下條正男批判、江戸時代の地図の彩色2
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/06/10 21:42 投稿番号: [15600 / 18519]
下條氏が見たという「日本輿地路程全図」は引用先が不明なので、彩色に関して下條氏の反論が有効かどうか、さらなる検証が必要です。初版本でも多少の異同があるので、それらを総合的に検証する必要があります。たまに、私的な一枚の地図だけをとりあげて、領有権の決定的資料と喧伝する人が日韓両国にいますが、それに踊らされないよう心がけたいものです。
ともかく、下條氏は神戸図書館の初版本を見ていないようですが、先行研究に反論するからには文献批判を綿密に行ない、慎重な態度で臨むべきでした。そうした彼は、堀氏へのさらなる反論をこう記しました。
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また、もう一つ重要な事実がある。それは長久保赤水の『日本輿地路程全図』に描かれた鬱陵島(図では竹島と表記)の右上に、「高麗を見ること、猶雲州より隠州を望むがごとし」という付記があることである。この付記は齊藤豊仙(ママ)の『隠州視聴合記』からの引用である。この事実から見ても、長久保赤水が鬱陵島を日本領と認識していたことは明らかである(注2)。
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下條氏は『隠州視聴合記』において斉藤豊宣が竹島・松島を日本領に解釈していると断定していますが、これは我田引水のようです。池内敏氏の詳細な研究によれば「この史料(『隠州視聴合記』)をもって、竹島/独島が当時の日本の版図から外れたものと認識されていたとするのは妥当(注6)」とされるからです。この池内氏の論文に対し、下條氏からの反論はまだないようです。
長久保赤水は下條氏も認めるように『隠州視聴合記』を踏襲しているので、当然、赤水も斉藤豊宣同様に竹島・松島を日本の版図外と認識していたということになり、下條説は成り立ちません。
下條氏の我田引水はこれだけにとどまらないようです。堀説への反論をこう書き加えました。
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この例から言えるのは、長久保赤水が鬱陵島や竹島を日本の領土として認識していたかどうかは、彩色の有無だけでは判断ができない、ということである。
そのことは、一八五二(嘉永五)年、鈴木驥園が長久保赤水の『日本輿地路程全図』を改訂して刊行した『増訂 大日本国郡 輿地路程全図』からも裏づけられる。そこでは竹島、松島、沖永良部島、青ヶ島にも日本本土と同じく黄色い彩色がほどこされているからである(注2)。
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この文に下條氏特有の論法を見る気がします。長久保赤水の竹島・松島認識を問題にしているのに、なぜ長久保赤水が亡くなって 50年後の、しかも他人の地図をわざわざ持ちだすのでしょうか? 私には単なる論点ずらしにしか受け取れません。しかも、鈴木驥園の地図は私的なものなので、資料価値に乏しいことはいうまでもありません。
下條氏は今年3月まで竹島問題研究会の座長を務めましたが、そのような人だからこそ島根県によって選ばれたのかも知れません。最初から「竹島は日本領」という結論ありきの会では、島根大学の内藤先生のような方が選ばれないのは当然と思われます。
余談はさておいて本論にもどりますが、下條氏が例示した地図のように、竹島・松島を一対にして隠岐と同色に彩色される地図が出現するようになったのはいつごろからでしょうか? この変遷を池内敏氏はこう記しました。
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江戸時代の日本図における竹島(鬱陵島)・松島(竹島/独島)記載や彩色の有無に関する年代的な特徴とは、「A.記載無し -- -> B.記載あり無彩色 -- -> C.記載あり彩色」とする変化。AからBへの変化は概ね18世紀前半に、BからCへの変化は18世紀末(注7)。
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ともかく、下條氏は神戸図書館の初版本を見ていないようですが、先行研究に反論するからには文献批判を綿密に行ない、慎重な態度で臨むべきでした。そうした彼は、堀氏へのさらなる反論をこう記しました。
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また、もう一つ重要な事実がある。それは長久保赤水の『日本輿地路程全図』に描かれた鬱陵島(図では竹島と表記)の右上に、「高麗を見ること、猶雲州より隠州を望むがごとし」という付記があることである。この付記は齊藤豊仙(ママ)の『隠州視聴合記』からの引用である。この事実から見ても、長久保赤水が鬱陵島を日本領と認識していたことは明らかである(注2)。
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下條氏は『隠州視聴合記』において斉藤豊宣が竹島・松島を日本領に解釈していると断定していますが、これは我田引水のようです。池内敏氏の詳細な研究によれば「この史料(『隠州視聴合記』)をもって、竹島/独島が当時の日本の版図から外れたものと認識されていたとするのは妥当(注6)」とされるからです。この池内氏の論文に対し、下條氏からの反論はまだないようです。
長久保赤水は下條氏も認めるように『隠州視聴合記』を踏襲しているので、当然、赤水も斉藤豊宣同様に竹島・松島を日本の版図外と認識していたということになり、下條説は成り立ちません。
下條氏の我田引水はこれだけにとどまらないようです。堀説への反論をこう書き加えました。
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この例から言えるのは、長久保赤水が鬱陵島や竹島を日本の領土として認識していたかどうかは、彩色の有無だけでは判断ができない、ということである。
そのことは、一八五二(嘉永五)年、鈴木驥園が長久保赤水の『日本輿地路程全図』を改訂して刊行した『増訂 大日本国郡 輿地路程全図』からも裏づけられる。そこでは竹島、松島、沖永良部島、青ヶ島にも日本本土と同じく黄色い彩色がほどこされているからである(注2)。
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この文に下條氏特有の論法を見る気がします。長久保赤水の竹島・松島認識を問題にしているのに、なぜ長久保赤水が亡くなって 50年後の、しかも他人の地図をわざわざ持ちだすのでしょうか? 私には単なる論点ずらしにしか受け取れません。しかも、鈴木驥園の地図は私的なものなので、資料価値に乏しいことはいうまでもありません。
下條氏は今年3月まで竹島問題研究会の座長を務めましたが、そのような人だからこそ島根県によって選ばれたのかも知れません。最初から「竹島は日本領」という結論ありきの会では、島根大学の内藤先生のような方が選ばれないのは当然と思われます。
余談はさておいて本論にもどりますが、下條氏が例示した地図のように、竹島・松島を一対にして隠岐と同色に彩色される地図が出現するようになったのはいつごろからでしょうか? この変遷を池内敏氏はこう記しました。
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江戸時代の日本図における竹島(鬱陵島)・松島(竹島/独島)記載や彩色の有無に関する年代的な特徴とは、「A.記載無し -- -> B.記載あり無彩色 -- -> C.記載あり彩色」とする変化。AからBへの変化は概ね18世紀前半に、BからCへの変化は18世紀末(注7)。
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これは メッセージ 15599 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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