竹島
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Re: 舩杉氏への批判?1(訂正)
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2007/07/08 21:14 投稿番号: [15640 / 18519]
「大日本全國略圖」→勝海舟「大日本国沿海略図」の間違いです。
誤:竹島・松島の位置が「大日本府県分轄図」と「大日本全國略圖」をはじめとする政府関連機関の地図と、完全に、あるいはほぼ一致することはあくまで偶然であり、位置情報が相当に異なる「磯竹島略図」こそが「大日本府県分轄図」の基になっているということのようです。
正:竹島・松島の位置が「大日本府県分轄図」と勝海舟「大日本国沿海略図」をはじめとする政府関連機関の地図と、完全に、あるいはほぼ一致することはあくまで偶然であり、位置情報が相当に異なる「磯竹島略図」こそが「大日本府県分轄図」の基になっているということのようです。
これは メッセージ 15639 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
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Re: 舩杉氏への批判?1
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2007/07/08 21:02 投稿番号: [15639 / 18519]
そうですね。私の意見と一致するということはないでしょうが、ともあれ半月城さんもどうやらリアンクール岩の地理認識で太政官が版図外としたという理解はしていないようにも見えますね。
ともあれ、この部分については、以前に、14664, 14826あたりですでに論議したことがあるものです。
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明治政府は「版図の取捨は重大之事件」との緊張感を持って竹島、松島を版図外にしました。それを ahirutousagi2さんは「その地理的な位置理解は、いわゆるアルゴノートとダジュレーに該当」と決めつけていますが、それでは明治政府の官僚をあまりにも見くびりすぎるのではないでしょうか。かれらはそれほど無能ではないと思います。
(14664)
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つまり、半月城さんの理解はアルゴノート・ダジュレー島と見まがうほど彼らは無能ではない、というものでした。で、
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その十年前の1867年、勝海舟の「大日本國沿海略圖」ですら、アルゴノートに相当する「竹島」は島の輪郭の半分が点線で書かれました。これを「疑存」の島というのでしょうか。勝海舟すら島の存在を半分疑問視していたようです。
ahirutousagi2さんは、そんな地図を主張の柱にすえ、内務省の地理局はそうした疑存の島の位置情報を信じたと考えるのでしょうか?
たとえ、内務省が作成した「大日本全國略圖」の島の位置が勝海舟の地図に似ていたとしても、それは単なる偶然の一致にすぎません。
(14826)
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竹島・松島の位置が「大日本府県分轄図」と「大日本全國略圖」をはじめとする政府関連機関の地図と、完全に、あるいはほぼ一致することはあくまで偶然であり、位置情報が相当に異なる「磯竹島略図」こそが「大日本府県分轄図」の基になっているということのようです。
正直、いずれにしても私にはどうでもいいようにも思えてきています。半月城さんまで認めているように、松島は鬱陵島の位置で考えられていたということだけが確認できればそれでいいのです。
そして、竹島・松島の版図外との判断は確かにあったけれども、リアンクール岩=松島としての理解から版図外にされたことは、少なくとも資料上確認できないということで充分のように思います。
私は、明治政府は、リアンクール岩は無主地としての、岩礁のごときものに過ぎないと考えていたと思っています。
これは メッセージ 15638 (take_8591 さん)への返信です.
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Re: 舩杉氏への批判?1
投稿者: take_8591 投稿日時: 2007/07/07 23:27 投稿番号: [15638 / 18519]
次の舩杉氏の見解が[No.15629]に示されています。
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明治初期における日本政府の地理的認識は、地図の分析から、竹島はアルゴノート島(実在しない島)、松島はダジュレー島(鬱陵島)にあったと考えるのが妥当であり、いわゆる「外一島」が現在の竹島を指していたかどうかは極めて疑わしいといえる(P155)。
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又、半月城さんの見解が[No.15630]に示されています。
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「磯竹島略図」に両島などの位置関係がこう記されました(注3)。
隠岐と松島間;
隠岐 島後の福浦より松島を隔てる北東80里(320km)ばかり
松島と竹島間;
松島より磯竹島を隔てる北東40里(160km)ばかり
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然即、磯竹島略図に隠岐から320km離れていると記されている「松島」は、157km離れているリャンコ島と捉えるよりも、245km離れているダジュレー島と捉える方が妥当であり、いわゆる「外一島」が現在の竹島を指していないことは明らかである。
と、半月城さんがその主張を変更したことの表明であると考えられます。
この半月城さんの新しい見解は、ahirutousagi2さんの見解と一致し、日本の竹島固有領土説に何らの瑕疵がないことを表明したものと認められます。
私の様な初心者は、どうしても、この様に捉えますね。
これは メッセージ 15637 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
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Re: 舩杉氏への批判?1
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2007/07/07 22:54 投稿番号: [15637 / 18519]
その通りなんですけど、半月城さんはそもそも独島=韓国領ということが出発点ですから、資料の整合性とかはあまり考えていらっしゃらないようですね。
単純な話なのですが…。
半月城説:「大日本府県分轄図」は「磯竹島略図」を基にして描かれた。
アヒル説:「大日本府県分轄図」はアルゴノート・ダジュレー島の位置に完全に一致する(他の政府機関の地図と関連する)。
それだけの話。これが半月城さんは、認められないようです。いや、認めているのでしょうが(認められないはずはない。地図でそうなっているのですから)、「たまたま」だとのお話でした。
どう見ても、「大日本府県分轄図」は「磯竹島略図」と、相当ずれているんですけどね…。まぁ、「大日本府県分轄図」がアルゴノート・ダジュレー島の認識を反映していると考えると、都合が悪いのでしょう。
これは メッセージ 15636 (henchin_pokoider01 さん)への返信です.
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Re: 舩杉氏への批判?1
投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2007/07/07 20:10 投稿番号: [15636 / 18519]
これは メッセージ 15634 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
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舩杉氏への批判?2
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2007/07/05 17:11 投稿番号: [15635 / 18519]
第二に、「数ある地図の中で松島と竹島の位置情報が詳細に記されている地図は磯竹島略図くらいしかないので、内務省はそれを参考にしたようです」というのもどうでしょうか。上記、勝海舟「大日本国沿海略図」一つをとっても、大変に詳細に記されているもので、他の地図を無視して「磯竹島略図」だけが詳細であるというのは理解に苦しみます。
もとより半月城さんは「大日本府県分轄図」において竹島・松島がアルゴノート・ダジュレーの位置に描かれたことは「たまたま」だと仰っていました。その「偶然の一致」の後付けをするためには、他の地図を無視してかなりのずれがある「磯竹島略図」に依存するしかないのかもしれません。
また、そもそも半月城さんの言うとおり太政官が竹島・松島を「磯竹島略図」の位置で考えたとして、その反映が地理局の「大日本府県分轄図」のアルゴノート・ダジュレーに一致する地理認識でうかがわれるとすると、いずれにしても、太政官の判断は「鬱稜島の位置にある松島までを放棄した」という結果に落ち着きそうです。
あるいは、そもそも、1880年には、松島=鬱稜島と確定しているわけで、そこに全てが収斂されているとも言えるでしょう。
以前にも私は何度も書いていますが、太政官は確かに竹島・松島を版図外としたけれども、そこに正確な地理的な理解は伴っておらず、結局、地理的には、具体的には朝鮮から鬱稜島までの島を版図外とした、ということができると思います。
そこに伝統的な竹島・松島の理解が反映されている以上、いささかの混乱は見受けられますが、いずれにしても、結論は松島=鬱稜島として、太政官判断後にすぐに定着することになった次第であったわけです。
これは メッセージ 15634 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
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舩杉氏への批判?1
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2007/07/05 17:07 投稿番号: [15634 / 18519]
私は全く知らなかったのですが、舩杉氏が私がここでずっと展開してきた説明と全く同じ立場であるとは驚きました。やはり、普通に考えれば、そうなのだろうと確信を深めた次第です。
>しかしながら、これらの地図は「日本政府」の地理的認識を知るには大半が二次的な意味しか持ちません。文部省や陸軍などが竹島=独島に関していかなる認識を持とうとも、それは政府部内の一機関の認識にすぎず、地理や領土問題の担当外である政府機関の認識は決して日本政府の公式見解にはなりえません。
二次的な資料であっても、複数の政府機関から発行された地図が、当時の日本政府の理解を考える、それなりの手がかりになることに疑いはありません。
当時の複数の政府機関から発行された地図で、いずれも竹島・松島の認識がアルゴノート・ダジュレーにあったことは注目すべきであり、逆に松島をリアンクール岩とした理解を見ることができないことに気をつける必要があります。
もちろん地理局発行の地図が何より重視されることは言うまでもありません。当たり前のことです。ですから「大日本府県分轄図」(1881)の竹島・松島がアルゴノート・ダジュレーの位置で記されていることも大変に重要なものです。
一方、「大日本府県管轄図」(1879)と「大日本国全図」(1880)で、竹島・松島が記されていないことも何の不思議もありません。仰るとおり、竹島・松島は日本とは関係のない土地とされたわけで記す必要はないものです。
では、なぜ「大日本府県分轄図」(1881)では竹島・松島が記されたか。私は無主地としての提示であったと理解しています。さらなる検討は必要ですが、少なくとも「朝鮮領」として記されたようには見えません。
さて、半月城さんのご意見に、次のような記述があります。
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このふたつの地図(「大日本府県分轄図」?と「磯竹島略図」:引用者注)を並べると、竹島と松島の位置が似かよっていることに気づくはずです。それもその筈です。数ある地図の中で松島と竹島の位置情報が詳細に記されている地図は「磯竹島略図」くらいしかないので、内務省はそれを参考にしたようです。「磯竹島略図」に両島などの位置関係がこう記されました(注3)。
隠岐と松島間;
隠岐 島後の福浦より松島を隔てる北東[北西の誤り:引用者]80里(320km)ばかり
松島と竹島間;
松島より磯竹島を隔てる北東[北西の誤り:引用者]40里(160km)ばかり
竹島と朝鮮間:
磯竹島より朝鮮国を遠望する西北西に当り、海上およそ50里(200km)ばかり
この距離や方向にもとづいて「大日本府県分轄図」に竹島と松島が描かれたようです。その結果、両島の位置は朝鮮寄りになりました。
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これは、ごり押しというか、牽強付会というか、そういう類のものであるといわなければなりません。
第一に、「大日本府県分轄図」は鬱稜島の部分に松島が描かれていますが、隠岐から鬱稜島までは245kmです。経緯度までもが記された地図において、上記の説明の誤差は大きすぎるものです。
さらに、よく見てみると「大日本府県分轄図」では松島・竹島は、厳密には北西の位置にはありません。むしろ、西北西に近いものです。この距離や方向に基づいて「大日本府県分轄図」が描かれたという主張は、かなり無理があるとすべきでしょう。相当のこじ付けが必要です。
むしろ「大日本府県分轄図」の竹島・松島が、アルゴノート・ダジュレーと位置が完全に一致していることをそのまま認めれば何の問題もないことです。
たとえば、1867年
勝海舟「大日本国沿海略図」
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/great-japan.htmlで、「大日本府県分轄図」と全く同じ位置に竹島・松島が描かれていることが確認できます(それぞれ経緯度の単位が違うので注意)。こちらとの関係や、その他の政府機関の地図と一致することを考えたほうが妥当です。
「大日本府県分轄図」と「磯竹島略図」には、かなりのずれがあります。しかし「大日本府県分轄図」と「大日本国沿海略図」に見られるアルゴノート・ダジュレーの位置は完全に一致しています。
どちらが正しい主張であるかは、地図を一目見れば分かることです。
これは メッセージ 15630 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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Re: 竹島
投稿者: torezojp 投稿日時: 2007/07/04 21:02 投稿番号: [15633 / 18519]
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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島根県の最終報告書、舩杉氏への批判4
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/07/01 22:42 投稿番号: [15632 / 18519]
これは メッセージ 15631 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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島根県の最終報告書、舩杉氏への批判3
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/07/01 22:40 投稿番号: [15631 / 18519]
陸上の里と区別するために、海里は「浬」と書かれることは周知のとおりです。ただ、明治初期には里が海里を意味したこともありました。しかし、奥原は140海里(259km)と70里をほぼ同じ距離にみていたので、70里は280kmになります。
これについては、なお人文地理学(歴史地理学)専門家のご意見を待ちたいと思いますが、それにより舩杉氏の信頼性や権威がどうなるか興味津々です。
話が多少わきにそれましたが、結論として、明治初期、国境画定部署であった内務省の認識、ひいては日本政府の公的な認識は、一貫して竹島と松島を日本の版図外とするものであり、両島の地理的理解は江戸時代の絵図から作成された「磯竹島略図」の空間認識を引き継いだものでした。
これは当然です。内務省は慎重に島根県の伺い書に書かれた竹島、松島の記述や「磯竹島略図」にもとづいて「重大事」を判断したのですから、同図の空間認識を引き継いだことはいうまでもありません。
他方、舩杉氏は「磯竹島略図」についてこう記しました。
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上記「磯竹島略図」の解釈についてであるが、以下のことが指摘できる。
①一連の文書では竹島外一島は日本領ではないとは書いてあるが、現在の竹島が朝鮮領であるとは書かれていない。現在の独島を韓国領であると日本政府が認めたという解釈は明らかに間違っている。日本領ではないと規定しただけである。朝鮮領であると証明するには、朝鮮側の史料で、朝鮮王朝が島を実効支配していた根拠を提示しなければならない(P155)。
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舩杉氏がここにいう「竹島外一島」が竹島と松島を指すのかどうか、かならずしも明確ではないようですが、ここではそれを「磯竹島略図」に描かれた竹島と松島、すなわち欝陵島と竹島=独島であるという理解で議論を進めることにします。
たしかに「公文録」や「磯竹島略図」には、現在の竹島=独島が朝鮮領とは記されていません。しかし、同省が竹島、松島を日本の版図外と判断するにあたり、元禄時代になされた朝鮮との外交交渉の記録を精査し、その時に日本が朝鮮国の竹島(欝陵島)領有権を認めた交渉結果をそのまま受けいれました。これは暗に内務省が竹島外一島を朝鮮領と認めたことを意味するのではないでしょうか。
また、舩杉氏は「朝鮮領であると証明するには、朝鮮側の史料で、朝鮮王朝が島を実効支配していた根拠を提示しなければならない」として、話を国際法へ飛躍させていますが、この主張は日本政府の主張にすら反するのではないでしょうか。国際法の専門家である芹田健太郎氏はこう記しました。
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日本の主張は、開国以前の日本には国際法の適用はないので、当時にあっては、実際に日本で日本の領土と考え、日本の領土として扱い、他国がそれを争わなければ、それで領有するには充分であった、と認められる、というものである(注5)。
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この論理を朝鮮にあてはめるとどうなるでしょうか。太政官の版図外指令当時、朝鮮はやっと開国が緒についたばかりで、国際法で領土を云々するような時代ではありませんでした。その一方、当時の朝鮮では官撰史書の『萬機要覧』(1808)などでたびたび「欝陵 于山は皆 于山国の地 于山はすなわち倭がいうところの松島なり」と認識し、日本でもそれを争いませんでした。それどころか、日本では太政官が松島(竹島=独島)を朝鮮領と認識していました。朝鮮の竹島=独島領有根拠は、当時としては充分ではないでしょうか。
これは メッセージ 15630 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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島根県の最終報告書、舩杉氏への批判2
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/07/01 22:21 投稿番号: [15630 / 18519]
明治前期における日本政府の公的認識はあくまでもこの三つの資料を中心に論じるべきです。まず、(1)「大日本府県管轄図」ですが、ここに松島と竹島は掲載されませんでした。この地図作成の二年前、内務省は島根県から提出された伺い書にある「竹島外一島」すなわち竹島と松島を日本の版図外と判断し、しかも「版図ノ取捨ハ重大之事件」との認識をもち、念のために最高国家機関である太政官から公的な版図外指令をえました。そうした経緯からすると、日本の版図を示す同省の地図に竹島(欝陵島)と松島(竹島=独島)が描かれないのは当然です。
同様に(2)「大日本国全図」も両島を記述しませんでした。問題は(3)「大日本府県分轄図」です。これについて舩杉氏は「大日本府県分轄図は松島を山陰道として彩色している」と報告書に記しましたが、前記の書籍は白黒写真のため、カラーは確認できませんでした。いずれ彩色の具合を確認したいと思いますが、国会図書館の「近代デジタルアーカイブ」でも色は確認できませんでした(注2)。
舩杉氏は、報告書において地理担当外部署の地図を大きく掲載しましたが、かんじんな地理局の「大日本分轄図」や、焦点の「磯竹島略図」はなぜか掲載しませんでした。同氏は「磯竹島略図」を伝えた中央日報の記事を「重要な史料」と紹介しながら、核心の「磯竹島略図」を掲載しないのは理解に苦しみます。両図は日本にとって好ましい地図でないだけに、資料の取捨にバイアスがかかっているといったら言い過ぎでしょうか。
このふたつの地図を並べると、竹島と松島の位置が似かよっていることに気づくはずです。それもその筈です。数ある地図の中で松島と竹島の位置情報が詳細に記されている地図は「磯竹島略図」くらいしかないので、内務省はそれを参考にしたようです。「磯竹島略図」に両島などの位置関係がこう記されました(注3)。
隠岐と松島間;
隠岐 島後の福浦より松島を隔てる北東80里(320km)ばかり
松島と竹島間;
松島より磯竹島を隔てる北東40里(160km)ばかり
竹島と朝鮮間:
磯竹島より朝鮮国を遠望する西北西に当り、海上およそ50里(200km)ばかり
この距離や方向にもとづいて「大日本府県分轄図」に竹島と松島が描かれたようです。その結果、両島の位置は朝鮮寄りになりました。なお、「大日本府県分轄図」に竹島と松島が描かれたといっても、各府県の管轄図に描かれたのではなく、「朝鮮」や「魯西亜領 満州」を含む極東図である「大日本全国略圖」だけに両島が描かれました。したがって、着色は別途確認するとして、モノクロ図で見るかぎり両島を日本領とみるのは困難です。ましてや、いずれかの府県に所属するものでもありません。
ところで、これらの地図に書かれた松島と竹島間の距離40里(160km)ですが、舩杉氏は40里を下記のように72kmとしているのは注目されます。
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一連の絵図では、両島(竹島と松島、半月城注)の距離はたいてい40里と描かれている。これは海里であり、約72kmである。むしろ日本の絵図の方が実際の距離(92km)に近いといえる(P128)。
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この一節には驚きました。絵図の時代には、経緯度の1分に相当する海里(1852m)の単位は西洋からまだ導入されていなかったはずですが、人文地理学(歴史地理学)の専門家が自信たっぷりにおっしゃるので、念のために江戸時代の「里」について調べることにします。
1801(享和元)年に書かれた矢田高当『長生竹島記』にこんな記述がありました。
「隠岐島後より松島ハ方角申酉の沖に当る卯方より吹出す風二日二夜〓り 道法三十六丁一里として海上行程百七十里程」
矢田は36丁を1里としていますが、1丁(町)は約109mであり、1里は約4kmになります。これは、明治の人もそのように理解しました。たとえば、奥原碧雲はこう記しました。
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隠岐の西北七十余里にして竹島ありと見ゆるは、まさしく欝陵島にあたり、水路誌に見えたる海上百四十浬に殆ど符合す(注4)
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(つづく)
これは メッセージ 15629 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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島根県の最終報告書、舩杉氏への批判1
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/07/01 22:20 投稿番号: [15629 / 18519]
半月城です。
前回、紹介したように、島根県 竹島問題研究会の下條正男座長は最終報告書において、明治政府の『公文録』付属の地図「磯竹島略図」に書かれた磯竹島(竹島)を現在の欝陵島、松島を竹島=独島と認めました。そのうえで『公文録』本文に書かれた竹島も松島も共に現在の欝陵島であり、竹島=独島ではないと強弁しました。
一方、同研究会で人文地理学(歴史地理学)が専門の舩杉力修委員は、こうした下條説を踏襲しているのかどうか、あまりはっきりしないのですが、『公文録』に書かれた「外一島」は現在の竹島=独島かどうかの断定を避けて、懐疑的にこう記しました。
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明治初期における日本政府の地理的認識は、地図の分析から、竹島はアルゴノート島(実在しない島)、松島はダジュレー島(鬱陵島)にあったと考えるのが妥当であり、いわゆる「外一島」が現在の竹島を指していたかどうかは極めて疑わしいといえる(P155)。
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舩杉氏は、このような疑問をもった背景説明として太政官の版図外指令のあった明治10(1877)年前後に描かれた日本政府の下記の地図を引用しました。
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(1)1875年(明治8)陸軍参謀局「朝鮮全図」【図3−15】。
(2)1875年(明治8)陸軍参謀局「亜細亜東部輿地図」【図3−16】。
(3)1876年(明治9)海軍省水路局、海図「朝鮮東海岸図」。
(4)1877年(明治10)文部省「日本全図」。
(5)1881年(明治14)内務省地理局「大日本府県分轄図」(全図)。
(6)1882年(明治15)内務省地理局「朝鮮全図」【図3−17】。
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しかしながら、これらの地図は「日本政府」の地理的認識を知るには大半が二次的な意味しか持ちません。文部省や陸軍などが竹島=独島に関していかなる認識を持とうとも、それは政府部内の一機関の認識にすぎず、地理や領土問題の担当外である政府機関の認識は決して日本政府の公式見解にはなりえません。
日本政府の公式見解は、1877年ころなら国境画定の役割をもった内務省、および最終的に太政官が示すことができました。時代がくだると、国境画定機関は、やがて海軍省から独立した水路部がになうようになりますが、太政官が「竹島外一島」を版図外とした当時は内務省の地理局が担当機関であり、その部署で公的な日本地図や地誌が作成されました。
さて、政府の日本領土に関する公的な認識を知るうえにおいて、上記(6)の「朝鮮全図」も参考程度にしかなりません。当時は、日本の地理局が朝鮮領土をすべて正確に認識するのは望むべくもありませんでした。この地図も除外されるとなると、上記で残るのは地理局の(5)「大日本府県分轄図」のみになります。
といっても、領土に関する日本政府の公的認識を知るには、上記の(5)だけでは充分ではありません。舩杉氏は、なぜか地理局発行の他の地図を引用せず、地理担当部署と雑多な機関の地図とを峻別せず、ミソもクソもいっしょくたにしましたが、地理局発行の地図はすべて重要です。
上記以外に地理局からどのような地図が発行されたのか、これは書籍『明治前期 内務省地理局作成地図集成』から容易に知ることができます(注1)。関連する地図は下記のとおりですが、いずれも経緯度が記入されました。
1.明治12年(1879)大日本府県管轄図/地理局測量課
2.明治13年(1880)大日本国全図/地理局地誌課
3.明治14年(1881)大日本府県分轄図/地理局地誌課
(つづく)
これは メッセージ 15622 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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Re: 木村蒹葭堂「華夷一覧図」の松島竹島
投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2007/06/28 22:16 投稿番号: [15628 / 18519]
字数超過で最後が切れてしまったので、
「松島」と思しき島を「梅島」と書いているのは興味があります。「梅島」については本掲示板で初めの頃、議論がありました(Nos.541, 543, 546)。近藤正齋が「梅島」と書いた真意は分りません。活字化された『邊要分界圖考』(國書刊行会, 1905)の「今所考定分界之圖」では「マツシマ」「タケシマ」となっています。ただし、「岩瀬文庫」蔵の同図では、二島は地名が無く、ヲキノシマや日本と同様に青く彩られ、朝鮮の黄色とは明かに異なります。後の人が彩色し、「松島竹島」を書き入れたのかもしれません。
これは メッセージ 15627 (ararenotomo さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/15628.html
木村蒹葭堂「華夷一覧図」の松島竹島
投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2007/06/28 22:10 投稿番号: [15627 / 18519]
有坂道子氏は「木村蒹葭堂と地図」(藤井譲治・杉山正明・金田章裕編『大地の肖像』京都大学学術出版会, 2007)で、蒹葭堂作成の「華夷一覧図」という「大清」を中心とする東半球図を紹介しています。蒹葭堂はこの図に、隠岐西北にほぼ同じ大きさで「松シマ」と「竹シマ」を描き、「日本」と同じ朱に彩色しました。
この地図は、大日本(本州)・四国・九州と蝦夷の四島の外郭を朱で縁取り、松シマ・竹シマの他、オキ(地名なし)・イキ・ツシマ・琉球諸島・伊豆諸島・無人島一名小笠原島・タ(ク)ナシリ・エトロフ等の小島を朱に彩っています。さらに、東北・関東沖とマリア島(マリアナ諸島)東方の島々も朱色です。しかし、蝦夷北方の大陸から半島状に延びたカラフトと、サカリイン(サハリン)島、及びウルフ(ウルップ)以北の千島列島は彩色されず、蒹葭堂の懐く「日本」の範囲がよく分ります。
木村蒹葭堂は長久保赤水と親しく「改正日本輿地路程全圖」の出版に尽力しましたから、「華夷一覧図」の「松島竹島」は赤水の図を参考にしたのでしょう。しかし、安永8(1779)年刊行の「改正日本輿地路程全圖」は、「松島竹島」を彩色せず、当時の赤水には「松島竹島」が隠岐國に属するという認識はありませんでした(Nos.14969, 15599)。
木村蒹葭堂が、寛政期(1790年代)作成と推定される「華夷一覧図」で、「松島竹島」を「日本」とした理由は不明ですが、17世紀の「竹島渡海」の事跡と、渡海を禁止した「竹島一件」の決着は、山陰地方以外でもかなり広く知られていたようです。
元禄3(1690)年大坂で出版された南宗庵『残太平記』は、「五十猛嶋」を鬼界嶋・八丈嶋・夷嶋・三嶋(長門國)と同様な遠島とし、産物について「此嶋ニ多キ物ハ蚫栄螺辛螺アシカ磯ノ石ヨリ多シ」と正確に記述しました。これは大西俊輝氏によって紹介され(『日本海と竹島』東洋出版, 2003)、早稲田大学図書館からネットで公開されています。
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he13/he13_02071/index.html伊藤東涯の『盍簪録』は、磯竹島について「因州有大屋・村河二豪民、其先嘗受官符驗、間年到島、採鰒魚海物等而歸、近爲朝鮮邊氓所占、不復得到。聞因州人言、其島多巨竹、又有猫、與此間所有者稍異。」と記しましたが、東涯の門弟で大岡忠相に重用された青木昆陽は、『草盧雜談』(1738)で「憲廟の御時、朝鮮より朝鮮の島のよしを申上ければ、竹島を朝鮮へ與へ給ふとかや、憲廟の御仁政にて與へ給ふと雖ども、地は少の所も惜むべきことなれば有司の過ちならんか。」と、竹島を朝鮮に与えたのは過ちとの見解を示しました。木村蒹葭堂と親交のあった山岡浚明の百科全書『類聚名物考』の「竹島」項は『盍簪録』や『草盧雜談』を引用しております。18世紀後半の噂話を集めた津村淙庵『譚海』は「竹島一件」決着の内情に触れています。「公儀より御尋ありしは、其島へ漁人往來致し、あはびとらされば渡世の妨にも相成事にやと有しに、さのみ漁獵のためには此島へ往來仕らずとも、渡世の妨には相ならざるよし申上ければ、然らば彼島此まで日本の領分といふ急度したる事もなきゆゑ、其まゝにさし置べきよし御下知ありて、事止たりとかや。」
このように巷間でも竹島は朝鮮に譲った島との見方が一般的だったようです。しかし、本草学者・物産家としての蒹葭堂には、「竹島渡海」で豊富な物産を日本へ持ち帰った事跡だけが強く印象に残り、「松島竹島」を日本のものとしたのかもしれません。
蒹葭堂から多くの地理情報を得ていた長久保赤水は、『唐土歴代州郡沿革地図』(1790)の「亜細亜小東洋圖」で「松シマ」「竹シマ」をヲキや日本と同じ赤褐色に彩り、
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/sumita/5C-121/lime/5C-121_16.html 『大日本史地理志稿』「隠岐」に「別有松島竹島屬之」と書いたとも考えられます(No.15609)。
一方、幕府は「松島竹島」を朝鮮領と認めていました。近藤正齋『邊要分界圖考』(1804)は次のように記しています。「松前ヨリ西ニ航スレバ西ノ方ニ地方アリト見ユ必西ヨリ吹返シノ風出ルソノ風ニテ朝鮮ノ梅島竹島ヲ指テノルヲ大廻シト云フ。」
「松島」と思しき島を「梅島」と書いているのは興味があります。「梅島」については本掲示板で初めの頃、議論がありました(Nos.541, 543, 546)。近藤正齋が「梅島」と書いた真意は分りません。活字化された『邊要分界圖考』(國書刊行会, 1905)の「今所考定分界之圖」では「マツシマ」「タケシマ」となっています。ただし、「岩瀬文庫」蔵の同図では、二島は地名が無く、\xA5
これは メッセージ 15609 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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Re: フォトしまねNo.161の疑問点
投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2007/06/27 12:11 投稿番号: [15626 / 18519]
土地調査事業報告書の別冊として発行された「朝鮮地誌資料(臨時土地調査
局編纂)1918年」でも、「島嶼ヲ含ム」朝鮮半島の極東は130度56分23秒の慶
尚北道鬱稜島竹「島」。グーグルアースででも竹嶼や鬱稜島の経度を確認するこったな。
ちなみに、慶尚北道に含まれる島嶼は「鬱稜島」「竹島」「観音島」の3島
をリストアップ。内「竹島」の面積は、0.016方里、最高地点の標高は105m。
(韓国のサイトでは、現竹嶼の標高を106mとしている)
経度が明記されていても信じないのであれば、判断できないんじゃなくて、
判断したくないだけだな。
これは メッセージ 15625 (Am_I_AHO_1st さん)への返信です.
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フォトしまねNo.161の疑問点
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2007/06/25 19:19 投稿番号: [15625 / 18519]
「フォトしまねNo.161」
http://www.pref.shimane.lg.jp/kochokoho/photo/161/05.html
上記をざっと読んだところ、どうにも引っかかる箇所があったので記録します。
>「朝鮮現勢便覧(1935年版)」などでは、領土の東限は「慶尚北道鬱陵島竹島」とし、位置は「東経130度56分」とされた。
「朝鮮現勢便覧」は当時の朝鮮総督府が発行していたものですが、日本統治時代には鬱陵島の東側2Kmほどに在る竹島は「竹嶼」と呼称されており、「竹島」の呼称が復活するのは独立後の筈と思っていました。(『韓国水産誌』他)
それまでは、鬱陵島の近海で竹島と云えば現在の獨島のことであり、日本統治時代以前の竹島は紛らわしいため竹嶼の呼称が与えられていました。
やはり「朝鮮現勢便覧(1935年版)」の原本を見ないと何とも判断できませんが、領土の範囲に無人の岩礁等を含めないのは他の史料でも前例のあることなので有り得る話とも思われ、「フォトしまねNo.161」の記述だけでは何とも判断がつきかねます。
また崔南善の「朝鮮常識問答(初版)」も同書を引用したのならば、同様の疑問が湧くことになるでしょうけれども、これがマッカーサーライン(フォトしまねでは平和線=李承晩ライン)の根拠になったのだとすれば、当時の人々は或いは素直に「慶尚北道鬱陵島竹島」と書かれれば直ちに現在の獨島と解釈したのかもしれませんし、また、違うのかもしれません。
いずれにせよ、「朝鮮現勢便覧」を見てみたいものです。
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島根県の最終報告書、下條氏への批判3
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/06/24 22:42 投稿番号: [15624 / 18519]
この史料で大谷家が漂着したのはまぎれもなく竹島(欝陵島)とされました。さらに、大谷家が松島へ渡海を申し出たのは上記に書かれた1617年ではなく、1650年代だったことが大谷家文書「幕府巡検使に対する請書」から知られており、上記の文脈に合いません。
このように、うえの文章における「永禄年間」以降の説明は松島ではなく、竹島に終始しているのであり、したがって「この地」は松島ではあり得ません。さらに、下條氏は「現在の竹島については何も書かれていない」と記しましたが、上記「由来の概略」には松島について島の大きさや位置、産物などが間違いなく書かれています。それを再掲します。
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次に一島あり。松島と呼ぶ。周囲30町(3.3km)である。竹島と同じ船路にある。隠岐をへだてる80里(320km)ばかりである。樹木や竹は稀である。また、魚や獣(アシカか)を産する。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
この文章は、大谷家文書などをもとにして島根県によって書かれただけに、松島が今日の竹島=独島をさすことは疑いありません。また、この記述は、島根県が同時に提出した磯竹島略図に書かれた位置や大きさに合致することはいうまでもありません。これを今日の竹島=独島ではないとする下條氏の新説は、すこし我田引水が過ぎるようです。
結局、下條氏の論証は成り立たないので、(3)の「太政官のいう「竹島他一島」は二つの鬱陵島である」という結論が誤りなのはいうまでもありません。『フォトしまね』の重大な記述を変えるのに、何とも杜撰な論証といわざるを得ません。変説は、もっときちんとした論証を行ってからにすべきです。
それでも下條氏が、公文録付属の磯竹島略図に書かれた松島を今日の竹島=独島であると認めたのは一歩前進ではないでしょうか。ま、昨年6月、漆崎氏に協力していただき、私が磯竹島略図を初公開した甲斐はりました。
それにしても、焦点になっている重要な磯竹島略図を最終報告書に掲載しなかったのはなぜでしょうか?
島根県に不利な史料で一部の読者を動揺させないためでしょうか?
この磯竹島略図に関連して、舩杉力修氏が最終報告書でコメントを書いていますが、それへの批判は後日にゆずります。なお、磯竹島略図を付属している公文録などの重要史料は下記で写真を見ることができます。
・公文録、内務省之部-明治10(1877)年
http://www.kr-jp.net/meiji/koubun/koubun.html・太政類典、「竹島外一島 版図外ト定ム」明治10(1877)年
http://www.kr-jp.net/meiji/dajou/dajou-m10.html(注1)「特集 竹島」『フォトしまね』161号、P7
http://www.pref.shimane.lg.jp/kochokoho/photo/161/05.html(注2)内藤・朴『竹島=独島論争』新幹社、2007,P206
(注3)同上、P85
(注4)川上健三『竹島の歴史地理学的研究』古今書院、1996(復刻版)P72
(半月城通信)
http://www.han.org/a/half-moon/
これは メッセージ 15623 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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島根県の最終報告書、下條氏への批判2
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/06/24 20:22 投稿番号: [15623 / 18519]
この下條説に対する疑問点は下記の三点です。
(1).島根県は「竹島他一島」すなわちを磯竹島(欝陵島)と竹島=独島を日本領と認識していた。
(2).「公文録」や「太政類典」には、「鳥取藩米子の大谷家が漂着した」松島に関する記載があるが、竹島=独島についての記述がない。
(3).太政官のいう「竹島他一島」は二つの鬱陵島である。
まず(1)ですが、島根県は「竹島外一島」を日本領という結論をくだしたわけではありません。「山陰一帯の西部」に付属するのかどうか、つまり日本領かどうか確信がもてないから内務省へ伺書を提出したのでした。
つぎに(2)ですが、下條氏は、大谷家が漂着したのは「松島」としましたが、これは「竹島」の誤読ではないでしょうか。これは「公文録」や「太政類典」をみるかぎりではあいまいなので、さらなる検証が必要です。
その前に公文録の記述をみることにします。その中に島根県が内務省に提出した「日本海内 竹島外一島 地籍編纂方伺」が添付されましたが、その伺い書に松島は口語訳でこう記されました。
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島根県「由来の概略」の口語訳
磯竹島、あるいは竹島と称する。隠岐国の北西120里(480km)ばかりのところにある。周囲およそ10里(40km)である。山は峻険で平地はすくない。川は3条ある。また滝がある。しかし、谷は深く、うっそうと樹木や竹が繁り、水源を知ることはできない。
・・・
次に一島あり。松島と呼ぶ。周囲30町(3.3km)である。竹島と同じ船路にある。隠岐をへだてる80里(320km)ばかりである。樹木や竹は稀である。また、魚や獣(アシカか)を産する。
永禄年間(1558-1569)に伯耆(ほうき)国・会見郡米子町の商人、大屋(のちに大谷と改名)甚吉が航海で越後より帰るさい、熱帯性低気圧に遭遇し、この地に漂流した。ついに全島を巡視したところ、すこぶる魚貝に富んでいるのを知り、帰国の日、検使の安倍四郎五郎 <時に幕名により米子城に居る>にそのおもむきを申し出、以後、渡海を申請した。安倍氏が江戸に紹介して、許可書を得た。じつに元和4年(1618)5月16日である(注3)。
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この文章だけを見ると、大谷家が漂流した「この地」が松島であるかのようにも受け取れます。しかし、漂着した「この地」は竹島(欝陵島)であることを、川上健三氏はこう記しました。
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大谷九右衛門の『竹島渡海由来記 抜書控』、『大谷家由緒実記』その他の大谷家文書によれば、米子で廻船業を営んでいた大谷甚吉は、元和三年(1617年)越後から帰帆の途上難風に遭って竹島(欝陵島)に漂着し、同島を踏査したところ、無人の孤島で天与の宝庫であることが判明した(注4)。
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念のために『竹島渡海由来記 抜書控』をひもとくと、そこにはこう書かれてました。
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永禄年中 玄番長男 和田九右ヱ門勝宗ニ甥甚吉と申者有之 米子灘江引越住居為 数回 船家業相営居処 越後国ヨリ帰帆之[石切] 与風竹島へ漂流 甚吉全ク島廻り越方等熟思致処 朝鮮國相隔事 四拾里斗 人家更に無之土産所務之品有之
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(つづく)
これは メッセージ 15622 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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島根県の最終報告書、下條氏への批判
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/06/24 20:21 投稿番号: [15622 / 18519]
半月城です。
島根県の竹島問題研究会が二年の歳月をかけて作成した<「竹島問題に関する調査研究」最終報告書>が関係者に公開されました。その中で「半月城通信」が数か所にわたり批判されているとは心外でした。頭を後から叩かれたような気分です。ホームページが出版物で批判されるとなると、今後はホームページへ気軽に書き込むのができなくなりそうです。
それでも、あえて拙速のそしりを覚悟で批判文を書かずにはいられない心境です。というのも、最終報告書は「竹島外一島」についての見解を中間報告書の時点から180度変えたからです。とうてい信じられません。
これまで、下條氏の変説には慣れっこになっていましたが、島根県民の税金でまかなわれた公共的な研究の結論が、一年も経たないうちにひっくり返るとは驚天動地です。しかも、それについては何らの釈明なり弁解すらありません。昨年、中間報告書の要約し、島根県の全家庭に配布した『フォトしまね』などまるで存在しなかったかのような書きぶりです。この一事に「最終報告書」の性格が集約されているといったら言い過ぎでしょうか。
こうした竹島問題研究会の変説を具体的にみることにします。昨年の『フォトしまね』161号は、明治政府の最高国家機関である太政官が竹島=独島を日本とは無関係であると宣言した史実をこう記しました。
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地籍編纂のため、内務省から1876年に竹島(現在の鬱陵島)に関する照会受けた島根県は「山陰一帯ノ西部ニ貫付(所属)スベキ哉」と回答したものの、同省(内務省、半月城注)が最終的な判断を仰いだ太政官は、同島と外一島を「本邦関係無之」とし、日本領でないとの認識を示した。外一島とは、現在の竹島とみられる(注1)。
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そもそも、この文章からして疑問でした。『フォトしまね』は、『島根県は「山陰一帯ノ西部ニ貫付(所属)スベキ哉」と回答した』と記しましたが、そのような回答書は発見されていません(注2)。問題の「山陰一帯ノ西部ニ貫付スベキ哉」という一節は、島根県が内務大臣宛に出した伺書「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」の中に、つまり質問書に登場します。
その文の前後の口語訳は、「山陰一帯の西部に付属するとみられるなら本県の国図に記載し地籍に編纂しますが、この件はどのように取りはからうべきか御指令をお伺いします」となります。
これに対し、問題の最終報告書は、太政官のいう「外一島」は欝陵島であるとして、下條氏はこう記しました。
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地籍編纂伺いの顛末を、「公文録」や「太政類典」で確認してみると、島根県が伺いを立てた「竹島他(ママ)一島」と、太政官が判断した「竹島他一島」には違いがあった。「公文録」に添付された島根県提出の「磯竹島略図」には、現在の竹島と磯竹島(現在の欝陵島)が描かれ、島根県では欝陵島と竹島を日本領として認識している。
ところが太政官が「関係なし」とした「竹島他一島」を、「公文録」や「太政類典」に収録された関連文書で見ると、欝陵島に該当する竹島と「鳥取藩米子の大谷家が漂着した」松島に関する記載があるだけで、現在の竹島については何も書かれていないのである。
結論から言うと、太政官が「関係なし」とした「竹島他一島」は、二つの鬱陵島を指しており、現在の竹島とは関係がなかったのである。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(つづく)
これは メッセージ 15591 (yabutarou01 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/15622.html
Re: 隠岐と竹島・松島
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2007/06/24 10:43 投稿番号: [15621 / 18519]
むう、これは全くの水掛け論にしかなりませんね。資料批判は多角的な観点で行われるべきであって、調べて分かることがあれば調べた方が良いというのが私の考えです。
これは メッセージ 15620 (te22200 さん)への返信です.
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Re: 隠岐と竹島・松島
投稿者: te22200 投稿日時: 2007/06/24 00:03 投稿番号: [15620 / 18519]
yabutarou01さん
>>>
te22200さんの仰りたいことは要するに『隠岐古記集』では島前、島後などの隠岐を構成する島を説明した箇所とは別の箇所に竹島と松島の記述があるので竹島松島は隠岐州には含まれない、ということですね。
<<<
うーん、ちょっと違います。
『隠岐古記集』では「島前、島後などの隠岐を構成する島を説明した個所」ではなく、「石州温泉津、伯州赤崎などの隠岐の周囲にある土地を説明した個所」に竹島と松島の記述があるので竹島松島は隠州には含まれない、ということです。
#15617 に記述した文章構成の番号を使えば、
2〜3
隠岐を構成する島の説明
4〜9
隠岐の周囲にある土地の説明
ということです。そしてその理由は、単に 8,9が4〜7と並んで書かれているという記述位置の問題だけではなく、文章のスタイルから見ても4〜7と8,9を一つのまとまりと見ることが妥当だということです。
>>>
『隠岐古記集』と『隠岐古記』が同じかどうかは検証可能であって、同じであれば少なくとも『大日本史』の編者は『隠岐古記集』を読んで隠岐州に属すると解釈したと言えます
<<<
まあ、おっしゃることが間違っているとは言いませんが、『隠岐古記集』の文章を読めば明らかに竹島松島は隠州に含まれていないのですから、検証するまでもなく『隠岐古記』と『隠岐古記集』は別ものだというのが私の考えです。
これは メッセージ 15619 (yabutarou01 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/15620.html
Re: 隠岐と竹島・松島
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2007/06/23 10:36 投稿番号: [15619 / 18519]
te22200さんへ
>>>
『隠岐古記集』において、竹島・松島が隠岐に含まれると解釈するのは不可能でしょう。
te22200さんの仰りたいことは要するに『隠岐古記集』では島前、島後などの隠岐を構成する島を説明した箇所とは別の箇所に竹島と松島の記述があるので竹島松島は隠岐州には含まれない、ということですね。ところが『大日本史』にはこのようにあります。
およそ4島、分けて島前、島後という(隠州視聴合記、隠岐国図、属島は179で、総称して隠岐小島という)。別に松島、竹島があり、これに属する(隠岐古記、隠岐紀行)
「別に松島、竹島があり」とあるわけですから、これを読めば『隠岐古記』、『隠岐紀行』には島前、島後とは別の箇所に松島、竹島の記述があってこれを『大日本史』の編者が隠岐州に属すると解釈したと考えても不自然ではないと思いますがいかがでしょうか。『竹島及鬱陵島』の奥村碧雲 も『隠州視聴合紀』の「日本之乾地、以此州為限矣」を引用して鬱陵島は昔は日本の領土だったと主張しています。歴史的文献はそれが成立した時代的背景を考慮して解釈されるべきであって、現代の論理学をそのまま当てはめるのには限界があります。『隠岐古記集』と『隠岐古記』が同じかどうかは検証可能であって、同じであれば少なくとも『大日本史』の編者は『隠岐古記集』を読んで隠岐州に属すると解釈したと言えます。
誤解のないように言っておきますが、私は『大日本史』の記述を根拠に鬱陵島と竹島が日本の領土であると主張したいわけではありません。私は半月城氏のhpを見て初めて下條教授の州を島と解釈する見解を知りましたが、どう考えても下條説が正しいとは思えませんでした。それで半月城氏の主張どおり竹島=独島は韓国領ではないかと考えていたいたわけですが、竹島の日騒動をきっかけに改めて詳しく調べてみると半月城氏の主張には一貫性がなく事実と異なる点や強引で手前味噌な解釈が多いことが分かりました。そこで半月城氏が客観的で首尾一貫した主張をすることのできる人物なのか、あるいは主張をしようとする意思のある人物なのかを確認すべくあえて突撃をかけて見たわけです。結果はまあ見てのとおりです。
『隠州視聴合紀』の解釈についてはいまのところ内藤正中氏の主張のように「隠岐国を日本の西北の限界であるとしても、竹島・松島が朝鮮国の島だということにはならない。この史料は、そのことについては何らの言及もしていないのであるから、領有権をめぐる論争に利用するのは誤っている。」と考えるのが穏当なところではないでしょうか。『視聴合紀』から竹島・松島が日本領であるあるいは韓国領であると断定するのは無理があるし、江戸時代の資料は他にも沢山あるのに『視聴合紀』だけを特別にクローズアップする意味もないと思います。
これは メッセージ 15617 (te22200 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/15619.html
Re: 最近の『隠州視聴合紀』研究2
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2007/06/22 12:46 投稿番号: [15618 / 18519]
te22200さん、こんにちは。
Am I AHOです。
>個人的には以前 (#10265-10269) 述べたように、「隠州視聴合記」の
文章は、
>「竹島と松島は無人島であるから日本の国土とは言いがたく、
従って日本の西北限は隠州である」
>と解釈するのが正しいと思うので、その点からも無人島と認識して
いる竹島松島を朝鮮領と認識する筈はないと考えます。
「隠州視聴合記」の解読については意見を異にしていますが、日本人が無人島と認識している島を、特段他の事情がない限り、誰かの領土と認識するはずないとのお考えには賛同します。
愼𨉷廈氏の主張は誤りでしょう。
日本では一般に、特に人々が日常生活を営む地から遠く離れた絶海の孤島乃至は岩を領土と考えるようになったのは、ずっと後の話です。
これは メッセージ 15616 (te22200 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/15618.html
隠岐と竹島・松島
投稿者: te22200 投稿日時: 2007/06/22 11:32 投稿番号: [15617 / 18519]
yabutarou01さん
>>>
『隠岐古記』は『隠岐古記集』の略称であって、「此州」の『隠州視聴合紀』も「此国」の『隠岐古記集』も歴史的に竹島・松島は隠岐に含まれると解釈されてきたということではないでしょうか。
<<<
『隠岐古記集』において、竹島・松島が隠岐に含まれると解釈するのは
不可能でしょう。
テキストとして、池内敏「前近代竹島の歴史学的研究序説」(半月城通信に
アップされているもの)の[史料三]を使って考えてみますが(テキスト
そのものの引用は省略します)、その文章構成は次のようになっています。
==================================================
=
1.隠州の場所について
- 「日本の乾地 此国を以て限りとする」
- 雲州三保関より35里
2.島後の説明
- 東部にあること
- 郡、府、主な村、大きさなど
3. 島前の説明
- 南西部にあること
- 郡、府、主な村、大きさなど
4. 南西方面について
- 58里で石州温泉津
5. 南東方面について
- 40里で伯州赤崎
6. 東方面について
- 100里で若州小浜
7. 東北方面について
- 30里で能州
8. 松島について
- 方角、距離、植生
9. 竹島について
- 方角、距離、植生
- 地理、歴史、島名など
==================================================
=
これを見ると、2-3 で、隠岐を構成する島を説明したあと、4-7で隠岐の周囲の
土地について述べています。竹島と松島の記述はその後に出てきますが、この
文章の流れを見れば、8-9は、4-7に続いて北西方面を説明したものとしか
考えられません。もしも、竹島松島を隠岐の構成要素とするならば、その記述は
3と4の間に来る筈でしょう。
各節の具体的な書き出しを比べても以下のように、2-3と4-9がそれぞれ同じ
スタイルになっており、4から9までを一つのまとまりとして考えるべきでしょう。
2.「震地に在る…」
3.「是ヨリ坤地に位する…」
4.「未申の方五拾八里…」
5.「辰巳の方四拾里…」
6.「卯方凡百里…」
7.「丑寅ノ方凡三拾里…」
8.「亥ノ方四十余里…」
9.「又酉ノ方七十余里…」
隠州が竹島松島を含まないことは、『隠州視聴合紀』についても同じです。
これについては、以前、#10266でも簡単に触れました。
これは メッセージ 15615 (yabutarou01 さん)への返信です.
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Re: 最近の『隠州視聴合紀』研究2
投稿者: te22200 投稿日時: 2007/06/22 11:24 投稿番号: [15616 / 18519]
半月城さん
>>>
この問題に関する日韓論争は半世紀ぶりに決着がついたといえます
<<<
「隠州視聴合紀」を巡る日韓の解釈の相違については、
「日本の西北限が隠岐か鬱陵島か」ということ以外に、
「竹島(鬱陵島)を朝鮮領と考えているかどうか」という
ことがあります。
韓国側は「隠州視聴合紀には、竹島=独島が朝鮮領土だと
書かれている」と主張しています。
例えば愼𨉷廈氏の獨島百問百答では、次のように述べられて
いますし、
============================================================
「獨島」を日本で初めて記録しながら「獨島」と「鬱陵島」が
みな朝鮮領であり、日本領でないことを明白に記録している。
============================================================
サイバー独島(www.dokdo.go.kr)で公開されている国会事務処法制
予算室作成の「韓日両国の立場」という文書では、韓国の立場として
次にように述べています。
============================================================
「隠州視聴合記」(1667)には、松島(独島)や鬱陵島(竹島)が高麗
(朝鮮)に属するものであり、隠岐が日本の限界だと記録されている。
============================================================
一方、日本側でそのような主張をする人はいません。
例えば、#15585で半月城さんが引用された内藤正中氏の文中には、
次のように書かれています。
============================================================
ただし、隠岐国を日本の西北の限界であるとしても、竹島・松島が
朝鮮国の島だということにはならない。
============================================================
或いは、池内敏氏は「前近代竹島の歴史学的研究序説」において
============================================================
竹島/独島が当時の日本の版図から外れたものと認識されていたと
するのは妥当だとしても、それがすなわち朝鮮領だということには
ならない。
============================================================
と述べ、それに続いて「文意を逸脱した無理な解釈」とまで書いて
います。
実際、「隠州視聴合記」の本文には、竹島・松島を朝鮮領とした
記述はありませんし、むしろこれらの島から「高麗を見る」という
表現があることを考えれば、竹島と高麗を別のものと認識していると
考えるべきです。
個人的には以前 (#10265-10269) 述べたように、「隠州視聴合記」の
文章は、
「竹島と松島は無人島であるから日本の国土とは言いがたく、
従って日本の西北限は隠州である」
と解釈するのが正しいと思うので、その点からも無人島と認識して
いる竹島松島を朝鮮領と認識する筈はないと考えます。
これは メッセージ 15585 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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Re: 「竹島一件」以後の竹島(欝陵島)渡海
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2007/06/21 07:17 投稿番号: [15615 / 18519]
ちよっとだけですがお返事いただきありがとうございます。
>個人のインターネットは出版物と違っていつでも削除可能なので、研究者の批判対象にはならないというのが通例です。これまで私は気軽に、いわば下書きのつもりで書いてきました。誤字や考え違いが多くて当たり前です。
まあ半月城さんのように大量に長文を書いていれば主張に考え違いが生じてしまうのはよくあることで、それをいちいちあげつらうつもりは最初からないわけですが、今回の『「竹島一件」以後の竹島(欝陵島)渡海』は矛盾に気がついた後につじつまが合うように修正した上で書き込んだはずなので、これに矛盾があれば大問題です。そんなわけであれこれ検討してみましたが、どうもおかしな箇所があるようでいくつか紹介してみましょう。
>この記事のもとになった「隠岐古記」は 大西教保の『隠岐古記集』(1823)に引用された史料とは異なるかも知れません。『隠岐古記集』では『隠州視聴合紀』同様に竹島・松島は隠岐に属さない理解になっており、上記の文脈に合いません。
『隠岐古記集』と『隠岐国古記』が同じ内容なのに『隠岐古記』が異なる史料であると主張するのはあまりにも無理があります。文脈に合わないのは『隠岐古記集』に「日本の乾地 此国を以て限りとする」とあるのを竹島・松島は隠岐に属さないと理解したからであって、「此州」であれ 「此国」であれ竹島・松島は隠岐に属していると理解すれば何の問題もありません。『隠岐古記』は『隠岐古記集』の略称であって、「此州」の『隠州視聴合紀』も「此国」の『隠岐古記集』も歴史的に竹島・松島は隠岐に含まれると解釈されてきたということではないでしょうか。
私の考えでは『隠岐国古記』と『隠岐古記』が同じものかどうか客観的に検証する方法が二つあります。一つめは『大日本史』に引用された『隠岐古記』の記述と『隠岐古記集』の記述が一致しているかどうかを比較する方法です。半月城hpにある『大日本史』の資料を読むと、『隠岐古記』には「始国府在島後当時派吏於此以治島前二郡故曰別府」・「有宇類美地即駐蹕之処」・「皇居址曰宇類美坊曰仁天里坊二寺尚存」と判断とできる記述があるのがわかります。もしこれと同じ意味の記述が『隠岐古記集』にあれば、『隠岐古記集』と『隠岐古記』は同じものであると判断できます。
二つ目は『大日本史』の長久保赤水の草稿に『隠岐古記』についての記述があるか確認する方法です。半月城hpにはこのようにあります、
『大日本史』の地理志草稿は赤水自筆の漢文体が10数冊残っている。天明6年(1786)に赤水(70歳)は、地理志編修に従事し「彰考館編修」の職名で致仕(退官)する81歳まで10年余りを侍講の傍ら、日本68か国の各郡村の由来・名所旧跡などの地誌を 諸資料を閲覧して要約した。十数冊に及ぶ草稿は、詳し過ぎて『大日本史』には不採用となった。明治時代にはいり栗田寛(彰考館編修のち東京大学教授)の新たな編修で、「国郡誌」の名称で、大日本史に集録された。
竹島=独島と『隠州視聴合記』『大日本史』
http://www.han.org/a/half-moon/hm111.html#No.819
赤水自筆の草稿が十数冊あるわけですから隠岐の草稿も現存している可能性があります。長久保赤水は1801年に死去していて『隠岐国古記』の成立が1823年なわけですから、赤水自筆の草稿に『隠岐古記』の記述があれば 『隠岐古記集』と『隠岐古記』が異なる資料であるという半月城さんの主張は正しいことが証明できます。もし草稿に記述がなければどうなるでしょうか???ただし私は一介のねちずんにすぎないわけですから、これを調べるのは荷が重過ぎます。ぜひ有志の皆さんにお任せしたいと思います。
もう一つ半月城さんの主張によれば竹島松島は日本領であるという『大日本史』の認識は長久保赤水の認識ということになります。長久保赤水といえば言うまでもなく『改正日本輿地路程全図』を刊行した人物です。となると赤水が『日本輿地路程全図』で竹島松島を無彩色にしたのは決して竹島松島を日本領と認識していなかったからではない、ということになります。『日本輿地路程全図』についての下條教授の主張に対する半月城さんの批判は全くの筋違いですね。
これは メッセージ 15609 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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Re: 出版の新たな形態として大きな力
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2007/06/20 20:17 投稿番号: [15613 / 18519]
学者の先生達は、或る意味で、間違いを犯しているように思います。
どの先生も、要するに、島は誰のものかを論じて居られるわけで、そのために切り捨てられている大事なことがあるのではないでしょうか。
朝鮮王朝時代、日本では江戸時代には、一応朝鮮の役人が数年に一度の見回りをしていたと云うことですが、結局は密漁を黙認していたわけですね。
これは、朝鮮の民も、日本の民も、特に諍いを起こしさえしなければですが、同じ漁場に通って同じ島に渡って生活の糧にしていた訳なんですね。
そして朝鮮の王も、庶民の生活のためなのだから黙認せよと云っていたわけです。
今津屋八右衛門の例をみてもお判りのように、竹島へ渡る日本人は朝鮮名を名乗り、結構現地で仲良くやっていたわけで、そこには島が朝鮮のものか日本のものかなどと云う観点は差して重視されていない世相があったわけです。そして福浦の人々は、八右衛門が処刑された後も、度重なる幕府の禁止もお構いなしに、「桂島」へ渡るのだと称して逞しく渡海事業を継続していたのでしょう。
正直に申し上げますと、もう島が誰のものかには、余り興味も湧かなくなってきています。
隠岐の人達が獨島で漁をしたいのならば、昔のように、させてやればよいのです。そこに法の保護が必要ならば、無条件で韓国に帰化して貰い、明日から直ちに韓国政府の保護下で漁をしてもらいましょう。
それで手っ取り早く全面解決じゃありませんか。
これは メッセージ 15611 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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Re: 「竹島一件」以後の竹島(欝陵島)渡海
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2007/06/20 19:50 投稿番号: [15612 / 18519]
半月城さん、お返事有り難うございます。
Am I AHOです。
貴台が粟田と赤水が同じ水戸藩士であったことを重視し、粟田の「国郡誌」には、赤水の認識が色濃く反映しただろうと考えられた旨、了解致しました。
しかし尚も愚生は、むしろ粟田は当時の世相に影響された可能性が高いだろうとの立場を維持しようと思います。
このことはまた、以前にも少し書きましたが、太政官布告の必要性にも或いは繋がるのではないかと考えるからでもあります。
明治9年5月23日内務省達丙第35号「地籍編製地方官心得書」が発せられて、各県ではいよいよ本格的に地籍編纂の大事業に取りかかるわけですが、ご承知のようにこれは多年に亘り多額の費用をかけて行われた国家事業であります。
その僅か数ヶ月の後に、内務省から島根県へ宛てて伺い書が発せられた背景には、当然にかの島が日本の地であるのか否かを明確にし、爾後の地籍編纂事業で取扱うことの是非を決しておく必要性があり、またそこには、或いは日本の島なのかもしれないとする世相が厳然と存在していたために、調査する必要性が確かにあったのだと考えることが妥当と思えます。
また、このような当時の状況下で粟田が「国郡誌」を著したことを考え合わせれば、彼が赤水の全的な影響から脱していないとするには、更なる究明が必要でしょう。
これは メッセージ 15609 (ban_wol_seong さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/15612.html
出版の新たな形態として大きな力
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/06/17 22:49 投稿番号: [15611 / 18519]
半月城です。
yabutarou01さんは、インターネットの書き込みと出版物を同列に見ているのでしょうか?
個人のインターネットは出版物と違っていつでも削除可能なので、研究者の批判対象にはならないというのが通例です。これまで私は気軽に、いわば下書きのつもりで書いてきました。誤字や考え違いが多くて当たり前です。
ところが、そんな私のホームページが研究者の批判対象になりました。世の中、変わったものです。国会図書館の塚本孝氏は、島根県竹島問題研究会の最終報告書に下記のように書いているようです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
近年、新たな米国の秘密外交文書が見つかったとし、米国がその後態度を変えて韓国領であることを認めたというような主張が、インターネット上で行われている(2)。
先に平成17年9月27日の第3回竹島問題研究会で報告した際こはこのことについて特に触れなかったが、インターネットは今や出版の新たな形態として大きな力を得ているので、事実関係の正確な理解に資するため、ここで、以前の記事(及び研究会の報告)で紹介しなかった若干の米国外交記録を追加して紹介しておきたい。
(駐日米国大使館の1952年10月3日付け報告)
米国の態度の変更としてインターネット上に紹介されている文書は、駐日米国大使館のステイーヴス(Joh M.Steeves)一等書記官が・本国(国務省)へ送った「リアンクール岩に韓国人(Koreans on Liancourt Rocks)」と題する1952年10月3日付け報告である。
当時、竹島が駐留米軍の射爆場として使用されていたことを在韓米海軍当局が知らなかったため、「学術調査隊」を鬱陵島及び独島に派遣したいとの韓国政府の申し出を同当局が許可した結果、空爆に遭遇した(より正確には、独島に出漁していた鬱陸島漁民が米軍機の爆弾投下に遭遇し、洞窟に逃れて事なきを得た旨の報告を、学術調査隊の長が帰国後に行った)という事件があり、この事件を1952年9月・21日付けの韓国紙『東亜日報』が報じ、それをきっかけとして駐日米大使館から国務省へ報告が送られた。
・・・・
(2)半月城通信 No.111(2005.6.1 目次12)
http://www.han.org/a/half-moon/hm111.html#No.822
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
この塚本論文にはいずれ反論したいと思います。
(半月城通信)
http://www.han.org/a/half-moon/
これは メッセージ 15604 (yabutarou01 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/15611.html
「竹島一件」以後の竹島(欝陵島)渡海2
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/06/17 22:29 投稿番号: [15610 / 18519]
これらの史料を見ても、「福浦より松島に至るには海上69里」という記述はないようです。後年の『竹嶋雑誌』には、享保年間(1716-35)に浜田の漁夫がしばしば竹島へ渡海したとの記事があるので、そのあたりから情報を得たのかも知れません。
いずれにしても、1837(天保8)年の渡海禁止以降は竹島(欝陵島)への密航もほとんど途絶えたでしょうし、ましてや紀行など証拠になるような資料は残さなかったでしょうから、参考になるような史料に乏しく、『大日本史』の「隠岐國四郡」記述は天保以前に骨格が定まったと見られます。
ところで、幕府は天保8年の竹島渡海禁止令で竹島(欝陵島)を下記のように朝鮮領と判断しましたが、『大日本史』がそれにふれないのは大きな疑問です。禁止令は全国規模の布告だったので、水戸藩も知っていたでしょうし、さらに、この布告の経緯について書かれた書物は『天保雑記』など多数ありました。また江戸市中でも話題になり、『甲子(かっし)夜話』にも書かれました。
それにもかかわらず『大日本史』で竹島を日本領としたのは、天保以後の史料をまったく見直さかったか、あるいは Am_I_AHO_1stさんが示唆したように天保の史実を「隠蔽」したのかも知れません。
天保の渡海禁止令ですが、これを受けて、たとえば加賀藩では次のような「ふれ書」(口語訳)が「郡方御觸」として記録されました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
1.今般、松平周防守の元の領地である石州の浜田松原浦にいた住所不定の八右衛門が竹島(欝陵島)へ渡海した一件、吟味のうえ、右の八右衛門その他はそれぞれ厳罰に処された。右の島は、昔は伯耆・米子の者たちが渡海して漁労などをしたが、元禄期に朝鮮の国へお渡しになった時から渡海停止が仰せつけられた場所である。
すべて異国へ渡海することは重いご禁制である。今後、右の島のことも同様に心得て渡海してはならない。もちろん、国々の廻船などは海上で異国船に出合わないように乗り筋などを心がける旨を先年も触れたとおりであるが、いよいよ守り、以後はなるべく遠い沖へ出ないように乗り回すことを申しつける。
右の趣御料は、ご代官私領は領主・地頭より浦方の村や町など洩らさず触れて知らせるべきである。また、触書の趣旨は立て札にして高札場などに懸け置くよう申しつける。
(天保8年)2月
右の通り、触れられるべきである(注3)。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
上のふれ書で注目されるのは、下記の3点です。
(1).元禄期に竹島(欝陵島)を朝鮮へ渡した。
(2).竹島(欝陵島)のみならず、なるべく遠い沖へ出てはならない。
(3).元禄時代とは違って、禁止令は全国への布令であった。
(2)の「遠い沖」の中には、隠岐から40里(160km)とも60里ともされる松島(竹島=独島)が入るのはいうまでもありません。結局、幕府は竹島および松島への渡海を実質的に禁止したのでした。元禄時代、幕府は竹島・松島を日本領ではないと確認していただけに当然の措置でした。
(注1)
http://www.han.org/a/half-moon/hm111.html#No.819(注2)北〓通〓、きたもとつうあん
「もと」は「クニガマエ」に元、「あん」は「葬」の死を合に置換。
(注3)お触れの原文、(竹島=独島論争)
(引用は「郡方御触 14」『加賀藩農政経済史料』第2期13回、1966)
http://www.kr-jp.net/edo/tenpou8hure.pdf一 今度 松平周防守元領分 石州濱田松原浦ニ罷在候 無宿八右衛門 竹嶋江渡海いたし候一件 吟味之上 右八右衛門其外 夫々厳科ニ被行候 右嶋往古ハ 伯州米子之者共 渡海魚漁等いたし候得共 元禄之度 朝鮮國江御渡ニ相成候以来 渡海停止仰付候場処ニ有之
都而異國渡海之義者重キ御製禁ニ候条 向後右嶋之義も同様ニ相心得 渡海いたし間敷候 勿論國々之廻船等 海上ニおゐて 異國船不出合様 乗筋等心かけ可申旨 先年も相觸候通り弥相守以来者可成たけ遠沖乗不致様 乗廻り可申候
右之趣御料者御代官私領者 領主地頭より浦方村町共 不洩様可觸知候 尤觸書之趣 板札ニ認 高札塲等ニ懸置可申者也
二月
右之通可被相觸候
(半月城通信)
http://www.han.org/a/half-moon/
これは メッセージ 15609 (ban_wol_seong さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/15610.html
「竹島一件」以後の竹島(欝陵島)渡海1
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/06/17 22:28 投稿番号: [15609 / 18519]
半月城です。
Re:15602,Am_I_AHO_1stさん
>『大日本史』の国郡誌は長久保赤水の膨大な原稿は不採用になり、明治時代になって栗田寛によって編集され大日本史に集録されたと赤水の子孫が述べていましたよね。お忘れですか。
たしかに私は<竹島=独島と『隠州視聴合記』『大日本史』>でそのように書いています(注1)。ただ、赤水の原稿が不採用になったといっても、かれの草稿や、かれが集めた資料は同じ水戸藩の粟田寛によって『大日本史』を書く際に参考にされたでしょうから、赤水の認識が色濃く反映していたと見るべきです。
『大日本史』は、竹島=独島論争においては部外者の立場なので、さして重要な資料ではないのですが、やはり下記の「隠岐国4郡」の記述は世相を反映した記事として気になります。
別に松島、竹島があり、これ(隠岐国)に属する(隠岐古記、隠岐紀行、案ずるに隠地郡の福浦より松島に至るには海上69里、竹島に至るには100里4町である。韓人は竹島を称して鬱陵島という。すでに竹島といい、松島といい、我が版図となした。智者を待つが知れない。ついては、以て考えに備える)。
この記事のもとになった「隠岐古記」は 大西教保の『隠岐古記集』(1823)に引用された史料とは異なるかも知れません。『隠岐古記集』では『隠州視聴合紀』同様に竹島・松島は隠岐に属さない理解になっており、上記の文脈に合いません。
一方、『大日本史』の「福浦より松島に至るには海上69里」という記述はどこから来たのでしょうか?
これは『大日本史』の認識はいつ頃生まれたのかを知る手がかりになるかも知れません。これまで私は江戸時代の史料をきちんと整理してこなかったので、この際、竹島・松島関係の主な史料にあたって、再度『大日本史』を考えたいと思います。
さて、江戸時代の主な史料は下記のとおりでしょうか。
1667(寛文7)年、斉藤豊宣『隠州視聴合紀』
1696(元禄9)年、(幕府の竹島渡海禁止令、1回目)
1742(寛保2)年、松岡布政『伯耆民諺記』つづいて『伯耆民談記』
1751−63(宝暦)年、北〓通〓『竹島圖説』、因人某に伝記するを編集(注2)
米子と竹島間160里、福浦と松島間60里、竹島と松島間40里
1779(安永8)年、長久保赤水「日本輿地路程全図」
1795(寛政7)年、安部恭庵『因幡志』
1801(享和元)年、矢田高当『長生竹島記』、竹島に渡航した水主からの伝聞のさらに伝聞
隠岐州と松島間160里、隠岐州と竹島間260里、松島「本朝西海のはて」
1823(文政6)年、大西教保『隠岐古記集』、(1)を底本に隠岐の漁夫の実見談など
隠岐と松島間40余里、隠岐と竹島の間70里
1827(文政10)年、中川顕允『石見外記』
高田屋嘉兵衛の商船が「松竹二島ノ間ニ出デ」と記述
1828(文政11)年、岡嶋正義『竹嶋考』
1837(天保8)年、(幕府の竹島渡海禁止令、2回目)
1842(天保13)年、岡嶋正義『因府年表』つづいて『因府歴年大雑集』
1830 -43(天保)年、『天保雑記十八』、竹島にて異国人と交易の記事
『竹嶋渡海一件記 全』、竹島事件の供述調書の抄録
1854(安政元)年、松浦武四郎『竹嶋雑誌』
1868(慶応4)年、大谷勝廣『竹島渡海由来記抜書控』
年代が特定できないか、多岐にわたる資料
『朝鮮竹嶋渡航始末記 全』
『大谷家由緒實記』
『朝鮮通交大紀』
『竹島紀事』
『通航一覧』
池田家文書他
松浦静山『甲子夜話 続編三』
(つづく)
これは メッセージ 15602 (Am_I_AHO_1st さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/15609.html
今週日曜日のサンプロを見て下さい
投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2007/06/14 21:22 投稿番号: [15608 / 18519]
これは メッセージ 15607 (Tanaka_Kunitaka さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/15608.html
画像加工をして下さい JAPON 1873
投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2007/06/14 20:43 投稿番号: [15607 / 18519]
これは メッセージ 15598 (Tanaka_Kunitaka さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/15607.html
Re:Re: Re:江戸時代の地図の彩色3
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2007/06/13 19:41 投稿番号: [15606 / 18519]
>
『獨島韓国領派』、『竹島日本領派』、〜派といったものに興味はありませんので、悪しからず。
なんでもかんでも韓国領、なんでもかんでも日本領、と考える人間は確かに存在するわけで、ご自身がそうではないとお考えならばそんなにむきになる必要はないと思いますが、お気に障ったのでしたら謝ります。ただ実りのある議論ができないのは残念です。
>
かつて崔書勉先生も功名に走らず真摯な態度で研究せよと述べておられますが
大変素晴らしい言葉です。ただし私ならば「態度で」と「研究せよ」の間に「真実を」の三文字を加えます。
それから私は正体を明かさずに議論に参加しているわけですから、決して功名に走っているわけではありません。私は竹島研究会から竹島饅頭の一つも受け取ったことはないし、半月城氏のように印税が入ってくるわけではありません。そこのところをお忘れなきように。
これは メッセージ 15605 (Am_I_AHO_1st さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/15606.html
Re: Re:江戸時代の地図の彩色3
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2007/06/13 13:45 投稿番号: [15605 / 18519]
>
独島韓国領派の論者は、竹島編入以前の明治時代には日本人は竹島松島は韓国領と認識していたと主張しているわけで、『大日本史』の隠岐の記述が成立当時の認識を反映しているとなると困ったことになりますね。
『獨島韓国領派』、『竹島日本領派』、〜派といったものに興味はありませんので、悪しからず。
かつて崔書勉先生も功名に走らず真摯な態度で研究せよと述べておられますが、誰が困るとか、へちまとか、そう云う下らないことには係わるつもりはありませんので、そちらさまで勝手になさって下さいね。
よろしく。
これは メッセージ 15603 (yabutarou01 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/15605.html
Re:下條正男批判、江戸時代の地図の彩色
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2007/06/12 20:30 投稿番号: [15604 / 18519]
いくつか質問させていただきます。半月城さんのhpには以下の記述がありますね。
『大日本史』は、1823年以前の「竹島渡海事業」がたけなわのころ、つまり松島、竹島が日本領と思われていたころの古記や紀行を元にしたのかもしれません。そうでなければ、あるいは『大日本史』は水戸藩の歴史書にしかすぎず、幕府史料を入手できず、事情を知悉できなかったためかもしれません。そうであれば「不待智者而知也」は当然です。
于山国の歴史、『大日本史』1
http://www.han.org/a/half-moon/hm091.html#No.650これは竹島一件以前の領有意識が『大日本史』の記述に反映しているとしか読めないわけですが、今回の投稿には、
無人島の竹島(欝陵島)は宝の島だったようで、日本と朝鮮の漁民が朝鮮政府の捜討官の目をかいくぐって竹島(欝陵島)へ密航し、両者がせめぎあっていたようです。そうした密航者の竹島・松島紀行が伝わり、水戸藩による『大日本史』で両島は隠岐国の所属と認識されるようになったようです。
とあります。これは竹島一件以後の領有意識が『大日本史』の記述に反映している、という主張ですよね。どうも半月城さん自らの論説を修正されたようですが、どういう事情があって修正されたのか教えてください。
あと、ちょっと前の投稿には、
なお、池内氏自身 2005年まで著者を斉藤豊仙としていましたが、それを修正した形になりました。このように、学者は自らの論説を修正するときはその理由を明らかにするのが学者なりの「作法」といえます。下條正男氏も見習ってほしいものです。
とありますが、半月城さんが自らの論説を修正するときにその理由を明らかにしなかったのはなぜでしょうか?
ついでに「松島、竹島が日本領と思われていたころの古記や紀行」、「そうした密航者の竹島・松島紀行」とは具体的にどのような文献を指しているのか教えてください。
最後に私は『隠岐古記集』を改めて読み直してみましたが、「今は朝鮮人来て住すと言ふ」の記述があります。ここから考えると、例えば「『隠岐古記(集?)』は竹島松島は日本領と認識していたが、これは竹島一件以後の日本人の活動が反映されたものである」といったような主張をするのは難しいような気がします。この私の推論について半月城さんはどのようにお考えでしょうか?
『大日本史』は領有権論争にはあまり影響がなさそうな資料ですが、半月城さんがどのような姿勢で竹島=独島論争に臨んでいらっしゃるのか理解することは大変有意義なことだと思います。よろしくお願いします。
これは メッセージ 15599 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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Re: Re:江戸時代の地図の彩色3
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2007/06/12 19:08 投稿番号: [15603 / 18519]
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『大日本史』の国郡誌は長久保赤水の膨大な原稿は不採用になり、明治時代になって栗田寛によって編集され大日本史に集録されたと赤水の子孫が述べていましたよね。お忘れですか。
独島韓国領派の論者は、竹島編入以前の明治時代には日本人は竹島松島は韓国領と認識していたと主張しているわけで、『大日本史』の隠岐の記述が成立当時の認識を反映しているとなると困ったことになりますね。
>
確証はありませんが、隣国を積極的に侵略しようとする明治の雰囲気もあったでしょうし、知りつつ隠蔽した可能性もゼロではありません。
「可能性もゼロではありません」とはいろんな意味で的確な表現です。まあ歴史を歪曲しようとする人間が「すでに竹島といい、松島といい、我が版図となした。智者を待つが知れない。ついては、以て考えに備える」などと真っ正直なことを書くとは到底思えません。
これは メッセージ 15602 (Am_I_AHO_1st さん)への返信です.
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Re: 下條正男批判、江戸時代の地図の彩色3
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2007/06/11 13:54 投稿番号: [15602 / 18519]
『大日本史』の国郡誌は長久保赤水の膨大な原稿は不採用になり、明治時代になって栗田寛によって編集され大日本史に集録されたと赤水の子孫が述べていましたよね。お忘れですか。
ですから、天保8年以前に完成された原稿による可能性は薄いと思いますし、当時の日本国内に広く蔓延っていた鬱陵島・獨島(竹島・松島)を一括して隠岐の範囲に含むとする俗信を、19世紀に表された紀行文などを引く形で記したと考えたわけです。
天保6年生まれの栗田が浜田藩の密貿易事件を知らなかったとしても不思議はないですが、一方で、確証はありませんが、隣国を積極的に侵略しようとする明治の雰囲気もあったでしょうし、知りつつ隠蔽した可能性もゼロではありません。
これは メッセージ 15601 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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下條正男批判、江戸時代の地図の彩色3
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/06/10 22:01 投稿番号: [15601 / 18519]
分類Bの無彩色の地図には赤水の「日本輿地路程全図」が含まれるのですが、池内説によれば、竹島・松島を記載しても無彩色に彩色したのは18世紀前半とのことなので、すでに長久保赤水以前にそのような地図が存在していたことになります。赤水はみずから実地検証をしたわけではないので、それは当然のことです。
つぎに、分類Cの彩色された地図には、AM_I_AHOさんの言う「日本輿地路程全図」の劣化コピーなどが含まれるのですが、これは長久保赤水の晩年にはすでに始まっていたようです。それは竹島(欝陵島)へ密航して密漁などをする輩が後を絶たなかった史実を反映したようです。そうした密航の事情を内藤正中氏はこう記しました。
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日本からも、幕府の渡航禁止令が出されたにもかかわらず、渡航する者が跡を絶たなかった如くで、『朝鮮王朝実録』のなかに「倭船がしばしば漁採することは真に嘆かわしい」という1710年(宝永7)の関係記事を見ることができる。日本側の資料のなかでも幕府の『通航一覧』に次のような記事が出ている。
「むかし隠岐の辺より渡て、大竹を切来て諸方へ売、甚た大にしてよき竹也と云ふ、近来その島へ渡す時は、朝鮮人多く来て、此方の船を見れば鳥銃を打て船を近づけずと云ふ、この島果して日本の島なれとも、遂に朝鮮に取られたり」(注8)
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無人島の竹島(欝陵島)は宝の島だったようで、日本と朝鮮の漁民が朝鮮政府の捜討官の目をかいくぐって竹島(欝陵島)へ密航し、両者がせめぎあっていたようです。そうした密航者の竹島・松島紀行が伝わり、水戸藩による『大日本史』で両島は隠岐国の所属と認識されるようになったようです。したがって、同書が公式記録でそれが確認できないのは当然です。
しかも、『大日本史』は天保8年の幕府による竹島(欝陵島)渡海禁止令すら知らなかったようです。幕府は、浜田藩の今津屋(俗称、会津屋)八右衛門が竹島(欝陵島)で行なっていた密貿易を摘発し、改めて「異国航海之儀は重き御制禁に候条」を全国に布達しました。
その中で竹島(欝陵島)については「元禄之度、朝鮮国へ御渡しに相成候以来、航海停止被仰出候場所に有之」と渡海禁止を述べたのでした。この事件は江戸市中でも話題になるほど有名だったのですが、『大日本史』がその事実を知らないとなると、同書の竹島・松島関連の「隠岐國四郡」条は天保8年以前に原稿が完成していたのかも知れません。
ま、『大日本史』は幕府や竹島・松島関連の国家機構に無関係な史料であるだけに、その内容がどうあれ、領有権論争にはあまり影響がなさそうです。
『大日本史』が事情をよく知らないまま、竹島・松島を隠岐国に含めても、江戸時代の隠岐国図に竹島・松島が実際に描かれることはなかったようで、池内敏氏はこう記しました。
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江戸時代に描かれた四点の隠岐国図に竹島(鬱陵島)・松島(竹島/独島)が描かれることはないが、いずれにも島後・福浦に竹島(鬱陵島)にかかわるほぼ同一の記述【此湊船懸吉、竹島江之渡海此湊ニ而 天気見合候】が見える(注7)。
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これらの隠岐国図は、竹島・松島をよく知る人によって描かれたようですが、竹島・松島を含めなかったのは妥当な見識と思われます。
(注1)堀和生「一九〇五年 日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』第24号,1987
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/ronbun/hori1987.pdf(注2)長久保光明「長久保赤水の日本地図編集のあらまし」『歴史地理学』127号,1984,P33
(注3)下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文春文庫,2004,P174
(注4)神戸市博物館『古地図セレクション』(第2版)神戸市体育協会,2000,P37
(注5)
http://www2.library.tohoku.ac.jp/kano/kochizu/CJA08342001/CJA08342001-6.html(注6)池内敏「前近代竹島の歴史学的研究序説」『青丘学術論集』2005,P164
(注7)池内敏「竹島考ー近世日本の西北境界」講演レジメ(2007.2.24)
(注8)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000,P123
(半月城通信)
http://www.han.org/a/half-moon/
これは メッセージ 15600 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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下條正男批判、江戸時代の地図の彩色2
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/06/10 21:42 投稿番号: [15600 / 18519]
下條氏が見たという「日本輿地路程全図」は引用先が不明なので、彩色に関して下條氏の反論が有効かどうか、さらなる検証が必要です。初版本でも多少の異同があるので、それらを総合的に検証する必要があります。たまに、私的な一枚の地図だけをとりあげて、領有権の決定的資料と喧伝する人が日韓両国にいますが、それに踊らされないよう心がけたいものです。
ともかく、下條氏は神戸図書館の初版本を見ていないようですが、先行研究に反論するからには文献批判を綿密に行ない、慎重な態度で臨むべきでした。そうした彼は、堀氏へのさらなる反論をこう記しました。
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また、もう一つ重要な事実がある。それは長久保赤水の『日本輿地路程全図』に描かれた鬱陵島(図では竹島と表記)の右上に、「高麗を見ること、猶雲州より隠州を望むがごとし」という付記があることである。この付記は齊藤豊仙(ママ)の『隠州視聴合記』からの引用である。この事実から見ても、長久保赤水が鬱陵島を日本領と認識していたことは明らかである(注2)。
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下條氏は『隠州視聴合記』において斉藤豊宣が竹島・松島を日本領に解釈していると断定していますが、これは我田引水のようです。池内敏氏の詳細な研究によれば「この史料(『隠州視聴合記』)をもって、竹島/独島が当時の日本の版図から外れたものと認識されていたとするのは妥当(注6)」とされるからです。この池内氏の論文に対し、下條氏からの反論はまだないようです。
長久保赤水は下條氏も認めるように『隠州視聴合記』を踏襲しているので、当然、赤水も斉藤豊宣同様に竹島・松島を日本の版図外と認識していたということになり、下條説は成り立ちません。
下條氏の我田引水はこれだけにとどまらないようです。堀説への反論をこう書き加えました。
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この例から言えるのは、長久保赤水が鬱陵島や竹島を日本の領土として認識していたかどうかは、彩色の有無だけでは判断ができない、ということである。
そのことは、一八五二(嘉永五)年、鈴木驥園が長久保赤水の『日本輿地路程全図』を改訂して刊行した『増訂 大日本国郡 輿地路程全図』からも裏づけられる。そこでは竹島、松島、沖永良部島、青ヶ島にも日本本土と同じく黄色い彩色がほどこされているからである(注2)。
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この文に下條氏特有の論法を見る気がします。長久保赤水の竹島・松島認識を問題にしているのに、なぜ長久保赤水が亡くなって 50年後の、しかも他人の地図をわざわざ持ちだすのでしょうか?
私には単なる論点ずらしにしか受け取れません。しかも、鈴木驥園の地図は私的なものなので、資料価値に乏しいことはいうまでもありません。
下條氏は今年3月まで竹島問題研究会の座長を務めましたが、そのような人だからこそ島根県によって選ばれたのかも知れません。最初から「竹島は日本領」という結論ありきの会では、島根大学の内藤先生のような方が選ばれないのは当然と思われます。
余談はさておいて本論にもどりますが、下條氏が例示した地図のように、竹島・松島を一対にして隠岐と同色に彩色される地図が出現するようになったのはいつごろからでしょうか?
この変遷を池内敏氏はこう記しました。
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江戸時代の日本図における竹島(鬱陵島)・松島(竹島/独島)記載や彩色の有無に関する年代的な特徴とは、「A.記載無し
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-> B.記載あり無彩色
--
-> C.記載あり彩色」とする変化。AからBへの変化は概ね18世紀前半に、BからCへの変化は18世紀末(注7)。
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これは メッセージ 15599 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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