府に殷長官を訪ね、
陳謝するとともに爆死者の遺族に対しては、日本軍として、最善の方法を尽し、
負傷者に対しても同様、十二分に療養と慰藉 (いしゃ) の方法を講ずる旨を申し出た。
そして二十七日、機関長自ら現場の視察、遺族の弔慰に奔走した。
さらに翌二十八日、教導総隊幹部一同を冀東政府に招集し、
機関長は誤爆に関して説明を加え、彼等の慰撫に努めた。
そのかいあってか、保安隊員は心中の鬱憤を軽々に、
表面立って爆発させる事はしなかったのである。》
つづく
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7月27日 内地三箇師団の動員発令
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/14 18:42 投稿番号: [666 / 2250]
松本重治著 『上海時代・下』 中公新書
163〜164p
《 廊坊現地で対峙した彼我の勢力は、中国側が圧倒的に優勢なので、
日本側は天津より増援部隊を急派するとともに、二十六日早朝七時、
空軍を動員して、廊坊の中国軍兵営を目指して爆弾を投下した。
それにひきつづいて午前十時過ぎ、再度の爆撃をも行ったため、
中国軍部隊は廊坊附近から西北方に向け逃走した。
この事件を起した中国軍隊は、かねて日本側が友軍と考えていた張自忠の
第三十八師の百十三旅二百二十六団の部隊であったので、
香月司令官は、第二十九軍全体の統制につきいよいよ不信を感じ、
二十六日午後三時、事前措置として、日本側において抗日の悪評高い馮治安の
第三十七師の部隊が、撤退を約しながら履行しない事実に鑑み、
この第三十七師の紛争多発諸区域からの撤退を強要する旨を、
第二十九軍長宋哲元に通告した。その通告の要旨は、左のとおりであった。
「……貴軍において依然事態の不拡大の意思を有するにおいては、
まず速やかに盧溝橋および八宝山附近に配置する第三十七師を明二十七日正午
までに長辛店に後退せしめ、また北平城内にある第三十七師は北平城内より撤退し、
西苑にある第三十七師の部隊とともに、まず平漢線以北の地区を経て
七月二十八日正午までに永定河以西の地区に移し、
爾後ひきつづきこれら軍隊の保定方面への輸送を開始せらるべし。
右実行を見ざるにおいては貴軍に誠意なきものと認め、
遺憾ながらわが軍は独自の行動をとるの己むなきに至るべし。」
右通告発表とともに、北平では、命により松井特務機関長は大木参謀、
寺平補佐官を伴い進徳社に赴き、宋哲元に会見を求めたが、
彼は病気と称して会見を忌避した。三時半、松井氏は宋の代表秦徳純と会見し
通告文を手交した。 泰は通告の内容を見て、その強硬さに一驚し、
一時は受理を拒んだが、結局これを受理し、同夜にいたり、
代理を松井氏のもとに急派し、日本側の要求全部を納れ、
翌二十七日朝から撤退を実行に移す旨を回答した。その回答がなされたころ、
同じ北平でほとんど同時に、広安門事件が突発したのであった。
事件は、廊坊事件と日本側の強硬通告とによって、一触即発の事態になりつつあったので、
駐屯軍では北平居留民保護に任じてきた牟田口連隊長に命じ、豊台にあった
その麾下の二箇中隊を北平兵営に帰還、増員せしめようとしたところ、二十六日午後八時、
城壁上にある中国部隊によって、やにわに小銃、機関銃の乱射を受けた事件である。》
166p
《 二十六日の深夜、香月司令官は、不拡大主義一擲 (いってき) の決意を
陸軍中央に電報したが、東京では翌二十七日午前に閣議があり、
内地三箇師団の動員案が上程され、たいした議論もなく閣議決定となり、
同夕、動員令が発令された。日本は回帰不能地点に到達してしまったのである。
駐屯軍では、同夜、深更、朝鮮軍よりの一箇師団、関東軍よりの二箇旅団をも
協力せしめるような、第二十九軍に対する総攻撃の作戦計画を決定し、
二十八日午前零時、左のごとき宋哲元軍に対する最後通牒と
北平城内からの撤退を勧告する旨の公式発表があった。》
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7月27日 桜井顧問の救出
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/13 19:37 投稿番号: [665 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
341〜343p
《 午前二時二十分、広部大隊は全員警備隊兵営に到着した。 真ッ暗な営庭の中央、
降る雨の中に立って、広部大隊長が粛然、岡村警備隊長に対して行なった申告は、
万感胸に迫って時々杜絶えた。 新聞記者連は一ケ所に寄り集って、おたがいに
「おめでとう。よく助かったな」 「いや、俺はもうあの時、とても駄目だと思ったよ」
と感激の握手を交していた。
やがて記者団が軍使一行を取り囲んだ。
毎日新聞社の本田親男特派員が私のところへ来て
「大変お世話になりました。
全く、あなた方のお陰で私達、ようやく命拾いが出来ました」
「いや、あれは決して私達の力じゃない。
みんな周参謀の努力ですよ。
弾の中へでも青竜刀の下へでも、平気でとび込んで行って、
実に手際よく日華両軍の間を調停してくれた。
今時の中国には、全くめずらしい人物ですね。
オイ、周参謀はそこらにいないかな」
「たった今までここにおりましたが、さあ今度は桜井顧問を見つけ出しに
行かなくっちゃといって、自動車の方へ歩いて行きました」
軍使一行はこうして無事、部隊救出の任務を達成した。
しかし軍事顧問桜井徳太郎少佐をはじめとして、川村、吉富、斉藤等各機関員の
姿は、依然、どこからも見出されない。
これを思うと、暗い気持に引ずり込まれて行くのだった。
「桜井さんは、私が責任をもって捜し出して来ます。たとい私は殺されても、
顧問だけは必ず助け出して日本側の手にお返し致します。
どうか一切を私にお委せ下さい」
そういって再び広安門に引き返して行った周参謀だった。
その彼は、広安門大街外四区の警察分所に到着すると、
直ぐ巡警に命じ、全員を手分けして広安門内外の捜索を始めさせた。
暁闇煙る雨の中、城門のあたりから
「桜井顧問 (インジンクーウェン)!」
「桜井顧問 (インジンクーウェン)!」
と巡警等の叫びが沈痛に響いてくる。
午前四時少し前、かねて顔見知りの巡警の一人が、
ようやく顧問の所在を広安門の真下、物置小屋で発見した。
身に数創をうけた桜井顧問は、取りあえず警察分所に担 (かつ) ぎ込まれ、
周参謀から応急の手当をうけると、そのまま自動車に運ばれて、
午前四時半、安全に特務機関に送り込まれた。脚腰立たない顧問ではあったが、
己が身の痛みは一言半句訴える事なく、厳粛な態度で
「機関長殿、川村芳男を広安門で、とうとう殺してしまいました。
まことに申し訳ございません」
ここに初めて顧問の口から、川村機関員の壮烈極まる最期の模様が報告されたのである。
機関員一同は暗然首を垂れて顧問の話に耳を傾けた。
川村の死体は殺された直後、城壁上から城外に放り落され、
城門南側、小屋の裏手に埋められてあったのを、数日の後、
和田嘱託が現場に赴いて掘り起し、丁重に荼毘に付した後、
北京本願寺で盛大に葬儀を営んだ。
張自忠、張璧、斉燮元をはじめ、日華各界の要人から贈られた花輪は堂を埋め、
香煙縷々として立ち昇る仏壇の前で、機関員連は、そぞろ凄壮を極めた広安門の
一夜に想いをめぐらし、懇 (ねんご) ろに彼の霊を弔ったのである。
部隊入城の際、城門の傍に立って開扉の責を果した吉富、斉藤両機関員は、
いよいよ交戦状態に陥ると同時に、銃火の間断を利用して城外に脱出し、
翌朝未明、苦力に変装して高梁畑の中を進み、
無事豊台の旅団司令部にたどりつく事が出来たのであった。》
つづく
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7月27日 広部大隊救出行動6
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/12 15:24 投稿番号: [664 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
339〜341p
《 その時周参謀一行が、宣武門から西単牌楼 (シータンパイロウ) の方までも
情況偵察に行って、ようやく引き返して来たところだった。
自動車からとび降りるなり、
「大丈夫です。今大通りには人ッ子一人出ていません。
今のうちに行ったら成功疑いなしです。どうか急いで出発させて下さい。
そして何ですか。桜井顧問が見えないというんですか、こりゃあ困りましたねえ。
しかし中島顧問殿、部隊の誘導は急ぎます。桜井さんの事は私に委せて下さい。
そして部隊を一刻も早く公使館区城に入れて下さい」
人情の極致、戦友を救わんがために身を危地に乗り入れようとする、
中島顧問の友情も壮であるが、一方、任務の前に決然その翻意をうながした、
笠井顧問の態度もまた、立派だった。 中島顧問はついにその決心を翻した。
そして笠井顧問等と共に、集合位置の方に歩き始めた。
午前一時、白旗を翻した軍使の自動車を先頭に、十数台の車輌部隊は、
東交民巷 (トンチャオミンシャン) の北京警備隊目ざして前進を起した。
しかしこの事輌部隊の行進は、まるで葬送行進と思われるまでに、遅々として
進まなかった。さきほどの戦闘で、車輌がさんざん痛めつけられたからである。
菜市口付近、中国側団本部のまん前あたりで
「第四号事故障!」
と後方から
どなられるたびに、一番ヒヤリとさせられるのは、誘導に任じている我々軍使の一行だった。
一台故障車が出ると、全部の部隊を停止させ、兵を他の車に分乗させ、
牽引準備が終ってから再び行進を起すのだから、
その都度、十分ぐらいは空費してしまうのだった。
しかも故障車続出なのだからたまらない。
だが、もっともおそれられた中国軍の出撃をこうむることもなく、
どうにかこうにかようやく宣武門までたどりつく事が出来た。
時計は午前一時五十分を指している。
そうだ、城外部隊の広安門攻撃を、何とか早く食い止めなくてはならぬ。
私は宣武門内の警察局派出所にとび込んで、電話で
「東局二九八」
北京
特務機関に呼びかけた。ところが、例によって
「お話中」「応答なし」
である。
私は、とっさに
「俺は二十九軍の周参謀だ。今、広安門で重大事件が勃発している。
大至急日本特務機関に交渉しなければならぬから、
応答がなかったら出るまでジャンジャン、ベルを鳴らせ」
となかば命令的に交換手に対してどなりつけた。
すると直ちに特務機関が出た。私は機関長に報告した。
「寺平です。ただいま宣武門の交番におります。
城内に入った広部大隊は全部収容して、先頭はもう宣武門まで前途し、
後尾のトラックは故障のため大分遅れておりますが、
もう間もなくここへやって来ることと思います。
ついては早速ですが城外部隊の広安門攻撃ですねえ。
あれを至急中止するよう、豊台に連絡して下さい」
「そうか。それは大成功だった。ご苦労ご苦労。では河辺旅団に対しては、
今からすぐ電話する事にしよう」
と機関長は答えた。》
つづく
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7月26〜27日 通州事件の前段階
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/11 15:00 投稿番号: [663 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
367〜368p
《 七月二十六日未明、郎坊事件が勃発し、夜、また広安門事件がひき起された。
目まぐるしいまでに矢継ぎばやの情勢の激変、ここにおいて通州特務機関は、
急遽対策を講じなければならないいくつかの問題に直面した。
その中、最も急を要するものが、常時通州新南門外宝通寺に駐屯している
二十九軍の一ヶ営、これの処理対策である。
この部隊はもともと、独立第三十九旅長阮玄武 (げんげんぶ) の隷下に属し、
歩兵少校傅鴻恩 (ふこうおん) を営長とする七百十七団の第一営だった。
傅鴻恩は年のころ三十五、六歳、がっちりしたタイプで、識見才能は
あまりない一介の武弁に過ぎなかった。
だから盧溝橋事件勃発直後、まずその身の撮り方について、
心配し始めたのもこの営長だった。
彼は腹心の密使を細木機関長のもとに派し
「万一事態拡大の暁には、
私はこの第一営を提げて、早速日本側に寝返りを打ちます」
と申し出て来た。
細木機関長はその具体的方法の取り決めに関し、わざわざ憲兵を連絡に出したけれど、
傅鴻恩は逃げを打って曖昧な態度を示す。
そして重火器を持ったまま、冀東保安隊に改編して欲しい様子を示した。
これでは、いつ冀察側に寝返るかわからず、
虎を野に放っておくようなものだと判断した機関では、二十六日夜、
傅鴻恩部隊武装解除の対策を討議し、結局、次のような通告文をつくり上げた。
通
告
盧溝橋事件勃発以来、我が軍が終始平和を冀念して行なった数次の折衝も
その効なく二十九軍は常に不信と不義とをもって我に対応し、
本日またまた郎坊方面に、重大な事態を惹起した事は甚だ遺憾とするところである。
我が軍は、現下の情勢に鑑み、貴部隊が停戦協定線上に駐屯せられる事は、
在留邦人の保全と、冀東の安寧に害がある事を認め、ここに貴軍に対し、
二十七日
午前三時までその武装を解除し、北京に向って撤退せられん事を要求する。
もし右の要求が実行に移されない場合、軍は爾後、独自の行動を出ずる事があるで
あろう。この際生ずる一切の責任は、当然貴方において負われるべき性質のものである。
なお、武装解除に応ぜられる場合、将校に限り、
日本武士道の精神に則 (のっと) り、特に刀を帯びる事を許容する。
この通告文は憲兵分駐所長足立喜代に軍曹の手を経て、営長傅鴻恩のもとに
送り届けられた。だが容易に回答なく、機関はついに攻撃の決意を固めた。
その夜深更、通州守備隊の一室で、萱島大佐、細木中佐、小山砲兵隊長、
藤尾守備隊長等による軍事会議が開かれた。
そして新南門外に駐屯する二十九軍に対しては、もはや武力に訴える外、
他に解決の策なしと一決した。萱島連隊長はその場で作戦命令を起案した。
部隊は直ちに攻撃のための部署についた。折りからの闇を縫って品部大隊は
南西城壁一帯の線にまた安岡大隊は旧南門から鉄道線路にわたる間に展開、
小山哲郎中佐の指揮する砲兵隊は、無線電信所付近に陣地進入を終り、命令一下
いつでも、中国軍の頭上に巨弾を浴せかけられるよう、万般の準備が整えられた。》
つづく
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7月26〜27日 広部大隊救出行動5
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/10 18:42 投稿番号: [662 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
338〜339p
《 大隊長は各隊長を集めて、大隊の集結命令を下達した。
集合場所は自動車隊の位置。時間は即刻。そして最後に大隊長は
「幹部は兵の頭から、大隊はまだ、敵の重囲の中に在るんだという観念を、
絶対失わせてはいかんぞ」
と特に力強く付け加えた。
トラックの上からは負傷兵の呻 (うめ) きが、とぎれとぎれに聞えて来る。
上島成人軍医と丹羽一郎軍医とが、全身血沫を浴びながら、
懐中電燈の光を頼りにそれ等に応急の手当を施している。笠井顧問と私とは
傷兵の一人一人に 「しっかりしろ、元気を出せよ」 と激励して歩いた。
その時、真ッ白い中国服を着た男が、ヌーッと私のそばに近寄って来た。
私はだれだとどなった。
「 寺平大尉、まさかこんなところに君が来ていようとは思わなかったよ」
これが今日、広部大隊を誘導して来た軍事顧問、中島弟四郎中佐である。
もう午前零時半である。部隊は次第次第に集まって来た。
暗がりの中からゴロゴロ人力車を引いて来る兵がある。
車の上には白い敷布がかけてあった。
「一体全体、あの兵隊は何しとるんだ?
この戦争の真ッ最中に洋車 (ヤンチョ)
引きの
真似なんかして……」
かたわらの軍曹がそれに答えた。
「ハ、あれは戦友向俊暁 (むかいとしあき) の死体を運んで来るんであります」
私はその車に近づいていった。そしてその覆いの一端を外してみた。
頭部盲管銃創の壮烈な最期である。朱のような鮮血がベトベトと敷布を濡らしている。
タッタ今さき、護国の神と化し去ったばかりの英霊に対し、
私は敬虔な態度で、感謝と哀悼の真心を捧げた。
続いてまた一台、今度は前原初年兵の遺骸が運ばれて来る。
同盟通信の三木雅之助特派員もまた、その大きな身体に数発の敵弾をうけ、
僚友二人に支えられながら、この集合位置にやって来た。
「第四中隊がまだ集って参りません」
さきほどの軍曹の声だ。
「そうか。もうやがてやって来るだろう。ちょっとその辺まで連絡に行ってみろ」
と
大隊副官が命令した。ちょうどその時、第四中隊十数名が広安門の方から、
足音も静かに集合位置にやって来た。
静かなのも道理、この中隊は全員跣足 (はだし)、そして各々靴を片手にブラ下げている。
夜襲のため、城壁によじ登る準備を整えていたものらしい。
その時遠くの方で
「桜井、桜井顧問はおらぬか」
しきりに桜井顧問を呼ぶ声がする。
中島軍事顧問の声だ。
「桜井!
桜井少佐!」
狂おしいまでに疳 (かん) 高い叫び声は本道の方から聞えて来る。
広安門の敵が鳴りをひそめているのは、周参謀が説得したからとはいえ、
決してそれで戦闘意欲がなくなってしまったというわけではない
いや、彼等こそ、今の今まで日本軍を敵に回して戦っていたのだから、
その敵愾心 (てきがいしん) は極めて旺盛なはずである。
その敵の真近まで、身に寸鉄も帯びない中島顧問が、
桜井顧問の安否を尋ねて探しに行こうというのだ。》
つづく
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7月26日 広部大隊救出行動4
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/09 18:41 投稿番号: [661 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
337〜338p
《「しかしどう考えてみても残念ですなあ、
夜襲の準備はもうスッカリ出来上っているんですから。
ことにさきほど来の戦闘で、私は数名の部下を殺し、
十数名の負傷者をつくってしまいました。
この仇だけは何としてでも、とってやらなければなりません」
「ごもっもです。大隊長殿のお気持はよくわかります。
ただ、それについて簡単に申し上げますが、実は今日午後三時から、三時間にわたって、
私は松井特務機関長のお伴をして、宋哲元の所に行き、日本軍としての最後の通牒を
たたきつけてきました。それで二十八日の正午から、軍はいよいよ全面的に、
二十九軍剿滅のための攻撃行動を起すことに肚が決まったのです。
ですのにそういうふうに方針が決まった以上、戦死者の仇討ちをするチャンスは、
これからいくらだって出来て来ます。
この広安門という一小局部で、抜き差しならぬ戦闘をひき起し、
これ以上損害を拡大されるより、むしろ大乗的な立場に立って、
今日のところは一応これを断念していただきたいと思います。ことに軍司令官閣下は、
概要、私が今、申し上げましたと同じようなお考えを持っておられまして、
広安門事件は、現地限りで解決せよとの趣旨を、
さきほど天津から電話で連絡して参りました」
「そうですか。よくわかりました。しかしただ一つ、私として考えます事は、
現在我々を包囲している中国軍についてです。我々の任務からいったら、
一刻も早くこの位置を撤して、公使館区域に入るのがいいかも知れませんが、
その移動途中、包囲中の中国軍と衝突する事、これはどうしても避けられません。
いずれにせよ一戦交えなければならないというのなら、むしろ勝算の確実な、
広安門を攻撃した方が賢明の策だと考えるのです」
「それはご心配には及びません。私達は今ここへ来る途中、
包囲中の中国軍をことごとく本道上から撤退させて参りました。
ここから公使館区域までの通路は、完全に清掃が出来ています」
と今までの経過をかいつまんで説明した。
最後に
「そういうわけですから、この方面の中国軍の行動に関しては、全責任を私が負います。
一切は私達がよく心得ておりますから、どうぞご安心なさって下さい」
「今あなた方が来られる時には、一応いう事を聞いて道をあけてくれたかも
知れませんが、相手は何といっても中国軍です。
後の心境の変化という事も考えなければなりません。
その辺の見透しは、いったいどんなものでしょうか」
「もちろん心境の変化という事に関しては、十分考慮しなければなりません。
しかしそのためには、ただ今も気心の知れた中国軍の参謀に、
私の方の通訳生一名をつけて、今来た経路をもう一遍引き返させ、
中国軍の撤退情況を再点検させております」
「有り難う。それほどまでにやっていて下さるのならば
ご意見に従って直ちに撤退を開始する事に致しましょう。
高須大尉に高杉大尉、それから山本副官、他に何か意見はないか」
「自動車が大半損傷をうけているようですが、果して運転出来ますかどうか……」
「すぐ調べさせてみい、動く事だけは動くだろうと思うんだが」
「それからもし、中国軍が途中で不法射撃でも始めたような場合の措置は」
「たたき破るんだ、徹底的にたたき破って目的地に前進するんだ!」
「わかりました。兵にも、よく徹底させます」》
つづく
これは メッセージ 660 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月26日 広部大隊救出行動3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/08 18:32 投稿番号: [660 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
335〜337p
《 笠井顧問と私は伝令の兵に案内されて、埃のボコボコした北綫閣の通りを、
北に向って歩き始めた。 銃剣が至るところの闇にギラリギラリ光っている。
やがて伝令が
「この土塀の中が大隊本部です」
と左側の大きな家を指差した。
あたりは木立に囲まれて、その木の根方でも歩哨が厳めしく警戒していた。
奥の方から、ザワザワ人の出て来る気配がする。
「大隊長殿はおられませんか」
と
伝令がたずねた。
「ここにおられるぞ」
「今、軍使の方が見えて、大隊長殿を探しておられます」 「何?
軍使?」
そういって長身の広部大隊長が一歩前へのり出した。
天から降ったか地から湧いたか、この敵軍重囲の真ッ唯中に、突然現われた背広姿の
軍使の一行。広部大隊長にはそれが極めて奇怪な存在として映じたに違いない。
まるで狐につままれたような感じだったと想像される。懐中電燈を照らして、
私の頭の上から足の先までジロリジロリ眺めながらいった。
「大隊を公使館区域まで誘導して下さるというんですか?
いったいあなた方は、大隊の現在の情況がおわかりになっているんですか?」
「概略は承知しています」
「大隊は今、腹背に敵をうけているのです。
そして城外部隊は今夜二時半、城門に向って攻撃の火蓋を切る事が、
先程電話でわかってきました。
それで大隊は、城外部隊の攻撃に先立って広安門を夜襲するため、
今から出かけるところなんです」
「それはこのさい、是非思い止まっていただかなければなりません」
「イヤ、私の大隊としては、友軍が広安門を攻撃するという以上、
事前に城壁の一角を占領して、友軍の攻撃を容易ならしめる事が、
戦術上当然採るべき手段だと考えます。今晩は辛いにしてこのひどい風、
さきほどもここにいる高須大尉から意見具申がありまして、
この〝神風〟を利用して広安門内側の民家に火を放ったら、確実にあの城内に燃え上って、
夜襲成功の可能性は多分にあるというんです。これをいまさら中止するという事は……」
「それについて申し上げますが、城外部隊が広安門を攻撃する理由はいったい何です。
大隊が城内と城外とに分断され、城内部隊が敵中に孤立しているから、
これを救出するというのがその目的なんじゃありませんか。
だから大隊が公使館区域に入るという、最初の目的が達成されたら、
城外部隊は何も苦しんで城門攻撃なんかしなくたって済む訳です。
これについては、さきほど特務機関長からも電話があって、城外部隊の攻撃を阻止
する事は、責任をもって豊台の旅団司令部に連絡をとるから、との事でございました。
それに北京城内では、居留民の引き揚げもまだ終っていない状態なんです。
今、ここで戦闘をひき起したら、二千の居留民は城内到るところで虐殺されて
しまうでしょう。もともとが居留民保護という任務を持っておられる大隊です。
その大隊の行動に端を発し、かえって居留民虐殺の動機がつくられたとしたら、
それこそ本末転倒、逆効果です。むしろ最初から入城しない方がまだよかった、
という事になりはしませんか?
何といってもこのさい、任務が第一です。
この点、よくよくお考えになっていただきたいと思います」》
つづく
これは メッセージ 659 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月26日 広部大隊救出行動2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/07 18:21 投稿番号: [659 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
334〜335p
《 途中、機関へ電話連絡すると、
豊台を出発した福田部隊は明午前二時半、広安門攻撃を開始するという。
とすれば我々の和平交渉に必要な時間は四時間足らずである。
ところが我々の車は数百メートルごとに中国兵によって誰何され
ストップを命じられ、これではいつになったら現場に到着できるかわからない。
ままよ、自動車のまま強行突破しようとなった。
徐行しながら一行の後からついて来た顧問用の自動車は、この時ヘッドライトを、
こうこうと照らし始めた。五人は寿司詰めになって、その一台の自動車に乗り込んだ。
広瀬秘書は運転台の傍らに在って、ヘッドライトの前に白旗を振りかざしながら進んだ。
中国軍の最前線は、そのころ東北大学運動場の付近にあった。
最後にこのあたりの部隊を道路の奥に追い込んでしまって、
そこの連長に別れを告げようとしたら、連長は親切に
「この前方には、中国兵はもう一兵も出ていませんよ。これから先は全部日本軍です。
気をつけて行かぬとこの少し先で、機関銃が猛烈に射ち出しますよ」
と注意してくれた。
自動車が出発したとたん、ダダダ‥…・と真ッ正面から機関銃弾が、
自動車の屋根の上をかすめて飛んだ。
広安門上の中国軍が、ヘッドライトを目標に射ったものらしい。
「かまわぬ。弾道は高い。ドンドン素ッ飛ばせ」追風をうけて、
漠々たる砂ほこりの中を、まっしぐらに広安門目ざして突き進んだ。
・・・
広安門に近づいて行くと、街路上には一輪車、人力車、樽や屋台やが
自動車の前進を邪魔するかのように、点々取り散らかされていた。
これは七時十五分、広安門の銃声一発と共に、このあたりの住民がその大切な
商売道具を放ったらかして、逃げ散って行ってしまった姿である。
道路の右側で銃剣がピカリと光った。同時に日本語で
「だれかッ!」
力強い歩哨の問査。
自動車はピタリ、その前で停まった。
まず私が白旗を携えて車からとび降りた。続いて笠井顧問、周参謀!。
「北京特務機関補佐官寺平大尉だ。大隊本部の位置はどこか」
「この狭い通りをまっすぐ北の方へ進んで行った奥であります」
ここは広安門大街と北綫閣 (ほくせんかく) との交差点、二挺の重機関銃が、
我々の今来た菜市口方向に向って、いつでも火蓋を切る事が出来るように据えつけてある。
「小隊長はおらぬか」
「すぐそこにおられます。お呼び致しましょう。小隊長殿、小隊長殿」
声に応じてはせつけたのは、今日の城門突破の戦闘に、
トラック上自ら重機関銃の引鉄を引いて、
さんざん中国軍を悩ました機関銃小隊長市川貞一中尉である。
大隊本部の位置を聞くと、市川中尉は伝令をつけてくれた。中尉は桜井顧問は
どこにいるか知らないが、中島顧問は確か大隊本部にいたと思うと教えてくれた。
二ヶ分隊ばかりの兵が道路の東側に折り敷けしていた。
いつどこから敵がとび出して来るかもわからない情況下において、
非常な緊張ぶりで四周に対して警戒していた。
「周さん、私は大隊長のところに行って連絡をとってくるから、
あなたは広安門に行って、日本軍の移動に際し、城門上の中国軍が絶対射撃しないよう、
厳重注意を与えて来てくれ給え。このさい、一発でも射ったら、それこそ日本軍は
即座に反転して、また広安門を攻撃するからね」
血なまぐさい広安門の下で、
今日の任務を最も完全に果すため、一行は、それぞれ新しい持場について行った。》
つづく
これは メッセージ 658 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月26日 広部大隊救出行動1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/06 18:39 投稿番号: [658 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
333〜334p
《 さればとて秦徳純、どうせこれ以上気の利いたやつを出しっこないでしょうから、
我々はもう広安門に出かけましょう。そして独力でやってしまうんだ。
幸い周参謀が一緒に来ているから、周君を間に立てて中国軍を説得したら、
その方がかえって手ッ取り早いですよ。
まあ百十一旅の副旅長と云う肩書だけが、何かの場合役に立つかもわからないから、
連れてくだけは連れてってみましょう」
総勢六人、二本の白旗を準備し、二台の自動車に分乗、進徳社を出発して、
広安門の戦場に乗り込む事になった。
酷熱百度 (華氏)、焼けつくような今日の暑さも、日没と共に吹ッとんでしまって、
夕刻ごろから烈風に変ってしまった。
吹きつける砂塵を横なぐりに受けて、軍使一行の車は走る。
鉄獅子胡同 (ティェシーズホートン) から北池子大街 (ペイチーズターチェー) へ、
そして中山公園の所からさらに、西長安街へ進路をとった一行は、
やがて西単 (シータン) 牌楼から左折して、宣武門の下に到着した。
電燈の光にすかして見ると、城門は完全に閉鎖され、
しかもそれに土嚢が一杯積み重ねられている。
周参謀が開扉を交渉する。
一同は土嚢で通路を狭められた宣武門を、徐行しながら通り抜けた。
京漢鉄道の踏切を越える。そして宣武門外大街を三、四百メートルも来たころ、
そこにまた二十九軍の兵が、道路一杯にウヨウヨしているのが眼にとまった。
これでは今晩中にとても広安門まで行かれはしない。再び周参謀が通過交渉に出た。
その時、広安門の方向に当って、ひときわ激しい銃声が起った。
手榴弾の爆声があたかも砲声か何ぞのように、ドカンドカン響いて来る。
−
これは後に、情況を綜合して見てわかった事であるが、この時、
早川自動車部隊が、あの激しい襲撃をうけていたのである。
−
風の唸(うな)り、砂のとぶ音、銃声、爆声、それらが交錯して、凄壮な戦場風景が
かもし出されて来る。かたわらに立つ中国兵の青竜刀がギラリと光った。
交渉が成功し、周参謀が自動車のドア一に手をかけた。
「周さん。我々、ここを通って行ってしまっただけじゃ何にもならん。
日本軍を重囲の中から引ッ張り出したら、それを誘導してもう一遍、
ここを通らなければならんのだが、こんなに大勢の中国兵が道を塞いでおったんでは、
きっと衝突を引き起してしまう。この部隊をどこかその辺の路次奥へでも、
引っ込ませてしまいたいんだ。
そして、お前達、決して日本軍に手出してはいけないぞという事を、
君の口からこの部隊の連長にいってくれ給え」
周参謀は一語一語に力をこめて、趣旨を連長に伝えた。
連長は二つ返事で承諾すると共に、いままでついていた警戒配備を撤し、
部隊をことごとく大通りの側方、胡同の奥へ引っ込めさせてしまった。
一行は自動車に乗って出発した。》
つづく
これは メッセージ 657 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月26日 広部大隊救出工作2 交渉2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/05 15:29 投稿番号: [657 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
331〜332p
《 陳覚生が帰って間もなく、周参謀が自動車をとばせて特務機関にとび込んで来た。
彼は
「今日の事件を円満に解決させるためには、入城部隊は公使館区域へ、
そして城外部隊は豊台に引き返さす。 これが一番安全でもありまた常識論ですよ。
いまごろ小細工をしていたら、 まとまるものまでまとまらなくなってしまう。
いくら私が二十九軍だって、 今日の二十九軍案だけは絶対賛成出来ませんね。
それに三十八師の張自忠師長なんか、 まったく私と同じ考えなんですよ。
今も会って、 意見を交換してきたばかりなんです」
という。
松井機関長が私と笠井顧問を呼んだ。
「広安門の情況は君達の知っておる通りだ。 北京城の一角に火がついたというわけで、
これは何としてももみ消してしまわんければいかん。
中国側も局部的に解決には同意のようだが、 手段方法の点で、
我々の考え方との間に、 まだ相当の開きがある。
だが、 我々はあくまでこちらの考えで押していこう。
広部大隊を公使館区域に誘導するんだ。
交戦状態に陥っている広部大隊を中国軍から引き離す事は、
すこぶる厄介な仕事だがこの一番むずかしい仕事を、 君達二人にやってもらいたい。
今からすぐ、 広安門に行って両軍を説得し、 これを引き離しさらに第二段の工作として、
中国軍の間を濾過 (ろか) して、 大隊を公使館区域まで誘導して来てもらわねばならぬ。
この軍使は日本側だけでやろうとしても、 巧くはいかぬ。
一応進徳社に行って、 秦徳純を説得し、
二十九軍からも高級幹部を一人出してもらうんだ。
現在の危局を収拾するためには、 これ以外見当らない」
我々は、 機関から愛沢通訳生、 顧問部から広瀬秘書、 この二人を伴って、
死地に乗り込むべく決心を固めた。
「オイ!
もう遺言書いてる暇はないぜ」
「ウム、 遺言は何も書く事はないが、 死恥をさらさないよう、
せめて肌着だけでも新しいのと取かえていこう」
十分間ばかりの間に新しい肌着に着換えた一行は、
機関員一同に見送られて特務機関を出発した。
一行が進徳社に着いた時、 冀察の要人達は重要会議を開いている最中らしく、
二十分余りも我々を待たせておいて、 一向出て来そうな気配がない。
機関を出る時、 むりやり連れて来た周参謀までが、
催促してこよう、
と奥の方へ消えて行った。 やがて背後に灰色の軍服を着て、 短剣を吊った将校一名を
伴って周参謀が戻ってきた。 「ご紹介します。 百十一旅の副旅長軒上校です。
二十九軍を代表して、 我我と一緒に現地に行く任務を受けてきた人です」
私は軒上校に尋ねた。 「宋委員長、 秦市長は広安門の事件を不拡大に解決する事に、
賛意を表しておられるんでしょうな」 「賛成しておられます」
「広安門の事態は、 容易ならぬ事になっています。
問題解決のため、 貴官は中国側代表として、 師長あるいは旅長に代り、
当面の部隊を指揮命令する権限は持っておられますね」
「持っています」
「では、 事態収拾のための具体的処理方法は」
「処理方法と言いますと?」
笠井顧問が吹き出してしまった。 「こんな無能な旅長、 連れて行ったって
足手まといになるばかりですよ。」》
つづく
これは メッセージ 656 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月26日 広部大隊救出工作2 交渉1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/04 15:06 投稿番号: [656 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
330〜331p
《 橋本参謀長は全面的に同意を表した。そして
「……以上のような趣旨に基き、広安門の事件は極力これを現地限りに
解決させ、戦火を全城域に及ぼさないよう努力する。
そして二十九軍潰滅のための作戦は、居留民の引き揚げ完了を見届けた上で、
改めてこれを決行することと致します」
参謀長は以上の判決を述べた。
この時、池田参謀が発言した。 「北京城を兵火の巷 (ちまた) に陥れない事は、
軍としても重視すべき問題だと思います。
ただ、作戦遂行という事になりますと、目的のためには手段を選ばず、
個々の兵団中には往々にして、こういった方針を無視する者が無いとはいえません。
そこでこの際、北京城や万寿山、そういった名勝を傷けないため、
これに対して絶対砲爆撃を加えない事、またこれらの場所に陣地を占めている敵は、
側背脅威その他の方法によって、戦を交える事なく退却させてしまうよう、
この件を作戦命令の末項にでも、一筆書き加えておきたいと思います」
軍司令官香月中将は会心の肯 (うなず) きを見せてこの意見を採択し、
ここに天津軍駐屯最後の肚が決まったのである。
これより先、機関が出した密偵の報告は、刻々広部大隊の危機を伝え
「大隊はすでに中国軍のため、十重二十重に包囲され、辛うじて城壁下の
一角に余喘 (よぜん) を保っている」
とも言い、
「中国軍の増援隊は目下続々、トラックで広安門に向って輸送中」
とも報じている。
さらに新聞社側からの情報によると
「入城部隊が内門と外門との中間に差しかかった際、突然、中国側が故意に
両方の城門を閉鎖したので、部隊は二つの門扉の間に閉じ込められ、
その上、城門の上からは、手榴弾をドンドンたたきつけられるという始末、
目下大隊は、惨澹たる状態に陥っている」
と極めて誇張的な虚報まで伝えてきていた。
西の方、広安門と覚しい方向から、引っ切りなしに響いてくるゴーッ、ゴーッという
銃声は、特務機関の人たちの焦燥の念と不安感とを、いやが上にもかき立てるのだった。
午後八時少し過ぎ、冀察側の代表として、交通委員長陳覚生が特務機関にやって来た。
彼は広安門事件の善後措置に関して、次のような案をもたらして来た。
「中国軍は広安門の城壁及びその東側地区に位置し、広部大隊は城門外、
西側地区に兵力を集結させる。そうする事によって両軍衝突の危険性を除去したい。
これがため、現在城内に進入している広部大隊主力は、
一応全員、広安門外に撤退させていただきたい」
これに対し、特務機関の意向としては
―
すでに城内に入った日本軍は、
ことごとくこれを公使館区域の我が警備隊内に収容したい。
その代り、城外に残っている部隊は全部、豊台に向って引揚げさせる
―
というのである。
陳覚生が持ってきた中国側の案は、機関側によって一蹴され、
逆に、我が方の意見を持って宋哲元の元に帰って行かなければならない
破目に陥ってしまった。》
つづく
これは メッセージ 655 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月26日 広部大隊救出工作1 軍の自重要請
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/03 18:42 投稿番号: [655 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
329〜330p
《 その夜、天津海光寺の軍司令部では、急遽幕僚会議を開き、当面の緊急対策を協議した。
参謀たちの大勢の意見は
「軍は今日まで、馬鹿正直なまで不拡大主義に徹底し、
中国側との和平交渉を続けてきたが、中国側は我が方の意のある所を解せず、
昨夜は郎坊において、今日また広安門で依然不信行為を繰り返している。
これ以上の温情は最早無益で、軍は最後通牒の二十八日の正午を待つことなく、
広安門事件を切ッかけとして、明朝早々にでも、全面攻撃の火蓋を切って落したらどうか」
というのだった。ただ池田参謀のみが積極的には同調しなかった。
参謀長橋本少将は、現地の意向を確めるべく松井機関長を電話口に呼び出した。
「幕僚会議ではこの広安門事件をきっかけとして、二十八日の正午を待つことなく、
二十七日早朝からでもすぐ、全面攻撃を開始しようという意見が圧倒的だが、
あなた方現地の意見はいかがですか」
すると機関長は、すぐさま全面攻撃案に不賛成を主張し
「恐らく今井武官も
私と同様の意見を持っていると思います」
とその理由を述べた。
第一、広安門を中心とする地域で起った戦闘をこのまま放っておいたら、
それこそのっぴきならぬ市街戦に移行してしまい、戦術的にも拙劣である。
だから機関では今、全力を挙げてこのもみ消し運動に奔走している最中である。
第二、北京城内二千の居留民、これがまだ市内各所に散らばっていて、
全然収容されていない。ひとたび広安門を中心として、
日華両軍が本格的戦闘を惹起したら、中国兵は随所でこれら邦人に対し、
掠奪、殺戮、それこそ残虐の限りをつくすだろう事は、
火を見るよりも瞭 (あきら) かである。
さらに第三は、北京城の一角にすでに火がついてしまった今、これが拡大されたら、
百五十万民衆を兵火にさらす結果となり、これは人道上の見地からいっても、
絶対許さるべき事ではない。ことに古都、一千年の文化を破壊するという事になれば、
世界の侮蔑を、軍が、いや日本が背負い込むことになってしまう。
これは大国の襟度 (きんど) として大いに慎しまなけりゃならないと思う。
事態がすでに今日のようにもつれてしまった以上、全面攻撃を断行するは、
もう避け得られないかも知れない。ただ、広安門の事件に関する限り、
これだけは、どうでも局地限りに解決する事が絶対肝要である。
そして居留民の引き揚げ完了を見た上で、改めて全面的に発動する。
しかもその戦場はこれを北京の城外に選び、決して城内に戦火を波及させない
という着意を持つことが、日本軍として、また日本人として、
大切な心構えじゃないかと考える。
−
というのだった。》
つづく
これは メッセージ 654 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月26日 広安門事件6 天津軍怒る
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/02 18:33 投稿番号: [654 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 文春文庫
45p
《 城壁上では、中国兵は素手の桜井少佐と川村機関員をおそい、
川村機関員は機銃弾をうけて戦死し、
少佐は、左股 (もも) に貫通銃創をうけながら城壁をとびおり、
露地の物置小屋にひそんだ。
顧問中島中佐は旅団長河辺正三少将に急報し、少将は天津の支那駐屯軍司令部に
連絡するとともに、戦車隊長福田峯雄大佐に、広部大隊救出のための出動を命じた。
支那駐屯軍司令官香月中将は、憤怒し、東京に急電した。
「郎坊事件ハ
尚
隠忍ノ限度内ト
為シ得可キモ、 新ニ
許ス可カラザル
広安門事件ノ
暴挙ヲミル……今ヤ
断ズ可キ時ナリ。
宜シク
明二十七日行動ヲ起シ、平津一帯ノ支那軍ヲ
断乎
膺懲ス可キナリ」
郎坊事件にかんしての兵力使用の要請にたいしては、正式には許可がとどいていない。
その催促をふくめての具申電である。
東京でも、こうなっては異存はない。
すかさず、次の
「臨命第四百十八号」
が打電されてきた。
「刻下ノ情勢ニ鑑ミ、 支那駐屯軍司令官ハ
臨命第四百号 (註、八日付の兵力不行使の指示) ヲ廃シ、
所要ニ応ジ、 武力行使ヲ為スコトヲ得」
香月中将は、宋哲元にたいして前述の第三十七師撤退要求を撤回して
「独自行動」
をとる旨を通告させ、
各部隊には、 翌日正午を期して
「攻撃前進」
するよう、下令した。
この命令は、特務機関長松井大佐から、北京の日本人居留民の避難がまにあわぬこと、
北京という文化的古都の破壊をさけるべきであること、 などの進言がよせられ、
二十八日正午まで延期された。》
つづく
これは メッセージ 653 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/654.html
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