竹島

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島根県の最終報告書、下條氏への批判2

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/06/24 20:22 投稿番号: [15623 / 18519]
   この下條説に対する疑問点は下記の三点です。
(1).島根県は「竹島他一島」すなわちを磯竹島(欝陵島)と竹島=独島を日本領と認識していた。
(2).「公文録」や「太政類典」には、「鳥取藩米子の大谷家が漂着した」松島に関する記載があるが、竹島=独島についての記述がない。
(3).太政官のいう「竹島他一島」は二つの鬱陵島である。

   まず(1)ですが、島根県は「竹島外一島」を日本領という結論をくだしたわけではありません。「山陰一帯の西部」に付属するのかどうか、つまり日本領かどうか確信がもてないから内務省へ伺書を提出したのでした。
   つぎに(2)ですが、下條氏は、大谷家が漂着したのは「松島」としましたが、これは「竹島」の誤読ではないでしょうか。これは「公文録」や「太政類典」をみるかぎりではあいまいなので、さらなる検証が必要です。
   その前に公文録の記述をみることにします。その中に島根県が内務省に提出した「日本海内 竹島外一島 地籍編纂方伺」が添付されましたが、その伺い書に松島は口語訳でこう記されました。
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島根県「由来の概略」の口語訳
  磯竹島、あるいは竹島と称する。隠岐国の北西120里(480km)ばかりのところにある。周囲およそ10里(40km)である。山は峻険で平地はすくない。川は3条ある。また滝がある。しかし、谷は深く、うっそうと樹木や竹が繁り、水源を知ることはできない。
   ・・・
  次に一島あり。松島と呼ぶ。周囲30町(3.3km)である。竹島と同じ船路にある。隠岐をへだてる80里(320km)ばかりである。樹木や竹は稀である。また、魚や獣(アシカか)を産する。
  永禄年間(1558-1569)に伯耆(ほうき)国・会見郡米子町の商人、大屋(のちに大谷と改名)甚吉が航海で越後より帰るさい、熱帯性低気圧に遭遇し、この地に漂流した。ついに全島を巡視したところ、すこぶる魚貝に富んでいるのを知り、帰国の日、検使の安倍四郎五郎 <時に幕名により米子城に居る>にそのおもむきを申し出、以後、渡海を申請した。安倍氏が江戸に紹介して、許可書を得た。じつに元和4年(1618)5月16日である(注3)。
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   この文章だけを見ると、大谷家が漂流した「この地」が松島であるかのようにも受け取れます。しかし、漂着した「この地」は竹島(欝陵島)であることを、川上健三氏はこう記しました。
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   大谷九右衛門の『竹島渡海由来記 抜書控』、『大谷家由緒実記』その他の大谷家文書によれば、米子で廻船業を営んでいた大谷甚吉は、元和三年(1617年)越後から帰帆の途上難風に遭って竹島(欝陵島)に漂着し、同島を踏査したところ、無人の孤島で天与の宝庫であることが判明した(注4)。
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   念のために『竹島渡海由来記 抜書控』をひもとくと、そこにはこう書かれてました。
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  永禄年中 玄番長男 和田九右ヱ門勝宗ニ甥甚吉と申者有之 米子灘江引越住居為 数回 船家業相営居処 越後国ヨリ帰帆之[石切] 与風竹島へ漂流 甚吉全ク島廻り越方等熟思致処 朝鮮國相隔事 四拾里斗 人家更に無之土産所務之品有之
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(つづく)
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