木村蒹葭堂「華夷一覧図」の松島竹島
投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2007/06/28 22:10 投稿番号: [15627 / 18519]
有坂道子氏は「木村蒹葭堂と地図」(藤井譲治・杉山正明・金田章裕編『大地の肖像』京都大学学術出版会, 2007)で、蒹葭堂作成の「華夷一覧図」という「大清」を中心とする東半球図を紹介しています。蒹葭堂はこの図に、隠岐西北にほぼ同じ大きさで「松シマ」と「竹シマ」を描き、「日本」と同じ朱に彩色しました。
この地図は、大日本(本州)・四国・九州と蝦夷の四島の外郭を朱で縁取り、松シマ・竹シマの他、オキ(地名なし)・イキ・ツシマ・琉球諸島・伊豆諸島・無人島一名小笠原島・タ(ク)ナシリ・エトロフ等の小島を朱に彩っています。さらに、東北・関東沖とマリア島(マリアナ諸島)東方の島々も朱色です。しかし、蝦夷北方の大陸から半島状に延びたカラフトと、サカリイン(サハリン)島、及びウルフ(ウルップ)以北の千島列島は彩色されず、蒹葭堂の懐く「日本」の範囲がよく分ります。
木村蒹葭堂は長久保赤水と親しく「改正日本輿地路程全圖」の出版に尽力しましたから、「華夷一覧図」の「松島竹島」は赤水の図を参考にしたのでしょう。しかし、安永8(1779)年刊行の「改正日本輿地路程全圖」は、「松島竹島」を彩色せず、当時の赤水には「松島竹島」が隠岐國に属するという認識はありませんでした(Nos.14969, 15599)。
木村蒹葭堂が、寛政期(1790年代)作成と推定される「華夷一覧図」で、「松島竹島」を「日本」とした理由は不明ですが、17世紀の「竹島渡海」の事跡と、渡海を禁止した「竹島一件」の決着は、山陰地方以外でもかなり広く知られていたようです。
元禄3(1690)年大坂で出版された南宗庵『残太平記』は、「五十猛嶋」を鬼界嶋・八丈嶋・夷嶋・三嶋(長門國)と同様な遠島とし、産物について「此嶋ニ多キ物ハ蚫栄螺辛螺アシカ磯ノ石ヨリ多シ」と正確に記述しました。これは大西俊輝氏によって紹介され(『日本海と竹島』東洋出版, 2003)、早稲田大学図書館からネットで公開されています。
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he13/he13_02071/index.html
伊藤東涯の『盍簪録』は、磯竹島について「因州有大屋・村河二豪民、其先嘗受官符驗、間年到島、採鰒魚海物等而歸、近爲朝鮮邊氓所占、不復得到。聞因州人言、其島多巨竹、又有猫、與此間所有者稍異。」と記しましたが、東涯の門弟で大岡忠相に重用された青木昆陽は、『草盧雜談』(1738)で「憲廟の御時、朝鮮より朝鮮の島のよしを申上ければ、竹島を朝鮮へ與へ給ふとかや、憲廟の御仁政にて與へ給ふと雖ども、地は少の所も惜むべきことなれば有司の過ちならんか。」と、竹島を朝鮮に与えたのは過ちとの見解を示しました。木村蒹葭堂と親交のあった山岡浚明の百科全書『類聚名物考』の「竹島」項は『盍簪録』や『草盧雜談』を引用しております。18世紀後半の噂話を集めた津村淙庵『譚海』は「竹島一件」決着の内情に触れています。「公儀より御尋ありしは、其島へ漁人往來致し、あはびとらされば渡世の妨にも相成事にやと有しに、さのみ漁獵のためには此島へ往來仕らずとも、渡世の妨には相ならざるよし申上ければ、然らば彼島此まで日本の領分といふ急度したる事もなきゆゑ、其まゝにさし置べきよし御下知ありて、事止たりとかや。」
このように巷間でも竹島は朝鮮に譲った島との見方が一般的だったようです。しかし、本草学者・物産家としての蒹葭堂には、「竹島渡海」で豊富な物産を日本へ持ち帰った事跡だけが強く印象に残り、「松島竹島」を日本のものとしたのかもしれません。
蒹葭堂から多くの地理情報を得ていた長久保赤水は、『唐土歴代州郡沿革地図』(1790)の「亜細亜小東洋圖」で「松シマ」「竹シマ」をヲキや日本と同じ赤褐色に彩り、
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/sumita/5C-121/lime/5C-121_16.html
『大日本史地理志稿』「隠岐」に「別有松島竹島屬之」と書いたとも考えられます(No.15609)。
一方、幕府は「松島竹島」を朝鮮領と認めていました。近藤正齋『邊要分界圖考』(1804)は次のように記しています。「松前ヨリ西ニ航スレバ西ノ方ニ地方アリト見ユ必西ヨリ吹返シノ風出ルソノ風ニテ朝鮮ノ梅島竹島ヲ指テノルヲ大廻シト云フ。」
「松島」と思しき島を「梅島」と書いているのは興味があります。「梅島」については本掲示板で初めの頃、議論がありました(Nos.541, 543, 546)。近藤正齋が「梅島」と書いた真意は分りません。活字化された『邊要分界圖考』(國書刊行会, 1905)の「今所考定分界之圖」では「マツシマ」「タケシマ」となっています。ただし、「岩瀬文庫」蔵の同図では、二島は地名が無く、\xA5
この地図は、大日本(本州)・四国・九州と蝦夷の四島の外郭を朱で縁取り、松シマ・竹シマの他、オキ(地名なし)・イキ・ツシマ・琉球諸島・伊豆諸島・無人島一名小笠原島・タ(ク)ナシリ・エトロフ等の小島を朱に彩っています。さらに、東北・関東沖とマリア島(マリアナ諸島)東方の島々も朱色です。しかし、蝦夷北方の大陸から半島状に延びたカラフトと、サカリイン(サハリン)島、及びウルフ(ウルップ)以北の千島列島は彩色されず、蒹葭堂の懐く「日本」の範囲がよく分ります。
木村蒹葭堂は長久保赤水と親しく「改正日本輿地路程全圖」の出版に尽力しましたから、「華夷一覧図」の「松島竹島」は赤水の図を参考にしたのでしょう。しかし、安永8(1779)年刊行の「改正日本輿地路程全圖」は、「松島竹島」を彩色せず、当時の赤水には「松島竹島」が隠岐國に属するという認識はありませんでした(Nos.14969, 15599)。
木村蒹葭堂が、寛政期(1790年代)作成と推定される「華夷一覧図」で、「松島竹島」を「日本」とした理由は不明ですが、17世紀の「竹島渡海」の事跡と、渡海を禁止した「竹島一件」の決着は、山陰地方以外でもかなり広く知られていたようです。
元禄3(1690)年大坂で出版された南宗庵『残太平記』は、「五十猛嶋」を鬼界嶋・八丈嶋・夷嶋・三嶋(長門國)と同様な遠島とし、産物について「此嶋ニ多キ物ハ蚫栄螺辛螺アシカ磯ノ石ヨリ多シ」と正確に記述しました。これは大西俊輝氏によって紹介され(『日本海と竹島』東洋出版, 2003)、早稲田大学図書館からネットで公開されています。
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he13/he13_02071/index.html
伊藤東涯の『盍簪録』は、磯竹島について「因州有大屋・村河二豪民、其先嘗受官符驗、間年到島、採鰒魚海物等而歸、近爲朝鮮邊氓所占、不復得到。聞因州人言、其島多巨竹、又有猫、與此間所有者稍異。」と記しましたが、東涯の門弟で大岡忠相に重用された青木昆陽は、『草盧雜談』(1738)で「憲廟の御時、朝鮮より朝鮮の島のよしを申上ければ、竹島を朝鮮へ與へ給ふとかや、憲廟の御仁政にて與へ給ふと雖ども、地は少の所も惜むべきことなれば有司の過ちならんか。」と、竹島を朝鮮に与えたのは過ちとの見解を示しました。木村蒹葭堂と親交のあった山岡浚明の百科全書『類聚名物考』の「竹島」項は『盍簪録』や『草盧雜談』を引用しております。18世紀後半の噂話を集めた津村淙庵『譚海』は「竹島一件」決着の内情に触れています。「公儀より御尋ありしは、其島へ漁人往來致し、あはびとらされば渡世の妨にも相成事にやと有しに、さのみ漁獵のためには此島へ往來仕らずとも、渡世の妨には相ならざるよし申上ければ、然らば彼島此まで日本の領分といふ急度したる事もなきゆゑ、其まゝにさし置べきよし御下知ありて、事止たりとかや。」
このように巷間でも竹島は朝鮮に譲った島との見方が一般的だったようです。しかし、本草学者・物産家としての蒹葭堂には、「竹島渡海」で豊富な物産を日本へ持ち帰った事跡だけが強く印象に残り、「松島竹島」を日本のものとしたのかもしれません。
蒹葭堂から多くの地理情報を得ていた長久保赤水は、『唐土歴代州郡沿革地図』(1790)の「亜細亜小東洋圖」で「松シマ」「竹シマ」をヲキや日本と同じ赤褐色に彩り、
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/sumita/5C-121/lime/5C-121_16.html
『大日本史地理志稿』「隠岐」に「別有松島竹島屬之」と書いたとも考えられます(No.15609)。
一方、幕府は「松島竹島」を朝鮮領と認めていました。近藤正齋『邊要分界圖考』(1804)は次のように記しています。「松前ヨリ西ニ航スレバ西ノ方ニ地方アリト見ユ必西ヨリ吹返シノ風出ルソノ風ニテ朝鮮ノ梅島竹島ヲ指テノルヲ大廻シト云フ。」
「松島」と思しき島を「梅島」と書いているのは興味があります。「梅島」については本掲示板で初めの頃、議論がありました(Nos.541, 543, 546)。近藤正齋が「梅島」と書いた真意は分りません。活字化された『邊要分界圖考』(國書刊行会, 1905)の「今所考定分界之圖」では「マツシマ」「タケシマ」となっています。ただし、「岩瀬文庫」蔵の同図では、二島は地名が無く、\xA5
これは メッセージ 15609 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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