島根県の最終報告書、下條氏への批判3
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/06/24 22:42 投稿番号: [15624 / 18519]
この史料で大谷家が漂着したのはまぎれもなく竹島(欝陵島)とされました。さらに、大谷家が松島へ渡海を申し出たのは上記に書かれた1617年ではなく、1650年代だったことが大谷家文書「幕府巡検使に対する請書」から知られており、上記の文脈に合いません。
このように、うえの文章における「永禄年間」以降の説明は松島ではなく、竹島に終始しているのであり、したがって「この地」は松島ではあり得ません。さらに、下條氏は「現在の竹島については何も書かれていない」と記しましたが、上記「由来の概略」には松島について島の大きさや位置、産物などが間違いなく書かれています。それを再掲します。
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次に一島あり。松島と呼ぶ。周囲30町(3.3km)である。竹島と同じ船路にある。隠岐をへだてる80里(320km)ばかりである。樹木や竹は稀である。また、魚や獣(アシカか)を産する。
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この文章は、大谷家文書などをもとにして島根県によって書かれただけに、松島が今日の竹島=独島をさすことは疑いありません。また、この記述は、島根県が同時に提出した磯竹島略図に書かれた位置や大きさに合致することはいうまでもありません。これを今日の竹島=独島ではないとする下條氏の新説は、すこし我田引水が過ぎるようです。
結局、下條氏の論証は成り立たないので、(3)の「太政官のいう「竹島他一島」は二つの鬱陵島である」という結論が誤りなのはいうまでもありません。『フォトしまね』の重大な記述を変えるのに、何とも杜撰な論証といわざるを得ません。変説は、もっときちんとした論証を行ってからにすべきです。
それでも下條氏が、公文録付属の磯竹島略図に書かれた松島を今日の竹島=独島であると認めたのは一歩前進ではないでしょうか。ま、昨年6月、漆崎氏に協力していただき、私が磯竹島略図を初公開した甲斐はりました。
それにしても、焦点になっている重要な磯竹島略図を最終報告書に掲載しなかったのはなぜでしょうか? 島根県に不利な史料で一部の読者を動揺させないためでしょうか?
この磯竹島略図に関連して、舩杉力修氏が最終報告書でコメントを書いていますが、それへの批判は後日にゆずります。なお、磯竹島略図を付属している公文録などの重要史料は下記で写真を見ることができます。
・公文録、内務省之部-明治10(1877)年
http://www.kr-jp.net/meiji/koubun/koubun.html
・太政類典、「竹島外一島 版図外ト定ム」明治10(1877)年
http://www.kr-jp.net/meiji/dajou/dajou-m10.html
(注1)「特集 竹島」『フォトしまね』161号、P7
http://www.pref.shimane.lg.jp/kochokoho/photo/161/05.html
(注2)内藤・朴『竹島=独島論争』新幹社、2007,P206
(注3)同上、P85
(注4)川上健三『竹島の歴史地理学的研究』古今書院、1996(復刻版)P72
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
このように、うえの文章における「永禄年間」以降の説明は松島ではなく、竹島に終始しているのであり、したがって「この地」は松島ではあり得ません。さらに、下條氏は「現在の竹島については何も書かれていない」と記しましたが、上記「由来の概略」には松島について島の大きさや位置、産物などが間違いなく書かれています。それを再掲します。
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次に一島あり。松島と呼ぶ。周囲30町(3.3km)である。竹島と同じ船路にある。隠岐をへだてる80里(320km)ばかりである。樹木や竹は稀である。また、魚や獣(アシカか)を産する。
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この文章は、大谷家文書などをもとにして島根県によって書かれただけに、松島が今日の竹島=独島をさすことは疑いありません。また、この記述は、島根県が同時に提出した磯竹島略図に書かれた位置や大きさに合致することはいうまでもありません。これを今日の竹島=独島ではないとする下條氏の新説は、すこし我田引水が過ぎるようです。
結局、下條氏の論証は成り立たないので、(3)の「太政官のいう「竹島他一島」は二つの鬱陵島である」という結論が誤りなのはいうまでもありません。『フォトしまね』の重大な記述を変えるのに、何とも杜撰な論証といわざるを得ません。変説は、もっときちんとした論証を行ってからにすべきです。
それでも下條氏が、公文録付属の磯竹島略図に書かれた松島を今日の竹島=独島であると認めたのは一歩前進ではないでしょうか。ま、昨年6月、漆崎氏に協力していただき、私が磯竹島略図を初公開した甲斐はりました。
それにしても、焦点になっている重要な磯竹島略図を最終報告書に掲載しなかったのはなぜでしょうか? 島根県に不利な史料で一部の読者を動揺させないためでしょうか?
この磯竹島略図に関連して、舩杉力修氏が最終報告書でコメントを書いていますが、それへの批判は後日にゆずります。なお、磯竹島略図を付属している公文録などの重要史料は下記で写真を見ることができます。
・公文録、内務省之部-明治10(1877)年
http://www.kr-jp.net/meiji/koubun/koubun.html
・太政類典、「竹島外一島 版図外ト定ム」明治10(1877)年
http://www.kr-jp.net/meiji/dajou/dajou-m10.html
(注1)「特集 竹島」『フォトしまね』161号、P7
http://www.pref.shimane.lg.jp/kochokoho/photo/161/05.html
(注2)内藤・朴『竹島=独島論争』新幹社、2007,P206
(注3)同上、P85
(注4)川上健三『竹島の歴史地理学的研究』古今書院、1996(復刻版)P72
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
これは メッセージ 15623 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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