入って中国人に南京事件真相議論しましょう

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◆検証 南京大虐殺捏造の背景⑥

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/04 11:57 投稿番号: [1254 / 2250]
南京というのは、いわゆる城砦都市です。

その南京に、蒋介石率いる国民党兵士が大量にやってきて、市民に銃を突きつけて、「これから日本がここを攻めてくるから、おまえら、銃を持って戦え!」とやった。
それが南京での戦闘のはじまりです。

南京市民は、仕方なく銃を持って、城塞の塀に並び、日本軍めがけて発砲した。

ところが、日本軍は正規の軍隊です。
南京城塞側は、国民党兵士に後ろから銃を突きつけられて、わけもわからずめくら撃ちしている市民兵です。勝負にならない。

日本軍の猛攻が始まると、国民党の連中がまっさきに逃げ出した。

銃をとっていた南京市民は、そもそも戦意は希薄です。
後ろにいた国民党兵士達がいなくなると、我先に逃げ出した。

そして南京城は、あっさりと陥落。

日本軍が入場すると、戦いのあった反対側の城砦の壁には、何本もの紐が垂れ下がり、その紐の下には、シナ人たちの銃が、投げ捨ててあった。

日本軍が、南京に入場します。そして国民党の兵士たちがさんざん荒らしまわった城内の治安を回復した。

日本の軍人たちが、市民に手を出さないとわかると、周辺に逃げていた南京市民達が戻ってきます。当然のことです。なぜか。安全で安心だからです。
それだけではない。日本軍によって南京市の治安が回復されたと知って、多くの周辺都市からもシナ人たちが集まってきた。

このため、南京城攻防戦の前の南京市の市民の数が20万人だったのに、日本軍の占領後は南京の人口は25万人に増加したのです。

年が明け、正月になると、日本軍は内地(日本本土)から、正月の松飾りや、餅を大量に取り寄せ、市民たちにお雑煮を振る舞ったりした。

日本軍舎の前では、シナ人の子どもたちが爆竹を鳴らして、歓声をあげていた。

以上が、南京で起った事実です。

◆検証 南京大虐殺捏造の背景⑤

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/04 11:32 投稿番号: [1253 / 2250]
●「南京大虐殺」はなかった(当たり前であるが)

  今まで見てきたように、日本軍の進出は内戦の終結、平和の確立、共栄圏の建設を目的としたものであって、決して破壊や虐殺を目的としたものではありませんでした。これは、国土の焦土化や、民衆の殺戮を平気で行なっていた中国軍とは、きわめて対照的です。
  日本には、もともとサムライの時代から、民衆の虐殺や焦土化の思想はなかったのです。日中戦争は北京の近くで始まりましたが、北京は無傷でした。武漢三鎮も無傷のまま。他の都市も全部無傷です。日本軍は、都市を破壊する気も、住民を虐殺する気もさらさらなかったのです。
  日本軍は、都市に近づくときには必ず自由都市(オープン・シティ)宣言をしました。降伏するなら、都市を破壊することもしないし、住民の安全を保証するということです。歴史ある都市を戦場にし破壊していけないからです。
  日本軍は圧倒的に強かったので、たいていの都市では、中国軍はたいした抵抗をすることもないまま逃げ去り、都市は明け渡されました。しかし南京で、中国軍は珍しく若干の抵抗をみせました。
  南京防衛軍司令官の唐生智が「俺に頑張らせてくれ」と言ったので、蒋介石も「頑張れ」と言ったのです。彼が最後まで頑張れば、ある程度、中国軍の統制もとれたでしょうが、この司令官は情けないことに、途中で逃げ出してしまいました。
  司令官を失なった中国兵たちは、自分たちも逃げようとしました。けれども彼らの多くは、逃げる味方の兵隊を後ろから撃つ「督戦隊」に殺されました。また中国兵の中には、逃げれば督戦隊に殺されるし、残れば日本軍に捕まるということで、民間人を殺し、その着物をはぎ取って着る者たちもいました。
  こうした民間人に化けた中国兵は、それがばれたときに日本兵によって殺されることもありました。そのようなことはありましたが、南京で、日本軍による住民の大量虐殺というようなことは決してなかったのです。


中国は、かつて日本軍は南京で三〇万人の住民を虐殺したと、宣伝しています。しかし、これは中国共産党が流したでっち上げです。なぜなら、もし南京大虐殺があったなら、南京の安全地区にいた外国人は必ず、そのことを世界に発信したはずです。けれどもそのようなことはありませんでした。
  また、日本が南京に入る前にいた南京の人口は約二〇万人でした。これはいろいろな調査で一致している数字です。二〇万人の都市で、三〇万人を虐殺するのは不可能です。
  また、日本が南京を占領したあと、逃げていた市民たちが戻ってきて、一ヶ月後には人口二五万人になっています。これは南京学会が緻密に調査して出した、信頼できる数字です。また大虐殺が行なわれた都市に、住民が戻ってくるわけがありません。
  また南京大虐殺の「証拠写真」と言われるものも、今日ではすべて全く関係のない写真か、捏造によるものであることが、明らかになっています。東中野修道著『南京事件「証拠写真」を検証する』などに、詳しく書かれています。
  何年か前、中国系アメリカ人のアイリス・チャンが、英語で『ザ・レイプ・オブ・南京』という本を出し、アメリカでハードカバーで約五〇万部も売りました。これは日本軍が南京で三〇万人虐殺という蛮行を行なったと宣伝する本で、アメリカ人にウソをばらまいたものです。
  しかしそののち、彼女が書いたことや、そこに使った写真があまりにインチキであることが、多くの批判書によって明らかになりました。そうした中、彼女は二〇〇四年の暮れに、ピストル自殺しています。
  その理由として、『ロンドン・エコノミスト』はその記事の中で、彼女は自分が書いたことがあまりにインチキと批判されたため、それが「南京虐殺はなかった」と主張している人たちに有利に働いて、それを気に病んだのではないだろうかと推定しています。

◆検証 南京大虐殺捏造の背景④

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/04 11:31 投稿番号: [1252 / 2250]
●共栄圏をつくろうとした日本

  一九三七年から始まった日中戦争でしたが、日本はすでに一九四〇年には、すでに中国の華北と、華中の一部を支配下におき、その統治を親日政権である汪兆銘(おうちょうめい)の南京政府にゆだねていました。
  日中戦争は八年間続いたと一般にいわれますが、実際には日中の戦闘は一年半あまりで終結し、あとは日本軍はそれ以上領地を広げようとせず、占領地域でのインフラ建設や、経済建設に集中したのです。
  その支配地域では、経済、財政、物価、治安が安定し、民衆の生活は他と比べると天国と地獄ほどの差がありました。鉄道もつくられ、人々や物資の移動が容易になりました。よく「日本軍は一方的に略奪と破壊をした」かのように語られることがありますが、実際は全く逆だったのです。
  だからこそ、汪兆銘の南京政府や、そのもとにいる多くの中国人は日本を支持し、日本と共同して、その地域の発展のために働いたのでした。
  汪兆銘の南京政府が支配する地域では、戦前にも増して平和と繁栄を謳歌していました。その象徴が上海です。日中戦争中ですら、そのダンスホールや映画館はどこも満員という活況を呈していました。
  ロシアから逃げてきたユダヤ人たちの居住区も、この上海に設けられ、彼らはそこで安全に暮らしていました。
  一方、蒋介石や毛沢東が支配していた地域は、悲惨でした。ただでさえ彼らの軍隊が入ってきたので食糧が不足したばかりか、略奪、搾取が横行したため、たちまち住民は地獄の生活へと転落したのです。
  もっとも蒋介石は、日本人のような規律ある生活習慣を目指した「新生活運動」を実施し、中国兵の乱れた規律を正そうと努力はしましたが、それでもなかなか実を結ぶことはできませんでした。
  日中戦争中、アメリカがいわゆる「援蒋ルート」を通して、重慶にいる蒋介石軍に様々な物資を送り届けていたことは、よく知られています。兵器、弾薬、医薬品、食糧などですが、しかし山を越え、川を越えているうちに、重慶まで届いた物資は多くても当初の何分の一かに減っていました。
  それらの地域を支配する匪賊や、他の武装勢力に、通行料として一部物資を渡していたからです。当時、日本の支配地域以外の中国大陸には、匪賊が約二〇〇〇万人もいたといいます。それは中国軍の約一〇倍に相当します。彼らは略奪で生計をたてていたのです。
  また無事に重慶に届いた物資も、国民党幹部のポケットに入ってしまい、他の者には行き渡りませんでした。このように当時の蒋介石の政府が、米国の支援を食い物にしていたことは有名です。
  このように、日本の支配地域と、そうでない地域とでは中国民衆の生活に格段の差があったのです。日本はすでに日中戦争のさなかから、中国を近代的民主国家として自立させ、アジアの同胞として共に相携えて共栄圏をつくるために、非常な努力を積んでいたからです。
  しかしその望みも、やがて日本が日米戦争で敗戦を迎えたことにより、挫折しました。
  そのとき、日本は中国につくった工場や施設、インフラなどを破壊することなく、すべて正確な資産リストを添えて、中国の未来のためにそのまま置いてきました。それらは戦後の中国経済の発展の基礎となったものです。
  日本が去ったとき、中国では再び「国共内戦」、すなわち国民党軍と共産軍の内戦が勃発しました。これは実質的に、日本が残した遺産の奪い合いでした。そしてこの内戦での死者は、日中戦争中の死者よりも多かったのです。
  またこの国共内戦に共産軍が勝利し、中国を統一したとき、共産党はかつて自分たちがなした中国民衆への殺戮、略奪、搾取などを、すべて日本軍の悪行と宣伝して若者たちに教える教育を始めました。
  以前、私がこれら中国の歴史を「レムナント誌」に掲載したとき、ある日本人は「こんなことがあったなんて知りませんでした。一般に世間で言われていることと何と違うでしょう」と言いました。しかし、日本に留学しているある中国人クリスチャンが手紙をくれたのですが、こう書いていました。
  「先生は中国に関し真実を書いています。がんばってください」
  中国人も、知っている人は知っているのです。

◆検証 南京大虐殺捏造の背景③

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/04 11:30 投稿番号: [1251 / 2250]
  ●ローマ法王は日本の行動を支持した

もともと、中国の内戦に巻き込まれたかたちで、中国内部に足を踏み入れた日本軍でした。しかし踏み入れた以上、日本は、そこが共産主義国家になってしまうのを防ぐため、多大な尽力をなしました。またそこに、欧米の侵略や搾取の餌食とならない自立した民主的国家が誕生するよう、手を差し伸べたのです。
  日本は中国を「自分の領土」とするために戦っていたのではありません。日本は中国の「領土保全」をかかげ、誰からも侵略されない、中国人による中国人のための安定した国家がそこに誕生することを目指したのです。そして日本と手をたずさえて、アジアを共産主義から守る防波堤になること、そこに一大経済圏が生まれることを目指しました。
  ですから、日中戦争(支那事変)が始まった年である一九三七年、一〇月に、当時のローマ法王、平和主義者として知られるピオ一一世(在位1922-39)は、この日本の行動に理解を示し、全世界のカトリック教徒に対して日本軍への協力を呼びかけました。法王は、
  「日本の行動は、侵略ではない。日本は中国(支那)を守ろうとしているのである。日本は共産主義を排除するために戦っている。共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会、信徒は、遠慮なく日本軍に協力せよ」
  といった内容の声明を出しています。

この声明は当時の日本でも報道されました(「東京朝日新聞」夕刊、昭和一二年一〇月一六日および一七日)。新聞は、
  「これこそは、わが国の対支那政策の根本を諒解(りょうかい)するものであり、知己(ちき。事情をよく理解している人)の言葉として、百万の援兵にも比すべきである。英米諸国における認識不足の反日論を相殺して、なお余りあるというべきである」
  と歓迎の意を表しています。ローマ法王がこのように日本の行動に賛意を表してくれたことは、欧米の誤解や反日主義に悩まされてきた日本にとって、非常にうれしいことでした。
  けれども、そのピオ一一世も、やがて一九三九年には世を去ってしまいます。そのため欧米の反日主義や、日米戦争勃発を防ぐまでには至らなかったのです。

◆検証 南京大虐殺捏造の背景②

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/04 11:30 投稿番号: [1250 / 2250]
●本当の人民解放軍は日本軍だった

また中国軍と日本軍の性格を大ざっぱにみるなら、次のように言うことができます。
  中国軍が通った地は至る所、はげたかの大軍が通ったように略奪されました。さらに彼らは占領地域を去るとき、日本軍に何も残さないようにするため、「焦土(しょうど)作戦」を取りました。
  つまり退却のたびに、道路や工場、橋、潅漑施設、その他の施設を次々に破壊したのです。そのため中国軍が通るところすべてが荒廃していきました。彼らの行動の特徴は、略奪と破壊だったのです。
  それによって中国経済は破壊され、農業も工業も壊滅的被害を受け、人民は苦しむばかりとなっていました。とくに悲惨だったのは、民衆の大半を占める農民たちでした。
  一方、そのあとにやって来た日本軍は、当初から農民たちの救済と、中国経済の再建に取り組んだのです。日本軍が占領した地域は、中国本土の人口の約四〇%、また耕地面積の五四%に及びましたが、日本はすぐにその地域での農業再建、道路や潅漑施設の復興、工場の再建などに取り組みました。
  日本は中国の住民の救済、治安維持、戦災復興などに取り組んだので、それまで軍隊とは匪賊にすぎないと思っていた中国民衆は驚き、日本軍を熱烈に歓迎しました。統率がとれ、略奪や悪事を働かず、民衆を救う軍隊というものを、彼らは生まれて初めて見たからです。
  本当の「人民解放軍」は中国軍ではなく、日本軍だったのです。
  日本が占領地域でとくに力を入れたのは、農民の救済でした。日本政府はすでに一九三八年に中国での農業復興の計画を発表し、実行に移しています。それは日本・満州・支那(中国)の三国が相携えて、互助関係を築くことを目的としたものでした。
  それにより、日本の占領地域での農業は飛躍的に増大しました。日本人技術者が中国農民に、日本の農業技術を提供していったからです。もちろん戦時下のため、悪戦苦闘はありましたが、それでも日本の努力は多くのところで実を結んでいました。

農業だけでなく、軽工業、重工業などの再建にも取り組みました。日本はまた中国に鉄道を敷き、病院を建てました。疫病の多かった中国の衛生事情の改善にも努めました。さらに、絶望視されていた中国の製糸業を復興させたのも、日本の対中国投資によるものです。
  日本は、満州や、朝鮮、台湾などで行なっていた近代化建設事業を、中国でも、すでに日中戦争のさなかから始めていたのです。それによって占領地域のインフラ整備、産業の復興が行なわれました。
  日本政府の推計によると、一九三八年から終戦の四五年までの日本の対中国投資の累計は、約四七億円にも達していました。当時の日本の国家予算は約二〇億円ですから、どれだけ巨額かわかるでしょう。
  これは戦争に使ったお金ではありません。中国の国土と経済の復興に使ったお金なのです。このように、中国軍が各地を焦土化し、同胞を虫けらのように殺していたときに、日本は中国民衆の救済と、中国の近代化のために働き続けていました。
  中国人民の本当の敵は、日本軍ではなく、中国軍だったのです。中国軍は、蒋介石の国民党軍も、毛沢東の共産軍も、その頭の中にあったのは中国人民のことではなく、権力奪取のみでした。しかし日本は、なんとか中国を救おうと奔走していたのです。
  ですから、中国の老人でこの時代のことを体験した人々の中には、親日的な人々が大勢います。ふだんは中国政府の叫ぶ反日イデオロギーの中で大きな声では発言できませんが、彼らは当時の日本人が中国人にしてくれたことを知っているのです。戦後、日本人が中国大陸から引き揚げてくるとき、多くの日本人が帰りそこなって、そこに取り残されました(いわゆる中国残留孤児)。しかしそのとき、残留日本人を助けてくれた中国人たちがかなりいました。そうした中国人の多くは、戦時中の中国兵がいかに悪かったか

◆検証 南京大虐殺捏造の背景①

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/04 11:29 投稿番号: [1249 / 2250]
●中国民衆を虫けらのように殺した中国軍

中国軍と、日本軍の間には、大きな質的差異がありました。それは、中国軍は同胞である中国民衆を行く先々で強奪し、また大量殺害したのに対し、日本軍は行く先々で彼らを救済しようとしたことです。
  中国では伝統的に、民衆とは、戦乱で虫けらのように殺される存在であり、少なくとも権力者から愛護を受ける対象とはなっていませんでした。梁啓超は、中国の民衆を「戮民」(りくみん   殺戮される民)と呼んでいます。
  たとえば、「国共合作」により共産軍と組んで日本との戦いを始めた蒋介石の軍隊は、一九三八年、日本軍の進撃の道をはばもうと、黄河の堤防を爆破しました。このとき、大雨が降ったこともあって一一の都市と、四千の村が水没し、水死者一〇〇万人、その他の被害者六〇〇万人という大惨事となりました。
  しかも、それだけでは終わりませんでした。この人為的水害の結果、黄河の水路が変わり、周辺に大飢饉が広がったのです。そして、被災地で食糧不足に悩んだ中国軍部隊は、民衆から食糧の強奪を始めたため、飢饉はさらに深刻化しました。その惨状をみた当時のアメリカ人記者は、
  「道ばたには凍死者と餓死者があふれ、飢えた人々は屍肉を食べていた」
  と報じています。中国側はまた、事件直後から、堤防決壊を日本軍のしわざとして宣伝もしていました。しかし中国側のこの自作自演は、のちに外国人記者に見破られています。
  この堤防決壊のとき、日本軍兵士は一人も死にませんでした。それはただ、中国人を大量殺戮しただけで終わったのです。
  堤防決壊の直後、日本軍は堤防の修復作業を行なっただけでなく、被災した民衆の救助と、防疫作業を行ないました。日本軍は、中国軍から虫けらのように扱われた中国民衆を、必死になって救済したのです。
  こうした中国軍の性格は、蒋介石の軍だけでなく、毛沢東の共産軍でも同様でした。いや、共産軍はもっとひどいものでした。共産軍は、民衆から「共匪」(きょうひ)すなわち共産主義の匪賊と呼ばれていました。それは彼らが行く先々で、民衆に略奪、殺人、強姦を働いたからです。
  中国の軍隊は、共産軍でも国民党軍でも、基本的に軍隊というより、ルンペンを寄せ集めたような集団にすぎなかったのです。彼らが軍隊に入ったのは、占領地区で略奪が出来るため、食いっぱぐれがなかったからです。
  ですから中国の司令官は、ある土地を占領すると、最低一週間は兵士たちの好きなように略奪や強姦をさせました。また、そうしないと司令官が殺されてしまったからです。
  日中戦争における戦闘は、たいていの場合、日本軍が攻めると中国軍が撤退し敗走する、という形で進みました。ですから、激戦地を除けば、中国側が宣伝するほど日本軍に殺された中国兵の死者は多くはありませんでした。
  むしろ中国兵の死者の多くは、中国人が中国人を殺したものでした。中国の軍隊というのは、兵士たちの後ろに「督戦隊」(とくせんたい)がいたのです。督戦隊とは、後ろで「敵を殺せ、殺せ」と叫びながら兵士たちを戦わせ、逃げる兵士がいると、その兵士を撃ち殺す中国兵です。
  つまり中国兵が中国兵を殺したのです。中国史家・黄文雄氏によれば、日中戦争時の死傷者は、日本軍によって殺された中国兵よりも、そうやって督戦隊に殺された中国兵たちのほうが多かったくらいだといいます。
  また、中国兵は負傷すると、置き去りにされました。ある戦場で、中国兵の一団が塹壕(ざんごう)の中で戦死していました。それを発見した日本兵たちは、思わず涙を流したといいます。なぜなら彼らの足には、逃亡防止のための鉄の鎖がつけられていたからです。
  日本軍と中国軍とでは、質の上でそれほどの差があったのです。

南京虐殺事件から歴史の教訓を学ぶべきだ

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/04 10:21 投稿番号: [1248 / 2250]
なぜ南京事件のような残虐行為を、日本軍が起こしたのだろうか。
日本人が   もともと残酷な本性だなどとは   とても考えられない。
むしろ、日本人は   本来温和で、生命や自然を尊ぶ   民族だった。
それが、このような残虐事件の主役になったのには、相当の背景と
原因が   あったはずだ。

もともと   軍隊とは暴力組織であり、明白な自律意識が   なければ
残虐行為に走るのは当然だ、と言ってしまえば   それまでであるし、
満州事変での   平頂事件や   ベトナム戦争での   ソンミ事件のように、
内外に   いくつも   その例を   見出すことはできる。
しかし、南京事件は、あまりにも大規模で   しかも組織的行為だった。
旧日本軍の性質に、事件を誘発する原因があったのだ   と考えられる。

第1に、近代の日本軍の特徴は、世界にも稀なほど   厳しい規律と、
兵士に対する服従の強制があり、兵士の自主性を尊重することなく、
がんじがらめの規則と厳しい罰則とで、軍隊の秩序を維持していた。
兵士の人権は極度に制限され、苛酷なまでの絶対服従が強要された。
古参兵士が新兵に対しふるった私的制裁としての暴力などは有名だ。

自国の中でも、自己の軍の中でも、人権と自由を尊重しないのだから
敵国の捕虜や民衆に対する処遇に、人権尊重を求めるのは無理な話だ。

第2に、皇軍の特徴には、非合理な   精神主義の   強調があった。
明治の建軍にあたって、日本軍幹部は士族、つまり旧武士だった。
近代軍でありながら、「武士道」が   そのまま   持ち込まれた。
死が名誉であるという   武士の価値観が、天皇のために死ぬことが
軍人の最高の美徳という位置づけとなり、やがて   玉砕や特攻など
近代軍にあるまじき作戦の立案にまで   行き着くものになった。

いさぎよく   死を選べ、生きて虜囚の恥はさらすな、という規範が
日本軍兵士   一人ひとりに   徹底して   刷り込まれた。
自軍の捕虜を認めないぐらいだから、相手国捕虜の処遇については
じつに   非道なものとなったのは   当然だった。

日本人が、「日本人らしさ」を   最も失っていた   軍国主義時代。
そこで発生した   温和な日本民族らしからぬ   野蛮な残虐行為。
その真実に向き合わなければ、未来に責任を持つことはできない。
歴史の事実を   省みることは、自虐でもなければ   恥でもない。
恥だとすれば、自国に都合のよい歴史だけを持ち出す自慰行為だ。

そうした   恥ずべき歴史の改ざんにばかり   躍起になりながら、
人権尊重に基づき国際関係が進展している   現代にあっても、
いまだに他国の人々を侮蔑しようとする   傲慢な日本人がいる。
恥ずべきは、こうした   一部日本人による自画自賛、自慰行為だ。
他国民衆への   侮蔑的感情が、違法な残虐行為の要因に
なったという歴史の事実を   けっして忘れてはならない。

 
 
 
 
  
 

検証・虐殺の背景にあった惨酷な戦争心理

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/04 10:01 投稿番号: [1247 / 2250]
11月11日付の第三師団歩兵第六聯隊第二大隊の攻撃計画は、
大隊長から将兵に対して   次のように命じるものとなっていた。

「一般ノ領民ハ総テ城内ニ避難シアルヲ以テ城外ニ在ル一切ノ者ハ
敵意ヲ有スルモノト認メ之ヲ殲滅ス」
「掃蕩ニ方リテハ家屋ヲ焼却スルヲ便トスルヲ以テ之ガ材料ヲ準備
スルコト」

つまり、城外にいる一切の人間を「敵意を有する」   者と見なして
これを   殺害したうえ、家屋を焼き払うことを   命じていたのだ。
それでなくとも   日本兵は、中国軍の予想以上に頑強な抵抗により
苦戦を強いられ、味方に多数の犠牲者がでたことで   中国人に対する
憎悪と敵愾心にあふれていた。   そのうえに、こうした命令が下った。

さらに   後方補給のないまま   強引な物資の「現地徴発」   を重ねて
追撃していくなかで、兵士が人間性を保つのは   不可能になっていた。
もともと、「支那住民ハ老人、女、子供ト雖モ   敵ノ間諜ヲ勤メ」
ているのだと刷り込まれ、一切の区別なく   敵と見なし、
民家も焼き払え   と命じられれば、極限状態にあった兵隊たちが  
どのような行動を   とったかは、想像するに難くない。

その第一線部隊の後方にも、大量の軍隊が   進軍していった。
道路や橋が破壊されていたため、馬や車両をもつ部隊の前進は
各地で   とどこおり、行李や輜重、砲兵や通信隊などの特科部隊は、
後方から   第一線を   追いかけることになったのだ。
また、上海戦での損害も大きかったので、各隊には   次々と補充員が
送られた。   この補充員たちが、各隊ごとに   先任者の引率で
第一線を追いかけるので、これも   後方の混乱の原因になった。

こうして   上海から南京に続く   江南の平地は、第一線の通過後も
雑多な日本軍部隊が長期間、広範囲に、まるでイナゴの大群のように
「現地徴発」を繰り返しながら   進んでいった。
第一線部隊が通りすぎ、避難していた住民が   集落に戻ったあとに、
三三五五と   またやって来た日本兵に、殺されたり強姦されたりした
例が多いという   中国側被害者の多数の証言があるのは、
このためであった   と考えられる。

一般市民の被害の状況を   全体として明らかにするのは   難しい。
兵士の日記や   証言などに、個々の掠奪や   殺害の記録があるが、
加害者である日本軍が   まとまった記録を残しているわけがない。
事件の実態解明は、断片的な記録資料を、丹念に   発掘・整理して
全容をあきらかにする地道な努力を続けていくほかないのだ。


 
 
 
 
 
 
 

検証・虐殺の背景にある犯罪非違の頻発

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/04 09:31 投稿番号: [1246 / 2250]
参謀総長が   中支那方面軍に対して異例の通達を出すほど、
当時の   日本軍の軍紀風紀は   頽廃・紊乱がすすんでいた。
軍がまとめた軍紀風紀に関する犯罪非違の調査結果によると
開戦後   2年間だけに限っても   戦地における   犯罪非違は、
日清・日露に比べて   はるかに高率となっている。

大本営陸軍部が調査した   軍隊内の犯罪数は開戦2年間で
5,221件にのぼり、うち   戦地では3,147件にも
達していた。(大本営陸軍部研究班   昭和十五年十一月)
この犯罪数は   憲兵隊が把握し、とり扱ったものだけであり、
「実数ハ之ヨリ増加スベシ」   と付記されている。

また、非違の発生件数は、3万2,964名にも達し、
しかも   「刑法処分ニ処スベキモノ本人ノ功績ト犯行ノ
情状トヲ酌量シテ行政処分ニ附シタルモノ相当数アリ」
「シカモ軍紀上相当悪性ナルモノ多数発生シツツアルニ於テオヤ」
とされている。

つまり、軍法会議に付された犯罪、懲罰権者の処罰ですませた
非違の双方とも、日中戦争下で   軍紀風紀犯罪が多発している
という調査結果が   示されているのだ。
こうした犯罪のなかで、もっとも多かったのが   掠奪だった。
上海から南京への追撃戦は   補給を無視しての   急進撃で、
給養は   ほとんどすべて   現地徴発に頼った。
徴発といっても、そこは   敵国であり   実態は   掠奪だった。
兵士たちの日記には、ほとんど例外なく、毎日無人の集落から
何を徴発したかが   書かれているが、それは   無統制に、兵士が
勝手におこなう   掠奪であったことを   具体的に示している。

徴発するには   国際法があり、規則があった。
しかし、中国戦線で   それが守られることは   ほとんどない
という実態にあった。
次のような南京攻略戦のさいの第九師団経理部将侯の記述がある。

   徴発品の代金の支払は如何にされて居つたか、
   軍隊は強盗でも山賊でもない。
   必ず代金を払って買はねばならないのである。(中略)
   後日所有者が代金の請求が出来るようにして置かねばならない
   故に徴発書はかねて印刷配付して所要の事項を記入すればよい
   ようにして(中略)ある。しかるに後日所有者が代金の請求に
   持参したものを見れば其記入が甚だ出鱈目である。
   例へば○○部隊先鋒隊長加藤清正とか退却部隊長蒋介石と書いて
   其品種数量を箱入丸升とか樽詰少量と云ふものや
   全く何も記入してないもの   甚だしいものは単に馬鹿野郎と
   書いたものもある。   全く熱意も誠意もない。

でたらめな記入をした徴発書では、代金の支払いは   できない。
中国の人々は、食糧などの物資を   だまし盗られたことになる。
国際法規も無視し、中国人民を侮蔑して   略奪の対象としか
みなかったことが、南京での残虐な行為の誘因となっていった
と考えれば、その理由が   はっきりと   理解できるだろう。

 
 

検証・虐殺の背景にある軍紀風紀の頽廃

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/04 09:18 投稿番号: [1245 / 2250]
組織的な虐殺が実行された事件の背景には、前述したとおり
幕僚層の   国際感覚の欠如や   モラルの低下が存在していた。
さらに、それに加えて   戦争の経過とともに   日本軍の全体に
軍紀風紀の頽廃が   深刻化していたことを   忘れてはならない。
戦争の拡大と   兵隊の大量動員が、軍の素質低下を   もたらした。
それにともなって、軍の規律がゆるみ、軍紀風紀が乱れたことが
犯罪非行を   続出させる原因となった。

大量虐殺は、軍の組織的行為である   捕虜の殺害や敗残兵狩りで
起きた集団犯罪だが、この他に   軍紀の乱れから   兵士個人による
行為によって起こった犯行も多出し、いっそう事件を   大きくした。
この点は   軍上層部でも認めており、南京事件が   国際的な非難を
浴びたのを受けて、南京占領直後の38年1月4日付で   参謀総長は
中支那方面軍に対し、次のような要望を   おこなっている。

   顧ミレバ皇軍ノ奮闘ハ半歳ニチカシ(中略)
   然レ共一度深ク軍内部ノ実相ニ及ベバ未ダ暇謹ノ
   スクナカラザルモノアルヲ認ム
   就中軍紀風紀ニ於テ忌々シキ事態ノ発生近時漸ク繁ヲ見
   之ヲ信ゼザラント欲スルモ尚疑ハザルベカラザルモノアリ
   惟フニ一人ノ失態モ全隊ノ真価ヲ左右シ   一隊ノ過誤モ
   遂ニ全軍ノ聖業ヲ傷ツクルニ至ラン   (中略)

   遡テ一般ノ情特ニ迅速ナル作戦ノ推移或ハ部隊ノ実情等ニ
   考ヘ及ブ時ハ   森厳ナル軍紀節制アル風紀ノ維持等ヲ困難
   ナラシムル幾多ノ素因ヲ認メ得ベシ
   従テ露見スル主要ノ犯則不軌等ヲ挙ゲテ直ニ之ヲ外征部隊ノ
   責ニ帰一スベカラザルハ克ク此ヲ知ル
   然レ共実際ノ不利不便愈々大ナルニ従テ益々以テ之ガ克服ノ
   努力ヲ望マザルヲ得ズ   (後略)
   (中支那方面軍参謀長「軍紀風紀ニ関スル件通牒」)  

同じ内容の要望は   北支那方面軍にも出されているが、
これは   軍紀風紀の粛正が、この時期の   日本陸軍にとって、
大きな問題であったことを   示している。
参謀総長から   このような要望がでたことは、異例のことだった。
それだけ   在中国軍の   軍紀風紀の頽廃が、軍中央部にとっては
頭の痛い問題だったということだ。
 
 

検証・虐殺の背景にあった日本軍の体質

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/04 09:04 投稿番号: [1244 / 2250]
これまであきらかにしたように、さまざまな記録資料や証言を
検証していくなかで   南京大虐殺につながった   原因としては、
旧日本軍の国際感覚の欠如、中国人民への蔑視と敵愾心の増幅、
日本軍の資質の低下など   様々な要素が   絡んでいたことが解る。
ここで、その誘因の一つと考えられる当時の中堅幕僚層の性格や
国際感覚の実情を示す資料を   みてみよう。

第十軍司令部が   1937年11月30日に   作成した
「南京攻略ニ関スル意見」(丁集団参謀部『南京ヲ急襲ニヨリ
奪取シ得サル場合ノ攻略案』)   という文書が   残されている。
湖東会戦を終了したあと、南京にむかって追撃している時期に
軍司令部が作成した   この意見は、第一、第二の両案に分かれ、
第一案は   追撃の態勢のまま   一挙に南京を急襲奪取するもので、
第二案は   急襲が成功しなかった場合で、次のように述べている。

   南京ヲ急襲ニヨリ奪取シ得ザル場合ノ攻略案
   此ノ場合ニ於テモ正攻法ノ要領ニヨリ力攻スルコトヲ避ケ左記
   要領ニ依リ攻略ス
   急襲案ト同一要領ニヨリ先ヅ南京ニ急追シテ包囲態勢ヲ完了シ
   主トシテ南京市街ニ対シ   徹底的ニ空爆特ニ   「イペリット」及
   焼夷弾ヲ以テスル爆撃ヲ約一週間連続的ニ実行シ南京市街ヲ
   廃墟タラシム

   右方法ニヨルモ   敵若シ要塞ヲ死守スル場合アリトセバ軍ハ
   努メテ僅少兵力ヲ以テ包囲態勢ヲ持続シ敢テ力攻スルコトナク
   前要領ノ空爆ヲ続行シ敵ノ自滅ヲ図ルモノトス   (中略)
   本攻撃ニ於テハ徹底的ニ毒瓦斯ヲ使用スルコト極メテ肝要ニシテ
   此際毒瓦斯使用ヲ躊躇シテ再ビ上海ノ如キ多大ノ犠牲ヲ払フ如キハ
   忍ビ得ザルトコロナリ
   (『陸支密大日記』昭和十三年陸支密受5267号防衛研究所所蔵)

猛毒のイペリット使用を含め、市街に対する   無差別爆撃を、
なんの躊躇もなしに、計画を   たてていたのだ。
「徹底的に毒ガスを使用すること極めて肝要」   と強調するのは、
その使用を躊躇して「再び上海の如き多大の」   損害を受けるのは
困るからだ   としている。   上海戦での想定以上の苦戦が、南京で
より苛烈で   残虐な攻撃作戦立案に   結びついていたことがわかる。

結果として、第一案の急襲が   成功したため、無差別空爆も
毒ガス使用も   実施しなかったが、こうした   攻撃計画があり
準備されていた事実が   証明するのは、当時の   幕僚層の感覚、
つまり   国際法にも人道にも無関心な体質が   軍上層部にあり、
それが、大虐殺の背景に   存在していた   ということだ。

 
 

◆南京大虐殺という嘘・デタラメ・捏造④

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/03 22:19 投稿番号: [1243 / 2250]
当時、同盟の特派員であった故前田雄二氏(元日本プレスセンター専務理事)は、内外のニュース社発行の「世界と日本」の中で次のように述べています。

「いわゆる“南京大虐殺”というのは、2〜30万という数は別としても、主として住民婦女子を虐殺したというものだとされている。

ところが殺されなければならない住民婦女子は、当時全部“難民区”内にあって、日本の警備司令部によって保護されていた。

そして私の所属していた同盟通信社の旧支局はこの中にあり、入城4日目には、私たち全員はこの支局に居を移し、ここに寝泊まりして、取材活動をしていた。

すなわち難民区内が私たちの生活圏で、すでに商店が店を開き、日常生活を回復していた。

住民居住区の情報はちくいち私たちの耳目に入っていたのだ。

こういう中で、万はおろか、千あるいは百をもって数えるほどの虐殺が行われるなど、あり得るはずはなかった。

すなわち“捕虜・便衣兵の処刑・殺害”はあったがそれは戦闘行為の枠内で論ぜられるべきものであって、非戦闘員の大量虐殺などはなかった。

それがさ も事実あったかのように伝えられ、教科書にまで記載されるということは、見過ごしていいことではない。」

当時、反日的な報道をしていた米紙「タイム」でさえ、「日本軍は“安全区”をちょっぴり可愛がった」と、評しています。

◆南京大虐殺という嘘・デタラメ・捏造③

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/03 22:18 投稿番号: [1242 / 2250]
当時の国民党や八路軍の連中がどれだけ酷いことをしてきたか。

ニューヨーク・タイムズのダーディン記者が、当時の様子を「支那軍による焼き払いの狂宴」と題して次のようにレポートしています。

「昭和12(1937)年12月7日、日本軍が句容を越えて進撃し始めたことが支那軍による焼き払いの狂宴の合図となった。
南京に向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。
村ぐるみ焼き払われたのである。
農業研究書、警察学校その他多数の施設が灰塵に帰した。
火の手は南門周辺地区と下関(シャーカン)にも向けられた。
支那軍による焼き払いの損害は優に3000万ドルにも及ぶ。
これは日本軍の何ヶ月にもわたって行われた空襲による損害よりも大きい。」

そしてこの12月7日に、蒋介石や馬超俊市長は、自分たちだけさっさと飛行機で逃亡しているのです。

つまり、蒋介石や馬超俊市長は、それまで南京を国民党の本拠地としていながら、日本軍が近づいたと知るや否や、20万の市民と約5万の敗残兵を置き去りにして、そくさくと逃亡している。
あまりにも無責任です。

一方、南京攻略をした松井軍司令官は、攻城戦に際して、南京市内の安全区に対する砲爆撃を厳禁し、占領翌日の14日には、安全区の出入り口全てに歩哨を立てて許可のない者の入区を禁止して庇護してもいます。
実際、14日に安全区の視察のため入区しようと思ったが、歩哨に峻拒(しゅんきょ)されて果たせなかったという東京裁判の供述もある。それほど厳しく安全区内への出入りを管理していたのです。

金陵大学病院医師マッカラム氏は、東京裁判に提出した日記の中で次のように述べている。

「(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。
若干のたいへん愉快な日本兵がいました。
私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました」

日本人を憎悪していたマギー牧師でさえ
「安全区は難民の“天国”だったかも知れない」とさえ述べている。

安全区国際委員会の書記長スマイス博士(米)も、その調査報告書の中で「住民のほとんどはここに集まっていた。難民区内は一件の火災もなく平穏であった」と述べている。

それほどまでに日本軍は、市街地の統制をきちんと取り計らっていたのです。

◆南京大虐殺という嘘・デタラメ・捏造②

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/03 22:18 投稿番号: [1241 / 2250]
南京に従軍した村田和志郎氏(第18師団歩124歩兵伍長)の日記に、こんな記載がある。

<引用>

湖州は浙江省の首都、呉興県政府の所在地。

城壁をはいると家屋は焼けて一面の焼け野原となり、殆ど瓦礫の巷と化していた。

とくに商店街は影も形もなく、処々に多数の支那兵の死骸が生々しい姿で倒れ転がっていた。誠に見るも無残な有様であった。

街には人影がみられない。

それでもどこからか若い女が三人でてきた。

我々の姿を見ると、彼女らは我々をぽつんと残った唯一の焼け残りの小屋へ招きいれ、いち早くズボンを脱ぐと、進んで下半身を丸出しにした。

助けてくれと一心にわれわれを拝んだ。

我々は三名で巡察の途中で思いかけぬ出来事に遭遇してしまった。

一人は娘、残る二人は人妻らしい体つきだった。
自分達は彼女らをそっとして置いてやった。

それでも恐怖に怯え、彼女ら三人はおののいて、脱いだ紺色のズボンを容易に身につけようとしなかった。

体を提供しても生命さえ助けてもらえれば、これに越したことはないと観念していたかに見えた。

また、ある民家では中年の女性が寝てうめいており、下半身を露出して指さして示し、何かわからぬ言葉を喋っていた。

支那兵は逃亡の際、この女性に迫り、拒絶されると腹を立て、銃剣を一突きにそこに突き刺したに違いなかった。

夥しい出血で苦しんで訴えている。

すぐに治安維持会(既に結成されていた中国人の自治組織)に連絡して看護員を連れてきた。さて助かったかどうか。

このようにして略奪と暴行のあとを見せつけられた。

<引用終わり>


当時の支那には、政府がありません。

清が滅びて、地方軍閥による内乱状態にあった。

内乱状態の中で、被害を受けるのは、決まって武器を持たない一般市民です。

そして武器を持った支那の軍閥の代表格が国民党だった。
彼らは、支那の都市を襲い、市民に対して好き放題の乱暴狼藉を働いていた。

日本は行きがかり上、やむなく、彼らを追い払っていたのです。そしてそのひとつが、南京だった。

南京市は、乱暴狼藉軍団である国民党が、勝手に乱入して本拠地にしていたから、日本は叩いたのです。

そして市民の生活に平安を取り戻した。

なかには、市民にまぎれて、日本軍に悪さをしかける国民党のスパイや、共産党のスパイがいた。

こうした連中は、市民の協力を得て、日本軍は逮捕し、国際法上適法な範囲で軍紀に照らして処罰した。そういう連中は治安維持のために殺害した。これは当然のことです。

◆南京大虐殺という嘘・デタラメ・捏造①

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/03 22:15 投稿番号: [1240 / 2250]
だいたい、戦いの最中にドンパチやりながら、「使用弾薬何発。残り弾薬数何発」と、何度も伝令を出して司令部に報告を入れなければならないのが日本の軍隊です。
それだけ日本軍は物資に乏しかった。

そのあたり、使っている武器にも、その性格がよく出ています。

日本軍の主力銃は、三八指揮歩兵銃です。
この銃は、いわゆる元込め式の単発銃です。
弾を一発一発込めて、装填してから撃つ。
いわゆる「乱射」や「集団虐殺」のようなこと自体、なじまないのです。
ハナからそういうことを想定した銃ではない。

だいたい単発銃で、30万人をいったいどうやって殺すのか。

30万人に、1発ずつ銃弾を撃ち込んで殺すとしても、それには30万発の弾薬がいります。
そんな弾薬、日本軍は持っていません。

機関銃で殺したに違いない?!

バカなことを!

当時の日本軍の機関銃は、米国製の1秒間に何発という高性能機関銃ではない。

パン・・・パン・・・パン・・・と断続的に撃つのが精いっぱい。1分間に打てる弾はおおむね40発。しかも5分も撃ったら過熱して、砲身を冷やさないと、焼き付いた。

お暇な方は計算してみてください。それで30万人殺すには、いったい何日かかるのか。

かつてそのことを指摘した人がいます。
そしたら支那いわく「日本兵は日本刀で、何万人も斬り殺した」

バカをいっちゃぁいけません。日本刀はたしかに切れ味鋭いけれど、3人も斬ったら、脂にまみれて斬れなくなる。人間の体というのは、脂にまみれて斬れなくなった刀でも通せるほどヤワじゃないです。

加えて、当時のシナ人の便服というのは、めちゃめちゃ生地が厚い。銃剣で突き刺そうとしても、素人では刃が立たなかったというのも、有名な話です。

◆平和甦る南京 大虐殺という真っ赤な嘘

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/03 22:08 投稿番号: [1239 / 2250]
いまでは真っ赤な左翼になっている朝日新聞も、入城した12月13日から12月30日までの1ヶ月足らずの間に、5回にわたって半ページ大の組写真の南京特集を連載しています。

その第1回が「平和甦る南京」(17日)で、早くも避難民が続々と帰り、畑では野良仕事が始まっている。

第2回が「きのふの敵に温情」(22日)、支那軍負傷兵を治療、投降兵に給食などしている写真、
第3回が「南京は微笑む=城内点描」(25日)、子供と遊ぶ兵隊さんの姿、賛美歌を合唱する50人ほどの女性など。

第5回「手を握り合って越年」(30日)、支那人の靴屋さんが日本兵の靴の修理、ヒゲの隊長が婦人にミルクを配給するなど、「日に深む日支親善風景」が写されている。

南京陥落と同時に入城した新聞・雑誌記者、カメラマンは、外国人記者を含めて約150名といわれていて、他にも大宅壮一、野依秀一、杉山平助、木村毅、西條八十、草野心平、林芙美子、石川達三といった著名な評論家、詩人、作家等が入城し、東京都世田谷区よりも狭い南京城内外(約40平方キロ)を取材し、視察しています。

そしてそのうちの誰一人として、非戦闘員の虐殺などは見ていないのです。

松井大将は12月23日、平穏に復帰した市内を視察して上海に帰り、2回にわたり外人記者団と会見をしているが、その席でも“虐殺事件”など話題にものっていない。

そして日本軍は、12月30日には、南京市の住民による自治委員会を設置し、1月1日付でこれを公示、1月3日には、南京自治委員会の結成式を中山路の鼓楼で行っています。

この日、鼓楼前には、南京市民約3千人が、5色旗と日の丸の旗で盛大な旗行列を行い、結成を祝福しています。

さらに、朝日新聞は1月3日付けの新春号に5段抜き凸版見出しで、
「南京・今ぞ明けた平和の朝」と大きく報道し、
「建設の首途(かどで)を飾り/光と水のお年玉/萬歳・電燈と水道蘇る」と題した1月1日発の近藤特派員の電報をのせています。

そのリード文には「光と水の不足から苦しい喘ぎを続けていた首都南京も新春を迎へて蘇ったやうに力強い息を始めた。
大晦日の夕方5時から南京市内の主なる街々に思いがけない電燈がつき、それと同時に水道まで景気良くほとばしり出たのである」とあります。

つまり国民党軍が敗退時に破壊していった水道や変電所などの電源を、日本軍と中国の労務者が協力して年末ぎりぎりには復興までしているのです。

南京は12月10日から水道は止まり、電気はつかず、水飢饉と暗黒の都市となっていたのです。
日本軍は入城と同時にこれの復活に着手した。

技術将校以下80名と、中国人電工70名の班編制で、水道も同様に150名の編成で不眠不休、激烈な戦闘の疲れも忘れて取り組んだといいます。

朝日新聞はその日本軍技術者と中国人技術者が協力して電気・水道の復旧作業に取り組んでいる半ページ大の組写真を掲載しています。

それがなんですか。日本軍が侵略して南京で30万人の市民を虐殺した?

冗談じゃないです。ま逆です。日本軍は南京を攻略して、乱暴者無法者集団である国民党を追い払い、20万人の無辜の市民を救い、彼らの生命と財産を守ったのです。

それを、まったく正反対のねつ造史を、さもあったことのように偽装する。言語道断です。

◆なぜ南京大虐殺は捏造されたのか

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/03 21:51 投稿番号: [1238 / 2250]
「南京大虐殺」も「従軍慰安婦強制連行」も反日が国是である中共や朝鮮、そして、これらの国に媚び諂うイカレタ反日サヨクの捏造であり、嘘・出鱈目と言うことは衆知の事実であるが、

いまだに、日本と日本人を何としてでも悪者にしたいwadatumi_voice21のような脳腐れの反日工作員共が必死に嘘と捏造の投稿を繰り返しているので


  おさらい   の意味も含めて

  「なぜ南京大虐殺は捏造されたのか」を振り返ってみましょう。



   http://www.youtube.com/watch?v=iPhyKUmxwm0


   http://www.youtube.com/watch?v=iPhyKUmxwm0


  汚い反日の屑どもの妄言・狂言にはくれぐれも騙されないでほしい。

検証・南京虐殺は組織的な犯行なのか(5)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/03 21:51 投稿番号: [1237 / 2250]
南京攻略戦に   直接参加した部隊の中で、上海派遣軍では
歩兵第六十五聯隊基幹Y支隊は、12月14日に捕獲した
14,777名の捕虜を、いったんは   学校に収容した。
支隊長の   日記によれば、15日に   捕虜の処置について
軍司令部と   打ち合わせしたこと、結果、皆殺しにせよと
指示があったことが   記されている。

そして、18日に支隊総出で「捕虜ノ仕末」に「精一杯」で
取り組み、支隊長はその様子を   「江岸ニ之ヲ視察」した。
それでも終わらなかったらしく、19日の午前中も   総出で
「捕虜仕末」を続行したため「出発延期」   になったとする。

この日記には、捕虜の「仕末」についての   具体的な方法は
記述されていないが、「江岸」   で実行されたことはわかる。
支隊が総力を挙げて精一杯取り組んでも   一日では終了せず、
かなり大変な作業となったようだ。
軍司令部の指示により   捕虜を殺害したことは   明白であり、
「捕虜仕末」の具体的方法が   記述されていないこと自体が
その残虐な実態を   物語っている。

他の幹部や兵士の記録によれば、「捕虜仕末」   の方法は、
捕虜を揚子江岸まで引き出し、数十人単位で刺殺し、遺体は
川に投げ捨て、さらに   死にきれない者は、銃殺したことが
記述されている。
一支隊だけで、少なくとも   1万数千人の捕虜を   殺害した
という事実が   分かる。

第九師団については史料が乏しいが、入城後の敗残兵剔出で、
歩兵第七聯隊戦闘詳報では6,670、同聯隊長の日記では
6,500を「処断」した   と記されている。
南京に至る間の   戦闘や入城時に   同師団のその他の部隊が
まったく   捕虜を殺していない   ということは   あり得ない。
犠牲者の総数は   膨大なものになった   と考えるべきだろう。

第十軍の第百十四師団では、歩兵第六十六聯隊第一大隊の
戦闘詳報が   残されている。   そこでは、12月10日から
13日のあいだに   捕虜1,657人を   捕らえたこと、
この捕虜を   旅団命令で14日に   すべて殺したことを、
具体的に記述している。
その記述によれば、数日間にわたって   収容していた捕虜を、
上部の命令で、組織的に虐殺したことがあきらかにされている。
以下に   13日の記事の一部を   抜粋してみよう。

   八、午後二時零分聯隊長ヨリ左ノ命令ヲ受ク
    イ.旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スベシ  
     其ノ方法ハ十数名ヲ捕縛シ逐次銃殺シテハ如何
    ロ.兵器ハ集積ノ上別ニ指示スル迄監視ヲ附シテ置クベシ
    ハ.聯隊ハ旅団命令ニ依リ主力ヲ以テ城内ヲ掃蕩中ナリ
     貴大隊ノ任務ハ前通リ
 
やはり   捕虜の大量殺害は、偶発的に発生した事件ではなく
日本軍の中国人に対する侮蔑、国際法規を無視した侵略行為
という背景によって引き起こされた   組織的な犯罪であった。
この事実を踏まえ、野蛮な戦争を   二度と起こさない決意と
人権の大切さ、平和の尊さを   胸にきざむべきだ   と思う。

検証・南京虐殺は組織的な犯行なのか(4)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/03 21:50 投稿番号: [1236 / 2250]
南京攻略戦に   直接参加した部隊の中で、上海派遣軍では
第十六師団の   歩兵第三十三聯隊と   歩兵第三十八聯隊、
第九師団の   歩兵第七聯隊、
第三師団の   歩兵第六十八聯隊   第一、第三大隊、
第十軍では   第百十四師団の歩兵第六十六聯隊第一大隊と
歩兵第百五十聯隊、国崎支隊、歩兵第四十一聯隊の第三大隊、
同第十二中隊の戦闘詳報が、防衛研究所に   所蔵されている。

また、このほかに   数多くの関係将兵の日記が残されている。
第十六師団長の日記によると、同師団は12月13日だけで
2万4千〜5千人の捕虜を「片づけた」   と記録しており、
同師団の旅団長も「我支隊のみで二万以上の敵は解決した」
と記録している。
また、同師団隷下の   歩兵第三十三聯隊の   戦闘詳報では、
13日に捕虜2,896を「処断」した   と記録している。
第十六師団だけで、また   たった1日だけで、少なくとも
2万人を超す捕虜を殺したということが   証明されている。

上海派遣軍のなかで、もっとも組織的に   捕虜の大量殺害を
実行したのは、第十三師団   歩兵第百三旅団が指揮する
歩兵第六十五聯隊基幹の   Y支隊である   とされている。
同支隊は、12月14日に   幕府山付近で14,777名を
捕虜にした。

この人数は、当時の   国内の新聞にも   報道されており、
同支隊の幹部や   兵士の日記にも   記録されているものだが、
17,000名とか   20,000名という   記述もある。
上海派遣軍参謀長の   12月15日の日記にも、「支隊ノ俘虜
東部上元門附近ニ   一万五、六千アリ、尚増加ノ見込」とあり、
14日以降も   捕虜は   増え続けていたことがわかる。

Y支隊は、この大量の捕虜を   いったんは   収容したが、
隊の兵力の   数倍にのぼる数で、その給養にも   困惑した。
支隊長の日記によると、14日には「恰モ発見セシ上元門外ノ
学校ニ収容セシ所、一四七七七名ヲ得タリ」
「斯ク多クテハ殺スモ生カスモ困ツタモノナリ」、
15日には、「捕虜ノ仕末其他ニテ騎兵少尉ヲ南京ニ派遣シ
連絡ス   皆殺セトノコトナリ」   と記されている。

支隊長の日記には、捕虜の処置について   軍司令部と
打ち合わせしたこと、その結果、皆殺しにせよとの指示が
あったことが   記されている。   捕虜殺害は一部の兵士が
感情に任せて行なったのではなく、組織的犯行だったのだ。
支隊長の日記は、さらに   以下のとおり   記述している。  

18日   「捕虜ノ仕末ニテ隊ハ精一杯ナリ、江岸ニ之ヲ視察ス」
19日   「捕虜仕末ノ為出発延期、午前総出ニテ努力セシム」

検証・南京虐殺は組織的な犯行なのか(3)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/03 21:49 投稿番号: [1235 / 2250]
このほかにも、軍や師団が   捕虜の処分を命令または指示し、
組織的な殺害が行われていたという記録は、数多く存在する。
派遣軍司令部情報主任参謀で方面軍参謀を兼ねていた中佐が、
捕虜をどうするかという師団からの問い合わせにたいして、
くりかえし「ヤツチマエ」と命令していたという記録もある。
これは、当時   方面軍司令の専属副官だった   少佐の証言だ。

南京虐殺否定説を振り回す連中は、こうした   数々の証言を、
すべて   捏造だ、ウソだ、などと   否定しようとするだろう。
しかし、前述に引用した   陸軍次官通牒や   各種戦闘詳報など
日本軍が残した文書には、これらの証言を   裏付けるように、
日本軍の中国軍兵士への認識や対処方針などが示されており、
資料的価値は   十分にあるものばかりだ。

軍や師団の幕僚が   捕虜の殺害を指示していたという証言には、
次のような例もある。   これは、上海派遣軍の   右翼を進んだ
独立攻城重砲兵   第二大隊第一中隊の   中尉による証言であり、
12月14日仙鶴門鎮付近で大部隊を捕虜にしたさいの状況だ。

   捕虜の数は約一万でしたが、早速軍司令部に報告したところ
   「直ちに銃殺せよ」   と言ってきたので拒否しましたら
   「では中山門まで連れて来い」と命令されました。
    (中略)
   「直ちに銃殺せよ」とは、一体誰が決定し、誰が命令を下した
   のか。   当時、私の胸が痛かった印象は、従軍中はもとより
   今日に至るまで、私の脳裡から離れません。
   (畝本正巳「証言による『南京戦史』(5)」)

師団副官が捕虜を殺せと指示したという   歩兵第三十八聯隊副官の
次の証言もある。

   聯隊の第一線が、南京城一、二キロ近くまで近接して、
   彼我入り乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、
   師団命令として「支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ」
   と電話で伝えられた。   (中略)
   部隊としては実に驚き、困却しましたが命令やむを得ず、
   各大隊に下達しましたが、各大隊からは、その後何ひとつ
   報告はありませんでした。

降伏を受け入れるな。処置せよ――   これが師団命令だった。
武器を捨てて降伏して来る者は、捕虜として戦時法に基づき
処遇しなければならない、という国際的常識を無視したのだ。
もとより『陸戦ノ法規ニ関スル条約』を『適用シテ行動スル』
ことは、『適当ナラズ』   という考え方が根本に存在していた。
違法な殺害を   命令することには、特に   逡巡はなかったのだ。

検証・南京虐殺は組織的な犯行なのか(2)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/03 21:47 投稿番号: [1234 / 2250]
前述したように、すくなくとも   日本帝国陸軍の   将兵には
中国人捕虜に対しては、他国民のような処置は   不要である、
という差別意識が   深く根付いていた。
さらに、念頭に置くべきは、日中戦争が全面化し始めたとき
陸軍は、これを   「戦争」ではなく   「事変」であるから、
戦時国際法は適用しない、と決定したことだ。

支那駐屯軍が   華北で総攻撃を開始した直後の   1937年
8月5日に発令された日本軍の指令書、「陸支密第198号」
支那駐屯軍参謀長宛陸軍次官通牒『交戦法規ノ適用ニ関スル件』
には、次のように   示されている。

   現下ノ情勢ニ於テ帝国ハ対支全面戦争ヲ為シアラザルヲ以テ
   「陸戦ノ法規ニ関スル条約其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約」
   ノ具体的事項ヲ悉ク適用シテ行動スルコトハ適当ナラズ――

さらに、
「日支全面戦ヲ相手側ニ先ンジテ決心セリト見ラルル如キ言動、
例ヘバ戦利品、俘虜等ヘノ名称ノ使用」などは、つとめて避けよ
と   指示している。

つまり、国際法規は適用しない、俘虜という言葉は使うな、
と指示していた。   要するに、中国兵は国際法上の捕虜として
処遇しなくともよい、と言っているのだ。
こうした   軍中央部の方針は、ただちに   現地軍に伝えられた。
とくに   上海戦での苦戦から   敵愾心にあふれた第一戦部隊に、
捕虜を躊躇なく殺す例が   数多く見られたのは   こうした理由だ。

もともと「之レヲ殺害」しても   「問題トナルコト無シ」などと
侮蔑していた中国兵なのだから、わざわざ収監したり護送するなど
面倒な処置は必要なく、ましてや、国際法規を気にする必要はない
と指示されたのだ。   陸戦法規に基くいた   人道的扱いなどが、
日本軍の念頭から   完全に消え去ったのは   ごく   当然だった。

日本軍の包囲網が完成したことにより、南京城内及び周辺地域には
少なくとも   約10万の中国兵が逃げ遅れ、投降したと推定される。
これに対して   日本軍側には、捕虜収容の用意は   なかった。
これを   裏付けるものとして、大量の捕虜の   処置に窮して、
上級司令部が現地部隊に捕虜殺害を命じたという記録がある。
 
   「捕虜も相当出来たけれども、捕虜に食はせる物もない。」
   「さういふ状態で戦闘しつつ捕虜が出来るから始末することが
   出来ない。   それでちよん斬つてしまうといふことになった。」
   一万余の捕虜があつたのだけれども、そんなのは無論追撃中
   だから戦闘中と見てもよろしい、(略)始末が付かぬものだから
   シヤーシヤーと射つてしまつたのだ。
   その死骸が川に流れた。それから問題になつたのだ。

これは   方面軍司令の証言だが、つまり   捕虜の給養に困り果て、
大量処刑を   「戦闘行為の一部」   として、済まそうとしたのだ。
どうやら、日本軍の司令官は   中国軍捕虜を   処分することを、
国際法上の犯罪だとは   考えていなかったらしい。

◆tyankonabejpは己の愚かさに早く気づけ

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/03 21:46 投稿番号: [1233 / 2250]
自由に何でも言える匿名のネットは、人間の本音が表れやすいメディアだ。
そしてネットは世界に向かって配信されている。
今は外国語でも簡単に翻訳できる。
外国人が日本の掲示板を読めば、それが日本人の本心だと思うだろう。

バカは過去の日本を否定する。
日本の始めた戦争を「アジアへの侵略戦争」などといったりする。

極東の偉大なる大和民族が白人の残酷な世界支配に敢然と立ち向かったのは事実だ。
その結果白人の支配を崩した。
それは「世界史」的な快挙だろう。日本人が誇ってもよい事だ。

事実   世界の有識者たちも認めていることだ。
例えばイギリスの歴史学者アーノルド・J・トインビーは次のように語っている。

「第2次大戦において日本人は日本の為というよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々の為に偉大なる歴史を残したといわねばならない。その国々とは日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した業績の意義は西洋人以外の人類の面前においてアジアとアフリカを支配してきた西洋人が過去200年の間に考えられていたような不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。」(1956年10月28日/英紙「オブザーバー」)


よくバカが

「日本はアジア解放を目的に戦争を始めたのではない。「自存自衛」のためにアジアを支配し、自国の領土として、資源を奪いに行っただけだ。
日本の戦争目的に「アジアの解放」はない。」

などとという無知極まることを言ったりするが、大東亜共栄圏の建設という目的は確かに理想として日本人の心の中にあったのである。

もちろんその過程では悲惨な事も多かった。
しかしそのようなことは   当たり前のことである。
大きな目標   偉業をなそうとする時に避けては通れぬ路である。

それをバカは無知ゆえに「侵略」だなどと口走る。
あまつさえ、戦後日本の馬鹿サヨ政治家どもが行ってきた謝罪や賠償を、褒め称え、挙句の果てには靖国神社などなくしてしまえなどと暴言を吐く。

世界の人々がこれを聞いたらなんと思うか?

『日本人には誇りも自尊心も無いのか』

と思うに違いない。


バカサヨなどいまさら相手にする気はないが、

日本の韓国・台湾統治と白人のアジア支配は同じだ。
慰安婦は日本軍によって「強制連行」された。
日本は南京で大虐殺をやった。

このような馬鹿げた言説がネットで流れれば日本人の立場を貶める事にしかならない。
ネットは世界に開かれている。内輪の話ではない。そこらへんの居酒屋でうだをあげているのとは違う。

何度も言っているが、wadatumi_voice21やtyankonabejpをはじめとする脳腐れのバカどもが日本の足を引っ張り、日本を貶めている。
日ごろのストレスをネットで発散させているのなら情けないの一言だ。
そこまで日本人は腐ったのかと言わざるを得ない。

バカにも理性があるのなら、自分たちの言説がどれほど日本を貶めているのか早く気付くべきだろう。

検証・南京虐殺は組織的な犯行なのか(1)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/03 21:45 投稿番号: [1232 / 2250]
戦争の実相を知る世代が   少数派となったことに反比例して、
過去の戦争を美化し   正当化しようとする策動が露骨になり、
世界には通用しない「南京事件はなかった」   という妄言が
日本国内だけに限って   さかんに   吹聴されるようになった。
国民が   真剣に考えるべきことは、未来の日本のあり方だが、
そのためには   歴史に学び、教訓とすることが重要だと思う。

そうした観点からみた時   南京虐殺否定派の   軽挙妄言には
心底から   疑問を感じざるを得ない。
世界的に   歴史的事実だと認識されている事件を   否定しても
不信の目を向けられ、国家の恥になるだけだと自覚すべきだ。
南京で虐殺が   あったことは   事実であり、議論の余地はない。
検証すべきは、なぜ   残虐事件が起きたのか   ということだ。
それを客観的に検証することにより、歴史の教訓とすべきだ。

南京への侵攻にさいしての   日本軍による   残虐行為の中で  
とくに問題になるのは、婦女暴行や   民間人の虐殺とともに
大量の捕虜に対する   組織的な殺戮が行なわれたことにある。
捕虜の殺害は、当時も   明白な国際法違反だった。
1899年制定の   「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」   には、
日本政府も加入し、1912年に   批准している。

この条約は、捕虜に対する人道的処遇について   定めたもの
であり、人権尊重の   観念が生まれた   近代社会になって、
戦争の遂行について   はじめて国際的な規範を示したものだ。
日本は、みずからを近代国家として   世界に認知させようと
しているあいだは、戦時国際法を   遵守する努力をしていた。

たとえば、日露戦争におけるロシア人捕虜や   第一次大戦の
ドイツ人捕虜を   収容施設で   厚遇するなど、当時の日本は
国際法の“模範生”だった。   しかし、欧米人に対する場合と
アジア人に対する場合には、あきらかに異なった基準があった。
それは   軍国主義が強まった   昭和に入ると   より露骨になる。

満州事変を経たのちの   1933年1月に、陸軍歩兵学校では
「対支那軍戦闘法ノ研究」   という参考書が   配布された。
これは、同校教官であった大佐の研究を、校長の序を付して
刊行したもので、その中に「捕虜ノ処置」という項目があり、
以下のように   書かれていた。

   捕虜ハ他列国人ニ対スル如ク必ズシモ之レヲ後送監禁シテ
   戦局ヲ待ツヲ要セズ、特別ノ場合ノ外現地又ハ他ノ地方ニ
   移シ釈放シテ可ナリ支那人ハ戸籍法完全ナラザルノミナラズ
   特ニ兵員ハ浮浪者多ク其存在ヲ確認セラレアルモノ少キヲ
   以テ仮ニ之レヲ殺害又ハ他ノ地方ニ放ツモ世間的ニ問題ト
   ナルコト無シ

中国人捕虜は、他国人のような国際法に基づく処置は不要。
殺害しても世間的に問題とならない、と述べたこの文書には、
あきらかに   中国の人々に対する   蔑視があらわれている。
当時、日本人には   他のアジア諸国民を見下す   思想が
植付けられていたが、それに加えて、日本軍の、少なくとも
陸軍将校は、このような参考書で、対中国戦術を学んでいた。

◆中国共産党の血に塗られた歴史

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/03 19:29 投稿番号: [1231 / 2250]
1949年、建国と同時に 東トルキスタン侵略、占領(ウイグル大虐殺)、民族浄化継続中
1950年、大躍進、文化大革命3000万人・大虐殺開始 、南モンゴル(内モンゴル)民族浄化開始継続中
1950年、朝鮮戦争参戦
1951年、チベット侵略、占領(チベット大虐殺)、民族浄化継続中
1959年、インド侵略(中印戦争)アクサイチン地方を占領
1964年〜1966年、東トルキスタン(ウイグル)のロプノル核実験場にて、46回にわたるメガトン級を含めた地上核実験、住人被爆、周辺核汚染




1969年、珍宝島領有権問題でソ連と武力衝突
1973年、中国軍艦が佐渡島に接近、ミサイル試射
1974年、ベトナム、パラセル諸島(西沙諸島)を軍事侵略、占領
1976年、カンボジア、クメール・ルージュによる大虐殺を強力支援
1979年、ベトナム侵略(中越戦争)、中国が懲罰戦争と表明
1988年、スプラトリー諸島(南沙諸島)を軍事侵略、占領
1989年、天安門事件、市民虐殺

1992年、南沙諸島と西沙諸島の全てが中国領土と宣言
1995年、フィリピンのミスチーフ環礁を軍事侵略、占領
1996年、台湾総統選挙恫喝、台湾沖にミサイル攻撃
1997年、フィリピンのスカーボロ環礁の領有を宣言
1997年、日本の尖閣諸島の領有を宣言
2003年、スーダンのダルフール大虐殺を強力支援
2005年、日本EEZ内のガス資源を盗掘
2008年、北京五輪聖火リレー時、チベット人蜂起に対する虐殺弾圧、アジア各国在住中国人大動員乱暴狼藉(長野、ソウル他)
2009年、東トルキスタンでウイグル人蜂起を虐殺弾圧、継続中
2010年、9月7日、尖閣諸島・魚釣島、支那工作船領海侵犯事件
2010年、10月21日、尖閣諸島・魚釣島、支那工作船領海侵犯事件の主犯格、福建省泉州市から「道徳模範」として表彰される
現在、非漢族に対する大虐殺、婦女子を強制連行・中絶・不妊手術等々、民族浄化を継続中。

大正15年中国糾察隊の横暴

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/03 14:05 投稿番号: [1230 / 2250]
『もう一つの南京事件』   日本人遭難者の記録
田中秀雄編集・解説


97〜99p

《 大正十五年十一月、漢口においては日本人使用のボーイ、阿媽   (女中)   などの

罷業と暴動事件が起こった。

九月、国民革命軍が武漢の地を占領する前後から、国民革命軍側では

盛んに労働者を煽動し、埠頭人足   (碼頭苦力)   人力車夫、工場職工、

賃仕事職人らは固   (もと)   より、商店員、小僧から便所掃除夫に至るまで

団体をこしらえてやり、これを何々工会と称し、

爾来一二ケ月の間に会数二百数十、人員二十万を唱うるに至った。



しかしてこれらの団体を統ぶるに総工会があり、

共産党内で相当顔ぶれの者がその牛耳を握り、

場合によりては国民政府と相拮抗しかねまじき気勢を形成した。

・・・・

これだけの勢いを成すについては、見逃すべからざる一つの力がある。

それは総工会がこしらえた糾察隊である。



兵士と職工の合いの子のような服装で六尺棒を持たしてある。

表面の任務は労働者の取締りと罷工運動の逸規行動を制御するということに

なっているが、その実は内部的には労働者の工会参加を強要し、

散逸を防遏   (ぼうあつ)   し、外部的には罷業運動を指導し、

場合によりては工場側に対する脅迫暴行の先鋒を為すものである。

・・・


日本租界においては、在留邦人が大して気にもとめない間に

使用人、すなわちボーイ、阿媽などの工会ができた。

これは外国人関係であるというので洋務工会と称せられ、

租界に隣接した支那街三元里に事務所ができ、常任委員が詰めきって事務を執る。

それに我々をして目をそばだてしめたのは、洋務工会で毎日早朝にボーイらを集め

兵式調練をやることであった。



これは全部に強要するのではなかったが、それに参加しておけば

出世ができるとでも聞かされたのか大分隊員ができたようであった。

こうしてボーイらの結束と反抗機運を煽りつつあったが、

果然、十一月半頃に至り洋務工会の名を以って日本領事館を介し、

使用支那人の給金値上げを要求してきた。

日本側でこれを容れなければ全部の罷業を断行する旨が付け加えられてあったのは

言うまでもない。



しかもその回答期間は三日以内という横着きわまるものであった。

彼らの要求条件なるものに至ってはまったく人を食ったものである。

曰く、毎人七元を増給せよ   (従来はボーイ一人の月給は六七元内外だ)

一年三週間の休暇の外、毎月二回の休日と紀念デーは休業せしめよ、

端午節と中秋節には一ケ月分の給料を賞与せよ、薬代を払え、

住宅水道電燈を支給せよ、曰く何、曰く何。



北京、天津、満洲などに居住せる日本人には想像もつかないほどの横着さである。

在留邦人側では居留民大会を開いたり交渉委員を挙げたりしている内に、

工会側では罷業を決行した。先に述べた糾察隊活躍横行の日が来た。》


注 :   罷業とはストライキの事


つづく

大正末 中国での暴虐事件1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/03 13:51 投稿番号: [1229 / 2250]
『もう一つの南京事件』   日本人遭難者の記録
田中秀雄編集・解説

注 : この本の原本は昭和2年に書かれたもの。



106〜108p

《・・・・彼ら   (中国人)   は日本は何を言われても付いて来ると信じている。

少々怒らしても刀を抜かないと定 (き) めている。

彼らの今日の心持ちは浅野内匠頭長矩を苛めつけた吉良良英の心持ちと思えば大差ない。

たとえ松の廊下の刃傷沙汰が突発しても、英米という国が控えている以上、

たちまちに主従は切腹、お家は断絶だと多寡をくくっている。



支那人が多寡をくくっているばかりではない。

事実これまでの幾年月かは日本も刀が抜けなかった。

あらゆる侮蔑、あらゆる横着をきめられても、歯噛みさえ為さなかった時代もあった。

さてこそ事件は頻々として起こった。

我々の記憶せる漢口地方の事件だけでも左の如き多数に上る。



邦人の横死と惨害

  租界ボーイ領事館襲撃(大正十三年一月)


日本人商店東学洋行使用支那大田種香なる者、ある事故により領事館警察に引致取調べ中、

留置場にて縊死したのを日本人巡査が殴打して死に至らしめたのだと強い、

租界内のボーイを糾合し領事館に押しかけ、石を飛ばし天秤棒を揮い狼籍を極め、

警察署長は群衆裡に引きずり込まれ殴打さるるに至り、

遂に義勇隊、消防隊のほか、軍艦より陸戦隊上陸しようやく事なきを得た。

これは支那群衆が日本領事館に殺到した初めての出来事である。



  水谷氏の横死(同   十四年六月)


六月一日の英租界暴動に際し英租界湖北路一帯の日本商店が全部掠奪破壊せられた際に

通関業者水谷氏が暴民の包囲するところとなり、

脱出する間もなく天秤棒、石塊などにて打ち殺され路傍に遺棄されていたのを救出し、

病院にかつぎ込んだがその時は既に駄目だった。



  松永氏の横死   (同   十四年十一月)


正金銀行漢口支店員松永氏は日曜日武昌郊外に銃猟に出かけたまま行方不明となり、

邦人総出で捜索したがただ同氏の愛犬が悄々(しょうしょう) として

江畔に惶(まど) えるのを救出しただけであった。

確聞するところでは、武昌近郊にて不逞学生と衝突し格闘の未遂に所持の猟銃を奪われ、

それで射殺された上、死骸は各所に転埋せられ遂にその所在さえも不明になったという。》


つづく

12月30日 和平案独逸の説得と中国の対応

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/03 13:41 投稿番号: [1228 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   260〜261p


《 駐支大使トラウトマンは、しかし、日本側の勝利を確信しているので、

軍事顧問A・ファルケンハウゼン中将を通じて、中国側説得をこころみることにした。

十二月三十日、大使は中将に中国軍の抗戦能力を質問した。


「適切な軍事措置、国民の戦意高揚、十分な弾薬補給という三要件が確保されれば、

あと六カ月間は戦えるでしょう」

「そりゃ、楽観的すぎると思うね。将軍」

大使によれば、大使は、顧問ファルケンハウゼン中将の言葉から、

中国側も同様の   「自己過信」   をしているとみなし、

「極秘情報」   を提供して、中国側の反省をうながすよう依頼した、という。


だが、顧問ファルケンハウゼン中将による説得工作は、逆効果をうんだだけであった。



戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   466p


《 十二月三十日から翌年一月一日まで、中国側は最高国防会議

(主席蒋介石、副主席汪兆銘)   を開いた。この会議でトラウトマン大使が

もたらした回答を討議したもようであるがその結論は明らかでない。


(汪兆銘の回想録によれは、この和平交渉条件受諾を決定したというが、

ドイツ側資料からみて、これは信じ難い)


ただ本会議において、蒋介石が行政院長の職を辞し、

孔祥煕が院長、張群が副院長になることが決定し、元旦の日に正式就任した。

wadatumi_voice21 って、ほとんど妄想で

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/02 19:42 投稿番号: [1227 / 2250]
南京大虐殺を組み立てているな。

というか、彼の説は何十年も前に使い古された話の寄せ集めなんだけど。

それを、「お前たちはこんなことも知らないのか」   とやられても、しらけるんだよね。


まともに相手するのも、バカバカしいけど、

一応やっておかないと、これに騙される若者が出るだろうからね。

困ったものだ。

Re: 南京への道程――武力侵攻の実態(3)

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/02 19:25 投稿番号: [1226 / 2250]
>唐生智が脱出した   下関から   揚子江の対岸に逃れる   経路には
わずかな渡河材料が   あるだけで、大混乱になり、13日の午後、
いかだや小船で   脱出しようとする中国兵が、海軍の第十戦隊の
砲艦や駆逐艦で撃滅された。



バカだねー。

中国兵が逃げ出したのは、「13日の午後」   ではなく、

12日の夜だよ。

ユウ江門には宋希濂の部隊が出させまいとして撃ち殺していた。

だから死体の山になっていた。



宋希濂の回顧録   『鷹犬将軍』   より


《 下関はさらに混乱、船は少なくなった。

それでも人びとは船を奪い合い、勝手に発砲した。

船は重量に耐えられず、長江の半ばで転覆するものや、

河に漕ぎ出した船を撃って、民船を沈没させる者もいた。

まさに、地獄絵そのものだった。》



脱出をあきらめたものは便衣に着替え、安全区に隠れた。


翌13日の朝、佐々木隊が来る。

この時には、中国兵はもういない。

佐々木隊は大量の死体を発見するが、自分たちが一番乗りで、

他に誰も知らない事を好いことに、戦果にしてしまう。


ついでに、揚子江を流れる漂流者や死体に発砲して、手柄にしてしまう。


このあと、第6師団がやってくる。

彼らも、死体を戦果にしてしまう。


12時ごろ海軍は閉塞線を突破し、南京に向けて進撃する。

そこに、大量の漂流者や死体が流れて来、これに発砲して戦果にする。



これらは三重に重複しているが、日本軍の戦果ではない。

中国軍の同士討ちによって出来た死体。


同じ同士討ちの死体が太平門でもあった。

これも、日本軍は戦果にいれている。


市内にも、12日夜の混乱で大量の死体や焼け焦げた死体ができている。

日本軍は、勝手に戦果に加えている。


そして、もっと後から来た者は、その死体を日本軍が作ったと勝手に想像した。

それらが、合成されて、戦後、「私は見た、大虐殺はあった」   という者がでてくる。


ただ、それだけの事。

中国の暴虐・鄭家屯事件2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/02 18:59 投稿番号: [1225 / 2250]
〔大正5年8月16日   大阪毎日〕   日本軍死傷者十五人、民間人死者二人


  陸軍省公報   十四日朝より十五日朝までに   陸軍省に達したる電報を綜合

すれば、大略左のごとし。


  十三日午後九時頃、鄭家屯にある日本人一名、支那兵のために殴打せられたるため、

我が駐在巡査はこれが交渉のため支那軍隊に赴きしに、彼は銃を擬して威嚇したり。

よって同巡査は護衛兵を要求したるを以って、松尾中尉以下二十名を派遣せしに、

支那兵は囲壁に拠りて射撃を加えたるより、ここに端なくも戦闘開始されたるが、

我が派遣隊は敵の包囲を受け、今なお戦闘中なるがごとし。



右につき我は十四日朝、四平街にありたる中隊の中より将校の指揮する一部隊を

八面城に出し、八面城に在りたる派遣隊を鄭家屯に復帰せしめたり。

また十四日夕、増援のために取り敢えず公主嶺に在りたる騎兵連隊を

鄭家屯に急派せしめたるはずなり。


なお鉄嶺より歩兵一個大隊を引き続き急派すべく、守備隊長より陸軍省に向け

指揮を乞い来たりしを以って、十四日夜、陸軍省より指令の電報を発したるか、

公主嶺より急派せし騎兵連隊は十五日早朝、鄭家屯に着したるはずなり。

しかして十五日朝までに陸軍省に達したる電報によれば、支那兵暴行のため

我が軍隊の蒙りたる損害、左のごとし。



  死者   九名、負傷者   松尾中尉以下六名、

  外に巡査一名及び人民一名即死。

  因みに鄭家屯守備隊長は歩兵大尉井上大鬼智氏なり。〔東京電話〕

中国の暴虐・鄭家屯事件1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/02 18:49 投稿番号: [1224 / 2250]
満州における事件
〔大正5年8月15日   大阪毎日〕

《・・・・
  支那兵まず発砲す〔長春特電十四日発〕

十三日午後七時頃、鄭家屯において邦人一名、支那巡警のため殴打、引致されしため、

我が川瀬領事館巡査はこれを取り戻さんと巡警局に赴きし処、支那兵は銃剣を以って威嚇し、

ついに目的を達せず、引っ還して守備隊に護衛を求めしより、

松尾中尉は二十名の兵を率い巡査を護衛して赴きたるに、

支那兵等は物蔭に隠れ、我が兵士に向かい不意に射撃を加えしかば、



我が兵もやむなくこれに応戦せしも、突然の襲撃なると、

かつ彼は非常の多数なりしため、ついに我が軍は松尾中尉以下多数の重傷を蒙り、

やむなく兵営に引き上げたり。

しかるに支那兵は勝ちに乗じて追撃し来たり、十三日夜来我が兵営は重囲の裡に陥りたり。

この急報に接する我が守備隊司令部は、関原及び四平街より応援隊を急行せしめたり。

守備兵既にかくのごとくなれば、我が居住民は危険に瀕しおれりと。



  松尾中尉以下死傷〔奉天特電十四日発〕

目下鄭家屯・四平街間の電線は不通にて、日本軍隊の伝騎によりて双方の連絡を取りつつあり。

鄭家屯に於ける日支兵衝突に関し、奉天に達したる情報によれば、

十三日午後八時頃の出来事にして、初め日本の商人が支那兵に暴行を加えられしより、

交渉のため我が川瀬巡査が支那兵営に赴きしに、彼は銃を擬して近寄らしめず。

すなわち日本守備隊より松尾中尉、二十名の兵を率いて巡査を護衛し、



再び兵営に赴きしに、支那兵は一斉射撃をなせしため、川瀬巡査は即死し、

松尾中尉以下兵士十七名死傷し、行方不明の者もあり。

かくて日本兵営及び警官派出所、満鉄出張所等は、支那兵の重囲に陥り

危険はなはだしく、在住日本人は皆武装して掠奪に備え居れり。

また南門外は弾流のため支那人に負傷者多く、混乱の状態にあり。

四平街より一箇小隊の応援隊、糧食を携え出発せり。



  交戦十有二時間〔長春特電十四日〕   鄭家屯に於ける我が守備兵と支那兵との衝突は、

十三日午後七時より十四日午前七時半まで継続し、

我は松尾中尉を始め下士二名、兵卒十三名及び川瀬巡査等、いずれも重傷を負い生命危篤なり。

また居留邦人は満鉄社員五名、陸軍用達一名及び女子一名を我が守備隊に

収容せしのみにて、その他は各自任意避難せしめたりと。



また十四日午前三時、四平街より我が将校一名及び兵五十名を応援のため

大速力にて急行せしめしが、その後の模様により更に後続部隊派遣さるべし。

また支那兵は我が兵と衝突の当初三百名なりしに、十四日午前三時頃に至り、

いずこよりか二百名ばかり増援し来たり、総員約五百名を以って

我が守備隊兵営を包囲し、多数を恃(たの) みて盛んに威嚇を加え居れりと。



  日本官民重囲に陥る   〔鉄嶺特電十四日発〕

  鄭家屯在留売薬商広松某、店員(支那人?)のために殺害せられ、

商品全部を掠奪されたり。その他在留邦人の生命及び財産の被害甚大にして、

鉄嶺の赤十字社支那は救護班を派遣せしが、何分同地在留官民は重囲の裡に陥り、

外部との連絡を断たれたるため、十四日朝以来なんらの情報達せず。

・・・》

12月28日 ラーベの日記2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/02 18:41 投稿番号: [1223 / 2250]
《 宣教師のフォースターからジョージ・フィッチにあてた手紙


ジョージヘ!

鳴羊街十七号付近の謝公祠、この大きな寺院の近くに、中国人の死体がおよそ五十体ある。

元中国兵だという疑いで処刑された人たちだ。二週間ほど前から放置されている。

もうかなり腐敗が進んでいるので、できるだけ早く埋葬しなければならないと思っている。

私のところには、埋葬を引き受けてもよいという人が何人かいるのだが、

日本当局からの許可なしでは不安らしい。許可がいるのかなあ?

もしそうなら、許可を取ってもらえないだろうか?

よろしく!



フィッチにあてたフォースターのこの手紙を見れば、南京の状態が一発でわかる。

この五十体のほか、委員会本部からそう遠くない沼の中にまだいくつもの死体がある。

これまでにも我々はたびたび埋葬の許可を申請したが、だめだ、の一点張りだ。

いったいどうなるのだろう。このところ雨や雪が多いのでいっそう腐敗が進んでいる。



スマイスと私は、日本大使館にいき、福井氏や岡という少佐と二時間話し合った。

岡少佐は、トラウトマン大使から私たちのことを頼まれているそうで、次のように言った。

今南京にいるドイツ人は全部で五人だが、いっしょに暮らしてもらえないか。

そうすればこちらとしても保護しやすい。

もしそれに賛成でない場合は、その旨一筆書いてもらいたい、と。私はきっぱり言った。


中略


岡少佐はいった。「私はあなた方の命を守るように頼まれているんです。

それはともかく、日本兵に持ち物を奪われたり壊されたりしたことが証明できれば、

政府が弁償するか、かわりのものを支給するかします」

それについては、ただ次のように答えるしかなかった。


「南京陥落後の十二月十四日に委員会のメンバー全員で街を見まわりましたが、

ドイツ人の家も持ち物も無事でした。

略奪や放火、強姦、殺人、撲殺、こういうことが始まったのは日本軍がやってきてからです。

誓ってもいいですがね。同じことはアメリカ人の財産にもいえるんですよ。

舞い戻ってきた中国軍によって略奪された家はもともと多くありませんでしたし、

みんな太平路にありました。太平路には外国人の家は一軒もありませんでしたからね」



七時半ころ、下士官が一人、私の衛兵といっしょにやってきた。

二人ともがっしりした体格で銃剣をたずさえ、泥だらけの軍靴を履いていた。

おかげで、カーペットがすっかり汚れてしまった。

この二人は私の護衛を命じられているのだそうだ。

すぐにまた外へ出ていって、この雨や雪のなかを歩きまわらなければならない。

外はひどい天気なので、さすがにちょっと気の毒になった。



夜の九時ころ、日本兵が二人、こっそり裏の塀をよじ登っていた。

私が出かけようとしたときには、やつらはすでに食料貯蔵室にもぐりこんでいた。

私は取り押さえようとした。クレーガーには衛兵を呼びにいってもらった。

ところがどうだ、衛兵はドロンをきめこんでいたのだ! クレーガーが

私に知らせにきたときには、こっちの二人もあわてて塀を乗り越えて逃げだしていた。



*   またもや日本兵の侵入?   もはや第16師団しかいないのだから、

   状況証拠からするとラーベのところに侵入していたのは第16師団の兵士か、

   と言うことになるのだが。さて?

◆卑劣極まる捏造 「証拠写真」の正体

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/02 18:32 投稿番号: [1222 / 2250]
●南京事件で「大虐殺」のあかしとして使われてきた写真を検証したら、証拠として通用するものは一枚もなかった。


◆【産経抄】(2005年2月2日)
  マスコミを巻き込んだニセモノ騒動は世に多い。昭和九年の「春峯庵(しゅんぽうあん)事件」では写楽らの肉筆の浮世絵が見つかった、なんとか博士も大絶賛と、ある新聞が報じた。ところがすべてニセモノ。

  ▼最近では、高麗青磁の復元に成功したという研究家の寄稿を某紙が載せたが、やはり大ウソ。後日、事実を検証して軌道修正した。笑っていられないのは、南京事件で「大虐殺」のあかしとして使われてきた写真を検証したら、証拠として通用するものは一枚もなかったということだ。

  ▼検証の方法について異論も出よう。だが、この作業を行った東中野修道氏の言に賛成である。「虐殺の有無ではなく、写真が証拠として通用するか検証した」。反日宣伝のために使われた写真を、あまりに無批判にたれ流してきた人たちがいる。

  ▼数年前には笠原十九司著「南京事件」(岩波新書)で、ニセ写真が使われ、著者と出版社が謝罪して写真を差し替えた。昨年の本宮ひろ志氏の漫画「国が燃える」をめぐる騒動は記憶に新しい。真偽不明の写真を下敷きにして描き、休載になった。

  ▼先入観なく事実を検証する目を持ちたい。それなくしては追悼もお題目にしかなるまい。「大虐殺」写真として流布している多くは、二冊の本が源流と東中野氏はいう。南京攻略のあと間もなく出た「日寇(にっこう)暴行実録」と「外人目撃中の日軍暴行」で、いずれも反日宣伝の本だそうだ。

  ▼笠原という人は、このうちの「実録」にもとづいて農作業から帰る女性を「日本兵に拉致される…」とやってしまった。今回の検証では「大虐殺」のマスコミ側権威?本多勝一氏も同じ過ちをしている。お金を払って買った鶏が、氏によれば略奪品だそうだ。ふつうなら軌道修正のはずだが。

◆「南京大虐殺」流布写真143枚、証拠として通用せず   東中野・亜大教授検証 明らかな合成/日本兵と違う軍服 (2005年2月1日)

  「南京大虐殺」の証拠として流布する写真の検証作業を続けていた東中野修道・亜細亜大学教授は三十一日、都内で会見し、証拠写真として入手しうる百四十三枚のうち、証拠として通用するものは一枚もなかったとする検証結果を発表した。

  東中野教授は「大虐殺」に触れた著作物を可能な限り収集、そこに掲載されていた約三万五千点の写真の中から「大虐殺」の証拠とされるものを抽出して検証した。「虐殺の有無を検証しようとしたのではなく、虐殺の証拠に使われている写真が、証拠として通用するものかどうかを検証した。そこを理解してほしい」と東中野教授。

  検証の結果、今日流布する証拠写真の多くは、昭和十二年十二月の南京攻略戦から七カ月後に出版された「日寇暴行実録」(国民政府軍事委員会政治部編)と「外人目撃中の日軍暴行」(ティンパーリー編)の二冊を源流としていたことが明らかになった。

  この二冊に掲載された七十枚は、いつ、どこで、だれが撮ったものか不明なものが大半であり、細部を詰めてゆくと、明らかに合成と分かるもの▽軍服が日本兵のものでないもの▽初夏に撮られたとみられるもの−が多数あった。さらには、日本の写真雑誌に掲載された写真のキャプションを改竄して掲載した例も。

  東中野教授によれば、こうした写真が「大虐殺」の証拠として検証されることなく次々に使用されていったという。典型的な例は、昭和十二年十二月五日発行の「朝日版支那事変画報」の裏表紙に掲載された、代価を払って鶏を買った兵士の写真。「日本軍の行くところ略奪されて鶏も犬もいなくなった」とキャプションを改竄されて「日寇暴行実録」に掲載され、さらに朝日新聞記者だった本多勝一氏の著作に「ヤギや鶏などの家畜は、すべて戦利品として略奪された」という説明をつけて掲載された。

  「源流の二冊は、反日プロパガンダとして作成されたもの。そこに掲載された写真を検証なしで流布したマスコミの責任は極めて重い」と東中野教授は話している。

◆馬鹿が用いる南京大虐殺嘘写真の解説

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/02 18:25 投稿番号: [1221 / 2250]
実際には南京大虐殺の証拠写真は1枚もありません。

  http://www.history.gr.jp/~nanking/

  どこから、持ってきたのか解りませんが、厳寒の南京において半袖の夏の戦闘服を着た日本兵が死体の側に立っている変な写真ですとか、ソ連兵を日本兵だと説明していたり、文化大革命犠牲者の大量の骨の写真や昭和19年に製作されたアメリカの抗日、反日映画(『Battle of China』などの)の1シーンに全く異なる解説をしているものばかりです。
  写真雑誌等見て育った世代には、単純なヤラセ写真などは容易に見抜けるものです。
  南京大虐殺を宣伝している年齢は大体50代後半〜60代後半の団塊世代と呼ばれる人たちが中心であり、従軍経験は当然無く、軍事知識は皆無なのです。
  ですから簡単なヤラセ写真にひっかかり、信じ込んだり、意図的にウソを主張しているだけなんですけどね。
  真実は100年立っても200年経っても変える事は不可能です。
  いずれ必ず事実が広く知られる事を理解しましょう。
  私達にとっての祖父達をどうにかして“悪者”にしたてたいという気持ちは全く理解不能ですが、そういう親を見て育った子供達は決してそのような親の世代をを尊敬しません。
  むしろ侮蔑の目を向けられることでしょう。団塊世代が、いずれどのように評価されるのか見ておくことです。

馬賊(匪賊)という犯罪集団の処刑後の写真

  馬賊(匪賊)とは中国で清の末ごろまでの満州に広くはびこり、馬に乗り近隣の町を荒らし回った集団的な盗賊で、大正から昭和初期にかけて、中国の北部は群雄割拠する馬賊の時代でもありました。
  関東軍に爆殺された張作霖のように大小馬賊群ににらみを利かし、自ら大元帥と名乗った権力者もいたのです。さらに驚く事に当時は女馬賊もいた。
  当時の支那(中国)では農民は作物が不作の時には、農民が突如として馬賊に変身し近隣の村々を襲ったりもしていた事もあったそうです。
  それら馬賊は近隣の街を夜な夜な襲って金品を強奪し、殺人などを行っていた。(当時の中国の町は安全のため城壁で囲んでいたのはここに理由がある。)   満州鉄道も度々襲われていました。
  だが、彼らは捕まるとほとんど現地の警察などによって処刑され斬首されたりしたり(写真1-4)見せしめのため首を切りさらし首にしていた(写真1-1、写真1-2、写真1-3)。ここが日本人とは文化が違う事を表すポイントである。(注:日本では斬首、さらし首は江戸時代に廃止している。)
  ましてや昭和初期にこの様な野蛮な行為は一切行ってはいない)「南京」の市民なんて根拠のないウソである。少なくとも「虐殺派」は中国の文化について全く知識がないようだ。以下は全てその当時、みやげ物店などで販売されていた写真である。

南京戦における戦死者の死体(当然、戦争なのだ)

  よくぞまぁ、と言いたくなるくらいに「虐殺が有った!」と主張したい連中は戦闘で死んだ中国兵の死体をこれが「南京大虐殺だ!」などと臆面もなく発表しているのである。

Re: 南京虐殺事件否定派の見苦しい曲解(1

投稿者: tyankonabejp 投稿日時: 2011/12/02 10:28 投稿番号: [1220 / 2250]
>田中正明著   『南京事件の総括』   でも、
>中島中将の『捕虜ハセヌ方針』というのを
>銃を取りあげ   釈放するという
>意味だ、などと   主張している。
>しかし、東中野などの   否定派は、「中島日記」   を引用する時、
>意図的か否かは分からないが、次の部分を   完全に無視している。
>「此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々
>見当らず   一案としては百二百に分割したる後適当の処に
>誘きて   処理する予定」

>捕虜を追放するのに、なぜ   「大なる壕」   が必要なのか。  

  虐殺否定論者は、意図的に都合のよい部分だけを引用して、勝手な解釈で文脈をねじまげますが、肝心なところはムシしてることが分かりますね。   捕虜にした兵士を解放するのに、大きな壕を掘る必要があるか、ということには答えられないようです。

  それにしても、具体的な資料にもとづいて客観的に事実を証明してみせるあなたの書き込みにたいして、出所のあやしい右翼サイトのコピペしかできず、しまいには自分の思いこみでしか語れない否定論者の書き込みとでは、だいぶレベルがちがいすぎています。もう論争の対象にすらならない感じです。南京大虐殺の議論は、もうとっくに勝負がついたなとおもひます。

◆ありがとう日本人 この誇り高き民族

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/02 04:22 投稿番号: [1219 / 2250]
ガザリー・シャフェー(元外相、アセアン創設によりハマーシェルド賞受賞)

「とくに私が惜しいと思うのは、日本くらいアジアのために尽くした国はないのに、それを日本の政治家が否定することだ、責任感をもった政治家だったら、次のように言うだろう。『その頃、アジア諸国はほとんど欧米の植民地になっていて、独立国はないに等しかった。日本軍は、その欧米の勢力を追い払ったのだ。それに対して、ゲリラやテロで歯向かってきたら、治安を守るために弾圧するのは当然でないか。諸君らは何十年何百年にわたって彼らからどんなひどい仕打ちを受けたか忘れたのか?日本軍が進撃した時にはあんなに歓呼して迎えながら、負けたら自分のことは棚に上げて責任をすべて日本にかぶせてしまう。そのアジア人のことなかれ主義が、欧米の植民地から脱却できなかった原因ではないか。』 と。」


  トモ(インドネシア元情報相)

日本軍が、米・蘭・仏を我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。我々は、白人の弱体と醜態ぶりをみてアジア人全部が自信をもち独立は近いと知った。
一度持った自信は決して崩壊しない。そもそも大東亜戦争は我々の戦争であり我々がやらねばならなかった。そして実は、我々の力でやりたかった。


  アジス(マレーシア・マラヤ大学副学長)

私たちは、マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声を上げました。敗れて逃げてゆくイギリス軍を見たときに、今まで感じたことのない興奮を覚えました。
日本軍は、永い間アジア各国を植民地として支配していた西欧の勢力を追い払い、とても白人には勝てないと諦めていたアジアの民族に、驚異の感動と自信を与えてくれました。


  モハマド(マレーシア外務省情報センター所長)

これまで独立なんて考えたこともなかったので、徐々に植民地にされたのですが、日本の軍政下で反植民地主義に目覚めたのでした。
民族意識は若者に影響を与え、彼らはもはや怠けてはいませんでした。皆、立ち上がったのです。
これまでになかった大変貴重な3年と8ヶ月の経験でした。


  ネール(インド首相)

アジアの一国である日本の(日露戦争の)勝利は、アジアの総ての国々に大きな影響を与えた。ヨーロッパの一大強国が破れたとすれば、アジアは昔たびたびそうであったように、今でもヨーロッパを打ち破ることができるはずだ。
ナショナリズムは急速に東方諸国に広がり『アジア人のアジア』の叫びが起きた。日本の勝利は、アジアにとって偉大な救いであった。


  アブドル・ハリス・ナシオン(インドネシア元国防軍参謀総長)

独立できたの要素の第一は、日本軍が植民地政治体制を粉砕したことです。第二は、日本軍の猛烈な軍事訓練です。日本軍は大変立派なことをしてくれました。
日本は、歴史に残ることをしてくれました。誰も変えることのできない真実です。

◆アジア諸国 日本への感謝と尊敬の声

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/02 04:19 投稿番号: [1218 / 2250]
■マレーシア

ガザリー・シャフェー(元外相、アセアン創設によりハマーシェルド賞受賞)
「とくに私(ガザリー・シャフェ外相)が惜しいと思うのは、日本くらいアジアのために尽くした国はないのに、それを日本の政治家が否定することだ、責任感をもった政治家だったら、次のように言うだろう。「その頃、アジア諸国はほとんど欧米の植民地になっていて、独立国はないに等しかった。日本軍は、その欧米の勢力を追い払ったのだ。それに対して、ゲリラやテロで歯向かってきたら、治安を守るために弾圧するのは当然でないか。諸君らは何十年何百年にわたって彼らからどんなひどい仕打ちを受けたか忘れたのか?日本軍が進撃した時にはあんなに歓呼して迎えながら、負けたら自分のことは棚に上げて責任をすべて日本にかぶせてしまう。そのアジア人のことなかれ主義が、欧米の植民地から脱却できなかった原因ではないか。」と昭和63年9月、先の大戦で詫びる日本の政治家を批判した。」(名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社)


■インド

ラダ・クリシュナン大統領
「インドが今日独立できたのは日本のおかげであり、それは一人インドだけでなく、ベトナムであれ、カンボジアであれ、ビルマであれ、インドネシアであれ、当時植民地であった諸国は、日本人が払った大きな犠牲によって独立できたのです」(1958年に来日時において)

グラバイ・デサイ(インド、インド弁護士会会長・法学博士)
「このたびの日本の敗戦は真に痛ましく、心から同情申し上げる。しかし、一旦の勝負の如きは必ずしも失望落胆するに当たらない。殊に優秀な貴国国民においておやである。私は日本が十年以内にアジアの大国として再び復興繁栄する事を確信する。 インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のお陰で三十年早まった。これはインドだけではない。インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。インド四億の国民は深くこれを銘記している。 インド国民は日本の国民の復興にあらゆる協力を惜しまないであろう。他の東亜諸民族も同様である。」(1946年・デリーの軍事裁判に参考人として召還された藤原岩市F機関長に対する挨拶、名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社)


■インドネシア共和国

アラムシャ陸軍中将(インドネシア大統領特使)
「平成5年7月、インドネシアのアラムシャ陸軍中将は大統領特使として来日しました。その時福田元首相や塩川自治大臣(当時)などと会見し、大東亜戦争について「大東亜戦争が長引いたばかりに労務問題などで、ご迷惑おかけしました。」と述べると「とんでもない。むしろ大東亜戦争を途中でやめたことが残念であったと思ってる。あと5年はやるべきであった。これは私だけの意見ではない。アフリカに行けば、みんなから聞く意見だ。中東に行けばみんなから聞く意見だ。」「どういうことですか?」「なぜアフリカがあんな状態なのか。我々と同じく40数年前に独立すべきであったがそうできなかったからだ。あそこはオランダ人とイギリス人とユダヤ人が握っているから、どうしようもない。もし日本があと5年大東亜戦争を続けていたならば恐らく中東まで進出していただろうから、中東諸国ももっと早く独立できたであろうし、日本軍の大変な勢いがアフリカにも伝わって、アフリカ諸国もインドネシアのようにもっと早く独立できただろう。そうすれば、南アフリカも現在のように苦しまずに済んだはずなのだ」とアラムシャ陸軍中将は語りました。」(中島慎三郎「アラムシャ陸軍中将の大東亜戦争肯定論」『祖国と青年』1994年2月号)

サンパス将軍(東欧大使歴任)
「平成3年、村山首相がASEAN諸国を謝罪して回った時、インドネシアの元復員軍人省長官で東欧大使を歴任したサンバス将軍は「日本の戦争目的は植民地主義の打倒であった。その目的の大半は達成したが、南アフリカ、アジアにまだ残っている。そんな時に行った村山演説は、植民地主義打倒の悲願を放棄したことになる。村山さんは日本の果たしてきた歴史を踏まえ、A・A(アジア・アフリカ)の悲願を代表して、まだ残る植民地主義を攻撃すべきであった。かつての日本は、スカルノ、ハッタ、バー・モウ、ラウレル・アキノ、汪兆銘、チャンドラ・ボース等を応援したのに、たった一度の敗戦で大切な目的を忘れてしまったのは遺憾である」となげいていた。」(『(中島慎三郎「アラムシャ陸軍中将の大東亜戦争肯定論」『祖国と青年』1994年2月号)

◆台湾における日本人の評価「公」と「私」

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/02 04:18 投稿番号: [1217 / 2250]
司馬遼太郎は言う。

  身もふたもなくいえば、歴朝の中国皇帝は私で、公であった
ことがない。その股肱(てあし)の官僚もまた私で、たとえば
地方官の場合、ふんだんに賄賂をとることは自然な私の営みだ
った。このため近代が起こりにくかった。

  台湾にやってきた蒋介石の権力も、当然私であった。一方、
勝者になった毛沢東の権力も、多分に私だった。毛沢東の権力
が私でなければ、プロレタリア文化大革命などという私的ヒス
テリーを展開できるわけはないのである。・・・

  歴朝の私が人民にとって餓えた虎であり続けた以上、ひとび
とはしたたかに私として自衛せざるをえなかったのである。


  李登輝総統の願いは「夜、安心して眠れる国にしたい」というこ
とであった。その願いの背後には、「夜にろくろく寝たことがなか
った」という蒋介石時代と、「夜寝るときも鍵をかける必要がなか
った」という日本統治時代の二つの体験が潜んでいる。[5,p376]

  民衆が夜安心して眠れるよう、「公」のためにつくす政治家や官
僚、警官、軍人がいて、初めて近代国家は成り立つのである。


日本の台湾統治がいかに台湾に近代化をもたらしたかこれでよく理解できたと思います。


●どこかのうす汚れが、無知なのか本当に馬鹿なのか知らないがひたすら日本を貶めよだけの嘘と捏造まみれの投稿を繰り返しているが賢明なる日本人はくれぐれも騙されないで欲しい

◆台湾における日本人の評価 7

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/02 04:15 投稿番号: [1216 / 2250]
■強烈な順法精神

  法治を徹底するためには、行政当局自らも法規を守らねばならな
い。花蓮のある日本人警察官は、妻が農民から紅露酒2本15銭相
当を贈られたために免職になり、当時大きな話題となった。警察の
月給が60円だったころである。

  台湾大学医学院長をつとめた魏火曜によれば、地位利用を意味す
る「揩油(カイヨウ、うまい汁を吸う)」などという言葉は、日本
統治時代には耳にしなかったという。

  総督府の強烈な順法精神に加え、街の要所要所には警察局や派出
所が作られ、そこから毎日警官がパトロールした。日本の警察は、
台湾人の習慣を強制的に変え始め、左側通行の規則を作り、痰を吐
いたり、手ばなをかむことを禁止した。当時を知る台湾人は「俺の
ためにこそ泥を捕まえてくれるが、俺が何かやらかせば遠慮会釈し
なかった」などと語っている。

  しかし厳しい警官だけではなかった。台南州で勤務していた森川
清十郎巡査は、村民の税金軽減のために当局と争い、抗議の自決を
した。村民は巡査を徳として「義愛公」と呼び富安宮に祀った。今
でも「日本人の神様」としてお参りする人が絶えないという。

このような厳しい法治のもとで、台湾は武闘の頻発する無法地域
から、治安良好な法治社会への変わっていった。夜眠る時や外出の
さいも、家に鍵をかけなくとも泥棒を心配する必要はなかった、と
現在でもよく言われる。

◆台湾における日本人の評価 6

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/02 04:14 投稿番号: [1215 / 2250]
■東洋一の大水利事業を完成した八田與一

  嘉南平野は台湾南部に広がる最大の平原で、香川県ほどの面積
をもち、台湾の全耕作地面積の6分の1を占める。しかし雨期に
は集中豪雨のたびに河水が氾濫し、乾期には旱魃に襲われる。農
作物がほとんど育たない不毛の地であった。

  総督府土木課に奉職する八田與一は大正9年から十年の歳月を
かけて、上流の烏山頭で大規模なダムを造り、平野部に1万6千
kmもの給排水路を張り巡らすという、東洋最大の水利事業を完
成させた。アメリカの土木学会から「八田ダム」と命名され、世
界的にも注目されたこの事業によって、不毛の大地であった嘉南
平野は緑の沃野に変わった。

  台湾の民衆がこれをいかに受けとめたかは、昨年4月、嘉義県
の呉明○(韋に榲のつくり)氏が自費出版した「嘉南大○(土へ
んに川)建設工事簡介」の次の文章からうかがわれる。

  当時東洋一の大水利事業を完成して、不毛の平原を台湾一の
穀物の宝庫に変えた功績は、永久不滅である。現在もなお嘉南
(嘉義、海南、雲南)の農民に父のように慕われている八田技
師の名は永遠に残るであろう。

  戦後、日本人の銅像はことごとくを引きずり倒されたが、た
だ独り八田技師の銅像が、今なお守り続けられている。さらに、
同夫妻の墓も作られて、5月8日の命日には毎年欠かさずに、
華南の人々によって供養が続けられている。愛や教育や宗教に
は国境がないことを如実に物語っている。

■台湾   加油(がんばれ)

  日本が台湾を植民地にした事には、いろいろ議論がある。しか
し、明治日本はそのかけがえのない人材を惜しみなく台湾統治に
注ぎ込み、これらの人々はある種の同胞感を抱いて、心血を注い
で台湾の民生向上と発展のために尽くした。この事は、台湾の民
衆にもよく伝わり、それが「多桑」世代の親日感を生み出した。

  これらの日本人たちの努力に呼応して、台湾からも多くの偉大
な人材が輩出したのだが、これはまた稿を改めて紹介したい。

  大陸中国の圧迫に耐えながらも、台湾は、今日、世界でも有数
の経済力を誇る民主主義国として発展した。本稿で紹介した人々
は、それを草葉の陰で何よりも喜んでいるに違いない。
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