島根県の最終報告書、舩杉氏への批判2
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/07/01 22:21 投稿番号: [15630 / 18519]
明治前期における日本政府の公的認識はあくまでもこの三つの資料を中心に論じるべきです。まず、(1)「大日本府県管轄図」ですが、ここに松島と竹島は掲載されませんでした。この地図作成の二年前、内務省は島根県から提出された伺い書にある「竹島外一島」すなわち竹島と松島を日本の版図外と判断し、しかも「版図ノ取捨ハ重大之事件」との認識をもち、念のために最高国家機関である太政官から公的な版図外指令をえました。そうした経緯からすると、日本の版図を示す同省の地図に竹島(欝陵島)と松島(竹島=独島)が描かれないのは当然です。
同様に(2)「大日本国全図」も両島を記述しませんでした。問題は(3)「大日本府県分轄図」です。これについて舩杉氏は「大日本府県分轄図は松島を山陰道として彩色している」と報告書に記しましたが、前記の書籍は白黒写真のため、カラーは確認できませんでした。いずれ彩色の具合を確認したいと思いますが、国会図書館の「近代デジタルアーカイブ」でも色は確認できませんでした(注2)。
舩杉氏は、報告書において地理担当外部署の地図を大きく掲載しましたが、かんじんな地理局の「大日本分轄図」や、焦点の「磯竹島略図」はなぜか掲載しませんでした。同氏は「磯竹島略図」を伝えた中央日報の記事を「重要な史料」と紹介しながら、核心の「磯竹島略図」を掲載しないのは理解に苦しみます。両図は日本にとって好ましい地図でないだけに、資料の取捨にバイアスがかかっているといったら言い過ぎでしょうか。
このふたつの地図を並べると、竹島と松島の位置が似かよっていることに気づくはずです。それもその筈です。数ある地図の中で松島と竹島の位置情報が詳細に記されている地図は「磯竹島略図」くらいしかないので、内務省はそれを参考にしたようです。「磯竹島略図」に両島などの位置関係がこう記されました(注3)。
隠岐と松島間; 隠岐 島後の福浦より松島を隔てる北東80里(320km)ばかり
松島と竹島間; 松島より磯竹島を隔てる北東40里(160km)ばかり
竹島と朝鮮間: 磯竹島より朝鮮国を遠望する西北西に当り、海上およそ50里(200km)ばかり
この距離や方向にもとづいて「大日本府県分轄図」に竹島と松島が描かれたようです。その結果、両島の位置は朝鮮寄りになりました。なお、「大日本府県分轄図」に竹島と松島が描かれたといっても、各府県の管轄図に描かれたのではなく、「朝鮮」や「魯西亜領 満州」を含む極東図である「大日本全国略圖」だけに両島が描かれました。したがって、着色は別途確認するとして、モノクロ図で見るかぎり両島を日本領とみるのは困難です。ましてや、いずれかの府県に所属するものでもありません。
ところで、これらの地図に書かれた松島と竹島間の距離40里(160km)ですが、舩杉氏は40里を下記のように72kmとしているのは注目されます。
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一連の絵図では、両島(竹島と松島、半月城注)の距離はたいてい40里と描かれている。これは海里であり、約72kmである。むしろ日本の絵図の方が実際の距離(92km)に近いといえる(P128)。
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この一節には驚きました。絵図の時代には、経緯度の1分に相当する海里(1852m)の単位は西洋からまだ導入されていなかったはずですが、人文地理学(歴史地理学)の専門家が自信たっぷりにおっしゃるので、念のために江戸時代の「里」について調べることにします。
1801(享和元)年に書かれた矢田高当『長生竹島記』にこんな記述がありました。
「隠岐島後より松島ハ方角申酉の沖に当る卯方より吹出す風二日二夜〓り 道法三十六丁一里として海上行程百七十里程」
矢田は36丁を1里としていますが、1丁(町)は約109mであり、1里は約4kmになります。これは、明治の人もそのように理解しました。たとえば、奥原碧雲はこう記しました。
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隠岐の西北七十余里にして竹島ありと見ゆるは、まさしく欝陵島にあたり、水路誌に見えたる海上百四十浬に殆ど符合す(注4)
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(つづく)
同様に(2)「大日本国全図」も両島を記述しませんでした。問題は(3)「大日本府県分轄図」です。これについて舩杉氏は「大日本府県分轄図は松島を山陰道として彩色している」と報告書に記しましたが、前記の書籍は白黒写真のため、カラーは確認できませんでした。いずれ彩色の具合を確認したいと思いますが、国会図書館の「近代デジタルアーカイブ」でも色は確認できませんでした(注2)。
舩杉氏は、報告書において地理担当外部署の地図を大きく掲載しましたが、かんじんな地理局の「大日本分轄図」や、焦点の「磯竹島略図」はなぜか掲載しませんでした。同氏は「磯竹島略図」を伝えた中央日報の記事を「重要な史料」と紹介しながら、核心の「磯竹島略図」を掲載しないのは理解に苦しみます。両図は日本にとって好ましい地図でないだけに、資料の取捨にバイアスがかかっているといったら言い過ぎでしょうか。
このふたつの地図を並べると、竹島と松島の位置が似かよっていることに気づくはずです。それもその筈です。数ある地図の中で松島と竹島の位置情報が詳細に記されている地図は「磯竹島略図」くらいしかないので、内務省はそれを参考にしたようです。「磯竹島略図」に両島などの位置関係がこう記されました(注3)。
隠岐と松島間; 隠岐 島後の福浦より松島を隔てる北東80里(320km)ばかり
松島と竹島間; 松島より磯竹島を隔てる北東40里(160km)ばかり
竹島と朝鮮間: 磯竹島より朝鮮国を遠望する西北西に当り、海上およそ50里(200km)ばかり
この距離や方向にもとづいて「大日本府県分轄図」に竹島と松島が描かれたようです。その結果、両島の位置は朝鮮寄りになりました。なお、「大日本府県分轄図」に竹島と松島が描かれたといっても、各府県の管轄図に描かれたのではなく、「朝鮮」や「魯西亜領 満州」を含む極東図である「大日本全国略圖」だけに両島が描かれました。したがって、着色は別途確認するとして、モノクロ図で見るかぎり両島を日本領とみるのは困難です。ましてや、いずれかの府県に所属するものでもありません。
ところで、これらの地図に書かれた松島と竹島間の距離40里(160km)ですが、舩杉氏は40里を下記のように72kmとしているのは注目されます。
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一連の絵図では、両島(竹島と松島、半月城注)の距離はたいてい40里と描かれている。これは海里であり、約72kmである。むしろ日本の絵図の方が実際の距離(92km)に近いといえる(P128)。
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この一節には驚きました。絵図の時代には、経緯度の1分に相当する海里(1852m)の単位は西洋からまだ導入されていなかったはずですが、人文地理学(歴史地理学)の専門家が自信たっぷりにおっしゃるので、念のために江戸時代の「里」について調べることにします。
1801(享和元)年に書かれた矢田高当『長生竹島記』にこんな記述がありました。
「隠岐島後より松島ハ方角申酉の沖に当る卯方より吹出す風二日二夜〓り 道法三十六丁一里として海上行程百七十里程」
矢田は36丁を1里としていますが、1丁(町)は約109mであり、1里は約4kmになります。これは、明治の人もそのように理解しました。たとえば、奥原碧雲はこう記しました。
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隠岐の西北七十余里にして竹島ありと見ゆるは、まさしく欝陵島にあたり、水路誌に見えたる海上百四十浬に殆ど符合す(注4)
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(つづく)
これは メッセージ 15629 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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