1939年 上海で割腹する日本人壮士
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/14 16:56 投稿番号: [1972 / 2250]
晴気慶胤著
『上海テロ工作76号』
毎日新聞社
114〜116p
《『七十六号』 の藍衣社に対するこれまでの工作は、
暴力だけを頼って真っ正面から強圧を加えたものにすぎなかったが、
王天木が転向して以来、全く趣を一変した。
すなわち藍衣社の地下組織に精通する王天木の献策によって、
敵組織を内部から撹乱する手法をとり、
これが外部より加えるテロ攻勢と相まち、甚大な打撃を敵に与えたのであった。
特に四月下旬、敵の幹部を大量に逮捕した後は彼我の勢力は全くところを変えてしまった。
その後、呉開先などの藍衣社の残存幹部は、必死となって組織を立て直し、
勢力の回復を図ったが、大勢はもはや動かし難く、一時上海を支配した藍衣社も、
いまや全く手も足も出ない状態にまで追いつめられてきた。
一方、長い間停滞していた丁黙邨の市党部工作も、藍衣社の退勢に幸いされ、
これまた急激に発展して、五月の半ばには丁黙郡邨市党部員の半数を
実質的に支配できるようになっていた。
こうして大上海を支配する地下政府は、いまや 『七十六号』 となった。
『七十六号』 の威力の前には、
さしも勇敢な重慶テロもいかんともすることができないのである。
上海における抗日勢力の一掃も、もはや時期の問題となり、
七月中には予定通り一応特務工作を終わることができそうに思われてきた。
こうして地ならしがあらかたできたころ、
汪兆銘が近く上海にくるらしいという噂がどこからともなく伝わってきた。
ちょうどそのころ、周仏海のところに
日本の右翼団体に属する十人ばかりの壮士が乗り込んできて、
大本営のある課長の紹介状を示して、汪兆銘の護衛に生命を捧げたいと申し出た。
しかし、日本の壮士よりも 『七十六号』 を信頼していた周仏海は、
「ご好意はありがたいが」 といって、婉曲 (えんきょく) に拒絶した。
望みを失った壮士たちは、余憤をかって抗日分子の取り締まりが手ぬるいと
工部局にねじこんだが、工部局からも浪人の盲動と見られて相手にされなかった。
彼らはせっかく意気こんだ壮途 (?) を空しくし、
さらに西洋人にまでも愚弄されたと憤慨した揚句、
その一人は工部局の玄関でとうとう立ち腹を切ってしまった。
この出来事は、華字紙の片隅に 「日本の狂漢、街頭自殺を図る」 と
小さく報道されて終わりとなった。
壮士が腹を切ったことはとやかくいうかぎりでもないが、
彼らを汪兆銘の護衛に使うように周仏海に紹介した大本営の課長は、
中国のテロを日本のそれと同じような暴力団の仕業だと見て、
信頼できる手兵がない汪の身辺は日本の壮士で守るほかないと考えたものらしかった。
とんでもない考えかたで汪兆銘の身辺に、
これらの日本浪人がつきまとうようになったとすれば、
おそらく、膚に粟が生ずるような混乱が起きて、
影佐大佐はその後始末に苦杯を喫したことだろう。
私は当時、これら半可通な好意の押し売りに、
さぞ迷惑をしただろうと周仏海に同情したものである。》
114〜116p
《『七十六号』 の藍衣社に対するこれまでの工作は、
暴力だけを頼って真っ正面から強圧を加えたものにすぎなかったが、
王天木が転向して以来、全く趣を一変した。
すなわち藍衣社の地下組織に精通する王天木の献策によって、
敵組織を内部から撹乱する手法をとり、
これが外部より加えるテロ攻勢と相まち、甚大な打撃を敵に与えたのであった。
特に四月下旬、敵の幹部を大量に逮捕した後は彼我の勢力は全くところを変えてしまった。
その後、呉開先などの藍衣社の残存幹部は、必死となって組織を立て直し、
勢力の回復を図ったが、大勢はもはや動かし難く、一時上海を支配した藍衣社も、
いまや全く手も足も出ない状態にまで追いつめられてきた。
一方、長い間停滞していた丁黙邨の市党部工作も、藍衣社の退勢に幸いされ、
これまた急激に発展して、五月の半ばには丁黙郡邨市党部員の半数を
実質的に支配できるようになっていた。
こうして大上海を支配する地下政府は、いまや 『七十六号』 となった。
『七十六号』 の威力の前には、
さしも勇敢な重慶テロもいかんともすることができないのである。
上海における抗日勢力の一掃も、もはや時期の問題となり、
七月中には予定通り一応特務工作を終わることができそうに思われてきた。
こうして地ならしがあらかたできたころ、
汪兆銘が近く上海にくるらしいという噂がどこからともなく伝わってきた。
ちょうどそのころ、周仏海のところに
日本の右翼団体に属する十人ばかりの壮士が乗り込んできて、
大本営のある課長の紹介状を示して、汪兆銘の護衛に生命を捧げたいと申し出た。
しかし、日本の壮士よりも 『七十六号』 を信頼していた周仏海は、
「ご好意はありがたいが」 といって、婉曲 (えんきょく) に拒絶した。
望みを失った壮士たちは、余憤をかって抗日分子の取り締まりが手ぬるいと
工部局にねじこんだが、工部局からも浪人の盲動と見られて相手にされなかった。
彼らはせっかく意気こんだ壮途 (?) を空しくし、
さらに西洋人にまでも愚弄されたと憤慨した揚句、
その一人は工部局の玄関でとうとう立ち腹を切ってしまった。
この出来事は、華字紙の片隅に 「日本の狂漢、街頭自殺を図る」 と
小さく報道されて終わりとなった。
壮士が腹を切ったことはとやかくいうかぎりでもないが、
彼らを汪兆銘の護衛に使うように周仏海に紹介した大本営の課長は、
中国のテロを日本のそれと同じような暴力団の仕業だと見て、
信頼できる手兵がない汪の身辺は日本の壮士で守るほかないと考えたものらしかった。
とんでもない考えかたで汪兆銘の身辺に、
これらの日本浪人がつきまとうようになったとすれば、
おそらく、膚に粟が生ずるような混乱が起きて、
影佐大佐はその後始末に苦杯を喫したことだろう。
私は当時、これら半可通な好意の押し売りに、
さぞ迷惑をしただろうと周仏海に同情したものである。》
これは メッセージ 1970 (kir**gotowa**me さん)への返信です.