軍工路の開放
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/03/25 18:50 投稿番号: [786 / 2250]
西岡香織著 『報道戦線から見た 「日中戦争」』 芙蓉書房出版
84〜86p
《「九月六日、飯田支隊は軍工路の開放、公大飛行場確保という特別の任務を
以て、滬江 (ここう) 大学北方地区に於て攻撃を開始した。
この戦闘は上海市街揚樹浦に接近して行われたので、新聞記者も親しく目撃したものが
多いのである。 私も三回程、従軍記者を伴い滬江大学の楼上から眼下の戦闘を観たが、
彼我二三百米に接近し、森原部隊の突撃や敵の逆襲に手に汗を握った。
温厚な飯田部隊長の戦闘指令所で、指揮の合間に記者を紹介した。
『〔軍報道都九月八日午後二時発表〕
飯田部隊は本朝来、陸海砲兵射撃並に
海軍機の協力の下に当面の敵に対し攻撃を再開せり。
同部隊左第一線の森原部隊は午前十一時、界浜港クリークに接近せる
第一及び第二トーチカ陣地を突破し、軍工路西方約一千米の沈家巷鎮を占領し、
目下当面の敵と対峙中なり』
此の発表文は滬江大学の楼上で戦闘を目撃しながら、記者に発表したものだ。
其の翌朝未明に飯田部隊長戦死の報を得、驚いて戦場に駆けつけた。
同盟の奥宮君外数名が続行した。
飯田少佐は昨日私と訣 (わか) れてから、戦闘指令所を前方、
キュウ江碼頭職員官舎に移したのであるが、
中村大尉、梅田大尉、山本大尉等を初め、中隊長、小隊長相次で斃 (たお) れ、
一番損害を多く蒙った小隊の守備する碼頭の、之も戦死傷者を収容している所に
夜襲をかけられたので、部下の止めるのも肯かず、大隊本部を出て現場に赴援し、
格闘して遂に斃れたのである。
副官森田少尉之に殉じ、旅順港口の広瀬中佐、杉野兵曹長を再現した。
私は小銃弾乱れ飛ぶキュウ江碼頭に到り、飯田少佐以下多数の戦死将兵の
遺骸に額き、昨日に変る姿に涙を絞ったのである。
飯田支隊生存の中隊長は第一トーチカに突入した森原大尉一名となった。
死を誓った部下とは断じて離れない、と云っていた森原大尉も大隊長戦死と聞き、
涙を奮って支隊戦闘司令の位置に就き、九、十、十一、十二、十三日と死闘を続けて、
遂に軍工路を突破し、市政府に進入した。
支那特有の豪華な建物で、朱緑の甍 (いらか) 燦然 (さんぜん) と
大陸の残照に映えている。
キリッと鉄兜の緒を締めて、附近の綿畠 (わたばたけ) を蹴散し、
飯田部隊長の弔合戦をする森原大尉の奮戦振りは、全く武者絵そのままであった。
好漢惜しいかな、大別山麓の華と散った。
飯田部隊の死闘によって軍工路が突破され、公大飛行場は確保され、
陸上機の活動が茲 (ここ) に初めて可能となった。
軍工路の開放によって、従軍記者もドロンコの徒歩連絡から、自転車となり、
やがて自動車も使用されるようになった」
(馬淵『報道戦線』)》
つづく
これは メッセージ 785 (kireigotowadame さん)への返信です.
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