1939年5月8日 汪兆銘上海着1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/17 18:48 投稿番号: [1979 / 2250]
塚本誠著
『ある情報将校の記録』
中公文庫
271p
《 五月八日、北光丸上海入港の日である。
私はひとり碇泊場監部のある昭和島に出かけた。
島へは吊橋がかかっており、そのたもとに
「朝日」 の社旗を立てた自動車が止まっていた。
そばに立っている記者らしい青年に、私の名を告げ、 「白川支局長に
聞いていただけばわかると思うのですが、きょうは帰ってもらいたいんですが……」
と話しかけた。私の気持がすぐ通じたらしく、 「わかりました」 と
実に素直に引き上げてくれた。その人は林陸夫君だった。
やがて昭和島沖合にさしかかった北光丸は停船を命ぜられた。
きっそく臨検諸官にまじって北光丸に乗り込んで影佐大佐に会う。
久しぶりの対面、よく来てくれたと大変喜ばれた。
ただちに受入れ態勢を報告し、今日の行動予定を打ち合わせた。
犬養健氏も傍 (かたわら) にいた。
犬養さんは私が台北にいた時、松本さんの紹介でお目にかかったことのある人、
恐らく当時からこの工作に参加していたのであろう。
打合せが終ると影佐大佐は、私を汪精衛 (兆銘) 氏に紹介した。
その限、その声、特にその手から、
私は、 「なんという物腰の柔い若々しい人だろう」 という強い印象を受けた。
私は、中国では手の柔い人ほど人格が高い、
ということをかねて中国人から聞いていた。》
晴気慶胤著 『上海テロ工作76号』 毎日新聞社
117〜118p
《 昭和十四年五月八日、黄埔江に入った 「北光丸」 は
日本陸軍運輸部の出張所に到着した。
その船着場は上海と呉淞 (ウースン) の中間であったが、
敵のテロ団が近づけないように桟橋を避けて沖合いに投錨した。
先行していた周仏海は早速丁黙邨や李士群を伴って、真っ先に駆けつけ、
上海の治安と 『七十六号』 の特務工作の現状を説明した。
上海のそのころの事情にうとかった汪兆銘は、重慶テロを極度に恐れ、
和平運動の行く手に不安を感じていたが、
周たちの報告を聞いて暗夜に光を得たように、安心して喜んだ。
彼は 「『七十六号』 の活躍に期待して、今後の和平運動をすすめたい」 と
丁たちに将来とも協力してくれと丁重に頼んだ。
畏敬する党の長老から思いがけない懇篤な賞詞をもらったので、
李士群は犬馬の労もいとわないと感激したが、
別に期するところがあったらしい丁黙邨だけは別に感動した様子もなく、
冷然とそれを聞き流している。
周仏海たちより一足遅れて、チョ民誼や梅思平も駆けつけてきた。
やがて、船中で上海における汪兆銘の住み家について協議がはじまった。
汪夫妻やチョ民誼は 「日本軍の掣肘 (せいちゅう) を受けないで、
自由に中国人が出入りできる滬西にしなければならない」 と主張し、
周仏海や李士群は
「租界では藍衣社を掃討できる見込みがやっとついてきたばかりで、
汪先生がそこで生活するのはまだ危険である」 と唐紹儀の例をとって
「しばらく虹口の日本陸戦隊の宿舎で我慢して頂きたい」 と強調した。
影佐大佐も汪兆銘が滬西に入ることはまだ危険だと思っていたので、
汪兆銘は当分、陸戦隊の宿舎に住むことに結局、同意した。
汪兆銘と影佐大佐の付き合いはハノイ以来三週間にすぎなかったが、
その公正な人柄と明澄な識見に傾倒して、
いちばん信頼できる同志として彼を尊敬していたので、
最後に影佐大佐の意見を求めてそれによって決定したものであった。》
271p
《 五月八日、北光丸上海入港の日である。
私はひとり碇泊場監部のある昭和島に出かけた。
島へは吊橋がかかっており、そのたもとに
「朝日」 の社旗を立てた自動車が止まっていた。
そばに立っている記者らしい青年に、私の名を告げ、 「白川支局長に
聞いていただけばわかると思うのですが、きょうは帰ってもらいたいんですが……」
と話しかけた。私の気持がすぐ通じたらしく、 「わかりました」 と
実に素直に引き上げてくれた。その人は林陸夫君だった。
やがて昭和島沖合にさしかかった北光丸は停船を命ぜられた。
きっそく臨検諸官にまじって北光丸に乗り込んで影佐大佐に会う。
久しぶりの対面、よく来てくれたと大変喜ばれた。
ただちに受入れ態勢を報告し、今日の行動予定を打ち合わせた。
犬養健氏も傍 (かたわら) にいた。
犬養さんは私が台北にいた時、松本さんの紹介でお目にかかったことのある人、
恐らく当時からこの工作に参加していたのであろう。
打合せが終ると影佐大佐は、私を汪精衛 (兆銘) 氏に紹介した。
その限、その声、特にその手から、
私は、 「なんという物腰の柔い若々しい人だろう」 という強い印象を受けた。
私は、中国では手の柔い人ほど人格が高い、
ということをかねて中国人から聞いていた。》
晴気慶胤著 『上海テロ工作76号』 毎日新聞社
117〜118p
《 昭和十四年五月八日、黄埔江に入った 「北光丸」 は
日本陸軍運輸部の出張所に到着した。
その船着場は上海と呉淞 (ウースン) の中間であったが、
敵のテロ団が近づけないように桟橋を避けて沖合いに投錨した。
先行していた周仏海は早速丁黙邨や李士群を伴って、真っ先に駆けつけ、
上海の治安と 『七十六号』 の特務工作の現状を説明した。
上海のそのころの事情にうとかった汪兆銘は、重慶テロを極度に恐れ、
和平運動の行く手に不安を感じていたが、
周たちの報告を聞いて暗夜に光を得たように、安心して喜んだ。
彼は 「『七十六号』 の活躍に期待して、今後の和平運動をすすめたい」 と
丁たちに将来とも協力してくれと丁重に頼んだ。
畏敬する党の長老から思いがけない懇篤な賞詞をもらったので、
李士群は犬馬の労もいとわないと感激したが、
別に期するところがあったらしい丁黙邨だけは別に感動した様子もなく、
冷然とそれを聞き流している。
周仏海たちより一足遅れて、チョ民誼や梅思平も駆けつけてきた。
やがて、船中で上海における汪兆銘の住み家について協議がはじまった。
汪夫妻やチョ民誼は 「日本軍の掣肘 (せいちゅう) を受けないで、
自由に中国人が出入りできる滬西にしなければならない」 と主張し、
周仏海や李士群は
「租界では藍衣社を掃討できる見込みがやっとついてきたばかりで、
汪先生がそこで生活するのはまだ危険である」 と唐紹儀の例をとって
「しばらく虹口の日本陸戦隊の宿舎で我慢して頂きたい」 と強調した。
影佐大佐も汪兆銘が滬西に入ることはまだ危険だと思っていたので、
汪兆銘は当分、陸戦隊の宿舎に住むことに結局、同意した。
汪兆銘と影佐大佐の付き合いはハノイ以来三週間にすぎなかったが、
その公正な人柄と明澄な識見に傾倒して、
いちばん信頼できる同志として彼を尊敬していたので、
最後に影佐大佐の意見を求めてそれによって決定したものであった。》
これは メッセージ 1974 (kir**gotowa**me さん)への返信です.