入って中国人に南京事件真相議論しましょう

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5月15日 再度逆越境2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/22 14:57 投稿番号: [1599 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
30〜31p


《 右方の窓から眼に映る光景は図上では予期しなかった大自動車道路である。

鉄道線から丘陵を越えて、さらに東方のダウビエ河谷   (かこく)   に通ずる

数条の軍用道路が、電光型に東に向かっている。



ソ連の抵抗施設は、予想に反してウオロシロフのさらに東方に、

十ないし二十キロメートルにわたって奥深く造られているにちがいない。

とすればウオロシロフ周辺で敵を捕捉しようというような

従来の浅い作戦構想は、根本的に修正しなければならぬ。

視ることと考えることで頭が一杯になり、敵機への警戒を全く忘れ果てて北に飛んだ。



左の窓に映る興凱湖の水面は鏡のように澄みわたり、

その中にソ連の砲艇数隻が鴎   (かもめ)   のように游   (およ)   いでいる。

イマン上空では南北に通ずる幹線道路から岐   (わか)   れて、

ウスリー河畔に向かう自動車道が数条新しく造られ、

その端末には恐るべき魔物を蔵しているらしい。

黒い煙を吐いた汽車がヒッキリなしに南進し、北上している。

何物が積まれているのだろう。



約二時間にわたる高空飛行で、酸素缶はすっかり空になった。

もう帰らねばならぬ。

「偵察終わり、帰れッ」   の命令に、

重任を果たした秋山少尉は勢いよく左に機首を転じた。

ウスリー河を越えると共に急降下して三千メートルに下がった。

肩の凝りが急に融け、呼吸が楽になると共に全身にケダルさを覚える。



完達山が眼の前に現われた。アワヤ、山にぶつかると思われるばかり、

機は前後に左右に安定を失ってきた。確かに操縦士の疲労であろう。

「もう一息だ!   頑張れ!」

大声で秋山少尉を励ましながら、密林の上空をスレスレに飛んで、

牡丹江飛行場に着陸したときは、午後二時を過ぎていた。

約四時間の飛行中、半分以上は敵の上空を飛んだのである。》

8月23日 諸外国のアンフェアな対応

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/21 14:40 投稿番号: [1598 / 2250]
8月23日に中国軍機が上海南京路を無差別爆撃したにも関わらず、

この日、諸外国は日本の方に文句をつけてきました。



戦史叢書   『中国方面海軍作戦〈1〉』   352〜353pには


《 二十三日夜、米国大使は米英仏独伊各国大使を代表して日本政府に、

南京市内に非爆撃地域を設定したい旨申し入れてきた。

これは南京の漢西門から新街口サークルを経て、北極関城壁に沿い

揚子江岸鉄道連絡桟橋及び下関   (其の前面の揚子江を含む)   三サ河から

漢西門に至る区域内の爆撃を禁止するものであった。》

(注   下関:シャーカン)


と、しかし、南京は無防備都市ではなく軍事都市だったのです。



戦史叢書   『中国方面海軍作戦〈1〉』   352pには


《二十四日   11:00、戸塚指揮官は軍令部から、 「敵空軍南京に集中せり」   との情報を受け、

13:00、木更津部隊に本日薄暮時を期し南京飛行場の飛行機を撃滅せよ、と命じ、

・・・

木更津部隊中攻六機は   18:00   済州島発、 21:30   南京大校場飛行場を爆撃、

避退針路を南にとり全機帰着した。



本空襲においては敵の対空照射裡に飛行場を発見爆撃し、

敵機多数に火災を発生させ、一面火の海となったのを確認、

その間敵戦闘機数機と空戦し、その一機を撃墜した。

月夜ではあったとはいえ、敵機の夜間攻撃が盛んであったのは陸攻のエンジン

排気の火炎が攻撃目標となったものと認められ、急速改善の要求が起こった。》



とあります。日本軍はあくまでも敵軍の飛行場を攻撃したのです。

しかし、抗議を受け入れ、27日以降の南京爆撃は当分行わないことにしました。

  ( 注   中攻とは九六式陸上攻撃機のこと、陸攻も同じ )



また、同23日に米国のハル国務長官は次のように声明しました。



〔昭和12年8月25日   東京朝日(夕刊)〕


《 平和に関する米国政府の主張綱領は、先月十七日付列国に通達した声明書に明らかで、

戦闘状態の存在は当事国のみならず世界列国の関心事である。

吾人は日支両国が単に米国民のみならず世界多数の国民が是とする

主義綱領によって、その利害の一致を解決せんことを希望する。



その主義綱領のうちにはワシントン会議の諸条約及びケロッグ不戦条約の

主義、精神が含まれている。

今回の日支両国間の紛争開始以来、吾人は日支両国が敵対行動を避け、

平和の手段でこれを解決するよう希望して来た。

吾人は在留米人保護の任に当たるとともに、吾人がしばしば声明した諸方策、

殊に平和に関する政策の効力を発揮せんことを希望するものである。》



*   この声明では、お互いに平和的手段で解決をと、まるで中立の立場で

   ものを言っているかのようですが、これは不自然です。

   日本はずっと平和的手段で解決しようとしていました。

   中国が、無理やり戦争を仕掛けたから、やむを得ず防戦しているだけです。

   仕掛けてる方を注意しなければ、この声明は、

   加害者の中国に味方しているだけとなります。

5月15日 再度逆越境1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/21 14:29 投稿番号: [1597 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
27〜29p


《 新しい酸素缶と取り換え、再び牡丹江飛行場を離陸したときは十時を過ぎていた。

「今度は大丈夫」   と、東寧上空で六千メートルに高度を取った。

・・・


地図の上に現われていない新しい自動車道が驚くほど発達している。

満領内に比べると大人と子供ほどの相違である。

道路の発達はそのまま軍事施設の強化を物語っている。

国境だけの単純なトーチカ陣地ではなく、縦深約三十キロメートルにわたり、

海綿状に深い抵抗地帯が準備されているにちがいない。



綏芬河   (すいふんが)   の下流は羊腸のような屈曲を見せて、

両岸一帯は湿地帯をなしてウラジオストクに続いている。

大障碍   (だいしょうがい)   を呈するようである。

この地形、この陣地を突破するのは容易ではあるまい。

移りゆく下界の様相はパノラマのように展開し、脳膜に焦げつくように映ずるうちに、

鼓   (つづみ)   のような形をした大滑走路がくっきりと眼に映った。



「あッ、ウオロシロフの飛行場だッ」   と思わず叫んだ。

軍事基地ウオロシロフは、この大飛行場を中心とした近代要塞の装いを

凝   (こ)   らしている。

満領内の貧弱な我が軍用飛行場とは雲泥の相違がある。

太陽に反射する大舗装飛行場を飽かず眺めていたとき、

突然トンボのように乱舞する機影を、高度四千メートル付近の空中に発見した。



おびただしい数だ。少なくも三、四十機は下るまい。

新鋭を誇るソ連戦闘機の大群が演習の真最中である。

いまにも発見されて、下から機関銃弾が撃ち出されそうに思われる。

尻がムズ痒くなった。

偵察を心ゆくまでしようと焦る心と、一刻も早く無気味な敵機から逃れようとする

本能とがからみ合って争っている。



伝声管を伝わる秋山少尉の声は落ちついている。 「一旋(ひとまわ) りしましょうか」

少尉の眼もソ連戦闘機の乱舞するさまを見逃そうはずはない。にもかかわらず

その上空を旋回しようと決心したのである。 「よーし。旋回」   と答えた。

一刻も早く逃れたい本能を抑えて旋回を要求したのは、

教え子に対する中隊長の面子   (めんつ)   でもあり、

また作戦参謀としての責任感でもあった。



少尉は何喰わぬ顔をして、大きな円を描きながらウオロシロフの上空をゆっくり旋った。

飛行機の速力がこんなに遅く感ずるものか。

もう少し小さい円で一刻も早く旋回してくれたらよいが……。

しかし秋山少尉は一向に平気で悠々と旋った。

血走った眼で何物も逃さじと見つめた数分間が数日のように長く感ずる。



「まだ発見されないだろう。もし発見されたとしても敵機が六千五百メートルの

高空に飛び上がるには酸素缶が必要であろう。まさかその準備もあるまい」

との自慰の感覚が辛うじて、心の不安を抑えてくれる。

一回旋り終わったとき、少尉は後方を振り向きにっこり笑った。

「もう一度旋回しましょうか」

演習そのままの表情であった。 「いや、もう結構。北に進め」   と答えたとき、

何だか教え子に心の中を見すかされたように感じた。》



つづく

8月23日 中国軍機の空襲

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/20 18:48 投稿番号: [1596 / 2250]
日本の陸軍は8月23日、呉淞と川沙鎮に上陸しました。

なお、川沙鎮の上陸に際しては、中国軍機による襲撃をうけています。



戦史叢書   『中国方面海軍作戦〈1〉』

366p

《 23日   09:35   敵機6機が来襲したが被害はなかった。》

367p

《 23日は川沙口泊地に敵機の来襲三回あり。》



そして、この日、中国軍機は、またも上海市街を爆撃しました。



東中野修道著   『南京大虐殺の徹底検証』   334p

《 8月23日、支那軍機、国際租界を空爆。一つはハミルトンホテルの裏に、

一つは、シンシア・コーズ・エンポリウムの上に落ちて

死者215名、負傷者558名を出した。》



K・カール・カワカミ著   『シナ大陸の真相』   255〜256p


《 中国の飛行機は国際租界を爆撃し、この時にはシンシアデパートと

ウィンオンデパートに被害を与えた。》

( 注: シンシア・コーズ=先施公司、ウィンオン=永安公司 )


そして、その惨状の写真は、毎日新聞社刊 『不許可写真1 』 の10頁にあります。

5月15日 関東軍の逆越境失敗

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/20 18:42 投稿番号: [1595 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
24〜27p


《 五月十五日の空は一点の雲もなく晴れ渡っていた。

気象通報は沿海州一帯の快晴をも報じている。

牡丹江   (ぼたんこう)   の飛行場に、いましも一台の司偵機が

快調の爆音を立てて主人を迎えている。

日の丸の印は塗り潰されて、満州国航空会社のマークに変えられ、

機中に何一つ軍人らしいと思われる所持品もない。 軍服を脱いで満航社員の

服に換えた二人はただ一枚の地図によってコースを打ち合わせた。



一、東寧上空より高度六千米で越境し、ウオロシロフ周辺より北上して、

   イマン付近を偵察の後、虎林   (こりん)、穆稜   (ぼくりょう)   を経て

   帰還する。所要時間約三時間半。

二、万一発見された場合には雲の中に隠れて逃げ、射たれて故障を起こしたら

   興凱湖   (こうがいこ)   に突っ込め!

   その余裕がないときは付近の山にぶっつけて火災を起こせ。



指示はただこれだけであった。酸素吸入器を点検し、マスクをかけて

その使い方を少尉に教わりながら、整備兵たちに見送られて離陸した。

死を決しての旅立ちとも思われない気軽さである。

可愛い青年将校を道連れにすることが如何にも罪なようでもあるが、

またその反面に、教え子とならばいつでも心中できるとの気持ちが起こった。

司偵は速力が唯一の武装である。一挺の機関銃もなく拳銃さえもない。

敵機に発見されたら三十六計逃げるに如   (し)   かず。



中隊長を載せて初めて死地に飛び込む秋山少尉の後ろ姿が、

狭い座席の三尺ほど前に微動もしない。全神経を操縦桿に集めているようだ。

爆音に妨げられて話はただ一本の伝声管によらねばならぬ。

「高度を上げます」   との声が機上最初の連絡であった。

ソ連との東部国境沿い、東寧の街が近づくに従って、

段々呼吸が苦しくなり、冷気を感じてくる。



高度計の目盛は刻々上がって五千を指した。できるだけ我慢しよう。

少しでも酸素を節約しなければならぬ、と考え稀薄になった空気の質を

量で補おうと深呼吸をしていたが、六千メートルに近づいたときは、

ついに堪   (たま)   らなくなって、酸素缶の栓をひねった。

マスクを鼻に当てて息苦しさを防ごうとしたが、どうしたことか一向に効き目がない。



東寧の地形が眼下に展開した。飛行機はまさしく満ソ国境線の直上にある。

「越境しますッ」と緊張した秋山少尉の声が耳に強く響いたとき、

とうとう弱音を吐いた。

「息が苦しい。酸素が出ない」

後ろを振り返った少尉の顔には驚きの色が見える。

「反転。高度を下げます」



機は急旋回した。身体が左右に捻(ね) じられるようである。   東寧西方の森林に

向かって急角度に降下した途端、顔面一帯に針で刺されるような痛みを感じた。

両手でさすってみたが治らない。呼吸は次第に楽になったが、

急激な気圧の変化から起こる神経作用であろう。耳鳴りがする。

そのたびに口を大きく開き鼻をつまんで調節を加えた。

ようやく平静を回復したかと思うと、

冷え切った身体が急に熱くなり汗さえ滲   (にじ)   み出した。



約一時間の後に牡丹江の飛行場に帰り着き点検してみると、

不覚にも酸素缶の小さい管が錆びついていた。

あのまま続けて飛んだら、窒息死か、あるいは高度を下げて敵に撃墜される

以外に途   (みち)   はなかった。》


つづく

確かに…。

投稿者: vv0r1duguyz 投稿日時: 2012/04/20 01:33 投稿番号: [1594 / 2250]
日本語で書いてくださってありがとうございます。
私は日本人です。
過去のことを私たちに証明しろ、というのには無理がありますが、南京大虐殺は日本人として恥ずかしい歴史であることに間違いありません。
私たちは先祖がそんなことをしたなんて国民の恥であると認識します。
私たちは同じように「教育」を受けて大人になりました。中には過去の愚行など消してしまいたい人が大勢います。私も私の先祖がそんなことをしたとは信じたくありません。教育では何が正しいか、間違っているかはわからないのです。
続く。

8月23日 日本陸軍の呉淞上陸

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/19 18:55 投稿番号: [1593 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   84p


《 上海では、いぜんとして激戦がつづいていた。

兵力の少ない海軍陸戦隊は、文字どおりに不眠不休の防戦を強制されて

苦戦したが、その戦いぶりはすさまじく、

包囲して攻撃をくり返す中国軍・第九集団軍は攻めあぐんだ。



上海派遣軍の第三、第十一師団の先遣隊が軍艦で到着したのは、八月二十二日である。

第三師団は、呉淞鎮に、第十一師団はその西北約十五キロの川沙鎮に上陸する。

呉淞鎮の場合、これまでに上海に増派されていた竹下宜豊少佐指揮の

横須賀鎮守府第一特別陸戦隊約五百人と第三師団派出の歩兵一個中隊と

機銃、工兵各一個小隊、計約六百七十人が、事前に呉淞港岸壁を占領して、

上陸部隊を援護することになっていた。



竹下部隊は、糧食二日ぶんを持ち、白タスキをかけ、

合言葉を第三師団の原駐地にちなんだ   「尾張」 「名古屋」   にきめ、

輸送船三隻に分乗して、八月二十三日午前零時三十分、上海埠頭を出発した。

竹下部隊は、午前三時十五分、護衛駆逐艦の援護砲撃ののちに

輸送船を岸壁に横付けして上陸、》




阿羅健一著   『日中戦争はドイツが仕組んだ』   98〜99p


《江岸には水際鉄条網、岸壁には地雷と竹矢来。

その上、岸壁に積んだ土嚢と、構内にある建物と、

軍工路の先の塹壕の陰で、中国軍が日本軍を待ちうけていた。


輸送船が接岸すると同時に、中国軍の機関銃が集中し、

上陸する前から犠牲者が続出した。

軍工路の先、上流の水産学校、下流の呉淞砲台からは砲撃も来る。



接岸と同時に特別陸戦隊と岐阜第六十八連隊第五中隊が上陸する。

竹下宜豊少佐が指揮する横須賀鎮守府第一特別陸戦隊は約五百人、

岐阜第六十八連隊第五中隊は機銃、工兵各一個小隊とで約百六十人、

合わせて約六百七十人。

・・・

上陸すると、地雷が日本軍の進撃を阻んだ。

発光弾が打ち上げられ、砲弾が炸裂するたびに、

日本軍が暗闇に浮かびあがって中国軍にその姿をさらけだす。

そこに中国軍からの銃弾が集中する。

・・・

日本の駆逐艦も水産学校や呉淞砲台に向け照射砲撃し、

一帯は双方の銃砲撃で騒然となり、轟音は止むことなく響いた。



陸戦隊は左翼、第五中隊は右翼となって進んだ。

日本軍が銃剣を手に斬りこむと、中国軍は手榴弾で応じた。・・・

白兵戦は、さらに二時間以上も続いた。

中国軍も、一つの散兵壕で十数人全員が枕を並べて戦死するほど果敢に戦った。

午前五時四十分、とうとう上陸掩護部隊は鉄道桟橋を確保した。

午前六時になり、名古屋歩兵第六連隊の第一大隊と第二大隊も上陸した。

多くの犠牲者を出しながらも、とりあえずは橋頭壁を確保することには成功した。》



北博昭著 『日中開戦』   60〜61p


《 竹下部隊は29名の戦死者と35名の傷者を出し、その日の午後、上海へ引き上げた。》

5月13日 ドイツ外相 顧問団に帰国を指示

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/19 18:46 投稿番号: [1592 / 2250]
阿羅健一著   『日中戦争はドイツが仕組んだ』   小学館
235〜236p


《 五月十三日、リッベントロップ外相がこの条件を飲んだ。

それによってファルケンハウゼンは、はじめて本国からの通告を団員に伝え、

帰国準備をするよう指示した。

そうなっても、トラウトマン駐華大使は、段階をおって帰国させようと提案し、

すんなり収束に向かわなかった。



しかし、リッベントロップ外相は提案を一蹴した。

さらに、指示に従わない場合とんでもない結果になることを顧問団に伝えるよう訓令した。

それはヒトラーの意向だった。

リッベントロップ外相は商業上の利害など一切眼中になく、

ドイツ国民を中国から帰国させることまで考えていた。》

1937年8月21日 ソ連が中国に加担

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/18 18:46 投稿番号: [1591 / 2250]
第二次上海事変が起こると、すぐにソ連が中国に加担しました。



毎日新聞社刊   『大日本帝国の戦争2太平洋戦争』   の22pには


《 8/21   南京で中ソ不可侵条約、大量の武器供与 》


とあります。

武器供与の具体的内容については田中正明著   『 東京裁判とは何か 』   267pにあります。



《 この時期ソ連は、

「 日華戦争開始後は、この戦争をできるだけ長引かせることに全力をつくした 」 と

ダリン   ( David J. Dallin )   はその著   『 ソ連と極東 』   の中で次のように述べている。


「 ソ連の対華援助は、西安事件後の秘密条項を含む不可侵条約によって、直ちに

飛行機四、五百機と同数の操縦士および教官を送り、ソ連士官が中国軍に配備された。

チェレバノフ将軍を長とする軍事使節団は、中国に滞在していた。

三八年から四〇年までの間に、ソ連は中国に三億ドルの借款を与えて、

戦車、飛行機その他の軍需品を中国に送った 」》



また戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   310〜311pにも


《 中国は、米国、英国などに日本の侵略であると訴えるとともに、

八月二十一日、南京で、ソ連のボゴモロフ駐支大使との間で、

「 中ソ不侵略条約 」   を締結調印した。両国は、相互に攻撃しないこと、

また締約国の一方が第三国から攻撃を受けた場合、

他の一方はその第三国を援助しないことなどが約束された。( 二十九日、南京で公表 )



外務省は、この条約の成立を重視し

「 日本は中国がコミンテルンの魔手に踊らされていることを警告してきたにかかわらず、

中国はついに悪夢から覚めず、容共抗日を国是となし、

殊に西安事件以来は完全に赤魔薬籠   ( やくろう )   中のものとなり、

ついに今回のごとき条約の締結を見るに至ったことは

支那のために真に採らざるところ 」   との見解を発表した。》



とあります、その注2では具体的軍事援助として


《 本条約締結後、ソ連は中国に対しただちに軍事的、経済的援助を開始し、

それは一九四二年まで続いた。

ソ連は三七年、三八年、三九年の三回にわたって総額二億五千万ドル ( 約九億円 ) の

クレジットを中国に提供し、これにより購入された兵器は、飛行機八〇〇機以上、

弾薬、飛行機用兵器、無線通信機、給油装置などであった。


航空義勇兵約二〇〇人、軍事顧問は、最多時期において八一名が中国内で活躍した。

このほか中共軍に対する直接軍事援助も行われた。》



と書いてあります。

ソ連が国民党政府に軍事援助しパイロットまで送って日本機と交戦させていたのです。

この時点で、ソ連は事実上の対日交戦国と言えます。


これで、中国軍機パイロットには、米国人だけでなく、ソ連人も加わりました。

そして、軍事顧問も、ドイツだけでなく、ソ連、米国人 (空軍のみ)   と増えたわけです。


つづく

1938年5月上旬 ソ連機の満州越境偵察

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/18 18:35 投稿番号: [1590 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
20〜22p


《   国籍不明の飛行機、一機

   高度六千米

   東寧   (とうねい)   上空より越境、西に向う

との飛電が関東軍司令部のアンテナにキャッチされた。

昭和十三年五月上旬である。



中国本土の戦争が華北から華中に広がり、上海南京を戦火で掩   (おお)   い、

対ソ作戦の精鋭兵団として満を持していた幾つかの内地師団が

次々に動員されて大陸戦線に注ぎ込まれているとき、

北の守りに張り切っていた司令部の作戦室では、

明らかにソ連機の不法越境と断定して対策を凝議   (ぎょうぎ)   している。



北鉄買収で満州里   (マンチュリ)   からハルビンを経て、

沿海州に連なるソ連の鉄道幹線を満州国の名で回収したものの、

永年にわたって計画的に布置されたソ連の地下組織は、

あるいは白系露人の仮面の下に、

あるいは第三国人の商行為に偽装されて根深く植えつけられている。



「畜生、またやりやがったなあ」

「何とかして撃ち墜   (お)   とす方法はなかろうか」

「物的証拠を掴まない限りは……」

  等々の嘆声が幕僚の間に幾度か繰り返された。

一度や二度ならまだしも、仏の顔もこれで三度だ。

報復越境以外に手はない。衆議の上、決裁された。



一方的に信義を守り、空中でも地上でも厳重に越境を禁止されていた

植田軍司令官も たび重なる怪飛行機の越境偵察に対しては、

ついに幕僚の献策を容れられねばならなかった。



彼   (*ソ連)   に開戦の企図は万々あるまい。

しかし、中国本土に対する作戦を牽制する厭   (いや)   がらせは、

地上においても空中においても日を逐   (お)   うて悪質化してきた。

国境の全正面をトーチカで固めたソ連の内情は杳   (よう)   として知ることができない。

ただ僅かに、満領内の展望哨が昼夜眼を皿にしてソ領内の動きを見つめているが、

山に遮   (さえぎ)   られ密林に蔽   (おお)   われて深く内部を見ることはできなかった。



白系露人や、満州人や朝鮮人の密偵数組を特務機関の指導で

闇に紛れて国境を越えて潜り込ませたが、ほとんど全部途中で発見された。

トーチカの間隙   (かんげき)   に配置されていたソ連の軍用犬は

監視兵にもまざる強敵であった。



航空主任三好参謀の緊張し切った顔は蒼白であった。 新型司令部偵察機

(以下司偵と略称)   による高空越境、写真偵察の計画に精魂を注ぎ込んでいたのである。

関東軍隷下の偵察飛行中隊から決死の将校を選抜し、国境を越えてまず東正面の

ソ領内を、次いで北正面の要点を空中撮影する用意が整えられた。

これはまさしく決死行だ。撃墜されるかも知れぬ。死んでも戦死としては取り扱われない。



このような任務を隷下に与えるには、まず以て関東軍参謀が

先鞭   (せんべん)   をつけるべきである。進んでその任に当たろう、と決心した。》


つづく

8月18〜22日 陸軍兵の乗船と輸送

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/17 18:58 投稿番号: [1589 / 2250]
戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』
275p


《 八月十八日、第三師団の約半部と第十一師団は応急動員を完了し、

海軍艦艇によりまず二次に輸送せられることになった。

第三師団先遣隊   (歩兵約一コ大隊)   は十八日に、師団主力は十九日に熱田港から、

第十一師団第一梯団は二十日に、第二梯団は二十一日に多渡津港から出航し、

馬鞍群島   (上海東南東約一二〇粁)   に集合した。》



戦史叢書   『 中国方面海軍作戦〈1〉』   358〜359p


《 第一輸送部隊は十七日〜十八日多度津に集合し十九日から搭載、

二十日   12:30   多度津発、馬鞍群島に向かった。

第二輸送部隊は十八日夕までに熱田に集合し、十九日搭載開始、

二十日   09:00   熱田発、馬鞍群島に向かった。

当時上海の情勢きわめて緊迫、海軍中央部は急速輸送を督励した。

第一、第二輸送部隊は二十一日深夜〜二十二日未明泗礁山北方錨地に到着、合同した。



第二梯団の輸送    永野聯合艦隊長官は十八日、佐世保で大海令第二十二号

(聯合艦隊司令長官ハ   上海派遣軍第二梯団ヲ   掃子江沖マデ輸送スベシ)   を受けた。

次いで同日、輸送艦は遅くも二十日午前中に第二梯団の乗艦地に入泊のこと、

及び輸送終了後なるべく速やかに原態勢に復し北支方面の作戦に備うべき指示を受けた。



永野長官は本輸送に第一戦隊   (日向欠)   及び第三戦隊を、

その警戒に第一潜水戦隊(一部欠)   をあてることとし、

十八日命令を下し輸送区分を次のように定めた。


  〔「艦(隊)」       「指揮官」   「乗艦地」   「輸送陸軍部隊」の順〕

  第一戦隊の陸奥     (直率)   三津ケ浜   第十一師団の一部   (約二、〇〇〇)

  第一戦隊の長門   (長門艦長)   小松島   第十一師団の一部   (約二、〇〇〇)

  第三戦隊   (第三戦隊司令官)    熱田   第三師団の三大隊   (約二、〇〇〇)》



戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』    275p


《 松井軍司令官は22日に馬鞍群島に到着、

上海付近の情勢及び作戦準備などに関する先遣参謀の報告ならびに

中央の指示等に基づき、作戦計画を策定した。》



*   この計画では、呉淞以外の上陸点が劉河鎮から川沙鎮に変っています

*   海軍は、いやがる陸軍に頼みこんで、派兵してもらったためか、

   連合艦隊の旗艦である、戦艦陸奥や長門を陸兵の輸送に供しました。


   もっとも戦艦は揚子江に入るには、大きすぎますので、ここからは、

   揚子江にいた小さな軍艦に移し替えて、敵前上陸に向かう事になります。


つづく

5月5日 松本重治氏 古野氏と会談2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/17 18:46 投稿番号: [1588 / 2250]
松本重治著   『上海時代・下』   中公新書
285〜286p


《「古野さん、私は今日まで五年半、古野さんの取材三原則を拳々服鷹してきました。

大丈夫、ご安心ください。

古野さん、もう一つお尋ねしたいのですが、

徐州作戦も、 『北支那方面軍』   は先月中旬から、

『中支那方面軍』   は今日ぐらいから、そのための作戦行動を起して徐州に

向っていますが、この作戦は成功しても、戦争の終結にはなりませんね。



李宗仁を総指揮として中央軍十師を含む四十万の大軍が徐州中心に集結して

いるそうですが、包囲殲滅戦が仮に成功したって、

必ずしも蒋介石の致命傷にはなりますまい。

おまけに、南京の場合のように、包囲殲滅戦が成功しないとすれば、

何のためにやっているのか判らないことになります」   というと、古野さんは、



「日本はだいたい中国をなめているのだから、番狂わせばかりが続くのだよ。

参謀本部は、長期戦を極力避けているが、陸軍省は強気で、

現地も、三月に台児荘で惨敗しても、なお強気だ。

軍内部の相剋を抑えるために外部に進出するといったようなかたちだ。

全く、目も当てられないのが日本の実状だ。

せめて内閣大改造でもやって、内閣だけでも一丸となることを期待して、

僕なんかも山東の奥地まで行ってきたわけだよ」   と、

吐き出すようにいわれる。



私は、全く暗澹たる気持になってしまった。が、

「でも、近衛さんが一月十六日の声明を取り消す方向に考えているのは、

幾分かの救いですね。ただし、蒋陣営内の和平派は、条件附の和平派ですから、

万事は日本側の姿勢によるものですよ」   というと、



「それはそうだろうね。近衛さんは、内閣改造に政治生命を賭けている姿勢だが、

日本には、残念ながら、馬鹿が多すぎる。

だが、宇垣は、こんどは対蒋介石の外交を懸命にやるとの話だ。

松本君もあんまり悲観するなよ」   と古野さんはいってくれた。



古野さんの顔を眺めると、私にも元気が出てくるように感じ、

私もやるだけのことはやろうと、決心を固めた。



古野さんを見送ってから、約三週間経つと、五月二十六日に内閣大改造が行われた。

古野さんのいったように、外務大臣には宇垣が、大蔵大臣兼商工大臣に池田がなり、

六月三日附では、板垣が陸軍大臣に就任した。》

陸軍到着までの上海居留民の苦悩2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/16 18:51 投稿番号: [1587 / 2250]
蘇州河の北側は地獄でしたが、南側は別世界でした。


塚本誠著   『ある情報将校の記録』   中公文庫
202〜203p


《   蘇州河北側では日中両軍が死闘をくり返しているのに、

南側は英・米・伊・仏軍が駐在し、戦争景気でかえって繁昌している。

虹口地区は燈火管制をしているが、

対岸は不夜城でバー、ダンスホールが賑わっている。》


203p

《 日本人のいる所は共同租界の一部なので、警察権の運用もイギリスの力が強い。

虹口、楊樹浦の警察署長は英人で、警察官は日本人よりも中国人、インド人の方が多い。》



ここで問題が持ち上がりました。


204〜205p

《 ある日、工部局警察が楊樹滞地区にいる警察官の一斉引揚げを命じたという情報が入った。

工部局警察員は中立の非戦闘員だから引き揚げるというのがその理由らしい。

これは明らかにこの地区における工部局の行政権の放棄である。

放棄となれば中国軍が入っても不法ではなくなる。

私はこれは重大なことだと考えたので、すぐさま引揚げを阻止しようと、

ブロードウェイの橋にかけつけると案の定ぞろぞろやって来た。



私は彼らに向かって、

「第三艦隊司令長官の命令のない限りここの通過は一歩も許さない」   といって、

彼らの通過を拒否するとともに一行中の若干名の日本人警察官には私の真意を話した。

日本人警察官は直ちに引揚命令を蹴って旧部署へ戻っていった。

外国人警察官はいつまでも騒いでいる。

私は素知らぬ顔をして土嚢に腰をおろし煙草をふかしていた。



こうして彼らを引きとめておいて、大使館に行き、事の重大性を説明したところ、

曾弥益書記官   (現民社党代議士   (本が書かれた当時))   が   「よくわかった。

こちらから工部局に話そう」   といってくれた。

話の結果、やはり外国人警察隊だけは引き揚げていったが、

曾弥さんが釘を一本打ってくれた。日本人警察隊のみはよくその配置を守った。

私がその日の夕方、日高第三艦隊参謀と楊樹浦の日本警察隊を激励に行く、

彼らはアパートに土嚢を積んで家族ぐるみ防禦体制をとっていた。さすが日本人である。》


206p

《 陸軍には馬淵逸雄少佐 (30期)   が報道部長として武官室に増員されたが、

この人に記者たちは親愛と尊敬の念を抱いている。

陸海軍とも重要な地位によくも適任者を揃えたものである。

そのため上海では軍と報道陣の間にはトラブルが起こったことを聞いたことがない。》


つづく

5月5日 松本重治氏 古野氏と会談1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/16 18:44 投稿番号: [1586 / 2250]
松本重治著   『上海時代・下』   中公新書
283〜285p


《 五月三日だったか、青島支局から、

古野さんが上海へ向け船で発たれた、という無線連絡があった。

・・・

五日、碼頭で古野さんのニコニコした顔を見て、ほんとうに嬉しかった。

・・・

私は古野さんをホテルまで送った。

「古野さん、お疲れでしょうが、ちょっとお話をうかがいたいのですが、いいですかで」

というと、 「いいよ、いいよ」   と答えられて、部屋で古野さんと二人だけになった。



「古野さん、板垣   (征四郎)   さんと山東の前線でお会いになったそうですが、

おさしつかえなければ、何でも私の参考になるようなお話をしてください」

と頼むと、古野さんは、 「何から話したらいいのかね」   と尋ねられたので、

「『対手にせず』   の声明のあと、近衛さんは、どういうふうに

この戦争を始末されるつもりなのでしょうか?」   と私はまず質問した。



「松本君、君の質問は図星だよ。それと板垣君との会見とは、関係があるんだよ。

新聞に出ないことばかりが多すぎてね。

君だから話すが、近衛さんは、例の声明が蒋介石には痛くも痒くもないと知ったとき以来、

例の声明は大失敗だったと悟った。

近衛さんは内閣総辞職を考えたが、重臣や宮中が許さない。

それで、近衛さんは、徐州作戦に一応のケリがつくであろうころをねらって、

内閣大改造を真剣に考えているのだ。



蒋介石との直接交渉をやるために、外務大臣を替える。

先月法律となった国家総動員法や電力国家管理法を私企業と調和せしめるには、

大蔵・商工の両大臣を替える。そして宇垣   (一成)   や池田   (成彬)   のような

大物をもってくることを考えているようだが、いちばん難しいのは陸軍大臣だよ。



それには、近衛さんは、かつて石原   (莞爾)   が推薦したが実現できなかった

板垣陸軍大臣説を構想したのだ。近衛さんが岩永さんに相談したら、

岩永さんが、 『古野君を秘密の特使としてやれば板垣も承諾するだろう』   と

智恵をつけたので、近衛さんから直接に僕に行ってくれという話になっちゃったのだよ。

板垣君と僕とは   『国通』   創設以来の親しい友人だろう。

それで、国家の安危に係わる重大問題なので、致し方なく僕が説得役を引き受けたわけだ」



「それまでの筋道は判りましたが、古野さん、板垣は首を縦に振ったのですか」

「ウン、初めは何とか断っていたが、よく話をしたら、結局、徐州作戦が終れば、

といって内諾してくれた。僕も大任を果して、今、ちょっとホッとしているところさ。

だが、これはまだ当分は絶対秘密だよ」》


つづく

陸軍到着までの上海居留民の苦悩1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/15 16:18 投稿番号: [1585 / 2250]
陸軍が来るまでの上海居留民の苦悩は大変なものでした。

いつ皆殺しになるか判らないからです。



西岡香織著   『 報道戦線から見た   「 日中戦争 」』   芙蓉書房出版   80頁には


《 上海北部の共同租界と、虹口   (ホンキュウ)   方面で租界の北部に

二キロほど突き出した形の   「租界外拡張道路」   両側に形成された日本人街で、

数十倍の敵軍の攻撃を受けた海軍陸戦隊の苦戦は当然であった。



「夜となく昼となく死物狂いに砲撃、爆撃して来る雲霞   (うんか)   の大軍を引受けて、

寡兵   (かへい)   よく虹口籠城の居留民二万を死守した」   が、

「全く十七日、十八日は上海最後の日と目され、……

虹口クリーク東方楊樹浦地区一帯に殺到した敵軍によって、

第二の通州事件は何時、惹起   (じゃっき)   されるかも判らぬという

危機一髪の時」   を迎えていた」 (馬淵『報道戦線』)》



とあります。

また塚本誠氏はその著   『 ある情報将校の記録 』   207〜 208pで



《 戦闘が始まってから月余にわたる上海の龍城は暗く、

苦しみの連続であったが、陸戦隊も居留民もよく頑張った。・・・

当初敵機の跳梁には私も切歯扼腕   (せっしやくわん)   したものである。

わが海軍が暴風を衝いて渡洋爆撃を行なったニュースを聞いた時は

皆といっしょに躍り上って喜んだ。》



と言っていて、その苦悩のほどが偲ばれます。

馬淵氏は報道班として送られたので、上陸する陸軍より早く来たわけですが、

水兵服を着てきたら怒られたといいます。

その理由は



《 陸戦隊や居留民が陸軍部隊の上陸を待ちわびていることは知っていたが、

中国軍は日本陸軍上陸となれば、その前に租界地になだれ込み、

日本人居留区を全滅させようとするのではないかと心配し、

わざと海軍の水兵服を着て上陸したのであった。



それを見て末藤大佐は、絶望的な状況下の陸戦隊と居留民が、陸軍将校の

姿を見ればどんなに喜び、安心することか、余計な気を使うなと叱ったのである。

成るほどと、馬淵らは早速陸軍将校の軍服姿で陸戦隊の歩哨線を廻ると、

血と汗にまみれた海軍兵士たちが飛びついてきて、 「陸軍がやってきた」   と

歓声を挙げたので、しみじみと死闘の続く陸戦隊員の苦労が分かったという。》


( 西岡香織著   『 報道戦線から見た   「 日中戦争 」』   芙蓉書房出版   81頁 )

ということです。



註:寡兵     カヘイ    少ない兵

   惹起     ジャッキ   引き起こす

   切歯扼腕   セッシヤクワン   歯をくいしばり、自分の腕を握りしめて悔しがること。


つづく

4月27日 ドイツ武器輸出禁止決定

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/15 16:07 投稿番号: [1584 / 2250]
阿羅健一著   『日中戦争はドイツが仕組んだ』   小学館
234〜236p


《 四月二十七日、とうとうゲーリング元帥は武器輸出を今後禁止すると決定、

五月三日から実施されることになった。

  武器輸出の停止が決まると蒋介石は、

「イタリアですら発注済みの武器輸出を撤回したことはない」 と批判した。


  五月五日、広田外相はドイツに対して二度目の抗議を行った。



ドイツは輸出禁止を決定したが、それで解決したわけではなかった。

前年九月、ゲーリング元帥は四か年計画の責任者に任命され、

四か年でドイツを自給自足できる態勢に作りあげる任務を背負った。

輸出を禁止したものの、既にまとまっている契約だけで二億八千二百万

ライヒスマルクもあり、輸出できなくなればドイツ軍需産業は

甚大な打撃を受け、その存在まで脅かされる。



実行されなければ、昭和十三年だけに限っても、

ドイツは現金、外国為替を合わせ、一億ライヒスマルクを失って、

軍備のため必要な原料を買いつけることができなくなる。

そのため、実際は、昭和十二年八月以前の契約に基づく武器輸出は

認められることになったのである。

しかし、リッベントロップ外務大臣は、契約済みのものであっても輸出禁止を主張した。

・・・・


四月三十日、帰国命令に対してファルケンハウゼンは次のようにドイツ外務省に答えた。

「前線に顧問はおらず、契約を破棄するとそれぞれが経済上大変なことになる、

去るにしても、(顧問団各員の)   辞職による損失をすべて補償して、

旅費も全額負担してもらわなくてはならない」》

8月15日 上海派遣陸軍の編成と方針

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/14 15:30 投稿番号: [1583 / 2250]
8月14日   上海行きに   第3師団・第11師団の動員が下令されました。

8月15日に、松井石根大将を軍司令官とする、上海派遣軍の編組・任務が下令されます。

ただし、これは臨時のもので、本式のものではありません。



戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   266


《 十五日、上海派遣軍(軍司令官   松井石根大将−9期)の編組、任務等が

次のように下令された。

その任務は極めて限定された小範囲のものである。

また純粋の作戦軍ではなく、一時的派遣の意味をもって

「戦闘序列」   が下令されることなく軍の   「編組」   が示された。

戦局不拡大方針の考えを見ることができよう。



(「編組」   とは隷属系統を規定する数個の部隊の組み合わせをいい、

「戦闘序列」   とは、戦時もしくは事変に際し天皇の令する作戦軍の編組をいう)》



そして臨参命第73号の第2項で

266〜267p


《 上海派遣軍司令官ハ   海軍ト協力シテ   上海附近ノ敵ヲ掃滅シ

  上海竝   (ならびに) 其   (その)   北方地区ノ要線ヲ占領シ

  帝国臣民ヲ保護スヘシ》



という、出兵の目的が出されました。

次に、8月16日には臨命第452号で参謀総長より各種の指示が出されます。



《(1)   上海派遣軍司令官と第三艦隊司令長官とは協同関係であり、

    上陸した陸軍部隊と海軍特別陸戦隊とは戦闘間先任指揮官が統一指揮する。

(2)   第3、第11師団は海軍艦艇をもって急派する。

(3)   上陸地は劉河鎮方面及び呉淞方面とし、敵前上陸を予期する。

(4)   中支方面における敵航空勢力の覆滅は主として海軍が任じ、

   陸軍は該方面に陸軍部隊の自衛のため飛行隊の一部を派遣する。



また、上海は国際都市として列国の利害が錯綜し、かつ列国監視の中にあるので、

軍の行使には特に次の件に注意せよと述べている。


一   我カ正当ナル行動ヲ   中外   (チュウガイ:内外)   ニ   理解セシムルヲ要ス

二   努メテ列国軍トノ協調ヲ保持ス

三   上海租界ニハ   兵禍ヲ及ホササル如ク努ム

四   飛行機ヲ以テスル   対地攻撃   就中   (なかんづく)   爆撃実施ニ

   方   (あた)   リテハ 目標選定其他ニ関シ   国際関係ヲ顧慮スルヲ要ス

五   渉外事項ニ関シテハ   任務達成上   直接関係アルモノノ外ハ   努メテ外務

   官憲等ノ処理ニ委ス   之カ為   所在帝国外務官憲ト   密接ニ連繋ヲ保持ス》


つづく

4月22日 ドイツ軍事顧問団に引上げ命令

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/14 15:17 投稿番号: [1582 / 2250]
阿羅健一著   『日中戦争はドイツが仕組んだ』   小学館
235p


《 軍事顧問団は、

「引き揚げは中国に敵対行動を取ることになり、

代わりにソ連の顧問がやってくる」

との理由からそのままにされていた。



昭和十三年二月にファルケンハウゼンは落介石に

「契約は履行する」   と確約していた。

しかし、武器輸出禁止決定より顧問団の引き揚げの動きは早かった。

四月二十二日、ドイツ外務省から駐華大使トラウトマンに命令が来た。

「顧問団にただちに帰国するよう伝えよ」

この時点で二十四人のドイツ将校と七人のドイツ官吏が落介石のもとで働いていた。



ヴァイツゼッカー次官はベルリンの中国大使に

「顧問団の存在はドイツが中国の戦争遂行に協力している印象を世界に広めている」

と伝えざるをえなかった。》

8月15日 蒋介石の総動員令

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/13 18:49 投稿番号: [1581 / 2250]
戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』
265〜266p


《 蒋介石は八月十五日、総動員を下命するとともに、

自ら陸海軍総司令に就任し、

全国を第一戦区   (冀察方面−総司令   程潜)、

第二戦区   (察晋方面!閻錫山)、

第三戦区   (上海方面−顧視同)、

第四戦区   (南支方面!余漢謀)   に分け、

これに若干集団軍を配属して着々と戦備を整えた。



当時における蒋介石の対日戦略について、蒋介石の側近であった董顕光は、

戦後発刊の著書のなかで、次のように述べている。



そのとき   〔八月上旬〕   蒋介石は抗戦のための全面的な戦略を決定していた。

これが世にいう 〝空間をもって時間に替える〟 戦略であって、

時間をかせぐために必要に応じて空間が放棄されるが、

敵はそのような空間を得るために人的、

物的に高価な代価を支払わねはならないのである。



一種の焦土戦術がとられて中国軍の放棄した地域には

敵の利用する家屋も食糧も残されてない。

この独特の戦略によって日本軍は奥地深くおびき寄せられ、

その戦線は稀薄に広がり、輸送路は延び過ぎて丸裸になってしまうであろう。

これが消耗戦の戦略であって、蒋介石は、うぬぼれた日本軍が

必ずこの消耗戦で崩壊すると信じていた。



一方、当面の危機に対して蒋介石は自ら好む戦場を揚子江の線に選び、

そこに主力を集結するという現実的な方策を決定した。

華北は補給線を維持することが困難だから、

抗戦を続けても結局は敵手に落ちるものとして、

華北前線には大軍を増援しないことにした。



中国軍の主力は揚子江流域の諸都市における決戦に備えて温存し、

更にもし揚子江の線が破れた場合は、

奥地深く第三すなわち最後の抵抗線を築く計画であった。

これは実に巧妙な作戦計画であり、

またその後の戦局の推移は蒋介石の考えの正しかったことを証明している。

しかし、この計画が最後の勝利をもたらすまでには、

中国の民衆は長い年月の苦痛に耐えねばならなかった。》



*   この董顕光の記述を見ても、あの戦争が中国側の意思によって

   遂行されていたことがわかります。

   善人心の日本人は、こういう中国の戦略を知っていながら、

   なお、日本が侵略戦争を起こしたと妄言を吐いているわけです。



   中国軍は焦土作戦で、撤退する時、その途中の街や家屋を焼き払いました。

   そのあとで、日本軍がやったと宣伝します。

   中国軍が上海を爆撃した後で、日本軍がやったと言ったのと同じように。

   彼らは、自国民の苦しみなど、知ったこっちゃありません。

   文句言ったら、漢奸 (売国奴、敵のスパイ) に仕立てて、殺すだけです。

   その上で、日本軍が残虐な事をしたとすりかえます。

   それを、善人心のまぬけな日本人が信じ込む。バカですね。

松本重治氏、ティンパーレの本を知る

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/13 18:40 投稿番号: [1580 / 2250]
松本重治著   『上海時代・下』   249〜250p


《 四月になって、ジャキノ難民区でともに働いたティンパーレー君が

総局事務所にやってきて、 「中国における日本軍の残虐行為

(ジャパニーズ・アトロシティーズ・イン・チャイナ)」   なる書物を

編集、発行することになったことを報告した。



そして、 「これは、よき日本人に対しては、まことに済まぬことながら、

ひろく戦争が人間というものを変えてしまうという、悲しむべく、

また憎むべきことを世界に周知せしめたいのです。


しかし、ことに日高さんと松本さんとに対しては、

南市の難民区を作ることにつきご両人に協力をしてもらいながら、

事実上、反日的な刊行物を編集するにいたった。

これは、お二人の好意に対し悪意をもって酬   (むく)   ゆるようなことに

なるもので、自分にとっても心苦しい限りである。



そこで、時局がら、直接に名指しすることは差し控えたが、私の序文において、

お二人に対する私の衷心からの敬意を表明しておいたわけだ。

何とぞ、この本はあくまで反戦的編著書として受けとってくれ」

という良心的な話であった。



「ティンパーレー君、私も日本人の端くれである。

南京の暴行、虐殺は、全く恥かしいことだと思っている。

貴著が一時は、反日的宣伝効果をもつだろうが、致し方ない。

中国人に対し、また人類に対し、われわれ日本人は深く謝するとともに、

君の本をわれわれの反省の糧としたいものだ。

丁寧なご挨拶で、かえって痛み入る」   といったことがあった。》



*   「貴著が一時は、反日的宣伝効果をもつだろうが、」


   松本氏は、反日的宣伝効果を一時的と思っていたようだが、

   まさか、永久的とは、予想だにしなかっただろう。

   中国人の悪意が理解できず、善意でのみ解釈していこうとすると、

   こういう結果を生む。

続 揚子江流域領事館員の引揚げ

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/12 18:51 投稿番号: [1579 / 2250]
揚子江流域領事館員は以前に引揚げようとしましたが、

揚子江を封鎖されたため、水路からの引き揚げができなくなりました。

そこで、今度は鉄道を使って青島に向かう事にします。

なお、上海も攻撃を受けているため、上海居留民の引揚げも始まりました。



戦史叢書   『中国方面海軍作戦〈1〉』
303〜304p


《 また南京の動揺は十三日戦火が上海に波及するとともに激化し、

殊に十四日中国側の上海盲爆により同方面の事態は最悪に立ち至り、

外務中央部は在南京の日高参事官に一斉に南京を引揚げられたき旨、訓電した。



十四日   16:00   日本大使館と国民政府外交部との間に、

岳陽丸による南京逆もどりの我が引揚げ官民は十五日午前浦口発、

特別列車で津浦線経由により青島に送達のことに交渉が成立した。

かくて十五日午前、引揚げ官民一行一四六名は浦口発、

十六日朝済南に、同日夕青島に到着した。

右引揚げ後も残務整理のため居残った日高参事官以下大使館、総領事館館署員計二二名は、

十六日午後全点大使館を退出、夕刻浦口から列車で出発、十八日朝青島に安着した。



揚子江流域各地から一応上海まで引揚げて来た居留民は、

上海の状況にかんがみ、更に内地に引揚げた。

九日大山事件発生、避難帰国を要望する者が激増した。

よって、十三日出港の長崎丸、上海丸を第一船として大量引揚げを開始した。



十三日、日中交戦関始されるや婦女子及び一部の男子に総引揚げが命ぜられ、

十五日から二十二日までに   「龍田、欒洋、長江、上海、長崎、諏訪、安洋」、

富士丸を一一回配船して、十九日までに婦女子の引揚げを完了し、

二十二日までに引揚げ希望者のほとんど全部の引揚げを完了し、

その数一四、三〇〇人に及んだ。

上海残留者は官公吏、会社員、在郷軍人、時局委員会関係者など

七、〇〇〇人にすぎなくなった。》

4月7日、主目的のない徐州作戦

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/12 18:44 投稿番号: [1578 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   文春文庫
330〜331p


《    −   四月三日、

といえば、台児荘では、なお日中両軍の死闘がつづいているときであったが、

東京では、参謀本部が武漢攻略に連結する形での徐州作戦を内定していた。

そして、四日後、台児荘から日本軍が反転した七日、

正式に作戦命令   「大陸命第八十四号」   が示達された。

「大本営ハ、徐州付近ノ敵ノ   撃破ヲ企図ス」



この徐州作戦の決定は、これまでの不拡大方針の転換、いや、その放棄といえるが、

決定の経緯は、しごくあっさりとしたものであったらしい。

参謀本部作戦部長橋本群少将によれば、もともと戦面不拡大の方針は

「絶対的」   なものではなく、 「兵力の関係上、時期的のもの」   であった、という。


「而して、其の変更は、必ずしも中央の自発的方針の変換より来たものではなく、

現地の状況がさう云ふ風になつて来たのであります。」



では、その   「現地の状況」   とはなにか、といえば   −

「せっかく敵が目の前に中央軍の精鋭を含む大兵力を集めたのだから……

(その)   兵力を敲   (たた)   くと云ふことは、一つの戦機でもある」

少将は、それ以外の動機は明示せず、また、作戦課長稲田正純中佐も、

「敵の主力を寄せつけた結果となったので、それでは徐州作戦をやろう

ということになり、急いで準備にとりかかった」

と、回想している。



そこに敵がいるから   ―   というのが、台児荘をめざした第二軍の発想であったが、

徐州作戦にもまた類似の思考の安易性がうかがわれる。

その点は、作戦の指導にあたる橋本少将ら参謀本部の主務者と、北支那方面軍、

中支那派遣軍、臨時航空兵団の幕僚たちとの打ち合せ会議でも、露呈された。



作戦目的を敵主力の撃滅におくか、それとも徐州という要地占領に設定するのか、

という基本的命題が討議されたのだが、結局は意見は対立したままで、

参謀本部側も明確な判決をくださずに終っているからである……。



だが、ともかくも、徐州作戦は決定され、北支那方面軍は四個師団、

中支那派遣軍は二個師団を投入することになった。》

暴支膺懲声明のつづき

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/11 18:52 投稿番号: [1577 / 2250]
中国の上海攻撃の非道さに、日本政府は声明を出しました。

その趣旨は

「中国があまりにひどい事をするので、已む無く断固たる措置を

とらざるをえなくなった。」   というものです。

もちろん   「領土的野心などなく、あくまで反省を促すためだ」   と言っています。



そのため、派遣もたったの二個師団です。

総大将に任命された、松井石根大将もあまりの少なさに困惑したようです。

ちなみに、松井氏は、この時、予備役でした。

松井氏は、日中友好に尽していた人物なので、

恐らく、彼なら、中国に対しても、良い対応をし、

事変も良い方向で解決するだろうと、期待して選ばれたのでしょう。



戦争の目的も


「上海派遣軍司令官ハ   海軍ト協力シテ   上海附近ノ敵ヲ掃滅シ

  上海 竝   (ならびに)   其   (その)   北方地区ノ要線ヲ   占領シ

  帝国臣民ヲ保護スヘシ」


というもので、上海周辺の敵を排除して、日本人居留民を護れというものでした。

つまり、上海の当面の敵を排除することが目的で、

それ以上の進撃は考えていなかったのです。


そして、この、兵の少なさが、日本側に悲劇をもたらします。

4月6日 台児荘攻撃やめ反転命令

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/11 18:46 投稿番号: [1576 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   文春文庫


323〜324p

《 第十連隊の進撃は順調で、午前十時四十分には、

第一大隊が台児荘の城外東側の葉庄を占領した。

しかし、第十連隊は台児荘は攻撃せずに、そのまま南下し、

午後四時五十分、黄林庄に到達した。

・・・

翌日、四月四日も、戦況には変化はなく、独力で台児荘の攻略をめざす

第六十三連隊は、なお、攻めあぐむ状態のまま日をすごした。

支隊長瀬谷少将は、辺庄の第十連隊に、台児荘西北約四キロの南洛付近に

転進を命じ、あらためて西側からの台児荘攻撃を企図した。》



325〜326p

《 蒋介石は、正午、第二十軍団長湯恩伯に電令した。・・・

あと二日間   (六、七日)   で必ず日本軍を撃滅せよ   ―   と

・・・

中国側の   「躍起」   ぶりとは逆に、

日本側では、むしろ、戦線縮小の傾向が醸成されていた。


瀬谷支隊の第十連隊は、支隊命令どおりに南洛付近に転進したが、

坂本支隊でも、支隊長坂本順少将が、午後七時三十七分、

第二十一連隊にたいして反転準備を下令した。

じつは、坂本少将は、前日、第五師団司令部から、

「速ニ当面ノ敵ヲ撃破シ   沂州攻略ノ為ニ転進」   せよ、という命令をうけていた》



327〜328p

  −   四月六日、

台児荘の第六十三連隊長福栄大佐は、午前二時三十分、支隊本部から電話をうけ、

敵の有力部隊が東北に出現している、第一大隊を潘墜に派遣せよ、との指示をうけた。

「これは、連隊の台児荘攻略の企図に急転回を余儀なくされるが……」

福栄大佐は、ふと胸奥にそんな不安を感じつつ、第一大隊に出発を下令したが、

午前八時、支隊命令をうけて安堵した。

・・・


瀬谷少将は、午後三時三十分、支隊命令を下達した。

「支隊ハ、本日没後全力ヲ以テ北方ニ転進シ、

坂本支隊ノ左側背ヲ脅威スル敵ヲ撃滅セントス」

反転命令   −   である。

命令をうけた台児荘の第六十三連隊長福栄大佐は、仰天し、かつ切歯した。



台児荘城は、多くの将兵の血を流しながら、

徐々に、あるいは遅々としながらも、攻略への道を歩んできている。

ここで転進するのでは、それではこれまでの苦闘と流血はなんのためであったのか

・・・

第十師団長磯谷中将もおどろき、参謀長堤不夾貴大佐を通じて、

瀬谷少将に再考をもとめさせた。

が、瀬谷少将は自身の判決を変えず、その夜、第十連隊も、

台児荘の第六十三連隊も北方にひきあげた。

・・・


中国側は、日本軍の転進を退却とみなすだけでなく、

「将該敵殲滅三万余、残敵万余人向北潰退」   と発表した。》

暴支膺懲声明

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/10 18:57 投稿番号: [1575 / 2250]
中国の上海攻撃の非道さに、日本政府は声明を出しました。


〔昭和12年8月15日   大阪毎日〕より


    声明書

《 帝国つとに東亜永遠の平和を冀念   (きねん)   し、

日支   両国の親善、提携に力を効せること久しきにおよべり。



しかるに南京政府は   排日抗日をもって   国論昂揚   (こうよう)   と

政権強化の具に供し、自国国論の過信と帝国の実力軽視の風潮と相待ち、

さらに赤化勢力と苟合   (こうごう)   して反日侮日いよいよはなはだしく、

もって帝国に敵対せんとするの機運を醸成せり。



近年幾度か惹起せる不祥事件、いずれもこれに因由せざるなし。

今次の事変の発端もまた、かくのごとき気勢がその爆発点を

たまたま永定河畔に選びたるに過ぎず、

通州における神人ともに許さざる残虐事件の因由またここに発す。



さらに中南支においては支那側の挑戦的行動に起因し、

帝国臣民の生命財産すでに危殆   (きたい)   に瀕し、

我が居留民は多年営々として建設せる安住の地を、

涙をのんでついに一時撤退するのやむなきにいたれり。



顧みれば事変発生以来しばしば声明したるごとく、

帝国は隠忍に隠忍を重ね事件の不拡大を方針とし、

努めて平和的かつ局地的に処理せんことを企図し、

平津地方における支那軍屡次の挑戦および不法行為に対しても、

我が支那駐屯軍は交通線の確保および我が居留民保護のため、

真にやむを得ざる自衛行動に出でたるに過ぎず。



しかも帝国政府はつとに南京政府に対して挑戦的言動の即時停止と

現地解決を阻害せざるよう注意を喚起したるにも拘わらず、

南京政府は我が勧告を肯   (がえ)   んぜざるのみならず、

かえってますます我が方に対して戦備を整え、

厳存の軍事協定を破りて顧みることなく、軍を北上せしめて我が支那駐屯軍を脅威し、

また漢口、上海においては兵を集めていよいよ挑戦的態度を露骨にし、

上海においてはついに我が方に向かって砲火を開き、

帝国軍艦に対して爆撃を加うるに至れり。



かくのごとく支那側が帝国を軽侮し不法、暴虐至らざるなく、

全支にわたり我が居留民の生命財産危殆に陥るに於いては、

帝国としてはもはや隠忍その限度に達し、支那軍の暴戻を膺懲し、

もって南京政府の反省を促すため、今や断乎たる措置をとるのやむなきに至れり。

かくのごときは東洋平和を念願し、日支の共存共栄を翹望   (ぎょうぼう)   する

帝国として衷心   (ちゅうしん)   より遺憾とするところなり。



しかれども帝国の庶幾   (しょき)   するところは日支の提携にあり、

これがため支那における排外抗日運動を根絶し、

今次事変のごとき不祥事発生の根因を芟除   (さんじょ)   するとともに、

日、満、支三国間の融和、提携の実を挙げんとするのほか他意なく、

もとより毫末   (ごうまつ)   も領土的意図を有するものにあらず。



また支那国民をして抗日に躍らしめつつある南京政府および国民党の覚醒を

促さんとするも、無辜の一般大衆に対してはなんら敵意を有するものにあらず。

かつ列国権益の尊重には最善の努力を惜しまざるべきは言をまたざるところなり。》



注   冀念   キネン      いのり、こいねがう。

   苟合   コウゴウ     私通する。

   平津   ヘイシン     北平 (北京) 、天津地域の略

   翹望   ギョウボウ    首を長くのばして待ち望む。

   庶幾   ショキ       こいねがう、のぞむ。

   衷心   チュウシン    心の底

   芟除   サンジョ     草を刈り除く、刈り取る。

   毫末   ゴウマツ     ごく小さいこと、少し、わずか。


つづく

4月1日 抗議すると変わる命令

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/10 18:43 投稿番号: [1574 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   文春文庫
318〜320p


《 またまた   「回れ右」   命令であり、

赤柴大佐は、ただ唖然かつ憮然とするばかりであった。「ご苦労だが……」

と、それでもやむなく、大佐は、四月一日午前零時、大隊長たちを集めて

再度の転進命令を示達していると、野砲兵第十連長谷口春治中佐がやってきた。

「困ります。こんな支隊命令は困ります」



中佐は、憤然とした表情と語調で、強調した。

砲兵部隊は、すでに北方の敵にたいして布陣し、砲撃準備をととのえている。

急に   「回れ右」   といわれても、歩兵のように身軽には動けない。

いまから方向転換しても、朝の攻撃には準備が間にあいそうにもない。

このまま予定どおりの作戦を実行したほうが有効だから、

一緒に意見具申してほしい、と、谷口中佐は主張した。


・・・・・


大佐の様子をみた谷口中佐は、では、という形に肩をはると、

机上の電話で支隊長瀬谷少将、ついで野戦重砲兵第二旅団長西村琢磨少将に

「真剣な調子」   で命令撤回をもとめる意見具申をした。

その結果は、午前二時、次の支隊命令で明示された。



「歩兵第十連隊ハ、四月一日北方ノ敵ニ対シ   之ヲ東北方ニ圧迫スル

如ク   攻撃シ、以テ支隊ノ左側背ヲ   安全ナラシムベシ……。

停車場付近ニ対スル   攻撃ノ時機ハ、別命アル迄中止ス」


わずかに三時間たらずでの命令変更である。

では、その前の台児荘攻撃命令は、なんのための下令なのか……。

なんとも不鮮明な統帥といわざるを得ないが、首をひねったのは、

台児荘の第六十三連隊長福栄真平大佐も、同様であった。



大佐の場合、台児荘にたいする主力攻撃命令を、午前一時三十分に受理した。

第十連隊が右翼になって停車場付近を攻める、第六十三連隊は左翼で攻撃せよ、

というので、大佐は勇躍して必要な命令を準備しているところに、

攻撃延期の支隊命令がとどいたのである。



福栄大佐は、支隊の   〝猫眼的姿勢〟   に不満を感ずるよりも、心配した。

がっちりと台児荘城に取り組んでいる関係上、後方や左右の戦況を詳細に知る余裕はなく、

なにが原因で支隊命令が変更されたか、知るすべもなかったからである。

「支隊全般の作戦遂行の上に、大きな変化が起ったのかも知れない」

福栄大佐は、そんな感想を得ただけに、ますます台児荘の攻略は

「連隊独力」   で成就せねばならぬ、と覚悟した。



この日、中国側の砲撃は強化されたが、

城の西北角に孤立していた第三大隊第十一中隊は、無事に救出された。》


つづく

中国の嘘に呼応する日本人

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/09 18:53 投稿番号: [1573 / 2250]
中国は8月14日の上海爆撃を日本軍機がやったと報じましたが、

日本人の中には、今もこの嘘を信じて、これに呼応している人達がいます。



『写真記録   日中戦争3.拡大する日中戦争   1937〜1941』

ぽるぷ出版   鈴木亭・笠原十九司   編


という本の26頁のAに死体が転がっている写真がありますが、その前の頁に

“日本軍が連日上海市内を爆撃して、市民を酷い目にあわせている”   と

言う趣旨の記事を書いています。

次に   この写真ですから、当然、加害者は日本軍と取られます。



ところが、この写真は、中国軍機が上海南京路を爆撃した時の惨状写真なのです。

これと同じ写真が   毎日新聞社刊   『不許可写真1 』   の7ページと、

毎日新聞社刊   『大日本帝国の戦争2太平洋戦争』   11ページに載っています。

ここではハッキリ、中国空軍が爆撃したと、書いてあります。

つまり、中国軍の爆撃の惨状を、まるで日本軍がやったかのように、

この人達は、読者に言っているわけです。



また、彼らは、パレスホテル前の爆撃のあとの惨状写真

(但しこれを先施公司デパートと言っている)   も日本軍の犯行として載せています。

ここで彼らは二重の間違いをしています。

先施公司   (シンシアコーズ)   デパートを爆撃したのは中国軍です。

  ( 毎日新聞社刊   『大日本帝国の戦争2太平洋戦争』   の13ページにある )

パレスホテルの爆撃も中国軍ですが、この写真も毎日新聞社刊

『大日本帝国の戦争2太平洋戦争』   の13ページにあります。



このように、中国軍の犯行を日本軍の犯行にすりかえて本に書く、

困った日本人がいるのです。

ちなみに、日本の新聞は、南京路で中国人の死体の転がっている写真は

掲載不許可にされました。

別に、日本が犯人ではないのですが、軍は、人道上、

掲載すべきではないと判断したようです。



西岡香織著 『報道戦線から見た 「日中戦争」 』 芙蓉書房出版
83p


《日本軍第一線の幕僚には、軍の機密保持や、戦争の悲惨さを

国民に知らせたくないという心理から、従軍記者を敬遠する風潮が強かった。

このため報道部が間に立って苦労するが…》 (馬淵少佐の言)



要するに、軍の検閲は、機密保持だけではなく、

「悲惨な状況をお茶の間に見せたくない」   ということでもあったようです。

だから、敵の爆撃で殺された、中国人の死体写真でも、不許可にしたわけです。



それに比べて、自分で自国民を殺しておきながら、

平然と日本軍のせいにする、中国の図々しさ、

これはナイーブな日本人には、とてもマネができません。



この中国の酷いやり方に、日本政府は、8月15日   「暴支膺懲」   声明を出します。


つづく

3月31日 またまたまた猫の目指令

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/09 18:44 投稿番号: [1572 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   文春文庫
317〜318p


《 沂州の手前で反転した第二十一連隊は、

三月三十日、はやくも先発した第一大隊が向城を経て南進し、

第十連隊も、その第一大隊は台児荘西方の大運河に近い李家荘にすすんだ。


瀬谷支隊長である第十師団第三十三旅団長瀬谷啓少将は、午後九時四十五分、下令した。

「支隊ハ、大運河以上デ   僅カニ范口、南グ   (土+具)   子ニ残存スル敵ニ対シ

殲滅的打撃ヲ与フルト   共ニ、台児荘付近ノ敵ニ対シ   攻撃ヲ続行セントス」



第十連隊は前進をはやめ、三月三十一日の夜明けには、

第二大隊も第一大隊の西方の頓庄間にすすみ、大運河の流れを前にした。

すると、午前五時三十分   −

十連隊長赤柴八重蔵大佐は、意外な瀬谷支隊命令をうけた。

「沂州方向ヨリ退却セル張自忠ノ約二個師ハ、昨三十日夕、

其ノ一部ヲ以テ王庄、官庄、馮家湖、大庄、黄庄付近ニ達シ、停止セリ」



ここに指摘された地域は、ちょうど坂本支隊の進撃路の西側、

そして瀬谷支隊の後方にあたる。そこで、

「支隊ハ、台児荘攻略部隊ヲ以テ   依然攻撃ヲ続行セシメ、其ノ他ノ主力ヲ以テ

北方ニ移動シ、ショウ山付近ヨリ   官庄方向ニ対スル攻撃ヲ   準備セントス」

第十連隊はショウ山、すなわち台棗鉄道の北洛駅の北西に集結せよ、という内容である。



つまりは「回れ右」命令であり、第十連隊長赤柴大佐は、

「また〝猫眼命令〟   か……」

と、舌うちする想いであった。

第十連隊は、すばやく反転して午後二時、北洛に到着すると、

ショウ山にたいする警戒を強化しながら、瀬谷支隊長からの次の命令を待った。



ところが、午後十一時二十五分、赤柴大佐は伝達された支隊命令に眼をむいた。

「支隊ハ、四月一日主力ヲ以テ   台児荘付近ノ敵陣地ヲ攻略セントス」

攻撃の重点を台児荘停車場付近およびその西側地区に指向する。

第十連隊がその攻撃を担任せよ、というのである。》


つづく

8月15日 日本海軍機の渡洋爆撃

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/08 15:18 投稿番号: [1571 / 2250]
8月14日   中国軍機が上海を爆撃しました。

そのころ、東シナ海には、日本の空母がいましたが、

台風が来ていたため艦載機は発艦も着艦も出来ませんでした。

動けたのは、黄浦江にいる「出雲」と「川内」の艦載機のみです。

これらはフロートつきの水上機です。

これら二機の水上機が攻撃してきた中国軍機に反撃出来ただけです。



これでは埒があきません。

日本海軍は、15日、日本本土   (長崎県・大村)   と台湾から直接飛行機

(九六式陸攻)   を飛ばせて、南京・広徳・南昌・杭州などの飛行場を攻撃させました。

これが有名な渡洋爆撃です。



しかし、台風が来ていたため、高空からは目標が見えません。

攻撃できずに引返したり、低空で攻撃しようとして撃ち落とされたりで、

成果が上がらず、何度も、同じ所を攻撃に行かなければならなくなりました。


仕方がありません。陸軍は当分来れませんし、たった4千の陸戦隊員で

何万という中国軍を相手にしているのですから。

せめて、飛行機で中国軍の飛行場を叩いて、空襲だけでも抑え、

日本人居留民の生命を永らえさせなければならないのです。



尚、大村から飛び立った、木更津航空隊は

南京攻撃の後、そのまま済州島に移動しました。

元々、済州島に移動する予定だったのですが、

基地が出来ていなくて待機していたのです。

今回、渡洋爆撃で発進したついでに移動したわけです。

以後、済州島から敵飛行場への攻撃に行く事になります。



しかし、渡洋爆撃の標的は、あくまで遠方の敵飛行場であって、

上海の市街ではありません。


つづく

3月28日 またまた猫の目指令

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/08 15:12 投稿番号: [1570 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   文春文庫
314〜316p


《 郭里集では、支隊長瀬谷少将の激励をうけた赤柴大佐が、

左から右に、第六十三連隊第二大隊、第十連隊第二大隊、

同第一大隊を配置して、攻撃をすすめていた。

砲撃と突撃をおこなうたびに、中国軍部隊は潰乱状態になって退却し、

瀬谷支隊は、中国軍が逃げこむ部落をひとつずつ掃蕩しながら急進し、

第十連隊第一大隊の退路遮断によって、典型的な殲滅戦にうつった。



支隊長瀬谷少将は、 「ほぼ敵一個師を潰滅」   して背後の安全が確保できたと判定し、

午後六時すぎ、第六十三連隊長福栄大佐に電報した。

支隊主力は明二十九日、台児荘にむかって前進する、主力の攻撃開始は

「三十日の正午以後」   になる予定だ   ―   との趣意である。

瀬谷少将は、その一時間後、転進準備のために、とりあえず第六十三連隊

第一大隊は棗荘、第十連隊は郭里集、砲兵隊はエキ県に集合するよう、命令した

・・・


台児荘の攻防は、いまや日中両軍の不安の対象になってきた。

蒋介石は、その失陥を懸念し、全軍に通電した。

「……即有一兵一卒、亦須本犠牲精神、努力死ベン、如果失守、

不特全体官兵応加重懲、即李長官、白副参謀総長亦有処分」

この場合の   「処分」   は、銃殺刑をいう。

・・・



第十師団長磯谷中将が、再び瀬谷少将にたいして、支隊主力による攻撃を命令すれば、

第二軍司令官西尾寿造中将も、第五師団長板垣征四郎中将に瀬谷支隊救援を命じ、

板垣中将は、坂本支隊長に沂州攻撃の一時中止と瀬谷支隊支援を下令した。

午前十時、坂本少将は支隊主力を転進させる意図を第十一、第二十一連隊に連絡した。



また   「猫眼作戦」   か   ―   と、激怒したのは、第二十一連隊長片野定見大佐である。

第二十一連隊と第十一連隊は、途中の部落の掃蕩に手間どったが、

沂州城の間近までせまっていた。

「一つの任務を完成しない間に、また次の作戦に移る。

こんなことで実効ある作戦ができるとでも思っているのか」・・・

沂州攻略は、坂本支隊の本来の任務であるし、瀬谷支隊への支援としてなら、

沂州の占領とそれにともなう中国軍兵力の撃破のほうが、

台児荘の側面攻撃よりははるかに有効のはずである。



片野大佐は、坂本少将あてに意見を具申した。

「沂州城眼前ニ在リ。 敵ノ戦意モ大ナルモノ無シ。 一挙之ヲ奪取シタル後、

向城ニ転進スルハ、 将来ノ作戦上有利ニシテ   兵及ビ敵ノ士気ニ   及ボス影響

大ナルモノアリ……」

だが、坂本少将は、正午、瀬谷支隊の戦況が急進していることを指摘して、

正式に転進命令を示達した。



意図の内報にたいしては、意見具申もこころみたが、

命令とあっては、異議は無用である。

第二十一連隊長片野大佐は、ただちに攻撃を中止して反転準備をいそいだ。



つづく

中国は 「日本が爆撃」 と嘘報道

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/07 16:20 投稿番号: [1569 / 2250]
中国は8月14日に上海市街を爆撃しましたが、

なんと、これを日本機がやったと報じたのです。



K・カール・カワカミ著   『シナ大陸の真相』


255p

《 8月15   (?14の間違いでは)   日   に中国軍の飛行機が国際租界のキャセイホテルと

パレスホテルを爆撃した時、中国政府の宣伝広報局は、

この爆撃機は日本軍のものである、というニュースを流した。


ワシントンポストの上海特派員であるマーク・J・ジンスボーグ氏は、

「二四時間以内にこの宣伝広報局は重大な訂正を発表し、

我々特派員スタッフの完璧なる調査によって問題爆撃機は日本軍のものではなく

中国軍ののものであることが判明した、ということを内外に通報した」   と書いている。》



256p

《 ニューヨークタイムス上海特派員は中国側の検閲を避けて真実を伝えるため、

この爆撃   (23日)   に関する特電を上海ではなく香港から発信した。

・・・

「上海の国際租界及びフランス特権区域に居住する無力な一般市民を、

中国軍が無責任に空爆したり殺害したりするのを防ぐために、

武力手段または他の抑止策をとることについて何らかの国際的な合意が

必要であるということは、上海在住の外国の領事館員や陸海軍スタッフたちの

一致した見解となっている」



この特電は中国の検閲に不満を漏らして次のように述べている。

「中国の検閲官は発信された外電やラジオ通信から前述の事実や意見を削除した。

そして場合によっては外電のニュースそのものを変えてしまいさえもした。

その目的は、現地の外国人たちが、あたかも心の中で、

この爆弾はおそらく日本の飛行機から投下されたかも知れないと、

疑っているかのように見せかけるためだったのである。

だがしかしこれは明らかに真実ではない」》



松本重治著   『上海時代・下』   中公新書197p


《 十二日夜から   「同盟」   無線室の電源が切れた。   各社のものもそうであった。

幸い、 「同盟」   だけは、バンドの正金銀行ビルの一室に五百キロの送信機を

隠しておいたので、そのいちばん小さいもの一つだけが動いた。

青田君が、さっそく東京と連絡をとるのに成功、刻々のニューズを東京に送った。

十三日と十四日は   「同盟」   の独壇場であり、各紙は本紙も号外も、

上海発同盟電を多量に掲載した。》



*   「無線室の電源が切れた。   各社のものもそうであった。」

   これは、今だったら、不都合なインターネットやTVを遮断する

   ようなものでしょう。

   当時の中国は、通信社の無線電源を別電源で管理していたようですね。


*   中国は日本機がやったと言いましたが、常識で考えてみましょう。

   上海は日本人がいる所です。何で味方を攻撃しなければならないのでしょう?

   尤も、中国は、故意に同胞を殺して、日本がやったと平然と宣伝しますけど。

   昭和13年6月にも   黄河の堤防を切って90万人を殺し、

   日本がやったと宣伝しましたし。

ティンパーレーは国民党の宣伝工作員

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/07 16:11 投稿番号: [1568 / 2250]
実はティンパーレーは、国民党の宣伝工作員だったのです。


鈴木明著   『新 「南京大虐殺」 のまぼろし』   291〜292p


《 何回目の中国旅行のときであったか、A君はある日、七百頁ぐらいの

『近代来華外国人名辞典』 (中国社会科学出版社、一九八一年十二月出版)

の奥付がある本を持って来て、 「多分、これじゃないか」   と、

なにげなくこの、やや手あかによごれた一冊の本を渡してくれた。



彼の友人が以前買って、結構便利に使っている、という人名辞典であった。

そして、そこに遂に   「田伯烈(ティンパーレー)」   の名前が出ていたのである。

たまたまコピーもなかったので、これはそっくり手書きで書き写した。

念のため、はじめに原文通りを、中国文のままご紹介する。



「田伯烈   (一八九八〜   )   廷珀利・哈羅徳・約翰

澳大利亜人、第一次世界大戦後来華、任路透社駐北京記者、後又任

《 曼徹斯特、衛報 》   (Manchester Guardian)   及美国聯合報   (即美聯社)

駐北京記者、一九三七年盧溝橋事変後、国民党政府派他前往英美做宣伝工作、

嗣任国民党中央宣伝部顧問、編有   《日人在華的恐怖》

(The Japanese Terror in China   一九三八)   一書」 (原文は簡略字体である)。



「(訳文)   ティエンパレー、   ハロルド・ジョン・ティエンパレー、

一八九八年生れ。オーストラリア人、第一次大戦後中国に来る。

ロイター通信の北京記者となる。

その後マンチェスター・ガーディアンとAPの北京駐在記者を兼ねる。

一九三七年盧溝橋事件後、国民党政府は彼を英米に向けて派遣し、

宣伝工作に当らせ、次いで国民党中央宣伝部の顧問に任命した。

編著に   『中国に於ける日本人の恐怖』 (一九三八年)一書がある」》



北村稔著   『「南京事件」   の探求』   文春新書   43p


《 曽虚白は、ティンパーリーとの接近について次のように言う。

「ティンパーリーは都合のよいことに、

我々が上海で抗日国際宣伝を展開していた時に上海の   『抗戦委員会』   に

参加していた三人の重要人物のうちの一人であった。

・・・

漢口   〔南京陥落直後の国民政府所在地〕   に来てもらい、直接に会って全てを相談した。

我々は秘密裏に長時間の協議を行い、国際宣伝処の初期の海外宣伝網計画を決定した。

我々は目下の国際宣伝においては中国人は絶対に顔をだすべきではなく、

我々の抗戦の真相と政策を理解する国際友人を捜して

我々の代弁者になってもらわねばならないと決定した。



ティンパーリーは理想的人選であった。かくして我々は手始めに、金を使って

ティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、

日本軍の南京人虐殺の目撃記録として二冊の本書いてもらい、

印刷して発行することを決定した。

〔中略〕このあとティンパーリーはそのとおりにやり、〔中略〕

一つの書物は売れ行きのよい書物となり宣伝の目的を達した」。(曽虚白『自伝』より)》



*   というわけで彼は国民党の宣伝工作員だったわけです。

   前回出の   『「南京虐殺」   への大疑問』   205pの中で、松村俊夫氏が、

  「ティンパレーは、ここでおかしいと考えつかねばならなかった。」   と

   書いていましたが、工作員だから、気にする必要もなかったわけでしょう。

中国軍の上海爆撃3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/06 18:47 投稿番号: [1567 / 2250]
松本重治氏著   『上海時代(下)』   中公新書   195〜196p


《 十四日午後四時少し過ぎ、私が   「同盟」   支社にいると、

中国空軍の編隊が上手から黄浦江上空に進んで来て、

旗艦   「出雲」   の高射砲や機関銃が反撃しているようだと、

記者の一人が急いで駈けよって、知らせてくれた。



すぐ窓側に行き、黄浦江の上空を眺めると、マルチン爆撃機の五機編隊で、

「出雲」   めがけて進んでいるではないか。

私の肉眼では、編隊の高度はだいたい七、八百メートルとみた。

「出雲」   その他の高射砲がパーン、パパーンと鳴り響いている。

ふと見ると、五機のうち一機の急所に高射砲の弾が命中したらしい。

その一機が隊伍を乱すかと見ると、中国空軍の射手らしいものが、

其っ逆さまに降ってきて黄浦江にじゃぶん。



すると、編隊は   「出雲」   の方向からやや左旋回し始めたと思うと、

一つ、二つ、三つと大型の爆弾を落しつつ、租界上空を通って飛び去った。

一つは愛多亜路の十字街の舗装道路上で炸裂した。

その十字街の一角には大衆歓楽センターである   「大世界」   と言う

四・五階のビルが有り、十字街上と   「大世界」   内にいた千人余りが、

爆風と破片とで死亡した。



第二弾は南京路カセイホテルの玄関先で炸裂し数百枚の窓ガラスが破壊された。

その為、通行中の中国人約二百名、外人八名が死んだ。

その外人のうちには、ライシャワー元大使の兄に当るロバート・ライシャワー

(有名な日本古代史の学者)   も含まれていた。



第三弾は、南京路を隔ててカセイホテルの向かい側のパレスホテルの屋根を

貫いて地階に達し、数十人の死傷者を出した。・・・



「同盟」   支社の中国人使傭人は、急に動揺の色を見せ、同僚記者たちも、

期せずして私の顔を見た。

私は、窓口から編集デスクに戻って、大声でみんなに

「僕たちは新聞記者だ。死場所はこのデスクだよ。冷静に落ちついて、ジタバタするな」

と命令した。



すると、みんな、 「そうだ、そうだ」   といって、各自デスクに戻り、

仕事を続けてくれた 》



*   この爆撃による死傷者は

   キャセイホテルとパレスホテルの間で死者729名、負傷者861名、

   エドワード七世通りとドモンティグニイ通りの交差点にて

   死者1012名、負傷者1007名

   この時の死傷者の大半は中国人でした。

3月28日 原稿を書くティンパレー2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/06 18:39 投稿番号: [1566 / 2250]
原稿をベイツらにチェックしてもらうティンパレー


松村俊夫著   『「南京虐殺」   への大疑問』
204〜205p


《 三月二十八日、ティンパレーからベイツへの最後の手紙に、次のような一節がある。


   〈なぜ私が上海、松江、嘉興を放っておくのかとのお尋ねですが、

   七章を読んでいただければ分かるかと思います。

   この点を調べていくと、上海付近の民衆に対する日本軍の暴行については、

   確実な証拠がほとんど見つかりません。〉(①374頁)



北支から中支、杭州から南京に至るあらゆるところでの日本軍暴行の証言を

集めたにもかかわらず、自分がいる上海、しかも難民区第一号が設定された

上海地区では、日本軍暴行の証拠をまったく見つけ出せなかったのである。

結局、ティンパレーは、上海については暴行の代わりに空爆の記事をもって

埋めたのだった。しかし、その空爆に比すべくもない規模の日本に対する

無差別爆撃があったのは、それからわずか七年後のことである。



本当ならばティンパレーは、ここでおかしいと考えつかねばならなかった。

なぜ自分のいる上海には見出せず、自分が見ていない他のすべての地区で

日本軍の暴行が起きているのか、そのカラクリに気づくべきだったのである。



華北その他について、アメリカ人の牧師や神父に話を伝えたのは支那側の

人物だったと思うが、彼らはその話をストレートに信じてティンパレーに伝え、

ティンパレーもそれをそのまま検証もせず本にしたことがよくわかる。

上海地区だけに特別な日本軍がいた訳ではない。南京に特別な西洋人がいたのである。》



*   というわけで、ティンパレーは、南京のベイツ・スマイス・ミルズや

   華北の神父たちから情報を得、また書きかけの原稿を送って

   チェックしてもらっていたわけです。

   上海に来たフィッチもまた、原稿の材料を与えた事でしょう。

中国軍の上海爆撃2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/05 18:51 投稿番号: [1565 / 2250]
新聞のつづき

〔昭和12年8月15日   中外商業〕


《〔上海十四日発同盟至急報〕   午後四時四十二分、我が方の高射砲弾を浴び

西南方に退却中のマーチン重爆撃機は、爆弾二個を避難民二千余の密集する

新世界附近に投下せるため、支那民衆に多数の死傷者を出し、安全地帯と

絶対に信ぜられていたフランス租界、共同租界など所嫌わず爆撃を加えている。



その爆弾投下振りは全く狂気沙汰で、フランス租界、共同租界の随所に

投弾、無辜   (むこ)   の外人を多数死傷せしめつつある。

浦東のスタンダード・オイルの貯油タンクも爆弾命中せるもののごとく、

同附近は黒煙に包まれている。



なお呉淞においてはアメリカ東洋艦隊旗艦オーグスタス号の傍らにも落下し、

果たして照準を定めて爆撃しつつありや否やすこぶる疑問で、

上海在留外人は支那軍の無軌道振りに今更のごとく驚き、非常な憤激に燃えている。



かくて敵飛行機の虹口上空爆撃はますます猛烈を極め、

陸戦隊の周囲は目下盛んに火焔が揚がっている。

東部においては上海紡績、公大紡績などが敵機の目標となり、

市内は盛んに火災を起こし、また西部東洋紡、内外綿などの邦人工場に

於いても敵の空爆のため火災が起こっている。



時に午後五時。それより敵は空爆と呼応して虹口目がけて野砲を打ち込み、

ダラッチ路の我が海軍武官室、狄思威路、有恒路などの工部局警察署附近に落下、

敵軍の虹口総攻撃はいよいよ確実となり、共同租界は今や収拾すべからざる混乱に陥った。



屍の山、鮮血の海   〔上海十四日発同盟至急報〕

午後四時半、支那側の連続的空爆でほとんどバンド北京路先の碼頭に落下した爆弾は、

折柄午前中の空爆で虹口楊樹浦方面から殺到した数万の避難民の真中に落下し、

死傷者無数、上海随一の華麗街、南京路上は死傷者の鮮血で真赤になり、

或いは片手を奪われ、或いは頭をやられた瀕死の重傷者が血の雨の中を這い廻り、


上海一の国際社交場カセー、パレス両ホテルに宿泊中の外国婦人等が、

滅茶滅茶に粉砕された窓硝子に傷ついて狂気のように泣きわめいて、

道路いっぱい身動きのならぬような混乱の中から逃れようとして

踏み殺された小児等、思わず眼を蔽わす惨状で、その悲惨語るに絶するものあり。

目下各国の救護班出動、死傷者を収容中である。



〔上海十四日発同盟至急報〕   支那軍の飛行機は西蔵路、大世界直前にも

爆弾を投下し、付近に避難していた支那人二百余が惨死した。

アメリカ人宣教師フランク・ディ・ローリンソン氏も爆死したといわれる。



北四川路一帯、大火災〔上海十四日発同盟至急報〕

敵の爆弾で北四川路一帯は火災を起こし、日本人経営百貨店、購買組合、

内山書店附近は目下延焼中である。

敵弾は更に我が西部小学校の東南部百米のところに落下、同小学校に避難、

集結している我が居留民は今や恐怖のどん底に怯えている。》



* なお、キャセイホテルには、セオドア・ルーズベト ( 元大統領 ) 夫人も

   逗留していた。


つづく

リパルスベイ・ホテルの会合3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/05 18:43 投稿番号: [1564 / 2250]
松本重治著   『上海時代・下』   中公新書
281〜283p


《 ディルクセン、トラウトマンという二人の大使や、ドイツ政府が、

日中両国の間に立って、日本側からの新条件をそのまま中国側に伝えたのか、

または別にどういう手を打ったかは、いまだに判らない。

とにかく、東京の情勢は、中国側の回答を誠意なき遷延策とのみ解釈し、

「爾後国民政府を対手にせず」   との日本政府声明となってしまった。



その声明に対しては、陸軍の不拡大派すなわち和平派ともいうべき多田参謀次長、

影佐大佐、今井中佐、堀場   (一雄)   少佐が、この声明発出に最後まで猛反対をやり、

ついには帷幄上奏権までを行使したが、結局、拡大派によって押し切られてしまったのだ。


われわれは遺憾だと思っているが、董君が東京で、中国側には条件如何によって

まだ和平の意思があることを伝えたので、それを知った多田、影佐らは、

ますます和平の意思を固めているということは、絶対に明らかである。

影佐の   「敵将」   に対する二通の書簡は、統帥部の現役の影佐としては、

いわば背水の陣を布いたような決意の証拠だと、真剣に考えてもらいたい、と語った。



そこで、日中両国の和平意思が相互に通ずれば、両国における和平派が、

交互作用によってますます強化される可能性は充分にある

ということには、みんなが同じ見解をもった。


高君は、南京から漢口への船中で、

周仏海   (蒋介石の第二侍従室長兼国民党宣伝部長)   と和平のことを談じ合って、

意気投合したこと、汪兆銘が南京陥落以前から、蒋介石に対し、

早期の和平がほんとうは中国の国益に合するという意見を、

独自に、あるいは直接開陳したり、あるいは書簡をもって蒋に書き送ったり

していること、


周仏海は、胡適や、汪派の陶季聖や、梅思平らとグループ

(後日、周がこのグループを   「低調クラブ」   と名づけていたことが私らにも判った)

を作り、和平を論議し合っていたことなどを、私たちに話し、

漢口の国民政府内部にも和平派が漸次有力化しつつある可能性を示唆した。



私ら三人は、高君の話に少なからざる興味をもち、和平運動の前途に曙光を認めて、

大いに喜んだが、董君は、終始ことば少なく、うなずいていただけであった。

伊藤君が   「総論は解ったが、各論の具体化には、まず影佐書簡を漢口の何応欽と

張群とに届けることが、さしづめの懸案を断行することになるのではないか」  

と叫んだので、その実現方法をいろいろ論議することになった。



董君は単刀直入型であるから、書簡を何応鉄と張群とに手渡ししたら、

自分の責任を果したことになると主張したが、

深謀遠慮の高君は、この書簡を和平運動のために如何に有効的に使用するかのほうが

より大切だといって、譲らない。

董君は、何応鉄や張群は必ず蒋介石に見せるだろうといったが、



高君は、それでは、蒋介石にまでは届かない危険がある。

むしろ周仏海と相談して最善のアプローチを考えるべきだといって、董君に反対した。

二人の間が、いささか険悪になったので、西君は私の発言を促した。私は、

「高君は、蒋介石ら首脳に直言できるのだから、影佐書簡を活用して、

蒋介石を直接に口説くのが上策だと思う。董君も高君も、よく相談して欲しい」

というと、董も、しぶしぶ諒承した。



それで、だいたい会議の結論は出たことになった。

ホテルを出たのは、高君と私との二人であったので、タクシーに相乗りしながら、

「この次は、君が東京に行く番だよ」といって、別れた。》

中国軍の上海爆撃1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/04 18:45 投稿番号: [1563 / 2250]
中国は、昭和12年8月13日、上海攻撃を開始すると、

翌14日には、上海爆撃を行いました。

午前中は日本人居留区への爆撃が主ですから、基本的に蘇州河の北側です。

新聞によると



昭和12年8月15日   東京朝日(夕刊)


《〔上海特電十四日発〕   敵飛行機一機は十四日朝九時五十分頃、

陸戦隊の上空に現れたので、我が方の高射砲は一斉に砲撃を開始し、

敵機はいったん北方に逃げ去ったが、更に午前十時二十分、

敵機三機は新公園方面より現れて、陸戦隊本部目がけ盛んに爆弾を投下中、

これに対し我が黄浦江上の艦船は高射砲を以って応戦しつつあり。



英汽船会社碼頭   (マトウ)   に命中   〔上海十四日発同盟〕

支那爆撃機の投下した爆弾二個は英国人経営ジャーデン・マゼソン会社の

上海碼頭に命中、同会社の倉庫を粉砕し、同社勤務英人シー・ゼー・ヘッド氏は

負傷、支那人二名死亡、その他支那人の重軽傷者多数に上った。



邦人紡績工場も爆撃さる   〔上海十四日発同盟〕

敵機四台は十四日午前十時過ぎ、更に楊樹浦   (ヤンジッポ)   紡績工場地帯上空に現れ、

河岸にある日清汽船繋留船三隻の附近に爆弾を投下し、黄浦江上に盛んに水煙を立てている。



〔上海十四日発同盟〕   十時頃の支那爆撃機襲来により、楊樹浦にある公大紡   (鐘紡)、

裕豊紡   (東洋紡)   は数弾の爆弾を見舞われ、相当損害を受けた模様。



邦船の乗組員四名死傷す   〔上海十四日発同盟〕

呉淞   (ウースン)   河岸碇泊中の逓信   (ていしん)   省海底電線修理船

沖縄丸   (船員全部邦人)   よりの無電によれば、

午前十一時過ぎ、敵機四機襲来し、内一機は同船に向かって爆弾を投下し、

左舷の河岸で炸裂し、破片のため同船の水夫一名即死、

水夫一名、火夫一名、油差し一名、計三名負傷した。

同船は午前十一時抜錨、呉淞沖合に仮泊することとなった。》



とあります、しかし午後には、蘇州河南の白人が多い市街地も爆撃しました。

と言っても、北側の日本人地区への攻撃も続いていますけど。



注   碼頭   マトウ    埠頭に同じ


つづく

リパルスベイ・ホテルの会合2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/04 18:38 投稿番号: [1562 / 2250]
松本重治著   『上海時代・下』   中公新書
279〜281p


《 西君と私とは、こもごも   「それからの日本側の失敗は、僕らが話そう」   と

語り始めた。 その要点は次のとおりであった。


トラウトマンからの電報でディルクセンは、

十二月七日、広田外相の往訪を受け、外相に対し、

中国側は日本の条件を基礎として交渉に応ずる用意があるとのことを告げるとともに、

大使は錬達の外交官として、大事をとって、外相に対し、

「さきにお示しになった条件のままで話を進めてよいかどうかを、

いま一度はっきりうかがいたい」   といった。


蒋介石が交渉の前提条件としての停戦というものについてのヒットラーの介入を

希望した点については、大使は外相に対しとくに言及しなかったようであった。



広田外相はすぐ、四相会議において、首相、陸相、海相に、その話を伝えたところ、

いずれも異議なしということだった。   しかし、翌日、陸相は、外相を訪問して、

「ドイツの仲介を断りたい」   と、前言を翻して申し入れた。

これには外相も唖然としたが、反対もできなかった。

そのころから、南京の総攻撃が始まり、蒋介石もその直前八日に南京を飛行機で脱出して

漢口に逃げた、というニューズが入り、南京占領も数日中という時間の問題となり、

陸軍内部では和平反対の声が猛然として起ったためであった

(上村伸一著 『日本外交史』 第二十巻、一七九−一八七ページ参照)。



しかし、まだ和平交渉には脈があるとの見通しから、

十二月十四日の大本営・政府連絡会議では、

十一月二日に外相がディルクセンに提示したものにきわめて些細な

(青島紡績工場焼払いの損害を賠償せしめんとする) 損害賠償のみを附加した

大乗的な原案が提出され、石射東亜局長がその説明に当った。



ところが、末次・杉山・賀屋三大臣からは異論が続出し、

しかも、 「世を挙げて支那撃つべしの声」   に押されたのか、

近衛首相は、終始沈黙を続けた。


そのため、会議の結論としては、非常に苛重な条件となり、

中国側が容認できないものとなってしまった

(改悪された条件の詳細は、石射猪太郎著   『外交官の一生』

二六二−二六三ページおよび上村氏同上、一八七−一八九ページ参照)。



二十二日、ディルクセン大使は、外相からこの新条件を提示されて、

「これでは、まとまる見込みはない」   と嘆息したが、 「乗りかかった舟だから、

中国側に伝えよう。年内に回答を要求することは無理だから、

一月五、六日までに延してはどうか」   といったので、

外相はこれに応じたという話である。



つまり、日本政府や陸軍は、国民一般とともに、見栄ばかりの戦勝に酔って、

ドイツの日中調停を事実上蹴り、

あれだけ苛重な条件を中国側が受諾するものと誤って期待した。

また、すぐ受諾がないとしても、この戦争を押し切れば、また機会がある、

との期待があったようだ。

しかし、これは、あまりに中国のナショナリズムを無視したものであった。



*   ここでも悪いのは日本という前提で話が進められている。

   中国側の態度は不問にふされている。

   「否認将派代表赴南京與日方講和」

   (日本側との和平交渉のために代表を南京に派遣することは、認めない)

   という、中国側の和平拒否は、無視されている。



   条件の原文を見る限り、荷重でもなんでもない。

   中国側の意見は日本の条件が漠然として判らないというものだった。

   それは、詳細が明示されていなかったからだが。



つづく

シェノールト上海爆撃をさせる

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/03 18:50 投稿番号: [1561 / 2250]
アラン・アームストロング著   『幻の日本爆撃計画』   日本経済新聞出版社
33〜34p


《 盧溝橋で日中両軍が戦闘を開始したことを知ると、シェノールトは直ちに

中国航空問題委員会に電報を送って軍務に就くことを申し出たが、

もはや中国空軍を視察する軍事顧問に留まるつもりはなかった。

もし許されるなら、日中間に正式な宣戦布告がないために〝満州事変〟 と呼ばれる

状況発生の後、日本に対する航空作戦の指揮を執りたいと伝えたのだった。



そこで新しい役割が与えられ、シェノールトは江西省の省都、

南昌にある高等飛行訓練学校で戦闘訓練を担当するよう命じられた。

当時この訓練学校を指揮していた毛邦初は、その二年前に、シェノールトに

中国空軍の飛行教官として支援してほしいと要請した人物だった。

しかし、その時点では大佐にすぎなかった毛は、いまでは将軍に昇進しており、

中国空軍に対する彼の権力と影響力は、責任と共に増しつつあった。



一九三七年七月二三日、シェノールトと毛は中国空軍の臨戦態勢の現状について、

蒋介石総統に対して報告を行なった。内容は、日本の攻撃に抵抗するために

戦闘可能な航空機は二〇〇機足らずしかない、というものだった。

それを聞いた総統は激怒し、毛を銃殺刑にすると語気を荒らげた。

それらの航空機は、アメリカ、ドイツ、イタリアから調達したものの寄せ集めだったが、

ボーイングP−26戦闘機一〇機、ドイツ製ハインケル機六機、マーチンB−10爆撃機九機、

さらにサボイアーマルケッティ三発爆撃機六機などが含まれていた。



幸い、中国はウィリアム・ポーリーのCAMCO社から、カーティスP−36ホーク

戦闘機を多数購入していた。これらホーク2型機と3型機は、戦闘機としても

爆撃機としても使える頑丈な航空機だった。

そしてこれらの機が、中国東部上空で日本機を相手に展開される空中戦で

中国側が使用する、主たる兵器となるはずだった。



日本の攻撃が上海に及ぶと、シェノールトとビリー・マクドナルドは

八月一三日金曜日に、日本軍旗艦出雲に対する攻撃計画の立案を開始した。

中国空軍による空襲は、翌日敢行された。

だが、結果は惨憺たるものだった。

中国人パイロットは、自国の市民たちを爆撃する結果になってしまったが、

これは重く垂れ込めた雲の下まで降下することを余儀なくされ、

その事態が爆弾の軌跡に及ぼす影響を読めなかったために起こった惨事だった。



シェノールトはと言えば、爆撃現場の上空を飛んでいたが、

ユニオン・ジャックを掲げたイギリスの軍艦の砲撃を受ける始末だった。

だが、状況はほどなく改善した。

一二機の日本軍爆撃機が空母加賀から発進したときには、

編隊は、シェノールトが選んだ最も腕利きの中国人パイロットの集団によって

甚大な損害を蒙り、一二機中一一機が大破した。》



*   この本では、 「日本の攻撃が上海に及ぶと」   と書いてあるが、

   これは、著者が事実を知らず、日本が侵略したという、嘘に騙されている。

   実際は、中国軍が13日に、上海を攻撃し、租界警備の為に常駐していた、

   日本海軍陸戦隊が防戦しているにすぎない。

   日本陸軍の上陸はまだ先の事。


*   なお、この日は台風が来ていて、空母から艦載機の発・着艦はできなかった。

リパルスベイ・ホテルの会合1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/03 18:40 投稿番号: [1560 / 2250]
松本重治著   『上海時代・下』   中公新書
277〜279p


《 翌朝   (27日)、・・・お互いのひと通りの挨拶が済むと、すぐ本論に入り、

まず高君が漢口での中枢の考え方を、左のとおり説明した。


「十一月上旬、広田外相から日本の和平条件七項目をディルクセン

駐日ドイツ大使が接受し、ベルリンのヒットラーの諒承を得て、

トラウトマン駐華ドイツ大使が、王   (寵恵)   外交部長に日本の意向を伝えたが、

王部長は、蒋介石の意見として、


『中国は国際連盟に提訴してあり、九カ国条約の関係国がブリュッセルで会議中なので、

その結果を見るまでは、日本の条件を考出すべきではない』   との返事をした。

ところがブリュッセル会議の結果は、蒋介石にとっては少なからざる失望となった。



一カ月の時間を空費したことによって、

中国側は、戦況が交渉のためますます不利になったことに気づいた。

トラウトマンは、漢口にて、十一月二十八日孔   (祥煕)   行政院長を、

翌二十九日には王外交部長を訪問し、日本の和平条件を中心に、会談を遂げた。

しかし、蒋介石は当時なお南京に防戦の指揮をとっていたので、トラウトマンは

徐   (謨)   外交部次長を伴って南京に行き、十二月二日に蒋介石と会見した。



それに先だち、徐外交部次長は、ドイツ大使の話を蒋介石に説明したところ、

蒋介石は、すぐ在京の将領たち、顧祝同、白崇禧、唐生智、徐永昌を召集し、

徐次長からドイツを仲介とする日本の和平提案を説明させたが、

白は、 『これだけの条件だとすれば、何のため戦争をしているのか』   とさえいった。

顧は、受諾すべしと述べ、唐も、各人が賛成ならば、異議なしと答えた。



その将領会議が済むと、すぐ午後五時、蒋介石・トラウトマンの会談になった。

蒋は、 『日本は信用できない。しかし、ドイツが終始調停者であるとの条件ならば、

日本の七条件を談判の基礎とすることはよい。

だが、華北の行政主権はどこまでも維持されねばならない。

それで、戦争がこのように激しく行われている最中に、

調停などは成功するはずがないから、ドイツが日本に向って、

まず停戦を行うよう慫慂   (しょうよう)   することを希望する』   と述べた。



ト大使は、 『蒋委員長の意向はドイツ政府に伝達することをお約束するが、

もしドイツが日中調停を諒承し、かつ日本も欲するならば、ヒットラー総統から、

中日双方に対しまず停戦すべきことを提唱することもできる』   と答えた。

なお将委員長は、 『もしも日本が日本を戦勝国と考えたり、

日本の条件を中国側がすでに承認したなどと宣伝したりすれば、

談判はできなくなりますよ』   と釘を刺した。

しかしト大使は徐次長に対し、

『今日の会見には希望がもてる』   ともらしたとのことであった。



ついで、汪兆銘は蒋の指示に基き、十二月六日、漢口の中央銀行において、

国防最高会議第五十四次常務委員会を開いた。

会議は徐次長の詳細な報告を聞いたのち、いろいろ意見は出たが、

蒋委員長が提出した条件を附けたうえ、徐次長の報告を承認、議決した。

この会議を主宰したのは、

汪最高国防委員会副主席が蒋主席に代ってやったものであった。



このように諸君に報告するのは、中国側では、トラウトマン大使が取り次いだ

広田外相の和平条件を、だいたいにおいて、受諾するという

和平的方向にあったことを同志諸君に解ってもらいたいためであった。

もう少し日本が忍耐してくれれば、両国は、和平の門口にまで行ったのであった。》



*   『これだけの条件だとすれば、何のため戦争か』   と言うほどの好条件を蹴って

   戦争を続けていながら、 「もう少し日本が忍耐してくれれば」   とは

   何たる言いぐさだろうか。

   中国は何しても許されるのか?

   日本は、何しても悪く言われるのか?


つづく
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