下條正男批判、江戸時代の地図の彩色1
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/06/10 21:38 投稿番号: [15599 / 18519]
半月城です。
Re:15592
> それでも『大日本史』なぞは二島は隠岐の一部と書きながらも、慎重を期して、どういう経緯でそうなったか分からないと注記したわけですよ。
> つまり、当時の人も、なぜ急に二島が隠岐の一部とされるようになったのか、その原因が分かっていないわけですから、「日本輿地路程全圖」の変質も原因不明のミスプリントであると結論せざるを得ないでしょう。
まず、江戸時代の地図において竹島=独島がどのように彩色されているのか、先人の研究を確認したいと思います。この問題の草分けである堀和生氏は崔書勉説を踏襲してこう記しました。
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「竹島一件」以後の幕府の領土意識を示す資料として、その官撰地図があげられる。日本の官撰地図のなかで、松島=独島を最初に画いたのは、長久保赤水の「日本輿地路程全図」(1773年)である。この地図は経緯線を使用した最初の地図でもあった。長久保は、更に木版彩色刷りの「日本輿地路程全図」(1778年)を刊行した。
この地図で特に注目されるのは、日本本土とその付属地にはすべて彩色をほどこしているが、竹島と松島は、朝鮮半島とともに彩色していないことである。つまり、「竹島一件」を踏まえた後の官撰地図は、竹島、松島をともに日本領として取扱っていないのである。
また、古地図の段階を完全に脱皮したといわれる官撰地図、伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」(1821年)には、竹島、松島ともに含まれていないのである。つまり、一七世紀半ばにはやや曖昧であったが、元禄期の朝鮮政府との交渉を経た後には、幕府は松島=独島の存在を認知していながら、それを日本領だとは見ていなかったのである(注1)。
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堀和生氏は「日本輿地路程全図」の初版を1778年としていますが、長久保赤水の子孫によれば1779年とのことです(注2)。それはさておき、この堀説に異議を唱えたのが下條正男氏であり、こう記しました。
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ところが、実際に『日本輿地路程全図』を見ると、崔書勉氏の主張には根拠がないことが分かる。日本の付属地で彩色がほどこされていないのは、鬱陵島や竹島に限らないからである。鬱陵島や竹島と同様、沖永良部島、青ヶ島、沖ノ島などにも彩色がほどこされていない。しかも沖永良部島には、「是より南百二十里、琉球国」とする付記があり、長久保赤水が沖永良部島を日本領として認識していることが分かる(注3)。
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下條氏は「日本輿地路程全図」において竹島=独島が朝鮮と同様に無彩色とされたことを認めたうえで、沖永良部島は日本領にもかかわらず無彩色なので、崔書勉・堀説は成り立たないと主張しました。
しかし、沖永良部島が初版本で本当に無彩色なのかどうかは検証を要します。「日本輿地路程全図」初版本の写真が神戸市立図書館から出版されましたが、そこでは沖永良部島は大隅半島と同色に彩色されているようです(注4)。
ただ、東北大学の狩野文庫にある「日本輿地路程全図」(初版)ですが、これは傷みや変色がはげしく、インターネットで見た限りでは、九州南部の竹島、黒シマ、永良部が薩摩半島と同色かどうか断定は微妙です(注5)。ちなみに、それらの島は後世の「日本輿地路程全図」では航路が大隅半島ではなく、薩摩半島と結ばれました。
(つづく)
Re:15592
> それでも『大日本史』なぞは二島は隠岐の一部と書きながらも、慎重を期して、どういう経緯でそうなったか分からないと注記したわけですよ。
> つまり、当時の人も、なぜ急に二島が隠岐の一部とされるようになったのか、その原因が分かっていないわけですから、「日本輿地路程全圖」の変質も原因不明のミスプリントであると結論せざるを得ないでしょう。
まず、江戸時代の地図において竹島=独島がどのように彩色されているのか、先人の研究を確認したいと思います。この問題の草分けである堀和生氏は崔書勉説を踏襲してこう記しました。
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「竹島一件」以後の幕府の領土意識を示す資料として、その官撰地図があげられる。日本の官撰地図のなかで、松島=独島を最初に画いたのは、長久保赤水の「日本輿地路程全図」(1773年)である。この地図は経緯線を使用した最初の地図でもあった。長久保は、更に木版彩色刷りの「日本輿地路程全図」(1778年)を刊行した。
この地図で特に注目されるのは、日本本土とその付属地にはすべて彩色をほどこしているが、竹島と松島は、朝鮮半島とともに彩色していないことである。つまり、「竹島一件」を踏まえた後の官撰地図は、竹島、松島をともに日本領として取扱っていないのである。
また、古地図の段階を完全に脱皮したといわれる官撰地図、伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」(1821年)には、竹島、松島ともに含まれていないのである。つまり、一七世紀半ばにはやや曖昧であったが、元禄期の朝鮮政府との交渉を経た後には、幕府は松島=独島の存在を認知していながら、それを日本領だとは見ていなかったのである(注1)。
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堀和生氏は「日本輿地路程全図」の初版を1778年としていますが、長久保赤水の子孫によれば1779年とのことです(注2)。それはさておき、この堀説に異議を唱えたのが下條正男氏であり、こう記しました。
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ところが、実際に『日本輿地路程全図』を見ると、崔書勉氏の主張には根拠がないことが分かる。日本の付属地で彩色がほどこされていないのは、鬱陵島や竹島に限らないからである。鬱陵島や竹島と同様、沖永良部島、青ヶ島、沖ノ島などにも彩色がほどこされていない。しかも沖永良部島には、「是より南百二十里、琉球国」とする付記があり、長久保赤水が沖永良部島を日本領として認識していることが分かる(注3)。
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下條氏は「日本輿地路程全図」において竹島=独島が朝鮮と同様に無彩色とされたことを認めたうえで、沖永良部島は日本領にもかかわらず無彩色なので、崔書勉・堀説は成り立たないと主張しました。
しかし、沖永良部島が初版本で本当に無彩色なのかどうかは検証を要します。「日本輿地路程全図」初版本の写真が神戸市立図書館から出版されましたが、そこでは沖永良部島は大隅半島と同色に彩色されているようです(注4)。
ただ、東北大学の狩野文庫にある「日本輿地路程全図」(初版)ですが、これは傷みや変色がはげしく、インターネットで見た限りでは、九州南部の竹島、黒シマ、永良部が薩摩半島と同色かどうか断定は微妙です(注5)。ちなみに、それらの島は後世の「日本輿地路程全図」では航路が大隅半島ではなく、薩摩半島と結ばれました。
(つづく)
これは メッセージ 15592 (Am_I_AHO_1st さん)への返信です.
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