入って中国人に南京事件真相議論しましょう

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1937年 句容攻略と百人斬り記事 第3号

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/30 18:28 投稿番号: [1799 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   182p


《 蒋介石は、十二月五日、 「守土責任」   を放棄する官吏、軍人は例外なく

軍法会議で処断する旨を布告し、句容西方の湯山陣地を視察した。

ところが、蒋介石が守将の第六十六軍第一五九師長譚邃と対談している

午前十一時ごろ、はやくも前方に日本軍の出現が報告され、銃声もきこえた。

蒋介石は、 「鎮静」   に、かつ、す早く丘をおりて南京に帰ったが、

午後一時には句容の陥落、午後四時には天王寺から北上してきた日本軍

(第九師団第三十六連隊)   が、句容西方の淳化鎮に進出したとの報告をうけた。》



戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   424p

《 第十六師団の追撃隊は、五日、句容付近に陣地を占領した敵を突破し、

第九師団の追撃隊は、同日、南京第一線陣地である淳化鎮付近に進出した。》



百人斬り新聞記事

〔昭和12年12月7日   大阪毎日新聞朝刊   〕


《 百人斬り競争の二少尉/相変らず接戦の猛勇ぶり

丹陽にて 【三日】 句容にて 【五日】 浅海、光本本社特派員発

南京を目ざす   「百人斬り競争」   の二青年将校、片桐部隊向井敏明、

野田毅両少尉は句容入城にも最前線に立つて奮戦、

入城直前までの成績は向井少尉は八十九名、野田少尉は七十八名といふ接戦となつた

(両少尉の写真)

敗けず劣らずの野田少尉(右)と向井少尉(左)   (常州にて−佐藤本社特派員撮影)》



*   記者は、向井少尉が丹陽にて負傷し、入院していることを知らずに書いている。

   向井少尉は12月15日まで入院しているから、丹陽から句容はおろか

   南京戦にもいない。

   この記事が、創作であることは明白。

1938年 土肥原機関 呉佩孚工作4

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/29 15:43 投稿番号: [1798 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
21〜22p


《 すっかり気をよくした呉佩孚は、

今度は新政府樹立に乗り出すいま一つの条件として、

世論の推戴を強く要求した。



そこで張燕卿は、この要望にそうべく和平救国会を組織した。

和平救国会とは、全国的に組織された強力な和平民衆団体だと

呉には報告されたが、

その実、張は上海、香港、広東などの和平救国会を机上で簡単に編成した。

彼は救国会の任務は呉に電報してその出馬を懇請するだけで、

あとは用がないとしたからである。



その年の十一月の半ばごろ、和平救国会が各地で発会式をあげたと報告して、

張は人を派し、占領地のすべてから出馬を懇請する電報を発信させ、

呉を満悦させた。


「呉公一度呼べば天下皆応ずるだろう。

どうぞ出馬の宣言を全国に発表して、すみやかに和平を実施されたい」


といった電報が呉の机上に山と積まれた。

1937年 安全区より中国軍の追い出しを図る

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/29 15:37 投稿番号: [1797 / 2250]
ラーベの日記
  十二月五日

《 やっとのことで車に乗りこんだとたん、今度は空襲警報だ。

爆弾が落ちた。

だが今は許可証を持っているので、二度目のサイレンの後なら外に出られる。

それにあまりにやることが多くて、爆弾などかまっていられない。

こういうとひどく勇ましく聞こえるが、さいわい爆弾はいつもどこかよそに落ちている。



アメリカ大使館の仲介で、ついに、安全区についての東京からの公式回答を受け取った。

やや詳しかっただけで、ジャキノ神父によって先日電報で送られてきたものと

大筋は変わらない。

つまり、日本政府はまた拒否してはきたものの、

できるだけ配慮しようと約束してくれたのだ。



ベイツ、シュペアリングといっしょに、唐司令長官を訪ねた。

なんとしても、軍人と軍の施設をすぐに安全区から

残らず引き揚げる約束をとりつけなければならない。



それにしてもやつの返事を聞いたときのわれわれの驚きを

いったいどう言えばいいのだろう!

「とうてい無理だ。どんなに早くても二週間後になる」   だと?

そんなばかなことがあるか!

それでは、中国人兵士を入れないという条件が満たせないではないか。



そうなったら当面、 「安全区」   の名をつけることなど考えられない。

せいぜい   「難民区」   だ。

委員会のメンバーでとことん話し合った結果、新聞にのせる文句を決めた。

なにもかも水の泡にならないようにするためには、

本当のことを知らせるわけにはいかない……。



その間にも爆弾はひっきりなしに落ちてくる。

音があまりに大きい時は、椅子を少し窓から遠ざける。

あらゆる防空壕のなかでいちばんりっぱなやつが庭にあるのに。

ただそれを使う時間がないのだ。



城門は壁土で塗りこめられる。

三つの門のうち、開いているのはひとつだけだ。

といっても扉の半分だけだが。

われわれは必死で米や小麦粉を運びこんだ。

安全区を示す旗や、外にいる人たちに安全区のことを知らせる貼り紙もできている。

だが、肝心の安全性については最低の保証すら与えられないのだ!



ローゼンはかんかんになっている。中国軍が安全区のなかに隠れているというのだ。

ドイツの旗がある空き家がたくさんあり、

その近くにいる方がずっと安全だと思っているからだという。

そのとおりだと言い切る自信はない。

しかし、今日、唐司令長官と会った家も安全区のなかだったというのはたしかである。》

1938年11月4日 近衛声明を悪用する蒋介石

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/28 14:28 投稿番号: [1796 / 2250]
これは、長沙焚城よりも前の話、順番を間違えた。


児島襄著   『日中戦争5』   文春文庫
176〜178p


《 漢口の米総領事P・ジョスリンも、報告した。

「ソ連消息筋によれば、中国は現在の消費基準であと六カ月ぶんの弾薬を保有している。

他の外国筋および中国筋は、約八カ月ぶんだと述べている」

蒋介石自身は、十一月四日、長沙で英大使A・カーと会談したさいに、告げた。

「中国は、あと一年間は抗戦できる」

もっとも、その一年間も米英両国からの借款が条件になっている、

と蒋介石は、つけ加え、さらに、大使を凝視して強調した。



「もし、援助がなければ、中国は別の友人、たとえばソ連あるいは

日本にさえも求めざるを得ないだろう。

中国が日本と運命をともにすることになれば、

中国における日本以外の外国権益は、いっさい排除されることになる」

英大使カーの脳中には、その前日に発表された日本首相近衛文麿の声明が、うかんだ。

近衛首相の声明のうち、とくに注目されるのは、つぎの箇所であった。



「……帝国ノ冀求スル所ハ、東亜永遠ノ安定ヲ確保スベキ   新秩序ノ建設ニ在リ。

……固ヨリ国民政府ト雖モ、従来ノ指導政策ヲ一擲シ、ソノ人的構成ヲ改替シテ

更生ノ実ヲ挙ゲ、新秩序ノ建設ニ   来リ参ズルニ   於テハ、

敢テ   之ヲ拒否スルモノニアラズ」



この声明は、それが武漢攻略の直後に、その戦果を背景にしてのものであるだけに、

日本側の   「自信」   と   「強腰」   の表明とみなされた。

駐日米大使J・グルーは、 「新秩序」   宣言は、

これまでに日本も合意していた中国にたいする   「国際的姿勢」   である

門戸開放、機会均等の放棄を意味するものとみなした。

「新秩序は、日満支ブロック、いいかえれば、米合衆国、ソ連、英連邦に似た

経済・政治支配圏を東アジアにつくる政策の一部である」



国民政府への参加呼びかけは、かつての   「蒋介石ヲ対手トセズ」   方針の

修正であろうが、これはしきりにつたえられている   「呉佩孚工作」   の成功を

示唆するものではないか、と、米大使グルーは考えた。



  −だが、

英大使カーは、別の印象をうけた。

旧軍閥の頭領である呉佩孚は、国民政府外の存在である。

その呉佩孚をむかえ、北京の   「臨時政府」、 南京の   「維新政府」   という

日本の〝傀儡〟政権を統一して〝新中国政府〟を樹立しようというのが、

「呉佩孚工作」   である。



それなら、蒋介石・国民政府とは別のものであり、近衛首相が国民政府に

「参加」   を呼びかける必要はないのではないか……。

英大使カーは、あるいは近衛首相の声明は国民政府そのものとの

「和平接触」   を意味しているのではないか、と首をかしげた。



*   東亜新秩序の声明では、欧米を排除するとは、一言も言っていないのだが、

   蒋介石はこういう言い方をすることによって、日本がまるで欧米を排除し

   中国市場の独占を図っているかの如く、疑心暗鬼にさせています。

1937年12月4日 第十軍と蒋介石の動き

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/28 14:12 投稿番号: [1795 / 2250]
戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   424 p


第十軍

《 このころ、蕪湖付近から揚子江を遡江する敵大部隊があり、

あるいはネイ国を経て南下退却する部隊があった。

よって軍司令官は、方面軍司令官の指示に基づき、敵の退路を遮断する目的をもって、

四日、第十八師団にたいし、進路を変更してネイ国−蕪湖−南京道を

南京に向かい追撃するよう命じ、

次いで第百十四師団及び第六師団にたいし、南京に向かう追撃を命じた。

第百十四師団の先遣隊は、四日、リツ水に進入した 》



児島襄著   『日中戦争4』   182p


《 蒋介石は、句容東方、天王寺付近、リツ水付近に日本軍が出現した

との報告をうけると、「首都保衛戦」   発動を下令した。

進出した日本軍は、それぞれ第十六師団、第九師団、第百十四師団の先頭部隊である。

中支那方面軍司令官松井大将は、上海派遣軍と第十軍の進出状況をみて、

午後九時、 「中方作命第二十七号」   を発令した。



「中支那方面軍ハ、南京郊外 既設陣地ヲ奪取シ、南京城ノ攻略ヲ 準備セントス」

その準備線は、南京の北端の下関   (シャーカン)   東方的四キロの上元門、

中山門東方の小衛、光華門南東の高橋門、中華門南方の雨花台、

水西門西方の棉花地をむすぶ線とした。

いいかえれば、南京城を包囲して城壁の手前でいったんとまれ、というのである。》



戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   426 p


《 方面軍司令官は、南京郊外既設陣地を奪取し南京城の攻略を準備するに決し、

十二月四日、隷下両軍の南京攻撃準備線を、おおむね上元門、小衛、高橋門、

雨花臺、綿花地の線に統制した。》

1938年11月12〜14日 上海での会談

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/27 18:59 投稿番号: [1794 / 2250]
児島襄著   『日中戦争5』   文春文庫
179〜180p


《 武漢が陥落すると、汪兆銘の   「和平心」   は強化され、

特派員梅思平のほかに外交部情報司日蘇科長周隆庠を派出した



二人は、香港の元亜州司長高宗武とともに上海にあつまり、

十一月十二日から十四日にかけて、日本側の参謀本部第二部支那班長今井武夫中佐、

満鉄嘱託伊藤芳男、満鉄南京支店長西義顕と会談した。

会談では、これまでに話しあわれていた次のような 〝和平条件〟 が

あらためて検討された。



  ①「日華防共協定」   の締結と   「防共駐兵」

  ②満州国の承認   (中国側)

  ③治外法権の撤廃と租界の返還   (日本側)

  ④日本の優先権を認める経済提携

  ⑤和平後に撤兵開始し二年以内に完全撤兵。

   ただし   「防共駐兵」   は協定期間存続(日本側)



これにたいして、特派員梅思平と科長周陸庠は、

合意の成立にともなう中国側の   「挙事計画」   を提示した。


  (一) 汪兆銘は、日本政府の条件承認を知った一両日後に、

    同志とともに重慶を脱出して昆明にむかう。

  (二) 汪の昆明到着後に、日本政府は和平条件を公表する。

  (三) 汪は蒋介石との断絶を声明し、ハノイ経由で香港に出て、

    和平呼応および反蒋声明を発表する。

  (四) 汪の声明に応じて、雲南軍、四川軍が反蒋独立する。

    雲南省主席龍雲と四川軍将領とは同志としての盟約がある。

  (五) 汪は、雲南、四川その他の日本軍未占領地域に新政府を組織し、

    日本は広西、広東から撤兵して両省を新政府の   「地盤」   に加える。
…………


上海での協議はまとまり、今井中佐は、十一月十五日、東京の陸相官邸で、

以上の内容を陸軍省、参謀本部の幹部に報告した。》

1937年12月4日 揚子江啓開作戦

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/27 18:51 投稿番号: [1793 / 2250]
戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   423p


《 上海派遣軍

四日、第十三師団は一部

(歩兵第二十六旅団長沼田重徳少将の指揮する歩兵三大隊、山砲兵一大隊基幹) を

もって揚子江水路開放ならびに石荘鎮−靖江−泰興道遮断のため、

揚子江を渡河して靖江を占領し、 主力は江陰付近を出発し、

江陰 −常州 − 奔牛鎮 − 孟河城 − 鎮江道を鎮江付近に前進し、

揚子江左岸地区に向かう作戦を準備させた。》



戦史叢書   『中国方面海軍作戦1』   458〜459p


《 四日の経過    四日、江陰要塞占領の確報があったが、巫山、

長山両砲台付近の状況はつまびらかでなかった。

この日 10:30、旗艦安宅はベントビーコン付近まで進出した。



「保津」   は   「八重山、粟、栂、蓮」   の聯合陸戦隊   (坂本大尉以下八六名)   を乗せて

09:00 出港、10:55 巫山の北東約一浬に仮泊、同地で上陸させ、

巫山砲台方面の敵情偵察、管制機雷用電纜   (でんらん:ケーブルの事)   の

発見処分及び陸軍との連絡に任じさせた。



一方   「粟、栂、蓮」   も 09:00 出港、正午ころ巫山の北方約二浬付近まで進出して

「保津」   と協力、陸戦隊の掩護に任じ、13:30 ビッグツリー浮標付近に帰着した。



「八重山」   はクーパーバンク南西にある管制機雷の位置付近の清掃計画を立て、

同艦分隊長を指揮官とし、 「八重山、安宅」   内火艇各一隻をもって小掃海隊を編成、

08:00   出発、15:20   クーパーバンク南西予想敷設線の掃海を開始し、

機雷三個を拘束した。

しかし処分するに至らず、うち一個に位置浮標を入れた。

特別掃海隊   (林少佐指揮・特掃四)   は保津艦長指揮の下に

福姜沙港水路の清掃及び航路標識設置を実施した。



神川丸機は終日、ビッグツリーの上流一、七〇〇米一帯の江中に爆弾を投下、

機雷原を暗探したが誘爆を見なかった。


また前路警戒隊指揮官は   「蓮」   に北水道の略掃を命じたが、同艦長は

「現場の操艦困難で見込みなく、また水深浅く現有掃海具では掃海不能である」

旨を報告した。



「寧海」の捕獲    保津艦長上田光治中佐は   12:15、内火艇で水路探索のため同艦発、

江陰閉塞線の南端と陸岸との間を縫うて封鎖線を突破、

我が爆撃を受け大破し江陰対岸に坐礁中の中国巡洋艦   「寧海」   を捕獲した。


この間敵陣地から機銃射撃を受け、後檣   (しょう)   上に負傷兵一名を

残したまま内火艇は避退、 「保津」   に帰艦した。

よって   「保津」   は14:55 発、 15:20 閉塞線を突破、

八★   (土+于)   港の敵陣を銃砲撃しつつ   「寧海」   に近接し前記兵を収容のうえ

18:25 閉塞線を突破し、巫山錨地に帰投した。

同夜、艦長は江陰方面陸軍部隊と連絡のため七名を上陸させた。

一行は第十三師団と連絡をとり、五日朝帰艦した。



第二十四駆逐隊は三日午後佐世保発、四日 17:00 クロッシング着、

「八重山」   と交代して前路警戒隊の任務を継承した。

「八重山」   は任務を解かれ下江した。》

1938年11月13日 長沙焚上

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/26 18:49 投稿番号: [1792 / 2250]
趙無眠著   『日中戦争中国も同罪だ』   文藝春秋   2006年11月号


《〈 一九三八年十一月十二日午前二時、湖南省政府は

日本軍が近づいてきているとの情報   (事後にこれが誤りであったと知る)   に接し、

かねてから決めていたように   「焦土抗戦」   に打って出て、

長沙の街に自ら火を放ったのだった。

省の警備団が動員され、街を焼く命令に従ったのだが、彼らは石油、灯油、

綿花、木炭、爆薬、手榴弾を使い、門を閉じたまま焼き払ったのである。



もちろん、事前の通知などなく、民家の住人たちは深い眠りの中で、

目覚めると同時に火の海の中にたたきこまれた。

そしてほとんどの者が生きたまま焼かれ、また窒息死し、

ある者は水に飛び込んだまま茹でられてしまった。

やっと家の中から飛び出した者も、

狂ったように逃げる人の波に踏みつけられて圧死し、

河で溺死するという悶絶死をとげたのである。



この火事は結局、三日三晩、街を焼き尽くし、

千年の歴史を有する名だたる都市をただのガラクタに変えてしまった。

後の統計によれば、この火事による死者は約二万人とされたが、

ここには外地から来ていた難民や傷病兵などは含まれていない。


文物の損害は計り知れず、宋、明、清、それぞれの時代の図書や

貴重な文書、名画や書がすべて灰となってしまった。

そのなかには漢代の貴重な印鑑が含まれていたが、

それらはすべてがただの鉄と銅の塊となってしまった。



さらにいえば、米どころとして名高い長沙の収穫米も

二百万担   (一担=五十キログラム)   が焼かれてしまい、

中国で四大刺繍の一つに数えられる湖南刺繍も、

代々伝えられた優れた構図やデザインなどがすべて失われてしまった。

このときから中国の刺繍業界は目に見えて失速していくのである。〉



〈 日本〝鬼子〟が   「三光政策」   を採用し、軍隊が中国国内の村々を焼いたことを、

われわれが恨み、厳しく責めたてるのは当然だが、

はたして彼らの行動は長沙の大火事と比べて、

それ以上のものだったのだろうか?〉》



*   著者は、長沙だけが焼かれたかの如く、思っているが、そうではない。

   中国軍はあちこちで、同じことをしているのだ。

   日本軍が広東に近づいたときも、略奪した後、街を焼き払っている。

   著者は中国人だから、「三光政策」   と言わざるを得ないのだろうが、

   日本軍が近づく前に、中国軍が先にやっている。



   長沙が問題になったのは、

   略奪し焼き払ったのに、日本軍が来なかったから。

   これでは、日本軍のせいにできない。

   だから、問題なった。

1937年12月 安全区に高射砲を据える中国軍

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/26 18:36 投稿番号: [1791 / 2250]
ラーベの日記


《 防衛軍の責任者である唐が軍関係者や軍事施設をすべて撤退させると約束した。

それなのに、安全区の三カ所に新たに塑壕や高射砲台を配置する場が設けられている。

私は唐の使者に、 「もしただちに中止しなければ、私は辞任し、委員会も解散する」

といっておどしてやった。

するとこちらの要望どおりすべて撤退させると文書で言ってきたが、

実行には少々時間がかかるというただし書きがついていた。



  十二月四日

どうにかして安全区から中国軍を立ち退かせようとするのだが、うまくいかない。

唐将軍が約束したにもかかわらず、兵士たちは引き揚げるどころか、

新たな塹壕を掘り、軍関係の電話をひいている有様だ。

今日、米を運んでくることになっていた八台のトラックのうち、半分しか着かなかった。



またまた空襲だ。何時間も続いた。

用事で飛行場にいたクレーガーは、あやうく命を落とすところだった。

百メートルぐらいしか離れていないところにいくつも爆弾が落ちたのだ。



難民は徐々に安全区に移りはじめた。

ある地方紙は   「外国人」   による難民区などへ行かないようにと、

繰り返し書き立てている。 この赤新聞は、

「空襲にともなうかもしれない危険に身をさらすことは全中国人民の義務である」

などとほざいているのだ。》



*   「空襲だ。用事で飛行場にいたクレーガーは、あやうく命を落とすところだった。」

   この記述であきらかなように、日本軍は、飛行場を標的にしていた。

   無差別爆撃ではないのに、善人心の日本人は簡単に騙される。



*   安全区は武装した軍人がいないという前提で作られる。

   中国軍はその安全区に入って自分達を安全にして、戦争をしようとする。

   こういうルール無用の連中だという事を知らねばならない。



   上海でも、租界のそばに陣地を作って、

   他者に害を与えまいとする、日本人の善人心を利用して、戦争した。

   また、租界の中から、戦闘指揮をした中国軍将校もいた。



   中国人はこういうデタラメをやって、市民に被害が出たとふざけた事を言う。

   自分達が、市民を盾に使っているくせに。

   こういう、詭弁・トリックに騙されるバカな日本人の如何に多い事か。

1938年11月13日 中国軍誤報で長沙に放火

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/25 18:39 投稿番号: [1790 / 2250]
児島襄著   『日中戦争5』   文春文庫
182〜183p


《 十一月十三日未明、長沙で大火が発生した。

火は二日間燃えつづけ、長沙市は完全に焦土となり、

死傷約二千人、罹災者約二万人と報告された。



惨害の原因は、日本軍せまる、との   「謡言」   にあわてた中国側   「軍営当局」   が、

かねて指示された焦土作戦を発動して放火したためである。

蒋介石は長沙に出張し、責任者として長沙警備司令ホウ(豊+オオザト)悌、

警備第二団長徐見、湖南省会警察局長文重孚の三人を銃殺刑にした。



汪兆銘は、この長沙事件をとりあげ、特派員梅思平が到着する三日前、

十一月二十四日、

「何故に焦土戦術を誤解したりや」   と題する声明文を発表した。



「焦土抗戦にたいする誤解から、遂に長沙の人為的大火を引き起したことは、

痛心のきわみである……。

長沙のごとく焦土化してしまったら、すべては終りである。

戦区内の一切の物質を焼却すれば、

われわれは一体どこの資料をもって抗戦しようとするのか……」

言外に、蒋介石の戦争作法にはついていけない、との意向が、

はっきりとうかがえる表現である。》

1937年12月3日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/25 18:28 投稿番号: [1789 / 2250]
十二月三日

《 ローゼンが訪ねてきた。

トラウトマン大使がよろしくいっていたとのことだった。

昨晩大使は税関の艀   (はしけ)   でこちらにきたのだが、

そのまま漢口へとんぼ返りしたという。



思った通り大使は和平案を伝えに蒋介石の所へ行ったのだ。

私がそういうと、何度かためらったあと、ローゼンも認めた。

細かい内容についてはもちろん何も聞き出せなかったが、

こちらもそれ以上聞くつもりはなかった。

そういう行動に出たというだけで十分だったからだ。



うまくいくといいが!   ローゼンは私に電報を見せてくれた。

これは本当は大使あてなのだが、つぎのような内容だった。



ドイツ大使館南京分室   漢口発   三七年十二月二日   南京着   十二月三日

   東京、十二月二日


   日本政府は、都市をはじめ、国民政府、生命、財産、外国人及び

   無抵抗の中国人民をできるだけ寛大に扱う考えをもっております。

   また、国民政府がその権力を行使することによって、

   首都を戦争の惨禍から救うよう期しております。

   軍事上の理由により、南京の城塞地域の特別保護区を、

   認めるわけにはいきません。

   日本政府はこの件に関して、公的な声明を出す予定です。

                     ザウケン



ローゼンは、ほかの国の大使館は

これに似た内容の電報を受け取っていないことをつきとめた。

差出人の名を明かさないまま、この扱いは委員会に一任された。

ローゼンさんは、蒋介石夫人に接触してはどうか、と勧めてくれた。》


つづく

1938年11月3日 東亜新秩序の声明

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/24 18:47 投稿番号: [1788 / 2250]
近衛首相は   「蒋介石対手にせず」   の声明が間違っていたことを痛感し、

国民党政府の参加を念頭に置いた声明を発表しました。



井本熊雄著   『支那事変作戦日誌』
294p


《 昭和十三年十一月三日の政府声明

(東亜新秩序の声明、国民政府も拒否せずの声明とも称せられた)


今ヤ陛下ノ御稜威   (みいつ)   ニ依   (よ)   リ、 帝国陸海軍ハ克   (よ)   ク

広東、 武漢三鎮ヲ攻略シテ   支那ノ要域ヲ戡定   (かんてい)   シタリ。

国民政府ハ既ニ地方ノ一政権ニ過ギズ。

然レドモ同政府ニシテ   抗日容共政策ヲ固執スル限リ、

コレガ潰滅ヲ見ルマデハ   帝国ハ断シテ矛ヲ収ムルコトナシ。



帝国ノ冀求   (ききゅう)   スル所ハ   東亜永遠ノ安定ヲ確保スヘキ

新秩序ノ建設ニ在り。 今次征戦究極ノ目的   亦此ニ存ス。

コノ新秩序ノ建設ハ日清支三国相携ヘ、

政治、経済、文化等各般ニ亙   (わた)   リ、互助連環ノ関係ヲ樹立スルヲ以テ根幹トシ、

東亜ニ於ケル国際正義ノ確立、共同防共ノ達成、

新文化ノ創造、経済結合ノ実現ヲ期スルニ在リ。

是レ実ニ東亜ヲ安定シ、世界ノ進運ニ寄与スル所以   (ゆえん)   ナリ。



帝国カ支那ニ望ム所ハ、コノ東亜新秩序建設ノ   任務ヲ分担センコトニ在リ。

帝国ハ支那国民カ能   (よ)   ク   我カ真意ヲ理解シ、

以テ帝国ノ協カニ応ヘムコトヲ期待ス。

固   (もと)   ヨリ国民政府ト雖   (いえど)   モ   従来ノ指導政策ヲ一擲   (いってき)   シ、

ソノ人的構成ヲ改替シテ   更生ノ実ヲ挙ゲ、新秩序ノ建設ニ来リ   参スルニ於テハ

敢テ之ヲ拒否スルモノニ非ス。



帝国ハ   列国モ亦帝国ノ意図ヲ正確ニ認識シ   東亜ノ新情勢ニ適応スヘキヲ信シテ疑ハス。

就中   (なかんずく)   盟邦諸国従来ノ厚誼ニ対シテハ   深ク之ヲ多トスルモノナリ。

惟   (おも)   フニ東亜ニ於ケル新秩序ノ建設ハ、 我カ肇国   (ちょうこく)   ノ精神ニ淵源シ、

コレヲ完成スルハ   現代日本国民ニ課セラレタル光栄アル責務ナリ。

帝国ハ必要ナル国内諸般ノ改新ヲ断行シテ   愈々   (いよいよ)   総国力ノ拡充ヲ図リ、

万難ヲ排シテ斯業ノ達成ニ邁進   (まいしん)   セサルヘカラス。

茲   (ここ)   ニ政府ハ帝国不動ノ方針ト決意トヲ声明ス。》



注    冀求:キキュウ    希求に同じ。

    肇国:チョウコク   建国、国の始め

1937年12月 向井少尉負傷入院の事実

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/24 18:35 投稿番号: [1787 / 2250]
鈴木明著   『「南京大虐殺」   のまぼろし』   90〜91p


《 直轄の隊長である富山武雄氏の証明では

4、向井少尉ハ   昭和十二年十二月二日丹陽郊外ニ於テ

  左膝頭部盲貫ヲ受ケ   離隊   救護班ニ   収容セラレ

  昭和十二年十二月十五日   湯水ニ於テ   部隊ニ帰隊シ   治療ス 》



とあります。

また、向井少尉の負傷入院は野田少尉も書いています。



『正論』   2001年8月号   336p


《 野田ハ   麒麟門東方ニ於テ   記者ノ   戦車ニ添乗シテ来ルニ   再会セリ

記者   「ヤアヨク会ヒマシタネ」

野田   「記者サンモ御健在デ オ目出度ウ」

記者   「今マデ幾回モ打電シマシタガ 百人斬競争ハ 日本デ大評判ラシイデスヨ。

     二人トモ百人以上突破シタコトニ   (一行不明)

野田   「ソウデスカ」

記者   「マア其ノ中 新聞記事ヲ 楽ミニシテ下サイ、サヨナラ」



瞬時ニシテ 記者ハ 戦車ニ搭乗セルママ 去レリ。

当時 該記者ハ 向井ガ 丹陽ニ於テ 入院中ニシテ 不在ナルヲ 知ラザリシ為、

無錫ノ対話ヲ 基礎トシテ 紫金山ニ於イテ 向井野田両人ガ 談笑セル記事 及

向井一人ガ 壮語シタル 記事ヲ 創作シテ 発表セルモノナリ。》



*   要するに、向井少尉は負傷して入院しているのに、

   その事実を知らないものだから、いい加減な事を書いているわけです。

1938年 戦争続行意識旺盛な蒋介石

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/23 19:04 投稿番号: [1786 / 2250]
児島襄著   『日中戦争5』   文春文庫


173p
《   ―   蒋介石は、いう。


「我遂由第一時期之阻滞戦、更進於第二時期之持久戦、

打破敵人以戦養戦之企図、而敵軍在華之泥沼乃癒陥癒深矣」


戦争の敵軍阻止の第一段階はおわり、第二段階の持久戦にはいった。

こんごは、戦いが戦いを拡大することになり、

日本はますます対中国戦の泥沼にはまりこむことになる   −

といった趣意である。

武漢戦がおわったときの感想であり、 「以空間換取時間」   という持論の表明でもある。》



175〜176p

《 現に、蒋介石は、軍政部長何応欽に次のように指示した。

「於明年二月以前   徴募新兵一百万名、以応補充需要」

つまりは、武漢戦においては、

中国側は現実には   「百万人」   の補充を必要とする打撃をうけたのであり、

「第二期之持久戦」   の態勢づくりも容易ではない、と、みこまれた。



いや、 「以戦養戦」   などという余裕はない、中国の敗北は時間の問題だ、

というのが、各国の軍事専門家に共通した判断であった。

とくに、広東が陥落したため、

香港を経由する英国その他の対中国軍事援助の流れがストップし、

それが致命的な痛手になるとの観察が、一般的であった。



ほかにも、インドシナ経由、ビルマ経由の援助ルートはある。

しかし、運賃がそれぞれトンあたり米貨約二百ドル、約百ドルと、

当時としてはきわめて割高である。



持久戦になればなるほど、中国側の負担は増大し、

当然に対外資金援助をもとめることになろうが、

はたしてどれだけ各国が応ずるものだろうか……。

「あと六カ月間」

というのが、重慶に駐在する米陸軍武官J・スチルウエル大佐が試算した



中国の   「抗戦能力」   であったが、米大使N・ジョンソンも次のように打電した。

「当地   (重慶)   の最も情報に通ずる外国軍事専門家たちは、

中国政府は、いかなる規模においても組織的抵抗を六カ月間以上つづけることは望み得ず、

ゲリラ戦の効果にも疑問があるという点で、意見が一致している」》

1937年 百人斬り記事 第2号

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/23 18:37 投稿番号: [1785 / 2250]
〔昭和12年12月4日   大阪毎日朝刊〕


《 丹陽にて【三日】浅海、光本本社特派員発

  既報南京をめざして雄々しくも痛快極まる   「百人斬り競争」   を開始した

片桐部隊の二青年将校、向井敏明少尉、野田毅少尉両勇士は常州出発以来も

奮戦につぐ奮戦を重ねて二日午後六時丹陽に入城したが、

かたや向井少尉はすでに敵兵を斬つた数八十六名に達すれば

野田少尉も急ピツチに成績をあげ六十五と追いすがり

互いに鎬 (しのぎ) をけづる大接戦となつた、



即ち両勇士は常州、丹陽たつた十里の間に前者は三十名、後者は四十名の

敵を斬つたわけで壮烈言語に絶する阿修羅の如き奮戦振りである、

何しろ両勇士とも京滬鉄道に沿ふ同一戦線上で奔牛鎮、呂城鎮、

陵口鎮 (何れも丹陽の北) の激戦で敵陣に飛び込んでは斬り躍り込んでは斬り、

中でも向井少尉は丹陽城中正門の一番乗りを決行、

野田少尉も右の手首に軽傷を負ふなど、

この百人斬競争は赫々   (かくかく)   たる成果を挙げつつある、



記者等が丹陽入城後息をもつかせず追撃に進発する部隊を追ひかけると

向井少尉は行進の隊列の中からにこにこしながら

野田の奴が大分追ひついて来たのでぼんやりしとれん、

この分だと句容までに競争が終りさうだ、



そしたら南京までに第二回の百人斬競争をやるつもりだ、

野田の傷は軽いから心配ない、

陵口鎮で斬つた敵の骨で俺の孫六に一ケ所刃こぼれが出来たが

まだ百人や二百人は斬れるぞ、

大毎、東日の記者に審判官になつて貰ふワッハッハッハ

と語つて颯爽と進んで行つた 》



*   「向井少尉は丹陽城中正門の一番乗りを決行」   だってー?

   砲兵隊の小隊長が、持ち場を離れて、

   歩兵より先に一番乗りなどしたら軍法会議にかけられるぞ。



   「記者等が丹陽入城後息をもつかせず追撃に進発する部隊を追ひかけると

   向井少尉は行進の隊列の中からにこにこしながら」   って、


   向井少尉は、この丹陽の戦いで、膝を負傷して入院しているのだけど。

   向井少尉負傷入院の話は次で書きます。

1938年10月26日 日本軍漢口進入

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/22 15:49 投稿番号: [1784 / 2250]
児島襄著   『日中戦争5』   文春文庫


147p

《 冷雨にぬれた街道には、中国軍遺棄屍体が散乱している。

波田支隊は、その屍体をおどりこえて行進した。

やがて中国軍敗兵に追いつき、進むにつれてその数は多くなったが、

日本側に相手を攻撃する余裕がなければ、中国側にも抵抗する戦意はない。

追いぬき、あるいは肩をならべて、ただ闇夜の道を同じ方向に歩くだけである。 》



149p

《 雨は、次第に小降りになっていたが、漢口市内の日本租界の火災は、

消防措置もとられぬまま、燃えつづけた。

海軍陸戦隊本部、正金銀行漢口支店、日本総領事館、東本願寺、

明治高等小学校、日本人倶楽部その他、

これはというめぼしい建物は軒なみに爆破炎上の対象となっている。



二軒の料亭のうち、 『福宮』   も類焼したが、 『妻鶴』   には

まだ火はおよんでいなかった。

火に遠い日本人住居は、すでに内部は掠奪されつくし、

そのいくつかの玄関の軒下に、中国人難民がうずくまって雨をさけていた。》



151p

《 午前十一時、

波田支隊は武昌城内の掃蕩を終え、一部は飛行場を占領した。

漢口、漢陽、武昌の武漢三鎮のうち、まず武昌が陥落したわけである。

その三十分間後、午前十一時三十分、漢口に南下してきた第二十三連隊の先頭の

第三大隊は、市内の江岸停車場に到着し、爆破された屋舎に日章旗をひるがえした。


つづいて、午後一時二十五分、軍艦   『八重山』   に将旗をひるがえした

近藤英次郎少将指揮の海軍遡江部隊が、漢口港に進出した。》

1937年12月1日〜3日揚子江啓開作戦

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/22 15:39 投稿番号: [1783 / 2250]
戦史叢書   『中国方面海軍作戦1』   457〜458p


《 12月1日に南京攻略の大海令が下った。

2日    陸軍部隊が既に江陰を占領した旨の情報があったが、

夕刻まで同方面に砲声が盛んに聞こえた。

また朝から珍しく敵大型機一〇機が上海、通州水道方面に来襲した。



前路警戒隊指揮官は午前、 「八重山」   の内火艇二隻を竹丸   (機銃武装)   の

護衛に付し、南水道クロッシングから段山上流約二・五浬   (カイリ)   までの

探掃を実施し、午後、掃海隊の曳船   (ひきぶね)   四隻をもって同所を清掃したが、

拘束機雷、水中障害物を認めず、よって主隊はクロッシングに進出した。



この日   「神川丸」   は第一警戒隊指揮官の指揮下に入り、許浦口に進出し、

その水上機は江陰閉塞線下流の予想敷設線に爆弾を投じたが誘爆せず、

敷設機雷の有無を確認するに至らなかった。



3日   江陰砲台は巫山砲台のほか、我が陸軍部隊の手に帰した。

この日から   「神川丸」   水上機隊は許浦口及び

クロッシング錨   (びょう) 地の上空直衛を開始した。

同隊は午前、午後各一回、ビッグツリー上流の機雷推定位置に爆弾を投下したが

誘爆を見なかった。なお左岸の龍潭港付近にはトーチカ陣地が発見された。



「鳥羽」   は   08:00、 クロッシング泊地発、南水道偵察の目的をもって

10:00   ころ揚沙鎮付近に進出、同艦陸戦隊は同地に上陸、

約一時間詳細に偵察したうえ昼ごろ帰投した。



巫山に砲四門あり、 「鳥羽」   に対し射撃準備中なるを認めた。

「蓮」   も同日朝、クロッシング泊地発、北水道を通過して

ビッグツリーの上流約一・五浬付近まで進出、

夕刻まで同地付近に仮泊して水路及び付近の状況を偵察して帰着した。

同艦も巫山に中国兵らしき者多数を認めた。



「堅田」   は潮時を利用し、段山沙西方水道から海北港沙北方水道一帯の敵情を

偵察すべきを命ぜられ、陸戦隊を揚陸、これを実施した。

掃海隊   (林少佐指揮   曳船四隻)   は、

スリーツリーの北東二、〇〇〇米までの南水道の清掃を完了した。》


つづく

1938年10月25日 蒋介石 「主導権は我に」

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/21 15:48 投稿番号: [1782 / 2250]
井本熊雄   著   『支那事変作戦日誌』
291〜292p


《 十月二十五日蒋介石は、

「……武漢の地位は重要であったが、我々の戦略は空間的には小問題で、

心を奪われて大目的を見失ってはならず、

時間的には一時の得失によって長期の政策をなおざりにすべきでない。

この故に我々は、全面戦争の過程における必然的な措置として、

武漢を放棄するに決定した。



これによって我々の軍隊は、この戦争で守勢から攻勢への転機を画することになる。

それはまた、この戦争の戦局転機の開始を示すものである。

これを誤って、戦勢不利とか退却とかに考えてはならない。

我国には、広大な領土と最大な人口と豊富な資源がある。

戦争の範囲が拡がれば拡るほど、我々の活動的な地位は強くなるであろう」



という声明を行い、これと同時に国民に告ぐる書を発表した。

その一節に、次の如く述べている。



「敵は一時武漢を占領したが、それは十一ケ月の月日を費し、

数十万にのぼる死傷者の犠牲を払わされた結果である。

しかも敵が手に入れたのは焦土と空っぽの郡市であった。

敵は武漢でわが主力を撃滅して、短期決戦に勝つという重要目的に失敗した。


今後我々は、全面的抵抗を展開するであろう。   わが軍の移動は、

退却であろうと前進であろうと、制限されない自由なものとなるであろう。


主動権は我々と共にあるであろう。

これに反し敵は、何一つ得る所がない。

敵は泥沼に深く沈んでますます増大する困難に遭遇し、ついには破滅するであろう」》



*   この声明で明らかなように、この戦争は中国の意思によって進められています。

   主導権は中国が持っているのです。

   蒋介石は、「日本は、短期決戦に勝つという重要目的に失敗した。」   と

   勝手に、妄想していますが、日本の重要目的は停戦和平です。

   中国が戦争をやめないから、仕方なく応戦しているに過ぎません。

   主導権を持っている中国が、和平を言えばいつでも、戦争は終わるのです。

1937年 トラウトマンの和平工作

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/21 15:36 投稿番号: [1781 / 2250]
戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   459pより


《 蒋介石は明らかにブリュッセル会議に期待を寄せていたが、

同会議は実質的成果を挙げずに十一月二十四日休会したので、

蒋介石は改めてトラウトマン大使の和平工作に期待を寄せ始めた。


十一月二十八日、トラウトマン大使は漢口で孔祥煕実業部長と会見、

二十九日には王寵恵外交部長と会談したのち、十二月二日、

徐謨外交部次長と同道して南京に行き、蒋介石と再び会談した。》



児島襄著   『日中戦争4』   176〜177p


《 蒋介石は、南京防禦態勢の未整に苦慮するうち、大使トラウトマンの来訪をうけ、

卒然として、ドイツの仲介を活用することを思いつき、財政部長孔祥煕にも通報した。

「為緩兵計、不得不如此耳」

緩兵は、すなわち時間かせぎである。



十二月一日には、ドイツ外相C・ノイラートが中国大使程天放に、

日本の軍事的勝利をくつがえすのは不可能に近い、

中国は一日も早く日本と   「和解」   すべきだ、と勧説した。



十二月二日、蒋介石はトラウトマンと会見し、次のように言明した。

日本側の和平条件にはそのご変化はないか、とたずね、

日本を勝者とみなす前提はうけいれられない、と指摘した。

日本側の条件が最後通告の性格であれば、それもうけいれられない。

そして、蒋介石は、中国側の条件として、



一、支那ハ   媾和交渉ノ 一基礎トシテ   日本ノ要求ヲ 受諾ス。

二、北支ノ 宗主権、 領土保全権、 行政権ニ   変更ヲ 加フ   ベカラザルコト。

三、独逸ハ 当初ヨリ   媾和交渉ノ 調停者トシテ   行動スベキコト。

四、支那ガ 第三国トノ間ニ   締結セラレタル   条約ハ、媾和交渉ニヨリ

   影響ヲ受ケザルコト。》



*   トラウトマンは日本側が和平条件の改訂を検討している事を知りません。

   しかしまー、蒋介石はどこまで、ずうずうしいのでしょう。

   日本が、善意で出した   「大幅に譲歩した和平案」   をけり、かつ、

   日本を侵略者呼ばわりして、国際連盟に訴えておきながら、

   その結果が、イマイチだからと、今度は、前の条件のままで、交渉させろとは。



   それも、日本を勝者とみなす前提はうけいれられない、とか、

   日本側の条件が最後通告の性格であれば、それもうけいれられない。とか、

   「一体、何さまのつもりか」、「本当に和平する気あるのか」

   と、言いたくなりますが、

   時間稼ぎが目的で、本当に和平する気が無いのなら、これは当然の行為でしょう。


   この話を受けて、ドイツから話が日本に行くのは、なぜか、12月7日になります。

1938年10月25日 蒋介石武昌脱出

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/20 18:56 投稿番号: [1780 / 2250]
児島襄著   『日中戦争5』   文春文庫
134p


《 十月二十五日、

蒋介石は、午前四時三十分ごろ、

武昌の   「国民政府軍事委員会委員長武漢行営」   を出発した。

夫人宋美齢が同乗した蒋介石の乗用車をはさみ、

第九戦区司令長官陳誠その他の側近をのせた車列は、

暁闇が濃い街をフルスピードで南に走りぬけた。



武昌飛行場には、六機の輸送機が待機している。

一行は、飛行場に到着すると、ただちに輸送機に分乗して離陸した。》

1937年12月2日 日本、安全区に対し回答

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/20 18:52 投稿番号: [1779 / 2250]
《 ラーベの日記12月2日

フランス人神父ジャキノを通じ、我々は日本から次のような電報を受け取った。

ジャキノは上海に安全区をつくった人だ。



電報一九三七年十二月一日   南京大使館(南京のアメリカ大使館)より

十一月三十日の貴殿の電報の件

以下は、南京安全区委員会にあてられたものです。       ジャキノ



「日本政府は、安全区設置の申請を受けましたが、遺憾ながら同意できません。

中国の軍隊が国民、あるいはさらにその財産に対して過ちを犯そうと、

当局としてはいささかの責も負う意思はありません。

ただ、軍事上必要な措置に反しないかぎりにおいては、

当該地区を尊重するよう、努力する所存です」



ラジオによれば、イギリスはこれをはっきりとした拒絶とみなしている。

だが我々の意見は違う。これは非常に微妙な言い方をしており、

言質を取られないよう用心してはいるが、基本的には好意的だ。

そもそもこちらは、

日本に   「中国軍の過ち」   の責任をとってもらおうなどとは考えてはいない。

結びの一文   「当該地区を尊重するよう、努力する所存……云々」   は、

ひじょうに満足のいくものだ。

アメリカ大使館を介して、我々はつぎのような返信を打った。



南京の安全区国際委員会の報告をジャキノ神父に転送してくださるようお願いします。


「ご尽力、心より感謝いたします。

軍事上必要な措置に反しないかぎり安全区を尊重する旨

日本政府が確約してくれたとのこと、一同感謝をもってうけとめております。

中国からは全面的に承認され、当初の要求は受け入れられております。

我々は安全区を組織的に管理しており、

すでに難民の流入が始まったことをご報告いたします。

しかるべき折、相応の調査をおえた暁には、

安全区の設置を中国と日本の両国に公式に通知いたします。



日本当局と再三友好的に連絡をとってくださるようお願い申し上げます。

また、当局が安全を保証する旨を直接当委員会に通知してくだされば、

難民の不安を和らげるであろうこと、

さらにまた速やかにその件について公示していただけるよう心から願っていることも、

日本側にお知らせいただくようお願いいたします。

                  ジョン・ラーベ     代表」



トラウトマン大使とラウテンシュラーガー書記官が漢口から戻ってきたのは、

ちょっとしたセンセーションだった。

ローゼンに事情を聞くと、これは委員会とは無関係だとのこと。

こっそり教えてくれたのだが、

大使は私が総統とクリーベルに電報を打ったことにかならずしも賛成ではないらしい。

あれは必要なかったと考えているのだ!

今日は時間がないので、あした大使を訪ねよう。

思うに、彼が戻ってきたのはドイツによる和平工作の件だろう。》



*   やはり、回答しなかったのは、南京攻撃が決まってなかったからなのですね。

   前日、南京攻撃が決定したので、さっそく回答しました。

   トラウトマンはこのあと蒋介石に和平を奨めます。

1938年10月25日 外国人ら爆弾を取り外す

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/19 18:41 投稿番号: [1778 / 2250]
児島襄著   『日中戦争5』   文春文庫


135p

《 十月二十五日

第九十四軍長兼武漢衛戍総司令郭懺は、

米総領事P・ジョスリンと難民区委員会代表R・ジャキノ神父の

申し出に苦慮していた。


神父は、難民区の管理を委員会にゆだねてほしい、

警官百人を特派してほしいといい、

総領事は、英国、フランス、イタリヤ各国代表も同意見だが

市内施設の爆破はやめてくれと、主張する。

漢口放棄は、既述したように、すでに前日に決定されている。》



139〜140p

《 英国の海兵隊員は、中国側の爆破準備を点検し、

「日本人所有の建物以外」   の外国人家屋、

「日本人所有の建物に隣接する家屋」   のすべてから、爆薬を除去した。


  午前十一時三十分、

武漢衛戍総司令郭懺は、南嶽山の蒋介石の   「爆烈破壊」   命令を受領し、

爆破を下令した。

しかし、爆音がひびき火煙が吹きあがったのは、日本租界の一部に限られていた。

英海兵隊の作業のほかに、

神父ジャキノが指導する難民区委員会のメンバーたちも、

せっせとダイナマイトをはずしまわっていたのである。》

1937年12月1日 南京攻撃が決まる

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/19 18:33 投稿番号: [1777 / 2250]
参謀本部の多田次長は南京攻略戦を阻止しようと努力していましたが、

いかんせん、状況が不利でした。

蒋介石は戦争をやめる気はないし、ラーベたちが安全区の承認を要求しています。

いつまでも返事しないわけにも行きません。

全てが、南京戦を進めたい下村第一部長の都合のいいように動いています。

下村第一部長は南京攻略の研究を進め、多田次長を説得しました。



戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   422〜423pより


《 参謀本部第一部では制令線撤廃のころから本格的に南京攻略の研究を始め、

また第一部長は、しきりに参謀次長の説得に努めたが、次長は容易に同意しなかった。

事変処理の政略的要求を強く考えていたためである。


一方、現地軍は再三にわたり督促の意見具申をなすとともに、

その第一線を無錫−湖州の線以西に進出させていた。



よって第一部長は、十一月二十七日、方面軍参謀長あて

「当部ニ於テハ   南京攻略ヲ実行スル   固キ決意ノ下ニ   着々審議中ナリ

未タ   決裁ヲ得ル迄ニハ   至ラサルモ   取敢ス   オ含ミマテ」

と打電した。   これに対し

「唯今 貴電ヲ見テ 安心ス   勇躍   貴意ニ副フ   如クス」

との返電があった。



第一部長はさらに熱心に次長に意見具申するとともに、二十八日、

すでに作成していた作戦指導要綱を説明して、ついに次長の同意を得た。

これからは一瀉   (いっしゃ)   千里に事が運んだ。


十二月一日、大陸命第七号により中支那方面軍の戦闘序列

(中支那方面軍司令部、上海派遣軍、第十軍から成る) が令せられた。

方面軍司令官は松井石根大将である。   同日、大陸命第八号をもって

「中支那方面軍司令官ハ   海軍ト協同シテ   敵国首都南京ヲ   攻略スヘシ」

との大命が下った。



また同日の大陸指第九号により、中支那方面軍司令官はその任務遂行のため

揚子江左岸の要地に一部の作戦ができること、

海軍との協同作戦については現地協定を実施すること、などが指示された。

この日、多田参謀次長は、方面軍のかねてからの要望により、

上海に到着し現地の実情を視察した。



二日、松井大将の上海派遣軍司令官の兼任が解かれ、

同軍司令官には朝香宮鳩彦王中将   (20期)   が親補された。

方面軍は、一日、南京攻略作戦のための命令を下達し、

隷下両軍を次のように部署した。



一   上海派遣軍ハ   十二月五日頃   主力ノ行動ヲ開始シテ   重点ヲ丹陽、

   句容道 方面ニ 保持シ   当面ノ敵ヲ 撃破シテ   麿盤山山系西方地区ニ

   進出スヘシ

   一部ハ   揚子江左岸地区ヨリ   敵ノ背後ヲ攻撃スルト共ニ

   津浦鉄道 及 江北大運河ヲ   遮断セシムヘシ



三   第十軍ハ   十二月三日頃   主力ノ行動ヲ起シ   一部ヲ以テ   蕪糊方面ヨリ

   南京ノ背後ニ   進出セシメ   主力ヲ以テ   当面ノ敵ヲ撃破シ

   リツ水附近ニ進出スヘシ   特ニ杭州方面ニ   対シ警戒スヘシ



これは一挙南京に向かい迫撃するのではなく、南京要塞の抵抗、部隊の態勢整理を考え、

磨盤山系西方 ― リツ水付近に進出して南京攻略を準備しようとするものであった。》

1938年10月24日 中国軍漢口への橋を爆破

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/18 18:48 投稿番号: [1776 / 2250]
児島襄著   『日中戦争5』   文春文庫
133〜134p


《 黄陂にあつまった将兵たちは、

はるかに漢口の方角に二本の火柱が神立するのを望見し、

夕刻にも、雷鳴のような爆発音を聞いた。



黄陂で見聞した火柱と爆音は、漢口への橋を爆破したものだが、

市内の日本租界の家屋と日本人所有であったビルには、

すでに掠奪されたあとにダイナマイトがしかけられ、爆砕の用意がととのっていた。

日本側に利用させぬため、マンホールの蓋をはじめ鉄類もいっさい除去され、

水道の破壊準備も完了した……。》

1937年 和平条件の改訂2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/18 18:43 投稿番号: [1775 / 2250]
つづき
戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   461〜462p


《 また、日支両国が本条約を誠意をもって履行するため約定する保障事項は



(一)   日本軍ノ進出セル地域ハ   非武装地域トナシ   現在スル日本軍ハ

   地方治安ノ恢復(かいふく)   ト共ニ   自主的ニ撤兵スルコト

   北支ニ於ケル重要地域   及 上海附近ニ於テハ   日支協同シテ治安ノ維持

   竝   (ならびに)   防共ノ為   支那警察隊ニ依ルノ外

   最小限度ノ日本軍ノ駐屯   竝 此 必要ノ軍事施設

   竝 主要交通ノ管理拡充ヲ   容認スルコト



(二)   支那ハ日本ニ対シ   北支五省ニ於ケル金融、関税処理、資源開発、

   交通通信管理等ニ関シ   特殊権益ヲ与へ   所要機関ノ存置ヲ認ムルコト

   日本ハ本条約   及 之ニ伴フ諸約定ノ実現ヲ   確認スルニ於テハ

   右保証ノ為ノ約定ヲ解除シ   之ニ伴フ権益中   保証ノ目的ヲ以テ

   保有セシ部分ヲ   支那ニ返還ス   之ト同時ニ日本ハ   支那ノ国権回復

   及 其復興等ニ   協力ノ目的ヲ以テ   従来ヨリ有スル   其 在支利権ハ

   当時ノ情勢ニ応シ   之ヲ支那ニ   返還スヘキ用意 アルコトヲ約ス



と定めた。

  本案は、十二月一日、参謀本部案とし、陸軍省の同意を得て大本営陸軍部案とした。》



*   この改定案では、居留民の被害に対する賠償が追加されていますが、

   逆に、従来の利権を支那に返還する用意があるとも書いてあります。

   戦闘では勝っているのに、ここまで譲歩しようというのです。

   しかし、こういう善人心は中国には通用しません。

1938年10月21日 広東占領

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/17 18:50 投稿番号: [1774 / 2250]
井本熊雄著   『支那事変作戦日誌』
281〜282p


《 十二日   〇三三〇、及川支隊   (第五師団の歩三大と山砲一大)   および

第十八師団は上陸を開始し、その成功を確認した後、

〇四三〇   第百四師団の上陸を命じ、同師団の上陸も成功した。



十二日未明上陸成功に伴い、軍は直ちに東江に向って突進するに決し、

各兵団は上陸に引続き突進を敢行し、悪路と炎熱を冒して所在の敵を撃破しつつ

十四日及川支隊および第十八師団は東江に達し、同日横瀝墟を、十五日恵州を占領した。

第百四師団は所命の進路を前進し、十五日平澤坪附近に達した。


(中略)


増城附近の敵数ケ師は、増江右岸において防戦を企図しているやに見えたが、

軍の急速な前進に伴い戦意を喪失し、指揮混乱しているように判断せられた。

そこで軍司令官は、各兵団の集結を待つことなく、

第十八師団を引続き広東に向って突進させ、第百四師団を増城附近に推進させ、

及川支隊を従化附近に進出して、軍の右側を掩護するように部署した。



第十八師団は二十日払暁、一挙に増江右岸の敵陣地を突破し、

反撃して来る敵を随所に撃破しつつ、

主力を以て増城−広東道に沿い広東に向って突進し、

二十一日追撃隊   (上野亀甫少将の率いる歩三大、砲一大、軽装甲二中)

を以て広東に突入して、これを占領した。》

1937年 和平条件の改訂1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/17 18:46 投稿番号: [1773 / 2250]
参謀本部では、戦線が進展したために、従来の和平案を改訂する研究を進めていました。


戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   461p


《 参謀本部第一部第二課第一班   (戦争指導班)   では、十一月二十四日、

大本営政府連絡会議のあったその日   「現下緊急対策」   案を作成し

「現戦果ヲ拡張強化シツツ   速ニ   南京政府ト   日支全般問題ヲ

一括解決スルコトニ 諸般ノ措置ヲ講ス」   の方針のもとに、

各種対策を考究し、班長高嶋辰彦中佐が参謀次長に意見具申した。



次長は同意し、時機をみて最高国策を動かす決意をもったようであった。

次いで同班では、至急、軍の思想統一を図るため、

堀場一雄少佐が 「支那事変解決処理方針」   案を起案した。

その趣旨は



「事変解決ハ   日支間全般ノ問題ヲ   一括シテ根本的ニ   之ヲ行フモノトシ

其交渉ハ   日支直接ニ之ヲ行ヒ   第三国ノ干渉ヲ許サス

其過程ニ於テ   第三国善意ノ内面的斡旋ハ   之ヲ認ムルモ

正式交渉ニハ   関与セシムルコトナシ



解決条項中   満洲国ニ関係アルモノハ   両国ニ対シ別途承認セシムルノ処置ヲ執ル」

「解決ノ斡旋 又ハ   交渉中ト雖   (いえども)   支那側カ   全要目承認ノ時期迄ハ

休戦スルコトナク   所要ノ作戦行動ヲ継続ス」   とし、

次いで締結方針を述べ、締結条項としては



(一)   支那ハ 満洲国ヲ正式承認スルコト

(二)   支那ハ 北支 及 内蒙ニ   夫々 日満支互助共栄 及 防共強化ノ具現ヲ

   容易ナラシムヘキ政権ヲ   樹立スルコト

(三)   支那ハ   排日及反満政策ヲ   放棄スルコト



(四)   支那ハ   防共政策ヲ確立シ   日満両国ノ同政策遂行ニ協同シ

   尚満洲国ト共ニ   日独伊防共協定ニ   参加ヲ約スルコト   日満支三国又ハ

   何レカガ三国以外ノ国ヨリ   受クル侵略   特ニ武力侵攻   及

   共産赤化工作ニ対シテハ   三国商議ノ上   直接若ハ間接ニ

   協同防衛ノ措置ヲ執ルコト



(五)   日本ハ支那ノ新上海建設ニ関シ   協力スルコト

(六)   日満支三国ハ   資源開発物資交易   航空連絡交通等ニ関シ

   所要ノ互恵的協定ヲ   設定スルコト

(七)   支那ハ本事変ノタメ   日本居留民ノ受ケタル損害ニ対シ

   補償ノ責ニ任スルコト



(八)   日本ハ   本条約ノ成立ト同時ニ   左ノ諸協定ヲ廃棄スルコト

   梅津 ・何應欽協定、河北停戦協定、 土肥原 ・ 秦徳純協定、

   上海停戦協定 (昭和七年)

としている。》


つづく


*   この改定案では、居留民の被害に対する賠償が追加されています。

   これまでは、賠償すら求めていなかったのです。

   これほど譲歩していたにも関らず、それを蹴って侵略呼ばわりしていたのですから、

   中国の悪質さがうかがわれます。

1938年10月21日 梅思平 汪兆銘に報告

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/16 15:53 投稿番号: [1772 / 2250]
児島襄著   『日中戦争5』   文春文庫
179p


《 特派員梅思平は、十月二十一日、重慶にとび、

上司である中央宣伝部長周仏海と協議し、

汪兆銘にこれまでの経緯を報告して、 「蹶起」   をうながした。

汪兆銘は、はじめて聞くことでもあり、即答はさけた。


しかし、やがて武漢が陥落すると、汪兆銘の   「和平心」   は強化され、

特派員梅思平のほかに外交部情報司日蘇科長周隆庠を派出した。》

1937年 海軍の揚子江啓開準備

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/16 15:48 投稿番号: [1771 / 2250]
戦史叢書   『中国方面海軍作戦〈1〉』   454p


《 遡江作戦準備    陸軍作戦の進展に伴い、江陰閉塞線を突破し、

水路を啓開し、陸軍と協力敵首都を攻略する企図の下、



長谷川司令長官は

二十五日、第二警戒部隊に江陰水路啓開を準備すべきを命じ、

第十一戦隊に駆逐艦二隻、砲艦一隻を、第一港務部に曳船四隻を、

「出雲」 に掃海員を、それぞれ派出して、右に協力すべきを命じ

二十六日、 第一水雷隊を上流警戒隊に編入した。



二十六日、 「鵲」   は段山沙上流でジャンクを威嚇砲撃した。

二十七日、 「蓮、栂」   及び   「出雲」   運用長林紫郎大尉指揮の

掃海用曳船四隻は徐六芤口沖に到着した。

第一水雷隊は、劉海沙付近に敵兵を認めずと報告した。

二十八日、 「蓮、栂」   及び曳船四隻は   「クロッシング」   付近に

進出し、上流水路啓開準備を行った。



二十九日、 長谷川長官は第二警戒部隊指揮官あて、江陰付近水路啓開を下命した。

「蓮」   艦長指揮の掃海艇隊は二十九日午後、

「クーパー・クロッシング」   水道の一部を略掃した。

三十日、第一水雷隊司令指揮の上流警戒隊は、

第一水雷隊   (隼欠) 、蓮、栂、掃海用曳船四隻をもって   「クロッシング」   より

上流の水路を啓開中、巫山、蕭山砲台から砲撃を受けた。



交戦約一時間、発射弾は各艇一〇〇発に達し、

巫山は沈黙したが、蕭山の敵砲の射程が我より大であったので、一応避退した。

この間、艦上から江陰の閉塞線が望見された。》

1938年 土肥原機関 呉佩孚工作3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/15 15:36 投稿番号: [1770 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
20〜21p


《 呉佩孚工作はこうして早くも絶望的な暗礁に乗り上げてしまった。

しかし、土肥原中将はよく隠忍して、北支軍と呉佩孚の和解につとめ、

次のような協定を結んで、円満解決を図ろうとしたのである。



  一、呉佩孚は日本軍占領地においては匪賊を招撫しない。

    また北京では当分、政治活動を行わない。

  二、呉に帰順した匪賊は臨時政府の指揮をうける。

  三、新中央政府の軍隊は未占領地だった黄河の南岸で匪賊を招撫して編成し、

   北支軍はその編成を援助する。

  四、黄河河畔の開封に弁事処を設け、呉佩孚が政治運動を行い、

   軍隊を招撫する事務所とする。



ところがそのとき張燕卿という男が、勝手に呉佩孚の代理となって協定に調印した。

そして呉佩孚には日本軍と協定を結んだことを隠して、

北支軍と協力して招撫工作を黄河南岸の敵地区にまで広げ、

招撫事務所を開封に設けることになったとだけ報告した。



そのため呉佩孚は、占領地においては匪賊の招撫が禁ぜられ、

せっかく彼に帰順した匪賊は、臨時政府に引き渡さなければならなくなった

協定が結ばれたことも知らないで、

北支軍が心を改めて積極的に自分に協力してくれるようになったのはうれしいと、

話を全然逆に解釈していた。



すっかり気をよくした呉佩孚は、

今度は新政府樹立に乗り出すいま一つの条件として、世論の推戴を強く要求した。

そこで張燕卿は、この要望にそうべく和平救国会を組織した。》



つづく

1937年 「百人斬り」 記事 第一号

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/15 15:31 投稿番号: [1769 / 2250]
第16師団は29日常州に進出しました。

ここで、向井・野田の両将校は、カメラマン佐藤振寿氏と会い、写真をとっています。



日本軍の二将校・百人斬り競争   〔昭和12年12月1日付大阪毎日夕刊〕


《【常州にて二十九日光本特派員発】

常熟、無錫間の四十キロを六日間で破った○○部隊の快速は

これと同一の距離の無錫、常州間をたつた三日間で破ってしまった。

神速といはうか何といはうか、仮令   (たとへ)   ようもないこの快進撃の

第一線に立つ片桐部隊に、「百人斬り競争」   を企てた青年将校が二名ある、



しかもこの競争が無錫出発の際初められたというのに、

一人はすでに五十六人を斬り、もう一人は二十五人斬りを果たしたという。

一人は富山部隊向井敏明少尉   (山口県玖珂郡神代村出身)、

もう一人は同部隊野田毅少尉   (鹿児島県肝属郡田代村出身)   である 、



この二人は無錫入城と同時に直ちに追撃戦に移った際、どちらからともなく、

「南京に着くまで百人斬りの競争をしようじゃないか」   という相談がまとまり、

銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀   「関の孫六」   を撫でれば、

野田少尉も無銘ながら先祖伝来の宝刀を誇るといった風で互いに競争するところあり、

無錫進発後向井少尉は鉄道路線北六、七キロの線を大移動しながら前進、

野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになり、

いったん二人は分かれ分かれになったが、



出発の翌朝、野田少尉は無錫をさる八キロの無名部落で敵トーチカに突進し、

四名の敵を斬り伏せて先陣の名乗りをあげたが、

このことを聞いた向井少尉は奮然起って、その夜、横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み、

五十二名を斬り捨ててしまった 、

その後野田少尉は横林鎮で九名、威野関鎮で六名、

最後に廿九日常州駅で六名と合計廿五名を斬り、

向井少尉はその後常州駅付近で四名を斬り記者等   (光本、浅海、安田各本社特派員)   が

駅に行ったとき、この二人が駅頭で会見してゐる光景にぶつかった 、両少尉は語る、



<向井少尉> この分だと南京どころか丹陽で、俺の方が百人くらい斬ることになるだろう、

   野田の負けだ、俺の刀は五十六人斬つて歯こぼれがたった一つしかないぞ

<野田少尉> 僕等は二人とも、逃げるのは斬らないことにしています、

   僕は○官をやつているので成績があがらないが、丹陽までには大記録にしてみせる



記者らが、「この記事が新聞に出ると、お嫁さんの口が一度にどっと来ますよ」   と

水を向けると、何と八十幾人斬りの両勇士、ひげ面をほんのりと赤めて

照れること照れること百人斬り競争!/両少尉、早くも八十人 》



*   「トーチカに突進し、四名の敵を斬り伏せ」だって?


   コンクリートで固めたトーチカの機関銃相手に、日本刀で突撃ってか?

   よく、生きて、たどりつけたね。

   乃木大将の部下が、みんなこうだったら、二〇三高地は、犠牲者 0 で落とせたのに。



   向井少尉は砲兵隊の小隊長だから、大砲でやった方が早いのだけど。

   56人の敵兵は、たった一人の向井少尉に切られるまで、反撃せずに待っていたのかな?

   砲兵隊の小隊長が、本職の大砲を使わず、勝手に持ち場を離れて、

   敵陣に切り込みなどしたら、軍法会議にかけられると思うが。

   その前に機関銃で蜂の巣になって、靖国に祀られるか。


   まー、これだけバカバカしいと、軍の検閲係も、笑って通すだろうな。


つづく

1938年10月12日、汪兆銘 日本の条件を考慮

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/14 14:48 投稿番号: [1768 / 2250]
児島襄著   『日中戦争5』   文春文庫
178〜179p


《 汪兆銘は、武漢戦で京漢線の信陽が陥落し、

日本軍第二十一軍が広東攻略のためにバイヤス湾に上陸した十月十二日、

英   『ロイター』   通信記者のインタビューに応じて語った。



「日本が提出する和平条件が、中国の国家としての存続を妨げなければ、

討論の基礎にすべきであろう」



この言葉は、これも既述した日本との和平交渉をこころみていた

元国民政府外交部亜州司長高宗武らを、勇気づけた。

司長高宗武は、香港で病床に伏し、

かわって中央宣伝部香港特派員梅思平が、ほそぼそと日本側と連絡していた。》

1937年11月29日ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/14 14:39 投稿番号: [1767 / 2250]
十一月二十九日

《 シュペアリングから電話。   王固盤が辞任し、後任が指名されたとのこと。

スマイスは、

「こんどの警察庁長は、警察といっしょに逃げ出すようなことはないだろう」

と言っている。もしそうだとしたらこれは初めてのいいニュースになるだろう。



十六時に会議。たとえ日本が承認しなくても、なんらかの手を打たなければ。

ローゼンから電話。

日本人は安全区に関する提案に応ずるかどうかまだ検討中だといってきたという。

もしかしたら祖国ドイツからなにか働きかけがあったのではないだろうか。



それにしても唐生智がしたような発言   (『南京を死守する』   云々)   は、迷惑千万だ。

司令官というのはそういうものかもしれないが、やつはとかく大見得を切りたがる。

まともに防衛できもしないくせに、よくもそんな口がきけたもんだ。

われわれはこの揚子江のデルタ地帯で文字通りの袋の鼠だというのに。



持ち物を整理していたらたまたま総統の写真が出てきた。ヒトラー・ユーゲントの

リーダー、パルドゥア・フォン・シラッハの詩が添えられている。

(詩は省略)

これを読んでふたたび勇気がでた。

ヒトラー総統はきっと力になってくださる。私はあきらめない。



「君やわれとひとしき素朴で飾らない人」   であるあの方は、

自国民だけでなく、中国の民の苦しみにも深く心を痛めてくださるにちがいない。

ヒトラーの一言が、彼の言葉だけが、日本政府にこの上ない大きな影響力をもつこと、

安全区の設置に有利になることを疑う者は、我々ドイツ人はもとより、

ほかの外国人のなかにもいない。

総統は必ずやそのお言葉を発してくださるだろう!



十八時。イギリス文化会館で定例会。

そのとき、市長が国際委員会の発足を正式に発表した。

私はいった。我々はすべての大使館から道義的な理由によって支持されており、

アメリカ大使館を通じて上海の日本大使にすでに電報を二本打った。

そして個人的にヒトラー総統およびクリーベル総領事にも打電した、と。



「ただ、総統からの回答は期待できないと思います。 この種のきわめて

微妙な外交問題は、おそらく他の方法で処理されると思われるからです。

ですが、その一方で、

私には総統が援助を拒否されるはずはないという確信があります。

あともう二、三日待っていただきたい。

なぜなら、日本から承諾を得ることについて、まだ諦めたわけではないからです」



蒋介石は委員会に十万ドルの寄付を申し出た。

私はカルロヴィッツ社のクレーガーを財務委員として推薦した。

これは承認され、クレーガーは快く引き受けてくれた。

また、例の家   (寧海路五号)   に住んでもらえないかと頼んだところ、

これも承知してくれた。


ドイツ国旗を掲げているのに、

内政部を警備している兵士にトラックが没収されてしまった。

唐の代理である龍上校   (大佐)   に電話して返してもらったときには、

夜の十一時になっていた。》



*   ラーベは、30余年中国にいるため、ヒットラーを知らない。

   立派な人格者と勘違いしている。

1938年10月12日 広東作戦バイアス湾上陸

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/13 18:43 投稿番号: [1766 / 2250]
広東作戦の目的は、英国からの対中支援物資を止めて、

戦争を終結させることにあったのです。



井本熊雄著   『支那事変作戦日誌』

271〜272p


《 広東作戦の目的はいうまでもなく、当時としては支那沿岸唯一の

大輸血口とも称すべき香港からの対支援助物資の流入を阻止して、

蒋政権の抗戦力を弱化し、できればこの占領によって敵に与える衝撃を

漢口作戦と相まって戦争終結の契機としたいところにあった。》



*   海軍は前から広東への爆撃を実行していました。

   しかし、陸軍が実際に占領しない限り、物資の輸送は止まりません。



280〜281p

《 軍は十月九日、第五艦隊護衛の下に馬公出発、敵の妨害を受けることなく

十一日薄暮バイアス湾口に到達し、

十二日   〇二一五   泊地進入を了った。


別に十隻の一船団は、十日馬公を出発し、

十二日未明   汕頭入口の企望湾に到り陽動した後、

十四日バイアス湾に到着した。

・・・・

十二日   〇三三〇、及川支隊(第五師団の歩三大と山砲一大)

および第十八師団は上陸を開始し、その成功を確認した後、

〇四三〇   第百四師団の上陸を命じ、同師団の上陸も成功した。》

1937年11月28日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/13 18:35 投稿番号: [1765 / 2250]
十一月二十八日


《 昨日、蒋介石と話し合った結果についてのローゼンの報告。


「防衛は、この町の外側だけか、それとも内側でも戦うのか」   という質問に対して、

「われわれは両方の場合にそなえている」   という答えが返ってきた。


次に、   「もしも最悪の事態になった場合、だれが秩序を守るのか、つまりだれが

行政官として残り、警察力を行使して暴徒が不法行為を行わないようにするのか」

という質問に対する蒋介石もしくは唐の返事は、

「そのときは日本人がすればよい」   というものだった。



言いかえれば、役人はだれひとりここには残らないということだ。

何十万もの国民のために、だれも身をささげないとは……。

さすが、賢明なお考えだ!


・・・

今日の午後、ラジオでは、安全区に関して何もいっていなかった。


十五時。スマイスの家で行われる会議のため、シュペアリングが迎えにきた。

この会議で、フィッチを正式に役員に、

杭立武を中国側の顧問に任命することになっていた。

日本から返事をもらうまでは、これ以上動けないということで意見が一致した。



ミルズがいった。客観的にみて、南京の防衛など馬鹿げている。

それより穏やかに明け渡した方がよいのではないか。

できるだけ早いうちに中国の最高権力者である蒋介石と唐将軍に

そのことを伝えるべきではなかろうか。

だが杭立武の意見はちがう。今はその時期ではないというのだ。

結局、日本政府から承認されるまで待とうということになった。



十六時半に散会。あまり成果はなかった。なにもかも中途半端だからだ。

十八時にイギリス文化会館で会議。

郵便局長の李奇氏は、郵便局が正式に閉鎖されることになったと伝えた。

けれどもポストの郵便物は時々回収されるので、手紙を投函することはできるという。

リッチー氏は少し興奮しているようだった。

彼の部下は大勢いてこれまでよく働いてきたが、そっくりいなくなってしまうのだ。



人々の話では、日本軍は蕪湖より六十キロ離れたところにきていて、

三日後にはこちらに着くという。

だがそれはおかしい。そんなことは不可能だと思う。



会議で、中国語で印刷された大きな紙をもらった。

中国兵に襲われないよう、ドアに貼れというのだ。

今日、ドイツ人顧問の家が兵士に押し入られたそうだ。

もっともこれはすぐに解決した。



寧海路五号の新居に、今日、表札とドイツ国旗を取り付けてもらった。

ここには表向きだけ住んでいることにするつもりだ。

うちの庭ではいま、三番目の防空壕作りが急ピッチで進んでいる。

二番目のほうは、あきらめざるをえなくなった。水浸しになってしまったからだ。



警察庁長王固盤は、南京には中国人がまだ二十万人住んでいるとくりかえした。

ここにとどまるのかと尋ねると、予想通りの答えが返ってきた。

「できるだけ長く」   つまり、ずらかるということだな!》



*   南京の人口はこの時点で20万人だった。

*   中国では、何かあると暴徒が暴れまわるのが普通、

   そして中国兵が中国の民家を襲う、

   だから、ドアに貼り紙をせよとなる。

1938年 土肥原機関 呉佩孚工作2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/12 18:45 投稿番号: [1764 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
19〜20p


《 呉佩孚は、大迫少将が彼の時局収拾策に全く同意したものであると受け取った。

そして大本営派遣の大迫が同意したからには、北支軍も異存はないはずだと思いこみ、

さっそく匪賊を日本軍の占領地で招撫し、軍隊の編成に着手した。



そのころ華北の匪賊なるものは、いろんなものは合して百万を超えていた。

治安確保のためには、まずこれらを一掃しなければならないので、

北支軍は農村における討匪の手をどんどん広めていった。

一方、臨時政府も機構が充実してきたので、日本軍の討匪行と相まって、

華北の治安はようやく点と線から、面にまでおよんできたのである。



匪賊の側からみれば、これは大きな圧迫であった。

折も折、呉佩孚が招撫工作をはじめたので、

匪賊どもは日本軍の討伐からまぬがれるため、渡りに舟と喜んで招撫に応じ、

数万の匪軍がたちまち呉の足もとへ帰順してきた。



呉佩孚の私兵となった匪賊どもは、われわれは新中央政府の直系軍だといばりちらし、

臨時政府などは間もなく解消するだろうと宣伝した。

このため、まだ基礎の固まらない臨時政府の内部は非常に動揺した。

将来の不安をおもんばかって、逃亡する官吏や軍警が続出するという騒ぎだった。

こうした臨時政府の動揺は、日本軍の軍政や作戦の遂行に、

直接、間接影響するところが大きく、いろんな面で支障をきたすことが少なくなかった。



立腹した北支軍は、しばしば呉佩孚に善処を要望したが、

頑迷な老軍閥はいっかな応じる色も見せず、事態はいよいよ悪化してきた。

やむなく実力行使に移った北支軍は、帰順部隊の駐屯地を実力で回復して

臨時政府の行政地域に編入し、反抗する匪賊の討伐をはじめた。

呉佩孚工作はこうして早くも絶望的な暗礁に乗り上げてしまった。》


つづく

1937年 百人斬り新聞記事の発端

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/12 18:40 投稿番号: [1763 / 2250]
戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   420〜421p


《 上海派遣軍は、呉福陣地突破後、悪路を冒して追撃を続行し、・・・

第十六・第十一師団及び第九師団の主力は無錫に前進し、

二十三日から無錫東方既設陣地による敵を攻撃し、二十五日同地を占領した。》



この無錫において、向井少尉と野田少尉そして浅海記者は出会ったようです。

ここから、百人斬りの新聞記事の構想が始まります。



以下は   『正論』   2001年8月号   335〜336pにあった、野田毅少尉の手記です。

これは2001年三月上旬、鹿児島県田代町に住む野田氏の実妹、マサさん

(2001年当時七十二歳)   が保管していた遺品の中から、見つけたものです。

野田毅少尉の手記

新聞記事ノ真相

《・・・十年以前ノコトナレバ   記憶確実ナラザルモ   無錫ニ於ケル朝食後ノ

冗談笑話ノ一説   次ノ如キモノモアリタリ。



記者「貴殿等ノ剣ノ名ハ何デスカ」

向井 「関ノ孫六デス」

野田 「無名デス」

記者 「斬レマスカネ」

向井 「サア未ダ斬ツタ経験ハアリマセンガ   日本ニハ昔カラ   百人斬トカ

   千人斬トカ   云フ武勇伝ガアリマス。

   真実ニ昔ハ百人モ斬ツタモノカナア。 上海方面デハ鉄兜ヲ、 切ツタトカ云フガ」



記者 「一体無錫カラ南京マデノ間ニ   白兵戦デ何人位   斬レルモノデセウカネ」

向井 「常ニ第一線ニ立チ   戦死サヘシナケレバネー」

記者 「ドウデス   無錫カラ南京マデ   何人斬レルモノカ   競争シテミタラ  

   記事ノ特種ヲ探シテ   ヰルンデスガ」



向井 「ソウデスネ   無錫附近ノ戦斗デ   向井二O人野田一O人トスルカ。

   無錫カラ常州マデノ間ノ戦斗デハ   向井四O人野田三O人、

   無錫カラ丹陽マデ六O対五O、 無錫カラ句容マデ九O対八O、

   無錫カラ南京マデノ間ノ戦斗デハ   向井野田共ニ百人以上ト

   云フコトニシタラ、 オイ野田ドウ考ヘルカ、 小説ダガ」

野田 「ソンナコトハ実行不可能ダ、 武人トシテ虚名ヲ売ルコトハ

   乗気ニナレナイネ」



記者 「百人斬競争ノ武勇伝ガ   記事ニ出タラ   花嫁サンガ殺到シマスゾ

   ハハハ、 写真ヲトリマセウ」

向井 「チョット恥ヅカシイガ   記事ノ種ガ無ケレバ気ノ毒デス。

   二人ノ名前ヲ貸シテアゲマセウカ」

記者 「記事ハ   一切記者ニ任セテ下サイ」



其ノ後被告等ハ   職務上絶対ニ   カカル百人斬リ競争ノ如キハ   為サザリキ。》



*   ここでの、向井少尉の善意での空想話が元となり、

   百人斬りの話が捏造されました。

1938年 土肥原機関 呉佩孚工作1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/11 18:48 投稿番号: [1762 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
18〜19p


《 呉佩孚は国民党の力がまだ弱かったころ、

中国の大半を一時支配した旧軍閥の巨頭であったが、

軍閥仲間の争覇戦に敗れ、十数年前に北京に引退した時代の敗残者である。

当時六十七歳だったこの老兵は、時代の推移さえも知らぬ頑迷な男だったが、

軍閥華やかなりしころの彼の声望が今でもあるとうぬぼれて、

政界への復活の機会を虎視たんたんとしてねらっていた。



土肥原中将はこうした男を、これ幸いとばかり利用しようと図ったのである。

呉佩孚は   「中央政府をつくってはどうか」   とすすめる大迫少将に対して、

次のようなことを述べた。



「事変は私が調停すれば片づくであろう。

もし天下の世論が私が調停に立つことを希望すれば調停の労をとってもよい。

しかし、調停に立つ前にそれを重慶政府に強要して受諾させることができるだけの

実力を養っておきたい。そのためには華北の匪賊を招撫したい。

私が命令すれば匪賊はすぐ集まる。匪賊を軍隊に改編して手兵とし、

彼らが支配していた土地に善政をしけば、軍、政の実力は容易に養える。

基幹となる軍隊ができたら政府をつくって行政区域を広げ、臨時政府を解消する。

蒋介石が調停をきかないときは、新政府の行政区域を重慶まで広げて、

事変を解決すればよい」



それは全く途方もない話だった。

日華事変を日華軍閥の争いのように昔ながらの眼で見た彼は、

匪賊を招撫して養った実力と軍閥当時の声望をもってすれば、

調停は容易に成功すると思ったのだった。

さすがの大迫少将も、この古色蒼然たる男の政治的手腕には、

いささかも期待をかけることができなかった。



ただ大迫少将は、新政府樹立の機運を中国の有識者層の間に醸成するため、

呉佩孚を利用したいと考えた。

つまり呉佩孚に、時局収拾のため草廬から出馬して新政府を組織すると

天下に声明させて、新政府樹立の機運をみなぎらせようと思ったのであった。



そこで呉佩孚には切に出馬を希望したが、もちろん彼を利用する下心があるため、

誇大妄想に近い老軍閥の時局収拾方策なるものに対しては、

その場では強いて反対もしなかった。

頑迷な呉佩孚に真っ向から理非を解けば、話がこじれるに決まっている。

それよりもうまく機嫌をつくろって、早く出馬させる方が得策と考えたからであった。



呉佩孚を一たん舞台に引き出してから、

後でゆっくりと彼が演じようとする芸の中で、

日本側にとって都合の悪いところをやめさせようとしたのだ。》



つづく

1937年11月 安全区の承認を求めるラーベ

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/11 18:40 投稿番号: [1761 / 2250]
ラーベの日記11月25日


《 ラジオによると、非戦闘員の安全区に対して、

日本はこれまでのところ最終的な回答をよこしていない

上海ドイツ総領事館を通じて、おなじく上海にいるラーマン党地方支部長に頼んで

ヒトラー総統とクリーベル総領事*に電報を打とうと決心した。

今日、つぎのような電報を打つつもりだ。



   在上海ドイツ総領事館。

   党支部長ラーマン殿。つぎの電報をどうか転送してくださるようお願いします。

    総統閣下

   末尾に署名いたしております私ことナチ党南京支部員、当地の国際委員会代表は、

   総統閣下に対し、非戦闘員の中立区域設置の件に関する日本政府への好意ある

   お取りなしをいただくよう、衷心よりお願いいたすものです。

   さもなければ、目前に迫った南京をめぐる戦闘で、

   二十万人以上の生命が危機にさらされることになります。

ナチ式敬礼をもって。         ジーメンス・南京   ラーベ



    クリーベル総領事殿

   本日私が総統へお願いしました日本政府に対する非戦闘員安全区設置に関する

   お取りなしについて、貴殿のご尽力を心よりお願いする次第です。

   さもないと、目前に迫った戦闘での恐るべき流血が避けられません。

   ハイル・ヒトラー!    ジーメンス・南京および国際委員会代表   ラーベ



   *ヘルマン・クリーベルは一九二三年のヒトラーによる反乱に加わり、

    ヒトラーと共に禁固刑を受けた。だがこの頃にはヒトラーへの進言など、

    とうにできない立場にあった。



電報代を考えてラーマン氏は後込   (しりご)   みするかもしれない。

そう思ったので、費用は私が持つからとりあえずジーメンスに

請求してくださいと付け加えた。



今日は路線バスがない。全部漢口へ行ってしまったという。

これで街はいくらか静かになるだろう。



まだ二十万人をこす非戦闘員がいるというけれども。

ここらでもういいかげんに安全区がつくれるといいが。

ヒトラー総統が力をお貸しくださるようにと、神に祈った。》



*   ラーベは気をもんでいるが、

   日本が回答をよこさないのは、まだ、南京攻撃が、決まってないからだろう。

   ラーベ達は、南京戦は当然という前提で   「 安全区を」   作っているが、

   日本は、上海で戦争を終わらせるつもりで、中国の飲める和平案を出していた。

   それを蒋介石が蹴った為、南京へ行くか、留まるかでもめている最中なのだ。



   南京で戦争すると決めてもいないのに、南京の   「安全区を認めろ」   と

   言われても返事の出来る筈がない。

  「安全区を支持する」   と言えば、自動的に南京戦を決めた事になる。

   さりとて、蒋介石が和平を拒否している以上、 「南京戦は無い」   とも言えない。

   よって、「安全区は不要」   とも言えない。

   だから、返答ができないのだろう。

1938年 土肥原機関に暗雲 唐紹儀暗殺され

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/07/10 18:52 投稿番号: [1760 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社


18p

《 土肥原中将は、唐紹儀を首班に推し、

呉佩孚を側面から協力させて新中央政府の骨幹とし、十月末に新政府を成立させ、

それまでに広西軍を寝返らせようと諸般の準備を進めた。


ところが唐紹儀は十月はじめに上海で暗殺され、

広西軍の寝返りもちょっと見込みがないことがわかり、

新政府の樹立工作はここに全く挫折した。


だが土肥原中将は容易に計画を捨てず、

今度は呉佩孚を中心とした新政府を立てようとした。》
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