竹島

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島根県の最終報告書、舩杉氏への批判1

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/07/01 22:20 投稿番号: [15629 / 18519]
   半月城です。

   前回、紹介したように、島根県 竹島問題研究会の下條正男座長は最終報告書において、明治政府の『公文録』付属の地図「磯竹島略図」に書かれた磯竹島(竹島)を現在の欝陵島、松島を竹島=独島と認めました。そのうえで『公文録』本文に書かれた竹島も松島も共に現在の欝陵島であり、竹島=独島ではないと強弁しました。
   一方、同研究会で人文地理学(歴史地理学)が専門の舩杉力修委員は、こうした下條説を踏襲しているのかどうか、あまりはっきりしないのですが、『公文録』に書かれた「外一島」は現在の竹島=独島かどうかの断定を避けて、懐疑的にこう記しました。
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   明治初期における日本政府の地理的認識は、地図の分析から、竹島はアルゴノート島(実在しない島)、松島はダジュレー島(鬱陵島)にあったと考えるのが妥当であり、いわゆる「外一島」が現在の竹島を指していたかどうかは極めて疑わしいといえる(P155)。
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   舩杉氏は、このような疑問をもった背景説明として太政官の版図外指令のあった明治10(1877)年前後に描かれた日本政府の下記の地図を引用しました。
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(1)1875年(明治8)陸軍参謀局「朝鮮全図」【図3−15】。
(2)1875年(明治8)陸軍参謀局「亜細亜東部輿地図」【図3−16】。
(3)1876年(明治9)海軍省水路局、海図「朝鮮東海岸図」。
(4)1877年(明治10)文部省「日本全図」。
(5)1881年(明治14)内務省地理局「大日本府県分轄図」(全図)。
(6)1882年(明治15)内務省地理局「朝鮮全図」【図3−17】。
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   しかしながら、これらの地図は「日本政府」の地理的認識を知るには大半が二次的な意味しか持ちません。文部省や陸軍などが竹島=独島に関していかなる認識を持とうとも、それは政府部内の一機関の認識にすぎず、地理や領土問題の担当外である政府機関の認識は決して日本政府の公式見解にはなりえません。
   日本政府の公式見解は、1877年ころなら国境画定の役割をもった内務省、および最終的に太政官が示すことができました。時代がくだると、国境画定機関は、やがて海軍省から独立した水路部がになうようになりますが、太政官が「竹島外一島」を版図外とした当時は内務省の地理局が担当機関であり、その部署で公的な日本地図や地誌が作成されました。

   さて、政府の日本領土に関する公的な認識を知るうえにおいて、上記(6)の「朝鮮全図」も参考程度にしかなりません。当時は、日本の地理局が朝鮮領土をすべて正確に認識するのは望むべくもありませんでした。この地図も除外されるとなると、上記で残るのは地理局の(5)「大日本府県分轄図」のみになります。
   といっても、領土に関する日本政府の公的認識を知るには、上記の(5)だけでは充分ではありません。舩杉氏は、なぜか地理局発行の他の地図を引用せず、地理担当部署と雑多な機関の地図とを峻別せず、ミソもクソもいっしょくたにしましたが、地理局発行の地図はすべて重要です。
   上記以外に地理局からどのような地図が発行されたのか、これは書籍『明治前期 内務省地理局作成地図集成』から容易に知ることができます(注1)。関連する地図は下記のとおりですが、いずれも経緯度が記入されました。

1.明治12年(1879)大日本府県管轄図/地理局測量課
2.明治13年(1880)大日本国全図/地理局地誌課
3.明治14年(1881)大日本府県分轄図/地理局地誌課
(つづく)
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