「竹島一件」以後の竹島(欝陵島)渡海2
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/06/17 22:29 投稿番号: [15610 / 18519]
これらの史料を見ても、「福浦より松島に至るには海上69里」という記述はないようです。後年の『竹嶋雑誌』には、享保年間(1716-35)に浜田の漁夫がしばしば竹島へ渡海したとの記事があるので、そのあたりから情報を得たのかも知れません。
いずれにしても、1837(天保8)年の渡海禁止以降は竹島(欝陵島)への密航もほとんど途絶えたでしょうし、ましてや紀行など証拠になるような資料は残さなかったでしょうから、参考になるような史料に乏しく、『大日本史』の「隠岐國四郡」記述は天保以前に骨格が定まったと見られます。
ところで、幕府は天保8年の竹島渡海禁止令で竹島(欝陵島)を下記のように朝鮮領と判断しましたが、『大日本史』がそれにふれないのは大きな疑問です。禁止令は全国規模の布告だったので、水戸藩も知っていたでしょうし、さらに、この布告の経緯について書かれた書物は『天保雑記』など多数ありました。また江戸市中でも話題になり、『甲子(かっし)夜話』にも書かれました。
それにもかかわらず『大日本史』で竹島を日本領としたのは、天保以後の史料をまったく見直さかったか、あるいは Am_I_AHO_1stさんが示唆したように天保の史実を「隠蔽」したのかも知れません。
天保の渡海禁止令ですが、これを受けて、たとえば加賀藩では次のような「ふれ書」(口語訳)が「郡方御觸」として記録されました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
1.今般、松平周防守の元の領地である石州の浜田松原浦にいた住所不定の八右衛門が竹島(欝陵島)へ渡海した一件、吟味のうえ、右の八右衛門その他はそれぞれ厳罰に処された。右の島は、昔は伯耆・米子の者たちが渡海して漁労などをしたが、元禄期に朝鮮の国へお渡しになった時から渡海停止が仰せつけられた場所である。
すべて異国へ渡海することは重いご禁制である。今後、右の島のことも同様に心得て渡海してはならない。もちろん、国々の廻船などは海上で異国船に出合わないように乗り筋などを心がける旨を先年も触れたとおりであるが、いよいよ守り、以後はなるべく遠い沖へ出ないように乗り回すことを申しつける。
右の趣御料は、ご代官私領は領主・地頭より浦方の村や町など洩らさず触れて知らせるべきである。また、触書の趣旨は立て札にして高札場などに懸け置くよう申しつける。
(天保8年)2月
右の通り、触れられるべきである(注3)。
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上のふれ書で注目されるのは、下記の3点です。
(1).元禄期に竹島(欝陵島)を朝鮮へ渡した。
(2).竹島(欝陵島)のみならず、なるべく遠い沖へ出てはならない。
(3).元禄時代とは違って、禁止令は全国への布令であった。
(2)の「遠い沖」の中には、隠岐から40里(160km)とも60里ともされる松島(竹島=独島)が入るのはいうまでもありません。結局、幕府は竹島および松島への渡海を実質的に禁止したのでした。元禄時代、幕府は竹島・松島を日本領ではないと確認していただけに当然の措置でした。
(注1)http://www.han.org/a/half-moon/hm111.html#No.819
(注2)北〓通〓、きたもとつうあん
「もと」は「クニガマエ」に元、「あん」は「葬」の死を合に置換。
(注3)お触れの原文、(竹島=独島論争)
(引用は「郡方御触 14」『加賀藩農政経済史料』第2期13回、1966)
http://www.kr-jp.net/edo/tenpou8hure.pdf
一 今度 松平周防守元領分 石州濱田松原浦ニ罷在候 無宿八右衛門 竹嶋江渡海いたし候一件 吟味之上 右八右衛門其外 夫々厳科ニ被行候 右嶋往古ハ 伯州米子之者共 渡海魚漁等いたし候得共 元禄之度 朝鮮國江御渡ニ相成候以来 渡海停止仰付候場処ニ有之
都而異國渡海之義者重キ御製禁ニ候条 向後右嶋之義も同様ニ相心得 渡海いたし間敷候 勿論國々之廻船等 海上ニおゐて 異國船不出合様 乗筋等心かけ可申旨 先年も相觸候通り弥相守以来者可成たけ遠沖乗不致様 乗廻り可申候
右之趣御料者御代官私領者 領主地頭より浦方村町共 不洩様可觸知候 尤觸書之趣 板札ニ認 高札塲等ニ懸置可申者也
二月
右之通可被相觸候
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
いずれにしても、1837(天保8)年の渡海禁止以降は竹島(欝陵島)への密航もほとんど途絶えたでしょうし、ましてや紀行など証拠になるような資料は残さなかったでしょうから、参考になるような史料に乏しく、『大日本史』の「隠岐國四郡」記述は天保以前に骨格が定まったと見られます。
ところで、幕府は天保8年の竹島渡海禁止令で竹島(欝陵島)を下記のように朝鮮領と判断しましたが、『大日本史』がそれにふれないのは大きな疑問です。禁止令は全国規模の布告だったので、水戸藩も知っていたでしょうし、さらに、この布告の経緯について書かれた書物は『天保雑記』など多数ありました。また江戸市中でも話題になり、『甲子(かっし)夜話』にも書かれました。
それにもかかわらず『大日本史』で竹島を日本領としたのは、天保以後の史料をまったく見直さかったか、あるいは Am_I_AHO_1stさんが示唆したように天保の史実を「隠蔽」したのかも知れません。
天保の渡海禁止令ですが、これを受けて、たとえば加賀藩では次のような「ふれ書」(口語訳)が「郡方御觸」として記録されました。
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1.今般、松平周防守の元の領地である石州の浜田松原浦にいた住所不定の八右衛門が竹島(欝陵島)へ渡海した一件、吟味のうえ、右の八右衛門その他はそれぞれ厳罰に処された。右の島は、昔は伯耆・米子の者たちが渡海して漁労などをしたが、元禄期に朝鮮の国へお渡しになった時から渡海停止が仰せつけられた場所である。
すべて異国へ渡海することは重いご禁制である。今後、右の島のことも同様に心得て渡海してはならない。もちろん、国々の廻船などは海上で異国船に出合わないように乗り筋などを心がける旨を先年も触れたとおりであるが、いよいよ守り、以後はなるべく遠い沖へ出ないように乗り回すことを申しつける。
右の趣御料は、ご代官私領は領主・地頭より浦方の村や町など洩らさず触れて知らせるべきである。また、触書の趣旨は立て札にして高札場などに懸け置くよう申しつける。
(天保8年)2月
右の通り、触れられるべきである(注3)。
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上のふれ書で注目されるのは、下記の3点です。
(1).元禄期に竹島(欝陵島)を朝鮮へ渡した。
(2).竹島(欝陵島)のみならず、なるべく遠い沖へ出てはならない。
(3).元禄時代とは違って、禁止令は全国への布令であった。
(2)の「遠い沖」の中には、隠岐から40里(160km)とも60里ともされる松島(竹島=独島)が入るのはいうまでもありません。結局、幕府は竹島および松島への渡海を実質的に禁止したのでした。元禄時代、幕府は竹島・松島を日本領ではないと確認していただけに当然の措置でした。
(注1)http://www.han.org/a/half-moon/hm111.html#No.819
(注2)北〓通〓、きたもとつうあん
「もと」は「クニガマエ」に元、「あん」は「葬」の死を合に置換。
(注3)お触れの原文、(竹島=独島論争)
(引用は「郡方御触 14」『加賀藩農政経済史料』第2期13回、1966)
http://www.kr-jp.net/edo/tenpou8hure.pdf
一 今度 松平周防守元領分 石州濱田松原浦ニ罷在候 無宿八右衛門 竹嶋江渡海いたし候一件 吟味之上 右八右衛門其外 夫々厳科ニ被行候 右嶋往古ハ 伯州米子之者共 渡海魚漁等いたし候得共 元禄之度 朝鮮國江御渡ニ相成候以来 渡海停止仰付候場処ニ有之
都而異國渡海之義者重キ御製禁ニ候条 向後右嶋之義も同様ニ相心得 渡海いたし間敷候 勿論國々之廻船等 海上ニおゐて 異國船不出合様 乗筋等心かけ可申旨 先年も相觸候通り弥相守以来者可成たけ遠沖乗不致様 乗廻り可申候
右之趣御料者御代官私領者 領主地頭より浦方村町共 不洩様可觸知候 尤觸書之趣 板札ニ認 高札塲等ニ懸置可申者也
二月
右之通可被相觸候
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
これは メッセージ 15609 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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