入って中国人に南京事件真相議論しましょう

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膠着状態の上海戦線2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/04/09 15:10 投稿番号: [801 / 2250]
井本熊男著   『 支那事変作戦日誌 』   芙蓉書房出版   150〜151p

《 第三師団の先遣隊は、上陸後全面に数線の敵陣地があって、
戦況は激しさを加えるのみで、なかなか進まない。

第十一師団先遣隊は、上陸後約五日間で約六キロ南方の羅店鎮を占領したので、
戦況は有利に進捗 (しんちょく) するかに見えたが、

それから後約一ケ月の間、主力が到着加入しても戦線は膠着 (こうちゃく) して
ほとんど動かず、かえって敵の攻勢に対応するのに苦労する戦況であった。



その後第三師団方面は、ウースン・クリーク以北においては
九月九日までに上陸江岸から僅かに約三キロ前進して、

宝山城からその西方を南北に走る泗塘クリークの西岸に進出した。

ウースン・クリーク以南においては、
兵站部隊が黄浦江岸から二キロの泗塘クリークの線に進出した。



上海共同租界に近い黄浦江岸には、
始め第三師団の飯田支隊が上陸したが、支隊長は間もなく戦死した。

次いで同師団の片山支隊は飯田支隊を併せ指揮して九月十三日、
江湾正面に進出して近く敵陣地と相対した。

この線は、黄浦江岸から僅かに四キロばかり前進した位置である。

九月二十八日、片山支隊は第百一師団の谷川支隊と交代して第三師団主力に復帰
したが、以後十月二十五日まで谷川支隊はその位置から動くことはできなかった。

すなわち我方は、江湾の敵陣地の前に、二ケ月間膠着していたのである。



海軍陸戦隊は共同租界の周囲にへばりついたまま、
上海戦の最後まで動くことができなかった。》


つづく

英大使銃撃犯は擬装中国機か?

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/04/08 18:45 投稿番号: [800 / 2250]
私は、早瀬氏のように、中国がやったと言えるほどの証拠は持っていませんが、
そう疑わせるに足る、中国側の行動は知っています。

松本氏は、ヒューゲッセン大使を使っての和平構想に失敗したので、
新たな人を求めホール=パッチと会談し、徐新六を得ました。

毎週金曜日にキャセイ・ホテルでランチを食べながら会合を開くことにしたのです。
ところが徐さんは、中国の特務から見張られていました。



松本重治著 『 上海時代・下 』   229p

《   三回目のカセイ・ホテルでの会合 ( 十月十四日 ) の際、徐さんは、
中国人らしく、一種の特務隊が二人の動静を監視しているという気配を感じたらしく、

「次の会合は、どこか、ほかのところでやりましょうや」 という。
狙われているのは、私よりも徐さんのほうだと感じ、

「徐さん、次の会合は、ホール=パッチのアパートで、四時半ごろのお茶の会にしたら如何」
と提案すると、徐さんは、「 そうできれば、それに越したことはない 」 という。


四回目は、ホール=パッチと打合せのうえ、彼のアパートを借用した。
そこで両三回の会合をやったが、その翌日、上海クラブでホール=パッチに会うと、

「 シゲ、どうも、僕のアパートも監視されている。中国人ボーイが密告したらしいから。

この次のお二人の会合は、アメリカ大使館附武官に内情を話したら、
武官が自分のアパートを使ってくれというので、そうして欲しい 」 という。 》



こういう状態なら、ヒューゲッセン大使の行動が
中国側にもれても不思議ではないでしょう。


また、擬装飛行機にしても、中国は外国で、こういう宣伝をしています。


10月2日の中外商業新聞

《 〔ロンドン発1日同盟〕…ロンドン駐在支那大使館では毎日のように
日本軍を中傷する記事を流して、英国民の反日気勢を煽っている。

…外人目撃者のいない場所に関しては、今なお…デマが行われている。

9月28日のロンドン・タイムスは

「 英国政府は26日、支那側のマークを付したる日本軍飛行機二機が
広徳・安徽方面に現れ、爆弾を投下したとの支那政府の覚書を受領した 」

と報道し、ラジオも同趣旨の放送を行った。》



中国側の今までの傾向からすると、自分のやった事を日本がやったように宣伝しますから、
中国機が   日の丸をつけて、英大使を攻撃する事もありえるわけです。

徐新六と松本重治氏の和平工作も中国は快く思っていないようですし。


しかし、証拠はありません。 だから、海軍も中国がやったとは言えず、
さりとて認めるわけにもいかなかったのでしょう。

ただ、日本海軍には、自分でやって、中国機がやったと言うほどの、
図々しさは、なかったようです。


つづく

海軍は本当に英大使を銃撃したのか?

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/04/07 18:48 投稿番号: [799 / 2250]
海軍はなぜ、こうまで頑強に認めなかったのでしょうか。
北博昭著   『 日中開戦 』   107〜108p   には

《 海軍省法務局は、とりたててイギリスに謝罪しなくてもよいというその理由を
こう述べる(『海軍司法法規』)。国際法の立作太郎の見解に基づいている。


双方の軍隊の現に対立する際   又は両軍の対立状態の将 (まさ) に形成されんと
する際に於て、両軍の既成戦線   又は   将に成らんとする戦線間の中間区域

又は是 (かく) の如き戦線の直後の地域に於て、敵の現に軍用に供する道路を
通行する非戦闘員の如きは実際の戦闘の現に行わるる地域(戦場)に在る

非戦闘員と同視するを得べく、戦闘の間接の損害を受けねばならぬものと
謂い得べきで、(略)非戦闘員と知りながら悪意を以て攻撃を加えるか

又は悪意に匹敵すべき重大過失に因り、戦闘員と誤認して攻撃を加えたるに
非ざる以上は責任を負わぬものと考えられる。



英国大使負傷事件に付、仮令 (たとい) 我軍の航空機が襲撃を行ったとするも
非戦闘員と知り乍 (なが) ら攻撃を加えたことはあり得ぬ所であって、

又当時の実際の状況に照して戦闘員が搭乗すると誤認したとするも、
重大過失があったと云うを得ないことは明白である。

是の如き場合に於て重大過失の存することを主張せんとせば、
主張者より其存在を証明せねばならぬ。》


とあります。また、104pには


《 松本重治氏は 「 当時、蒋介石が前線を視察するという情報があり、
中華民国の青天白日旗とイギリスの国旗は、遠くから見ると、

ちょっと似ているので、海軍機が誤って爆撃を加え、
機銃掃射したわけです 」 (『昭和史への一証言』)》


とあります。   こういう弁解の口実があったのなら、 「 間違えた 」   と
言えば済んだ事です。しかし、頑として認めませんでした。



もしかしたら、海軍は本当にやっていなかったのではないでしょうか?


また、このことについて、『 将軍の真実   南京事件   松井石根人物伝 』 を
書かれた早瀬利之氏は   53〜54p   で

《 この日、海軍の飛行機は飛んでいなかった ( ?その場所にはという意味か )。
松井は参謀たちを通じて調査をした結果、日本軍の飛行機ではないことが判明する。

その意味では、むしろ南京にいるイギリス大使館筋か、または南京政府の方が、
情報をつかんでいたのではないか。イギリス大使館に勤めている中国人か、

または国民政府がもぐらせていた中国人が、イギリス大使の行動を知っていて、
偽装日本軍機に着手させた、と見るのが自然である。

襲った飛行機は、松井も海軍も、日本軍機というより、
中国軍機であろうと判断している。

日本政府は9月21日、外交折衝により解決することになるが、
和平の機会を崩したくない配慮から一歩下がったふしがある。 》


と書いています。
これについての論評は次で行います。


つづく

9月21〜23日 ヒューゲッセン事件 解決

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/04/06 18:48 投稿番号: [798 / 2250]
海軍が認めないのに、外務省が勝手に謝罪の回答を出すことはできません。
英国の対日感情は悪化していますから、外務省としては困ってしまいました。

外務省が海軍を説得したのでしょう。
海軍が譲歩しました。


北博昭著 『 日中開戦 』106〜107p

《 堀内謙介外務次官の尽力で海軍側も譲歩し、
海軍次官山本中将が遺憾の意を表わすにいたる。

そして九月二十一日、この遺憾の意を記した日本政府の最終回答が
広田外務大臣からクレーギ一大使に出された。

六日の中間回答とは異なり、つっぱねる感じはない。

しかし、遺憾の意を表わしたものとはいえ、イギリスと海軍の双方の体面を
傷つけないように配慮されており、表現はつぎのように明確さを欠く。



すなわち、調査の結果、ヒューゲッセン大使が負傷したのと同じ地点で同じ時刻に、
海軍機二機が中国軍将兵を輸送中と確信される自動車を銃爆撃したことがわかった。

銃爆撃は、大使の自動車を中国軍の自動車と誤認しての行為だったかもしれない。

故意ではないが攻撃は海軍機の 『行為に因りたるやも計り難き次第なるに鑑み』、
日本政府はイギリス政府に深い遺憾の意を表する。



この回答から二日目の二十三日、クレーギ一大使は、イギリス政府は日本の
回答に満足する、ヒューゲッセン問題はこれで解決した、と伝えてきた。

このあたりが引き際とみた政治的解決である。》


*   なんか、これを見ていると、本当はやっていないのだけど、
   やった事にしなければ納まりがつかないので、周りが圧力をかけて、

   無理やり   「とにかく謝れ」   とやったかのように見えます。
   いかにも、日本的解決法のようです。


つづく

松本重治氏の新たな和平工作

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/04/05 18:40 投稿番号: [797 / 2250]
松本重治氏著   『上海時代 (下)』   中公新書
226〜228p

《 九月の十八、九日だったかと思うが、久しぶりに、ホール=パッチからの電話である。

「ヒューゲッセン大使の事件の当夜、ロヴァット・フレイザー少佐と君と三人で
会ったとき、君は、あまりに恐縮してしまって、よく話もしなかったが、

事件があったとて、君との友情は変らない。 数日中には、東京で、事件の正式解決が
みられるらしい。シゲ、近いうちに、一夕、語ろうじゃないか」   云々の話。



私は、 「 エドモンド、それはありがたい。 君と二人で語り明かすのもいいが、
実は、戦争が始まって、中国人の誰とも没交渉になってしまった。

で、誰か、しかるべき人物を一人交えて、いっしょに話をしようじやないか」
というと、 「そうねえ、誰がいいだろうかね」   と、ちょっと考えたあげく、

「徐新六 (シューシンロー) を招ぼう。君はどう思う?」
「それはいい。IPRの会議以来、私は、ひそかに徐さんを尊敬しているんだ。

浙江財閥のうち、ほんとに英国やフランスでみっちり勉強をしたのは、
徐さんだけだからね。それに、何といっても、人間がいいよ。

胡適も、高宗武なんかも、徐さんの識見と人物とを高く評価しているんだ」。



五、六日経って、ホール=パッチのアパートで晩餐を共にするため三人が
集まったのは、九月二十三日 (金) であった。

私は、徐さんを相手に、一九三一年の上海・杭州での太平洋会議のことから
話を始めた。 徐さんもあの当時のことどもを懐しげに語った。

ホール=パッチのご馳走は甘いには違いなかったが、大場鎮を主たる根拠地としていた
中国軍と日本軍との死闘が行われていた最中で、葡萄酒の酔いが廻らないのが自然であった。



食後、徐さんが、戦争前の船津 (辰一郎) さんの和平努力を評価しながら、
「松本さんは仕事に忙しかろうが、戦況にかかわらず、誰か、日本人の方で、

私なんかと連絡をとる相手はないだろうか。秘密を守れる方で」   というと、
ホール=パッチは、 「それには松本君がいちばんいいよ」   と即座に提案した。

私が、 「こちらも徐さんのような方と定期的に連絡したいと考えていたのです。
微力ではありますが、私でよければ、何かのお役に立ちたいと思います」   と、

私の意中をもらすと、徐さんは、 「あなたのことは、周作民さんからも、
呉鼎昌さんからも、高宗武さんからも、始終うかがっています。

あなた自身がご承知くだされば、何よりありがたい」   といった。



そこで、ホール=パッチは、 「お二人の連絡場所はどうするつもりかね。
毎週の何曜日かに定めてくだされば、その日は、僕のアパートを空けておきましょう」

と好意的にいってくれた。私が、徐さんに、 「まだ、カセイ・ホテルでも、
お会いできるでしょう。毎週金曜日のランチは如何でしょう?」   というと、

徐さんは、 「そう、かえっておおっぴらでやってもまだ大丈夫でしょう。
毎金曜日の十二時十五分ごろカセイでお会いしましょう」   と応諾した。

私は徐さんが私を信用してくれた気持を、少なからず嬉しく思った。
次の金曜日 (九月三十日) からカセイ・ホテルでのランチの定期会合が始められた。》


つづく

英国を通しての和平工作の動き

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/04/04 18:47 投稿番号: [796 / 2250]
松本重治氏著 『上海時代(下)』 中公新書
222〜224p

《 停戦協定を作るために、ヒューゲッセン大使を南京から上海に遣ろうとした
英国政府は、上海地区における事態を不拡大にしたいと考えた以上のことを

構想していた。それは、もしできれは、日中間の全面的な調停の役を買おうと、
意欲的に考えつづけていたのであった。

中国における外国の権益のなかでは、何といっても英国のそれであり、また英国は、
ドイツが近年来、中国に対する貿易を盛んにしてきたことも考慮し、

ドイツが日中間の調停をやるようなことがありはしないかと考え、
先制的に英国自身が日中紛争の留め男になったほうがよいと考えたに違いない。



英国政府の指令の下に、東京ではクレーギ一新大使が、着任後間もなく、
数次にわたって、広田外相を訪問し、英国政府の日中間の

「調停の意図を示し、日本の中国に対する要求の真意を突きとめようと試みた。
広田はこれに対し、個人的意見だがと前提して、左記のような意向をもらした。


  一、天津、北京の線からやや南の辺に線を引いて、その間を非武装地帯とする
    こととし、この地域には日中両国とも軍隊を駐めないこと。

  二、満州国の承認を行うこと。

  三、排日・侮日を停止すること。

  四、防共を実現すること。

  五、華北における対外機会均等を行うこと。


クレーギーは   『外相の要求は大体合理的だと思う。ただ思想問題には触れたくない
から防共の点は日中間の直接交渉により密約でも作ってはどうかと思う』

旨を述べた。当時英国はヒットラー・ドイツに対抗するため、ソ連との提携を
考えていたので、ソ連を刺激するようなことには手を触れたくなかったのである。」

(上村伸一著『日本外交史』第二十巻、176〜177ページ参照)



英国政府は、クレーギ一大使と広田外相との会談を重要視し、ヒューゲッセン大使が
なお三、四週間入院治療を必要とした情況に鑑み、

突如、R・B・ハウを駐中国代理大使に任命し、クレーギーと協力せしめた。
九月十二日、新任のハウ代理大使は川越大使を官邸に訪れ、その夕刻、

代理大使は、盧溝橋事件以来、ヒューゲッセン大使が南京でよく連絡をとっていた
ことのあった日高 (信六郎) 参事官を訪問、三時間にわたって、

戦況や租界の問題、上海派遣軍の意向等について意見を交換した
(上海十二日発同盟電)。



翌々十四日、ハウ代理大使は、ホール=パッチとロヴァット・フレイザー少佐を
同伴して、南京に赴き、蒋介石その他の要人たちと数次会見した。

これらの会見を通じて、ハウ代理大使は、東京のクレーギ一大使が
広田外相の意向として伝えたところを   「蒋介石に伝えたところ、

蒋は、和平のことは自分からは言い出しにくいが、いつでもこれに応ずる用意がある
とのことであった。もっとも、宋美齢は非武装地帯にこだわりをもち、

その点については反対したとのことであるが、クレーギーは、期限をつければ
それでよかろうと広田に示唆した」(上村氏同上、一七七ページ参照)。



広田外相は、少なからず気をよくしたが、クレーギーの動きを、
陸軍は、英国の調停なんかは、いずれ、中国側に有利で日本側に不利になると考え、

また従来の英国の対中国援助姿勢からみても、そう判断するのが正しいと考え、
クレーギー・広田のラインに横槍を入れた。

また英国の調停案が民間にも洩れ、九月末には排英運動が起ったので、
広田も残念ながら、ずんずん話を進めるというわけにはいかなくなった。》


つづく

南京空襲の予告

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/04/03 16:02 投稿番号: [795 / 2250]
公大飛行場を確保した長谷川長官に、海軍中央部から、

中国に引き渡し予定の英国機九機が九龍付近で組み立て中、
ソ連機数十機南京着、9月15日上海方面空襲の算ありとの情報が入りました。

しかし九龍は、英国の領域ですので、手が出せません。
代わりに、輸送中継地である広東が攻撃目標となります。

長谷川長官は、二連空に上海付近の敵飛行場の偵察を命じます。
しかし、敵機は見つかりませんでした。

それで、南京、広東、漢口、南昌への空襲が決まりました。
ただし南京空襲には、外国から非難があっていましたので、事前に予告しました。



戦史叢書   『中国方面海軍作戦 〈1〉』   407p

《 南京空襲実施にあたり、長谷川長官は戦禍が第三国人   及び   一般市民に及ぶのを
避けんがため、九月十九日岡本上海総領事を通じ在上海各国総領事あて、

南京空爆の予告を通告した。
更に二十日付、中国非戦闘員に対し避難を勧告する宣言を発した。 》



〔昭和12年9月20日   大阪毎日   (号外)〕

《   長谷川長官の通告正文   〔上海二十日発同盟〕

    第三国に対する通告

支那軍の敵対行為を終息せしめ、もって時局の迅速なる収拾をはかることは
我が軍の作戦の目的とするところにして、

南京は支那軍作戦の中枢なりと認め、我が海軍航空隊は九月二十一日正午以後、

南京市およびその附近における支那軍隊、ならびに作戦および軍事などに関係ある
いっさいの施設に対し、爆撃その他の加害手段を加えることあるべし。



右の場合においても、友好国の船舶および国民の生命財産はこれを尊重する意向
なること勿論なるも、日支交戦の結果、万一にも危害がおよぶことなきを

保しがたき状況なるに鑑み、第三艦隊長官においては南京市および
附近に在住する友好国官憲および国民に対し、

自発的に適宜安全地域に避難の措置をとられんことを強調せざるを得ず。

なお揚子江上に避難せらるる向きおよび警備艦船は、
下関 (シャーカン) 上流に避泊せられんことを希望す。》


*   しかし、この予告は逆効果になりました。
   中国は、国際連盟に訴えたのです。


つづく

膠着状態の上海戦線1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/04/02 15:46 投稿番号: [794 / 2250]
井本熊男著   『 支那事変作戦日誌 』   芙蓉書房出版   151〜152p


《第三師団主力は九月十七日までに、前記九月九日の位置から
右翼方面は約六キロ、左翼方面は約四キロ前進した。

一日四百メートル乃至 (ないし) は百メートルの前進である。 連続不断の激闘で、
一面の敵陣地を、一枚一枚鱗 (うろこ) を剥 (は) ぐように奪取しての前進であった。



第十一師団の天谷支隊は、大連に上陸することなく、
八月下旬青島東方の洋上で待機させられていたが、

青島上陸は行わないことに決定せられたため、
九月一日の大命で上海に向った。


同支隊は九月四、五日頃呉淞に上陸し、師団主力に復帰するため、
宝山城附近を経て前進中、九月七、八日頃月浦鎮周辺において、

頑強に抵抗する数線の敵陣を攻撃して多大の損害を出しつつ、九月十七日、
羅店鎮東南地区において第十一師団主力の左翼に近く進出した


( 後に軍作戦主任参謀西原大佐の言によれば、天谷支隊は上海上陸後
十日間に三千四百名の兵力が九百名となった )。

その他第三、第十一師団主力においても、
右九月十七日までの戦闘において莫大な損害を出した。

上海の陣地攻撃間に、この両師団の歩兵は当初出征したものは
殆ど全部死傷し、補充員によって置き換えられた程であった。

これは日露戦争後、経験のない大損耗であった。
筆者の同期生で、中隊長として参戦した八名は、全員この戦闘で戦死した。》


*   天谷支隊が青島に上陸しなかったのは、居留民が引揚げて、
   その必要性がなくなったからでしょう。

*   そして、上海の犠牲の多さは、派出した人数が
   余りに少なすぎた為と言えます。


つづく

9月15日 上海武官室木端微塵

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/04/01 18:45 投稿番号: [793 / 2250]
これは、松井 ‐ 松本会談 3 のつづき

松本重治氏著   『上海時代   (下) 』   中公新書
222p


《 翌日午後二時、原田武官に電話をかけ、武官室に行き、

武官の応接間で約三十分ほど意見を交換したが、三時ごろ帰社した。


十分ほど経つと、武官室に中国側の迫撃砲弾が命中して、

武官応接室の家具が木っ端微塵になったというニューズが電話で知らされてきた。

私が、もし三、四十分長尻をすれば、武官もろとも、あえなき最後を遂げるはずであった。



(後年、松井大将の二十三回忌が東京で催され、求められて私は、

この松井軍司令官との会談に触れ、

「南京に行くまでに事態の和平的収拾を計られたこと」   を話したが、

そのとき同席した安藤少将   (当時の派出軍参謀長)   が松井大将の心境に

ついての私の話を一〇〇パーセント裏書してくれたことがあった。)》

9月14日 松井‐松本会談3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/03/31 18:54 投稿番号: [792 / 2250]
松本重治氏著『上海時代(下)』中公新書
220〜222p

《 第一には、南京を占領してしまったら、日中戦争が全面戦争になります。
中国側は長期戦を覚悟しています。

日本側は、それをできるだけ避け、一撃で話合いをつけたいというのでしょう。
そういう構想が、上海派遣軍の名称からみても判るようです。

しかし、問屋はおろすまい。
だから、南京まで行かないうちに停戦をでかすことが上策である。

この策は、失礼ながら、松井さんでなければできないし、
同時に、松井さんならできると信じます。


第二は、いうまでもなく、第三国の権益をなるべく損わないようにするのは
もちろん、第三国の武力との摩擦を絶対に避けるべきである。

重要なことは、だいたいこの二点に尽きると考えます」
と、熱心に話すと、松井さんは、



「あまり俺を持ち上げるなよ。君の話については、第二点は、全然同感だ。
これについても君の協力を期待する。

第一点については、俺もひそかに考えていることがあるのだ。
だが、戦争には相手があることだから、こちらだけの計画どおりにはならんことも

あるだろうし、また、軍をいったん動かすとなれば、勢いが加わって、
止めることが容易でないということもあるだろう。

しかし、松本君のいうとおり、上策としては、南京に行かずに戈を収めるにある。
これについて、俺は日夜心胆を砕いているところだ。

この点については、絶対に他言は無用。まだ、ゆっくりしていってくれ。
陣中で、ご馳走はないが」   と、別の食卓に私を誘った。



運ばれてきたものは簡素な西洋式の一品料理であった。
「松井さん、たいへんなご馳走じゃないですか」   といいながら、

「ご健康は如何ですか?」   と尋ねると、
「ウン、ちょっと風邪気味なんだが、熱もないし、たいしたことはない。

実は、こんなことになるのじゃないかと思って、一年前から、熱海で静養しつつ、
体力を養成してきたので、身体の調子は全体としていいんだ。大丈夫だよ」   という。



コーヒーの代りに番茶となったころ、副官が   「原田 (熊吉) 大使館附武官が、
着任の挨拶と上陸作戦ご成功の祝詞を述べるために参りました」   というと、

松井さんは、つと立ち上って、軍司令官の執務机にかえり、
ゆったりと椅子にかけたが、松井さんは、いかにも小兵である。

ドアを排して現れたのは大兵肥満の原田武官であった。
原田武官は、直立不動の姿勢で、挨拶と祝詞を切口上で述べた。

松井さんは、立ちもせず、 「ウン、ウン」   というだけであった。
原田武官の挨拶が済むと、 「しっかりやれっ」   と一言いったあと、

私の方を顧みながら、 「原田、おまえは、同盟通信上海支社長の松本さんを
知っておるか?」 「ハイ、承知しております」。



私は、武官の着任後一、二度会ったばかりであったが、場をつくろうためもあって、
私が一礼すると、武官に対して、

「おまえは、これからも松本さんとよく連絡して、
国際情勢、第三国の意向などをよく教われっ」   との命令口調だ。

こっちは困って、 「武官とも、連絡しております」   と助け舟を出すと、
武官も、 「充分に連絡しております」   という。

「それならば、よろしい」。 こちらの二人は坐ったまま、
原田武官は終始つっ立ったままであり、いささか叱られに来た恰好で、

十五分足らずで、室から出ていった。陸軍では下剋上と聞いていたが、松井軍司令官が、
表面上だけでも、部下を把握しているように思えて、頼もしいと感じた。》


つづく

9月14日 松井‐松本会談2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/03/30 18:58 投稿番号: [791 / 2250]
松本重治氏著   『上海時代 (下) 』   中公新書
218〜220p

《 松井大将は、 「松本君、よく、すぐに来てくれたね、忙しいのに」   と礼をいわれた。

私は   「イヤ、こちらもお目にかかりたいと思っていたのです。
松井閣下、ご健康は如何ですか?」   というと、松井さんは、

「君、閣下呼わりはやめてくれ。 東京でやったように、ここでもかまわん、
君は   『松井さん』   と呼んでくれ給え。

松本君に来てもらったのは、まず第一に、
英国その他諸外国の反響を君から聞きたいのだ」

「私の率直な所感を申せば、英国はじめ関係第三国はみんな、上海事変を、
できるものならなるべく拡大せしめたくないという考えのようです。

戦争が激しくなれば、租界の中立性があぶなくなります。



先月末に、ヒューゲッセン英大使遭難事件があったことは、ご承知のとおり」
「ウーム」

「あれは、英大使が川越大使と新しい停戦協定ができるかどうかを打診するために、
南京から上海まで、わざわざ来たんです」

「その内部事情は全く知らなかったよ」
「ご存じないのが当り前で、日本側で、内情を知っていたのは、川越大使と

私と二人だけなのです。英国側では、外相イーデンもOKした計画でした。
というわけで、英国の意向もお判りになるでしょう。

川越大使は、東京の考え方が判らないし、これは難しい構想には違いないが、
英大使と話が少し煮つまりそうになれば、軍司令官とも相談し、

それによって本省へ請訓するというお考えだったと推察しています。
だが、ああいうことになって、おじゃんになりました」。



松井さんは、「英国が、そこまで留め男に乗り出しかけたとは知らなかったよ。
君の話は、俺にも少なからず参考になった。中国軍が、なかなか抵抗しよるのも、

あるいは外国のモーラル・サポート以上のものがあるからだとも思われるね」
「松井さん、中国は、もう以夷征夷政策なんかだけに頼ってはいません。

国を護ろうとする切端つまった感情が士気を昂揚せしめているのです。
中国もこの一両年間にずいぶん変ってしまったことは、ご承知のとおりです。

絶対に、馬鹿にはできません」
「今では、俺もそう思っとる。上陸作戦に対する抵抗を見ても判る」。



「松井さん、一つお尋ねしたいことがありますが……」   といいかけると、
「松本君、何でもいいよ」   と打ち解けた返事であった。

「 実は、大山元帥が満洲軍総司令官として新橋駅を発つとき、山本 (権兵衛) 海相を
顧み、『戦争はやりもうすが、 「打ち方止め」   の合図だけはお頼みします』

といったとかいう伝説を聞いていますが、閣下は、いや松井さんは、
上海派遣軍司令官として、いつ、どういうふうに戈を収めるかという問題を

お考えでしょうか。軍令の機密を知ろうというのではありません。
中国通の松井さんには何らかの成算がおありだと思いますがね」



「大山元帥の当時の心境を、かねてから尊敬しているよ。君の質問に答える前に、
すでに五年間も上海で観察してきた君から、どうしたらよいか、どうすべきであるか、

これこれのことはやってはならぬ、というような点について、俺の参考のために、
話してくれ給え。戦地の上海と東京とは違うが、東京での例の会合で

君が述べたような、率直な意見を述べてもらいたいものだ」

「陸軍大将と海軍の尉官待遇の従軍記者とでは、逆手をとられても致し方がない。
では、お叱りを覚悟して申し上げます。要点は二つあります。」


つづく

9月14日 松井‐松本会談1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/03/29 18:44 投稿番号: [790 / 2250]
松本重治氏著 『上海時代(下)』 中公新書217〜218p

《 呉淞砲台が占領されてからも、呉淞と上海とを通じる軍工路には、
ドイツ人将校の指導の下に数箇の半永久的の堅固なトーチカが造られていて、

中国軍が頑強に抵抗したため、呉淞と上海との連絡はできなかった。

九月一日から数次にわたり増援陸軍部隊がキュウ江碼頭に上陸を敢行し、
また新たに増援された陸戦隊と協力して、

九月四日から、激戦ののち、トーチカを一つずつ占領していった。
やっと十三日には、軍工路に蟠居していた中国軍の第一線部隊が嘉宅方面に

退却を始め、同日、はじめて軍工路を通じての呉淞−上海間の連絡が碓立され、
居留民ははじめて胸を撫で下した。


その翌十四日であったか、支社に出ると、九時過ぎ、陸軍武官室からの電訪があった。

「松井軍司令官が松本支社長に会いたいといっておられる。
なるべく、都合して、早く呉淞に行ってもらいたい」   との話であった。

私は、臨時の日本人逆転手を頼んでいたので、すぐ車を飛ばし、軍工路を通って、
十一時少し過ぎ、呉淞の上海派遣軍司令部に着いた。



実は、松井   (石根)   大将と私とは二年ほど以前からよく知り合っていた。
私が東京本社からの一時帰朝命令で上京したたびごとに、佐藤安之助少将

(京郡および上海での太平洋会議で交友を続けていた予備陸軍少将)   や
前田多門さん   (当時、 「朝日」   の論説委員)   の肝入りで、

上海の話や日中問題についての意見交換をする数人の会合に招かれ、
松井大将はそのレギュラーの一人であったという関係があったのである。

松井さんは、そのころ、熱海   (より正確には、伊豆山)   に寓居を構えていたが、
この会合には、熱海から欠かさず出席して、私なりの意見に耳を傾けてくれた。



私の記憶に間違いなければ、松井さんは、参謀本部の   「支那班」   出身で、
その先輩坂西利八郎中将の手塩で育った中国通随一の軍人であった。

そういう会合で、私は、松井さんが、たんに中国通であるだけではなく、
中国における英国その他の第三国の権益、彼らの対中国政策にも

少なからざる関心をもっていることをも知っていた。
この会合には、レギュラーのほかには、松田義雄氏   (前田多門氏や黒木三次氏の親友、

ドイツ経済史専攻で有名な松田智雄君の父君)、満鉄の金井清氏、岩永   (裕吉)
さんらも、ときどき顔を出し、顔を出せば必ず談論風発するという人々のみであった。



副官が司令部の玄関に立っていて、私が着くなり、 「松本   『同盟』   支社長ですね」
と、誰であるかを確かめ、 「軍司令官閣下がお待ちかねです」   という。

案内されて松井大将の軍司令官室に入ると、松井大将は、 「松本君、よく、
すぐに来てくれたね、忙しいのに」   と礼をいわれた。》


つづく

9月12日 中国、国際連盟に日本を提訴

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/03/28 18:38 投稿番号: [789 / 2250]
『 近代日本戦争史第3編   満州事変・支那事変 』
  奥村房太   監修    河野収   編集     同台経済懇談会刊行

300p
《 九月十二日、中国は、正式に事変を国際聯盟に提訴した。
聯盟はこの問題を諮問委員会に付託した。》


戦史叢書『支那事変   陸軍作戦1』
311p

《 中国が正式に事変を国際連盟に提訴したのは九月十二日で、
翌日から第十八回国際連盟総会が開かれた。》



何と言う事でしょうか。   自分の方から、戦争を仕掛けておきながら、
臆面もなく、 「侵略された」   と訴えているのです。

これまでの流れで明らかなように、
日本は   「戦争を避け、話し合いで解決を」   とやっていました。

それを踏みにじって、無理やり戦争をしかけ・やめないのが中国です。

日本人は、自分がやっていなくても   「相手がああ言っているのだから、
取り敢えず謝っておこう。それで相手の気が済むなら」   とやりますが、

中国人の場合は、まったく逆で、自分が加害者のくせに、平然と被害者を
よそおって、本当の被害者を加害者に仕立てて、訴えるのです。


まー、中国のこういう態度は、皆さん、もう、尖閣事件で、御存じでしょうが。

昔だったら、こういう事を言っても、極悪非道の右翼が、
可哀そうな中国に罪を着せているとしか、とられませんでした。



上陸した陸軍は、進撃どころか、大量の中国軍に苦戦し、
大変な被害を出している最中でした。

そして、追加の三ヶ師団は9月10日に動員が決定されたばかりで、
まだ当分来れません。

日本人を殺し放題のときに、侵略されてるとホザいているのです。

上海にいる、外国人は実情を知っていますが、
遠くのヨーロッパや米国にいる人には分かりません。

だから中国が、 「強い日本が弱い中国をいじめている」   と訴えれば信じてしまいます。
こうやって、 「日本悪者」   宣伝工作が着々と進んで行くのです。



なお、日本は、   これより先九月二日、臨時閣議で   「北支事変」   を
「支那事変」   に改称しました。

これは、戦争が北支だけでなく、中支に拡大したため、 「北支事変」
では不都合になったからです。


そして、追加の三ケ師団の動員が九月十日に決まった時点で、石原第一部長の
支那事変に対する、作戦構想は破綻しましたので、石原部長は辞任を申し出ました。


つづく

上陸部隊にコレラ発生

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/03/27 15:57 投稿番号: [788 / 2250]
陸軍上陸部隊は大量の敵になやまされていましたが、
もう一つ別の敵がいました。 それはコレラです。


早瀬利之著 『将軍の真実   南京事件   松井石根人物伝』   光人社

59p
《 不運はもう一つ重なった。
それは食糧不足の第11師団の20名がコレラにかかったとのしらせである。》


62〜63p
《9月10日の日、コレラの原因が、クリークの水を飲んだためと判明。

コレラ患者は青島から2日に呉淞錨地に到着した天谷支隊に多い。 患者数は百名で、
死者30名を出した。 松井は軍医部長に患者の感染地を消毒させる。》


63〜64p
《10日午後、日高信六郎南京大使館の参事官が司令部のある水産学校を訪れ、

松井と会談した。松井は日高に「何とか水を運んできてほしい」   と頼む。
水不足は予想外のことだった。

それに、コレラ保菌者も多く、このままでは戦意にかかわる。 その後もコレラ患者は
増え、第三師団でも十二日の時点で、三十名の患者を出し、うち四名が死亡していた。

コレラ患者はその後も増えつづけ、二十日、藤田部隊片山支隊にも発生する。
二十一日には患者数三百余名、死亡者九十名に及ぶ。

しかし、病院が不足して患者の隔離に苦悩した。
給水船を操って飲料水を運んだのは、上海の岡田酉次ら武官府だった。

岡田は   『日中戦争裏方記』   の中で、当時の給水船とコレラ患者のようすを、
こう記している。



「八月二十五日ごろには、無数の日本軍輸送船が呉淞沖に到着していたが、
敵の妨害で砲弾の補給準備にもこと欠き、ましてや一般軍需の揚陸などは

見込みさえ立て得ない。そのうえやっと岸辺に取りついた部隊からは、
不幸にも伝染病患者まで発生し、惨状見るに忍びざる苦戦を繰り返した。

そこで、せっかく、武官府であらかじめ準備した軍需品   (医薬品を含む)   を、
黄浦江を下って揚子江本流への出口にあたる呉淞鎮付近までいかに補給するかが、

武官府に課せられた声なき至上命令となった。
さいわい暗夜を利用して敵の抑留から引き出してきた数隻の小艇に、

鉄板で防弾装置をほどこし、敵弾雨下の中を運航してやっと上陸し、
水際に平伏している兵隊から歓呼して迎えられたのである」



水上補給に使用した艇は、三井物産上海支店所属の   「梅丸」   が主力で、
三井物産上海支店の梶山幹六   (のちに宇徳運輸社長)   の決死行動で、

何度も上海と上陸地点との間を往復している。 「江岸水際にて上陸兵と共に
夜を徹したことも少なくなかった。 上陸部隊がやっと大場鎮に達したころ、

部隊の中からコレラ患者が多発しだした。 当時なお上陸部隊では、
これが治療薬剤にもこと欠き、いたずらに患者を敷ワラの上に横臥せしめるのみで、

ほどこすすべも持たない有様であった。

また、重傷患者の手術をしようにも、消毒薬や麻酔薬が揚陸できない窮状で、
部隊付軍医による医薬品の現地入手が、人道問題とまで考えられてきた。」》


つづく

9月10日 増員要請に消極的な参謀本部

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/03/26 13:48 投稿番号: [787 / 2250]
上陸した陸軍は、待ち構えている敵に苦戦しますが、
敵は前だけではありませんでした。後ろにもいたのです。


早瀬利之著   『将軍の真実   南京事件   松井石根人物伝』

58p
《 松井は、少なくとも五師団は必要と思い、第三艦隊長官と川越大使に通報 》


61〜62p

《 9月10日の朝、参謀本部からの電報が届いた。
その電報は松井をびっくりさせるものだった。

電文は   「新たに第九、第十三、第百一師団を一時的に増加するが、 十月までに
二師団だけ残し、他の主力を北方に転用する予定」   という内容のものである。

この朝の松井の無念さが、日記の行間に読みとれる。

「遅くも十月末までに二師団   (うち一つは特設師団)   だけ残し、
主力を北方に転用する予定なりと知り吃驚せり。

かくのごとくして軍の攻撃ははなはだ不徹底となり、敵軍攻撃の半途にして
これを打ち切り、上海北方に小さく二コ師団をもって防守せんなどは

とうてい上海確保、人民安護の所以   (ゆえん)   にあらず。
かつ皇軍の威信を傷つくること絶大なりと考えられ、憂慮に禁ぜず。」》



*   兵隊をほとんど増やさず、増やしても一時的で、すぐよそに回すと言うのです。

   石原参謀本部第一部長は、ソ連が参戦してきたら困るから、その防備に必要
   という考えで、対中国戦は、あまり重要視していませんでした。

   これで、「戦争やれ」   と言われても、言われた方が困ってしまいます。
   こんな状態なのに、中国侵略などと言われるのですから、何をか言わん。嗚呼!


つづく

軍工路の開放

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/03/25 18:50 投稿番号: [786 / 2250]
西岡香織著 『報道戦線から見た 「日中戦争」』 芙蓉書房出版
84〜86p

《「九月六日、飯田支隊は軍工路の開放、公大飛行場確保という特別の任務を
以て、滬江 (ここう) 大学北方地区に於て攻撃を開始した。


この戦闘は上海市街揚樹浦に接近して行われたので、新聞記者も親しく目撃したものが
多いのである。 私も三回程、従軍記者を伴い滬江大学の楼上から眼下の戦闘を観たが、

彼我二三百米に接近し、森原部隊の突撃や敵の逆襲に手に汗を握った。
温厚な飯田部隊長の戦闘指令所で、指揮の合間に記者を紹介した。


『〔軍報道都九月八日午後二時発表〕   飯田部隊は本朝来、陸海砲兵射撃並に
海軍機の協力の下に当面の敵に対し攻撃を再開せり。

同部隊左第一線の森原部隊は午前十一時、界浜港クリークに接近せる
第一及び第二トーチカ陣地を突破し、軍工路西方約一千米の沈家巷鎮を占領し、

目下当面の敵と対峙中なり』
此の発表文は滬江大学の楼上で戦闘を目撃しながら、記者に発表したものだ。



其の翌朝未明に飯田部隊長戦死の報を得、驚いて戦場に駆けつけた。
同盟の奥宮君外数名が続行した。


飯田少佐は昨日私と訣 (わか) れてから、戦闘指令所を前方、
キュウ江碼頭職員官舎に移したのであるが、

中村大尉、梅田大尉、山本大尉等を初め、中隊長、小隊長相次で斃 (たお) れ、
一番損害を多く蒙った小隊の守備する碼頭の、之も戦死傷者を収容している所に

夜襲をかけられたので、部下の止めるのも肯かず、大隊本部を出て現場に赴援し、
格闘して遂に斃れたのである。

副官森田少尉之に殉じ、旅順港口の広瀬中佐、杉野兵曹長を再現した。

私は小銃弾乱れ飛ぶキュウ江碼頭に到り、飯田少佐以下多数の戦死将兵の
遺骸に額き、昨日に変る姿に涙を絞ったのである。



飯田支隊生存の中隊長は第一トーチカに突入した森原大尉一名となった。
死を誓った部下とは断じて離れない、と云っていた森原大尉も大隊長戦死と聞き、

涙を奮って支隊戦闘司令の位置に就き、九、十、十一、十二、十三日と死闘を続けて、
遂に軍工路を突破し、市政府に進入した。

支那特有の豪華な建物で、朱緑の甍 (いらか) 燦然 (さんぜん) と
大陸の残照に映えている。

キリッと鉄兜の緒を締めて、附近の綿畠 (わたばたけ) を蹴散し、
飯田部隊長の弔合戦をする森原大尉の奮戦振りは、全く武者絵そのままであった。

好漢惜しいかな、大別山麓の華と散った。



飯田部隊の死闘によって軍工路が突破され、公大飛行場は確保され、
陸上機の活動が茲 (ここ) に初めて可能となった。

軍工路の開放によって、従軍記者もドロンコの徒歩連絡から、自転車となり、
やがて自動車も使用されるようになった」   (馬淵『報道戦線』)》


つづく

公大飛行場の確保

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/03/24 18:51 投稿番号: [785 / 2250]
日本海軍は楊樹浦 (ヤンジッポ) の東の方に公大飛行場を建設中でしたが、
中国軍の攻撃を受けてなかなか進みませんでした。

そこで、陸軍の一部を上海に回してもらって陸軍部隊と協力して、
周囲の敵を排除することにしました。



戦史叢書 『中国方面海軍作戦〈1〉』 397〜398p

《 九月上旬我が東部支隊右翼隊は陸軍部隊の前進に呼応して、
キュウ江碼頭及び付近地域に対し単独作戦中であった。

付近に公大航空基地を建設中であったが、敵陣地からの銃砲火にさらされ、
航空機の進出が困難であった。

このため陸軍飯田支隊が主として同方面の攻撃に当たることとなり、
海軍側は東部支隊、火砲によりこれに協力することとなった。


陸軍中村中隊 (飯田支隊の先遣隊) の乗艦する   「栂」   は六日   02:00   上海発、
下江し同 03:05 キュウ江碼頭に横付けし陸兵揚陸を開始した。

ところが同倉庫によっていた敵から頑強な抵抗を受けたため、一たん揚陸を中止、
「栂」は横付けを離し、「刈萱、安宅、堅田、夕月、芙蓉、勢多」   などの

掩護艦と共に、夜明けまで同倉庫付近を猛撃制圧し、07:30   碼頭下流江岸に
揚陸を完了させた後、午後戦死傷者を収容し上海に帰投した。


なお旗艦出雲も六日   03:50   上海発、主砲 (二十糎 (センチ) 砲) をもって
本上陸掩護射撃に加入の上、08:00   上海に帰着した。

かくて上陸した飯田支隊は滬江大学から進撃し、何家宅以南の軍工路の線に
進出して八日ほぼその目的を達成した

が、九日未明の戦闘で飯田支隊長以下幹部多数が戦死するに至った。》



402〜403p
《 事変勃発当初、周水子基地 (大連) で陸軍部隊の北支海上輸送警戒に

従事していた第二聯合航空隊は、上海方面への急速な進出が望まれていたが、
同方面陸上基地は未整備であった。

しかし陸軍部隊上海派兵の結果、かねて建設中であった公大基地の使用が
可能となり、同隊は九月十日この基地に進出した。


公大基地は元来ゴルフ場を急速造成したもので、同隊進出直後、
天候不良のため滑走路がどろだらけとなり、昼夜兼行の修理にもかかわらず、

最初の一〇日間に九六式艦戦約一一機が発着の際大中破した。

また敵機の来襲もしばしばであったが、おおむね夜間攻撃で我に被害なく、
付近敵陣地からの砲撃もその都度反撃した。

この一〇日間が実に第二聯合航空隊にとり最大の危機であった。》



*   これまで、日本軍は、上海方面に、陸上の飛行機基地を持たず、
   航空母艦から小さな複葉機を飛ばすか、済州島や台湾から、

   96式陸攻を飛ばすしか出来ませんでしたが、公大基地が確保できたお陰で、
   陸上から、南京やその他、遠くの敵基地を攻撃する事が可能となりました。

つづく

9月6日陸軍増派に関する陸海軍の交渉2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/03/23 18:42 投稿番号: [784 / 2250]
戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』
296p

《 九月六日午前、軍令部総長は海軍の用兵について奏上した際、
「上海の陸上戦闘は遅々として進まず、陸軍兵力の増強が必要である」   旨を上奏した。

よって、直ちに参謀総長を召された。参謀総長は、参謀本部で検討ののち、
十五時参内し、 「上海に、第九・第十三・第百一師団及び台湾守備隊を増派

することに内定、後備歩兵四コ大隊を派遣」   する旨上奏した。


九月七日、台湾軍の台湾守備隊を応急動員により、海軍艦艇で上海に急派することに
なり、臨参命第九十七号により、重藤支隊として上海付近に派遣すべき命令が出された。

これと同時に、臨参命第九十六号をもって、北支那方面軍から、後備歩兵一〇コ大隊、
同砲兵二コ中隊、同工兵二コ中隊、野戦重砲兵第十聯隊の一大隊、

高射砲隊 (乙) 五隊を上海に転用する命令が下達された。》



しかし、石原部長はまだ頑張ります。


296〜297p
《 注一   陸軍中央部内においても、上海方面の兵力が過少であるとして、
作戦部を非難する声が相当に強かった。

石原作戦部長は、増兵しても焼け石に水だからと言って容易に同意せず、
陛下が出せと言われれは別だが、そうでなければ出さぬと頑張っていた。

しかし上海方面の悲惨な戦況を打開する必要があるので、
ついに増兵に同意せざるをえなくなった。》


297p
《九月十日、石原部長は、第一部各課長に対し次のように意図を示した。

(1)   上海派遣軍は増兵されても任務は変わりない。南京の攻略戦は実施しない。

(2)   上海に一撃を加えたのちは二〜三コ師団をもって上海周辺を占拠させ、

    じ余は満州に転用する。》


*   この期に及んでも、石原部長は、なお、支那事変には消極的だったのです。
   南京進撃どころか、上海が片付いたら兵を満洲に移すと言っていたのです。

   これで、中国侵略などと言うのは、歴史を判らぬバカです。
   尤も、中国は最初から、嘘を並べているだけですから、バカではありません。

   侵略などと信じている日本人がバカなのです。


つづく

英大使銃撃事件で、石射猪太郎海軍批判

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/03/22 18:41 投稿番号: [783 / 2250]
ヒューゲッセン大使銃撃事件で、海軍が認めない事に対して批判的な人がいます。
それは、石射猪太郎東亜局長です。

彼は、上海での和平会談に大幅に譲歩した和平案を提案したのに、
大山中尉虐殺事件で和平が潰れた為、海軍を逆恨みしているのかも知れません。



北博昭著 『 日中開戦 』105p
《 『 石射猪太郎日記 』

8月31日   「 ヒューゲッセン大使を射った飛行機があるのか無いのかまだわからぬ。

      海軍もダラシがない。見切りをつけるのが商法の秘訣である事を知らない 」

9月1日   「 ヒューゲッセンの自動車をやったものなしと第三艦隊からの報告、

      子供の申ワケの如し、アタマ匿 (かく) して尻かくさず。

      海軍省も物足らぬとなし再調を命ずと云う 」

2日   「 現地海軍より英大使の自動車を撃った飛行機なしと報告来る。

    天下の物笑いである 」 「 海軍もこんな事になるとダラシが無い 」

5日   「 ヒューゲッセン遭難問題。   海軍は第三艦隊から覚えなしと返事来る 」


104p

9月6日、広田弘毅外務大臣は、ドッズと交替してこの月の三日に着任したばかりの
駐日クレーギ一大使へ中間回答を送った。   日本軍機のしわざとみるだけの材料がなく、

責任があるか否かの判断を下すことはできない。将来については非戦闘員に
損害を与えないよう最大の注意を払うべき旨の訓示を与えた。


106p

海軍は事件の事実関係をより詳しく調べるため、海軍省軍務局第一 (軍事) 課の
高田利種 (たかだとしたね) 中佐を現地へ派遣した。

その結果が九月十二日に外務省へ届いた。これまでと同じ、
ヒューゲッセン大使に銃爆撃を加えた覚えはないというものだった。》


海軍が認めないのに、外務省が勝手に謝罪の回答を出すことはできません。
英国の対日感情は悪化していますから、外務省としては困ってしまいました。


つづく

各地で居留民引き揚げ2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/03/21 14:48 投稿番号: [782 / 2250]
香港も抗日気分強まり、婦女子引き揚げ   〔昭和12年9月4日   中外商業(夕刊)〕


《 三日、水沢香港総領事より外務省に到着した報告によれば、
わが空軍の広東爆撃以来香港の邦人に対する空気は俄然悪化し、

ために七日香港出港の郵船浅間丸で取り敢えず邦人婦女子百名を
引き揚げさせることに決定した。


すなわち二日午後一時半ごろ、

湾仔にある邦人経営浜田洋行に支那人五百名押し寄せ口々に、 「日本人を焼き殺せ」
とわめき立てて暴行を働き、政庁より警官多数急行してようやく事なきを得た。


また同日、一邦人が内地引き揚げのために家財をまとめ苦力 (クーリー) に
運ばせたところ、その苦力は   「日本人のために仕事をした漢奸だ」   と

仲間から罵られ袋叩きにあうなど、邦人に対する人気は極度に険悪となってしまった。
最近支那人が日本人と誤られ殴打されたことが再三あり、

八月三十一日には川田商店事件があったので、
水沢総領事は総引き揚げを決意するに至ったものである。



なお香港は英国領なるため支那の他地方と異なり、 わが総領事が引き揚げ命令を
出す訳に行かず、各自自由に帰国という形式を取っている訳で、

残留邦人千二百名は旅館千歳館と小学校及び台湾銀行社宅に集まり引き揚げ
待機の姿勢にあり、近く全面的引き揚げのやむなきに至る形勢である。》



*   広東爆撃はドイツや英国からの武器が広東方面から中国奥地に送られるので、
   その輸送を断つためのもので、市民爆撃のためではありません。


*   よく、中国人や善良な日本人は、日本兵が中国人を虐殺したと言いますが、
   日本国内で戦争中   中国人が大量虐殺されたという話は聞きません。

   日本人が虐殺を好む民族なら、日本本土でこそ、起こるべきでしょう。
   逆に中国で日本人が虐殺されたりしているのですね。

   だから、逃げ出しているわけです。

   揚子江流域の日本領事館員は撤退せざるを得ない状況に追い込まれましたが、
   駐日中国大使館参事官揚雲竹以下一部の館員は、迫害も何も受けず、

   昭和13年6月11日まで日本にいました。
  (戦史叢書『支那事変   陸軍作戦1』479pに書いてあります)

   彼らの安全はずっと保障されていたのです。

   引揚げた理由は、日本が出した和平案に中国が返事をせず、
   怒った近衛首相が、昭和13年1月16日   「爾後(今後)、国民政府を対手とせず」

   とやり、事実上国交断絶になったからです。それでも6月まではいたのです。
   迫害もされずに。


つづく

中国軍機、米汽船を爆撃

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/03/20 15:18 投稿番号: [781 / 2250]
中国空軍機は、今度はアメリカの汽船に爆弾を投下しました


以下は新聞記事です。

《 〔昭和12年8月31日   大阪毎日〕

〔上海三十日発同盟〕
支那軍飛行機一機は三十日午後五時頃、呉淞 ( ウースン) 港外に仮泊中の

ダラー汽船プレジデント・フーヴァー号に爆弾を投下、
一弾は船体に命中し、外人客ならびに船員に負傷者を出した模様である。



〔上海三十日発同盟〕
三十日午後七時半、P・フーブァー号より帝国海軍への公信によれば、

爆弾は当時上空飛行中の支那飛行機より
投下され、フーヴァー号の舷側で炸裂したものである。

当時附近一帯の近距離にあった日本軍艦〇〇と〇〇の二隻は、直ちに支那飛行機に対し
猛烈に高角砲を発射し、これを撃退するとともに救援のためフーヴァー号に近づき、

乗組員二名を同船に派遣、救護に当らしめんと申し出でたが、フーヴァー号は
日本海軍の好意ある態度に深甚なる謝意を表するとともに、

被害軽微のため日本側の救護申し入れを辞退した。



わが機、爆撃の一機を撃墜   〔上海本社特電三十日発〕
(三十日午後十時第○艦隊報道班発表)

三十日午後五時三十分頃、軍艦〇〇の〇〇機二機は揚子江口のライト・シップ附近にて、
米国ダラー汽船プレジデント・フーヴァー号を爆撃せる支那空軍の

カーチス・ホークス機三機を認め、これを追撃、その一機を撃墜せり。》


註   カーチス・ホークスはアメリカ製の飛行機
   米国の汽船が米国製の飛行機で攻撃されたことになる。


つづく

各地で居留民引き揚げ1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/03/19 15:02 投稿番号: [780 / 2250]
中国の他の地域でも不穏な情勢になってきましたので、
居留民に引き上げ命令が出ました。

  以下は新聞の記事です。


青島居留民に正式引き揚げ命令   〔昭和12年8月28日   大阪毎日(夕刊)〕
〔青島本社特電二十七日発〕

《 外務省よりの青島在留民正式引き揚げ命令は二十六日深更、
総領事館に到着したので、

二十七日早朝、大鷹総領事は正式引き揚げ命令を民団参事会に申し渡し、
また同九時から第一小学校で開催した居留民会が発表した。

これによって約三千三百名の居留民と済南避難民約百名は本月末までに大連
または内地に引き揚げ、日独戦争以来の総引き揚げが行われることになった。

しかし青島および済南の両総領事館員、税関、市政府、鉄道、電信局の
日本人役員は最後まで残るのである。(中略)


邦人財産、支那側で保障 〔青島二十七日発同盟〕

引き揚げ後における邦人財産保護に関しては、二十六日以来大鷹総領事と
沈鴻烈市長および市政府当局との間に交渉が進められていたが、

二十七日朝にいたり両者の間に完全なる諒解が成立、
支那側は全責任をもって邦人財産保護にあたることを確約した。》



廈門の総領事館も閉鎖、全員引き揚げ   〔昭和12年8月30日   大阪毎日〕

《 廈門 (アモイ) における邦人の危険なる状態が報道されているので、
海軍省は二十九日午前十一時、廈門の状況に関し左の副官談を発表した。

(海軍省副官談)   南支方面において従来比較的平静なりし廈門は、去る二十七日、
第百五十七師の一団侵入し廈門要港司令、同参謀長を監禁し、

支那海軍陸戦隊の武装解除を行い砲台、兵営などを占領し、
果敢に抗日気勢をあげた結果、形勢とみに不安を加え、

加うるに同夜、支那便衣隊は帝国総領事館を包囲し形勢不穏となったため、
二十八日、所在帝国官憲は在留邦人残留員全部の引き揚げを決し、

帝国海軍部隊警戒のうちに総領事館を閉鎖し、邦人全部を長沙丸に収容し、
軍艦〇〇および〇〇駆逐隊護衛のもとに無事引き揚げを終わった。》


つづく

陸軍増派に関する陸海軍の交渉1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/03/18 18:39 投稿番号: [779 / 2250]
陸軍は上陸したけど、人数が少なくて犠牲が大きかったので増派を要請しました。


戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』   294〜295p

《   二十四日、中央部は、臨参命第七十八号により、独立重砲兵第二・第三大隊
及び独立攻城重砲兵隊を動員派遣した。

三十日、軍令部福留第一課長は上司の命を受け、参謀本部武藤第三課長を訪ねて、
上海に陸軍部隊を増派し速やかに敵を撃破するよう交渉した。・・・

翌三十一日、石原第一部長は軍令部の近藤信竹第一部長を訪ね、
次のような申し入れを行った。


上海方面には兵力をつぎ込んでも戦況の打開は困難である。
・・・
陸軍統帥部としては、何かのきっかけがあれは、なるべく速やかに平和に進みたく、
ついては平和条件を公明正大な領土的野心のないものに決めておきたい。
・・・


九月一日、近藤第一部長は石原部長に対し上海増派を督促した。
これに対し、石原部長は次のように回答した。

対ソ戦準備及び兵団の編制装備上、上海方面の作戦に適する兵力はない。・・・
なるべく速やかに講和をしたい。・・・しかしせっかくの要望であるので更に研究する。》


*   石原部長は、「なるべく速やかに講和をしたい」 「条件を領土的野心のないものに」
   といっていたのです。   世間でいう侵略戦争とは大違いです。

   日本人の危機にも関わらず、兵を出し渋っていますが、
   そうも言っておられなくなりました。


296〜297p   の注1

《陸軍中央部内においても、上海方面の兵力が過少であるとして、作戦部を非難する
声が相当に強かった。石原作戦部長は、増兵しても焼け石に水だからと言って

容易に同意せず、・・・頑張っていた。   しかし上海方面の悲惨な戦況を
打開する必要があるので、ついに増兵に同意せざるをえなくなった。》


295p
《九月一日、第五次動員として、かねてから準備中の第百一師団、独立工兵
第十一聯隊 (丁)、野戦高射砲隊 (甲) 一隊などに対する動員が下命された。》


つづく

鉄壁の布陣で待ち構える中国軍

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/03/17 18:41 投稿番号: [778 / 2250]
陸軍は何とか上陸はしましたが、非常に苦戦します。
敵は鉄壁の布陣で待ち構えていたからです。


早瀬利之著 『将軍の真実   南京事件   松井石根人物伝』   には

54p
《 この両師団の上陸は、ドイツ軍事顧問の指導で構築された中国軍の
トーチカからの抵抗に苦戦した 》

55p
《中国軍側の配備は、 上海北側地区に三十万、 浦東に二万、 上海西部地区に十万、
北翼羅店鎮に十八万の最精鋭中国軍が、 トーチカなどで陣地を造っていた 》

57p
《馮玉祥総指揮の下に、張治中の十万、のちに台湾の国民党の台湾主席となる
陳誠が指揮する十八万、 張発奎指揮の二万と判明する。

空軍の飛行機はほとんどがソ連製の飛行機だった。 トーチカなどに構築された高射砲は
ドイツ製。 機関銃はチェコ。 それにアメリカ製のカービン銃が見つかる。》



58p
《第十一師団の長勇参謀が旗艦   「由良」   に帰ったさい、 羅店鎮の正面に

中国軍は約二万人、 さらに嘉定方面より増援があり、 近々、
第十一師団に反撃してくる姿勢がうかがえると報告がある。

・・・
中国軍は呉淞砲台、商船学校付近から西方の大金家村付近に及ぶ線を守っている。

指揮官は陳誠で、兵の数約十五、六師団であることが判明する。
日本軍の一師団と、ドイツ顧問団に指導された十五、六師団との睨み合いである。》



とあります。
とんでもない大軍と堅固なトーチカ、優れた外国製の武器が待ち構えていたのです。

これにたった二個師団で太刀打ちできるはずがありません。
かつ敵は地の利を活かしています。



55p
《   十一師団が上陸した辺りの稲の中には身を伏せて待ち伏せし、

日本軍を狙撃したり、また飛行機に連絡するなど、訓練された中国兵に苦戦する。
軍の参謀、下坂正男歩兵中佐が狙撃されたのは、稲の中からの中国軍による。

このときの十一師団の損害は、二十三、二十四日の二日間だけで、
下坂参謀以下戦死十五名、負傷兵五十余名に及ぶ。》

60p
《 難敵は縦横に走るクリーク (川) である。
橋は落とされていて、日本軍は前進できずにいる。》


つづく

英国大使銃撃犯は本当に日本海軍機か?

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/03/16 19:02 投稿番号: [777 / 2250]
海軍機は当日、太倉は攻撃しています。

が、しかし、ヒューゲッセン大使が襲撃された場所は太倉よりはるかに西なのです。



当時、日本海軍は陸上に飛行場をもっていません。

従って、東シナ海の空母からしか飛びたつしかありません。

当時の飛行機は複葉機のチャチなものです。

後の零戦と違って、性能が劣ります。

燃料に限りがあるから、遠くまで行けません。



命令外の地域に勝手に飛んでいって、何者とも知れない自動車を攻撃して、

帰りの燃料がなくなったら、どうします?

へたをして不時着したら、中国人に捕まり虐殺されかねません。

無事に帰れたとしても命令違反で軍法会議でしょう。



無意味な行動ではありませんか?

海軍が否定するのも当然でしょう。



ところが、当時の日本人も、今の日本人と同じで、

日本人の言葉を疑い、外国人の言葉を信用したい人が居るのです。


つづく

8月26日 ヒューゲッセン大使銃撃事件2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/03/15 18:45 投稿番号: [776 / 2250]
松本重治著 『上海時代・下』 中公新書
206〜208p

《 ロヴァット・フレイザーが代って話を続け、 「私は大使を護衛するという
役目を買って出たので、私が自分の車に大使を載せていくことに定めていた。

ところが、南京に行って、大使と打ち合せて、途中の道路があまりよくないことを
前提として計画してみると、大使は事故のことも考えて、二台で行こうといわれる。

それで、大使用の車に大使とホール=パッチが相乗りし、大使用の運転手がそれを運転
する。それにつづいて私が自分の車を、予備の車として、随いて走るということになった。



行程の四分の三ぐらいは無事に来たのだが、
常熟と太倉の間で、突然日本の海軍機二機が現れた。

海軍機は、まず爆撃し、そのうえ、低空飛行をしながら機銃掃射をやったのだ。
二台とも、車の先端には英国旗を垂直に立て、車の屋根の上には大きな英国旗を

水平にひろげて、不慮の椿事を予防するあらゆる用意をしておいたのに、
英国旗を無視して、むちゃくちゃなことをやったものだ」   と、

少なからず昂奮して語った。私が誤爆に違いなかったといったところで、
充分な釈明にはならないので、ひたすら   「済まん、済まん」   と、ことば少なに語った。



ホール=パッチは、私のほうから呼び出しておいて、ドリンクスをオファーしかねる
ほど私が恐縮しているのを見て、 「今晩はビールで軽くやろうや」   と、

助け舟を出してくれたので、三人で一杯ずつ一気に飲みほした。
少し飲むと、会談の空気が少しやわらいだ。


私が、大使の容態を尋ねると、ホール=パッチは、
「あれから全速力で上海まで走り、カントリー・ホスピタルで診 (しら) べてみると、

背骨に弾丸があり、重傷ではあるが、神経系統には別条はないようだった。
大使は目下絶対安静中だ。 僕が、虫が知らせたわけではないが、大使を左側の座席に、

僕が右側の座席につくようにといったら、大使は、大使というものはいつでも
右側の座席に坐るようになっているから、といって、私のいうことを聴かなかった。

もし、僕の提案したように二人が座席をとっていたとすれば、大使は無事で、
私がやられたはずであった。そのほうがよかったのに」   という。



ロヴァット・フレイザー少佐は、私に向って、 「なぜ、日本海軍機は、
非戦闘員たる大使を撃って、軍人たる私を撃ってくれなかったのだ?」   といった。

二人とも、大使をかばう気持が一杯であったのに、大使を負傷させてしまったのが
しごく残念だという。 これに対して、私は返すことばもなかった。

だが、同時に、二人のイギリス魂には、少なからず感銘した。



翌日、川越大使につづいて、長谷川(清)第三艦隊司令長官も病院に赴き、
見舞のことばを述ベた。しかし、それだけでは、事件は収まらなかった。

英国の新聞は相当強く憤懣を表明し、国際問題化しそうになって、私の心を痛めた。
東京では、ただちに日英共同調査委員会が設けられたが、日本側では、海軍が

「同日午後に問題の地点に飛行した海軍機は一機もなかった」   と主張して譲らない。
日本側が早く正式陳謝をすれば、英国側も一件落着の用意があったが、

日本海軍がそういう態度なので、日本政府としても正式陳謝のしようがなく、
この事件についての交渉は暗礁に乗り上げた観があった。


つづく

8月26日 ヒューゲッセン大使銃撃事件1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/03/14 18:47 投稿番号: [775 / 2250]
松本重治著 『上海時代・下』 中公新書
204〜206p

《 翌々二十六日午後四時ごろ、上海の英国大使館事務所からのメッセンジャーが、
「同盟」   支社に来て、ロウで封印された親展の手紙を私に渡した。

開いてみると、

「英国大使は、朝九時南京を自動車で出発、五時半か六時ごろ上海到着の予定、
到着のうえは、川越大使にアポイントメントについて電話する」

と書いてある。 私は、六時ごろには英国大使からの電話があるものと予想して、
その少し前、大使公邸に行った。



ロビーで待っていると、川越さんは二階から階段をゆっくりと降りてこられた。
そして席に就かれると、吉報を心待ちにしていた私に対し、

「松本君、大変なことになった。日本海軍機が英国大使の自動車を機銃掃射し、
大使は重傷、上海のカントリー・ホスピタルに入院したということを知らせてきた」。

私は愕然とした。万事休すだ。
「大使、責任は私にあります。何と申してお詫びをしてよいか判りません」   と私がいうと、



川越さんは、 「君が、要らんことを提案したので、こんなことになったのだ」
などとは、一言もいわれなかった。   川越さんは、

「松本君、日中関係を心配され、またそのための日英協力を計画されたことに対し、
私はありがたく思っているのです。

出来たことは出来たことで、適宜に措置するほかはありません。
さっそく大使館のものを病院に見舞にやりましたが、明日は、

英国大使の病状如何によって私自身が見舞に行き、事実、海軍機の仕業だと判れば、
陳謝のことばを坦懐に述べるつもりです」   といわれ、翌朝、川越さんは英大使を見舞った。



八月二十六日(昭和十二年・一九三七年)の夕刻、川越大使公邸を辞した私は、
何よりもホール=パッチに重大な手違いを謝らねばと思い、

支社に帰るとすぐホール=パッチを呼び出した。
彼は、電話に出ると、いきなり、

「日本軍はあまりにひどい。おかげで、大使も、ロヴァット・フレイザー少佐も、
私も、すんでのことで殺されるところだった」   と、

矢継ぎ早に文句のいいつづけであった。   私は、 「エドモンド、ほんとに済まん、謝る。
すぐ、ちょっとでもいいから、会いたい。君に直接会って、詫びをいいたいのだ」   というと、

「僕も君に事件の真相を話したいし、少佐も、どうしても君にいいたいことがあると
いっているから、三人で会おう。上海クラブでは、少しく目につきすぎるから、

今晩は河岸をかえて、メトロポール・ホテルのバーででも会おうや」   との話。



私は、叱られるのは覚悟だと、相当肚をすえて、メトロポールのバーへ行った。
他の二人も、二、三分違いでやってきた。

私は、平身低頭して、簡単ながら二人に対して陳謝した。   ホール=パッチは、



「何も、君自身がそんなに謝ることはないじゃないか。
君が日本の海軍のほうに通知しなかったことは、諒解済だったし、

こちらも、相当の危険を冒す覚悟だったのだが、まさか英国旗を無視し、
英大使の自動車を、日本の海軍機が爆撃したり、機銃掃射したりするとは、

想像もしなかったよ」 「爆撃までやったのかね?」 「そうなんだよ。幸いにも、
爆弾は自動車には命中せず、車の前方とか、車側に落ちたが、爆風で砂埃がひどく、

一時は車の運転ができなかった。   僕 (ホール=パッチ) は、無我夢中で、
気づいてみたら、車外にほうり出されていた。

大使はと見ると、車内で、座席の中で横に倒れ、背中の激痛を訴えていた」。》


つづく

8月24日 松本重治氏の和平工作 4

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/03/13 15:32 投稿番号: [774 / 2250]
松本重治著 『上海時代・下』 中公新書
203p

《 二十四日午前中、川越大使に電話をかけて、

ヒューゲッセンがイーデン外相から OK をとって上海に来ることをお知らせした。

その夕、クラブで三人が落ち合った。

三人で、ハイ・ボールを飲みながら話をしたが、

ロヴァット・フレイザー少佐は、中肉長身、俊敏な眼光をもった軍人らしい人であった。


話をいろいろ聞くと、アラビアのローレンスを想わせるような

緻密な計画と果敢な勇気を胸奥に潜ませているような印象を、私は受けた。

そして私は、別れの杯を挙げながら、二人に対し、「ご成功を祈る」   といった。》


つづく

捕虜の扱い

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/03/12 15:29 投稿番号: [773 / 2250]
よく通説では、日本は宣戦布告していないから、支那事変を正規の戦争とみなしていない。
だから、捕まえた中国兵を捕虜として扱わない。

故に、片っぱしから、殺した、と言われています。
しかし、ここ、上海では、その説は当っていないようです。


おっと、その前に、通州でも、日本人居留民二百人以上を虐殺した   保安隊員を、
捕虜にもせず、釈放していましたっけ。


では、上海に戻ります。

北博昭著 『日中開戦』   61p

《 竹下部隊は、この上陸支援作戦で20名近い中国軍将兵を捕らえた。
・・・
海軍省法務局は   「陸戦の法規慣例に関する規則の定める俘虜関係の条項を準用し、
支那軍将兵にして我権内に陥ったものは俘虜に準じて扱うべく」   と解していた。》


その捕虜の写真は

  毎日新聞社刊   『不許可写真1 』   の24pに載っています。(8月23日づけで)


また、塚本誠氏の   『ある情報将校の記録』   204pには

《 浦東 (プートン) 方面からの砲撃も激しく、一迫撃砲弾は目の前の俘虜収容所に
なっている寺に命中したが軽傷者二名ですんだ。( 8月18日の話 )

とありますから、捕虜収容所はキチンと作られていたようです。


また、塚本氏はその著 『ある情報将校の記録』 203p   の中に

《 楊樹浦 (ヤンジッポ) 地区には電気・瓦斯会社等が多く、これに各国の権益が
いり混っていた。この地帯に対し中国軍は砲、爆撃を加えてくるのであった。

私はまずわが警備地域に残留している中国人を蘇州河以南へ移すことに努力する。

それは残留中国人が日本人からスパイや便衣隊に疑われて迫害をうけた例が
第一次上海事変当時に多かったからである。

現に戦闘開始後憲兵隊には陸戦隊から毎日二十名近くの中国人が
疑いをかけられて送り込まれる。

すぐ放置するわけにもいかぬから、それを一応調べた上で工部局警察に引き渡す。
無辜の民を捕えておくことはできない。》


と書いています。

彼の行動は、一般に言われているところの、残虐な日本軍とは、正反対のようです。
優しい、通州事件の処理と同じタイプですね。



そして、北博昭著 『日中開戦』   66〜67pには

《 昭和十二年九月末ごろに陸軍は上海の楊樹浦の眉州に俘虜の収容所を設けて
中国軍の士官一名、准士官二名、下士官二名、兵一八名を収容中、

国際赤十字社のドワットヴィユへ報告されてはいる》   ともあります。


ともかく、上海に関しては、通説は当てはまってないようです。


つづく

諸外国のアンフェアな対応

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/03/11 18:50 投稿番号: [772 / 2250]
8月23日に中国軍機が上海南京路を無差別爆撃したにも関わらず、
この日、諸外国は日本の方に文句をつけてきました。


戦史叢書   『中国方面海軍作戦〈1〉』   352〜353pには

《 二十三日夜、米国大使は米英仏独伊各国大使を代表して日本政府に、
南京市内に非爆撃地域を設定したい旨申し入れてきた。

これは南京の漢西門から新街口サークルを経て、北極関城壁に沿い揚子江岸
鉄道連絡桟橋及び下関 (其の前面の揚子江を含む) 三サ (サンズイ+叉) 河から

漢西門に至る区域内の爆撃を禁止するものであった。》
(注   下関:シャーカン)



と、しかし、南京は無防備都市ではなく軍事都市なのです。


戦史叢書   『中国方面海軍作戦〈1〉』   352pには

《二十四日   11:00、戸塚指揮官は軍令部から、 「敵空軍南京に集中せり」   との情報を受け、
13:00、木更津部隊に本日薄暮時を期し南京飛行場の飛行機を撃滅せよ、と命じ、
・・・
木更津部隊中攻六機は 18:00 済州島発、21:30 南京大校場飛行場を爆撃、
避退針路を南にとり全機帰着した。

本空襲においては敵の対空照射裡に飛行場を発見爆撃し、敵機多数に火災を発生させ、
一面火の海となったのを確認、その間敵戦闘機数機と空戦し、その一機を撃墜した。

月夜ではあったとはいえ、敵機の夜間攻撃が盛んであったのは陸攻のエンジン排気の
火炎が攻撃目標となったものと認められ、急速改善の要求が起こった。》


とあります。日本軍はあくまでも敵軍の飛行場を攻撃したのです。
しかし、抗議を受け入れ、27日以降の南京爆撃は当分行わないことにしました。

  ( 注   中攻とは九六式陸上攻撃機のこと、陸攻も同じ )



また、同23日に米国のハル国務長官は次のように声明しました。
〔昭和12年8月25日   東京朝日(夕刊)〕

《 平和に関する米国政府の主張綱領は、先月十七日付列国に通達した声明書に
明らかで、戦闘状態の存在は当事国のみならず世界列国の関心事である。

吾人は日支両国が単に米国民のみならず世界多数の国民が是とする
主義綱領によって、その利害の一致を解決せんことを希望する。

その主義綱領のうちにはワシントン会議の諸条約及びケロッグ不戦条約の
主義、精神が含まれている。

今回の日支両国間の紛争開始以来、吾人は日支両国が敵対行動を避け、
平和の手段でこれを解決するよう希望して来た。

吾人は在留米人保護の任に当たるとともに、吾人がしばしば声明した諸方策、
殊に平和に関する政策の効力を発揮せんことを希望するものである。》


*   この声明では、お互いに平和的手段で解決をと、まるで中立の立場で
   ものを言っているかのようですが、これは不自然です。

   日本はずっと平和的手段で解決しようとしていました。
   中国が、無理やり戦争を仕掛けたから、仕方なく防戦しているのです。

   仕掛けてる方を無視して、仕掛けられてる方に、平和的手段をと言っても、
   無理でしょう。   結局、この声明は、加害者に味方してるだけとなります。

8月23日 中国軍機の空襲

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/03/10 18:33 投稿番号: [771 / 2250]
日本の陸軍は8月23日、呉淞と川沙鎮に上陸しました。

なお、川沙鎮の上陸に際しては、中国軍機による襲撃をうけています。


戦史叢書   『中国方面海軍作戦〈1〉』
366p

《 23日   09:35   敵機6機が来襲したが被害はなかった。》

367p

《 23日は川沙口泊地に敵機の来襲三回あり。》



そして、この日、中国軍機は、またも上海市街を爆撃しました。


東中野修道著   『南京大虐殺の徹底検証』   334p

《 8月23日、支那軍機、国際租界を空爆。一つはハミルトンホテルの裏に、 一つは、

シンシア・コーズ・エンポリウムの上に落ちて死者215名、負傷者558名を出した。》


K・カール・カワカミ著   『シナ大陸の真相』   255〜256p

《 中国の飛行機は国際租界を爆撃し、この時にはシンシアデパートと

ウィンオンデパートに被害を与えた。》

( 注: シンシア・コーズ=先施公司、   ウィンオン=永安公司 )


そして、その惨状の写真は、毎日新聞社刊 『不許可写真1 』 の10頁にあります。

8月23日 日本陸軍の呉淞上陸

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/03/09 18:40 投稿番号: [770 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』   84p

《 上海では、いぜんとして激戦がつづいていた。
兵力の少ない海軍陸戦隊は、文字どおりに不眠不休の防戦を強制されて

苦戦したが、その戦いぶりはすさまじく、
包囲して攻撃をくり返す中国軍・第九集団軍は攻めあぐんだ。



上海派遣軍の第三、第十一師団の先遣隊が軍艦で到着したのは、八月二十二日である。
第三師団は、呉淞鎮に、第十一師団はその西北約十五キロの川沙鎮に上陸する。

呉淞鎮の場合、これまでに上海に増派されていた竹下宜豊少佐指揮の
横須賀鎮守府第一特別陸戦隊約五百人と第三師団派出の歩兵一個中隊と

機銃、工兵各一個小隊、計約六百七十人が、事前に呉淞港岸壁を占領して、
上陸部隊を援護することになっていた。


竹下部隊は、糧食二日ぶんを持ち、白タスキをかけ、合言葉を第三師団の
原駐地にちなんだ   「尾張」 「名古屋」   にきめ、輸送船三隻に分乗して、

八月二十三日午前零時三十分、上海埠頭を出発した。 竹下部隊は、午前三時十五分、
護衛駆逐艦の援護砲撃ののちに輸送船を岸壁に横付けして上陸、》



阿羅健一著 『日中戦争はドイツが仕組んだ』   98〜99p

《江岸には水際鉄条網、岸壁には地雷と竹矢来。その上、岸壁に積んだ土嚢と、
構内にある建物と、軍工路の先の塹壕の陰で、中国軍が日本軍を待ちうけていた。

輸送船が接岸すると同時に、中国軍の機関銃が集中し、上陸する前から犠牲者が
続出した。軍工路の先、上流の水産学校、下流の呉淞砲台からは砲撃も来る。

接岸と同時に特別陸戦隊と岐阜第六十八連隊第五中隊が上陸する。
竹下宜豊少佐が指揮する横須賀鎮守府第一特別陸戦隊は約五百人、

岐阜第六十八連隊第五中隊は機銃、工兵各一個小隊とで約百六十人、
合わせて約六百七十人。・・・上陸すると、地雷が日本軍の進撃を阻んだ。

発光弾が打ち上げられ、砲弾が炸裂するたびに、日本軍が暗闇に浮かびあがって
中国軍にその姿をさらけだす。そこに中国軍からの銃弾が集中する。

・・・

日本の駆逐艦も水産学校や呉淞砲台に向け照射砲撃し、
一帯は双方の銃砲撃で騒然となり、轟音は止むことなく響いた。

陸戦隊は左翼、第五中隊は右翼となって進んだ。
日本軍が銃剣を手に斬りこむと、中国軍は手榴弾で応じた。・・・

白兵戦は、さらに二時間以上も続いた。中国軍も、一つの散兵壕で
十数人全員が枕を並べて戦死するほど果敢に戦った。

午前五時四十分、とうとう上陸掩護部隊は鉄道桟橋を確保した。
午前六時になり、名古屋歩兵第六連隊の第一大隊と第二大隊も上陸した。

多くの犠牲者を出しながらも、とりあえずは橋頭壁を確保することには成功した。》



北博昭著 『日中開戦』   60〜61p

《 竹下部隊は29名の戦死者と35名の傷者を出し、その日の午後、上海へ引き上げた。》


つづく

8月22日 松本重治氏の和平工作 3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/03/08 18:51 投稿番号: [769 / 2250]
松本重治著 『上海時代・下』 中公新書
201〜203p

《 あくる八月二十二日午後四時、私は大使公邸で川越大使に会い、
前日のホール=パッチとの話の一部始終を詳らかに話し、

川越さんの反応を待った。
慎重かつ果断な川越さんは、暫く   じいっと考えていられたが、


「ヒューゲッセンが上海に来てくれるなら、会いましょう。 今日では、
第一次上海事件の場合とは、日中両国の内外の情勢がずいぶん変っているので、

難しいこととは思うが、話によっては、停戦協定の問題も話題にしましょう。
去る七月五日附で、イギリス側の対中国借款の問題について、

日本も同調すべしとの意見具申を東京本省宛にしたことは、君にも話したとおりで、
時局がどうなっても、できるだけ英国をひきつけておくことが、上策だと思います。

今後の日中両国間のコミュニケーションのためにも、英国は相当の役割を果たす
ことでしょう。したがって、英国大使との会見には私は賛成だということを、

ホール=パッチを通じて、英国大使に伝えてくださって、よろしい」
と答えられた。


「ほんとに難しいとは、私も思いますが、軍人と違って、外交官や新聞記者は、
最後まで平和のために微力とはいえ尽すべきだと信じ、

また一つお荷物をもってきて、恐縮に存じます」   というと、大使は、
「松本君、やれるだけ、やってみましょう」   と凛然としていわれた。



その夕刻、七時に上海クラブに行くと、ホール=パッチがロビーで私を待っていた。
私を見るなりロビーの一隅の席へ案内して、ホール=パッチは、

「昨夜、南京の大使に電話をかけたが、大使自身大賛成で、
すぐロンドンの本省に照会したらしく、本省からもOKが出た由、

さっき大使から僕への電話があった」   と話す。
「川越大使のほうからも、OKをとってきたばかりだ。

英国外交は、のんびりしていながら、いざというときは電光石火的だ。
全く驚いたね。だが、エドモンド、どうやって英国大使を上海に連れてくるかね?」

と尋ねると、ホール=パッチは、


「その問題だよ。鉄道はだめだから、自動車によるよりほかはない。
君との約束の禁を破って相済まぬ話だが、これだけは勘弁してくれよ。

実は、英国大使陸軍武官のロヴァット・フレイザー少佐に内情を打ち明け、
協力を求めたところ、少佐も大賛成で、大使館の自動車に私を載せ、

少佐が自分で運転して上海から南京に行き、疲れるだろうから一泊して、
その翌日、大使と三人で、上海まで運転してきてくれるということに話が定った。

君も同意してくれないかね」   という。



「いや、ロヴァット・フレイザー少佐が協力してくれてよかったね。
道中は、中国軍の軍隊が要所要所に屯しているだろうから、

英国武官だけが、ものをいうわけだね」   「少佐は、 『こんどの冒険は、
あるいは命懸けになるかも知れんが、君の友人たる松本なる男の顔を見ておきたい』

といっている。明日は一日中、自動車の機会や電気まわりの調整や手入れをやるから、
二十五日早朝、上海を発って南京に行き、翌二十六日、大使を連れて、

午後五時ごろには上海に到着するという計画だ。明日夕刻には、
この上海クラブに少佐を連れてくるから、君も会って欲しい」   という。

「そんな篤志の英国軍人には、こちらこそ会いたいと思っているところだ。
じゃあ、また、明夕にね」   といって別れた。》


つづく

8月21日 松本重治氏の和平工作 2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/03/07 18:42 投稿番号: [768 / 2250]
松本重治著 『上海時代・下』 中公新書
200〜201p

《「そこなんだよ、エドモンド。僕の心配はそこなんだよ。 第三国の上海内外における
厖大な権益が少なからず飛ばっちりの損害を受けることは間違いがない。

日本側が第三国の権益を保護しようとしても、 中国側としては、 第三国の権益に
損害を与えることによって、第三国の干渉を招こうとする策略をもっているかも知れない。

このあいだ十四日の中国空軍機による租界の盲爆や、爆弾がジャーディン・マセソンの
埠頭の倉庫に落ちたり、米国のアジア艦隊の旗艦オーガスタ号の舷側附近に

落下したりしたことをみても、中国側の手口が判るように思われるよ。」
「そうかも知れんね、シゲ。」



「君もそう思うだろう、エドモンド。
何とかして上海地区だけでの停戦協定なんかをでかすことは不可能だろうか?

第一次上海事件の際は、英国のランプソン公使が首唱して、アメリカその他の
数カ国とともに共同提案をやり、日本も中国も停戦協定に調印したことがあるだろう。

こんどは、情勢が大いに変っているので、この前のとおりにはできないにしても、
こんども、上海地区の停戦協定を試みる努力だけは、充分価値があると私は思う

(私は、周作民・船津の提案をまだ知らなかった)   が、エドモンド、君はどう思う?」
「君の話を聞いてみると、こんども、同じ方向に努力すべきかも知れんね。」



「僕の私見に過ぎないが、とにかく、まずやるべきことは、
英国大使と川越大使とを会見させることだと思うが」   と、

ちょっと立止り気味にホール=パッチの顔を見つめた。 すると彼は、
「大使は、 今、 南京にいるよ。 君の考えは考慮に価するね」

「エドモンド、君はヒューゲッセン大使をどれほどよく知っているかね?」
「リース・ロスと同館で数回会ったこともあるし、リース・ロスが去ってからも、

僕は大使と何度も会っている。いい男だ。
彼は、以前に、たしかエジプトの高等弁務官をやっていたとき、

ロンドンの本省の指令を無視したり、指令なしに独断でやったりして、
ちょっと変ったレコードをもつ面白い外交官だと承知している。

こういう難しい場合には、かえってうってつけの男かも知れぬと思う」



「そりゃ、面白い。とにかく上海での両国大使の会見をでかそうじゃないか。
会見において停戦協定を協議する。

万一、双方の本国や、中国が聴く耳をもたぬとすれば、致し方なく諦めるほかはない。
しかし、そういう方向に両人が努力しただけでも、意味があると思う。

僕は、明日、川越大使に話をしてみる。君は、南京に電話をかけて君の大使に
意向を打診する。謀は密なるを要するから、この話は当分四人だけとしようや」

「ヴェリー・ウェル、シゲ。では、明夕、上海クラブで会おう」
ということになった。》


つづく

8月21日 松本重治氏の和平工作 1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/03/06 15:29 投稿番号: [767 / 2250]
松本重治著 『上海時代・下』 中公新書
198p

《 上海の日本居留民が、上海派遣軍の上陸成功によって、安堵の胸を撫で下した
前々日、八月二十一日の夕刻、私は、エドモンド・ホール = パッチと二人で、

バンドを行ったり来たりして、散歩をしながら、これからどうしたらよいか
という問題について、話を続けたものであった。
・・・
二人の一致した見解は、蒋介石の戦略が、日本軍との主戦場として、
華北よりはむしろ上海地区を選んだらしい、ということであった。
・・・》


( 以下の話には、時間的矛盾がある。

後の回想録なので、この時点より後の会話が記憶違いで混入しているようだ。
21日の時点では 松井司令官は 呉淞はおろか馬鞍群島にも来ていない。)


199〜200p

《「エドモンド、松井司令官の軍が、呉淞の敵前上陸に、予期以上に中国側の
抵抗を受けている。 それは、ドイツが送った軍事顧問のフォン・ゼークトや

ファルケンハウゼンなどが、 『剿匪』   事業のためばかりでなく、抗日戦のため
呉淞地区に堅固なトーチカを造ったためなのだと、私は考える。

おまけに、トーチカの利用のために、ドイツ軍砲兵将校数人がこんどの戦争に
参加している、という噂までもある。

それがほんとうならば、こんどの上海戦争は、ある意味では日独戦争なんだよ。
防共協定なんかをやっておきながら、 ドイツの軍需商人はしこたま金を儲けた。

そのあげく、日本軍がその犠牲になっているともいえる。おかしな話だよ。」



「そういわれるとそうかなあ。中国軍将校のなかには、
英国製の望遠銃をつかっているものがあるとか聞いている。」

「死の商人たちの話は、もうやめようや。 二、三日のうちには、日本軍は、
多少の犠牲をはらっても、きっと上陸するに違いない。

居留民たちはやっと安心することであろう。 しかし、居留民保護の目的を達したあと、
上海派遣軍は、どこまで行くだろうかね。僕にはそれが心配だよ。」



「シゲ、君の心配ももっともだ。中国側は、情報によれば、一方においては、
六年とか八年とかの長期抗戦計画を決定しているという。

また他方においては、上海地区の死守の命令が出ているとの話だ。
中央軍の精鋭をつぎ込みかけているようだから、

さしづめ、上海附近は、大激戦が予想されるよ。」》


つづく

8月21日 ソ連が中国に加担

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/03/05 15:46 投稿番号: [766 / 2250]
第二次上海事変が起こると、すぐにソ連が中国に加担しました。

毎日新聞社刊 『大日本帝国の戦争2太平洋戦争』 の22pには

《 8/21   南京で中ソ不可侵条約、大量の武器供与 》

とあります。


武器供与の具体的内容については田中正明著 『 東京裁判とは何か 』 267pにあります。

《 この時期ソ連は、 「 日華戦争開始後は、この戦争をできるだけ長引かせることに
全力をつくした 」 とダリン ( David J. Dallin ) はその著 『 ソ連と極東 』 の中で

次のように述べている。

「 ソ連の対華援助は、西安事件後の秘密条項を含む不可侵条約によって、 直ちに
飛行機四、五百機と同数の操縦士および教官を送り、ソ連士官が中国軍に配備された。

チェレバノフ将軍を長とする軍事使節団は、中国に滞在していた。

三八年から四〇年までの間に、ソ連は中国に三億ドルの借款を与えて、
戦車、飛行機その他の軍需品を中国に送った 」》



また戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』 310〜311pにも

《 中国は、米国、英国などに日本の侵略であると訴えるとともに、
八月二十一日、南京で、ソ連のボゴモロフ駐支大使との間で、

「 中ソ不侵略条約 」   を締結調印した。両国は、相互に攻撃しないこと、
また締約国の一方が第三国から攻撃を受けた場合、他の一方はその第三国を

援助しないことなどが約束された。( 二十九日、南京で公表 )
外務省は、この条約の成立を重視し

「 日本は中国がコミンテルンの魔手に踊らされていることを警告してきたにかかわらず、
中国はついに悪夢から覚めず、容共抗日を国是となし、殊に西安事件以来は

完全に赤魔薬籠 ( やくろう ) 中のものとなり、ついに今回のごとき条約の
締結を見るに至ったことは支那のために真に採らざるところ 」

との見解を発表した。》


とあります、その注2では具体的軍事援助として

《 本条約締結後、ソ連は中国に対しただちに軍事的、経済的援助を開始し、
それは一九四二年まで続いた。ソ連は三七年、三八年、三九年の三回にわたって

総額二億五千万ドル ( 約九億円 ) のクレジットを中国に提供し、
これにより購入された兵器は、飛行機八〇〇機以上、弾薬、飛行機用兵器、

無線通信機、給油装置などであった。

航空義勇兵約二〇〇人、軍事顧問は、最多時期において八一名が中国内で活躍した。
このほか中共軍に対する直接軍事援助も行われた。》


と書いてあります。

  ソ連が国民党政府に軍事援助しパイロットまで送って日本機と交戦させていたのです。
  この時点で、ソ連は事実上の対日交戦国と言えます。

  これで、中国軍機パイロットには、米国人だけでなく、ソ連人も加わりました。
そして、軍事顧問も、ドイツだけでなく、ソ連、米国人 (空軍のみ)   と増えました。


つづく

8月18〜22日 陸軍兵の乗船と輸送

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/03/04 19:02 投稿番号: [765 / 2250]
戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』
275p

《 八月十八日、第三師団の約半部と第十一師団は応急動員を完了し、
海軍艦艇によりまず二次に輸送せられることになった。

第三師団先遣隊   (歩兵約一コ大隊)   は十八日に、師団主力は十九日に熱田港から、
第十一師団第一梯団は二十日に、第二梯団は二十一日に多渡津港から出航し、

馬鞍群島   (上海東南東約一二〇粁)   に集合した。》



戦史叢書 『 中国方面海軍作戦〈1〉』
358〜359p

《 第一輸送部隊は十七日〜十八日多度津に集合し十九日から搭載、
二十日 12:30 多度津発、馬鞍群島に向かった。

第二輸送部隊は十八日夕までに熱田に集合し、十九日搭載開始、
二十日 09:00 熱田発、馬鞍群島に向かった。

当時上海の情勢きわめて緊迫、海軍中央部は急速輸送を督励した。
第一、第二輸送部隊は二十一日深夜〜二十二日未明泗礁山北方錨地に到着、合同した。



第二梯団の輸送    永野聯合艦隊長官は十八日、佐世保で大海令第二十二号
(聯合艦隊司令長官ハ上海派遣軍第二梯団ヲ掃子江沖マデ輸送スベシ)   を受けた。

次いで同日、輸送艦は遅くも二十日午前中に第二梯団の乗艦地に入泊のこと、
及び輸送終了後なるべく速やかに原態勢に復し北支方面の作戦に備うべき指示を受けた。

永野長官は本輸送に第一戦隊   (日向欠)   及び第三戦隊を、その警戒に第一潜水戦隊
(一部欠)   をあてることとし、十八日命令を下し輸送区分を次のように定めた。


〔「艦 (隊)」     「指揮官」    「乗艦地」     「輸送陸軍部隊」   の順〕

第一戦隊の陸奥   (直率)     三津ケ浜    第十一師団の一部   (約二.〇〇〇)

第一戦隊の長門   (長門艦長)    小松島   第十一節団の一部   (約二、〇〇〇)

第三戦隊   (第三戦隊司令官)     熱田    第三師団の三大隊   (約二、〇〇〇)》



戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』
275p

《 松井軍司令官は22日に馬鞍群島に到着、上海付近の情勢及び作戦準備などに関する
先遣参謀の報告ならびに中央の指示等に基づき、作戦計画を策定した。》


*   この計画では、呉淞以外の上陸点が劉河鎮から川沙鎮に変っています

*   海軍は、いやがる陸軍に頼みこんで、派兵してもらったためか、
   連合艦隊の旗艦である、戦艦陸奥や長門を陸兵の輸送に供しました。

   もっとも戦艦は揚子江に入るには、大きすぎますので、ここからは、
   揚子江にいた小さな軍艦に移し替えて、敵前上陸に向かう事になります。


つづく

陸軍到着までの上海居留民の苦悩2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/03/03 18:40 投稿番号: [763 / 2250]
蘇州河の北側は地獄でしたが、南側は別世界でした。


塚本誠著 『ある情報将校の記録』 中公文庫
202〜203p

《   蘇州河北側では日中両軍が死闘をくり返しているのに、
南側は英・米・伊・仏軍が駐在し、戦争景気でかえって繁昌している。

虹口地区は燈火管制をしているが、対岸は不夜城でバー、
ダンスホールが賑わっている。》


203p

《 日本人のいる所は共同租界の一部なので、警察権の運用もイギリスの力が強い。
虹口、楊樹浦の警察署長は英人で、警察官は日本人よりも中国人、インド人の方が多い。》


このころ、ここで問題が持ち上がりました。
204〜205p

《 ある日、工部局警察が楊樹滞地区にいる警察官の一斉引揚げを命じた
という情報が入った。 工部局警察員は中立の非戦闘員だから引き揚げる

というのがその理由らしい。 これは明らかにこの地区における工部局の行政権の
放棄である。 放棄となれば中国軍が入っても不法ではなくなる。

私はこれは重大なことだと考えたので、すぐさま引揚げを阻止しようと、
ブロードウェイの橋にかけつけると案の定ぞろぞろやって来た。


私は彼らに向かって、
「第三艦隊司令長官の命令のない限りここの通過は一歩も許さない」   といって、

彼らの通過を拒否するとともに一行中の若干名の日本人警察官には私の真意を話した。
日本人警察官は直ちに引揚命令を蹴って旧部署へ戻っていった。

外国人警察官はいつまでも騒いでいる。
私は素知らぬ顔をして土嚢に腰をおろし煙草をふかしていた。

こうして彼らを引きとめておいて、大使館に行き、事の重大性を説明したところ、
曾弥益書記官   (現民社党代議士)   が   「よくわかった。こちらから工部局に話そう」

といってくれた。 話の結果、やはり外国人警察隊だけは引き揚げていったが、
曾弥さんが釘を一本打ってくれた。 日本人警察隊のみはよくその配置を守った。


私がその日の夕方、日高第三艦隊参謀と楊樹浦の日本警察隊を激励に行くと、
彼らはアパートに土嚢を積んで家族ぐるみ防禦体制をとっていた。さすが日本人である。》


206p
《 陸軍には馬淵逸雄少佐 (30期)   が報道部長として武官室に増員されたが、
この人に記者たちは親愛と尊敬の念を抱いている。

陸海軍とも重要な地位によくも適任者を揃えたものである。 そのため上海では
軍と報道陣の間にはトラブルが起こったことを聞いたことがない。》


つづく

陸軍到着までの上海居留民の苦悩1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/03/02 18:45 投稿番号: [762 / 2250]
陸軍が来るまでの上海居留民の苦悩は大変なものでした。
いつ皆殺しになるか判らないからです。


西岡香織著 『 報道戦線から見た 「 日中戦争 」』 芙蓉書房出版   80頁には


《 上海北部の共同租界と、虹口 (ホンキュウ) 方面で租界の北部に二キロほど
突き出した形の   「租界外拡張道路」   両側に形成された日本人街で、

数十倍の敵軍の攻撃を受けた海軍陸戦隊の苦戦は当然であった。

「夜となく昼となく死物狂いに砲撃、爆撃して来る雲霞 (うんか) の大軍を引受けて、
寡兵 (かへい) よく虹口籠城の居留民二万を死守した」 が、

「全く十七日、十八日は上海最後の日と目され、……
虹口クリーク東方楊樹浦地区一帯に殺到した敵軍によって、

第二の通州事件は何時、惹起 (じゃっき) されるかも判らぬという
危機一髪の時」 を迎えていた」 (馬淵『報道戦線』)》


とあります。
また塚本誠氏はその著   『 ある情報将校の記録 』   207〜 208pには


《戦闘が始まってから月余にわたる上海の籠城は暗く、苦しみの連続であったが、
陸戦隊も居留民もよく頑張った。・・・

当初敵機の跳梁には私も切歯扼腕 (せっしやくわん) したものである。わが海軍が暴風を
衝いて渡洋爆撃を行なったニュースを聞いた時は皆といっしょに躍り上って喜んだ。》


と言っていて、その苦悩のほどが偲ばれます。

馬淵氏は報道班として送られたので、上陸する陸軍より早く来たわけですが、
水兵服を着てきたら怒られたといいます。

その理由は


《 陸戦隊や居留民が陸軍部隊の上陸を待ちわびていることは知っていたが、
中国軍は日本陸軍上陸となれば、その前に租界地になだれ込み、

日本人居留区を全滅させようとするのではないかと心配し、
わざと海軍の水兵服を着て上陸したのであった。

それを見て末藤大佐は、絶望的な状況下の陸戦隊と居留民が、 陸軍将校の姿を
見ればどんなに喜び、安心することか、余計な気を使うなと叱ったのである。

成るほどと、馬淵らは早速陸軍将校の軍服姿で陸戦隊の歩哨線を廻ると、
血と汗にまみれた海軍兵士たちが飛びついてきて、

「陸軍がやってきた」   と歓声を挙げたので、しみじみと死闘の続く
陸戦隊員の苦労が分かったという。》

( 西岡香織著 『 報道戦線から見た 「 日中戦争 」』 芙蓉書房出版   81頁 )

ということです。


註:寡兵   カヘイ    少ない兵

   惹起   ジャッキ   引き起こされる

   切歯扼腕   セッシヤクワン   歯をくいしばり、自分の腕を握りしめて
                悔しがること。

つづく

派遣陸軍の編成と方針

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/03/01 18:37 投稿番号: [761 / 2250]
8月14日   上海行きに   第3師団・第11師団の動員が下令されました。
8月15日に、松井石根大将を軍司令官とする、上海派遣軍の編組・任務が下令されます。

ただし、これは臨時のもので、本式のものではありません。


戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』
266p

《 十五日、上海派遣軍(軍司令官   松井石根大将−9期)の編組、任務等が
次のように下令された。その任務は極めて限定された小範囲のものである。

また純粋の作戦軍ではなく、一時的派遣の意味をもって   「戦闘序列」   が下令される
ことなく軍の   「編組」   が示された。戦局不拡大方針の考えを見ることができよう。

(「編組」   とは隷属系統を規定する数個の部隊の組み合わせをいい、
「戦闘序列」   とは、戦時もしくは事変に際し天皇の令する作戦軍の編組をいう)》


そして臨参命第73号の第2項で
266p

《 上海派遣軍司令官ハ   海軍ト協力シテ   上海附近ノ敵ヲ掃滅シ   上海竝(ならびに)

其北方地区ノ要線ヲ占領シ   帝国臣民ヲ保護スヘシ》

という、出兵の目的が出されました。

次に、   8月16日には臨命第452号で参謀総長より各種の指示が出されます。
267p

《(1)   上海派遣軍司令官と第三艦隊司令長官とは協同関係であり、
    上陸した陸軍部隊と海軍特別陸戦隊とは戦闘間先任指揮官が統一指揮する。

(2)   第3、第11師団は海軍艦艇をもって急派する。

(3)   上陸地は劉河鎮方面及び呉淞方面とし、敵前上陸を予期する。

(4)   中支方面における敵航空勢力の覆滅は主として海軍が任じ、
    陸軍は該方面に陸軍部隊の自衛のため飛行隊の一部を派遣する。


また、上海は国際都市として列国の利害が錯綜し、かつ列国監視の中にあるので、
軍の行使には特に次の件に注意せよと述べている。


一   我カ正当ナル行動ヲ   中外 (チュウガイ:内外) ニ   理解セシムルヲ要ス

二   努メテ列国軍トノ協調ヲ保持ス

三   上海租界ニハ   兵禍ヲ及ホササル如ク努ム

四   飛行機ヲ以テスル対地攻撃   就中 (なかんづく) 爆撃実施ニ方 (あた) リテハ

   目標選定其他ニ関シ   国際関係ヲ顧慮スルヲ要ス

五   渉外事項ニ関シテハ   任務達成上   直接関係アルモノノ外ハ   努メテ外務官憲等ノ

   処理ニ委ス   之カ為   所在帝国外務官憲ト   密接ニ連繋ヲ保持ス》


つづく
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