「竹島一件」以後の竹島(欝陵島)渡海1
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/06/17 22:28 投稿番号: [15609 / 18519]
半月城です。
Re:15602,Am_I_AHO_1stさん
>『大日本史』の国郡誌は長久保赤水の膨大な原稿は不採用になり、明治時代になって栗田寛によって編集され大日本史に集録されたと赤水の子孫が述べていましたよね。お忘れですか。
たしかに私は<竹島=独島と『隠州視聴合記』『大日本史』>でそのように書いています(注1)。ただ、赤水の原稿が不採用になったといっても、かれの草稿や、かれが集めた資料は同じ水戸藩の粟田寛によって『大日本史』を書く際に参考にされたでしょうから、赤水の認識が色濃く反映していたと見るべきです。
『大日本史』は、竹島=独島論争においては部外者の立場なので、さして重要な資料ではないのですが、やはり下記の「隠岐国4郡」の記述は世相を反映した記事として気になります。
別に松島、竹島があり、これ(隠岐国)に属する(隠岐古記、隠岐紀行、案ずるに隠地郡の福浦より松島に至るには海上69里、竹島に至るには100里4町である。韓人は竹島を称して鬱陵島という。すでに竹島といい、松島といい、我が版図となした。智者を待つが知れない。ついては、以て考えに備える)。
この記事のもとになった「隠岐古記」は 大西教保の『隠岐古記集』(1823)に引用された史料とは異なるかも知れません。『隠岐古記集』では『隠州視聴合紀』同様に竹島・松島は隠岐に属さない理解になっており、上記の文脈に合いません。
一方、『大日本史』の「福浦より松島に至るには海上69里」という記述はどこから来たのでしょうか? これは『大日本史』の認識はいつ頃生まれたのかを知る手がかりになるかも知れません。これまで私は江戸時代の史料をきちんと整理してこなかったので、この際、竹島・松島関係の主な史料にあたって、再度『大日本史』を考えたいと思います。
さて、江戸時代の主な史料は下記のとおりでしょうか。
1667(寛文7)年、斉藤豊宣『隠州視聴合紀』
1696(元禄9)年、(幕府の竹島渡海禁止令、1回目)
1742(寛保2)年、松岡布政『伯耆民諺記』つづいて『伯耆民談記』
1751−63(宝暦)年、北〓通〓『竹島圖説』、因人某に伝記するを編集(注2)
米子と竹島間160里、福浦と松島間60里、竹島と松島間40里
1779(安永8)年、長久保赤水「日本輿地路程全図」
1795(寛政7)年、安部恭庵『因幡志』
1801(享和元)年、矢田高当『長生竹島記』、竹島に渡航した水主からの伝聞のさらに伝聞
隠岐州と松島間160里、隠岐州と竹島間260里、松島「本朝西海のはて」
1823(文政6)年、大西教保『隠岐古記集』、(1)を底本に隠岐の漁夫の実見談など
隠岐と松島間40余里、隠岐と竹島の間70里
1827(文政10)年、中川顕允『石見外記』
高田屋嘉兵衛の商船が「松竹二島ノ間ニ出デ」と記述
1828(文政11)年、岡嶋正義『竹嶋考』
1837(天保8)年、(幕府の竹島渡海禁止令、2回目)
1842(天保13)年、岡嶋正義『因府年表』つづいて『因府歴年大雑集』
1830 -43(天保)年、『天保雑記十八』、竹島にて異国人と交易の記事
『竹嶋渡海一件記 全』、竹島事件の供述調書の抄録
1854(安政元)年、松浦武四郎『竹嶋雑誌』
1868(慶応4)年、大谷勝廣『竹島渡海由来記抜書控』
年代が特定できないか、多岐にわたる資料
『朝鮮竹嶋渡航始末記 全』
『大谷家由緒實記』
『朝鮮通交大紀』
『竹島紀事』
『通航一覧』
池田家文書他
松浦静山『甲子夜話 続編三』
(つづく)
Re:15602,Am_I_AHO_1stさん
>『大日本史』の国郡誌は長久保赤水の膨大な原稿は不採用になり、明治時代になって栗田寛によって編集され大日本史に集録されたと赤水の子孫が述べていましたよね。お忘れですか。
たしかに私は<竹島=独島と『隠州視聴合記』『大日本史』>でそのように書いています(注1)。ただ、赤水の原稿が不採用になったといっても、かれの草稿や、かれが集めた資料は同じ水戸藩の粟田寛によって『大日本史』を書く際に参考にされたでしょうから、赤水の認識が色濃く反映していたと見るべきです。
『大日本史』は、竹島=独島論争においては部外者の立場なので、さして重要な資料ではないのですが、やはり下記の「隠岐国4郡」の記述は世相を反映した記事として気になります。
別に松島、竹島があり、これ(隠岐国)に属する(隠岐古記、隠岐紀行、案ずるに隠地郡の福浦より松島に至るには海上69里、竹島に至るには100里4町である。韓人は竹島を称して鬱陵島という。すでに竹島といい、松島といい、我が版図となした。智者を待つが知れない。ついては、以て考えに備える)。
この記事のもとになった「隠岐古記」は 大西教保の『隠岐古記集』(1823)に引用された史料とは異なるかも知れません。『隠岐古記集』では『隠州視聴合紀』同様に竹島・松島は隠岐に属さない理解になっており、上記の文脈に合いません。
一方、『大日本史』の「福浦より松島に至るには海上69里」という記述はどこから来たのでしょうか? これは『大日本史』の認識はいつ頃生まれたのかを知る手がかりになるかも知れません。これまで私は江戸時代の史料をきちんと整理してこなかったので、この際、竹島・松島関係の主な史料にあたって、再度『大日本史』を考えたいと思います。
さて、江戸時代の主な史料は下記のとおりでしょうか。
1667(寛文7)年、斉藤豊宣『隠州視聴合紀』
1696(元禄9)年、(幕府の竹島渡海禁止令、1回目)
1742(寛保2)年、松岡布政『伯耆民諺記』つづいて『伯耆民談記』
1751−63(宝暦)年、北〓通〓『竹島圖説』、因人某に伝記するを編集(注2)
米子と竹島間160里、福浦と松島間60里、竹島と松島間40里
1779(安永8)年、長久保赤水「日本輿地路程全図」
1795(寛政7)年、安部恭庵『因幡志』
1801(享和元)年、矢田高当『長生竹島記』、竹島に渡航した水主からの伝聞のさらに伝聞
隠岐州と松島間160里、隠岐州と竹島間260里、松島「本朝西海のはて」
1823(文政6)年、大西教保『隠岐古記集』、(1)を底本に隠岐の漁夫の実見談など
隠岐と松島間40余里、隠岐と竹島の間70里
1827(文政10)年、中川顕允『石見外記』
高田屋嘉兵衛の商船が「松竹二島ノ間ニ出デ」と記述
1828(文政11)年、岡嶋正義『竹嶋考』
1837(天保8)年、(幕府の竹島渡海禁止令、2回目)
1842(天保13)年、岡嶋正義『因府年表』つづいて『因府歴年大雑集』
1830 -43(天保)年、『天保雑記十八』、竹島にて異国人と交易の記事
『竹嶋渡海一件記 全』、竹島事件の供述調書の抄録
1854(安政元)年、松浦武四郎『竹嶋雑誌』
1868(慶応4)年、大谷勝廣『竹島渡海由来記抜書控』
年代が特定できないか、多岐にわたる資料
『朝鮮竹嶋渡航始末記 全』
『大谷家由緒實記』
『朝鮮通交大紀』
『竹島紀事』
『通航一覧』
池田家文書他
松浦静山『甲子夜話 続編三』
(つづく)
これは メッセージ 15602 (Am_I_AHO_1st さん)への返信です.
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