Re: 「竹島一件」以後の竹島(欝陵島)渡海
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2007/06/21 07:17 投稿番号: [15615 / 18519]
ちよっとだけですがお返事いただきありがとうございます。
>個人のインターネットは出版物と違っていつでも削除可能なので、研究者の批判対象にはならないというのが通例です。これまで私は気軽に、いわば下書きのつもりで書いてきました。誤字や考え違いが多くて当たり前です。
まあ半月城さんのように大量に長文を書いていれば主張に考え違いが生じてしまうのはよくあることで、それをいちいちあげつらうつもりは最初からないわけですが、今回の『「竹島一件」以後の竹島(欝陵島)渡海』は矛盾に気がついた後につじつまが合うように修正した上で書き込んだはずなので、これに矛盾があれば大問題です。そんなわけであれこれ検討してみましたが、どうもおかしな箇所があるようでいくつか紹介してみましょう。
>この記事のもとになった「隠岐古記」は 大西教保の『隠岐古記集』(1823)に引用された史料とは異なるかも知れません。『隠岐古記集』では『隠州視聴合紀』同様に竹島・松島は隠岐に属さない理解になっており、上記の文脈に合いません。
『隠岐古記集』と『隠岐国古記』が同じ内容なのに『隠岐古記』が異なる史料であると主張するのはあまりにも無理があります。文脈に合わないのは『隠岐古記集』に「日本の乾地 此国を以て限りとする」とあるのを竹島・松島は隠岐に属さないと理解したからであって、「此州」であれ 「此国」であれ竹島・松島は隠岐に属していると理解すれば何の問題もありません。『隠岐古記』は『隠岐古記集』の略称であって、「此州」の『隠州視聴合紀』も「此国」の『隠岐古記集』も歴史的に竹島・松島は隠岐に含まれると解釈されてきたということではないでしょうか。
私の考えでは『隠岐国古記』と『隠岐古記』が同じものかどうか客観的に検証する方法が二つあります。一つめは『大日本史』に引用された『隠岐古記』の記述と『隠岐古記集』の記述が一致しているかどうかを比較する方法です。半月城hpにある『大日本史』の資料を読むと、『隠岐古記』には「始国府在島後当時派吏於此以治島前二郡故曰別府」・「有宇類美地即駐蹕之処」・「皇居址曰宇類美坊曰仁天里坊二寺尚存」と判断とできる記述があるのがわかります。もしこれと同じ意味の記述が『隠岐古記集』にあれば、『隠岐古記集』と『隠岐古記』は同じものであると判断できます。
二つ目は『大日本史』の長久保赤水の草稿に『隠岐古記』についての記述があるか確認する方法です。半月城hpにはこのようにあります、
『大日本史』の地理志草稿は赤水自筆の漢文体が10数冊残っている。天明6年(1786)に赤水(70歳)は、地理志編修に従事し「彰考館編修」の職名で致仕(退官)する81歳まで10年余りを侍講の傍ら、日本68か国の各郡村の由来・名所旧跡などの地誌を 諸資料を閲覧して要約した。十数冊に及ぶ草稿は、詳し過ぎて『大日本史』には不採用となった。明治時代にはいり栗田寛(彰考館編修のち東京大学教授)の新たな編修で、「国郡誌」の名称で、大日本史に集録された。
竹島=独島と『隠州視聴合記』『大日本史』
http://www.han.org/a/half-moon/hm111.html#No.819
赤水自筆の草稿が十数冊あるわけですから隠岐の草稿も現存している可能性があります。長久保赤水は1801年に死去していて『隠岐国古記』の成立が1823年なわけですから、赤水自筆の草稿に『隠岐古記』の記述があれば 『隠岐古記集』と『隠岐古記』が異なる資料であるという半月城さんの主張は正しいことが証明できます。もし草稿に記述がなければどうなるでしょうか???ただし私は一介のねちずんにすぎないわけですから、これを調べるのは荷が重過ぎます。ぜひ有志の皆さんにお任せしたいと思います。
もう一つ半月城さんの主張によれば竹島松島は日本領であるという『大日本史』の認識は長久保赤水の認識ということになります。長久保赤水といえば言うまでもなく『改正日本輿地路程全図』を刊行した人物です。となると赤水が『日本輿地路程全図』で竹島松島を無彩色にしたのは決して竹島松島を日本領と認識していなかったからではない、ということになります。『日本輿地路程全図』についての下條教授の主張に対する半月城さんの批判は全くの筋違いですね。
>個人のインターネットは出版物と違っていつでも削除可能なので、研究者の批判対象にはならないというのが通例です。これまで私は気軽に、いわば下書きのつもりで書いてきました。誤字や考え違いが多くて当たり前です。
まあ半月城さんのように大量に長文を書いていれば主張に考え違いが生じてしまうのはよくあることで、それをいちいちあげつらうつもりは最初からないわけですが、今回の『「竹島一件」以後の竹島(欝陵島)渡海』は矛盾に気がついた後につじつまが合うように修正した上で書き込んだはずなので、これに矛盾があれば大問題です。そんなわけであれこれ検討してみましたが、どうもおかしな箇所があるようでいくつか紹介してみましょう。
>この記事のもとになった「隠岐古記」は 大西教保の『隠岐古記集』(1823)に引用された史料とは異なるかも知れません。『隠岐古記集』では『隠州視聴合紀』同様に竹島・松島は隠岐に属さない理解になっており、上記の文脈に合いません。
『隠岐古記集』と『隠岐国古記』が同じ内容なのに『隠岐古記』が異なる史料であると主張するのはあまりにも無理があります。文脈に合わないのは『隠岐古記集』に「日本の乾地 此国を以て限りとする」とあるのを竹島・松島は隠岐に属さないと理解したからであって、「此州」であれ 「此国」であれ竹島・松島は隠岐に属していると理解すれば何の問題もありません。『隠岐古記』は『隠岐古記集』の略称であって、「此州」の『隠州視聴合紀』も「此国」の『隠岐古記集』も歴史的に竹島・松島は隠岐に含まれると解釈されてきたということではないでしょうか。
私の考えでは『隠岐国古記』と『隠岐古記』が同じものかどうか客観的に検証する方法が二つあります。一つめは『大日本史』に引用された『隠岐古記』の記述と『隠岐古記集』の記述が一致しているかどうかを比較する方法です。半月城hpにある『大日本史』の資料を読むと、『隠岐古記』には「始国府在島後当時派吏於此以治島前二郡故曰別府」・「有宇類美地即駐蹕之処」・「皇居址曰宇類美坊曰仁天里坊二寺尚存」と判断とできる記述があるのがわかります。もしこれと同じ意味の記述が『隠岐古記集』にあれば、『隠岐古記集』と『隠岐古記』は同じものであると判断できます。
二つ目は『大日本史』の長久保赤水の草稿に『隠岐古記』についての記述があるか確認する方法です。半月城hpにはこのようにあります、
『大日本史』の地理志草稿は赤水自筆の漢文体が10数冊残っている。天明6年(1786)に赤水(70歳)は、地理志編修に従事し「彰考館編修」の職名で致仕(退官)する81歳まで10年余りを侍講の傍ら、日本68か国の各郡村の由来・名所旧跡などの地誌を 諸資料を閲覧して要約した。十数冊に及ぶ草稿は、詳し過ぎて『大日本史』には不採用となった。明治時代にはいり栗田寛(彰考館編修のち東京大学教授)の新たな編修で、「国郡誌」の名称で、大日本史に集録された。
竹島=独島と『隠州視聴合記』『大日本史』
http://www.han.org/a/half-moon/hm111.html#No.819
赤水自筆の草稿が十数冊あるわけですから隠岐の草稿も現存している可能性があります。長久保赤水は1801年に死去していて『隠岐国古記』の成立が1823年なわけですから、赤水自筆の草稿に『隠岐古記』の記述があれば 『隠岐古記集』と『隠岐古記』が異なる資料であるという半月城さんの主張は正しいことが証明できます。もし草稿に記述がなければどうなるでしょうか???ただし私は一介のねちずんにすぎないわけですから、これを調べるのは荷が重過ぎます。ぜひ有志の皆さんにお任せしたいと思います。
もう一つ半月城さんの主張によれば竹島松島は日本領であるという『大日本史』の認識は長久保赤水の認識ということになります。長久保赤水といえば言うまでもなく『改正日本輿地路程全図』を刊行した人物です。となると赤水が『日本輿地路程全図』で竹島松島を無彩色にしたのは決して竹島松島を日本領と認識していなかったからではない、ということになります。『日本輿地路程全図』についての下條教授の主張に対する半月城さんの批判は全くの筋違いですね。
これは メッセージ 15609 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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