入って中国人に南京事件真相議論しましょう
Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー
東中野がどうしたって?
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/07 20:35 投稿番号: [1294 / 2250]
くそみたいな文、一々読んでないが、彼の代わりに言っておこう。
「オマエに言われたくない」
だな。
まー、人間、ミスもする。
読んでないから、それがミスかどうか知らないが、どうでもいい。
お前の引用している、証拠の杜撰さに比べれば、一万倍、いや一億倍はまともだろう。
終り
これは メッセージ 1284 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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Re: 虐殺事件を否定しない日本の辞典
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/07 19:35 投稿番号: [1293 / 2250]
くだらん
辞書に書いてあれば真実か?
支那事変の最初から、欧米は、中国に加担していた。
中国が戦争を仕掛け、日本がやむなく応戦している事実を知りながら、
中国の言う
「日本が侵略している」
という嘘の訴えを採用し、日本叩きに利用した。
中国軍を裏から指揮していたのはドイツ軍将校だった。
上海爆撃を指揮したのは、元米軍のシェノールト。
中国が上海攻撃を始めるとソ連は中国と条約を結んで、
大量の武器や飛行機、パイロットや資金を送り込み、中国を援けた。
英国は上海で中国軍に武器や食料を与え、租界を利用させた。
米国は、日本を伝染病になぞらえ、隔離せよと宣言した。
汪精衛 (兆銘)
が重慶から出てきて、和平の話をしようとしたとき、米国は妨害した。
《 汪精衛の側近だった胡蘭成氏によると、
「汪精衛が重慶を出るとき蒋介石と話をつけていた」そうだ。
「建前として蒋介石が抗戦を担当し、汪精衛が講和を担当する。
うまく行けば講和に移ると。
汪精衛は東京で話を聞いてから上海に帰り、蒋介石に打電した。
『これで私の役目は終わった、本番は貴方に頼む』
と。
ところが、この時、既に事情が異なっていた。
米国が中国に“軍事物資の援助をするから”と言って蒋介石に講和を止めさせた。
結果、汪精衛は裏切り者にされたと。》
(胡蘭成著『日本及び日本人に寄せる』日月書店
昭和54年1月発行より要約引用)
米国は、中国には、講和に応ずるなとやっていた。
日本には、戦争をやめろと言うくせに。
戦争を仕掛けている中国がやめないのに、仕掛けられている日本がどうやって止められる。
後ろを向いたら攻撃されるのだ。
盧溝橋事件の時も、引き上げようとしたら、攻撃された。
停戦協定結んで、安心していると攻撃された。
だから、戦争が終わらないのだ。
英米が日本の手の届かないビルマなどから、軍事物資を送る為、中国は戦争を止めない。
日本としては、中国に戦争を止めさせるには、援蒋ルートを断つしかない。
そこで、北部仏印に進駐すると米国は、屑鉄の輸出をとめ、
中国に資金を送り、飛行機やパイロットを送り、義勇軍を編成させた。
日本が南部仏印に進駐すると、石油を止め、ABCD包囲網を敷き、
ハワイに艦隊を終結させ、カムラン湾にオトリ船を游弋させ、
経済交渉ではハルノートを突き付けて、日本からの一撃を待った。
こういう連中の書く事が公平か。
戦後の日本の言論界は、東京裁判史観に洗脳されている。
最初は本当の戦争を知る者がいたが、その人たちが亡くなっていくにつれ、
虚構の歴史が幅を利かせるようになった。
ただそれだけだよ。
これは メッセージ 1284 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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第二次南京事件1 領事館襲撃2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/07 18:52 投稿番号: [1292 / 2250]
児島襄著
『日中戦争1』
文春文庫
63〜65p
《 暴兵と暴民は、荒れ狂った。
事務所、職員宿舎、使用人室、物置きその他、館内の隅々まで先きをあらそって
走りこみ、トランクをあけ、戸棚をこわして物品を略奪した。
男女の別なく、衣服を奪われ、財布、時計、指環は例外なく奪取されたほか、
次々に服をぬがされて身体検査までされた。
女性の場合は、帯、タビはむろんのこと下着までぬがされて
「忍ブベカラザル」
検査さえ、実施された。
「強姦ノ事実ナシ。尤モ、二
(ふたり)
ノ婦人ニシテ
強姦予備行為トモ 思ハルベキ所作ヲ 受ケタルモノアリ」
とは、後日の森岡領事の報告であるが、かりに
「強姦ノ事実」
はなくても、
女性たちは、一人の暴兵が去ればまた次の暴兵……と、
くり返してハダカにされては
「検査」
されるのである。
女性の叫喚、悲鳴、子供の泣き声が暴兵の罵声と掠奪の騒音をさいてひびき、
日本人男性たちの胸をついた。
荒木大尉と水兵たちも、あまりの無念さに気失寸前の状態となったが、
ともかくも館内にいる邦人のうち五十二人が子供であり、
うち十二人が乳児なので、その安全のために我慢をつづけた。
暴兵と暴民は、その子供たちからもオモチャを奪い、靴をむしりとり、
フトン、家具、調度品などとともに馬車、トラックではこび出した。
領事森岡正平の病室にも暴兵が乱入し、室内の品を奪ったあと、
領事のフトン、寝間着もはいで行った。
一人の暴兵が領事めがけて威嚇射撃をおこない、居あわせた邦人数人が逃げ、
領事のほかに夫人、木村三畩署長、根本博少佐の三人が残った。
「外ニ出ヨウ」
領事がベランダに出たとたんに、一人の暴兵が走りこんできて、
木村署長は左胸を銃剣で刺されて階下に逃げ、根本少佐は後続した二人の暴兵に
左腹部、左臀部を刺され、ベランダの下の貯水槽に転落した。
暴兵たちは、ひとわたり館内を荒らしまわると、事務所の大金庫に関心を集中した。
銃床でたたいたり、鉄棒でこじあけようとするが、あかない。
発砲してもダメなので、館員、邦人の誰れ彼れとなく鍵の所在を質問したが、
成果は得られず、次第に興奮度を高めた。
領事夫妻は、ベランダにいたが、裏庭に避難した邦人たちが、
暴兵が車庫からガソリンを持ちだして放火しようとしている旨を告げた。
領事は夫人にたすけられて階下におり、館員の一人が秘匿していた大金庫の鍵を
炊事場の煙突の破口に投げこんで、一同と合流した。
根本少佐ら負傷者は流血のまま横たわり、文字どおりに身ぐるみはがれた男女が、
ただ子供たちを抱きしめて恐怖する様子は、悲惨であった。
暴兵は、なおも一同にせまり、交互に銃剣をつきつけては大金庫の鍵を要求しつづけた。
午前十時半ごろ、ようやく一人の中国軍将校があらわれ、
暴兵を叱咤し殴打して、暴行を制止した。》
69p
《「…金物という金物はドアのハンドルにいたるまで取り外し、窓枠の木材、ガラス、
床板すべてが持ち去られ…」
とは4月末に領事館を訪ねた佐々木到一中佐の記録》
*
女性に対する
「身体検査」
とは強姦の事実を隠す “外交辞令” で、
実際には27人に輪姦された婦人もいたとの話もあります。
これは メッセージ 1291 (kireigotowadame さん)への返信です.
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第二次南京事件1 領事館襲撃1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/07 18:43 投稿番号: [1291 / 2250]
昭和元年 (1926年) 蒋介石は、他の軍閥を倒して中国を統一する為、
北伐を開始しました。そして昭和2年3月24日、国民党軍は南京に入ります。
ここで、暴虐事件が発生しました。
児島襄著
『日中戦争1』
文春文庫
61〜63p
《 領事森岡正平は、国民革命軍が入城した以上は
「十中八九危険ハ去リタ」
と判断し
・・・中国側を刺激しないようにすべきだ、と考え、荒木大尉に〝武装〟 撤去を求めた。
大尉は承知して、土のう、機銃を撤去して、正門も開いた。
午前七時ごろ、約三十人の国民革命軍兵士が訪ね、敗兵の所在を訊ねたが、
不在という返事をきくと黙って退去した。
日本人一同がますます安心していると、
約三十分後、こんどは五十人ほどの兵士が
「疾風ノ如ク」
領事館事務所に乱入して、
警察署長木村三畩の所持品を奪い、左腕に貫通銃創をおわせた。
同時に、居合せた陸軍武官根本博少佐も腰を銃床でなぐられ、
署長と少佐は領事の病室に避難した。
二人が逃げると呼笛が吹き鳴らされ、すかさず平服の女性と青年を先頭にした
兵士約二百人が、喚声をあげて領事館内になだれこんだ。
掠奪品運搬のためか、トラック、馬車、人力車までが続行した。
乱入者は、意味のない叫声やかけ声のほかに、スローガンも唱えていた。
「日英帝国主義打倒!」
「華俄(中ソ)一家!」
あるいは、中国人から奪った日本人の財産をとりもどせ、という意味の声もきこえた。
もっとも、それらスローガンの叫びは、少数の指導者のものらしく、乱入者の大部は、
金をだせ、かくすと殺すぞ、といった表現をくり返しては、館内をわれがちに物色した。
領事森岡正平は、荒木大尉を自室に呼んで頼んだ。
「気ノ毒乍ラ
各兵ノ階級章
及帽子ノ如キ標識ヲ
一時取り去ラレ度」
領事の報告によれば、荒木海軍大尉と水兵十人は官邸北側の
「ボーイ」
室に
退避していたが、館内の避難邦人の間から、大尉たちの軍装が中国側を
刺戟
(しげき)
する恐れがある、との意見が出たので、
領事も
「右ハ不得己
(やむをえざ)
ル要求」
と判断して、大尉に要請した、という。
荒木大尉は、血相を変えた。
国家と国民を外敵から守るのが、軍人の本務である。
いまや、準日本領土である領事館と日本国民がおそわれている。
それなのに、戦うな、というだけでなく、軍装も解け、と領事は、いう。
軍人が軍装を解かれるのは、退官の場合を除けば、 「敵ノ軍門ニ下ル」
か、
犯罪行為により軍籍を剥奪されるとき以外にはない。
一戦もこころみずにそのような
「恭順」
姿勢を示すのは、
軍人としてはあまりにも不名誉である。
いや、その種の
「度ヲ過ゴシタル無抵抗主義」
は、相手の自制心をさそうどころか、
かえって増長心を刺戟して暴行を激化させるのではないか……。
荒木大尉は、しかし、 「在留民ノ生命ガ
風前ノ灯火ニモ
比スベキ時」
だから、と
病床に深々と頭をたれる領事を凝視すると、とっさに承知した。》
つづく
これは メッセージ 1278 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月2日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/07 18:36 投稿番号: [1290 / 2250]
一月二日
《本部の隣の家に日本兵が何人も押し入り、
女の人たちが塀を越えてわれわれのところへ逃げてきた。
クレーガーは、防空壕の上からひらりと塀をとび越えた。
塀はひじょうに高いのだが、警官がひとり手伝ってくれたので、
私もあとを追おうとした。ところが二人ともバランスを崩して落ちてしまった。
さいわいかなり太い竹の上だったので、竹が折れただけで、けがをせずにすんだ。
その間にクレーガーは兵たちをとっつかまえた。やつらはあわてふためいて
逃げていった。ただちょっと様子を見にきただけだというのだ!
十日前、銃剣でのどを突かれた近所の奥さんを鼓楼病院に運んだが、
今日ようやく退院が許された。入院費は一日当たり八十セント。
お金がないというので、私がかわりに払った。
日本軍の略奪につぐ略奪で、中国人は貧乏のどん底だ。
自治委員会の集会がきのう、鼓楼病院で開かれた。演説者が協力ということばを
口にしているそばから、病院の左右両側で家が数軒焼けた。軍の放火だ。
自治委員会の代表でありかつ紅卍字会のメンバー、孫氏がもったいぶって私にいった。
「ある重要な件につき、近いうちにお話ししたいのですが」
どうぞどうぞ!
とっくに心づもりはできている。お宅たちがなにを狙ってるのかなんざ、お見通しだよ!
安全区の通りは、あいかわらず見渡すかぎりの人の海だ。
何千というおびただしい人々が道ばたにたたずんでいる。
値段の交渉をしている人もある。
道路の両側には行商人が鈴なりになって、食料品、タバコ、古い衣服を売っている。
だれもが日本の腕章や国旗をつけてとび回っている。
横町や道路の間の空き地には、藁小屋が所せましと建ち並び、難民村ができている。
わが家と同じ光景だ。うちの庭には、もはや草一本生えていない。
美しかった生け垣もあっという間に踏みつぶされ、見る影もなくなった。
なにしろ大人数だ、しかたあるまい。なによりまず生きることが先決なのだ!
昨夜、またしても日本兵の乱暴があいついだ。
スマイスが書きとめ、いつものように抗議書として日本大使館に提出した。
我々がひそかにおそれていたことがついに起こった。中国の爆撃機がやってきたのだ。
といったからといって、けっして友人としてではない。敵としてだ!
かつての日本軍のように、時間どおりに爆弾を落としていく。
だが、いままでのところ、幸いなことにたいていは同じ場所、
つまり南の飛行場かその近くに限られている。
日本の防空部隊が姿を現したが、人数も少なく、いとも手薄だった。
空襲がこのまま安全区の外にとどまるかどうかは、あとになってみないとわからない。
だが、そうであってほしい。
さもないと、いままでよりもっと悲惨なことになるかもしれないのだ。
いまの安全区の混み具合ときたら、日中は上海よりすごい。
そんなところに一発爆弾が落ちたが最後、ものすごい数の人命が失われるのだ。
そう思っただけでぞっとする。》
*
「日本軍の略奪につぐ略奪」・・・「軍の放火だ。」・・・「道路の両側には
行商人が鈴なりになって、食料品、タバコ、古い衣服を売っている。」
とラーベは言っているが、おかしいと思わないのだろうか。
その商人はどこから品物を仕入れたのか?実は、彼らこそが略奪の犯人で
証拠隠滅のために放火しているとは考えられないのか?
これは メッセージ 1273 (kireigotowadame さん)への返信です.
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◆虐殺事件が否定される当然の理由⑤
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/07 00:44 投稿番号: [1289 / 2250]
当時の国民党や八路軍の連中がどれだけ酷いことをしてきたか。
ニューヨーク・タイムズのダーディン記者が、当時の様子を「支那軍による焼き払いの狂宴」と題して次のようにレポートしています。
「昭和12(1937)年12月7日、日本軍が句容を越えて進撃し始めたことが支那軍による焼き払いの狂宴の合図となった。
南京に向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。
村ぐるみ焼き払われたのである。
農業研究書、警察学校その他多数の施設が灰塵に帰した。
火の手は南門周辺地区と下関(シャーカン)にも向けられた。
支那軍による焼き払いの損害は優に3000万ドルにも及ぶ。
これは日本軍の何ヶ月にもわたって行われた空襲による損害よりも大きい。」
そしてこの12月7日に、蒋介石や馬超俊市長は、自分たちだけさっさと飛行機で逃亡しているのです。
つまり、蒋介石や馬超俊市長は、それまで南京を国民党の本拠地としていながら、日本軍が近づいたと知るや否や、20万の市民と約5万の敗残兵を置き去りにして、そくさくと逃亡している。
あまりにも無責任です。
一方、南京攻略をした松井軍司令官は、攻城戦に際して、南京市内の安全区に対する砲爆撃を厳禁し、占領翌日の14日には、安全区の出入り口全てに歩哨を立てて許可のない者の入区を禁止して庇護してもいます。
実際、14日に安全区の視察のため入区しようと思ったが、歩哨に峻拒(しゅんきょ)されて果たせなかったという東京裁判の供述もある。それほど厳しく安全区内への出入りを管理していたのです。
金陵大学病院医師マッカラム氏は、東京裁判に提出した日記の中で次のように述べている。
「(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。
若干のたいへん愉快な日本兵がいました。
私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました」
日本人を憎悪していたマギー牧師でさえ
「安全区は難民の“天国”だったかも知れない」とさえ述べている。
安全区国際委員会の書記長スマイス博士(米)も、その調査報告書の中で「住民のほとんどはここに集まっていた。難民区内は一件の火災もなく平穏であった」と述べている。
それほどまでに日本軍は、市街地の統制をきちんと取り計らっていたのです。
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◆虐殺事件が否定される当然の理由④
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/07 00:44 投稿番号: [1288 / 2250]
南京に従軍した村田和志郎氏(第18師団歩124歩兵伍長)の日記に、こんな記載がある。
<引用>
湖州は浙江省の首都、呉興県政府の所在地。
城壁をはいると家屋は焼けて一面の焼け野原となり、殆ど瓦礫の巷と化していた。
とくに商店街は影も形もなく、処々に多数の支那兵の死骸が生々しい姿で倒れ転がっていた。誠に見るも無残な有様であった。
街には人影がみられない。
それでもどこからか若い女が三人でてきた。
我々の姿を見ると、彼女らは我々をぽつんと残った唯一の焼け残りの小屋へ招きいれ、いち早くズボンを脱ぐと、進んで下半身を丸出しにした。
助けてくれと一心にわれわれを拝んだ。
我々は三名で巡察の途中で思いかけぬ出来事に遭遇してしまった。
一人は娘、残る二人は人妻らしい体つきだった。
自分達は彼女らをそっとして置いてやった。
それでも恐怖に怯え、彼女ら三人はおののいて、脱いだ紺色のズボンを容易に身につけようとしなかった。
体を提供しても生命さえ助けてもらえれば、これに越したことはないと観念していたかに見えた。
また、ある民家では中年の女性が寝てうめいており、下半身を露出して指さして示し、何かわからぬ言葉を喋っていた。
支那兵は逃亡の際、この女性に迫り、拒絶されると腹を立て、銃剣を一突きにそこに突き刺したに違いなかった。
夥しい出血で苦しんで訴えている。
すぐに治安維持会(既に結成されていた中国人の自治組織)に連絡して看護員を連れてきた。さて助かったかどうか。
このようにして略奪と暴行のあとを見せつけられた。
<引用終わり>
当時の支那には、政府がありません。
清が滅びて、地方軍閥による内乱状態にあった。
内乱状態の中で、被害を受けるのは、決まって武器を持たない一般市民です。
そして武器を持った支那の軍閥の代表格が国民党だった。
彼らは、支那の都市を襲い、市民に対して好き放題の乱暴狼藉を働いていた。
日本は行きがかり上、やむなく、彼らを追い払っていたのです。そしてそのひとつが、南京だった。
南京市は、乱暴狼藉軍団である国民党が、勝手に乱入して本拠地にしていたから、日本は叩いたのです。
そして市民の生活に平安を取り戻した。
なかには、市民にまぎれて、日本軍に悪さをしかける国民党のスパイや、共産党のスパイがいた。
こうした連中は、市民の協力を得て、日本軍は逮捕し、国際法上適法な範囲で軍紀に照らして処罰した。そういう連中は治安維持のために殺害した。これは当然のことです。
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◆虐殺事件が否定される当然の理由③
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/07 00:43 投稿番号: [1287 / 2250]
だいたい、戦いの最中にドンパチやりながら、「使用弾薬何発。残り弾薬数何発」と、何度も伝令を出して司令部に報告を入れなければならないのが日本の軍隊です。
それだけ日本軍は物資に乏しかった。
そのあたり、使っている武器にも、その性格がよく出ています。
日本軍の主力銃は、三八指揮歩兵銃です。
この銃は、いわゆる元込め式の単発銃です。
弾を一発一発込めて、装填してから撃つ。
いわゆる「乱射」や「集団虐殺」のようなこと自体、なじまないのです。
ハナからそういうことを想定した銃ではない。
だいたい単発銃で、30万人をいったいどうやって殺すのか。
30万人に、1発ずつ銃弾を撃ち込んで殺すとしても、それには30万発の弾薬がいります。
そんな弾薬、日本軍は持っていません。
機関銃で殺したに違いない?!
バカなことを!
当時の日本軍の機関銃は、米国製の1秒間に何発という高性能機関銃ではない。
パン・・・パン・・・パン・・・と断続的に撃つのが精いっぱい。1分間に打てる弾はおおむね40発。しかも5分も撃ったら過熱して、砲身を冷やさないと、焼き付いた。
お暇な方は計算してみてください。それで30万人殺すには、いったい何日かかるのか。
かつてそのことを指摘した人がいます。
そしたら支那いわく「日本兵は日本刀で、何万人も斬り殺した」
バカをいっちゃぁいけません。日本刀はたしかに切れ味鋭いけれど、3人も斬ったら、脂にまみれて斬れなくなる。人間の体というのは、脂にまみれて斬れなくなった刀でも通せるほどヤワじゃないです。
加えて、当時のシナ人の便服というのは、めちゃめちゃ生地が厚い。銃剣で突き刺そうとしても、素人では刃が立たなかったというのも、有名な話です。
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◆虐殺事件が否定される当然の理由②
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/07 00:42 投稿番号: [1286 / 2250]
いまでは真っ赤な左翼になっている朝日新聞も、入城した12月13日から12月30日までの1ヶ月足らずの間に、5回にわたって半ページ大の組写真の南京特集を連載しています。
その第1回が「平和甦る南京」(17日)で、早くも避難民が続々と帰り、畑では野良仕事が始まっている。
第2回が「きのふの敵に温情」(22日)、支那軍負傷兵を治療、投降兵に給食などしている写真、
第3回が「南京は微笑む=城内点描」(25日)、子供と遊ぶ兵隊さんの姿、賛美歌を合唱する50人ほどの女性など。
第5回「手を握り合って越年」(30日)、支那人の靴屋さんが日本兵の靴の修理、ヒゲの隊長が婦人にミルクを配給するなど、「日に深む日支親善風景」が写されている。
南京陥落と同時に入城した新聞・雑誌記者、カメラマンは、外国人記者を含めて約150名といわれていて、他にも大宅壮一、野依秀一、杉山平助、木村毅、西條八十、草野心平、林芙美子、石川達三といった著名な評論家、詩人、作家等が入城し、東京都世田谷区よりも狭い南京城内外(約40平方キロ)を取材し、視察しています。
そしてそのうちの誰一人として、非戦闘員の虐殺などは見ていないのです。
松井大将は12月23日、平穏に復帰した市内を視察して上海に帰り、2回にわたり外人記者団と会見をしているが、その席でも“虐殺事件”など話題にものっていない。
そして日本軍は、12月30日には、南京市の住民による自治委員会を設置し、1月1日付でこれを公示、1月3日には、南京自治委員会の結成式を中山路の鼓楼で行っています。
この日、鼓楼前には、南京市民約3千人が、5色旗と日の丸の旗で盛大な旗行列を行い、結成を祝福しています。
さらに、朝日新聞は1月3日付けの新春号に5段抜き凸版見出しで、
「南京・今ぞ明けた平和の朝」と大きく報道し、
「建設の首途(かどで)を飾り/光と水のお年玉/萬歳・電燈と水道蘇る」と題した1月1日発の近藤特派員の電報をのせています。
そのリード文には「光と水の不足から苦しい喘ぎを続けていた首都南京も新春を迎へて蘇ったやうに力強い息を始めた。
大晦日の夕方5時から南京市内の主なる街々に思いがけない電燈がつき、それと同時に水道まで景気良くほとばしり出たのである」とあります。
つまり国民党軍が敗退時に破壊していった水道や変電所などの電源を、日本軍と中国の労務者が協力して年末ぎりぎりには復興までしているのです。
南京は12月10日から水道は止まり、電気はつかず、水飢饉と暗黒の都市となっていたのです。
日本軍は入城と同時にこれの復活に着手した。
技術将校以下80名と、中国人電工70名の班編制で、水道も同様に150名の編成で不眠不休、激烈な戦闘の疲れも忘れて取り組んだといいます。
朝日新聞はその日本軍技術者と中国人技術者が協力して電気・水道の復旧作業に取り組んでいる半ページ大の組写真を掲載しています。
それがなんですか。日本軍が侵略して南京で30万人の市民を虐殺した?
冗談じゃないです。ま逆です。日本軍は南京を攻略して、乱暴者無法者集団である国民党を追い払い、20万人の無辜の市民を救い、彼らの生命と財産を守ったのです。
それを、まったく正反対のねつ造史を、さもあったことのように偽装する。言語道断です。
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◆虐殺事件が否定される当然の理由①
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/07 00:40 投稿番号: [1285 / 2250]
南京攻略した日本軍の先兵の記述によると、国民党軍は戦闘を放棄し、南京市内で略奪の限りを尽くす中国兵士たち。
当時の中国軍には、「占領されるくらいなら何もかも破壊してしまえ」との考えがあったそうで、南京以外にも日本軍が攻め込む前に村ごと焼き払って敗走した事が何度もあったそうです。
南京市民から略奪した後は、国民党軍の殆どが敗走し、一部が奪い取った衣服を身にまとい国際法に抵触する便衣兵となって、日本軍が占領したあとも散発的なゲリラ行為を続けてたそうです。
こうして、便衣兵を処分したのですが、それも武装解除してから市街追放する程度で、当時の「処分」=「処刑」とは違うわけです。
勿論抵抗した便衣兵やそれに疑われた人物がその場で射殺されたこともあるでしょうが、南京での死亡者の殆どがこの類であり、その数は決して多くはなかったのです。(抵抗する捕虜や便衣兵の殺害は戦場においては正当なる行為です)
当時の記録でも日本軍が南京を占領してから数万単位で人口が増加してる事実。
非常に危険だった中国大陸においては、国民党軍が治めてる地域よりも日本軍が治めている南京の方が安全と判断したからこその人口増なんですよね。
追記
日本軍が攻めてくるというのに、これから攻められる南京城に逃げ込む馬鹿がどこにいるというのでしょうか。
安全な山や草の生い茂った野原に逃げ込んで身を隠すに決まっているでしょう。
国民党軍にしても共産軍にしてもゲリラ戦術を取っていたんですから真正面から戦闘を挑んでくる訳がないのです。
南京市の人口20万人の中の中国軍のほとんどが我さきに逃げ出して、南京城はほとんど空っぽだったと考えるのが当然だし、それが歴史の真実だったでしょう。
石井松根大将らの南京入場の映像からもそれは伺い知ることが出来るのです。
そして日本軍が撤退した3ヶ月後に、人口が25万人へと5万人も増えたのは周辺の町から南京城へ避難した人たちによって膨らんだからに違いないのです。
何故ならば、安全区以外にいる一般中国市民は、日本のスパイとみなされて共産軍によって虐殺されるかもしれないからです。
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虐殺事件を否定しない日本の辞典(5)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/06 21:24 投稿番号: [1284 / 2250]
『歴史学事典7
戦争と外交』(平成11年初版
弘文堂)には、
かなり詳しく
解説されている。
その一部を
抜粋してみよう。
【南京事件
なんきんじけん】
「日中戦争初期、当時の中国の首都南京を
日本軍が攻略・占領
した際に
中国軍民にたいしておこなった、虐殺、強姦、掠奪、
放火、拉致、連行などの
戦時国際法と
国際人道法に反した
大規模な残虐行為の総体。南京大虐殺事件、略称として南京事件
という。単に南京大虐殺ともいう。」
「激戦3カ月におよび甚大な損害を出した(中略)上海派遣軍は
疲弊して
軍紀も弛緩していたうえに、休養も与えられず、補給
体制も不十分なままに難行軍を強いられたため中国軍民に対する
むきだしの敵愾心と破壊欲を増長させ、虐殺、強姦、掠奪、放火
などの残虐行為を重ねながら
南京に進撃していった。」
「12月4日前後に
中支那方面軍は、中国軍の
南京防衛陣地
(南京特別市行政区に重なる)に突入、南京の県城・農村地域から
日本軍の残虐行為が開始された。
南京城区には40〜50万人
(南京攻略戦以前の人口は100万人以上)、近郊の6つの県には
100万人前後(同じく150万人以上)の市民が残留していたが
日本軍は
これらの膨大な中国民衆を
巻き込んで、南京防衛軍に
対する
徹底した包囲殲滅(皆殺し)作戦を
実施した。」
「同作戦は、戦時国際法に違反して、自ら武装解除した投降兵・
敗残兵あるいは武装解除された捕虜までもすべて殺害することに
なった。
一般民衆も
敵対行為、不審行動をする『敵国民』と
判断された場合は
殺害された。
日本軍は、12月13日
南京城を占領した後、17日の南京入城式に備え、徹底した
残敵掃蕩作戦を展開、長江沿岸などで捕虜および投降兵の大量
処刑を行った。」
「武器を捨て、軍服を脱ぎ捨てても中国兵であった者、中国兵
と思われた者は
すべて
殺害したので、多くの市民、難民が
巻き添えにされて犠牲になった。
さらに、日本軍には戦勝の
『慰労』として10日間前後の『休養』が与えられ、総勢7万
以上の日本軍が
南京城内に進駐、勝利者、征服者の「特権」
として強姦、掠奪、暴行、殺戮、放火などの不法行為を行ない
南京事件は頂点に達した。
その後、第16師団が
駐屯して
軍事占領を続け、38年3月28日に
中華民国維新政府が
成立するまで、日本軍の残虐行為は続いた。」
以上、引用した
弘文堂編纂の歴史学事典の解説は、これまで
引用した辞書・辞典の中でも
南京事件の実相をかなり正確に
述べている。
たとえば、日本軍が
南京に進撃する途上から
残虐行為を開始していたこと、南京城占領後の不法行為の事実、
また
その原因と
経過についても
あきらかにしている。
なお
この事典には
さらに
次のように付記されている。
「70年代から80年代末にわたり、歴史事実か
『虚構』
『まぼろし」かをめぐって
いわゆる『南京大虐殺論争』が
展開され、家永教科書裁判の
争点にもなったが、いずれも
否定論が敗れた。犠牲者数の確定は困難であるが、現段階の
日本側の研究では、十数万から20万人の
中国軍民が
犠牲になったと推定する説が
有力である。」
これは メッセージ 1283 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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虐殺事件を否定しない日本の辞典(4)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/06 21:24 投稿番号: [1283 / 2250]
『グローバルライブラリーシリーズⅡ
アジア・アフリカ事典』
(97年第1刷発行
教育出版センター)P.716の記述を見よう。
この事典では、南京虐殺事件に関して、次のように説明している。
なんきんぎゃくさつじけん
南京虐殺事件
「日華事変(日中戦争)中の1937年12月13日〜15日に、
南京を占領した
日本軍が引き起こした
虐殺・略奪事件。
さまざまな矛盾に直面した
近衛内閣は、『国内相剋の解消』
を
侵略戦争によって
解決しようと
はかった。」
「こうして
政府および軍部は、中国大陸への侵略を本格化した。
日本軍は当初、長期戦争を
予期してはおらず,当時国民政府の
あった南京を占領すれば、中国は抗戦を断念するであろうと判断
していた。
しかし中国は、共産党の働きかけによる国共合作を
成立させ、持久戦にもちこんだ」
「その結果、日本軍は三光作戦を展開し、中国全土で強姦、虐殺、
略奪を
ほしいままにした。
その典型が
南京事件である。」
「エドガー=スノーの『アジアの戦争』
によれば、南京だけで
4万2千人以上、南京への進撃途上で30万人以上が、殺された。
そのうちの
ほとんどは、『無抵抗』の
婦人・子供であった。」
上記の事典の記述でも、先に引用した『現代アジア社会事典』の
解説と同様に、虐殺事件の期間を
12月13日〜15日だけに
限定するかのような表現がある。
ただし、一方で
南京に至る侵略戦争の経緯、さらに、南京への
進撃途上でも
婦人や子どもを含む多くの非戦闘員が殺害された
という事実を述べている点では、より正確な内容となっている。
もう一冊、別の歴史辞典も
開いてみよう。
『角川
世界史辞典』(01年初版発行
角川書店)P.687-688
【南京事件】についての
説明は、以下のとおりだ。
「①1927年に南京で発生した国際事件(略)」
「②1937年12月、日本軍が南京の中国軍民に加えた大規模な
残虐事件。南京大虐殺といわれる。(略)日本は12月13日に
中国の首都南京を占領した。その際住民を巻き込んだ包囲殲滅
作戦を実施、すでに戦闘を放棄した膨大な数の敗残兵、投降兵、
捕虜、負傷兵を集団で殺害した。」
「さらに残敵掃討作戦を実施し、敗残兵狩り、
便衣兵(市民服の兵士)狩りを行って
成年男子市民を
集団虐殺した。
軍紀の乱れから
中国女性を強姦する
婦女凌辱行為や食料・物資の略奪、人家を放火・破壊する不法
行為も多発した。
南京城内とその周辺の農村を含め20万人
前後の中国軍民が犠牲になったと
推測されている」
角川世界史事典の説明でも、期間については
12月13日の
占領直後から掃討作戦が行われていた間に限定しているように
読み取れるが、一方で、南京城内に加えて
周辺農村も含めて
軍民、つまり
兵士と民間人ともに
多くの犠牲が出たことや、
その原因に日本軍の軍紀の乱れがあった事実にも
触れている。
どの辞典でも、おおむね正確に事件概要を記述しているようだ。
これは メッセージ 1282 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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虐殺事件を否定しない日本の辞典(3)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/06 21:22 投稿番号: [1282 / 2250]
『現代アジア社会事典』(75年第1版第1刷
大和学芸図書)
P.315「南京虐殺事件」の項には
次のように記述されている。
【南京虐殺事件】
「1937年12月の南京占領にさいし、
日本軍が
中国軍の兵士および一般市民多数を虐殺した事件」
「軍命令による
中国軍民の大虐殺が行われたのは、日本軍が
同市を占領した
37年12月13日から、中支那方面軍松井
石根大将を迎えて入城式があげられた
同17日の前夜までの
4日間であった。
だがその後も
『敗残兵狩り』
と称して
虐殺は続けられた。
また市内全域は2か月にわたり、個々の
日本兵によって、いわれのない虐殺・略奪・放火が
行われた」
「この事件は、日本敗戦後、極東軍事裁判でもとりあげられ、
判決では
この事件の中国人犠牲者の総数を
20万人前後と
いっている。
このほか、極東軍事裁判では
とりあげられな
かったが、南京付近の
長江(揚子江)一帯では
13万人の
避難民と兵士が虐殺され、死体が長江に投げこまれ、川の水は
鮮血でまっかになっていたといわれている。」
「この事件は、当時南京にいた
外国人記者
3人によって
詳しく報道され、たちまち全世界に知れわたったが、日本では
敗戦の日まで
その事実が
ひたかくしに
かくされていた」
上記の
『現代アジア社会事典』の解説の中で
気になる点は、
大虐殺が行われた期間が、12月13日から始まり2ヶ月間に
わたり行われた、としている部分だ。
実際には、南京市攻略戦は
12月初めから
開始されており、
5日には
第十六師団が句容を陥れ、第九師団は
南京防衛の
第一線陣地である淳化鎮を占領した。
第十軍の
第六師団と
第百十四師団も並行して
南京に向かって
急進撃していた。
第一線部隊は
先を争うように
南京に向かって殺到したため
それでなくとも滞りがちな兵站の補給が
追い付けなくなった。
各部隊は、現地徴発という名の略奪で
急場をしのぐほかなく、
当然、防衛線の攻防戦の際に
捕虜とした中国軍兵士の給養を
確保する手段もなかった。
投降した敵兵や逃げ遅れた住民は
過酷な運命に
さらされたことは、言うまでもない。
南京大虐殺事件の期間を
日本軍入場後の
13日から始まり
その後の敗残兵狩りの期間だけに限定するのは
至当ではない。
また、事件の範囲を南京城内だけに限定するのも
正しくない。
南京陥落前は戦闘中だから敵の殺害はしかたないという反論も
あるかも知れないが、戦闘中であっても、捕虜の殺害は違法で
あるし、ましてや
非戦闘員に対する略奪や暴行は許されない。
これは メッセージ 1281 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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虐殺事件を否定しない日本の辞典(2)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/06 21:21 投稿番号: [1281 / 2250]
たとえば
日本大百科全書(小学館)も、南京大虐殺について
客観的な事実であることを前提に、以下のように解説している。
「占領当日から翌日にかけての南京城内外における掃蕩戦では、
戦意を失った多数の中国兵を
掃射によって虐殺し、また以後
1週間ばかりの間に、捕虜や、民間人の間に
身を潜めていて
狩り出された敗残兵(便衣兵)の大部分が集団虐殺された。」
「戦死者を含めて中国軍の犠牲者は
10万を下らなかったと
推測される。これら将兵のほか、掃蕩戦で犠牲になった市民や
城外からの避難民、また敗残兵狩りの巻き添えで殺された市民も、
少ない数ではなかった。中国軍将兵に対する集団虐殺は明らかに
軍命令によるものであった」
さらに、被害の状況については、以下のように記述している。
「城内家屋の被害は軍事行動によるもの1.8%、放火13%
(主要実業街は平均32.66%)、略奪63%に及び、中国人
は南京に処女1人もなしと称した」
「日本軍は
遺棄死体
8万4000
と発表したが、現地の
慈善団体が組織した二つの埋葬隊の記録によれば、その埋葬数は
あわせて15万5337体
に上り、揚子江(ようすこう)岸で
集団虐殺されて
同江に投棄されたもの
その他を加えれば、
中国軍民の犠牲者は20万を下らなかったものと推測される」
上記百科事典は
各学術分野の研究成果に基づき、科学的視点で
まとめられており、相当の
準備期間と
綿密な編纂作業を経て
世に出されている書籍だ。
擬似科学や
オカルトを
主張する
トンデモ本とでは、情報の質・量とも
まったく比較にならない。
後者が垂れ流す情報ばかりを妄信して、世界に通用しない論説を
吹聴する一部の論者は、カルト教団の信者に
等しいものだ。
ちなみに、「トンデモ本」
に関係して言えば、「と学会」では
「トンデモ本の世界R」で、虐殺否定派の論客として知られる
東中野亜細亜大学教授の著書について
次のように評している。
「東中野教授がどんなデタラメな手法を用いているかが分かる。
些細な矛盾点を針小棒大に取り上げて証言全体を否定しようと
したり、文章を引用する際、歪曲して
正反対の意味にして
しまったり、都合の悪い記述は
無視する一方、信憑性の低い
資料を重視したり、まさに『好き勝手』
としか、いいようが
ないのだ。
南京大虐殺の
犠牲者数については、『三〇万人』
と『ゼロ』という
両極端のトンデモ説が
火花を
散らして
いるが、東中野教授の著書はその中でも特にインチキだらけの
ひどい代物
なのである」
たしかに
くだんの著書は、読んでみると
客観性に乏しく、
検証手法も
お粗末で、幼稚な内容と感じるものではあるが、
インチキだらけの
ひどいシロモノ
とは、ずいぶんとまた
手きびしい
酷評だ。
すくなくとも、東中野先生も
虐殺や
略奪の事実は認めている。
それを
合法化しようとして
さまざまな詭弁を
こねくりまわしているにすぎないのだ。
これは メッセージ 1280 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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虐殺事件を否定しない日本の辞典(1)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/06 21:21 投稿番号: [1280 / 2250]
留学生などの外国人が
日本に滞在していて驚くことのひとつが
大きな書店などに行くと
南京虐殺を「ウソ」「虚構」「マボロシ」
とする本が、店頭に
平積みされていること
だという。
また、テレビの番組で一部の評論家が、「南京大虐殺はなかった」
「外国人の捏造」
などと発言していることも
不思議だという。
さらに、電車の中吊り公告で目にする
週刊雑誌などの目次には
南京虐殺に関連して、「米中の情報戦による謀略」だとか、「反日
プロパガンダ」「自虐史観」「左翼・マルクス主義史観」
などの
文字が躍っているのを目にする。
そこで留学生たちは、日本の
社会では、南京虐殺否定論が
圧倒的なのだ
と考えてしまう。
しかし
実際には
そうではない。
少なくとも
日本政府の公式見解は、犠牲者数は認定できないが
日本軍により
多くの非戦闘員の殺害や略奪行為があったことは、
否定できない事実であるということで一貫して変わっていない。
また
出版物については、いわゆる「トンデモ本」
とよばれる
一部の自称研究家の著書を除けば、辞書・辞典類をはじめとして
歴史書、教科書、公式文書類は大虐殺を事実として記述している。
たとえば、日本で広く使用されている国語辞典『広辞苑』第四版
を開くと、【南京】の項目には
「南京大虐殺」
の小項目があり
「日中戦争で南京が占領された37年12月前後に南京城内外で
日本軍が
中国軍の投降兵・捕虜および一般市民を大量に虐殺し、
あわせて放火・略奪・強姦などの非行を加えた事件」
とある。
『大辞泉』では
【南京大虐殺】の解説として、「日中戦争初期の
昭和12年、南京を占領した日本軍による中国軍捕虜や一般市民
に対する大規模な略奪・暴行・虐殺事件」
としている。
『大辞林』も
同項目で、「日中戦争さなかの 1937 年12月
から翌年 1 月にかけて、南京を占領した日本軍が中国人に対して
行なった大規模な暴行略奪虐殺事件。
このとき殺された中国人の
数は、極東軍事裁判では
二〇万人以上、中国側の発表では三〇〜
四〇万人とされる。」
と説明している。
また、「詳解
日本史用語事典」(三省堂03年発行)
を開くと、
【南京大虐殺】
の項目には、次のように
記述されている。
「1937年12月、日本軍は
国民政府の首都
南京への攻略戦で
十数万人から20万人の
中国兵捕虜や民間人を虐殺し、略奪・
暴行・放火・強姦などの
残虐行為を行った。」
「欧米では
『南京アトロシティー(大虐殺)』
と報道され
国際的非難を浴びたが、日本国民には
知らされなかった。」
これらの辞書は、あくまでも言葉の意味を説明しているのであり
虐殺の内容や規模について解説しているものではない。
しかし
いずれも「〜という説である」
「あった可能性もある」という
表現ではなく、事実を指している言葉として
説明されている。
当然、「外国人によるウソ」
「反日勢力の用語」
などという
解説文は、どの辞書・辞典を探しても
見出すことはできない。
これは メッセージ 1248 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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長勇の 「ヤッチマエ」 は幕府山の間違いか
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/06 19:12 投稿番号: [1279 / 2250]
12月14日、山田支隊は幕府山で、婦女子・老人など非戦闘員を含む、
一万四七七七名の捕虜を獲ました。非戦闘員をより分け釈放しました。
15日、処置をどうするか、師団に問い合わせると、「始末せよ」
と言われました。
しかし、どうも本当の軍命令ではないようです。
というのは、上海派遣軍の飯沼参謀長が次のように日記に書いているからです。
◇十二月二十一日
大体晴
荻洲部隊山田支隊ノ捕虜一万数千ハ
逐次銃剣ヲ以テ処分シアリシ処
何日カニ相当多数ヲ同時ニ
同一場所ニ連行セル為
彼等ニ騒カレ
遂ニ機関銃ノ射撃ヲ為シ
我将校以下若干モ共ニ射殺シ
且ツ相当数ニ
逃ケラレタリトノ噂アリ。
上海ニ送リテ
労役ニ就カシムル為
榊原参謀連絡ニ行キシモ
(昨日)
遂ニ
要領ヲ得スシテ帰リシハ
此不始末ノ為ナルヘシ。
軍は、捕虜を上海に送って労役に使うつもりだったようです。
板倉由明著
『本当はこうだった南京事件』
141〜142p
《 榊原氏の証言
(一九八三年七月三日榊原主計氏自宅にて)
では、
捕虜は上海に送って労役をさせることにして、受け入れ準備のため、
上海に出張し、帰って捕虜受け取りに行ったら既に殺されていた、という。
どうも上海派遣軍司令部では、参謀長、副参謀長、担当参謀のいずれも
捕虜殺害の命令を出していないようである。》
では誰がそんな命令を出したのでしょうか?
上海派遣軍で考えられるのはただ一人、長勇参謀です。
彼には
「ヤッチマエ」
という有名な話があります。
第 6 師団が、17日に下関で捕まえた支那人十二、三万をどうするか、と
聞いてきた時、殺せと言ったという話です。
この十二、三万には民間人を含んでいます。
しかして、この時期に、第 6 師団が下関で十二、三万も捕虜をとれるわけがないし、
第十軍の第 6 師団が上海派遣軍の長勇にお伺いを立てられるわけもない。
長勇も命令できない。
話に辻褄があいません。
しかしこの問い合わせが、第 6 師団ではなく、第 16 師団なら辻褄があいます。
山田支隊は第 13 師団なのですが、第 13 師団本体は揚子江の北側にいて、
南京にはいません。
山田支隊は、第 16 師団の応援に呼ばれていますので、
問い合わせるべき師団は第 16 師団となります。
この第 16 師団が15日に上海派遣軍に問い合わせたとすれば話が通ります。
場所は下関ではなく幕府山で、日にちも違いますけど、
一万四七七七名を一桁上げれば十二、三万は近い数字です。
しかも、女・子供・老人が含まれています。
問い合わせたら、長勇が
「ヤッチマエ」
と言った。
長勇の
「ヤッチマエ」
は本当はこうではないでしょうか。
もしそうなら、30万人から、下関の十二、三万人は差し引かなければなりません。
推測ですから、絶対ではありませんが、この方がつじつまがあいます。
これは メッセージ 1 (rdupwatch さん)への返信です.
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昭和元年 中国での暴虐事件7漢口
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/06 18:51 投稿番号: [1278 / 2250]
『もう一つの南京事件』日本人遭難者の記録
田中秀雄編集・解説
注:この本の原本は昭和2年に書かれたもの。
車夫、苦力の横暴2
112〜113p
《 さて三月三十一日に下江した南陽丸乗り込みの百三十名の避難者は、
かようの折柄荷物の積み込みには散々に悩まされた。
平常ならば各自の手に提げるかするくらいの小荷物でも、
苦力がたかって来て荷物運搬は自分どもの職務だと称し強奪し、
租界から船着場まで二十丁余りのところを一個五円とか十円とか吹きかける。
これをはねつけると荷物を押えて渡さぬ。
船の出帆は迫る、群衆は群がるするので言いなりに支払う。
甚だしいのは五六個で百円以上を取られた者もある。
日本旅館から船着場まで自動車を走らせた外国人は、百余の群衆に
自動車を取り囲まれ、苦力車夫の営業を妨げたとの言いがかりで百ドルを取られた。
彼らの仲間では工会員を数十組に分かち各組界に分置し、
さらに各租界より埠頭に至る間を五六区に区分し各区ごとに苦力を配置し、
普通荷物一個につき一区間十ドル乃至二十ドルという不当な賃銭を定めている。
だから他租界から日本租界に引越すかまたは引揚げるかするには、
家財道具の運搬に二百ドル三百ドルを要することになる。
もし自分どもで運ぶか他の方法によるかすれば工会側と衝突するか
または直接当座の迫害を免れない。
ある日本旅館の番頭は支那街にある英国汽船会社埠頭に客を送り
荷物を運ぶのに苦力を使用しなかったと言うので埠頭夫工会に曳かれ、
裸にされた上、命が欲しいか金が欲しいかと脅かされ持ち合わせの十余ドルを強奪された。
さらにこれは滑稽にも思えるのは旅館松廼家に出入りする客人を見ると
苦力が飛んできて、玄関から自動車または車まで僅々二三歩のところを
勿体らしく手荷物を運び、それで一個五ドルくらいを強請する。
無法と言おうか執拗と言おうか、ほとんど他の何国にも類例のない乱暴さである。
しかもこれらに対しては支那官憲はもとより
我が日本官憲においてもどうすることもできなかった。
在留邦人の間には物議がかもされてきた。
せっかく日本官憲があっても官憲らしい取締りさえ出来ないとすれば、
むしろ租界を返還してしまえなど言う皮肉な議論も出た。
自衛団組織も提唱された。一方において租界内は支那街ならぬ流言輩語に充たされた。
暴徒襲来の噂が伝えられた。
日本綿花会社支店には南軍幹部から一万ドル要求の脅迫状が舞い込んだと噂された。
街上には不逞車夫苦力などの外にピストルを手にした南軍兵の横行を見るに至った。
もしこれで数日を過ごすものとすれば、官憲の命令なくとも
自発的にも引揚げを必要とする時の切迫しつつあるのが予感され、
在留邦人は各々仕事も手につかない状態に立ち至った。》
これは メッセージ 1277 (kireigotowadame さん)への返信です.
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昭和元年 中国での暴虐事件6漢口
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/06 18:41 投稿番号: [1277 / 2250]
『もう一つの南京事件』
日本人遭難者の記録
田中秀雄編集・解説
注 : この本の原本は昭和2年に書かれたもの。
車夫、苦力の横暴1
111〜112p
《 こうした不愉快な事件は毎日のように起こった。
英租界騒擾以来、さなきだに不安に脅えている邦人の間には
ボツボツ内地に引揚げる者が生じてきた。
その矢先に勃発したのが南京事変である。人心は一層に動揺した。
殊に支那人側では南京における邦人婦女子の凌辱事件を誇大に取沙汰し
無頼の徒の如きは、漢口がそうなったら一番に若い女を狙うのだと放言していた。
これでは婦女子ならずともいい気持ちはしない。
漢口の日本新聞が婦女子に猿股の常用を勧めたために、
たちまち雑貨店に猿股売り切れの盛況を呈したのはこの前後である。
かくて邦人婦女子引揚げの声は高くなった。
ここにおいてか一番に騒ぎ出したのは日本人使用のボーイである。
失職を恐れた彼らは荷物の荷造りや持ち運びを妨げ、極力引揚げの阻止に努めた。
これには洋務工会乃至総工会の使嗾があったようだ。
現に三月三十日晩に日本人倶楽部で民会開催中十二時ごろに
十人余りの工会の連中が寶妻氏を訪ね、
翌三十二日の婦女子引揚げの中止方を頼み込んできたこともある。
その頃に総領事引揚げの噂が立った。事実そういうことはなかったそうだが、
領事夫人が虫干しのつもりか何かでトランクを扱ったのを
ボーイどもで引揚げ準備だと早合点し、
早速洋務工会に注進に及んだのが一般に洩れたのであった。
総領事は人心の動揺を慮り、わざわざこれがために釈明したりした。
個人個人のボーイでも非常に注目しているので、
せっかく荷造りしたものも持ち出せなくなり、
いよいよ引揚げとなって全然放棄の余儀なき羽目になった者は少なくない。
今日漢口の引揚げ避難者が思いのほかに困窮しているのは
実にこれにも原因しているのだ。
つづく
これは メッセージ 1275 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月1日 蒋介石の戦争決意
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/06 18:33 投稿番号: [1276 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
261pより
《 一九三八年 (昭和十三年) 元日
蒋介石は突然に内閣改造をおこない、自身は行政院長を辞任して、
「抗日戦之指揮」
に専心する旨を言明した。
副院長孔祥煕が行政院長に昇格し、副院長には秘書長張群が転出した。
しかし、改造の主眼は 〝和平派〟 の追放におかれ、
蒋介石は、前述の国防最高会議で和平交渉を提議した交通部長愈飛鵬、
教育部長王世杰を解任し、それぞれ張家ケイ
(王+敬)、陳立夫を後任とした。》
これは メッセージ 1259 (kireigotowadame さん)への返信です.
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昭和元年 中国での暴虐事件5漢口
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/05 18:56 投稿番号: [1275 / 2250]
『もう一つの南京事件』
日本人遭難者の記録
田中秀雄編集・解説
注:この本の原本は昭和2年に書かれたもの。
109〜111p
《 本年一月初めの英租界回収事件がこうした支那人の対外観念に油を注いだ
のは言うまでもない。二月頃から日本租界外の同文書院附近の支那公園や
物持ちの屋敷の立ち樹、垣根などを引き抜いて持ち去るものがあった。
それが漸次に日本人住宅におよび鉄路外にある四季花園、共楽花園、
小宮木工場などに手を付けた。
これらの多くは附近農民の女子供で、追えば逃げるが、また直ぐに引き返してやってくる。
何時の間にか垣根の如きは一本残らず取り去られた。
何でも農民協会か何かで、外国人の境内にあろうが富豪の邸宅にあろうが、
立ち樹などは皆お前たちに授かったものだ、
当然奪取して構わないといったようなことを吹き込んだ。
垣根の竹ざれ一本でも薪になるので、かようの宣伝は勘定高い支那人には天の福音である。
最初は女子供のみであったのが大人も出動するようになった。
こうなっては支那の巡査も手の着けようがない。
隠忍主義で固められた日本側でも痛ではあるが見逃しておくと、
後には斧、まさかりなど持ち出して大びらに立ち樹を切り仆
(たお)
す。
前に挙げた三宜洋行襲撃事件の如き実にこれらにその端を発したのである。
さらに街上では車夫、苦力の徒が威張りだした。
邦人婦女子が歩いていると車夫が押し寄せて無理に乗車を迫る。
やむなく乗ってやると法外の賃銭を強要する。
手荷物を提げていると苦力が来て否応なしに強奪して持ち運ぶ。
中には途中で他の縄張りだと称し別の苦力が出て肩代わりする。
その度ごとに滅法の料金を取られる。
もしこれを拒もうものなら、何を仕向けるか分らぬ。
何時の間にか押し寄せた暴徒の群れに両手を取られ前をまくられた婦人もある。
後から裾をまくって棍棒を差し込まれた者もある。
鬼のような苦力が自分の股引を脱いで前を露出したのを見せつけられた女もある。
漢口の外国租界には揚子江に沿うてコンクリートで敷き詰めた美しいバンドがある。
従前は支那人を入れなかったものだ。
それが革命軍の武漢占拠以来は全然制裁がつかなくなり、汚い無作法な苦力や、
高慢そのもののような学生で満たされ、夕方など婦女子が散歩していると
これらの群れが行く手をさえぎり、腕をまくり肩を怒らして
此方が右に行けば右、左に行けば左して悪戯する。
在留外国人は、のびのびした気持ちで散歩することすらも許されなくなった。
そのほか、マーケットに買い物に出かけた婦人が袂に火のついたままの
巻きタバコの吸殻を投げ込まれ着物を台無しにしたり、
帯に汚物を塗り付けられたりした者はざらにある。》
つづく
これは メッセージ 1274 (kireigotowadame さん)への返信です.
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昭和元年 中国での暴虐事件4漢口
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/05 18:44 投稿番号: [1274 / 2250]
『もう一つの南京事件』
日本人遭難者の記録
田中秀雄編集・解説
注:この本の原本は昭和2年に書かれたもの。
108〜109p
三宜洋行襲撃
(昭和元年三月)
《 漢口大智門外三宜洋行においては突然暴民に襲われ店舗、居室、倉庫とも
全然破壊掠奪(りゃくだつ) された。
当初は附近の農民らしき者に女子供も混じり垣根や立ち木を抜き取りにかかったので、
店の人が制止すると、たちまち多数の群衆殺到、
屋内に押し入り階上階下一物を止めざるまでに掠奪した上、
畳、建具を剥がし、床板、窓ガラス、窓枠までも取り去り、
内外ともほとんど原形を留めざるに至った。
掠奪した品物のうち、ストーブの如きはまだ火がおこっていて
外囲の鉄筒は焼けて火のようになったのを、平気で担いで行った。
支那人の貪欲は際限がない。
侮蔑と凌辱
以上のほか、三峡の上流において土匪のために船長は殺され、
二名の船員は人質にせられ一年後に十万円の身代金を支払うてようやく
救出された有名な宜陽丸事件、
頻々として行わるる支那軍隊の日本汽船射撃、無賃乗船強要、
その他各地方で起こった大小の事件を挙ぐればまったく屈指にいとまない。
しかもこれら事件の多くは事実上泣き寝入りになっている。
関係官憲よりそれぞれ抗議なり賠償要求なり提出してはあるが、
大部分は幾年経っても未解決である。
かようの事実は支那人の頭にいかに響くであろう。いうまでもなく結局殴り得だ、
殺し得だ、奪い取っただけが得だという考えを助長したに相違ない。
由来支那人ごとき現実主義の国民には即賞即罰を必要とする。
悪事を働いた現場を押えての懲罰にはいかなる厳刑も甘受する。
これまでの英米人はこの呼吸を呑み込んでいた。
かの英国軍艦の四川萬県砲撃事件の如き、喧々囂々と騒ぎ立てたのは
無関係の他地方人で、肝腎の萬県市民なり当の相手の軍隊なりでは
むしろ英艦の大砲の威力に戦き恐れたと称せられている。
我が日東の君子国は、ややもすれば殴られてお辞儀をしてきた。
前にも言う如く、怒らされても刀が抜けなかった。
彼ら支那人の前には、サイ (クサカンムリ+最) 苒
(さいぜん)
たる三島の
木履児
(もくりじ)
はどこまでも甘いもの〕
にされてしまった。
殴られても打たれても尾を振って跟
(つ)
いてくる喪家の犬だとせられた。》
つづく
これは メッセージ 1261 (kireigotowadame さん)への返信です.
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ラーベの日記 1938年1月1日
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/05 18:32 投稿番号: [1273 / 2250]
一九三八年一月一日
(前の部分は
日本軍の問題に関係ないので省略)
《 夜の九時に日本兵がトラックに乗ってやってきて女を出せとわめいた。
戸を開けないでいたらいなくなった。
見ていると中学校へむかった。
ここはたえず日本兵におそわれている。
私は庭の見張りをいっそう厳重にして、不寝番に警笛を持たせた。
こうしておけば、いつお越し下さってもすぐに馳せ参じられる。
だが、ありがたいことに、今晩は無事に過ぎた。》
*
既に慰安所を作っているのに、夜中に
「女集め」
に来るかー?
しかも、喚いただけで、サッサといなくなった??
日本の正月は1月1日だが、中国は旧暦で祝う。
従って、1月1日が売春婦の正月休みとは限らない。
この “日本兵” とみられている者の行動、ラーベ達に
日本兵を悪く印象づけさせるため、わざとやっているとしか見えないが?
これは メッセージ 1223 (kireigotowadame さん)への返信です.
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Re: 南京虐殺事件否定派の見苦しい曲解(1
投稿者: tyankonabejp 投稿日時: 2011/12/05 17:27 投稿番号: [1272 / 2250]
たわけ、ばかめ、腐れ脳、妄想、捏造、反日・・・・・まともな論議ができない人間は、うす汚い罵詈雑言をならべて、投稿者個人への人格攻撃を繰り返すしかないようです。
もっとも、wadatumi氏などは、議論にあたいしない低レベルの投稿はすぐに無視リストに放りこんでしまって、見向きもしていないらしいので―――
ぜ〜んぜん痛くも・かゆくも・ないでしょうけどね(。-∀-) 。
>田中正明著
『南京事件の総括』
でも、中島中将の『捕虜ハセヌ方針』というのを
銃を取りあげ
釈放するという意味だ、などと
主張している。
>しかし、東中野などの
否定派は、「中島日記」
を引用する時、意図的か否かは分からないが、次の部分を
完全に無視している。
>「此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず
一案としては百二百に分割したる後適当の処に誘きて
処理する予定」
>捕虜を追放するのに、なぜ
「大なる壕」
が必要なのか。
虐殺否定論者は、意図的に都合のよい部分だけを引用して、勝手な解釈で文脈をねじまげますが、肝心なところはムシしてることが分かりますね。
捕虜にした兵士を解放するのに、大きな壕を掘る必要があるか、ということには答えられないようです。
それにしても、具体的な資料にもとづいて客観的に事実を証明してみせるあなたの書き込みにたいして、出所のあやしい右翼サイトのコピペしかできず、しまいには自分の思いこみでしか語れない否定論者の書き込みとでは、だいぶレベルがちがいすぎています。もう論争の対象にすらならない感じです。
南京大虐殺の議論は、もうとっくに勝負がついたなとおもひます。
YE━━━(゜∀゜)━━━S!!
もういっぺん言います。とっくに勝負がついたなとおもひます。
もういっぺん言います。とっくに勝負がついたなとおもひます。
もういっぺん言います。とっくに勝負がついたなとおもひます。
これは メッセージ 1220 (tyankonabejp さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1272.html
Re: 南京虐殺事件から歴史の教訓を学ぶべき
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/05 07:50 投稿番号: [1271 / 2250]
>なぜ南京事件のような残虐行為を、日本軍が起こしたのだろうか。
その発想が間違っている。
やっていることは、どこの国もおなじ。
ではなぜ、日本人だけが、残虐行為を起こしたと思うのだろうか。
それは、日本人が、あまりに、非残虐的精神の持ち主だからだ。
中国人などは、虐殺をしても心を痛めない。
だから、彼らからは反省の声は聞かれない。
米国もリンドバーグ以外からは聞かれない。
ロシアからも聞こえない。
要は、日本人があまりにも、善人だから、
ほんのちょっとした事にも罪の意識を感じるのだ。
>いさぎよく
死を選べ、生きて虜囚の恥はさらすな、という規範が
日本軍兵士
一人ひとりに
徹底して
刷り込まれた。
バカめ。
戦陣訓はまだない。
それができるのは、1941年
(昭和16年)
だ。
南京戦は1937年。
当時の日本はタイムマシーンを持っていたのか?
>そうした
恥ずべき歴史の改ざんにばかり
躍起になりながら
恥ずべき歴史の改ざんをやっているのは、おまえだろう。
自覚しろよ。
これは メッセージ 1248 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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> 検証・虐殺の背景にあった惨酷な戦争心
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/05 07:29 投稿番号: [1270 / 2250]
>11月11日付の第三師団歩兵第六聯隊第二大隊の攻撃計画は、
大隊長から将兵に対して
次のように命じるものとなっていた。
「一般ノ領民ハ総テ城内ニ避難シアルヲ以テ城外ニ在ル一切ノ者ハ
敵意ヲ有スルモノト認メ之ヲ殲滅ス」
「掃蕩ニ方リテハ家屋ヲ焼却スルヲ便トスルヲ以テ之ガ材料ヲ準備
スルコト」
つまり、城外にいる一切の人間を「敵意を有する」
者と見なして
これを
殺害したうえ、家屋を焼き払うことを
命じていたのだ。<
その前に、中国軍が家屋を焼き払っていたがね。
なぜ、こういう作戦を立てなければならなかったかを考えるべきだ。
松井大将の東京裁判の証言。
富士信夫著
『「南京大虐殺」
はこうして作られた』
98pより、
《 一部の将兵はいわゆる便衣兵となり、軍服を脱ぎ、平衣を着て残留し、
我が将兵を狙撃し、我が軍の背後を脅かすことも少なくなく、
付近人民もあるいは電線を切断し、あるいは烽火を上げる等
直接間接に支那軍の戦闘に協力し、我が軍に幾多の危難を与えた》
秦郁彦著
『南京事件』
72p
《 歩41連隊第三大隊の戦闘詳報
「11月22日
15:00、計家湾ニ到着、コノ時敗残兵約二百白旗ヲ樹テ数家屋ニ
終結シアルヲ以テ捕虜トスベク努メタルモ、至近距離ニ達スルヤ、
ピストル、手榴弾ヲ以テ抵抗セルニヨリ全部之ヲ刺殺又ハ射殺ス・・・」》
また、民家に泊まり、女・子供と油断していたら、手榴弾を投げられたり、
中国軍に連絡されて攻撃されたなど、頻繁にあり、
結局、日本人の善人心の感覚ではやっていけないから、
そういう作戦になってしまうのだ。
もともとは、日本が仕掛けた戦争ではない。
中国が仕掛けた戦争だ。
日本が、停戦や和平を持ちかけても、踏みにじって中国は戦争を続けている。
戦争を仕掛けた中国が止めない限り、
仕掛けられた日本は止めようがない。
諸悪の根源は中国にある。
日本批判は筋違いである。
これは メッセージ 1247 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1270.html
>検証・虐殺の背景にある犯罪非違の頻発
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/05 07:07 投稿番号: [1269 / 2250]
>軍がまとめた軍紀風紀に関する犯罪非違の調査結果によると
開戦後
2年間だけに限っても
戦地における
犯罪非違は、
日清・日露に比べて
はるかに高率となっている。<
嘘を書くな。
日清戦争の戦争期間は約7か月
日露戦争の戦争期間は1年2か月
支那事変の2年間は
日清戦争の3倍、日露戦争の2倍
日清・日露に比べて、犯罪が多くて当たり前だろう。
日本人が全員、聖人君子でない限り、犯罪はありえる。
戦時だろうと、平時だろうと。
今だって、犯罪だらけだろう。
犯罪は国家がやれと命令したわけではない。
個人の犯罪まで、日本国の責任にすりかえるな。
これは メッセージ 1246 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1269.html
> 検証・虐殺の背景にある軍紀風紀の頽廃
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/05 06:54 投稿番号: [1268 / 2250]
>中支那方面軍に対し、次のような要望を
おこなっている。
顧ミレバ皇軍ノ奮闘ハ半歳ニチカシ(中略)
然レ共一度深ク軍内部ノ実相ニ及ベバ未ダ暇謹ノ
スクナカラザルモノアルヲ認ム
就中軍紀風紀ニ於テ忌々シキ事態ノ発生近時漸ク繁ヲ見
之ヲ信ゼザラント欲スルモ尚疑ハザルベカラザルモノアリ
・・・・・
然レ共実際ノ不利不便愈々大ナルニ従テ益々以テ之ガ克服ノ
努力ヲ望マザルヲ得ズ
(後略)
(中支那方面軍参謀長「軍紀風紀ニ関スル件通牒」)
同じ内容の要望は
北支那方面軍にも出されているが、
これは
軍紀風紀の粛正が、この時期の
日本陸軍にとって、
大きな問題であったことを
示している。<
よく読んでみろ。
「之ヲ信ゼザラント欲スルモ」
と書いてあるだろうが。
要するに、これは、中国側や欧米人側の反日宣伝が功を奏しているという事ではないか。
「信じたくないが・・・外国人が言っているから、事実と見るしかない、襟を正せ」
と言う意味だろう。
よく、「火の気のない所に、煙は立たぬ」
と言うが、中国人は、
火をつけてでも煙を立てるのだ、たわけ。
これは メッセージ 1245 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1268.html
> 検証・虐殺の背景にあった日本軍の体質
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/05 06:44 投稿番号: [1267 / 2250]
>第十軍司令部が
1937年11月30日に
作成した
「南京攻略ニ関スル意見」(丁集団参謀部『南京ヲ急襲ニヨリ
・・・・・
猛毒のイペリット使用を含め、市街に対する
無差別爆撃を、
なんの躊躇もなしに、計画を
たてていたのだ。<
バカめ。
作戦案は、どんな計画だって立てるさ。
だが、実行するかどうかは別だ。
第十軍の意見具申に関して、東京は第一案を受け入れたのだ。
そもそも、参謀本部はまだ、南京攻略を許可していなかった。
南京攻略を許可したのは、12月2日。
逆に言えば、第十軍のそういう態度から、毒ガス作戦を封じるために、
第一案を受け入れ、南京進撃を許可したという事になる。
参謀本部の南京進撃譲歩と毒ガス作戦禁止は一対だろう。
そんなことも解らないのか。
これは メッセージ 1244 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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Re: 検証・南京虐殺は組織的な犯行なのか5
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/04 17:10 投稿番号: [1266 / 2250]
これは メッセージ 1237 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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Re: 検証・南京虐殺は組織的な犯行なのか4
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/04 16:41 投稿番号: [1265 / 2250]
これは メッセージ 1235 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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Re: 検証・南京虐殺は組織的な犯行なのか2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/04 16:22 投稿番号: [1264 / 2250]
>上級司令部が現地部隊に捕虜殺害を命じたという記録がある。
「捕虜も相当出来たけれども、捕虜に食はせる物もない。」
「さういふ状態で戦闘しつつ捕虜が出来るから始末することが
出来ない。
それでちよん斬つてしまうといふことになった。」
一万余の捕虜があつたのだけれども、そんなのは無論追撃中
だから戦闘中と見てもよろしい、(略)始末が付かぬものだから
シヤーシヤーと射つてしまつたのだ。
その死骸が川に流れた。それから問題になつたのだ。
これは
方面軍司令の証言だが、<
たわけ、
南京戦のとき、松井方面軍司令官は蘇州にいて、その現場をみていない。
彼が南京に来たのは17日の昼だ。
全ては、後から、聞いた伝聞にすぎない。
君と同じレベルだよ。
第一、捕虜殺害なんか命じてないだろう。
これは メッセージ 1234 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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Re: 検証・南京虐殺は組織的な犯行なのか1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/04 16:14 投稿番号: [1263 / 2250]
これは メッセージ 1232 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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>戦争の実相を知る世代が 少数派と
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/04 15:48 投稿番号: [1262 / 2250]
なったことに反比例して、
過去の戦争を醜悪化しようとする策動が露骨になり、
世界には通用しない
「南京大虐殺はあった」
という妄言が
吹聴されるようになった。
若いものは知らないだろうけど、
南京なんて話は昭和45年以前には、殆どの日本人は知らなかったんだよ。
学校でも習わなかった。
なぜなのか。
戦争の実相を知っている世代が、まだ、生きていたから、
そういう嘘は言えなかったのだよ。
だんだん、真実を知る人が減るにつれて、嘘がはびこりだした。
そして、今、蔓延している。
大虐殺かどうかはともかく、捕虜の殺害はあった。
そのとき、間違われて、民間人も殺されたかも、知れない。
ただそれだけだ。
それを批判できるものは誰もいない。
中国は、わざと、そうなるような行為をしている。
蒋介石はあらゆるものを犠牲にして戦争すると宣言した。
日本の和平提案をけって。
すべての責任は、日本の和平提案をけって戦争を続けた中国にある。
これは メッセージ 1232 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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大正末 中国での暴虐事件3漢口
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/04 15:24 投稿番号: [1261 / 2250]
『もう一つの南京事件』
日本人遭難者の記録
田中秀雄編集・解説
注 : この本の原本は昭和2年に書かれたもの。
101〜102p
支那人子供が投石する
《 日本使用支那人の罷工以来頑是ない支那人子供までが邦人を蔑視し、
通行中悪罵を浴びすることは珍しくない。最近日本租界附近の支那人子供は、
邦人子供が多く本願寺の内庭に集まり遊んでいるのを知り、
潜
(ひそ)
かに石を携えて近寄りこれを投付けては逸散に逃げ去るものあり、
すこぶる危険であるから子供を持つ親たちはこの際万一を慮り充分の注意が肝要である。
(十一月二十四日)
さらに奇怪なのは、小学校児童が通学途上で支那軍人に銃砲の台尻で突かれたり
打たれたりした事実があり、鉄路外の日本人家屋に糾察隊が闖入した時に
支那軍人が同行したこともある。実に物騒きわまるものであった。
こうした日が一週間続いた。その間在留民は領事館とともに極力折衝に努めたが、
結局隠忍自重主義を基調とする大譲歩によって結幕となった。
この事件以降は日本人と使用支那人との間はまったく主客顛倒、
ボーイが主人か使用人か分らなくなった。
何々工会の成立祝賀会だから暇くれといえば出してやる、
何々紀念日というては出て行かれる。行かないと糾察隊が引っ張り出しに来る。
朝早くから銅鑼を鳴らし
『八時までに集まれ』
と怒鳴って歩く。
戸の閉まった家は叩き起こす、足で戸を蹴る。
不参者は二ドルの罰金、中には
「工賊」
など書いた色紙を背に貼り
後手に縛って街上を曳き回された者もある。
孫文紀念日には、やはり各工会を網羅した行列があったが、
当日領事館では領事付のボーイか何かを参加させなかったために、
糾察隊が出張ってぜひ出せという。
一体十一月の協定では、用がある時には出さないでも宜いことになっている。
にも拘らず強要する。
遂には六尺棒を揮って暴れ出し、そばにいた書記生は眼鏡を毀され負傷した。
いやしくも外国の官衙に押し入るさえ不都合なるに、
凶器を揮って狼籍を働くに至ってはまったく言語同断である。
しかもかようの事柄はこれまでは全然なかったことで、
いかに彼らの対日観念が悪化せるかが分る。》
これは メッセージ 1260 (kireigotowadame さん)への返信です.
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大正末 中国での暴虐事件2漢口
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/04 15:16 投稿番号: [1260 / 2250]
『もう一つの南京事件』
日本人遭難者の記録
田中秀雄編集・解説
注 : この本の原本は昭和2年に書かれたもの。
108p
川本洋行襲撃並びに罷業
(同
(大正)
十五年十一月)
これは前に詳述せる如く支那人の横暴と対日人観念を最も露骨に表した事件である。
前述の内容
100〜101p
《 川本洋行事件
さらに暴虐きわまるのは十一月二十日に起こった川本洋行事件である。
日本租界高昌里と平和街の角にある同店では、支那人米屋から買い入れた米四俵を
届けてもらって、そのうちの二俵を店内にかつぎ込んだところに
糾察隊が来てあと二俵を入れさせまいとする。
もちろん、日本人には米を買わさぬというのである。
しかしこれは巡捕の仲裁で収まったが、
あくまで横着な糾察隊では米を運んできた苦力が同店に入ったのを出せと言う。
そのうちに二三十名が店内に押し入って苦力を引き出しにかかったので
争闘が持ち上がり、ショーウインドウや戸口のガラスは壊される、
店品は奪われる、主人は群衆に取り囲まれ散々に殴打された上に、
いつの間にか黒山のように群がった人ごみの中に引きずり込まれた。
側に居合わせた日本人もまごまごすれば巻き添いを食いそうなので手が出せない。
そのうちにますます群衆は増す、騒ぎは大きくなる。支那軍隊も駆けつけたが
ほとんど救出の途がつかない。
十分二十分と息を殺してその消息を待つ家族の人々はもちろん、
はたの日本人にも今は絶望的な悲痛に閉ざされた刹那、
気息奄々としてほとんど死人のようになった川本氏が、
日本領事館警察署巡査永松、大瀬両氏に助けられ、人波を分けて現われた時には、
支那人までが覚えず歓呼の声を挙げた。
最初両巡査が馳せつけた時は平和街から大興街後方かけて集まった数千の群衆は、
日本巡査を殺せと騒ぎ立てたが漸く身を以って免れ、
大興街の後方にある工会本部に飛び込み談判の結果、無事救出することを得た。
もし両巡査が途中で群衆に阻まれるか一刻後れるかすれば、
恐らく由々しい大事を惹起したに相違なかったであろう。
しかして彼らの迫害は我が同胞の子供にも及んだ。
当時の
「漢口日報」
にこんな記事があった。》
つづく
これは メッセージ 1230 (kireigotowadame さん)への返信です.
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12月31日 和平条件細目提示の要請
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/04 15:06 投稿番号: [1259 / 2250]
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
467pの注
注
参謀本部では、オット少将の情報によれば、
独大使には講和交渉条件細目一一カ条が伝わっていないとのことなので、
抽象的な四条件だけでは中国側も理解できまいと判断し、
この一一カ条も独大使から中国側に提示するのを許容するよう、
十二月三十一日、陸相から外相に申し入れた。
(参謀本部は当初から具体的条件の提示を主張していたが、
多くの閣僚はこれに反対であった)
これは メッセージ 1228 (kireigotowadame さん)への返信です.
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◆歴史の真実 世界連邦への礎石
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/04 12:21 投稿番号: [1258 / 2250]
アリフィン・ベイ(インドネシア、ナショナル大学日本研究センター所長・政治学博士)
日本に占領された国々にとって、第二次世界大戦とは、ある面では日本の軍事的南進という形をとり、他面では近代化した日本の精神的、技術的面との出会いであった。日本が戦争に負けて日本の軍隊が引き上げた後、アジアに残っていたのは外ならぬ日本の精神的、技術的遺産であった。この遺産が第二次大戦後に新しく起こった東南アジアの民族独立運動にとって、どれだけ多くの貢献をしたかを認めなければならない。日本が敗戦国になったとはいえ、その精神的遺産は、アジア諸国に高く評価されているのである。その一つに、東南アジアの教育に与えた影響があげられる。(中略) (日本は)目標達成のためにどれほど必死にやらなければならないかということを我々に教えたのであった。この必死の訓練が、後のインドネシア独立戦争の時に役立ったのである。(「魂を失った日本」未央社、57〜65ページ)
ブン・トモ(インドネシア、元情報・宣伝相)
我々アジア・アフリカの有色民族は、ヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みたが、全部失敗した。インドネシアの場合は、三百五十年間も失敗が続いた。それなのに、日本軍が米・英・蘭・仏を我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。我々は白人の弱体と醜態ぶりをみて、アジア人全部が自信をもち、独立は近いと知った。一度持った自信は決して崩壊しない。日本が敗北したとき、”これからの独立は自力で遂行しなければならない。独力でやれば五十年はかかる”と思っていたが、独立は意外にも早く勝ち取ることができた。
朱
耀翰 {韓国
元国会議員
ゴーマニズム宣言第六巻p232}
「アメリカ大統領ルーズベルト君、君は口を開けば必ず正義と人道を唱えるが、パリ講和条約の序文に人種差別撤廃文案を挿入しようとしたときこれに反対し削除したのはどこの国だ?黒人と東洋人を差別待遇して同じ席にも着かせずアフリカ大陸で奴隷狩りをしたのはどこの国であったか?しかし君らの悪運はもはや尽きた。一億同胞なかんずく半島の二千四百万は渾然一体となって大東亜聖戦勇士とならんことを誓っている!」
ニミッツ元帥(アメリカ
太平洋艦隊司令長官)
この島を訪れるもろもろの国の旅人達よ。故郷に帰ったら伝えてくれよ。この島を守るために、日本軍人は全員玉砕して果てた。その壮絶極まる勇気と祖国を想う心根を!
スリム中将(イギリス第十四軍司令官)
たたかれ、弱められ、疲れても自身を脱出させる目的でなく本来の攻撃の目的を以て、かかる猛烈な攻撃を行った日本の第三十三師団の如きは、史上にその例を殆ど見ないであろう。(「敗北から勝利へ」)
かくの如き望みのない目的を追求する軍事上の分別を何と考えようとも、この企図を行った日本軍人の最高の勇気と大胆不敵さは疑う余地がない。私は彼等に比肩し得べき如何なる陸軍も知らない。(同書)
蒋介石
ラモウ・騰越を死守しある日本軍人精神は、東洋民族の誇りたるを学び、範として我が国軍の名誉を失墜せざらんことを望む
ベルナール・ミロー(フランス
ジャーナリスト)
これら日本の英雄達は、この世界に純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてくれた。彼らは1000年の遠い過去から今日に、人間の偉大さというすでに忘れ去られてしまったことの使命を、とり出して見せつけてくれたのである。(『神風』)
H・G・ウェルズ(イギリス、歴史学者)
「この大戦は植民地主義に終止符を打ち、白人と有色人種との平等をもたらし、世界連邦の礎石をおいた。」
世界連邦の礎石をおいた!
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◆歴史の真実 植民地の解放
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/04 12:20 投稿番号: [1257 / 2250]
第二次世界大戦後の世界の大きな流れの一つが、世界各地の植民地解放運動である。そのきっかけが日本の大東亜戦争であった。
東南アジアにおける英米仏蘭の植民地は、日本軍の占領によって白人支配から解放され、新国家の建設が始まったのである。日本が負けると、白人は一時的に植民地に戻ってきたものの、もはや過去のように支配を続けていくことはできなかった。
日本の戦いぶりに励まされ、民族意識、国家意識に目覚め、そして日本人によって国家運営の訓練を施されていた諸民族は、もはや白人支配に甘んじることはなかった。かくして東南アジアでは独立戦争が展開され、この新しい時代の潮流は、地球上の植民地に拡散していった。その結果として、敗戦国だけでなく戦勝国だったはずの列強も、次々と植民地を手放さざるを得なくなった。
もちろん大東亜戦争の目的は「東亜の解放」だけではない。しかしアジアから列強勢力を駆逐し、諸民族と共存共栄を図らなければ、日本の国家としての生存権は守り難いとの認識は国民に一般的だった。そこから生まれたのが大東亜共栄圏の構想であり、それを実現するために「東亜の解放」が必要不可欠だと考えられたのだ。
<日本軍によって白人世界帝国が終焉した事実>
・東南アジアの抵抗運動には、白人と提携していた華僑の反抗もあったし、日本の敗色が濃いと見て、イギリス側に寝返ったビルマ軍の例もあった。日本軍を「支配者」というなら、たしかに支配者として君臨していたし、当然のことながら統制も行い、作戦遂行中ゆえ、軍事的にも動員も行った。アジアの防衛戦争を継続中なのだから、独立を与えてすぐさま撤退するなどできるはずがない。
日本人は、実直すぎる民族で、外交が下手である。東南アジアの住民は、歓迎の熱が冷めれば、厳格な日本軍は「嫌な存在」に変わったことは想像に難くない。しかし長く付き合えば無二の友邦にもなったであろう。そもそもわずか3年にも満たない進撃、占領期間で、前記も後期もあるまい。
中国にいたっては、1951年に、「農奴解放」を大義名分に人民解放軍がラサに入り、チベットを軍事占領した。1959年には反中国暴動が発生しているが、いまだに占領は解かれていない。
それに対して日本は、わずか3年足らずの間で、東南アジアの住民に近代国家のあるべき姿を教育し、次々と政府を樹立させていった。
アジア諸国の独立は、やがて連鎖的にアフリカ植民地の独立をも誘発する。日本の植民地解放戦争は、白人世界帝国解体への起爆剤となったのだ。
アメリカのJ・C・レブラ『東南アジアの解放と日本の遺産』
「日本による占領下で、民族主義、独立要求はもはや引き返せないところまで進んでしまったということを、イギリス、オランダは戦後になって思い知ることになる」ー東南アジア全域の独立運動について、日本軍占領期間中に身につけた自信、軍事訓練、政治能力が、西洋植民地支配に対抗する決定力になったことを指摘している。
A・トインビー
「アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間、信じられてきたような不敗の神でないことを、西洋人以外の人種に明らかにした」−日本人が歴史に残した功績である。
パラディ・デサイ博士(インド法曹界の長老)1947(昭和22)年
「インドはまもなく独立する。この独立の機会を与えてくれたのは日本である。インドの独立は日本のおかげで三十年も早まった。インドだけでなく、ビルマもインドネシアもベトナムも、東亜民族はみな同じである。インド国民はこれを深く心に刻み、日本の復興には惜しみない協力をしょう」
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◆歴史の真実 「もし日本なかりせば」
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/04 12:17 投稿番号: [1256 / 2250]
暗愚の村山内閣時代、国賊土井たか子をはじめワダツミ並みのお馬鹿政府関係者が群をなして東南アジアへ「謝罪行脚」したとき、 それを迎えた側の反応はどうだったか?
何も言っていない先からいきなり頭を下げて「戦争中はご迷惑を・・・」と謝る馬鹿共にに、マレーシアのマハティール首相も フィリピンのラモス大統領も台湾の李登輝総統も打合せをしたわけでもないのに、全員口をそろえて
「過去はどうでもいい」「これからが大切である」 という返事をしたという。
マハティール首相に至っては、日本の国連常任理事国入りを支持し、
「日本の成功は東南アジアに大きな自信を与えた。日本の進出が 無ければ欧米の世界支配はさらに続いていただろう。」と述べられている。又、日本の戦争責任についても「日本の戦争責任を問うならば、それより以前、 非人間的な支配と収奪を続けた欧米の宗主国の責任はどうなるのか。日本が来た事で植民地支配から解放され近代化がもたらされた。」と発言されている。 以下は、「SAPIO」誌99年4月14日号に載った氏の演説の抜粋である。
「日本は軍国主義が非生産的であることを理解し、その高い技術とエネルギーを、貧者も金持ちも同じように快適に暮らせる社会の建設に注いできた。質を落とすことなく コストを削減することに成功し、かつては贅沢品だったものを誰でも利用出来るようにしたのは日本人である。まさに魔法も使わずに、奇跡ともいえる成果を作り出したのだ。
日本の存在しない世界を想像してみたら良い。もし日本なかりせば、ヨーロッパとアメリカが世界の工業を支配していただろう。欧米が基準と価格を決め、 欧米だけにしか作れない製品を買うために、世界の国はその価格を押し付けられていただろう。
(中略)
もし、日本なかりせば、世界はまったく違う様相を呈していただろう。富める国はますます富み、貧しい南側はますます貧しくなっていたといっても過言ではない。 北側のヨーロッパは、永遠に世界を支配した事だろう。マレーシアのような国は、ゴムを育て、スズを掘り、それを富める工業国の言い値で売り続けていたであろう。
このシナリオには異論もあるかもしれない。だが、十分あり得る話である。日本がヨーロッパとアメリカに投資せず、資金をすべて国内に保有していたらどうなるかを 想像すれば、その結果は公平なものになるのではないだろうか。ヨーロッパ人は自国産の製品に高い価格を支払わねばならず、高級なライフスタイルを送る余裕がなくなるだろう。
東アジア諸国は、自国民だけでなく世界中の貧困者の生活の質を高めた。東アジア諸国の成功は魔法のおかげではない。日本が成し遂げた事を、東アジアの他の国々も 程度の差こそあれ達成する事が出来たのである。同様に、ヨーロッパ諸国もそうする事が出来る。
その成功の主な要因は、高い生活水準を維持する余裕の無い時期には低い生活水準を受け入れようとする意思である。東アジア諸国は進んでそうしている。無理して 高い生活水準を維持すれば、競争力を失ってしまう。むしろヨーロッパ人のほうが、自分たちのやり方が賢明なものかどうか自問し、現実を受け入れなければならない。 そうすれば、ヨーロッパと東アジアは相互の利益のために協力することができる。ただし、どのような事情があっても、東アジアの成長を止めることは出来ない。 東アジアには発展する権利があるのだ。」
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◆パール判事の慧眼 歴史の捏造を糾す
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/04 12:07 投稿番号: [1255 / 2250]
支那と日本の売国左翼が、1937年に起こったと捏造した「南京大虐殺」。
いまだにこういう脳腐れの人格破壊者がいるということは、ほんとうに呆れると同時に哀れさえも覚えてしまいます。
ありもしない捏造史を、さもあったことにしようとする悪質なプラパガンタなど、葬られて当然です。
ここで、かの有名なパール判事の言葉を紹介します。
『要するに彼ら(欧米諸国)は日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって、自分らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、日本の一七年間(昭和3〜20年、東京裁判の審理期間)の一切を罪悪と烙印する事が目的であったにちがいない。・・・・私は1928年から1945年までの一七年間の歴史を二年七ヶ月かかって調べた。この中には、おそらく日本人の知らなかった問題もある。それを私は判決文の中に綴った。その私の歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であるということがわかるはずだ。それなのに、あなた方は自分らの子弟に、「日本は犯罪を犯したのだ」「日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ」を教えている。満州事変から大東亜戦争にいたる真実の歴史を、どうか私の判決文を通して十分研究していただきたい。日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、頽廃に流されていくのを私は平然として見過ごすわけにはゆかない。あやまられた彼らの宣伝の欺瞞を払拭せよ。あやまられた歴史は書き変えなければならない。』(昭和二十七年十一月五日、広島高等裁判所での講演)
ラダ・ビノード・パール(インド、極東国際軍事裁判判事・法学博士)
「日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、頽廃に流されていく」
・・まさにパール判事の危惧した通りになってしまった・・・
卑屈、頽廃に流された成れの果てが
wadatumi_voice21をはじめとする歴史捏造売国サヨクたちである。
こいつらはもう救いようがないが
「真の日本人」の為にも
『あやまられた歴史は書き変えなければならない!』
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