入って中国人に南京事件真相議論しましょう

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1937年12月16日 幕府山 火災で捕虜逃亡

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/26 18:50 投稿番号: [2006 / 2250]
山田メモより

《 十六日   相田中佐を軍司令部に派遣し、捕虜の扱いにつき打合わせをなさしむ。

捕虜の監視、田山大隊長誠に大役なり。》

(鈴木明著   『旧 「南京大虐殺」 のまぼろし』   194p)



両角業作   手記


《 炊事が始まった。某棟が火事になった。

火はそれからそれへと延焼し、その混雑はひとかたならず、

聯隊からも直ちに一中隊を派遣して沈静にあたらせたが、

もとよりこの出火は彼らの計画的なもので、この混乱を利用してほとんど半数が逃亡した。



我が方も射撃して極力逃亡を防いだが、暗に鉄砲、ちょっと火事場から離れると、

もう見えぬので、少なくも四千人ぐらいは逃げ去ったと思われる。

私は部隊の責任にもなるし、今後の給養その他を考えると、

少なくなったことを却って幸いぐらいに思って上司に報告せず、

なんでもなかったような顔をしていた。》



児島襄著   『日中戦争4』   236〜237p


《 この夜、約八千人の捕虜をかかえた幕府山の第六十五連隊では、午後九時すぎ、

夕食の炊事中に火災が発生した。

捕虜を監視していたのは、第一大隊 (田山芳雄少佐) の兵四、五人であったので、

ただちに一個中隊がかけつけたが、なにせ相手は八千人である。



あっという間に、約半数が逃亡してしまった。

が、第百三旅団長山田少将も、第六十五連隊長両角大佐も、内心はホッとした。

少将は、捕虜を 「始末」 せよとの指示をうけていたし、

大佐は、捕虜にたいする給養に苦慮していたからである。》



東中野修道著   『南京大虐殺の徹底検証』   132〜133p


《 ともあれ、幕府山要塞の地下倉庫に備蓄された食糧が発見された。

渡りに舟とばかりに、それがバラック棟に運び込まれる。

やがて、投降兵自ら自給自足するよう、指示が出た。投降兵の炊事が始まった。

ところが、ある一棟から出火した。不注意で出火させれば寒天の下で

眠らなくてはならないから、不注意の出火ではなかった。



意図的な放火であった。両角連隊長は、脱走を狙った放火と判断した。

これが収容三日目   (十二月十六日)   のことになる。

この放火事件は、 「第十三師団山田支隊兵士の陣中日記」   の

筆者十九名中、四人が陣中日記に記す。

・・・・



こうして火災の出た日   (十二月十六日)   の夕方、一部の投降兵が銃殺に処せられた。

しかし、揚子江岸の処刑については、両角連隊長の手記は何も記していない。

が、両角部隊兵士の複数の陣中日記   (十二月十六日)   には明記されている。

たとえば   「遠藤高明陣中日記」   には次のように書かれている。

   〈夕刻ヨリ軍命令ニヨリ捕虜ノ三分ノ一ヲ江岸ニ引出シⅠニ於テ射殺ス。〉

「Ⅰニ於テ射殺ス」、つまり第一大隊によって投降兵は射殺された。

遠藤少尉   (仮名)   の言う軍命令とは、

師団命令を受けた形の旅団命令であったのであろう。》



*   夜9時に失火したのに、その日の夕方に処刑とは、これ如何に?

   旅団命令の処刑なら、山田旅団長の態度と矛盾するが?

1939年5月14日 親日中国人射殺される

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/25 18:46 投稿番号: [2005 / 2250]
〔昭和14年5月16日   大阪毎日〕

〔天津本社特電十五日発〕   天津英国租界工部局の援蒋反日的態度は

いよいよ露骨化している折柄、


十四日午後四時ごろ、英租界に隣接した特一区志連中学校内で、

明らかに抗日分子のテロと目される親日華人中学生射殺事件が発生、

犯人逮捕はおろか、かえって犯人を擁護、

その租界への逃走を黙過するといった有様である。



すなわち同時刻、英租界内から年齢二十歳と推定される青年が

三名の暗殺団員に拳銃弾をうけて射殺され、加害者等は悠々租界に逃走、

事件発生に同校門衛が筋向かいの馬廠道路上に立っていた巡捕に報告せるも、

関知せずとなんらの処置を講ぜず、



しかも同校出入口は英租界のみにあって、

犯人逮捕は容易であるにも拘わらず犯人逃走を黙認、

さらに事件発生後一日を経過するも、日本側および支那側警察になんらの通告なく、

わが方の調査を妨害する態度に出ているなどたび重なる不信、非協調的態度に、

わが方でもついにある種の自衛手段を講ずるのやむなきに至り、

対租界問題はいよいよ尖鋭化するに至った。

1937年12月15日 幕府山捕虜の扱い問合せ

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/25 18:38 投稿番号: [2004 / 2250]
山田旅団長メモ


《 十五日   捕虜の始末のことで本間少尉を師団に派遣せしところ

『始末せよ』   との命を受く。


各隊食糧なく困窮せり。

捕虜将校のうち幕府山に食糧ありときき運ぶ。

捕虜に食わせることは大変なり。


(鈴木明著   『旧 「南京大虐殺」 のまぼろし』   193p)



*   普通   『始末せよ』   と言われたら、 「殺せ」   と言われたと解釈する。

   しかし、その後、

  「各隊食糧なく困窮せり・・・捕虜に食わせることは大変なり。」   と

   続くと、意味不明になる。

   「殺せ」   の命令を実行すれば、 「捕虜に食わせる」   必要はなくなるから、

   その後の   「捕虜に食わせることは大変」   では、意味が通らない。

   ???

1939年 ノモンハン事件3 飛行中撃たれた

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/24 18:55 投稿番号: [2003 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
103〜105p


《 地上から追及する前に、まず飛行機で現場を偵察しよう。

飛行隊に交渉し、司令部偵察機に便乗をお願いした。

たまたま師団長からの要求で、

いまから偵察に出るところだとのことで快く承諾された。



ちょうど一年前の今日は秋山少尉に操縦されて、

初めてこの敵地上空飛行を決行した思い出が深い。

飛行機もまた同型である。

曹長に操縦されて、ハイラルを後にまずカンヂュル廟に、

次いでハルハ河を辿りながら目指すノモンハンを探した。



砂丘の間に点在する小松の蔭に、何物が潜むかさっぱりわからない。

馬一頭でも求めようと低空で数回上空を往復したとき、

ホルステン河とハルハ河との合流点に近い草原に、

軍馬らしい約二十頭の姿を捉えた。



それを端緒として、せめて一人の蒙古兵でも見つけたく、

超低空で数回旋回したが、ついに何物をも掴み得なかった。

三百や五百の兵を隠す小松の蔭は至る所にある。

軍馬を発見しただけで、どうにか証拠を見出したように自ら慰めて、

ハイラルに引き揚げた。



飛行場に着陸して機体を点検すると、油槽に弾を受けている。

小銃の弾痕であった。

道理で帰り着いたときは、油がほとんど尽きていた。

危ないところだ、もう少しで人間が受ける弾痕であり、もし機関にでも

受けたらいま頃はノモンハンの砂漠に残骸を曝していることだろう。



師団長と幕僚に、直接この眼で確認した敵情を知らせてやろうと思ったのに、

「敵は見えませんでした。ただ馬が約二十頭ばかり、合流点に草を食っています。

飛行機に一発孔   (あな)   があきましたから、たぶん敵兵が越境しているのでしょう」

と、ありのままを申し上げた。



子供騙しのような幼稚な報告に、自ずから冷汗をかく思いがする。

戦場でも、演習でも、偵察将校や参謀の敵情報告をたびたび耳にしたが、

どれもこれもまるで敵から内幕を見せてもらったかと思われるほど

詳細的確なものが多い中に、

自分は拙   (つたな)   いのか、卑怯なのか、十数回低空で旋回したが、

ついにこれだけしか自信を持って報告し得なかった。



弾痕だけが最も正直に、敵兵の所在を説明してくれる。

出発前に速成的に研究した兵要地誌の幾つかが、この偵察で確認された。

砂丘の程度、河の実況、道路の状態等々、印画紙に収めるように頭に刻みつけて帰った。

不思議にも肝心要のノモンハン村落は、どこにも見当たらない。



幾つかの古びた蒙古包が三々五々点在しているが、

そのいずれか一つがノモンハンなのであろう。

世界を驚かしたノモンハンの正体は、

数個の破れかかった蒙古包の一小村であろうとは。



新京に、その日のうちに帰った。

幼稚な偵察成果を、そのまま植田将軍以下に報告し、

大事件ではあるまいと付け加えた。


外蒙騎兵の悪戯に過ぎないこの火遊びが、意外にも屋根に燃え移り、

強風に煽られて、ついに全満に火花を散らす劫火   (ごうか)   となったのである。

これが戦争の持つ一つの性格であろう。》

1937年12月15日 スミス氏の講演

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/24 18:41 投稿番号: [2002 / 2250]
ラーベの日記の12月15日より


《 私は十二月十五日に南京を後にしましたが、

それまでに私をはじめ、ほかのヨーロッパ人の見たところによれば、

中国人の家はすべて、ヨーロッパ人の家はその大部分が、

日本兵によって略奪しつくされていました。



屋根にはためくヨーロッパの国旗も引きずりおろされました。

日本兵の一団が家財道具を取っていく姿も見られました。

とくに好まれたのは壁掛け時計だったようです。

まだ南京に残っていた外国の車は、徴発される前に国旗を引き裂かれました。

安全区国際委員会からも、乗用車二台とトラック数台が押収されました。



カフェ・キースリングの前で、私はたまたまラーベ氏に出会いました。

氏は店主と力をあわせ、日本兵を次から次へと追い払っていました。

かれらは店のドイツ国旗を外して食べ物を奪おうとしたのです。



下関では、四、五百人の中国人が連れ去られました。

ヨーロッパ人が後を追おうとしたのですが、

日本軍におしとどめられて果たせませんでした。



十二月十五日、外国の記者団が、

南京から上海に向かう日本の軍艦に乗せてもらうことになりました。

ところがそのあとで、イギリスの軍艦でいけることになり、

桟橋に集合するよう指示がありました。



出発までに予想以上に時間がかかったので、偵察をかねて、

あたりを少し歩くことにしました。そこでわれわれが見たものは、

広場で日本軍が中国人を縛り上げ、立たせている光景でした。

順次、引きたてられ、銃殺されました。

ひざまずいて、後頭部から銃弾を撃ちこまれるのです。

このような処刑を百例ほど見たとき、指揮をとっていた日本人将校に気づかれ、

すぐに立ち去るように命じられました。

ほかの中国人がどうなったのかはわかりません。》



*   「日本兵の一団が家財道具を取っていく姿も見られました。

   とくに好まれたのは壁掛け時計だったようです」


   兵隊が壁掛け時計なんか盗んでどうするのでしょう?

   彼らには移動命令が出ています。   行軍の邪魔になるだけですが。

   家財道具と言っても、本部詰所の必需品がそろえば、それ以上は必要ない筈。

   彼ら外国人は、そういう事が解らないのでしょうか?



*   「四、五百人の中国人が連れ去られ・・・日本軍が中国人を・・・銃殺」


   こういう言い方によって、スミス氏は米国市民に誤解を与えています。

   中国人と言えば中国人ですが、無辜の市民ではなく、

   軍服を脱いで便衣兵となった中国兵です。

   兵士が降伏せずに平服に着替えて市民の中に潜ったら、

   スパイ・ゲリラと見なされます。



   処刑されても仕方ありません。

   また、処刑された人の中に、市民が混じっていたとしても、

   それは日本軍の罪ではありません。

   間違うように仕向けた、中国式戦法に問題があるのです。



   後、米軍もベトナムで、農民に化けたゲリラに悩まされ、同じ行動をとりました。

   そして虐殺と非難されました。

1939年5月13日 ノモンハン2 ハイラルへ

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/23 18:46 投稿番号: [2001 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
96〜97p


《 ともあれ第二十三師団長の積極迅速な処置によって、

間もなく鎧袖一触されるであろう。だが待てよ −

昭和十年の夏、ハルハ廟付近で同じような衝突が惹起されたことがある。

あのときは、外蒙側は戦車さえ持ち出して日本軍の騎兵を散々悩ました

ことがあったはずだ。

「余りに楽観してはならぬ」   という警戒的な態度の幕僚もいた。



しかし、このような砂漠の中で何ら戦略的意義を持たぬ草原の一小集落に

何の意味があるだろう。補給の点から考えてみても、

お互いに鉄道端末から数百キロメートルも遠隔した土地であり、

大兵を動かすことは並大抵ではない。

「まあ、ハルハ廟事件当時のような規模で終わるのだろう」

との空気が支配的であった。


いずれにせよ第二十三師団長に対しては、

所望してきた兵力と資材を至急送らねばならぬ。



その日の夕方、次のような兵力を増加する命令が発せられた。

飛行第十戦隊(一中隊欠)   −   軽爆一中隊

飛行第二十四戦隊   −   戦闘二中隊

第四十八、第五十一飛行場大隊

自動車二中隊

必要にして十分の兵力であろう。



「ついでに兵要地誌を勉強しておこう。

いつどんな関係で拡大するかも知れない」   と、

分厚い書類から戦いの地となるべきホロンバイル平原、

とくに外蒙との国境地帯の特性を覗くことにした。》


(中略)


103p
《 以上のような予備知識を超速成的に会得したが、

直接この眼でさらに確かめるべく、ハイラルに飛んだ。

久しぶりに見るハイラルの街は活気を呈している。

それは、自動車徴発によって戦争気構えを煽   (あお)   られた興奮であろう。

師団司令部に着いて、軍命令を伝達した。

東支隊   (騎兵主体)   は、昨夜すでに南進を開始した由   (よし)。》



つづく

1937年12月15日 陸軍に移動命令

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/23 18:39 投稿番号: [2000 / 2250]
陸軍の移動命令

戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』 431p


《 十二月十五日、中支那方面軍は、

同月七日の大陸命に示された担任地域内主要各地の安定確保と

次期作戦準備のため隷下両軍に次の任務を与えた。



一   上海派遣軍ハ   一部ヲ以テ   揚子江左岸ニ於テ   揚州   及

   ○ (サンズイ+除)   県付近ヲ占領シ   江北大運河   及   津浦鉄道ヲ遮断シ

   主力ヲ以テ   南京南翔間ノ主要各地ニ   兵力ヲ配置シ

   警備ニ任スルト   共ニ   次期作戦ヲ   準備スヘシ

   司令部ハ   南京付近ニ   位置スヘシ



二   第十軍ハ   杭州攻略後   蕪湖、ネイ国、湖州、杭州、松江間ノ主要各地ニ

   兵力ヲ配置シ   警備ニ任スルト   共ニ   次期作戦ヲ   準備スヘシ

   杭州ヲ攻略セハ   司令部ハ   杭州付近ニ   位置スヘシ



三   各軍ハ   速   (すみやか)   ニ   軍隊ノ整理、整頓、戦力恢復   (かいふく)

   充実   並 (ならび)   ニ   作戦地域ノ   安定ヲ   図ルヘシ


  〔本項に関し方面軍参謀長は両軍は警備地区内において、

   敗残兵の掃蕩、隠匿兵器及び軍需資材の収集、戦場掃除、

   破壊交通網の回復、兵要地理の調査を実施するよう指示している〕



四   両軍ノ   作戦地境ハ   黄浦江−北新芤下流−蘇州河−呉江−和橋鋲−

   黄金山−大路亭−江寧鎮下流水流ヲ   連ヌル線 》



*   この指示により、第十軍と上海派遣軍の大部分は慰霊祭後南京を離れます。

(=´∀`)人(´∀`=)

投稿者: whitekurumecity911 投稿日時: 2012/10/23 13:47 投稿番号: [1999 / 2250]
福岡県警はなぁ半日公安体制やで〜公安署長の岡元の息子で元福岡県警の岡元大輔から貰ったコンセントに反応した久留米市北野町高良1721-1-302鹿毛信義、八女市本村25総合庁舎監視室0943226999古賀繁文久留米市荒木町藤田1066-1古賀麻里惠、糸数昌一、ブランド本舗三擦り半晴誠吾、日本は半日左翼にええようにされとるで

(=´∀`)人(´∀`=)

投稿者: whitekurumecity911 投稿日時: 2012/10/22 23:09 投稿番号: [1998 / 2250]
福岡県警はなぁ半日公安体制やで〜公安署長の岡元の息子で元福岡県警の岡元大輔から貰ったコンセントに反応した久留米市北野町高良1721-1-302鹿毛信義、八女市本村25総合庁舎監視室0943226999古賀繁文久留米市荒木町藤田1066-1古賀麻里惠、糸数昌一、ブランド本舗三擦り半晴誠吾、日本は半日左翼にええようにされとるで

1939年5月13日 ノモンハンってどこだ?

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/22 18:45 投稿番号: [1997 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
94〜96p


《 シナ戦線では、砲煙弾雨に呻吟   (しんぎん)   する住民がさぞかし多かろうに、

ここ満州の地では国境の風雲を他所   (よそ)   に、老百姓は太平の我が世を謳歌していた。

昭和十四年五月半ばの十三日、昼過ぎの暖かい太陽を背に受けて、

作戦室の地図に向かいながらも、ウツラウツラと睡魔に襲われていたとき、

電報班長が慌しく軍機電報をもたらした。



関東軍司令官宛              第二十三師団長

一、昨十二日朝来、外蒙軍約七百はノモンハン西方地区に於てハルハ河を渡河、

   不法越境し来り十三日朝来、満軍の一部と交戦中、尚後方より増援あるものの如し。

二、防衛司令官は師団の一部

   (捜索隊長の指揮する捜索隊主力及歩兵大隊長の指揮する二中隊基幹)

   及   在ハイラル満軍の全力を以てこの敵を撃滅せんとす。

   之が為在ハイラル軍用自動車の全部及ハイラル徴発自動車を使用す。

   従ってハイラルには今後軍用に使用し得べき自動車皆無となる。



三、爾後の増兵を考慮し、少くも百台の自動車を急派せしめられ度。

   尚将来の自動車増派を考慮せられ度。

   又防衛司令官の使用に供し得る如く偵察飛行機をハイラルに急派

   待機せしめられ度。

   尚在ハイラル戦闘隊を一時防衛司令官の指揮下に人らしめられ度。

   戦場付近に集め得る満軍の兵力は最大限約三百名なり。



幕僚中誰一人ノモンハンの地名を知っている者はない。

眼を皿のようにし、拡大鏡を以て、ハイラル南方外蒙との境界付近で、

ようやくノモンハンの地名を探し出した。恐らく蒙古民族の放牧の集落であろう。

ハルハ河畔の砂漠の一隅に、拡大鏡で探し出したこの地点が、

世界を震撼させた戦場になろうとは誰が想像し得よう。



国境紛争処理要綱を示してから、まさしく一カ月の後に、

あの通りに実行しようとする小松原師団長の決意が報告されたのであった。

五月の陽気に催された睡気は、この電報で吹き飛ばされた。

事件は単に、外蒙騎兵が、馬に水を飲ますためハルハ河を渡って、

劣弱な満軍   (内蒙騎兵)   をからかったのだろうか。

それともモスクワの指令を受けた偵察戦かは、わからない。》


つづく

1937年12月15日のラーベの日記2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/22 18:39 投稿番号: [1996 / 2250]
《 司令官と福田氏に別れを告げようとしているところへ、

日本軍特務部長の原田熊吉少将がやってきた。

ぜひ安全区を見たいというので、さっそく案内した。

午後、いっしょに下関の発電所にいくことになった。

残念ながら、午後の約束は果たせなかった。



日本軍が、武器を投げ捨てて逃げこんできた元中国兵を連行しようとしたからだ。

この兵士たちは二度と武器を取ることはない。

我々がそう請け合うと、ようやく解放された。

ほっとして本部にもどると、恐ろしい知らせが待っていた。

さっきの部隊が戻ってきて、今度は千三百人も捕まえたというのだ。

スマイスとミルズと私の三人でなんとかして助けようとしたが聞き入れられなかった。

およそ百人の武装した日本兵に取り囲まれ、とうとう連れていかれてしまった。

射殺されるにちがいない。



スマイスと私はもう一度福田氏に会い、命乞いをした。

氏はできるだけのことをしようといってはくれたが、望みは薄い。

私は、もしかれらを処刑してしまったら、中国人がおびえ、

作業員を集めるのは困難になるといっておいた。

福田氏はうなずき、明日になれば事態は変わるかもしれないと言って慰めた。

この惨めな気持ちはたえられない。

人々が獣のように追い立てられていくのを見るのは身を切られるようにつらい。


だが、中国軍のほうも、済南で日本人捕虜を二千人射殺したという話だ。



日本海軍から聞いたのだが、アメリカ大使館員を避難させる途中、

アメリカの砲艦パナイが日本軍の間違いから爆撃され、沈没したそうだ。

死者二人。イタリア人新聞記者のサンドリと

梅平   (メイピン)   号の船長カールソンのふたりだ。

アメリカ大使館のパクストン氏は肩と膝に傷をおった。

スクワイヤーズも肩をやられた。ガシーは足、

アンドリューズ少尉は重傷で、ヒューズ海軍少佐も足を折ったらしい。》



*   一応、ラーベは   中国軍の日本人捕虜射殺を書いているが、

   他の者や、今の日本人は、中国軍が日本人捕虜を処虐殺しても、問題にしない。

   ただ日本軍だけを非難している。

(=´∀`)人(´∀`=)

投稿者: whitekurumecity911 投稿日時: 2012/10/22 08:12 投稿番号: [1995 / 2250]
福岡県警はなぁ半日公安体制やで〜公安署長の岡元の息子で元福岡県警の岡元大輔から貰ったコンセントに反応した久留米市北野町高良1721-1-302鹿毛信義、八女市本村25総合庁舎監視室0943226999古賀繁文久留米市荒木町藤田1066-1古賀麻里惠、糸数昌一、ブランド本舗三擦り半晴誠吾、日本は半日左翼にええようにされとるで

ユダヤ・フリーメイソン=コミンテルン

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2012/10/22 03:21 投稿番号: [1994 / 2250]
★日中戦争を理解する要

『ユダヤ・フリーメイソン=コミンテルン』

この事が理解できなければ日中戦争と第二次世界大戦は分かりません。

「ユダヤは日本に何をしたか」・渡部悌冶著
  この本は名著である。

(=´∀`)人(´∀`=)

投稿者: whitekurumecity911 投稿日時: 2012/10/21 18:06 投稿番号: [1993 / 2250]
福岡県警はなぁ半日公安体制やで〜公安署長の岡元の息子で元福岡県警の岡元大輔から貰ったコンセントに反応した久留米市北野町高良1721-1-302鹿毛信義、八女市本村25総合庁舎監視室0943226999古賀繁文久留米市荒木町藤田1066-1古賀麻里惠、糸数昌一、ブランド本舗三擦り半晴誠吾、日本は半日左翼にええようにされとるで

(=´∀`)人(´∀`=)

投稿者: whitekurumecity911 投稿日時: 2012/10/21 17:48 投稿番号: [1992 / 2250]
福岡県警はなぁ半日公安体制やで〜公安署長の岡元の息子で元福岡県警の岡元大輔から貰ったコンセントに反応した久留米市北野町高良1721-1-302鹿毛信義、八女市本村25総合庁舎監視室0943226999古賀繁文久留米市荒木町藤田1066-1古賀麻里惠、糸数昌一、ブランド本舗三擦り半晴誠吾、日本は半日左翼にええようにされとるで

何を話すことあるの?

投稿者: tk1112112head 投稿日時: 2012/10/21 17:23 投稿番号: [1991 / 2250]
もう解決済みです、なにを話すの?やった、やられた、いうた、いわれた、盗った、盗られた、周恩来が、もういい、と、いってるやろ。中国は日本から、なにも受け取ってないのか。過去のことは、解決済み

中国の作戦がまだわからんか?

投稿者: tk1112112head 投稿日時: 2012/10/21 17:06 投稿番号: [1990 / 2250]
南京事件があったとして、日本軍の残虐兵士がいたとして、それは、一部の思い上がりの、軍人の仕業だとおもいます。でわ、中国八路軍は、日本軍のことを言えますか?現在でも、アフリカで中国人はどんなことをしていますか?ロシア軍は、毎晩毎晩、中国、朝鮮、にいた、日本人の女狩りをしませんでしたか?どこでも、みんなそうなんです。自分の国が一番被害者というんです。そんな、微々たることよりも、中国が南京事件を餌に、恐喝をしてること。「こらー」と、いうと、すぐに、外務省が、ODAと、名前を変えて、金を持っていくことが問題です。尼崎事件のおばばに、金を渡すのと同じで、底がないのです。外務省の腰抜け連中、これは恐喝や、まだわからんか

(=´∀`)人(´∀`=)

投稿者: whitekurumecity911 投稿日時: 2012/10/21 15:48 投稿番号: [1989 / 2250]
福岡県警はなぁ半日公安体制やで〜公安署長の岡元の息子で元福岡県警の岡元大輔から貰ったコンセントに反応した久留米市北野町高良1721-1-302鹿毛信義、八女市本村25総合庁舎監視室0943226999古賀繁文久留米市荒木町藤田1066-1古賀麻里惠、糸数昌一、ブランド本舗三擦り半晴誠吾、日本は半日左翼にええようにされとるで

1939年 汪担ぎ出しに反対する日本人

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/21 15:19 投稿番号: [1988 / 2250]
児島襄著   『日中戦争5』   207〜208p


《 だが、香港から出張してきた総領事田尻愛義は、

影佐大佐の話を聞くと、汪政権構想に猛反対した。

田尻総領事は、香港で汪夫人陳壁君の張発奎軍抱き込み工作の失敗を実見し、

汪兆銘にたいする不評も承知した。



不評の基調は、汪兆銘が   「裏切り者」   だという点にあったが、

総領事自身も、汪兆銘の経歴を回顧してその印象を深め、

脱出行についても疑惑を強めていた。

日本の傀儡にならぬと強調しながら   「傀儡の長」   になろうとするのは、

「自分を裏切るばかりか中国人を欺く」   ことではないか。



「私に言わせれば、彼には自分の一身の利害があるだけで、

もう中国、中国人のための平和幸福の目標をすてている。

全占領地域にわたる政府をつくりたいというのは、

蒋   (介石)   との対抗意識のあらわれ以外の何ものでもない」



田尻総領事は、汪兆銘が脱出前に約束したことはなにひとつ実現していない、

彼が次に日本を裏切らないという保証はない、と指摘して、影佐大佐に勧告した。
 
「臍   (ほぞ)   をかまない用心が肝心である。

今度の謀略の恩返しとしては、

礼を厚くして彼を下野外遊させるのが最善の策だ」



  東京でも   −

参謀本部戦争指導班の堀場中佐が、

汪政権はたんなる蒋介石政府にたいする   「対立政権」になり、

かえって戦いを   「長期大持久戦」   にするだけだ、と判断し、

次長中島鉄蔵中将に進言した。



「汪兆銘に対し、

『卿今回の微行の真意は共感諒承せり。

願くは直ちに重慶に至り、日本の真意を伝へたる上、

改めて公然全権として再来せられんことを−』   と

回答し、停戦使節としての機能を発揮せしむべし」



しかし、田尻総領事の勧告も、堀場中佐の進言も、

事態の進展を阻止することはできなかった。

「漢口作戦以来既に半年、四囲の情勢は戦勢停止の状態に焦慮を感じ、

新局面の転回を待望するの空気支配的なり」

という事情であり、前述したように、

軍部は汪兆銘歓迎の意を影佐大佐にもつたえ、

その受入れ準備をいそいでいたからである。》

1937年12月15日のラーベの日記1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/21 15:12 投稿番号: [1987 / 2250]
  十二月十五日

《 朝の十時、関口鉱造少尉来訪。

少尉に日本軍最高司令官にあてた手紙の写しを渡す。



十一時には日本大使館官補の福田篤泰氏。

作業計画についての詳しい話し合い。

電気、水道、電話をなるべくはやく復旧させることは、双方にとってプラスだ。

このへん、氏はよく承知している。

この問題に関しては我々、もしくは私が役に立てるだろう。

韓と私は様子がわかっているから、復旧させる自信がある。



交通銀行におかれた日本軍司令部で、もう一度福田氏と会う。

この人は司令官を訪ねる際に、通訳として大いに役に立つだろう。

十二月十四日、司令官と連絡がとれなかったので、

武装解除した元兵士の問題をはっきりさせるため、福田氏に手紙を渡した。

(手紙は、14日   「国際委員会と日本軍の折衝」   に転記の為   略)

この手紙と司令官にあてた十二月十四日の手紙に対する司令官からの返事は、

次の議事録に記されている。



  議事録

  南京における日本軍特務機関長との話し合いについて   (交通銀行にて)

一九三七年十二月十五日   正午

通訳:福田氏

出席者

ジョン・ラーベ氏 : 代表

スマイス博士 : 事務局長

シュペアリング氏



一、南京市においては中国軍兵士を徹底的に捜索する。

二、安全区の入り口には、日本軍の歩哨が立つ。

三、避難した住民はすみやかに家に戻ること。

   日本軍は安全区をも厳重に調査する予定である。

四、武装解除した中国人兵士を我々は人道的立場に立って扱うつもりである。

   その件はわが軍に一任するよう希望する。

五、中国警察による安全区の巡回を認める。ただし、完全に武装解除すること。

   警棒の携帯も認めない。



六、委員会によって安全区内に貯蔵された一万担の米は、難民のために使用

   してもよいが、われわれ日本軍にとっても必要である。

   したがって米を買う許可を求める

   (地区の外にある我々の備蓄米に関する回答は要領を得なかった)。

七、電話、電気、水道は復旧が必要である。

   今日の午後、ラーベ氏とともにこれらの設備の視察を行い、

   その後具体的な措置を取る。

八、明日より町を整備する予定であり、百人から二百人の作業員を必要とする。

   それにつき、委員会に援助を要請する。賃金は支払う。》


つづく

1939年5月 丁黙邨ら汪兆銘の部下となる

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/20 16:15 投稿番号: [1985 / 2250]
児島襄著   『日中戦争5』
205p


《 宿舎には、中央宣伝部長周仏海、中央宣伝部香港特派員梅思平、

元亜州司長高宗武その他が先着していた。

汪兆銘が、一同と再会を喜びあっていると、

土肥原機関員晴気慶胤少佐が、二人の中国人をひきあわせた。・・・

晴気少佐が紹介した二人は、

いずれも   「CC団」   に所属していた丁黙邨、李士群であった。》



晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
120〜121p


《 汪兆銘が上陸した日、

丁黙邨と李士群は汪派の和平運動に参加するについての条件を提出した。

その会見には周仏海とチョ民誼が陪席していた。

条件は次の通りであった。



  一、『七十六号』   を汪派国民党の秘密警察に公認して、特務工作総司令部

    (特工総部)とし、十月以降の経費は汪兆銘が支給すること。

  二、新中央政府が成立したら、内政部長と上海市長、江蘇省主席の椅子を

    もらいたい。


あまり過大な要求に、チョ民誼と周仏海は思わず顔を見合わせた。

汪兆銘は別室でしばらく側近のものと協議した末、次のように答えた。



「特工は喜んで特工総部としよう。経費は影佐大佐と相談して不自由がないようにする。

しかし上海市長と江蘇省主席の椅子は   『七十六号』   だけに渡せない。

それは上海と江蘇省が和平運動の基盤だからである。

また、内政部長の仕事は広範で特工と兼任するのは困難と思う。

しかし警察行政だけは特工にまかせてもよい。そこで内政部から警察行政を

引き離して、警政部を新設し、その部長と次長をあなた方に約束しよう」



丁黙邨はこの回答に満足できず、特に上海市長の椅子をしつこく要求した。

しかし、李士群はその辺で妥協しようと丁黙邨に勧めていた。

この態度をみた汪兆銘はつづいてぬかりなく、

「八月の末ごろに全国国民代表大会を開きたいから、

ぜひその世話人になってもらいたい」



と大会を開く準備をすることを丁黙邨に依頼した。

二月以来、自分たちの手で代表大会も開きたいと念願し、

市党部工作もその準備にすぎないと考えていた丁黙邨は、

汪兆銘のこの言葉にすっかり喜んで、 「身命を賭して、必ずご期待にそいます」

と思わず誓ってしまった。

上海市長の椅子に執着していた丁黙邨もこうして妥協したので、

『七十六号』   と汪兆銘一派との合流も大した波乱もなく、ここに実現した。



児島襄著   『日中戦争5』   206


《 汪兆銘は、蒋介石の刺客から逃れて、まず自分の 〝刺客機関〟 を

保有することになったわけだが、こと新政府の樹立にかんしては、難航した。》

1937年12月14日 陸海軍の動き

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/20 16:05 投稿番号: [1984 / 2250]
★   入城式の日取り交渉

早瀬利之著   『将軍の真実   南京事件   松井石根人物伝』   136p


《 十四日、蘇州から塚田参謀長を通じて   「入城式は十七日に行なう」   旨を

上海派遣軍に伝達、しかし、上海派遣軍は十七日は不可能と返答してきた。

入城式については、方面軍参謀の長勇が十六師団と現状について連絡した結果、

掃蕩の関係から、入城式は二十日以降がいいだろうと判断し、

松井方面軍司令官に事情を説明している。》



★   杭州作戦のため第十軍の移動

戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   430p


《 十二日、軍は第十八師団は、下泗安及び広徳付近、第百一師団主力

(第六野戦重砲兵旅団主力、独立第二野戦重砲兵大隊属) は湖州付近、

第一後備歩兵団   (四大隊編成)   は嘉興付近に兵力を集結し、

杭州攻撃を準備するよう命じた。

第十八師団の大部は、十四日蕪湖付近出発、》



★   海軍の作戦

戦史叢書   『中国方面海軍作戦1』   468p


《 十四日、第一警戒部隊各艦艇は敗残兵の掃蕩、航路の啓開を続行した。

その概要は次のとおりである。掃四は蕪湖に進出。

「二見、熱海」   は草鞋峡水路を啓開。

「比良」   及び特掃二隻は鎮江において天谷支隊の渡江作戦に協力。

特別作業隊は烏龍山閉塞線の拡大啓開に従事。


「保津、鶴、安宅、鴻、江風」   は、 「パネー」   遭難地にあって救助作業に従事。

各艦艇は陸戦隊を揚陸して江岸の敗残兵を掃蕩、

下関の海軍碼頭、中山碼頭一帯を占拠。》

1939年5月8日 仏疎開に行くという汪氏夫人

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/19 18:44 投稿番号: [1983 / 2250]
児島襄著   『日中戦争5』


《 汪兆銘一行は、夫人陳璧君をのぞいて、

上海憲兵隊が用意した新公園北側の宿舎におちついた。

夫人陳壁君は、いかに説得しても同行を拒否し、フランス租界の娘宅にむかった。》



晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
118〜119p


《 汪夫妻は、陸上の警備が万端整った上で、翌早朝上陸することとなり、

影佐大佐はその準備をするために一足先に上陸した。

その際 〝九仭   (きゅうじん)   の功を一簣   (いっき)   にかかない〟 ために

今夜だけは自重するように切望して、汪夫妻を船に残して一夜の別れを告げた。



重光堂では明日に迫った汪夫妻の上陸を迎える準備で多忙であった。

影佐大佐は上陸するなりここへ入ったのであった。

その混雑の最中に、影佐大佐の後を追って汪夫人、陳璧君が突然訪ねてきた。

あれほど船中にいるようにいってきたのに、いったいどんな事件が起こったのかと

驚いた影佐大佐は、あわてて玄関に飛び出した。

そこには汪夫人が傲然として突っ立っていた。



「今からフランス租界の娘の嫁ぎ先に行きますから自動車を貸して下さい。

船には夫が残っていますからよろしくお頼みします」

こういった彼女は、すぐ車を駆って仏租界の方に消えていってしまった。

彼女は影佐大佐が船を去ったあとで、

すぐ自分も上陸したいと警備員にしつこく申し出たが、

それははなはだ危険なので許されなかった。



ところが日が暮れるころになると、半狂乱になり

「艀   (はしけ)   がなければ泳いでも上陸する」   と叫ぶので、

警備員は処置に窮しひとまず重光堂まで彼女を送り届けたのであった。

これは、汪の和平運動で起きたはじめての内輪のトラブルであったが、

汪夫人が幸いに無事に虹口に帰ってきたのでそのまま事なくすんだ。》

1937年12月14日 和平案改訂会議

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/19 18:37 投稿番号: [1982 / 2250]
戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   463p


《 十四日午後、第二回目の大本営政府連絡会議が開かれ、

独大使に対する回答案が提出された。

出席者は、大本営側から参謀次長、軍令部次長、

政府側から総理、陸、海、外三相のほか賀屋蔵相、末次内相

(馬場硏一辞任のため、十四日、内閣参議から内相に就任)   が出席し、

風見内閣書記官長と陸海軍両軍務局長   (町尻量基少将と井上成美少将)   が

幹事役であった。



この会議では、まず交渉成立の見込みが問題となった。

参謀次長は、陸軍部内でもこの見通しについては異論があるが、

次長としては見込みは少ないが一応筋を通して、

当方の誠意を示しておく必要があるという見解であった。



次いで独大使に示す案について検討したが、

初めて本案を見る人もあったので、明日更に会議を開くことになった。

また、あたかもこの日、北支に臨時政府が成立したので、

中国新中央政府の問題が論議された。》

1939年5月8日 汪兆銘上海着2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/18 18:48 投稿番号: [1981 / 2250]
塚本誠著   『ある情報将校の記録』   中公文庫
271〜272p


《 その後、影佐大佐は、私の案内で汪氏宿舎の下検分に出かけた。


楊樹浦の裏道で、「朝日」   の車につけられていることに気づいた。

私は曲りかどで車を急停車させた。後続車も止まらざるを得なかった。

車には、二、三人の人がいたが、

私は林記者に話したとおりのことをいって尾行を断った。



われわれが重光堂に着くと、

そこにもカメラを肩にした背の高い記者風の人物が待ち構えていた。

これまた前と同じように掛け合って帰ってもらった。

この人は   「朝日」   の中原尚臣君だった。



これは後日、聞いたことだが、林、中原両記者は、北光丸の上海入港を

呉淞付近で待ち受け、以後、川沿いにこれをつけていたという。

林少佐の秘密主義も、足と目をいとわぬ   「朝日」   の取材活動を

まくことはできなかった。

「朝日」   の取材活動と秘密保持との調整に煩わされた日だったが、

林、中原両君とはこれが縁で今日なお親しくつきあっている。



汪氏とその側近は、林少佐の先導で、予定の宿舎にはいった。

一見変哲もなく、汪氏の車に続行していた苦力満載のトラックには、

小銃、機関銃、手樽弾まで積み込まれていた。

それは重慶側の強襲に備える特高課憲兵の姿であった。》

1937年12月14日 国際委員会と日本軍の折衝

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/18 18:42 投稿番号: [1980 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   233〜234p


《 委員会は、傷兵、傷病者を外交部、鉄道部、国防部にうつし、

J・マギー牧師を委員長とする 「国際赤十字南京委員会」 を組織し、

「南京日本軍司令官」 あてに 「安全区」 の保護を要請する書簡を用意した。

その書簡をもって、J・マギー牧師らが第二十三連隊第三大隊をむかえたのである。

マギー牧師たちが会った日本軍将校は、

牧師によれば、説明する趣旨に諒解の意を表明した、という。》



ラーベの日記12月15日より


《 十二月十四日、司令官と連絡がとれなかったので、

武装解除した元兵士の問題をはっきりさせるため、福田氏に手紙を渡した。



南京安全区国際委員会はすでに武器を差し出した中国軍兵士の悲運を知り、

大きな衝撃をうけております。本委員会は、この地区から

中国軍を退去させるよう、当初から努力を重ねてきました。

月曜日の午後、すなわち十二月十三日まで、

この点に関してはかなりの成果を収めたものと考えております。



ちょうどこの時、これら数百人の中国人兵士たちが、絶望的な状況の中で

我々に助けを求めてきたのです。

我々はこれらの兵士たちにありのままを伝えました。我々は保護してはやれない。

けれども、もし武器を投げ捨て、すべての抵抗を放棄するなら、

日本からの寛大な処置を期待できるだろう、と。



捕虜に対する一般的な法規の範囲、ならびに人道的理由から、

これらの元兵士に対して寛大なる処置を取っていただくよう、重ねてお願いします。

捕虜は労働者として役に立つと思われます。

できるだけはやくかれらを元の生活に戻してやれば、さぞ喜ぶことでありましょう。

敬具
   ジョン・ラーベ、代表 》



*   最高司令官は蘇州に居て、まだ南京には来ていない。

   しかも高熱で病床に在った。

   本来はこの日に蘇州を発つはずだったが、軍医が止めた。



早瀬利之著   『将軍の真実   南京事件   松井石根人物伝』   134p


《 南京攻撃の日から十四日まで、松井は肺炎を併発する寸前の重態だった。

高熱と悪寒に苦しんでいる。作戦命令は病床から冷静に命令、伝達した。

当初、湯水鎮台への移動は十四日を予定していたが、

軍医に止められて一日延期となった。》

1939年5月8日 汪兆銘上海着1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/17 18:48 投稿番号: [1979 / 2250]
塚本誠著   『ある情報将校の記録』   中公文庫
271p


《 五月八日、北光丸上海入港の日である。

私はひとり碇泊場監部のある昭和島に出かけた。

島へは吊橋がかかっており、そのたもとに

「朝日」   の社旗を立てた自動車が止まっていた。



そばに立っている記者らしい青年に、私の名を告げ、 「白川支局長に

聞いていただけばわかると思うのですが、きょうは帰ってもらいたいんですが……」

と話しかけた。私の気持がすぐ通じたらしく、 「わかりました」   と

実に素直に引き上げてくれた。その人は林陸夫君だった。



やがて昭和島沖合にさしかかった北光丸は停船を命ぜられた。

きっそく臨検諸官にまじって北光丸に乗り込んで影佐大佐に会う。

久しぶりの対面、よく来てくれたと大変喜ばれた。

ただちに受入れ態勢を報告し、今日の行動予定を打ち合わせた。

犬養健氏も傍   (かたわら)   にいた。



犬養さんは私が台北にいた時、松本さんの紹介でお目にかかったことのある人、

恐らく当時からこの工作に参加していたのであろう。

打合せが終ると影佐大佐は、私を汪精衛   (兆銘)   氏に紹介した。

その限、その声、特にその手から、

私は、 「なんという物腰の柔い若々しい人だろう」   という強い印象を受けた。

私は、中国では手の柔い人ほど人格が高い、

ということをかねて中国人から聞いていた。》



晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
117〜118p


《 昭和十四年五月八日、黄埔江に入った   「北光丸」   は

日本陸軍運輸部の出張所に到着した。

その船着場は上海と呉淞   (ウースン)   の中間であったが、

敵のテロ団が近づけないように桟橋を避けて沖合いに投錨した。

先行していた周仏海は早速丁黙邨や李士群を伴って、真っ先に駆けつけ、

上海の治安と   『七十六号』   の特務工作の現状を説明した。



上海のそのころの事情にうとかった汪兆銘は、重慶テロを極度に恐れ、

和平運動の行く手に不安を感じていたが、

周たちの報告を聞いて暗夜に光を得たように、安心して喜んだ。

彼は   「『七十六号』   の活躍に期待して、今後の和平運動をすすめたい」   と

丁たちに将来とも協力してくれと丁重に頼んだ。



畏敬する党の長老から思いがけない懇篤な賞詞をもらったので、

李士群は犬馬の労もいとわないと感激したが、

別に期するところがあったらしい丁黙邨だけは別に感動した様子もなく、

冷然とそれを聞き流している。



周仏海たちより一足遅れて、チョ民誼や梅思平も駆けつけてきた。

やがて、船中で上海における汪兆銘の住み家について協議がはじまった。

汪夫妻やチョ民誼は   「日本軍の掣肘   (せいちゅう)   を受けないで、

自由に中国人が出入りできる滬西にしなければならない」   と主張し、



周仏海や李士群は

「租界では藍衣社を掃討できる見込みがやっとついてきたばかりで、

汪先生がそこで生活するのはまだ危険である」   と唐紹儀の例をとって

「しばらく虹口の日本陸戦隊の宿舎で我慢して頂きたい」   と強調した。



影佐大佐も汪兆銘が滬西に入ることはまだ危険だと思っていたので、

汪兆銘は当分、陸戦隊の宿舎に住むことに結局、同意した。

汪兆銘と影佐大佐の付き合いはハノイ以来三週間にすぎなかったが、

その公正な人柄と明澄な識見に傾倒して、

いちばん信頼できる同志として彼を尊敬していたので、

最後に影佐大佐の意見を求めてそれによって決定したものであった。》

1937年12月 城内及び安全区の掃蕩2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/17 18:35 投稿番号: [1978 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   233〜234p


《 委員会は、傷兵、傷病者を外交部、鉄道部、国防部にうつし、

J・マギー牧師を委員長とする   「国際赤十字南京委員会」   を組織し、

「南京日本軍司令官」   あてに   「安全区」   の保護を要請する書簡を用意した。

その書簡をもって、J・マギー牧師らが第二十三連隊第三大隊をむかえたのである。

マギー牧師たちが会った日本軍将校は、牧師によれば、

説明する趣旨に諒解の意を表明した、という。



   −   だが、

現実には、日本軍にとっては、掃蕩戦のさなかである。

日本軍の推計では、南京城内にはなお   「約二万五千人」   の敗残兵がいる。

掃蕩そのものも決して無抵抗ではなく、しばしば各部隊は攻撃、狙撃をうけている。

この 〝敗残兵狩り〟 を完了しなくては、

名実ともに   「南京攻略」   が成就したとはいえない。



とりわけて注意すべきは、攻略にともなって実施される入城式である。

入城式には、皇族である上海派遣軍司令官朝香官鳩彦中将も参加する。

その身辺にはとくに入念に安全保障策が講じられねばならない……。



その意味では、 「安全区」   といえども 〝敗残兵狩り〟 から除外

するわけにはいかず、委員会書記L・スミス   (金陵大学教授)   によれば、

この日、日本軍将校が   「安全区」   を訪ね、

法務部に収容されている二千六百五十人のうち、

二千三百人を   「捕虜」   として、連行した。》

湯川秀樹のノーベル物理学賞受賞の理由

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2012/10/16 20:43 投稿番号: [1977 / 2250]
『ユダヤは日本に何をしたか』(成甲書房)渡辺悌治著

「戦時中、日本で一日も早くその完成が待たれていた、マッチ箱一つの大きさで戦艦一つを沈めうるといわれていた新兵器は、今日いう原子爆弾のことであった。そして仁科芳雄博士の研究では、実験段階ではすでに完成していた。しかし、その基礎理論が完結をみないでおり、理研内では研究員たちが手分けして研究にあたっていた。それが一応のまとまりをみたとき、これを一つの学説として発表してはどうかという案も出たが、軍の機密に属することでもあり、早計に外部に洩してはならぬという仁科博士の意見で発表は厳禁されていた」

仁科芳雄は、これも理科系の人なら知らない人はおるまいが、日本現代物理学の父と呼ばれた俊才である。1938年にドイツで原子核分裂と、核分裂で莫大なエネルギーが生じることが発見された。帝国陸軍は、理化学研究所の仁科にこの核分裂を利用して核爆弾をつくってくれないかと要請した。そこで仁科が、理論的研究に着手する。そして有名なサイクロトロンを発明し、実用化に向けて一歩を進めた。米国でも、1943(昭和18)年にマンハッタン計画が始まって、核爆弾の実用化が進められたが、同時に日本でも仁科の手によって、すでに実験段階での見込みは立っていたのである。

サイクロトロンは小型のものは1937(昭和12)年には完成し、1944(昭和19)年には200トンの大型サイクロトロン完成していた。ちなみにサイクロトロンとは、原子核の人工的破壊に用いるイオン加速器である。原子爆弾開発に必須の装置で、当時各国が開発にしのぎを削っていた。

ところが、である。

渡部悌治氏はつづける。「(核爆弾の理論的完成をみていたものを)それを、当時理研にいた研究補助員の湯川秀樹が米国に売り渡したのである。米国は終戦後、湯川の功績を論功行賞としてノーベル賞を授与させている。日本の利益にはならず、米国のためになったことで褒美がもらえたのだ。まさに国賊である。」

これが、湯川秀樹がノーベル賞をもらえた経緯だ。繰り返すがノーベル賞はユダヤ国際金融資本が世界の人々を騙して支配するための道具なのだ。

1939年 塚本大尉 晴気氏の部下になる

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/16 18:42 投稿番号: [1976 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
75p


《 呉佩孚工作の中止に伴い、土肥原中将や大迫少将は二月のはじめに内地に帰還した。

そしてその後始末は、参謀本部から新しく派遣された川本芳太郎中佐

(のち上海特務部長)   が大迫少将から引き継いだ。



塚本大尉と中島少尉は上海に着任して、私の両腕となった。

私は特工の目的と計画を説明して、塚本大尉には憲兵隊との、

また中島少尉には丁黙邨との連絡担当を頼んだが、

両君とも   「丁たちをそんなに手軽く信頼するのは軽率だ」   と心配する。



そういわれるとその通りで一言もないが、賽   (さい)   はもう投げてしまったのだ。

ちょうど奔馬に目隠しで乗ったようなものだ。

面目ないがどこへどう行きつくのやら自信はない。

いわば一か八かの賭博をはって万一を僥倖   (ぎょうこう)   にするようなものだった。



もちろん成功を願って最善は尽くすが、

大筋としては成り行きをしばらくみるよりほかにもう手段はない。

工作の成果だけが丁たちの誠意と能力を明らかにするだろうが、

今までのところではだいたい間違いないと思う。

万一思わしくないときに処する腹は据えているつもりだが、

当分の間は工作の発展を静観したい、



と私の考えを説明したが、両君とも

「そんな冒険をしてよいのか」   といった様子で、なかなか納得しなかった。

だが、こう広言したものの、私の心の底にもまだ

「危ないぞ、考え直せ」   という声が、ささやきつづけていたのだ。

両君が私の虚勢を危ぶんでいたのも無理はなかった。》

1937年12月 城内及び安全区の掃蕩1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/16 18:37 投稿番号: [1975 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   231p


《 城内の掃蕩を担任する各部隊は、緊張していた。

第十軍司令官柳川平助中将は、既述したように、必要があれば

「城内ヲ焼却」   してもよいと下令し、また

「特ニ 敗敵ノ 欺賄行為ニ 乗ゼラレザル ヲ要ス」   と指示した。



各部隊とも、 「焼却」   戦が必要とは考えなかったが、

中国側の   「欺瞞行為」   には神経をとがらせざるを得ない。

これまでにも、中国側は、軍服をぬいで便衣で戦い、

ときには老婆に変装して日本軍をおそうほか、

現実に婦女子も武器をとって戦うことは、どの部隊も体験ずみだからである。



おかげで、各部隊は、いずれも   「敵愾   (てきがい)   心ト恐怖心」   に

身をこわばらせていた。

「日本軍は、いつどこから飛んでくるかわからない手榴弾や

小銃弾に極度に緊張しながら、徹底的に掃蕩した」

と、第四十七連隊戦記   『郷土部隊奮戦史』   も記述している。



掃蕩は、だから、まさに   「徹底的」   となり、

いずれは軍政機関、宿舎用に利用するビル、民家はしらみつぶしに捜索され、

消防員、警察官など制服着用者はすかさず連行され、

走りだす者、逃げだす者は、とっさに銃撃の対象になった。

青壮年男性は、例外なくチェックされ、

肩に銃をかついだり背嚢をせおった形跡をのこす者は、捕虜にされた。》



東中野修道著   『南京大虐殺の徹底検証』   173〜174p


《 そもそも安全地帯とは、非戦闘員の市民のための避難地帯であった。

そこに、便衣   (普段着)   身なりの正規兵が身を潜めていた。・・・

彼らは、後に述べるように、莫大な量の銃砲を隠し持っていた。

その武器をもって、いつ何時、支那兵が攻撃をもくろむか、計り知れなかった。

スティール記者が言うように   「市内にはまだ潜伏して狙撃してくる中国兵」   が

いたのである。



『南京戦史』   によれば、実際、十二月十四日のことになるが、

戦車中隊が中山路の十字路で戦車から下車して付近の講堂に入ったところ、

敗残兵数十名から銃撃されて、日本兵が大急ぎで乗車して難を免れたことがあった。

掃蕩中に敗残兵から射撃されたこともあったのである。

日本軍としては安心できなかった。》



*   東中野氏は、便衣兵が安全区に   「莫大な量の銃砲を隠し持っていた。」

   と言っているがそれは、少し違う。

   「隠し持っていた」   のではない。

   中国軍は、安全区の中に基地を造っていたのだ。

   そしてラーベ達の申し出にも関わらず、最後まで撤去しなかった。

   だから、武器があって、当たり前。別に隠しているわけではない。

1939年 塚本氏 上海へ

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/15 18:44 投稿番号: [1974 / 2250]
塚本誠著   『ある情報将校の記録』   中公文庫
269〜271p


《 課長臼井大佐は私に、

「上海に出張し、現地諸機関と連絡協力し、汪精衛   (兆銘)   一行の安全を図れ」

と命じた。

前年三月まで上海に勤務していた私の経験を買っての出張命令とは思うが、

上海には面識者も多い。

工作は秘中の秘、私はよほど注意せねばならぬと思った。



岡田も、 「特に秘密保持に留意せよ」   と注意し、影佐大佐一行の変名表

(電報上の)を渡した。変名にはいずれも映画俳優の名が使われていた。

私には、 「嵐寛寿郎」   が新たに割り振られた。

その時、私は映画   「漢奸の娘」   の塚原大尉に出演する   「藤井貢」   を思い出して、

「岡田、俺には、藤井貢はどうだ」   というと、

「貴様の印象は   『嵐』   と呼ぶ方がピッタリ来る」   と答える。

私は言動が荒っぽいため少尉時代将校団の先輩からは

「嵐やん」   とよく呼ばれていた。私の不徳のいたすところである。



汪精衛氏一行を上海で引き受ける窓口は、最近まで土肥原中将の補佐官であり、

現在同機関を残務整理中の晴気慶胤少佐である。

晴気さんは、参謀本部支那課出身。

対中工作の全般情勢に精通している人で私の一年先輩である。

また機関の残務整理をする一方、

上海における丁黙邨、李士群の特務工作を指導する別命も帯びていた。



私は、上海到着後、すぐ晴気少佐と上海憲兵隊本部特高課長林秀澄少佐を訪ねた。

両少佐は、熊本幼年校以来の同期生、汪精衛問題に関することは、

晴気からすべて林に伝えられ、両者密接な提携のもとに、

一行の宿舎、上陸の手はずは、すっかり準備を完了していた。



汪精衛氏一行の宿舎には、上海新公園北側の海軍陸戦隊接収の家屋が当てられ、

その周辺にはバリケードまで準備されていた。

旧土肥原機関の建物   「重光堂」   もこの近所にあった。

上陸の手はずは次のようになっている。



汪精衛氏の乗船北光丸が、黄浦江をさかのぼり、中支那碇泊場監部前に

さしかかったさい、碇泊場監部は、

「その船容疑の点あり。臨検す。ただちに停船せよ」   との信号を掲げる。

臨検中に一行を数次に分割してひそかに上陸させ、宿舎に直行する。

汪精衛氏の護衛は、集団的暴力をも排除することを予想して憲兵側が準備する。

臨検終了後、北光丸は再び黄浦江を遡航し、定規の地点に繋留する。



以上の手はずは、中支那碇泊場司令監片村四八少将と林少佐の秘密取決めで、

晴気以外にはだれにもまだ話してないとのことだった。

碇泊場監部は、上海共同租界の東端楊樹浦地区に膚接する黄浦江の中洲で、

当時日本側はこれを   「昭和島」   とも呼んでいた。》

1937年12月 安全区掃蕩に関する注意2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/15 18:33 投稿番号: [1973 / 2250]
東中野修道著   『南京大虐殺の徹底検証』   181〜183p


“ 秋山旅団長の   「掃蕩実施ニ関スル注意」


この   「南京城内掃蕩要領」   に基づき、 「掃蕩実施ニ関スル注意」   が、

右翼隊隊長   (歩兵第六旅団長秋山義兌   (よしみち)   少将)   から、

歩兵第七連隊等に発令された。

十二月十三日午後四時三十分のことであった。


《二、外国権益ノ建物ヲ   敵カ之ヲ   利用シアル場合ノ外   立入ヲ厳禁ス》


外国大使館、外国人居住の住宅等に立ち入れば、あとあと大きな問題となるから、

その立ち入りが厳禁されたのである。



《三、掃蕩隊ハ   残敵掃蕩ヲ任トシ、必ズ将校   (准尉ヲ含ム)   ノ指揮スル部隊ヲ

以テ実施シ、下士官以下   各個ノ行動ヲ   絶対ニ禁ズ》


掃蕩隊は将校のみが指揮することとなった。

その任務はやはり   「残敵掃蕩」、即ち残敵を一掃することであった。

市民を虐殺することではなかった。

当然、各人の個人的行為は禁止された。

つづいて   「掃蕩実施ニ関スル注意」   は次のように命じる。



《 四、青壮年ハ   凡   (すべ)   テ敗惨兵   又ハ便衣隊ト   見做   (みな)   シ、

凡テ之ヲ   逮捕監禁スベシ

青壮年以外ノ   敵意ナキ支那人民   特ニ老幼婦女   ニ対シテハ

寛容之ニ接シ、彼等ヲシテ   皇軍ノ威風ニ   敬仰セシムベシ》



蒋介石は   「戦えるものは誰でも駆り集め」   て戦線に送っていた。

従って、青壮年は敗残兵である疑いが極めて濃厚であったのである。

「掃蕩実施ニ関スル注意」   は、これを逮捕監禁せよと命じている。

他方、 「青壮年以外ノ   敵意ナキ支那人民   特ニ老幼婦女」   にたいしては、

寛容に接するよう命じている。そして、規律ある日本軍であると

一般市民が敬服するよう、行動を慎めと命じた。



《 五、銀行、銭荘等ハ侵入ヲ禁止シ、歩哨ヲ配置スベシ 》

《 六、家屋内ニ侵入シ   掠奪ニ類スル行動ヲ   厳ニ戒ムベシ 》



  掠奪もまた禁じられたのである。



《 七、放火ハ勿論、失火ト雖   (いえど)   モ、軍司令官注意ノ如ク   厳罰ニ処ス》


  失火といえども厳罰に処する、という厳しい命令であった。


《 八、友軍相撃   (あいうち)   ニ就   (つい)   テ厳ニ注意スベシ

     合言葉ハ   「金沢」 「富山」   ト定ム》



南京が陥落したと言っても、紫金山一帯では激戦が続いていた。

城内の安全は確立していなかった。

合言葉があらかじめ決められていたのも当然であった。

なお、第九師団は富山、石川、福井の出身者からなる師団であった。



《 九、火災ヲ発見セバ   附近部隊ハ勿論、掃蕩隊ハ   速(すみやか) ニ

消火ニ努ムベシ》


  火災を発見したならば掃蕩を中止せよ、そして直ちに消火に努めよ、と命じられた。”

1939年 上海で割腹する日本人壮士

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/14 16:56 投稿番号: [1972 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
114〜116p


《『七十六号』   の藍衣社に対するこれまでの工作は、

暴力だけを頼って真っ正面から強圧を加えたものにすぎなかったが、

王天木が転向して以来、全く趣を一変した。

すなわち藍衣社の地下組織に精通する王天木の献策によって、

敵組織を内部から撹乱する手法をとり、

これが外部より加えるテロ攻勢と相まち、甚大な打撃を敵に与えたのであった。



特に四月下旬、敵の幹部を大量に逮捕した後は彼我の勢力は全くところを変えてしまった。

その後、呉開先などの藍衣社の残存幹部は、必死となって組織を立て直し、

勢力の回復を図ったが、大勢はもはや動かし難く、一時上海を支配した藍衣社も、

いまや全く手も足も出ない状態にまで追いつめられてきた。



一方、長い間停滞していた丁黙邨の市党部工作も、藍衣社の退勢に幸いされ、

これまた急激に発展して、五月の半ばには丁黙郡邨市党部員の半数を

実質的に支配できるようになっていた。

こうして大上海を支配する地下政府は、いまや   『七十六号』   となった。

『七十六号』   の威力の前には、

さしも勇敢な重慶テロもいかんともすることができないのである。

上海における抗日勢力の一掃も、もはや時期の問題となり、

七月中には予定通り一応特務工作を終わることができそうに思われてきた。



こうして地ならしがあらかたできたころ、

汪兆銘が近く上海にくるらしいという噂がどこからともなく伝わってきた。

ちょうどそのころ、周仏海のところに

日本の右翼団体に属する十人ばかりの壮士が乗り込んできて、

大本営のある課長の紹介状を示して、汪兆銘の護衛に生命を捧げたいと申し出た。



しかし、日本の壮士よりも   『七十六号』   を信頼していた周仏海は、

「ご好意はありがたいが」   といって、婉曲   (えんきょく)   に拒絶した。

望みを失った壮士たちは、余憤をかって抗日分子の取り締まりが手ぬるいと

工部局にねじこんだが、工部局からも浪人の盲動と見られて相手にされなかった。



彼らはせっかく意気こんだ壮途   (?)   を空しくし、

さらに西洋人にまでも愚弄されたと憤慨した揚句、

その一人は工部局の玄関でとうとう立ち腹を切ってしまった。

この出来事は、華字紙の片隅に   「日本の狂漢、街頭自殺を図る」   と

小さく報道されて終わりとなった。



壮士が腹を切ったことはとやかくいうかぎりでもないが、

彼らを汪兆銘の護衛に使うように周仏海に紹介した大本営の課長は、

中国のテロを日本のそれと同じような暴力団の仕業だと見て、

信頼できる手兵がない汪の身辺は日本の壮士で守るほかないと考えたものらしかった。



とんでもない考えかたで汪兆銘の身辺に、

これらの日本浪人がつきまとうようになったとすれば、

おそらく、膚に粟が生ずるような混乱が起きて、

影佐大佐はその後始末に苦杯を喫したことだろう。

私は当時、これら半可通な好意の押し売りに、

さぞ迷惑をしただろうと周仏海に同情したものである。》

1937年12月 安全区掃蕩に関する注意1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/14 16:44 投稿番号: [1971 / 2250]
東中野修道著   『南京大虐殺の徹底検証』   1 80〜181p


“ 城内の掃蕩戦とは、総じて、安全地帯の支那兵の摘発であり、

投降兵の収容であった。

また、安全地帯における不穏な兵士の処刑であり、

隠匿   (いんとく)   された軍需品の押収であった。



その安全地帯の掃蕩は、すでに述べたように、

歩兵第七連隊   (第九師団歩兵第六旅団)   の任務であった。

十二月十三日午後四時半に発令された歩兵第六旅団の   「右翼隊命令」   は、

歩兵第七連隊等に、 「掃蕩実施ニ関シテハ   南京城内掃蕩要領ニ依   (よ)   ルベシ」

と命じていた。

  そこで、以下に   「南京城内掃蕩要領」   の最初の三項目だけを引用しておく。



  《一、城内ノ残敵ヲ掃蕩ス

   二、掃蕩ニ際シテハ   入城ニ関スル   注意事項ヲ   厳守ス

     但シ   敵ノ抵抗スル地帯ハ   此ノ限ニ非ス


   三、敵ノ抵抗セル場合ニ於ケル   家屋ノ焼却ニハ   特別ノ注意ヲ払ヒ

     却   (かえっ)   テ部隊ノ交通ヲ   遮断スルガ如キ事   無キ様注意ス

     又発電所、電気局、郵便電信局、水源地、瓦斯会社、諸倉庫、工場等、

     軍ノ利用スベキ箇所ハ   速   (すみやか)   ニ之ヲ占領シ、敵ノ破壊、焼却ヲ予防ス

     遁走セル敵ハ   大部分便衣ニ   化セルモノト   判断セラルル   ヲ以テ

     其ノ疑アル者ハ   悉   (ことごと)   ク之ヲ検挙シ、

     適宜   (てきぎ)   ノ位置ニ監禁ス 》



掃蕩部隊の任務は   「残敵」   を掃蕩   (一掃)   することであった。

しかし、敵が抵抗する場合はこの限りではなかった。

また、発電所、電気局、郵便電信局、水源地、瓦斯会社、諸倉庫、工場等は、

敵の破壊から守るよう命じられていた。

そうして改めて   「入城ニ関スル注意事項」   の厳守が命じられたのである。

  その「入城ニ関スル注意事項」とは、



①   「世界ノ斉   (ひと)   シク   注目シアル大事件   ナルニ鑑ミ、

   正々堂々   将来モ   模範タルベキ   心組ヲ以テ、

   各部隊ノ乱入、友軍ノ相撃、不法行為等、絶対ニ   無カラシムル」   ことと、

②   外交機関、外国権益には接近しないよう、特に

   「中立地帯   (註・安全地帯)   ニハ、必要ノ外   立入ヲ禁ジ」   ることであった。 ”


つづく

1939年 活気づく 『七十六号』

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/13 15:12 投稿番号: [1970 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
90p


《 それから二、三日たって周仏海たちは、重光堂の近所の新しい隠れ家に移ったが、

『七十六号』   からは精悍な護衛が派遣されて、周たちの身辺の警戒にあたった。



それからの周仏海たちの活躍は目覚ましかった。

まず同志との連絡の回復と、その糾合が行われた。

周の隠れ家は日夜自動車が放列を布き、人の出入りがはげしく

人目をそば立たせたが、日本海軍陸戦隊の警戒も厳しかったので、

さすがの藍衣社も周たちには一指も染め得なかった。



李士群はやがて来る汪兆銘の宿舎の準備を急いだ。

同じ滬西で   『七十六号』   に近い大邸宅が選ばれて、

敵の襲撃に備えることを第一に十分な設備が徹夜で急がれた。

塀には電流鉄条網を張りめぐらし、窓にはすべて分厚い防弾用鉄扉を取りつけた。

廊下にはところどころに鉄柵を設けて、危険なときに交通遮断を行うようにした。

その上、秘密の退避路まで準備された。

また、テロが静まるまでの間、すなわち七月ごろまでの汪の仮住まいとして、

周仏海の住居の付近にある陸戦隊の宿舎が提供された。



こうして   『七十六号』   にも新しい活気が流れこんできた。

いままでさんざん無能呼ばわりされた   『七十六号』   が、

これを契機として猛然活発な攻勢を開始し、

藍衣社によって代表される重慶のテロ団と血しぶきをあげる

地下のテロ戦を展開したのだ。》

義和団事件に於ける外国軍の略奪

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/13 15:06 投稿番号: [1969 / 2250]
外国人に、日本軍の徴発を非難する資格があるのでしょうか?



斎藤聖二著   『北清事変と日本軍』   芙蓉書房出版
155〜156p


《 通州への行軍過程で・・・

「「露仏軍ハ 一ニ   地方物資ニ依頼シ   大ニ徴発ヲ為シ   掠奪ノ弊ニ陥」   り、

イギリス軍も沿道の作物を奪って飢えをしのぎ、日本軍もまた

「畑地ニ生長セル   玉萄黍   (トウモロコシ)   ノ半熟セルモノヲ   採取シ

或ハ   付近人家内ニ残留セル食品ヲ取」   って前進した。》


167 p

《『秘戦史』   は、 「(北京占領中の)   露仏軍人ノ乱暴ハ   至ラサル所ナク

掠奪、殺傷、強姦、放火等   屡々   之ヲ耳ニシ、

其   (その)   通州ニ於ケル暴挙甚シク・・・

森海軍中佐の報告書には、 「英国公使館内ニ於ケル   掠奪品ノ競売」

について記されており、 「印度兵ノ   奪略シ来レル   衣類、毛革、陶磁器、

金銀細工類等ヲ展列シ 同国人ハ勿論   他国人ト雖   (いえど)   モ望セ

其場ニ誘引シ公然競売」   をしているとある。》



また   明治33年8月27日の   『日本新聞』   には   ドイツ皇帝は出征兵士に対し

「一人も容赦するなかれ、一人も捕虜となすなかれ」   と勅語した、とあります。



ウッドハウス暎子著   『北京燃ゆ・義和団事件とモリソン』   東洋経済新報社より


ドイツのヴァルダーゼー軍は10月17日北京に着いたが、すべて終わっていた。

263〜264p

《 仕方なくドイツ軍は、義和団の残党狩りというふれこみのもとに

討伐隊を組み、北京周辺を荒らし回り略奪暴行の限りをつくした。

ヴァルダーゼーは本国に、   「略奪行為は、どこの国もお互いさまである……

みな、揃いも揃って略奪に熱を上げている」   と報告した。



兵士たちはカイザーの勅語を肝に銘じていたらしく、

抵抗するものは容赦なく殺したり、有罪無罪の別なく厳罰に処したりした。

その残忍ぶりは目に余るものがあり、正義漢モリソンは

何回にもわたって彼らの野蛮行為をタイムス紙で暴露・非難した。

例えば、同紙十一月二十三日付のモリソン記事はいう。



「ドイツ討伐軍は北京周辺を繰り返し襲っては住民を苦しめているが、

それは略奪が目的である。このような行為を、ドイツ公文書では

軍事活動と誤った呼び方をしている」》



*   ラーベはこの8年後に中国に来ています。

   彼らの祖国軍に比べて日本軍が、悪くに見えますか?

   これらの行為は、南京陥落のほんの37年前の事なのです。

   そして今、言われている南京は75年前。

   「37年も前の事を持ち出すな」、と言うなら、

   75年前の事を、昨日のように、非難している人は何なのでしょう?

1939年 周仏海と打ち解ける丁黙邨

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/12 18:49 投稿番号: [1968 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
88〜90p


《 そうですか、とにかく困りましたね。周さんは今後の方針をあなた方と

相談して決めたいといって、チョ民誼さんにも会わないで待っているのです。

仕方がありませんから丁さんの用事がすむまで、私はここでお待ちしましょう」



自負心が強い丁黙邨は、用事があるなら周仏海が来訪するのが当然で、

自分の方から出かける必要はないと思っているのだが、

私はその態度を小面憎く思って、

是が非でも彼を強引に引っぱり出そうとしたのであった。



やがて藍衣社が襲撃してくるという情報はデマだとわかったが、

丁黙邨のいう市党部の委員もついに現れなかった。

市党部委員が来るという約束の時間は午後七時だったが、もう十時を過ぎていた。

李は周を訪問するのがよいとしきりに丁黙邨を説いたので、

さすがの丁もやっと折れて出た。



「あんなに固く約束しておいてどうして来ないのでしょう。

今夜はもう仕方がありません。ながながお待たせしてすみませんでした。

ではお供いたしましょう」

こうした感情のぎこちなさがあるにはあったが、さて周仏海と会ってみると、

彼らはひとしく和平を戦いとろうとする同志だった。

特に周と丁とは以前から面識もあり、

握手を交わした瞬間から彼らは意気全く投合した形だった。



李士群は汪兆銘がハノイで悪戦苦闘した話を聞いて感激し、

まなじりを決して抗戦派の頑迷さを罵った。

丁黙邨は上海の情勢を悲観的に説明して、周仏海を心配させたが、

それも近く好転するという李士群の確信ある報告があったので、

その憂色はたちまちぬぐい去られた。



窓の外にはガーデン・ブリッジが墨絵のようにかかっている。

キラリと光るのは青白い月光を浴びた日本海軍陸戦隊の歩哨の銃剣である。

その掩護の下に彼らの会談は夜を徹して明くる日の夕方まで、

休みなくつづけられた。

こうして第一回の打ち合わせが終わった。》



*   周仏海と梅思平はかつて松本重治氏が和平工作していた相手。

   松本氏は病気で上海勤務を解かれ、日本に帰った。

   結局、彼らの協力をするのは、土肥原機関の後進の組織となった、

   悪名高き   「76号」   であった。

1937年12月14日 日本軍の徴発

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/12 18:36 投稿番号: [1967 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   235p


《 日本軍は、掃蕩とともに、洋の東西を問わずに占領軍がおこなう

建物の接収、軍需品の摘発、食糧の確保などをおこなっている。

これらの行為も、見方によっては   「掠奪」   になろうし、

興奮している兵の動作が過激であれば   「蛮行」   ともみなされかねない。》




スミス氏   (ロイター通信社) 講演


《   十二月十四日の朝になっても、日本兵は市民に危害を加えませんでした。

しかし昼頃になると、六人から十人ぐらいで徒党を組んだ日本兵の姿が

あちこちで見られるようになりました。

彼らは連隊徽章をはずしていて、家から家へと略奪をくり返しました。

中国兵の略奪は主に食料に限られていましたが、日本兵の場合は見境なしでした。

彼らは組織的に、徹底的に略奪したのです。》

(ラーベの日記12月15日より)



*   しかし、この14日の行為は略奪というより徴発だろう。

   それにしても、連隊徽章を外しているというのが、気になる。

   もしかして便衣隊かも?


   それはともかく、彼ら外国人に、日本軍の徴発を非難する資格があるのだろうか?

   これより、ほんの37年前、義和団事件の時、

   彼らの祖国軍が何をしたかを見てみよう。


次につづく

1939年 周仏海と会う事を避ける丁黙邨

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/11 18:42 投稿番号: [1966 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
87〜88p


《 私は彼らに対し、和平運動を上海で発展させるには、

丁黙邨たちを仲間に入れるのがよいと説いた。

つまり毒をもって毒を制する手法で、重慶テロを   『七十六号』   のテロで

もって制しなければ、とうてい安全に和平運動を進めることができないからであった。



丁黙邨たちの特工活動の模様を香港で聞いていた周仏海は、

「こちらこそ、協力をお願いしたい。今からでも、丁さんを訪問しましょう」

と意気こんで立ち上がった。しかし、街々には禿鷹のような藍衣社の眼が光っていて、

白昼の上陸は危険だったので、宵闇が濃くなるのを待って、

取りあえずアスターハウス・ホテルに入った。



アスターハウス・ホテルはガーデン・ブリッジのたもとにある

英国風の陰気くさいホテルだったが、当時は日本人が経営していたので、

警備上からも当分の隠れ家には比較的に都合がよいと思われたからである。

蘇州河の濁った水が不気味に目の下を流れている。

ホテルの内外は、林少佐が指揮する憲兵隊員が、目立たぬように厳しく警戒した。

恐るべき藍衣社のテロを封ずるために、蟻のはい出る隙間もないような厳戒ぶりだった。



私は一緒に丁を訪問したいという周仏海をホテルに残して、

『七十六号』   の鉄門をくぐった。が、何事であろうか、

堅く閉ざされた鉄門の内側では、その真正面の銃眼に据えた機関銃のもと、

多くの兵士が戦備もいかめしく固めている。

白昼のようにこうこうと輝く電燈の下に、銃剣とピストルが不気味に光って、

邸内は異様な緊張と鬼気にみんな気が狂っているようだ。



ときならぬ私の迷惑な訪問に   『七十六号』   の驚きはひとかたでなかったが、

丁黙邨たちは喜んで私の訪問を迎えた。

そして藍衣社が襲撃してくるとの風評があるので警戒中だと、説明した。



私は、周仏海がアスターハウスで待っているから、すぐ往訪してはどうかとすすめた。

しかし丁黙邨は、いろいろ言葉を設けて動こうともしなかった。

「実は手先に使っている市党部の委員がもうすぐ来て、

明日の工作の打ち合わせをすることになっています。

それに今夜の   『七十六号』   には危険が迫っていますので、

周さんを来訪するのは明日ではいけませんか」

こういいながら、丁黙邨は行き渋るのである。



私も内心、これは困ったことになったと思った。

丁黙邨はなかなか汪一派に心から歩み寄ろうとしないことを知っていたからである。

そのとき傍から李士群が口を出した。



「いや、藍衣社の来襲が噂されるのは、何も今夜だけのことではありません。

しょっちゅうのことです。

それにたとえ来襲したとて、呉志宝さえ残しておけば大丈夫ですよ」


余計なことをいうなといわぬばかりに、

丁黙邨はすごい目をギラリと光らして李土群をにらんだが、

その後は貝のように固く口をつぐんでしまった。》
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